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いつまで経っても修行中

仏通寺住持記 その15

 「仏通寺住持記」 その15

 

      (記)「再住歟」今之庫裡立四月廿五日開堂

 (1447)

 四 丁卯 一咲住○今年仏殿上棟       納所聖仙

〈九月廿八日輪」番以一回」期、数者十番也〉

      政所真田石見守桂叟宝昌於摂州有馬温泉逝去、十月十四日也、其嗣子

      兵庫助弘康相続移于其職矣、保家二十年

      (頭注)

      「文安丁卯四年初夏廿一日卯剋上棟也、

       大工藤原次郎五郎         」

 

   両寺住持并番衆次第

  天寧寺            仏通寺

  一番             一番

 住持契沢庵主         住持明三庵主

 番衆聖喜寺派         番衆正覚庵派

  二番             二番

 住持玄貴庵主         住持養浩和尚

 番衆祥雲寺派         番衆大慈寺

  三番             三番

 住持景延庵主         住持的当和尚〈諱」周禎〉

 番衆〈華蔵寺派」加密伝派〉  番衆建国寺派

  四番             四番

 (後筆)「元哉和尚之事」        (後筆)「千畝和尚之事」

 住持慈雲和尚         住持常喜和尚

 番衆〈自派加」権管派〉    番衆 自派

  五番             五番

                (後筆)「一笑和尚之事」

 住持俊育庵主         住持円福和尚

 番衆〈自派加」得月派〉    番衆 自派

  番衆終而復始

  仏通寺            天寧寺

  一番             一番

 住持自立庵主         住持安柏庵主

 番衆聖記寺派         番衆正覚庵派

  二番             二番

 (後筆)「智泉院」

 住持常誠庵主字至心       住持真康知客

 番衆祥雲寺派         番衆大慈寺

  三番             三番

 住持従潤庵主         住持祖傑庵主

 番衆〈華蔵寺」密伝派〉    番衆〈建国寺」加法雲派〉

  四番             四番

 住持定膳庵主         住持善勗庵主

 番衆〈慈雲派」加権官派〉   番衆常喜院派

  五番             五番

 住持聖宗庵主         住持自純庵主

 番衆〈得月庵派」加大通院派〉 番衆円福寺

 両寺此年以来住持并番衆以其缺典、故重加評議直弟老僧廿員名字

 任両寺十年住持之職、又挙諸老門葉十派両寺五年之番衆、五年終而復

 始之時、湏両寺番衆互換也、然則十年之間住持各一度番衆各両回也、住持交代

      (小早川氏)

 之時不檀那之命唯以当住状一通之、若有辞退則当番或倩余之

 直弟、或擢其派一老下レ主席空却也、番衆亦預報来番派下老僧

 一人以知其期至、若番衆不出則住持或自補或倩人相佐、若住持番衆共

 不出則、当住并当番衆湏其寺来年住持番衆、以眼同交代上レ期也、

 若無交代者縦雖住役一回堅守寺家退出而空却矣、若缺番之一派

 者不両寺并門中出入、直湏擯出絶映迹也、暫時会合尚不許、況

 同行同住乎、併可以所同罪者也、如此評議莫道欠博愛之慈只要老少同

 守此規式下二両寺退転矣、又両寺各依常住米銭収納僧衆数

 置年中之定案、更出余分修造之費、若依因水旱土貢減損、則縦

 止修造僧衆、若止修造尚不足則量其現納衆亦得矣、但

 願住持番衆彼此和合随順、以勤行専、且亦営修造、近来番衆或不

 定案規式、随意安衆、或減少至十人十五、而復不修造自招

 重罪慎乎、 然則若有番衆濫減衆者、住持宜算収納切加上二

 呵責、若否則者、住持亦不其責者也、又当寺僧堂衆内別有檀那

 捨六人分之田、且要此六人者湏常住普請等専以道行上レ本矣、然則

 維那侍聖侍真祠堂坊主其外老僧二人以定直堂僧堂、如上六員

 湏諸務以応上二檀那信心願力也、

     (1447)

     文安四年丁卯九月廿八日

         仏通寺住持比丘禅慶書之、

 右依如上之評定、現前老僧十五人押花字、以為後代不易之式焉、

    前住中端各有判      前住周竹

    当住禅慶           俊育

      真康           定善

      祖傑           聖宗

   大慈本詢        大慈慈曇

   祥雲派善徹        大慈全機

   祥雲派宗春        祥雲派祥沢

   祥雲派通三

 此外任住持之不前衆、題其名字使、乞花字以為後証矣、

     契沢各有判       符契

     周禎          明三

     幻観無判         玄貴

     景延         安柏

     常誠         従潤

     永忠無判         善勗

     自純        右之人数一笑和上真筆在于肯心院

     (頭注)

