周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

沼田庄について

 橋本圭一「沼田庄」

        (『中国地方の荘園』講座日本荘園史9、吉川弘文館、1999年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

 【荘域】豊田郡。古代の沼田郡・沙田(ますだ)郡の二郡にあたる。沙田郡は『和名抄』などにより、十世紀初頭に豊田郡と改称したことが知られる。沼田郡の郡名は、文安二年(1445)「将軍家御教書写」(『小早川家証文=以下証と略す』96)の内宮役夫工米等、律令体制の系譜をふむものに使用されてはいるが、中世には一般に沼田庄の名がこの郡域を包括する語として使用された。近世には両郡域を併せて豊田郡と称するようになった。沼田庄の本庄は沼田郡に、同新庄は豊田郡に位置した。本庄は沼田川の中・下流域の比較的平坦地のまとまった地域を占め(証10)、『和名抄』所載の沼田郡七郷のうち今有・沼田・船木・安直(あじか)・真良(しんら)・梨羽の六郷を中心に、同書に記載の見られない小坂(おさか)・浦郷などを含む。新庄は本庄の北西部に位置し、沼田川最大の支流椋梨川流域に点在しり小盆地からなり、当初豊田郡六郷のうち豊田・安宿(あすか)・椹梨の三郷を含み、大草(おおぐさ)・和木(わき)・小田(おだ)・上山(うやま)・椋梨・草井・乃良(のうら)、飛び地として吉名(よしな)・田万里(たまり)・高崎浦などの村々の名が見える(『小早川家文書=以下文と略す』115・証8)。のち地頭小早川氏の勢力拡大に伴い、室町期に沼田庄に編入された地域に乃美(のうみ)・徳良(とくら・土倉)(以上新庄)・生口島(本庄)などがある。『芸藩通志』(文政八年〔1825〕成立)所載の村名から見れば、本庄は豊田郡善入寺・南方(みなみがた)・上北方(きたがた)・下北方・中野・小林・土取・別迫・真良・船木・本郷・小坂・荻路(おぎろ)・沼田下(ぬたげ)・納所(のうそ)・小原(おばら)・松江・総定(そうじょう・惣定)・本市(ほんいち)・七宝・片島・末広・両名(りょうみょう)・末光・釜山・須波(すなみ)・田野浦・能地(のうじ)渡瀬・忠海・小泉・向田浦(むこうたのうら)の三十二ヶ村および生口島・高根島(こうねしま)の二島、新庄は同郡能良・乃美・清武・安宿・上草井・下草井・椋梨・小田・大具(おおぐ)・和木・大草・宇山・田万里・福田・高崎・吉名・世羅郡上徳良・下徳良の十八ヶ村が庄域に該当する。現在の行政区分に寄れば、本庄は三原市の西部および南部、豊田郡本郷町・瀬戸田町因島市洲江町(すのえちょう)・原町、竹原市忠海町、新庄は加茂郡大和町(だいわちょう)・河内町(こうちちょう)・豊栄町(とよさかちょう)・竹原市田万里町・吉名町・福田町・高崎町に当たる。瀬戸内海に流入する安芸国第二の長流沼田川流域に展開した海岸部を含む荘園である。

 【立荘】立荘過程は不明であるが、沼田・豊田両郡の大部分が荘域に含まれており、本下司職を保有した沼田氏(「楽音寺文書=広島県史所収、以下楽と略す」5)が沼田郡の郡司クラスの在地領主で、この荘がのち平家没官領となっているところから、平氏側の貴族の誰かに寄進されていたものと考えられる。

 【本家・領家】本家は京都蓮華王院(文115)で、長寛二年(1164)に後白河上皇によって蓮華王院が建立されて以後寄進されたものであろう。最初は領家は不明であるが、平家没官領の一つであるところから、平氏側貴族の誰かと推定される。当庄内の古刹である楽音寺の由緒には、平清盛の弟祐円と名乗る僧が、楽音寺を中心に活躍したとあるが、『尊卑分脈』などの平氏系図に祐円の名は見えず、後世の付会と考えられる。平氏滅亡後に領家職は他の蓮華王院領と同様に後白河法皇の手に移り、のち後鳥羽天皇に譲られ、ついで承久の乱(1221)の結果、幕府の没収するところとなり、後堀河天皇に献上された(『日本歴史大辞典』河出書房版)。沼田庄領家職が西園寺公経の手に入ったのはこれ以降であろう。鎌倉幕府側に立って身を処した西園寺公経は、承久の乱後、従一位太政大臣として朝廷の実権を掌握しており、当庄の領家職を入手する機会があったと考えられる。嘉禎四年(1238)に沼田庄内塩入荒野の開発許可を地頭小早川茂平に与えたのも公経であった(証4)。この後、領家職は西園寺家に相承され、沼田庄新庄方の椋梨子(椋梨)と和木が、公経の三代後の実兼の娘で、亀山院の妃となった昭訓門院藤原暎子に譲られている(証13)。なお、室町期に入ると、地頭小早川氏は、将軍足利義満の口入により、沼田庄領家職を請所としている(文12)。『鹿苑日録』の明応八年(1499)の項によると、名目的に京都相国寺塔頭林光院領として毎年年貢を差し出しており、これは天文年間まで続くが、将軍奉公衆である小早川氏に足利将軍家から依頼されたことによるものであろう。後世沼田庄に編入された乃美郷は、建武三年(1336)「足利尊氏寄進状」(本圀寺文書)に能見庄と見え、京都本圀寺造営料所であり、文和元年(1352)「足利義詮安堵状」(園城寺文書)によると、能見庄の地頭職は近江園城寺造営料とされている。応永十一年(1404)「安芸国諸城主連署契状」(毛利家文書)に乃美氏の祖是景の名があり、この時期に沼田庄に取り込まれている。清武保京都祇園社領(建内文書)で、室町期には小早川氏の勢力下にあった(文172)。また得良(とくら)郷地頭職は、建武三年(1336)足利尊氏により尾道浄土寺に寄進された(浄土寺文書)。小早川庶子家の土倉家の名は応永三十一年(1424)「仏通寺方丈上棟人数注文写」(証44)に現れるので、それ以前に取り込まれたと考えられる。生口北庄は長講堂領(島田文書)で、本家後白河院、領家冷泉家(証2)とする荘園で、康永元年(1342)「小早川氏平軍忠状写」(吉川家文書)から、武力で生口島支配下に置いたものと考えられる。応永二十九年(1422)の「東大寺文書」に小早川生口因幡入道公実(道貫)の名が見え、応永三十五年(1428)「平因幡守道貫譲状写」(証540)に「あきのくにぬたのしやうの内生口きたのしやう」とあり、沼田庄内に取り込まれている。生口北庄内に含まれる高根(こうね)島もこのとき沼田庄に入ったらしく、永和三年(1377)から同五年に沼田庄内寺院で書写された大般若経世羅郡世羅町永寿寺蔵)奥書に香根島長善寺(現存)の名が見える。

