周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

楽音寺文書2

    二 比丘尼浄蓮申状

 

   (豊田郡)

 安芸国沼田庄内梨子羽郷」雑掌申、本門田并楽音寺」敷地事、為明申

 差進」代官唯心候、以此旨申」御沙汰候、恐々謹言、

   (1282)

   弘安五年七月廿五日   比丘尼浄蓮(裏花押)

 進上 御奉行所御中

 

 「書き下し文」

 安芸国沼田庄内梨子羽郷雑掌申す、本門田并びに楽音寺敷地の事、明らめ申さしめ候はんが為、代官唯心を差し進らせ候ふ、此の旨を以て申し御沙汰有るべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 浄蓮の沙汰雑掌が申し上げる、安芸国沼田庄内梨子羽郷の本門田と楽音寺の敷地のこと。弁明させますために、代官の唯心を差し遣わします。この主張をもってお取り計らいください。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「沼田庄」

 ─古代豊田郡・沼田郡を主な荘域とする。開発領主沼田氏が本下司職を留保して中央貴族に寄進して成立したが詳細は不明。平家没官領となっているので、当初の領家は平氏側貴族と考えられる。平氏滅亡後は、京都蓮華王院が本家となった(文永三年四月九日付「関東下知状」小早川家文書)。承久の乱後、領家職は幕府に没収され西園寺家に移る(嘉禎四年十一月十一日付「一条入道太政大臣家政所下文案写」同文書)。預所橘氏東禅寺文書)。本下司沼田氏は平氏にくみして壇ノ浦に滅び(貞応二年「安芸都宇竹原并生口島荘官罪科注進状写」小早川家文書)、代わって小早川氏が地頭として東国から来住、沼田氏の後を受けて在地領主となった(正応五年正月日付「地頭尼浄蓮代浄円陳状」楽音寺文書)。領家職はそのまま西園寺家に相承されるが、一部はその子女に分割して譲られている(応長元年八月二十四日付「六波羅召文御教書案写」小早川文書)。

 沼田庄は本庄と新庄とからなり、単に沼田庄という場合は本庄をさすこともある。本庄は、おもに沼田川本流・支流域の平坦地に展開し、「和名抄」所載の沼田郡の七郷のうち、沼田・舩木・梨葉(なしわ・現豊田郡本郷町)・今有(いまり)・安直(あちか)・真良(しんら・現三原市)の六ヵ郷を含む地域を荘域とする(同文書)。なお、永寿寺(現世羅郡世羅町)蔵の大般若経奥書によると、永和三年(1377)・同四年に沼田庄内香根島(現豊田郡瀬戸田町高根)の長善寺で書写されたものがみられ、荘域が島嶼部に及んでいることが知られる。建長四年(1252)十一月日付の安芸沼田本庄方正検注目録写(同文書)によると、見作田二五〇町二反三二〇歩(うち除田二十五町一反)、所当米六八六石七升六合で、除田は仏神田および地頭給など人給である。

 新庄は、仁治四年(1243)二月日付安芸沼田新庄方正検注目録写(同文書)によると、沼田川細田の支流椋梨川とその支流域に点在する小盆地の椋梨子(椋梨)・和木・大草・草井(現賀茂郡大和町)、小田・上山(うやま・現賀茂郡河内町)、乃良(のうら・現賀茂郡豊栄町)などほぼ古代の豊田郡全域と、古山陽道沿いの田万里(現竹原市)、瀬戸内海に面した吉名(よしな)・高崎浦(現竹原市)を荘域とする。見作田は二一一町五反(うち除田三四町七反一二〇歩)、所当米三三七石二斗四升七合で、本庄と比べて生産性は低い。除田には仏神田、預所給・地頭給などの人給、弓を年貢として出す宿人田がる。

 領家の得分は、本庄四八三石二升七合、新庄二一〇石四斗四升六合の所当米と弓四九張。地頭得分は本庄で所当米二〇三石四升九合、地頭給一二町、新庄で所当米一二六石八斗二合、地頭給五町、弓四九張。預所給は新庄で三町、弓一八張。公文給は本庄・新庄ともに二町ずつ。皮染給は本庄・新庄ともに五反ずつ、白皮造給は本庄で三反となっている。

