周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

犬と猿の子は犬?

  文明十六年(1484)五月六日条

        (『大乗院寺社雑事記』8─176頁)

 

    六日(中略)

 一高田之宮之森ニ、犬与猿チキリテ猿エノ子ヲ生、不思儀事也、又正月ニ笋数百本

  ヲヒ立、凡希代事条々也云々、平田庄ニ如何子細可出来哉、且又一国中和与無為

  相歟、

 

 「書き下し文」

 一つ、高田の宮の森に、犬と猿契りて、猿犬子を生む、不思儀の事なり、また正月に笋数百本生ひ立つ、凡そ希代の事条々なりと云々、平田庄に如何なる子細出来すべけんや、且つまた一国中和与無為の相か、

 

 「解釈」

 一つ、高田宮の森で、犬と猿が契って、猿が犬の子を産んだ。思いもよらないことである。また正月に筍が数百本生えた。総じて世にも珍しい出来事であるという。平田庄にどのような出来事が起きるのだろうか。一方でまた、大和の国中で和睦がなされ平穏無事になる相であろうか。

 

 「注釈」

「高田宮」

 ─高田天神社のことか。現大和高田市三和町国鉄高田駅東の商店街の中に鎮座。高皇産霊神市杵島姫命・天照皇大神・当麻幸霊神を祀る。旧郷社。

 棟木銘(大和高田市史)によると、創祀は貞応元年(1222)七月で、当時平田庄荘官として威勢のあった当麻氏が一族の団結と在地の安穏・支配の確立を図るため祭祀したものであった。当麻氏はもともと當麻寺を中心とした地域の名族であるが、葛下郡二十四条三里二十五坪に関する天暦五年(951)の売券(根岸文書)の保証刀禰に「当麻某」が見えており、同条同里二十七坪・三十四坪にある当社は、当麻氏の領地あるいは居地に創建された可能性もある。応永(1394─1428)頃には同条二里三十坪内に三反の宮田があった(金峯山免田田数注進状)。その後、弘安六年(1283)・応永二年・嘉吉三年(1443)・文明十四年(1482)にそれぞれ当麻氏によって修造。当麻氏衰亡後は氏人らによって造立された(棟札)。また慶長十七年(1612)に「武蔵国ウスマノ(男衾カ)郡ハチカタ(鉢形)村鳥居利右衛門」が鳥居を寄進したことがあった。

 なお、祭神のうち市杵島姫命と当麻幸霊神は、旭北町にあった厳島神社と高田城の鎮守当麻神社を明治四十一年(1908)に合祀したものである(「高田天神社」『奈良県の地名』平凡社)。

 

「平田庄」

 ─広瀬郡葛下郡にわたって散在した荘園。「康平記」康平五年(1062)正月十三日条の、関白藤原頼通の「春日詣定」に「秣芻、平田御庄」とあり、すでに摂関家領であったとことがうかがえる。秣役をつとめたものである。(中略)

 鎌倉期には、摂関家五摂家に分かれた関係で、平田庄は近衛家領となり、以後も同家領として存続したと考えられる。(中略)

 その後の領家は「大乗院寺社雑事記」の文明元年十一月二十二日条では「一条院領平田庄」とあるので、興福寺一乗院がなった。(中略)

 これらからみると平田庄はもと約一〇〇町の雑役免荘園であったと考えられる。(中略)

 以上によると、平田庄はもと寺社領(不輸租田)と寺僧領(公田)からなる雑役免(油・服)荘園で、面積は約一〇〇町であったものと、一応推測される。その後、摂関家の権威をかりるなどして、大和としては広大な負籠田を実現していったものと考えられる。以上を平田惣庄と称したものであろう。(中略)

 次に応永二十七年の一乗院坊人用銭・給分支配状(天理図書館保井文庫)により、平田庄荘官をうかがうと、次のとおり。(中村・疋田・北角・西田井・岡・今井・小輪田・万歳西・土庫・松塚)右のほかに、布施・高田両氏(春日神社文書)、楢原氏(大乗院寺社雑事記)等もみられる。このうち中村は現新庄町大字疋田、北角・西田井・土庫は現大和高田市大字大谷(北角垣内)・野口(西代垣内)・土庫(どんこ)、岡・万歳西は現香芝町・當麻町、小輪田は現河合町大字大輪田を本拠としたと考えられる。布施・高田両氏は古代豪族であった置始氏・当麻氏のそれぞれ後進(現新庄町の置恩寺石灯籠銘・現大和高田市不動院棟札等)で、天永三年(1112)の万歳氏の所領処分状(東大寺文書)でも平田庄荘官として見える。布施氏は現新庄町、高田氏は現大和高田市を本拠とし、楢原氏は現御所市を本拠とし、興福寺国民であった。このうち岡氏は郡司(葛下郡か)職、平田庄検断職をももっており、中心的存在であったと考えられる。一乗院の平田庄知行の実質がうかがえよう。

 また、春日若宮の祭礼における流鏑馬の奉納では、平田党を結成していた。「多聞院日記」天正十年(1582)六月条には「当年願主人次第、平田・葛上・散在也、平田方ハ本供目代竹坊へ書状付之、葛上ハ刀禰楢原へ遣之、散在ハ刀禰越智へ付之」とある。葛上・散在党の場合はそれぞれ楢原・越智の両氏が刀禰(盟主)となっていたが、平田党では本供目代が刀禰の役割をもっていた。同目代については、「東院毎日雑々記」に「平田庄本供目代事」とある。興福寺寺務内の供目代(学侶集会の書記役)かどうか未詳であるが、一乗院が領家となって以後も、興福寺の寺務が関係をもっていたことが、一応考えられるであろう(平田庄『奈良県の地名』平凡社)。

 

 

*人と異類(蛇・猿・鬼・河童など)の婚姻譚は、日本の昔話でよく聞くのですが、異類と異類の性交譚というのは、なかなか珍しい事例ではないでしょうか。

 それにしても、雄犬と雌猿が交尾すると、犬の子どもが生まれるとは、衝撃の情報です。小松和彦「鬼と人間の間に生まれた子どもたち」(『鬼と日本人』角川文庫、2018年)によると、人と異類が結ばれた場合、両者の特徴を半分ずつもつような子どもが生まれるようですが、異類の要素を受け継がないパターンもあるようなので、とりわけ不思議だとは言えないかもしれません。ただ、どうして猿の特徴を引き継いだ子どもが生まれなかったのか、やはり気になります。中世びとは犬のほうに特殊な力を見ていたのでしょうか。もし雄猿と雌犬が交尾したら、猿の子どもが生まれたのでしょうか。いろいろ気になるところはあるのですが、おそらくこのような史料は、他には見つからないのでしょう。残念です…。