 【開発領主】本下司職を保有していた沼田氏が開発領主とされる。本庄内の古刹で当地方の中心的寺院であった楽音寺に伝わる「資本著色楽音寺縁起絵巻」(実物は江戸初期に藩主浅野氏に召し上げられ、代わりに狩野安信による模写が下付されて現存する。絵の手法から見て実物は鎌倉期のものと推定されている)によると、安芸沼田の地に配流された藤原倫実なる人物が、瀬戸内海に藤原純友の乱が起きたとき、朝廷から起用され、一度備前釜島の戦いで敗れたが、ついに純友を討ち、その功によって沼田七郷を恩賞として与えられた。これは髻に入れていた一寸二分の薬師像のおかげだとして、これを胎内仏として造立した丈六の薬師如来像を本尊とする一寺を建立したのが、楽音寺であるという。この縁起によると鎌倉期にはすでに、沼田に住み着いた藤原倫実の子孫が開発領主沼田氏であるという認識があったものと考えられる。元弘三年(1333)に、ときの楽音寺院主良承が、氏寺楽音寺の院主職は藤原倫実の子孫が相承することは近隣に隠れもない事実であるとして、建武政府にその安堵を求めている(蟇沼寺文書)。沼田氏は沼田庄梨子羽郷中央部古代山陽道に沿った北側の丘陵高木山に城を構え、氏寺楽音寺とも至近距離の地に拠点を置いていた。『平家物語』によると、源平の兵乱のとき、当初は縁籍の伊予の河野通信とともに源氏方に与同したが、矢島から平教経が軍勢を率いて来てこれを討ち、河野通信は遁れたが、沼田次郎は降伏して平氏方となり、平氏とともに文治元年(1185)に壇ノ浦で滅び、沼田五郎に率いられていた近隣の海上勢力も行動をともにした。ただし公文クラスの一部の者はそれぞれの荘園へ逃げ帰っている(証2)。ここに開発領主沼田氏が滅亡した。

 【預所西園寺家が領家となって行なわれてた正検注の際、領家方荘官の代表として立ち会ったのが橘氏である。橘氏西園寺家の家司をつとめ、代々預所として沼田庄に赴き、正検使として検注に臨んでいる。建長四年(1252)の沼田本庄の検注に先音若狭守橘朝臣(証10)、仁治四年(1243)の沼田新庄の検注に刑部大輔橘朝臣(証8)とあり、いずれも橘知宣が該当する(『尊卑分脈』)。文永三年(1266)「関東下知状」(文115)には預所知茂の名がある。弘安四年(1281)の「楽音寺文書」(14・15)に、沼田庄預所橘知継の花押が見られる。また、正応五年(1292)「地頭尼浄蓮代浄円陳状」(楽5)に前預所朝嗣朝臣の名が見える。これは同じ知嗣であろう。『古今著聞集』の編者橘成季も西園寺家の家司であり、地頭小早川氏に対してかなりの勢力を持っていたことが知られる。なお、仁治二年(1241)から正嘉二年(1258)まで、地頭小早川茂平が幕府より禁じられていた上司になったことがあった(文115)。