     「覚隠派下在六派

      祥雲派 在防州

      永源派 在同所

      大通派 在当国吉田

      曹源派 在当山

      瑞雲派 在当山

      即心派 在吉田  」

 

 五 戊辰 創開永徳年歟

 

 「書き下し文」

 四丁卯、 一咲住す(再住か)、今の庫裡立つ、四月二十五日開堂、

      今年仏殿上棟、納所聖仙、

〈九月二十八日、輪番は一回を以て期と為す、数は十番なり〉

      政所真田石見守桂叟宝昌、摂州有馬温泉に於いて逝去す、十月十四日なり、其の嗣子兵庫助弘康相続し其の職を移す、家を保つこと二十年。

 (頭注)「文安丁卯四年初夏二十一日卯の剋上棟なり、

      大工藤原次郎五郎」

 

   両寺住持并番衆次第

  (中略)

 両寺此(しきり)の年以来(より)の住持并びに番衆其の欠典有るを以て、故に重ねて評議を加へて、直弟老僧二十員の名字を題して、両寺十年住持の職に任ず、又諸老の門葉十派を挙げて、両寺五年の番衆に配す、五年終わりて復た始めの時は、須らく両寺の番衆互いに換へるべきなり、然らば則ち十年の間に住持は各々一度、番衆各々両回なり、住持交代の時は檀那の命を要せず、唯当住の状一通を以て之を請ず、若し辞退有らば則ち当番或いは余の直弟を倩ひ、或いは其の派の一老を擢でて、主席をして空却せしむること莫きなり、番衆も亦た預(あらかじ)め来番派下の老僧一人に報じて、以て其の期の至ることを知らしむ、若し番衆出でずんば、則ち住持或いは自らを補ひ、或いは人を倩(やと)ひて相佐けしめよ、若し住持・番衆共に出でずんば、則ち当住并びに当番衆須らく其の寺の来年の住持・番衆を請じて、眼同交代を以て期と為すべきなり、 若し交代無くんば、縦ひ住役一回すと雖も、堅く寺家を守りて退出して空却すること莫し、若し番を欠くの一派の者は、両寺并びに門中出入りを許すべからず、直に須らく擯出して映迹を絶たしむべきなり、暫時の会合尚ほ許さず、況んや同行(あん)同住せんをや、併せて以て同罪に所すべき者なり、此くのごとき評議博愛の慈を欠くと道ふこと莫かれ、只要ず老少同じく此の規式を守りて、両寺をして退転無からしめよ、又両寺各々常住米銭の収納によりて、僧衆の数を定めて年中の定案を置く、更に余分を出だして修造の費えに充つ、若し水旱によつて土貢減損せば、則ち縦ひ修造を止むとも僧衆を減ずべからず、若し修造を止めんに尚足らざらば、則ち其の現納を量りて衆を減らすも亦得たり。但し願はくは住持・番衆彼此和合随順して、勤行を以て専らと為し、且つ亦た修造を営まんことを、近来の番衆或いは定案の規式を用ひず随意に衆を安んじて、或いは減少し十人十五に至る、而るに復修造を営まず自ら重罪を招くこと、慎まざるべけんや、然れば則ち若し番衆有りて濫りに衆を減ずれば、住持宜しく収納を計算して切に呵責を加ふべし、若し否らずんば則ち、住持も亦た其の責めを免るべからざる者なり、又当寺僧堂衆の内別に檀那有りて六人分の田を捨す、且つ要ず此の六人は須らく常住の普請等を免じて、専ら道行を以て本と為すべし、然れば則ち維那と侍聖と侍真と祠堂坊主と其の外老僧二人を以て直堂に定めて僧堂を離るべからず、如上の六員須らく諸務を免じて以て檀那の信心の願力に応ずべきなり、

     文安四年丁卯九月廿八日

         仏通寺住持比丘禅慶之を書く、

 右、如上の評定によりて、現前の老僧十五人花字を押(あつ)めて、以て後代不易の式と為す、

   (中略)

 此の外住持に任ずる現前せざる衆、其の名字を題して、使ひを遣はして花字を乞ひて、以て後証と為す、

 

 五戊辰、創開永徳年か、

 

 

