【仏通禅寺住持記】(『三原市史』第5巻、資料編1)
解題
「佛通禅寺住持記」は、三原市高坂町、佛通寺の所蔵で、住持の交替のほか、寺の規式・文書・棟札などの諸記録、政治情勢、自然災害、近郷地域とのかかわりなどを記した、応永四年(1397)から安政四年(1857)に至る約560年間の年誌である。佛通寺は、沼田荘の地頭小早川春平が、佛通禅寺の法嗣をうけて帰国したのち五山の外にあって活躍した高僧愚中周及(佛徳大通禅師)を招いて、応永四年に開いた臨済宗の寺院で、盛時には山中に八十八ヵ寺、末寺は九州から中部地方にまたがり三千ヵ寺に及んだといわれる。
住持記は、永正十八年(1521)、栄淳が応永十六年(1409、大通禅師没年)以降について編さんしたのに始まり、踏襲・補完されていったもので、記崗寮本二冊、「佛通禅寺住持記」三冊、「住持記」一冊の計六冊が現存する。記崗寮本は、「天上」の扉に「佛通寺記岡(ママ)寮祥雲派全桑措之」とあり、天文元年(1532)に維那全桑が記崗寮においたもので、跋文(永正十八年)と享禄元年(1528)以前は同一筆跡、翌二年以降は適宜書き継がれている。なお、元亀元年(1570)、慈雲派周印のとき「天下」に改冊され、享和二年(1802)までを記すが、慶長五年(1600)から寛保元年(1741)の記述は大半を欠く。「佛通禅寺住持記」三冊本は、延享二年(1745)、記崗寮本をもとに、五派の私記を参考にして、応永四〜十五年(1397〜1408)、他の欠落部分を付加して編集したもので、以後寛政十二年(1800)までを記すが、切断による欠失もみられる。「住持記」(享和三〜安政四年)は記崗寮本につづく内容である。住持の交替は八月で、年誌の区切りは在任期間をさすが、なかには実際年に記された項目もある。
本巻では三冊本を底本とし、欠落箇所を記崗寮本で補い、異同は○印を付すなどして●で注記し、記崗寮本のみの記述は●「 」で示した。●は「佛通寺略縁記」をさす。なお、原資料との相違は〔 〕で注記した。
「仏通寺住持記」 その1
佛通禅寺住持記 法
御許山佛通禅寺住持記并序
シ ヲ ツカサトル ヲ ノ ク シ
飲光統二乎霊山一、身子□二乎竹林一、聖人之教海水遠山長矣、
ノ ス ノ ヲ ナリ ト云ハ シ ヲ
浮山遠公出二住持三要之明文一、所レ謂仁明勇也、仁者行二道徳一
シ ヲ シ ヲ シム ヲ ト云ハ イ ニ リ ヲ シ ヲ
興二教化一安二上下一悦二往来一、明者遵二礼義一識二安危一察二賢愚一
ヲ ト云ハ トシ ヲ リ ヲ ヲハ ス キ ヲハ ス ル ニテ ハ
弁二是非一、勇者事二果決一断二不疑一姦 必除侫 必去、仁而不レ明
テ ルカ サ ニテ ルハ テ カ ニテ
如二有レ田不一レ耕、明而不レ勇如二有レ苗不一レ耘、勇而不レ仁
ヲ テ コトヲ コトヲ ノモノ ルトキハ コト ヲ ナリ
猶知レ刈 而不レ知レ種、三者備 則興─二隆叢林一也必矣、
「書き下し文」
佛通禅寺住持記 法
御許山佛通禅寺住持記并びに序
飲光霊山を統し、身子竹林をつかさどる、聖人の教へ海水遠く山長し、浮山の遠公住持三要の明文を出だす、所謂仁・明・勇なり、仁と云ふは道徳を行じ教化を興し上下を安んじ往来を悦せしむ、明と云ふは礼儀に遵い安危を識り賢愚を察し是非を弁ふ、勇と云ふは果決を事とし不義(ヵ)を断り姦をば必ず除き侫をば必ず去る、仁にて明ならずは田有りて耕さざるがごとし、明にて勇ならざるは苗有りて耘らざるがごとし、勇にて仁ならざるは猶を刈ることを知りて種えることを知らず、三つのものの備はるときは則ち叢林を興隆することや必ずなり、
「解釈」
迦葉仏が霊鷲山を治め、自ら竹林を管理する。聖人の海のように広大な教えを理解する道は、遥かに遠い。浮山法遠は、住持に必要な三つの素養を明確に書き表した。いわゆる仁・明・勇である。仁というものは、正答な原理に従って行動し、衆生を教え導き、すべての人々の心を安らかにし、廻国修行を楽しませる。明というものは、礼儀に従い、安全や危険を知り、賢明と愚昧を察し、是非を区別する。勇というものは、素早く決断することに集中し、不義を判断し、必ず邪道を取り除き、必ず阿諛を取り去る。仁であって明でないのは、田があって耕してないようなものだ。明であって勇でないのは、苗があって田の草を取り除いてないようなものだ。勇であって仁でないのは、やはり刈ることを知って、苗を植えることを知らないようなものだ。三つの素養が備わったそのときは、必ず寺院を繁栄させることができるはずである。
*わからないところについては、強引に書き下し、解釈しています。
つづく