 【地頭】地頭は相模国土肥郷の土肥氏の一族小早川氏である。源平の兵乱のとき、源頼朝の眼代として梶原景時とともに惣追捕使として活躍した土肥実平を祖とする小早川氏は、父実平とともに活躍した遠平から小早川(小早河)を名乗った。遠平は勲功の賞として沼田本庄・新庄・安直郷を与えられ(文115)、養子景平の系統に沼田庄の地頭職が相承され、小早川氏はやがて在地領主として有力武士団に成長していったが、その勢力が安定したのは建永年間以降のことであろう(楽3)。建永元年(1206)に沼田本庄および安直郷の地頭職は惣領茂平に譲られ、建暦三年(1213)に沼田新庄の地頭職は弟季平に譲られ、幕府からそれぞれ安堵されている(文115)。小早川氏が沼田庄に本拠を移したのはこの茂平の代からと考えられる。現在豊田郡本郷町に土肥谷の小字名が残る山麓の小高い地があり、ここに居館を構えた。沼田庄の中心は開発領主沼田氏の本拠地梨子羽郷茅市付近で、沼田氏の高木山城・氏寺楽音寺などが存在している。地頭小早川氏は沼田川を挟んでこの地が臨めるやや離れた場所に本拠地を置いており、地の利はあったが、旧来の荘官・名主が侮りがたい勢力であったことを物語っている。なお、小早川氏は沼田氏の氏寺楽音寺を自己の氏寺とした(楽4)が、容易に勢力下に置くことはできなかったようである。小早川氏は沼田氏の下司職を相承するが、新たに安直郷納所(三原市沼田東町納所)にある天台宗(現曹洞宗)の巨真山寺(現米山寺)内に、嘉禎元年(1235)、不断念仏堂を建立し(証35)、ここを自己の氏寺とした。この不断念仏堂仏餉灯油并修理料田として、嘉禎四年(1238)沼田庄塩入荒野の干拓を領家西園寺公経に願い出て認可を受けた(証4)。条件として旧来からの耕地に一切手をつけることを禁じられている。この干拓事業について、暦仁元年(1238)、幕府からも認可を受けている(証35)。干拓にあたり氾濫原に位置する小丘三太刀(本郷町三太刀)に拠点を置いたと考えられる。茂平は沼田庄内に勢力を扶植するために荘内各地に子を一分地頭として配置し、惣領家(沼田小早川氏)の藩屏とした。茂平の長男経平に本庄と新庄の接点である船木郷(本郷町船木)を、長女尼浄蓮に梨子羽郷(本郷町善入寺・上北方・下北方・南方)を、四男政景に承久の乱後取得した都宇竹原庄(竹原市)と梨子羽郷地頭門田五町を与えており、三男雅平(二男経家は早生)を惣領として沼田本庄の主要地域を相続させている(小早川家系図)。正応二年(1289)の「関東下知状写」(証573)に所領相続に関する内容が見える。これは小早川茂平の外孫藤井経継が、弟茂久・姉大中臣氏と所領配分について異議を申し立てたものである。沼田庄内吉野屋敷八町門田・真良・佐木(さぎ)島・須並(すなみ)浦は、茂平が妻浄仏に正嘉二年(1258)に一期分として譲渡したもので、浄仏の没後娘松弥に譲られるが、もし松弥が子を生まなかったならば、真良は船木経平(茂平長男)の子経茂に、吉野屋敷八町門田は浄仏の計らいで有忠の輩に、小坂村は赤川忠茂(茂平五男)の子福寿丸に与えるように指示されている。松弥は子を出生したが母浄仏より先に死去したので、浄仏が一期分領主として、松弥の子のうち経継を除いて所領を分譲したので、経継は自分を加えた再配分を要求している。これに対して幕府は、松弥が早世してもその所領は子息が伝領するものであるとして、浄仏の処置を認めず再配分をさせている。

 沼田新庄は茂平の弟季平が新庄方惣地頭として椋梨子(賀茂郡大和町椋梨小字堀城)に本拠を置き、小早川氏惣領茂平の干渉を受けながら、独自に庶子家を創出して勢力の腐食に努めた。季平は次男信平に小田(賀茂郡河内町小田)を譲っている。長男国平は寛元四年(1246)に「将軍家下文」(文94)で父から譲られた椋梨子(椋梨)・大草・和木(以上賀茂郡大和町)・福田・高崎(以上竹原市)の地頭職を安堵されている。国平の長男定平は小早川氏惣領茂平との相論で、茂平に認められた惣公文として公文職の任免権を除く新庄への関与を排除することに成功している(「関東下知状」文115)。定平の弟為平は和木(賀茂郡大和町和木)に、その子信平は上山(賀茂郡河内町宇山)に、その弟為範は大草(賀茂郡大和町大草)にそれぞれ配置された。南北朝の争乱期に小早川氏では庶子家の独立性が強くなり、惣領家の命に従わないものも現れ、雅平の孫宣平から新たに庶子家を創出した。これは新田開発等により実力を備えた惣領家の勢力を示すとともに、惣領家の保全を図ったものであった。宣平の子氏平は安直内小泉村三原市小泉町)に、氏実は浦郷(三原市幸崎町を中心)に、惟平は生口島(豊田郡瀬戸田町因島市洲江町・同原町)に、惣領として宣平のあとを受けた貞平は子の夏平を土倉(賀茂郡大和町徳良)に配し、貞平の子春平は惣領として南北朝期に弛緩した一族の結束を図るために、高僧愚中周及を招いて仏通寺を建立した。同寺は春平の子則平のときに落成するが、これには一族が奉加している(「仏通寺方丈上棟馬人数注文写」証44)。さらに則平の弟時春は梨子羽(豊田郡本郷町上北方・霜北方・善入寺)に、上殿は弐分(三原市神町仁部)に、則平の子満平は日名内(ひなない)(豊田郡本郷町上北方日名内)に、孫是景は乃美(賀茂郡豊栄町乃美)に配置された。

 小早川氏は鎌倉期には在京奉公人を勤める有力御家人に成長していたが、最盛期は重大則平のときで、則平は足利将軍の奉公衆として活躍し、九州探題を支援するため九州巡察使として九州へ赴いている(「足利義持御内書写」証50、「小早川常建書状写」証54)。このとき「小早川則平自筆譲状」(文113)で長男持平に所領を相続させ、「足利義持安堵御判御教書案写」(証54)で安堵も受けたが、のち則平は持平に不幸のことがあったとして親の悔返権を行使し、永享三年(1431)持平に与えた所領を取り上げ、弟の煕平に譲った(「小早川煕平申状案写」(証60)・このことから家督相続をめぐって争いが起こり、一時は竹原小早川家に所領が与えられたこともあった(「幕府奉行連署奉書案」文81)が、将軍は小早川一族の意向を受けて嘉吉二年(1442)煕平に所領安堵を行なった(「幕府下知状」文37)。同年の「小早川家庶子連署契約状写」(証460)は新庄方惣領椋梨子氏に対して出されたもので、秋光・小田・乃美・上山・清武・野浦(乃良)・和木・大草の八家が名を連ねている。宝徳三年(1451)「小早川本庄新庄一家中連判契約状」(文109)には乃良・土倉・舟木・小泉・生口・梨子羽・椋梨子・小田・上山・浦・乃美・清武・秋光の各家が加わって一族一揆を結び、惣領家に対し連帯して対応することを約束している。室町期の「小早川氏一族知行分注文」(文172)には、小泉・船木・浦・東・生口・土倉・梨子羽・同南方・末広・真良・近宗・秋光・乃美・清武・椋梨・小田・和木・大草・吉名・上山・乃良・上草井・高崎の二十三家の名が見られ、沼田本庄・新庄内で竹原小早川家関係以外の地域がほぼ網羅されている。

