周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

尾崎八幡宮文書2

    二 野間興勝補任状

 

 (安藝郡安南郡                        (得)

 屋能郷祝師役之事、親國重大夫任幣次助六ニ申付所也、社領存知徳分儀者有

 別紙ニ、仍爲後證状如件、

     (1530)

     享禄三年〈庚寅〉卯月一日        興勝(花押)

                   (異筆)

                   「香川

                祝師所へ  助六

 

*割書は〈 〉で記載しました。

 

 「書き下し文」

 屋能郷祝師役の事、親国重大夫幣次に任せ助六に申し付くる所なり、社領存知する得分の儀は別紙に有り、仍て後のため証状件のごとし、

 

 「解釈」

 屋能郷の祝師役のこと。親の国重大夫が神職の序列にしたがって、香川助六に申し付けるところである。社領において承知している得分の件については、別紙に書いてあります。よって、後日のため、証拠となる補任状は、以上のとおりである。

 

 「注釈」

「屋能郷」─現安芸区矢野町。海田市(現安芸郡海田町)を隔てて船越村の南に位置

      し、南端の絵下山(五九三メートル)から発した矢野川・宮下川が中央を

      ほぼ並行して北流。矢野川沿いに村を縦貫する黒瀬街道は、海田市から矢

      野峠を越え、熊野盆地を経て賀茂郡津江村(現黒瀬町)・郷原村(現呉

      市)に至り、また矢野峠から焼山村(現呉市)を経て暮れに至るルートも

      あった。

      「和名抄」の安芸郡養濃郷に比定され、平安末期に成立した安摩庄に属

      し、仁治三年(一二四二)当時の安摩庄矢野浦惣公文は中原惟道であった

      (同年三月十二日付「安芸国安摩庄内衣田島荘官百姓等解」巻子本厳島

      書)。同じ頃当地に梶取清昌なる者がいたことが知られる(延応元年十月

      二十八日付「安摩庄厳島社日御供米送文」厳島野坂文書)、文安二年(一

      四四五)尾張の野間庄(現愛知県知多郡美浜町南知多町)から野間氏が

      当地に入部するが、地元ではそれまで矢野氏という武士がいたと伝え、の

      ち没落して江田島(現安芸郡江田島町)に逃れたという。ちなみに江田島

      には矢之浦の地名が残る。野間氏は広島湾東岸域を治下に収め、矢野は野

      間氏領の中心地として商工業者・運輸業者の集住する初期城下町的様相を

      見せるようになる。野間隆実は弘治元年(一五五五)の厳島合戦を前に、

      陶氏方に属したため毛利氏に滅ぼされた。以後毛利氏は粟屋就信に「於野

      間領矢野弐拾貫文之地」を宛行ったのをはじめ(弘治二年九月二日付毛利

      隆元宛行状「閥閲録」所収粟屋弥二郎家文書)、矢野の地を家臣に給地と

      して分与した(『広島県の地名』平凡社)。

「幣次」─未詳。神職の臈次のようなものか。「臈」は、「年功による順序をいう。臈

     次といえば、①僧が出家授戒後、安居の功を積んだ年数による位次。安居と

     は四月十六日から三ヶ月、集団生活をし修学に専念すること。②物事の順

     序、次第」(『古文書古記録語辞典』)。今回の場合、「神職の序列にした

     がって」ぐらいの意味かもしれません。