解題
当社の社掌の香川氏は、同氏の系図によると鎌倉権大夫家正にはじまる。子経高は源義平の命によって相州高座郡香川庄に移ったことから香川氏を称したという。
その後、香川氏は尾張国内海庄の宇津海八幡宮に奉祀した。文安二年(一四四五)領主野間重能が安芸国矢野(広島市矢野町)発喜(ほぎ)城に移るが、野間興勝時代の文明二年(一四七〇)香川勝重も来住し、同八幡を矢野の尾崎へ移したものである。
一 野間興勝補任状
(香川)
當祝師役事、任二与一左衛門時旨一、彼助六申付也、固仰付等事者、可レ有二
別紙一候、此旨懇可レ被二申聞一候、仍爲二後日一状如レ件、
(1501)
明応十年〈辛酉〉卯月廿五日 興勝(花押)
祝師所へ
*割書は〈 〉で記載しました。
「書き下し文」
当祝師役の事、与一左衛門の時の旨に任せ、彼の助六に申し付くるなり、固く仰せ付くる等の事は、別紙に有るべく候ふ、此の旨懇ろに申し聞こえらるべく候ふ、仍て後日のため状件のごとし、
「解釈」
当祝師役のこと。与一左衛門のときの取り決めのとおりに、この香川助六に申し付けるのである。厳密に命じる内容は、別紙に記載してあるはずです。この内容は丁寧にお伝え申し上げられなければなりません。そこで、後日の証拠として、補任状は以上のとおりである。
「注釈」
「祝師」─「はふりし」。「祝(はふり)」のこと。神社に属して神に仕える職。ま
た、その人。しばしば神主・禰宜と混同され、三者の総称としても用いられ
るが、区別する場合は、神主の指揮を受け、禰宜よりもより直接に神事の執
行に当たる職をさすことが多い。その場合、神主よりは下位であるが、禰宜
との上下関係は一定しない(『日本国語大辞典』)。その一方で、「ものも
うし(物申)」と読んだ可能性もあります。意味は「祝詞などを奏するこ
と」(『日本国語大辞典』)です。
「尾崎八幡宮」─現安芸区矢野町八幡。矢野谷入口の西を扼する標高一〇メートル余り
の支丘上に鎮座。祭神は神功皇后・応神天皇・玉依姫・埴安姫。相殿
に国之常立神ほか六柱を祀る。旧郷社。元は南南西に稜線を上った標
高約五〇メートルの宮畝という所にあったが、不便なため慶長十九年
(一六一四)火災に遭ったのを機に現在地に移したという(芸藩通
志)。尾崎八幡宮ともいう。
文安二年(一四四五)尾張から野間氏が矢野に入部してくるが、文明
二年(一四七〇)三月十三日、野間興勝が尾張から勧請・造営したの
が当社と伝える(棟札)。天文十年(一五四一)十月三日の神田勝乗
寄進状(社蔵文書)に屋能(やの)八幡宮と記され、野間氏から岡入
(場所不明)と宮脇(現社地の南)の田地が寄進されたことが知られ
る。現社名は移転後の鎮座地の字名によるというが(芸藩通志)、現
在字尾崎は矢野川河口北部をさす。神社の東南にある字神田は社領の