 沼田庄の経営は領家方と地頭方の双方で進められ、領家西園寺家預所橘氏を現地に派遣して名主層を掌握する努力を続けた(東禅寺文書、稲葉桂氏所蔵文書)。一方、源平の争乱後、勲功の賞として沼田庄地頭となった小早川(土肥)遠平は、養子景平にこれを譲り、景平は、建永元年(1206)長男茂平に沼田本庄・安直郷を、建暦三年(1213)次男季平に沼田新庄を譲与(前記文永三年関東下知状)。二人はこの譲状を受けて一族とともに当地に来住、茂平は居館を本郷の塔ノ岡付近に構え、その背後に高山城、その後、沼田川対岸に新高山城が築かれ、沼田小早川家は本庄内に一分地頭として分出した庶子家を掌握するとともに、小早川惣領家として小早川一族を統括して沼田庄の経営にあたった。沼田新庄では、茂平の弟季平が椋梨を本拠として椋梨小早川と称し、惣領家の関与を受けながらも在地勢力として成長、新庄内に一分地頭として庶子家を分出した。

 来住した当初の小早川氏は、かつての沼田氏の氏寺楽音寺を受け継ぎ、在地勢力に割り込もうとしたが容易でなかった。茂平は新たに一族の団結と精神的支柱を求め、嘉禎元年(1235)に不断念仏堂(巨真山寺、現三原市の米山寺)を建立(応永五年十月八日付「小早川宗順巨真寺置文案写」小早川家文書)。嘉禎四年十一月十一日、念仏堂は将軍家の菩提を弔うために建てたものと称し、堂仏餉灯油田修理料田として領家藤原(西園寺)公経の許可を得て、沼田川下流域の塩入荒野の干拓に取り組み、農地化して小早川氏独自の勢力の拡大を図った。干拓は新庄方を含めた沼田庄全域の農民を駆使して行われた。この干拓によって造成された新田は沼田千町田とも言われる(三原市の→沼田千町田)。

 沼田川の自然堤防の上には、鎌倉末期から市(沼田市)が成立して繁栄した。応長二年(1312)二月四日付四郎太郎友氏嫡子孫六連署売券案(蟇沼寺文書)に「ぬたのいち」とあるのは沼田川南岸にある本市で、その対岸には小坂郷新市(現三原市)があった(応永二十一年四月十一日付「小早川常嘉譲状案写」小早川家文書)。永享五年(1433)六月日付小早川氏知行現得分注文写(同文書)によると、安直郷本市には土蔵一所と在家約300軒、新市には在家約150軒があると記され、かなり大規模な市場集落であったことが知られる(三原市の→沼田本市→沼田新市)。また、新庄方惣領椋梨小早川氏の椋梨の市場(「芸藩通志」所収絵図)など荘内各地にも小市場がみられた。本市・新市は沼田庄の経済活動の中心として発展し、小早川氏の朝鮮貿易(李朝世宗実録)の一翼を担っていた。

 小早川氏が沼田庄の下地支配権を獲得したのは十五世紀初頭の則平の時代で、応永十二年(1405)二月二十八日の足利義満御判御教書(小早川家文書)により、一五〇貫の年貢で沼田荘の地頭請が行われた。則平は長男持平に所領を譲り将軍家の安堵も受けていたが、のち悔い返して持平の弟煕平に譲渡(同文書)、煕平は小早川家惣領として将軍と結び付き、一族を家臣団化しようとする動きを示した。これに対して庶子家は、永享三年には新庄内で椋梨小早川家を中心に一揆契約を結び嘉吉二年(1442)十一月には新庄方庶子家八家が椋梨小早川家と契約を取り交わし、沼田小早川家の惣領職に対応し、宝徳三年(1451)九月吉日付で小早川本庄新庄一家中連判契約状(同文書)を結び、一族衆として沼田惣領家に対処することを決めている。これに参加したのは本庄方の舟木・小泉・生口・梨子羽・浦・秋光、新庄方の椋梨・乃良・土倉・小田・上山・乃美・清武の諸家であった。

 沼田庄は煕平の子敬平の頃より京都相国寺塔頭林光院領となっているが、『鹿苑日録』明応八年(1499)五月十二日条によると、毎年十貫文の年貢を差し出すという名目だけのもので、天文年間(1532─55)まで続くものの、小早川氏の領主化が伸展している。長享二年(1488)には敬平により荘内で検地が行われている(小早川家文書)。沼田庄は、天文十九年毛利元就の三男隆景の沼田小早川家相続により、毛利氏の領国に編入された。なお梨子羽郷(現本郷町)、椋梨村(現賀茂郡大和町)、小坂郷(現三原市)などの項目を参照されたい(『広島県の地名』平凡社)。

 