 「解釈」

 文安四年(1447)丁卯、 一笑禅慶が住持を勤める。二度目の就任か。現在の庫裡を建立した。四月二十五日開堂。

      今年仏殿の上棟が行なわれた。納所聖仙。

〈九月二十八日、住持の輪番は一回を限度とする。番数は十番である。〉

 小早川家政所、真田石見守桂叟宝昌が、摂津国有馬温泉で亡くなった。十月十四日のことである。その跡継ぎである兵庫助弘康が相続し、政所職を移した。家を保つこと二十年。

 (頭注)「文安丁卯四年四月二十一日卯の剋、上棟が行なわれた。大工藤原次郎五郎。」

 

   両寺住持并番衆次第

  (中略)

 天寧寺・仏通寺はここ数年以降、住持と番衆についての規則が不完全であるため、重ねて評議を行ない、直弟の老僧二十人の名前を書き、両寺それぞれ十年間(一人一年?)の住職に任命する。また老僧たちの流派十派を示し、両寺に五年間の番衆を配置する。五年間の当番が終わって再び始めるときは、必ず両寺の番衆を互いに入れ替えるべきである。だから、十年のうちに、住持はそれぞれ一度、番衆はそれぞれ二回担当するのである。住持交代のときは、檀那(小早川氏)の任命を必要としない。ただその時の住持の書状一通だけを用いて、次の住持を招請する。もし辞退することがあれば、当番の住持は他の直弟を雇い、あるいはその流派の最長老を抜擢し、主席である住持を空席にしてはならないのである。番衆もまたあらかじめ、次の番を勤める流派の老僧一人に連絡して、当番の時期が来ることを知らせなさい。もし次の番衆が出てこなければ(辞退すれば)、住持が自ら番衆を補任し、あるいは人を雇って、互いに助け合いなさい。もし次の住持・番衆がともに出てこなければ(辞退すれば)、現在の住持と番衆がその寺の来年の住持・番衆を招請する必要がある。眼同交代によって期日とするのである。もし交代する者がいなければ、たとえ住持職を一度行なっていたとしても、しっかりと寺家を守り、寺を退いて住持を空席にしてはならない。もしも番を勤めない一派の者は、両寺並びに門派への出入りを許してならない。直ちに追放して、その痕跡をも消してしまわなければならない。しばらくの間は、会うことさえも許さない。ましてや、同行・同住はなおさら許してはならない。このような議決は、博愛の情を欠くと言ってはならない。ただ必ず、老いも若きも皆に、同じようにこの規則を守り、両寺を衰退させないようにしなさい。また、両寺はそれぞれ通常の米銭収納額によって、僧衆の員数を決め、年中行事を定めなさい。さらに余分の収納を出して、堂舎の修理・造営の費用に当てなさい。もし洪水や旱魃によって年貢が減少するならば、たとえ修理・造営を止めても、僧衆を減らしてはならない。もし修造を止めてもさらに僧衆を養う費用が足りなければ、米銭の現納量を計量し、僧衆を減らすのもまた致し方ない。ただし、住持・番衆は、どうかあれやこれやと和合随順して勤行に専念し、さらにまた修理・造営に励んでください。最近の番衆は、一方では定まった規則を用いず、思いのままに振る舞って番衆の勤めをあなどり、一方ではその数を減らして十人十五になる。しかし、修理・造営に励まず、自ら重罪を招くことは慎まなければならない。だから、もし番衆がむやみに人員を減らすならば、住持は収納を計算し、人員を減らした番衆をひたすら厳しく責め立てるのがよい。もしそうしないのであれば、住持もまたその責めを免れることはできないものである。また、当寺の僧堂衆のうち六人分を養う田を、特別に檀那が喜捨した。したがって、この六人は通常の普請等を免除し、もっぱら仏道修行に専心するべきである。したがって、維那と侍聖と侍真と祠堂坊主と、その他の老僧二人を直堂に定め、僧堂を離れてはならない。上述の六人は必ず雑務を免除し、檀那たちの信心の願力に応えなければならないのである。

   (中略)

 右、上述の評定により、目の前にいる老僧十五人の花押を集め、これをもって後世不変の規則とする。

   (中略)

 この他、住持に任命される僧侶で、目の前にいない衆は、その名字を書き記し、使者を遣わして花押を書くように依頼し、それによって後々の証拠とする。

 

 文安五年(1448)戊辰、創開永徳年か。

 

 

 「注釈」

「眼同交代」─未詳。

「至十人十五」─未詳。

「侍真」─住持の世話係か。

 

*この記事に引用された文書は、『仏通寺文書』19号を参照。

 

 

 つづく