 小早川庶子家の中で最大勢力となり、沼田惣領家と対戦したのは竹原小早川家であった。沼田庄内の竹原小早川家の拠点は梨子羽郷南方で、有力家臣を代官として派遣し、在地支配を行なうとともに、楽音寺・東漸寺へ強い影響力を加えた。また、文応元年(1260)「平季康譲状写」(証510)によると、沼田新庄内黒谷・草井・高崎浦が竹原小早川家の支配となっていることが知られる。沼田本庄・新庄内の庶子家が沼田惣領家との関係を持ちながら国人化していったのに対し、竹原小早川家は庶子家を分出せず独立した国人として成長した。これら庶子家は、沼田惣領家投手の若死が続いたことにより、まず竹原小早川家の養子となった毛利元就の三男隆景を天文二十年(1551)惣領家に迎え(仏通禅寺住持記)、海陸に勢力を張っていた一族が再結束し、吉川氏とともに毛利氏の両川と呼ばれる勢力となり、隆景は海陸の要地三原に築城して、瀬戸内海一帯への勢力拡張をはかった。隆景の没後、三原州と呼ばれた小早川家臣団は毛利氏の直臣となり、関ヶ原戦後毛利氏とともに防長へ移っていった(『萩藩閥閲録』)。

 【領家と地頭の対立】領家と地頭の対立の早い例は、領家と小早川茂平の娘で梨子羽郷地頭尼浄蓮との間に起こった地頭門田に関するものである。弘安十一年(1288)「関東下知状案」(楽3)によると、地頭門田は八町であるのに、文永八年(1271)の検注には地頭が本門田出田と称して十四町を取り込んでおり、これに対して幕府は、地頭門田は八町以外は認められないとの裁定を出している。楽音寺田については、数町取り込みがあるというが、同寺田は代々検注の対象とはならないのでその広さを云々することはできないとして、領家側の訴えを退けている。正応五年(1292)「地頭尼浄蓮代浄円陳状」(楽5)には、弘安十一年の関東下知状によって楽音寺に関する諸権利は地頭に認められているとし、領家方が院主職に任じた隆憲を改易して舜海をこれに補任している(楽28)。また応長元年(1311)「六波羅召文御教書案写」(証13)によると、昭訓門院藤原暎子領となった椋梨子・和木両郷の年貢にかかわって雑掌から訴えられており、早く決裁するよう命じられている。元弘三年(1333)「楽音寺院主良承申状」(蟇沼寺文書)によると、梨子羽郷内にかかわって地頭小早川氏が三方相論をしたため、当地は闕所として南六波羅探題北条宗宣(1290─1300在任)の知行所とされている。沼田庄が地頭請所となるのは応永十二年(1405)の「足利義満御判御教書」(文12)によってであり、則平は領家職四百貫文のうち百五十貫文を年貢として請け負っている(証40)。下地中文は梨子羽郷で南北朝期に行なわれ(文60)北方・南方に分割され、さらに北方は上北方・下北方(含善入寺)に分けられたが、属人主義によって分割されたため耕地が入り交じり、相互に飛び地があった。これにより南方地頭職は竹原小早川家の手に入った。記録はないが下地中文が行われた痕跡の明らかなものに、佐木島三原市鷺浦町)がある。

 【門田・名】沼田本庄に限ってみると、門田は吉野屋敷八町門田(証573)、梨子羽郷地頭門田八町(楽3)がある。吉野屋敷八町門田は「関東下知状写」(証573)によると、小早川茂平が最後まで所有していた所領を正嘉二年(1258)妻浄仏に譲ったとあり、小早川氏の居館・居城のあった東部にあり、三原市高坂町真良の南端真良郷を扼する位置にある小字上吉野・下吉野がこれに該当する。梨子羽郷地頭門田八町は「関東下知状案」(楽3)に地頭本門田は本来八町とあり、出田十四町は領家方分とされた。この門田は楽音寺付近の寺田と近接して楽音寺谷中心にあったことが「楽音寺文書」に残される各譲状で知られる。正嘉二年(1258)「小早川本仏譲状案」(文52)に茂平から政景に梨子羽郷地頭門田五町が譲られている。また「極楽寺文書」に羽坂門田四反三百三十歩とある。ここは中世の羽坂村(楽26)で、西は楽音寺谷の奥から東は当時北方分であった小字灌頂免が含まれる地域内で、楽音寺谷は楽音寺領と地頭門田で構成されていたとみてよいであろう。名は「小早川家文書」「楽音寺文書」「東禅寺文書」「蟇沼寺文書」「弁海神社文書」等に見えるもので、沼田本庄内で確認されているものは、梨子羽郷南方の安宗名は楽音寺谷の沖の三次川東岸にある小字安宗で、小早川氏が門田として取り込んだ十四町のうち、楽音寺に寄進された田の坪付に含まれている(楽15)。ここは三次川周辺の平坦地で条里制が施行された地域であるが、現在は宅地造成地で旧状は残っていない。弁海名は本郷町南方小字弁海に鎮座する弁海神社を中心とする中世の船木村(現小舟木)と尾原村の一部の地域で、その南の松原西谷に続く地域に守安名があった。宗永名は本郷町南方東部を南流する菅川中流に沿った地域で、小字助光が時貞名内の散田として見える助光名一町五反に当たり、現在も同規模の広さである。是弘名は南流する仏通寺川が三原市高坂町真良の低地部に流れ込む付近に存在し、小字市場が含まれる。末光名は三原市小坂町の中央部を南流する小坂川の中流東側にある小字末光沖一帯が該当する。以上の七名は、ともに谷水を利用した谷田・迫田から発達し、しだいに棚田を構成しながら低地へと開発が進められた形状をなしている。正時名は三原市登町正時神社を中心とする一帯で、標高350メートルの畑山の山上に展開する名で、旧田野浦村に属する。他に「楽音寺文書」などに多く見える乃力名・来善名・寂仏名、「小早川家文書」に見える瀉島新田光包名・田浦内行貞名などは直接手がかりとなる地名などは残されていないが、家名などにも残されえているものもある。文政二年(1819)の小坂村の国郡志御用ニ付しらへ書出帳」によると、吉行・徳満・末光・山下・横畠の名田があったとあり、吉行・徳満・末光の三か所の所在がわかるが、宅地開発などで旧状を残してはいない。名の内容を明らかにできる史料をもつのは梨子羽郷弁海名である。「東禅寺文書」「蟇沼寺文書」「稲葉桂氏所蔵文書」「極楽寺文書」に関係史料が残されている。これらの文書によると、弁海名名主職は預所橘氏によって源姓を名乗るものが補任されている。正和三年(1314)に右衛門尉源信継、正慶二年(1333)に源信賢、建武三年(1336)に源信成、暦応元年(1338)に源孫鶴丸、暦応三年(1340)に見月あてに、各預所からの下文写があり、梨子羽には領家方およびそれに与同する有力名主がおり、地頭小早川氏も容易には入れなかったことを指名している。これら有力名主の一人源信成は、元徳二年(1330)に極楽往生を願って蟇沼の東禅寺に木造四天王立像を寄進しており、その勢力がしのばれる。しかし源姓の名主職は、暦応三年の下文で姿を消している。この後小早川氏が実力でほぼ沼田庄を支配下に置いたと見られる時点の延文五年(1360)の賢阿譲状(前半「東禅寺文書」・後半「蟇沼寺文書」)によると、弁海名内の田・畠・林・屋敷などが見え、明徳四年(1393)の「和気掃部入道譲状」(弁海神社文書)に弁海名内彦四郎分が記されている。弁海名は室町期に竹原小早川家の勢力下にあり、「東禅寺文書」に含まれる弁海名関係の注文には、田二町五反六十步、畠六反ほか十五か所、林九か所、屋敷三か所などで構成されていることが知られ、所在地の約半分近くが地名として残っていることが確認されている(石井進『中世武士団』小学館)。