「梨子羽郷」

 ─「和名抄」所載の沼田郡梨葉郷を引き継ぎ、近世初頭まで存在した郷。「梨羽」とも書く。沼田川流域の沼田文化圏の中心部を構成するとともに、沼田荘の中心郷の一つ。郷域は沼田川の支流梨和川・尾原川、尾原川支流三次川流域を中心とし、鎌倉時代末期に南方と北方に二分され、北方はさらに二分されたため郷内は南方村と上北方村・下北方村となり、近世に下北方村より善入寺村が分離し、梨子羽四郷と総称されることもあった。

 郷内には尾原川沿いの一帯を中心に、御年代(みとしろ)古墳・梅木平古墳に代表される後期古墳が数多く構築されており、これらは畿内型の特徴をもち、大和政権との連携を推測させる。梅木平古墳の東方には、白鳳期の横見廃寺跡がある。またこれに続いて茅ノ市・原市の市場集落があり、付近を古代山陽道が東西に通過し、梨葉駅(延喜式)が置かれた。丘陵地帯で谷が発達し、水稲耕作は谷に作られた棚田に依存しているが、弘安四年(1281)正月十七日付の梨子羽郷楽音寺新灯油田坪付(楽音寺文書)は、条里制の施行をうかがわせる。農業用水の不足を補うため郷内の各地に溜池が築造され、なかには水利権争いの伝説のある池もある。

 茅ノ市の南に位置する楽音寺山の南麓に、当地方の中心寺院である楽音寺があり、楽音寺と関係が深い寺院に南方村蟇沼の東禅寺(蟇沼寺)がある。楽音寺と東禅寺のなかほどに弁海八幡神社(現弁海神社)が鎮座する。郷内の名として寂仏名・来善名・乃力名・弁海名などが知られる。

 沼田庄の開発領主で本下司であった沼田氏が壇ノ浦で滅亡した後、平家没官領となった同庄に小早川氏が地頭として来住、かつて沼田氏の氏寺であった楽音寺を氏寺とし、在地に勢力を伸ばした。小早川茂平は梨子羽郷地頭職を娘の犬女(浄蓮尼)に譲り、地頭門田を四男で竹原小早川家の祖となった政景に譲った(以上小早川家文書)。浄蓮は地頭として楽音寺の経営に力を入れ、所領なども寄進。また浄蓮は、文永八年(1271)検注のときには地頭門田が八町とされているにもかかわらず、本門田出田と称して十四町を押領(楽音寺文書)、実力により勢力の拡大をはかっていった。浄蓮の後も尼地頭で、永仁五年(1297)に東禅寺院主職に関する裁定を行う(東禅寺文書)など大きな力を有した。楽音寺に対し、東禅寺預所橘氏や弁海名名主職をもつ源信継とその子孫らに尊崇された。

 鎌倉時代末期に当郷は沼田・梨子羽・竹原の三小早川家の相論に事寄せ、闕所として幕府に没収されて北条氏の所領となり、六波羅探題北条宗宣の手に移った(蟇沼寺文書)。しかし南北朝の争乱期には取り戻しており、建武五年(1338)正月十六日には、竹原小早川景宗が足利尊氏より梨和合半分地頭職を安堵されている(小早川家文書)。以後竹原小早川氏は代々の将軍の安堵を受け、梨子羽郷南方弁海名に代官を派遣して地頭職の保持をはかった。竹原小早川仲義(仲好)は当郷および郷内寺院の経営にとくに熱心で、至徳元年(1384)十二月五日の宛行状(楽音寺文書)で、楽音寺に「西方三分二院主職」を寄進したのをはじめ、多くの寄進と介入を行なっている。一方、沼田小早川家では、小早川春平の孫義時が梨子羽小早川家を再興し、上北方の畑木山城に拠り、梨子羽郷北方の地頭職となった(小早川家系図)。室町時代の沼田小早川氏の一族知行分注文(小早川家文書)に、梨子羽350貫文とあり、永禄─天正(1558─92)の小早川家座配書立(同文書)には、椋梨殿とともに梨子羽殿が最前列に位置しており、梨子羽小早川氏は一族のなかでも憂慮奥な位置を占める勢力に成長している。梨子羽郷北方は沼田小早川氏系の所領、南方は竹原小早川家の所領という形が室町期には定着し、小早川隆景によって両家が合一されるまで続いた。

 元和五年(1619)の安芸国知行帳には南方村・上北方村・下北方村の三ヶ村が記されるが、山村の境界は、文政二年(1819)の南方村の「国郡志下調書出帳」所収絵図によると複雑に入り交じり、梨子羽郷がもとは単一の地域であったことを示している(『広島県の地名』平凡社)。