「仏通寺住持記」 その30
右当寺規模者、檐間額榜、寺産帳券、年月行事式目、年月定案作法、諸回向集、捴挍割簿、凡列刹可レ有所之物全備矣、悉是吾祖一咲老衲之筆跡而先輩之聚レ首所レ令二議定一也、爰有二不審之一件一為二甚麽一住持記未レ有レ之、図是我山者専二山林樹下之風度一、而不レ学二大方之叢規一矣、故謙不レ用焉欤、然而近来晩出幼弱之輩、不レ論二先徳上中古一、不レ知二末寺遠近程一、往々迷レ之者甚夥矣、予熟看二此弊一而痛傷不レ浅、得レ閑一二払重書蠹魚一則有二 大通禅師自筆遺緘一封一〈押二」花字一〉、 挙二其高弟十員一定二両寺坊主典座一矣、自レ而以来四哲〈玄胤 恵統」真知 清唯〉輪次住持而期以二三十六月一、其後老宿題二十二人与六人名字一、是亦任二住持職一、這是年月日同時也〈応永三十年」三月十四日〉、察レ之、用二一本一捨二一本一耶、当二其間季一聖記 正覚 祥雲 大慈四大老遷化之後、抽二直弟廿員一定二於両寺十年住持一、挙二諸老門葉十派一配二于両寺五年番衆一矣、実文安四年丁卯以二衆評一所レ定也、預二其員一亦不幸短命而不レ遂二其功一也多矣、 又道徳光輝而再三住亦有矣、於レ是開山掩光〈応永」十六〉五十五年之後、孫弟子初住二此山一〈祥雲派心翁寶順禅」師也、大通三世〉、或四世彦孫、或五世曾孫至二于今一五十九年、与レ前合一百一十三年連綿不レ絶矣、寔是堪レ仰耐レ喜者也、予忝当二于四世之拙孫一、不レ顧二智短才踈一述二斯記一者其志不レ可二別有一矣、伏願為二同門門葉一覧二此記一者、信二上古龍象之於レ道有一レ誠、而逾励二自己修行一矣、剰又有三近代汚活禅和子一、人我山高心欲海深矣、這般漢諸天悲愍列祖不レ喜、豈預二擁護一乎、慎レ之思レ之、縦使滄海変二桑田一法運何尽矣、至祝々々、
(1521)
于レ時永正十八年辛巳秋九月如意珠日、 前潮音山主真庵野衲栄淳、謹跋二于其後一、各乞昭亮伏望 衆悉
(記)
「祖堂安牌直弟分一十一人、雖无牌施寺家於大切其名无衆也有矣、以愚案察之至于今不過十五人歟不審々々 至于孫弟子五十九年之際住持之数四十六員也、依有再三住也」
「書き下し文」
右、当寺の規模は、檐間の額榜、寺産の帳券、年月行事の式目、年月定案の作法、諸回向集、捴挍割簿、凡そ列刹有すべき所の物全備せり、悉く是れ吾が祖一笑老衲の筆跡として、先輩首を聚めて議定せしむる所なり、爰に不審の一件有り甚麽と為すか、住持の記未だ之有らざる、 図るに是れ我が山は山林樹下の風度を専らにして、大方の叢規を学びず、故に謙(けん)して用ゐざるか、然れども近来晩く出づる幼弱の輩先徳の上・中古を論ぜず、末寺の遠近の程を知らず、往々に之を迷ふ者の甚だ夥し、予熟(つらつら)此の弊を看て痛傷浅からず、閑を得て重書の蠹魚を一払する則んば、大通禅師自筆の遺緘一封〈花字を押(あつ)す〉有り、其の高弟十員を挙げて両寺の坊主・典座に定む、爾れより以て来たる四哲〈玄胤・恵統・真知・清唯〉輪次に住持して期するに三十六月を以てす、其の後老宿十二人と六人の名字を題して、是れも亦た住持の職に任ず、這は是れ年月日同時なり〈応永三十年三月十四日〉、之を察するに、一本を用ゐて一本捨つるや、其の間季に当て聖記・正覚・祥雲・大慈四大老遷化の後、直弟二十員を抽でて両寺十年の住持に定む、諸老門葉十派を挙げ両寺五年の番衆に配す、実に文安四年丁卯衆評を以て定むる所なり、其の員に預くるも亦た不幸短命にして其の功を遂げざるや多し、又道徳光輝にして再三住するも亦た有り、是に於いて開山掩光〈応永十六〉五十五年の後、孫弟子初めて此の山に住す〈祥雲派心翁寶順禅師なり、大通三世、〉或いは四世の彦孫、或いは五世の曾孫今に至るまで五十九年、前と合はして百十三年連綿として絶えず、寔に是れ仰せに堪へ喜びに耐へたる者なり、予忝く四世の拙孫に当たりて、智短才踈を顧みず斯の記を述ぶる者、其の志別に有るべからず、 伏して願はくは同門の門葉として此の記を覧ずる者、上古の龍象の道に於いて誠有ることを信じて、いよいよ自己の修行に励まさんことを、剰へ又近代汚活の禅和子有り、人我山高く、心欲海深し、這般の漢の諸天も悲愍し列祖も喜ばず、豈に擁護に預らんや、之を慎み之を思へ、縦ひ滄海は桑田と変ずるとも法雲は法運何ぞ尽きんや、至祝至祝、
時に永正十八年辛巳秋九月如意珠日、
前潮音山主真庵野衲栄淳、謹んで其の後に跋す、各々昭亮を乞ひ伏して望むらくは衆悉、
(記)