 【新田開発】地頭小早川氏の発展は新田開発の歴史でもある。新しい天地に東国から移住し、旧来からの荘園田畠にのみ基盤を置くことの困難さを痛感した小早川氏は、いきおい河川の氾濫原「塩入荒野」を干拓することによって、自己の自由になる土地を確保し、権力の基盤を確立する必要に迫られた。こうして造成した土地を庶子に分与し、惣領家の藩屏となる一族の勢力の拡大を期待した。満潮時に海水が流入する沼田川氾濫原「塩入荒野」の干拓は、小早川茂平のときから始まった。嘉禎四年(1238)に領家西園寺公経から認められた干拓工事が最初のもので、以後室町期まで続いた。沼田川の流路が固定するのは近世初頭であり、流域の干拓が完成するのは近代に入ってからである。直接利益に関係ない沼田新庄内の農民も動員されている(文115)。応永三十年(1423)「足利義持安堵御判御教書案写」(証507)、永享五年(1433)「足利義教安堵御判御教書案写」(小早川家文書拾遺3)に見える本郷塩入本新田三町もこうした一連の干拓事業に含まれるものと見るのが妥当であろう。かつて沼田川の氾濫原で本郷原と呼ばれていた本郷町本郷を含む現在の本郷町東部の沼田川沿いの平坦地一帯が該当すると考えられる。のちに沼田千町田(三原市沼田東町)と呼ばれる地域についてみると、暦応四年(1341)の「小早川円照父子連署置文案写」(証21)に、新田譲得人は氏寺の巨真山寺仏事公事を合同で勤めること、新田百姓は巨真山寺修理掃除と堤修固人夫を勤める以外の課役を免除するとある。この新田は、同日付の「小早川円照譲状写」(証22)により子の貞平に譲渡された所領に含まれている瀉島新田内光包名・同新田二町が相当する。応永二十一年(1414)の「小早川常嘉譲状案写」(証53)に安直塩入新田并新開・同中新田所々・市後新田・木々津新田(本郷町木々津)の名が見え、木々津新田は茂平の干拓地に続く地域にあたり、沼田川流域の沼田千町田一帯の干拓事業が進んでおり、沼田本市・新市の下流沼田川流域の埋め立てが進行していることが知られる。延徳三年(1491)の「小早川敬平自筆所領目録」(文48)には沼田庄内近年開発新田所々とあり、新田開発が続行されていることを示している。開発は当初地頭小早川氏の直営であったが、沼田の市が発展するにつれ、「新田譲得之人等」の商人が新田開発にも加わっていることは、彼らの経済力の上昇を示すものであろう。沼田堤・安直堤など沼田川堤防が強化され、流路が固定されるのは小早川隆景のときである(『萩藩閥閲録』)。沼田千町田には深さ一、二メートルの辺りに茅が埋没しており、ところどころに地元で「タコ」と呼ぶ水の湧水口が水田中にあり、「ザブ田」と呼ぶ湿田は蓮田にされていることが多く、平年は水害を受け、干魃には平年作になる状態であったが、現在は圃場整備され、灌漑・排水路が整備され、往年の地割り・景観に変化を見せている。

