十 清唯外三名連署規式 ○東大影写本ニヨル
(端裏書) (丹波)
「仏通寺天寧寺住持定」
安心庵主 道文書記 咸一侍者
(聖) (東谷)
□崗庵主 案捴上座 聖日庵主
(笑花) (宝林)
祖間上座 真琢上座 真璨侍者
(千畝) (一笑)
永存蔵主 周竹侍者 禅慶上座
(二年)
仏通天寧両寺住持、老僧四員交代、十□□後此十二人、次第可レ令二住持一者也、
(依衆)
□□評議、老僧四人加レ判、
(応永三十)
□□□□年三月十四日
玄胤(花押)
慧統(花押)
真知(花押)
□(清)唯(花押)
「書き下し文」
仏通・天寧両寺の住持、老僧四員交代す、十二年後に此の十二人、次第に住持せしむべき者なり、衆の評議により、老僧四人判を加ふ、
「解釈」
仏通寺・天寧寺両寺の住職は、我ら老僧四人(清唯ら3名・各任期3年)が交代で就任する。十二年後にはこの十二人が、順次住職となるべきである。評定衆の評議により、我ら老僧四人が判を加える。
「注釈」
「天寧寺」
─現福知山市字大呂。大呂集落の西北の段丘上にある。紫金山と号し、臨済宗妙心寺派、本尊釈迦如来。
草創については不詳だが、中興開山は夢窓疎石の弟子愚中周及、当時の檀那は当地の地頭、大中臣那珂宗泰(法名宗吽)。那珂氏は鎌倉末に常陸国から当地佐々岐庄下山保(金山郷)に来住したと伝える。のち地名をとって金山氏を名乗る。
愚中は美濃国の人、夢窓疎石の教えを受け、のち天龍寺船で中国に渡り、揚子江鎮江の金山寺即休契了の門に入った。師の印可を得て衣鉢を継ぎ、即休の頂相(肖像画)を与えられたが、それは天寧寺に現存し、李竜眠の描いた十六羅漢像(十六幅)とともに重要文化財に指定されている。滞留十年ののち帰国した愚中は一時臨川寺(現京都市右京区)・南禅寺(現京都市左京区)などに住したが、大中臣那珂氏の氏寺天寧寺に入寺したのは貞治四年(1365)のことである。この間の事情については「仏徳大通禅師愚中和尚語録」(応永二十八年開版)に載せる年譜の貞治四年の項に「師年四十三、出二世野一、移二州之漆原一、于レ時英霊仲、居二金山天寧寺一、師之南禅旧識也、檀那大中臣那珂宗泰慕二師道一、与二霊仲一相謀、虚二金山一堅請、師請金山江南縁遇之地、乃往而応」とある。
なお、当時天寧寺が那珂氏に手厚く保護を受けていたことは、康安二年(1362)二月三日付の宗吽大中臣宗泰所領寄進状(天寧寺文書、以下特に記さない限り同文書による)によってうかがえる。(中略)
愚中は応永十六年(1409)天寧寺で没したが、勅命により仏徳大通禅師と諡された。開山堂に後小松天皇の愚中に対する旌表額が掲げられる。また愚中に深く帰依していた足利義持は、近習として仕えていた宗泰の孫金山持実を遣わして、紫衣を贈っている。ちなみに持実は当時天下の名手といわれた田島清阿に早歌を学び、その子元実像(寺像)の賛には父持実が早歌を「家業」としていたと記す。持実は早歌を認められて将軍側近に取り立てられていたようである。
愚中没後の応永二十七年には、義持が御教書を下し当寺を祈願寺とし、また同じ時寺領も安堵している。(中略)
ついで翌二十八年には義持御教書によって当寺ならびに末寺臣唱寺領田畠山林などが安堵され、嘉吉元年(1441)には当時室町幕府の管領で丹波守護でもあった細川持之が寺格の証明と寺領安堵を行っている。また将軍義政の時代、寛正三年(1463)四月五日付の天寧寺ならびに末寺臣唱寺に与えられた寺領を当知行に任せる旨の御教書も残される。将軍家の帰依がこのようであったから、当寺領への臨時の課役や検断などはその治外に置かれていた。宝徳四年(1453)四月二十八日には丹後守護代内藤元貞の当寺保護の禁制が出されている。
その後の推移は不明だが、応仁・文明の乱の影響は避けがたかったとみえ、「丹波志」は「応仁文明騒乱退転、山林境内而已相残」と記す。しかし金山氏の保護が続いていたことは、永正六年(1509)七月六日の沙弥宗堅田地并牌前具寄進状などによって知られる。宗堅は持実の孫政実である。
その後金山氏は一族桐村氏に滅ぼされたと伝え、天寧寺は桐村氏の保護下に移る。金山氏から桐村氏への勢力交代の事情は不分明だが、天寧寺過去帳の裏書に「桐村へ金山ヲ打テトレト云付ケラレ、桐村金山ヲ打ツ」の文言が見える。天文十五年(1546)八月十日付天寧寺寄進分門前田畠年貢注文によると、寺領門前田畠のなかに長年の檀那であった金山氏名義のものは一カ所もなく、ほとんどが桐村氏か、またはその家の子郎党のものになっている。
なお天寧寺は備後に勢力をもっていた小早川氏が愚中を招いて建立した仏通寺(現広島県三原市)とともに、愚中門派の本寺であった。愚中門派は愚中没後、直弟子たちによって結成され、五山禅林から離れて独自の禅風を打ち立てたが、応永三十四年正月、愚中門下の長老四人の連署で出された禁制(仏通寺文書)が五山からの自立を明らかにしている。(中略)
なお仏通・天寧の両寺の間では住持の輪住制をは、応永三十年三月十四日付の清唯外三名連署規式(仏通寺文書)によれば、署名している四哲が交代で十二年住持を勤めたのちは、安心庵主以下十二人が順次務めることになっている。また輪住制については文安四年(1447)に書かれた両寺住持并番衆次第写(同文書)により詳細が知られるが、これには「住持交代之時、不要檀那之命」との文言が見える。輪住の制度は戦国時代にも顕示されていたことが、年号不詳であるが九月十三日付の桐村豊前守宛小早川隆景書状(桐村家文書)に「如仰天寧寺・仏通寺輪番上下不相替」と見えることからうかがえる。
中世末から近世にかけての寺史は明らかではないが、天正八年(1580)には丹波を制圧した明智光秀から次のような判物が下され、
当寺事、任往古之旨、諸式令免許訖、仍陣取并竹木等剪捕之事、堅令停止之状如件、
天正八
二月十三日
翌九年には明智秀満(城代)の諸色安堵状が出された。その後も天寧寺は、時々の支配者から寺領安堵や保護を受けて明治に至った。(中略)
当寺には以上に記した天寧寺文書・重要文化財二点のほか、金山持実(文安五年制作)・元実(大永二年制作)父子の肖像画、愚中自筆の地蔵菩薩本願経、応永三十四年刊「首楞厳神呪大悲消災呪」などが蔵される。
当寺の山下を流れる川を揚子江といい、愚中が中国揚子江にちなんで名付けたと伝える(『京都府の地名』平凡社)。
*『仏通寺住持記』にはほぼ同文の文書が書き写されています。その返り点や送り仮名を参考にして、書き下し文や解釈を作っています。
なお、この文書については「仏通寺住持記 その9」でも紹介しています。