「祖堂に牌を安んずる直弟分一十一人、牌無しと雖も、寺家に大切を施す其の名無き衆や有り矣、愚案を以て之を察するに、今に至るまで十五人を過ぎざるか、不審々々、孫弟子に至るまで五十九年の際、住持の数四十六員なり、再三住すること有るによるなり、」
「解釈」
右、当寺の由緒について記したものについては、軒廊に掲げられた榜額、寺領の帳簿や証文類、年中行事の規則、年中行事の作法、諸回向集、すべての校割帳簿など、だいたい多くの禅院が所持しているような物はすべて備わっている。これらすべては我が祖一笑老衲(禅慶)の筆跡で、先人たちが会合して議定したものである。ここに一つ不審な点はあるが、非常に些細なことだと思う。住持記には書いてない。考えてみると、わが仏通寺は自坊の流儀を大切にし、一般の禅宗の規則を学ばない。だから、それに敬意を抱いても用いることはない。ところが、最近の遅れて生まれてきた若い僧侶たちは、しばしば歴代の高僧たちの順序を問題にすることもなく、末寺の場所の遠近も知らず、しばしばこれらについて迷う者がとても多い。私はじっとこの弊害を見て、嘆き悲しむ気持ちが浅くない。暇を得て、ひたすら貴重な書物を読んでも真意を理解できない者を一掃する。大通禅師(愚中周及)自筆の書状一通(花押が据えてある)があり、そこには愚中周及の高弟十人を挙げ、仏通寺と天寧寺の坊主や典座を定めていた(『仏通寺文書』3号文書)。これ以来、四人の先哲〈玄胤・恵統・真知・清唯〉が順次住職を務め、三年を期限とした。その後は高僧十二人とその他六人の名前を書いて、再度住持職を任命した。この規式については、作成された年月日は同時である(応永三十年三月十四日、『仏通寺文書』10・11号文書)。これを推察すると、一本を用いて、別の一本を捨てるようなものか。この期間にあたり、聖記寺(留心安久)・正覚寺(諾渓清唯)・祥雲寺(覚隠真知)・大慈寺(宗綱恵統)の四人の老僧たちがお亡くなりになった後、直弟二十人を選び出し、彼らを仏通寺・天寧寺の十年間の住持に決め、老僧たちの門葉十派の僧侶たちを推挙し、両寺の五年間の番衆に配置した。間違いなく文安四年の評定衆の評議で決まったところである(『仏通寺文書』19号文書)。その人員に住持職を預けたが、不幸にして短命できちんと勤めることができない者が多かった。あるいは、人徳が光輝き、二、三度住持を勤める者もいた。こういうわけで、開山の愚中周及が遷化してから五十五年の後、孫弟子が初めて当寺の住持となり〈祥雲派の心翁寶順禅師である。大通禅師三世〉、四世の玄孫弟子、あるいは五世の来孫弟子が住持を継承して今に至ること五十九年、前と合わせて百十三年間、連綿と続いている。本当にこれは、大通禅師の仰せに応えることができ、喜ばずにはいられないことである。私は畏れ多くも四世の拙い玄孫弟子に当たり、浅はかな知恵と乏しい才能を考えもせず、この記録を叙述したのは、特別な思いなどあるはずもない。どうか、同門の流派としてこの記録を見る者たちよ、昔の高僧たちの歩んだ道に真理があることを信じて、ますます自らの修行を励ましてください。あろうことか、最近では世俗にまみれた生活をする修行者たちもいる。そのような者の我執は山のように高く、欲望は海のように深いことであるよ。こうしたことを、中国の天上の神々は嘆き悲しみ、歴代の高僧たちも喜んでいない。どうしてそのような人間が擁護されようか、いやされるはずがない。このことに気をつけ、このことを考えよ。そうすれば、たとえ世の中の変遷が激しく、予測することのできない状況になっても、どうして寺運が尽きることがあろうか、いやあるはずがない。この上なく喜ばしいことだ。
時に永正十八年(1521)辛巳秋九月如意珠日、前潮音山主真庵野衲栄淳が謹んで後世のために跋文を書く。世の中がよく治まることを各々が願い、どうかみなが寺の由緒を知悉することを望む。
(記)
「祖堂に位牌を安置している直弟は十一人分である。位牌はないけれども、寺家に貢献した名前もはっきりしない直弟衆もいる。愚見によってこのことを推察してみると、今に至るまで十五人は越えないだろう。不審であるなあ。開創から孫弟子に至るまで五十九年となるこの時、住持の数は四十六人となるはずである。二度も三度も住持を勤めることがあるから(実数として四十六人もいないの)である。」
「注釈」
「掩光」─未詳。漢字の意味と文脈から、「遷化」と訳しておきます。
*この記事の文書は、『仏通寺文書』30号を参照。
つづく