 【年貢】沼田庄の年貢は、本庄方の場合、建長四年(1252)の検注(証10)により(多少計算誤差があるが文書記載の数値を使用)、見作田(現作田)は二百五十町二反三百二十歩で、除田二十五町一反があった。定田は佃六町・官物田二百十九町一反三百二十歩で、所当米合計六百八十六石七升六合の内訳を見ると、佃が米八十一石(反当一石三斗五升)、官物田が米六百五石七升六合、四斗五升代・三斗五升代・三斗代・二斗代・一斗五升代・一斗代の六段階に分けられている。このうち二斗代の田が七十二町一反二百三十歩で一番広く、ついで三斗代が四十七町二反三百四歩、四斗五升代が四十一町四反三百歩であった。三斗代以上の官物田の面積は約五三%、所当米は約七〇%に当たる。所当米のうち領家得分は、佃米八十一石を含めて四百八十三石二升七合、地頭得分は二百三石四升九合である。地頭得分のうち一斗永田の百八十七町一反四十歩(ほぼ二斗代以上官物田面積に相当)、五升永田の三十二町七反二百八十歩(ほぼ一斗五升代・一斗代の官物田の面積に相当)の両方で分米百三石一斗五升一合(反別五升宛か)を含んでいる。これにより地頭が本庄内の田すべてに関与できたと考えられる。これに地頭給十二町を佃と同一と仮定して米百六十二石を加えると三百六十五石四升九合が地頭得分ということになる。新庄についてみると、仁治四年(1243)の検注(証8)は河川沿いの小盆地に展開するという地形の関係で、村単位に記録されている。椋梨子・小田・和木・大草・吉名・田万里・上山・乃良・草井・高崎浦の十か所で、うち吉名と高崎は海岸沿いで、田万里は山陽道沿いの山中にあり、ともに飛び地である。村は最大三十九町九反百二十歩から最小四町二反三百三十歩まであり、見作田の合計は二百十一町五反となり、除田三十四石七反百二十歩を除くと、定田は百七十六町七反二百四十歩となる。小田・和木・大草・吉名・田万里・上山・草井の八か所に散在している佃の合計は一町七反百八十歩、官物田は百七十五町六十歩で、官物田の所当米は三百三十七石二斗四升七合で、三斗二升代・二斗八升大・二斗七升代・二斗二升代・一斗五升代・一斗代の七段階に分けられ、本城とは逆に一斗五升代と一斗代の田の占める面積が約五三%にあたり、三斗二升代・二斗八升代の田は約二三%であるが、ここから所当米約六〇%を出している。所当米のうち領家得分は、二百十石四斗四升六合、佃米十六石八斗(三斗二升代を基準として推算)、合計に百二十七石三斗二升六合である。地頭得分は、百二十六石八斗二合、その内訳は一斗永田七十八町五反三百歩(ほぼ二斗代以上の官物田の面積に相当)・五升永田九十六町四反百二十歩(ほぼ一斗五升代・一斗代の官物田の面積に相当)であり、これに地頭給田五町と佃と同一と仮定して米四石八斗を加えると百三十一石六斗二合になる。新庄には除田のうちに弓張のうち領家三十二張・預所十六張・地頭三十二張で、領家方は預所を含めて五分の三、地頭方が五分の二を得ており、この比率は当初から踏襲されているが、乃良では十九対十七となっており、不作田の増加で比率が変化したものと考えられる。仏神田は本庄は十町三反・新庄は十一町五反二百四十歩で、本庄には小早川茂平建立の阿弥陀堂の御仏供田一町があるが、楽音寺田の記録がなく、検注使不入の地であったことを示している。豊田一宮田が本庄に三町七反、新庄に二町九反百二十歩の合計六町六反百二十歩あった。人給としては、預所給は三町で新庄内五村にしかなく、公文給は本庄二町・新庄内二村で五町の合計七町、地頭給は本庄十二町、新庄五町の合計十七町である。新庄の場合は九か村に分散している。白皮造給は本庄に三反、皮染給は本庄・新庄ともに五反ずつある。沼田庄の収穫高を検注を基礎にして予想概算すると、本庄が約千八百石余・新庄が約千石余と考えられ、その約三分の一が年貢として徴収されたとみなしてよいであろう。応永元年(1394)「椋梨知行支配状」(文103)に椋梨三百貫文の内領家分十貫五百文、惣領分三名(十五反)・公文分二名、惣領分三名のうち地頭分一名とある。応永十二年(1405)「小早川則平起請文写」(証40)に沼田庄領家職は則平知行分六十貫文・庶子等沙汰分百七十貫文・庶子等知行分百七十貫文の合計四百貫文で、則平は領家に対して百五十貫文の年貢を出すことで契約している。永享五年(1433)「小早川氏知行現得分注文写」(証62)には惣領家(則平・持平)の得分が七百六十貫文とあり、そのうち沼田庄に含まれるものが五百八十五貫文であった。文安五年(1448)「領家納入供養目安写」(証98)によると、小早川庶子家の領家御公用として納入するため八十五貫四百文を集めており、このうち七十貫文を割符にし、割符賃七分で三貫五百文、死者生田寺(おいだじ)了正の路銀および礼銭など七貫五百文を合わせて八十一貫文が入用で、残り四貫四百文は先の御用に使用するとあり、これらは惣領家政所で差配されている。なお、毛利氏の検地が確認される梨子羽郷南方は、慶長五年(1600)「梨子羽郷南方打渡状」(楽55)に田八町二反八畝二十歩・畠四町三反一畝二十歩・屋敷十八か所七反八畝、合計高百石三斗六升六合・貫高十六貫七百五十六文とあり、福島氏による検地により楽音寺免田等は廃止となり、高二千百二石三斗七升二合、田百五十町八反二畝二十七歩・畠五十三町二反五畝・屋敷一兆二反一畝二十七歩とされている(文政二年〔1819〕「国郡志御用ニ付下調書出帳・南方村」)。

 【商工業・市場】建長四年(1252)の「沼田本庄方正検注目録写」(証10)に、白皮造給・皮染給、仁治四年(1243)の「沼田新庄方正検注目録写」(証8)に皮染給が記載されており、鹿皮の加工を中心とする皮革技術者の存在が知られる。新庄の椋梨子と乃良に弓を年貢とする宿人田があり、弓造りの技術者が多人数いたことがわかる。正応四年(1291)の「比丘尼浄蓮寄進田畠坪付」(楽27)に紙すきか垣内・番匠四郎跡の地名が見え、翌年の寄進状(楽28)にはほぼ同じ場所をまとめて既大工貞永入道跡とあり、楽音寺付近に寺用をを勤める技術者の存在が認められる。文明十九年(1487)の「継目安堵御判礼銭以下支配状写」(証220)に大工・番匠四人の名がある。慶長五年(1600)の梨子羽郷南方打渡状(楽55)のなかに番匠の藤右衛門の名がある。「弁海名内私注文」(東禅寺文書)にコウ屋岡(紺屋岡)の地名も見られ、荘域内各地に紺屋田など紺屋○○の名が小字名として残っている。惣領小早川茂平は、文永三年(1266)の「関東下知状」(文115)によると、沼田新庄にまで入り、木を焼いて紺灰を作ったり、鷹巣から雛を捕り飼育していたとある。この下知状には、康元元年(1256)新庄の小早川国平が檜三千本を借上人に売り渡そうとして、沼田川下流を占める惣領茂平に没収された相論が記されており、商取引の早い例として知られる。市場は荘域内各地にあり、沼田氏以来の茅ノ市がもっとも早い成立とみられる。のちにこの市は下地中分の対象となり、町並みは上北方・下北方・南方の三村に分割されている。最大の市場は沼田惣領家のもので、沼田川の自然堤防の上に鎌倉末期から沼田市が成立して繁栄した。応長二年(1312)の「四郎太郎等売券案」(蟇沼寺文書)に「ぬたのいち」とあるのは沼田川南岸にある本市(三原市沼田東町本市)で、屋敷が売買されており、その対岸には応永二十一年(1414)「小早川常嘉譲状写」(証53)に見える小坂郷新市(三原市長谷町荻路)があった。永享五年(1433)「小早川氏知行現得分注文写」(証62)によると、安直郷本市には土蔵一所と在家約三百軒、小坂郷新市には在家百五十軒があると記され、応永二十一年の前記譲状案写にも「塩入市庭・小坂郷塩入市庭」の名がある。『芸藩通志』本市村の絵図には川の中州が固定した紡錘型の地割が見られ、その両側に道が通じ、それを南北に結ぶ小路として工屋小路・風呂小路の名が見える。この地割は現存し、通称工事と呼ばれる家の東側には小道がある。本市・新市ともに祇園社が勧請されており、ともに市場内に胡社が祀られている。この両市の発展により貨幣経済の浸透が見られ、小早川氏は家臣の市場への関わりを禁じるため、暦応三年(1340)(証19)と文和二年(1353)に禁制(証25)を出さざるを得ない状況であるほど、両市とも沼田庄の経済活動の中心として発展した。当然のことながら小早川氏の朝鮮貿易(『李朝実録』)の一翼を担ったものと考えられる。小早川氏の外港は生口島(豊田郡瀬戸田町)であったので、ここから本市・新市へは川舟で物資が運ばれており、近年、本市付近から室町期の舟の船底材の𦨘(かわら)が出土している(三原市歴史民俗資料館蔵)。応永三十一年(1424)の「仏通寺方丈上棟馬人数注文」(証44)に小早川氏一族とともに名を連ねている本市倉・新宮市倉は当市の商人であろう。寛正六年(1465)の「仏通寺塔立柱馬人数注文写」(証135)にも新市倉の名がある。新庄方惣領家椋梨小早川家の椋梨の市場も『芸藩通志』椋梨村絵図に椋梨川南岸に市河の名を記している。椋梨小早川氏家の本拠城堀城は北東向きに立地し、その前方に南北の道と東西に通じる古道が交わる地点で古道が曲折して市頭と呼ばれ、ここを中心に上市・下市からなる市場があったことが伝えられ、市尻の地名もある。市頭には胡社が祀られていたが、現在は区画整理により位置が移動している。このほか庶子家支配の各地に位置に関する地名が残されている。

 【寺社】沼田庄本下司沼田氏が草創した真言宗楽音寺は、建永年中に小早川遠平が地頭職に任じられて以来、地頭氏寺となった。最盛期は二院十一坊をかかえた当地方屈指の寺院であった。文永十一年(1274)の検注で、地頭が出田として十四町も取り込んでいたのが領家の手に戻り、そのうち安宗名・久弘名合計一町五反が預所橘知嗣によって楽音寺灯油田として寄進され(楽14)、戒乗の沙汰として楽音寺内領家方の勢力保全の布石としている。楽音寺は当初沼田庄地頭小早川氏の氏寺とされたが、嘉禎元年(1235)小早川茂平が天台宗巨真山寺(米山寺)に不断念仏堂を建立してこれを氏寺とした(証35)ため、しだいに梨子羽郷地頭尼浄蓮の氏寺化し、浄蓮の肩入れもあって、諸堂造立のために地頭本門田内の土地が寄進されている。浄蓮は院主職任免にも口入し、領家方任命の院主を改易している(楽5)。浄蓮のあとの地頭尼も、永仁五年(1297)「地頭尼某下知状」(東禅寺文書)で東禅寺院主職相論の裁定を下すほどの勢力があった。鎌倉末期から中台院・法持院が交代で楽音寺の寺務を行うようになった。室町期に入ると、南方地頭門田五町を足がかりに勢力を拡張してきた竹原小早川家が楽音寺の外護者となってくる。至徳元年(1384)「小早川仲義充行状」(楽41)で楽音寺西方三分二院主職が、康応元年(1389)「小早川仲好安堵状」(楽42)で楽音寺南方院主代が安堵されている。楽音寺は沼田氏・小早川氏時代と寺勢を拡大し、当地方の一大勢力として地域に与える影響も大きかった。正和三年(1314)「一宮修正会勤行所作人注文」(蟇沼寺文書)によると、当寺は一宮(現豊田一宮神社・三原市沼田東町納所)として、正月二日に社前で当地域の寺院とともに修正会を執行した。その際読み上げられる神名帳が、法持院に伝来した「安芸国神名帳」(『芸藩通志』所収)である。慶長五年(1600)「毛利輝元寄進状写」(楽53)によると、寺領百石余・山林境内一町四反四畝で、同年「毛利輝元定書写」(楽54)には寺務・堂塔修理等について毛利氏から指示が出されている。小早川隆景によって中台院は三原へ移され、福島氏により寺領が廃止され各坊は没落した。現在は法持院が楽音寺境内に移り管理している。楽音寺と関係の深い寺院として楽音寺南方約2・6キロの蟇沼に、初め蟇沼寺と称した真言宗東禅寺がある。東禅寺は楽音寺の支配下にあり、本尊十一面観音像は立木仏で火災のとき根元を鋸で挽いて持ち出したとの伝えがある。永仁五年(1297)「地頭尼某下知状」(東禅寺文書)によると、当時の院主職の相論の相論ついて地頭尼が裁定を下している。当寺は領家方・弁海名名主等の信仰の中心で、弁海名名主源信成らが元徳二年(1330)に木造四天王立像(胎内銘に「光明真言」「南无阿弥陀仏」等を記す)を寄進している。暦応三年(1340)「預所朝臣寄進状」(東禅寺文書)によると、火災のあと修復が進まず、修理料所寂仏名・来善名・乃力名について宝治二年(1248)寄進状の旨に任せて万雑公事所当米等を停止し、元の通りに当寺に寄進するとあり、これにより「預所朝臣契状」(東禅寺文書)で頼慶と賢祐両人に年貢公事米などは半分ずつ知行し、領家所務を知行する契約を結ばせている。室町期には諸堂の再建や寺院経営に竹原小早川氏が関わっている。米山寺(三原市沼田東町納所小字米山・現曹洞宗)は平安期創立の天台宗寺院であったが、嘉禎元年(1235)小早川茂平が不断念仏堂を建立して巨真山寺と号し、鎌倉幕府三代将軍の菩提を弔うとともに一族の氏寺とした。この堂の仏餉灯油修理料田として沼田川下流の塩入荒野の干拓が進められ、当寺を中心に小早川氏の勢力強化が図られた。当寺は南北朝期に臨済宗に改宗した。なお、当寺の住職には琴江令薫(則平弟)をはじめとして惣領家から住職に入ったものが多く、氏寺として重視されていたことが知られる(小早川氏系図)。応永五年(1398)「小早川宗順(春平)巨真寺置文案写」(証35)に安直本郷内の十余名のうち在所不定の五町を巨真山寺給地下と称して反別四斗六升代の年貢を米山寺へ納めることを確認している。臨済宗永福寺(本郷町船木)は小早川茂平の菩提寺を伝え、京都東福寺塔頭栗棘庵の末寺(証593)で、五山十刹につぐ諸山の列にあり、室町初期に当寺の住職琴江令薫が本山東福寺の百二十九世住持に転住している(琴江和尚語録)。臨済宗棲真寺(大和町定ヶ原)は寺伝によると、所縁の女性の菩提を弔うため、土肥実平・遠平父子により建立されたとある。寛正二年(1461)に栖真寺領(証127)、「小早川煕平書状写」(証593)に栗棘庵が椋梨子内兼重名を所有していたことがわかる。仏通寺は臨済宗仏通寺派の大本山で、応永四年(1397)、小早川春平が高僧愚中周及を招じて創立した寺院で、一族の結集を図る氏寺的性格も持っていた。多くの僧侶が周及を慕って参集し、五山に対し独自の門葉を形成し、寺勢は隆盛に向かい、最盛期には境内に八十八か寺、瀬戸田に向上庵(向上寺)があり、末寺は東は甲斐から西は肥前にまで及びその数は三千と言われた。大旦那小早川氏は寺の運営に深く関わり寺勢維持につとめた。(仏通禅寺住持記)。当寺は小早川隆景天正期に三原城下町に沼田地方の多くの寺院を移した際にもその対象とされず、現在地で修築・保護が加えられている。

 神社は、「安芸国神名帳」記載の神社についてさまざまな比定が行なわれているが、不明なものも多い。沼田庄内の中心的神社は豊田一宮神社、弁海名の中心に今川了俊の「道ゆきぶり」にも見え、男山より勧請したと伝える弁海神社、小早川氏によって勧請された真良八幡宮(現大多良神社・三原市高坂町真良)などがある。宮座の痕跡を残すものとして三原市内に皇后八幡宮須波西町)・長谷神社(小坂町)・軍神社(沼田東松末広)がある。

 【文化財】当庄域に関わる文化財には、国宝に向上寺三重塔(瀬戸田町)、国指定重要文化財に仏通寺含暉院地蔵堂・絹本着色大通禅師像・同墨跡(三原市高坂町許山)、米山寺宝篋印塔・献本着色小早川隆景像(三原市沼田東町納所)宗光寺山門(旧新高山城本丸大手門・三原市本町)、大般若経正法寺蔵・三原市本町)、国指定史跡に小早川氏の城跡(三原市城町・高坂町・豊田郡本郷町)、御年代古墳(本郷町南方)、横見寺廃寺跡(白鳳─奈良期寺院跡・本郷町下北方)、国指定重要美術品に仏通寺開山堂内石造宝篋印塔(小早川春平妻松岩尼墓)、県指定重要文化財に善根寺木造仏像八躯(藤原仏・三原市小坂町)、龍泉寺木造十一面観音坐像・多聞天立像・不動明王立像(小泉氏氏寺・三原市小泉町)、東禅寺木造四天王立像(本郷町南方)、棲真寺木造二十八部衆立像、(賀茂郡大和町定ヶ原)紙本墨書楽音寺文書五巻・資本着色楽音寺縁起(本郷町南方)、永福寺絹本着色釈迦涅槃図(本郷町船木)、紙本墨書仏通寺文書(三原市高坂町許山)など、県指定史跡に兜山古墳(三原市沼田東町)・貞丸古墳・同二号墳(本郷町南方)・梅木平古墳(本郷町下北方)、小早川隆景墓(米山寺)、棲真寺定ヶ原石塔(大和町定ヶ原)などがある。この他に小早川氏歴代墓地(米山寺)、椋梨家堀城跡・廃学応寺跡(大和町椋梨小字堀城)、小早川庶子家の各居館・城跡・菩提寺跡などがある。