「仏通寺住持記」 その17
(1460)
寛正庚辰 十二月廿一日改 昔楼鐘鋳レ之七月廿九日
十月廿日一咲和尚示寂歳七十八
自秋的当住 〈納所」長松派〉智源
二 辛巳
三 壬午 (記)「永徳派番」 (記)「納所聖珉」
四 癸未 幻観庵主住 〈直弟、祥雲派番 納所祥沢
於二当寺一入滅〉
〈覚隠嗣」孫弟子初住〉 心翁宝順禅師 含暉祥瑞 維那妙寿
御許山仏通禅寺評定衆御人数之事
当住持 納所 維那
含暉院主 肯心院主 智泉院主
長松院手 長悳院主
一 当住持番衆諸塔主、堅可レ被レ相二守先師之規式一事
一 諸派出番納所等、不レ可レ被レ任二不器之人一事
一 当納所一回之間寺家細大雑務件々、可レ被レ請二衆評一事
一 年々随二土貢豊倹一、衆僧多寡之事
一 常住置銭、番々不レ被レ失事
一 伐二寺中植木一失二山門境致一事
一 於二山林材木以下一山外不二切出一事
一 本寺并諸塔頭、若於二一院一有二非例之儀一者、評定衆可レ被レ董之事
右以二此規式一末代寺家可レ然之様可レ有二評議一之状、如レ件、
寛正四年癸未十月廿九日 備後前司 煕平有判
含暉祥瑞 維那妙寿
納所祥沢 永徳徳林
智泉祖心 肯心宗春
当住幻観 長松智厳
五 甲申 慈雲派
実中妙秀禅師 元哉嗣 元哉和尚入滅、三月六日
六 乙酉 正覚派
(記)「一百五代後土御門院」 叔源永本禅師 諾渓嗣拝塔
「書き下し文」
寛正庚辰、十二月二十一日改む、昔の楼鐘之を鋳る、七月廿九日、
十月二十日、一咲和尚示寂、歳七十八、
秋より的当住す、納所長松派智源、
二辛巳、
三壬午、(記)「永徳派番」、 (記)「納所聖珉」、
四癸未、幻観庵主住す、〈直弟、祥雲派番、当寺に於いて入滅す、納所祥沢 〈覚隠を嗣ぐ、孫弟子初めて住す〉、心翁宝順禅師、 含暉祥瑞、維那妙寿、
御許山仏通禅寺評定衆御人数の事
(中略)
一つ、当住持・番衆・諸塔主、堅く先師の規式を相守らるべき事、
一つ、諸派の出番・納所等、不器の人に任ぜらるべからざる事、
一つ、当納所一回の間寺家細大の雑務の件々、衆評を請けらるべき事、
一つ、年々土貢の豊倹に随ひて、衆僧多寡の事、
一つ、常住の置銭、番々失はれざる事、
一つ、寺中の植木を伐りて山門の境致を失ふ事、
一つ、山林の材木以下に於いて山外へ切り出ださざる事、
一つ、本寺并びに諸塔頭、若し一院に於いて非例の儀有らば、評定衆董さるべきの事、
右此の規式を以て末代寺家然るべきの様評議有るべきの状、件のごとし、
(中略)
五甲申、慈雲派、実中妙秀禅師、元哉を嗣ぐ、元哉和尚入滅す、三月六日、
六乙酉、正覚派、(記)「一百五代後土御門院」、叔源永本禅師、諾渓を嗣ぎを拝塔す、
「解釈」
寛正元年(1460)庚辰、十二月二十一日改元。昔の楼鐘を鋳造する。七月廿九日。十月二十日、一咲和尚が亡くなった。歳は七十八。秋から的当周禎が住持を勤める。納所は長松派智源。
二年辛巳。
三年壬午。(記)永徳派が番衆を勤める。(記)納所は聖珉。
四年癸未。幻観庵主が住持を勤める。愚中周及の直弟。祥雲派が番衆を勤める。幻観庵主は当寺で亡くなった。納所は祥沢。心翁宝順禅師、〈覚隠を嗣いだ。愚中周及の孫弟子が初めて住持を勤めた〉。含暉院院主は祥瑞。維那は妙寿。
御許山仏通禅寺評定衆御人数の事
(中略)
一つ、現住職・番衆・諸塔主は、厳密に先師の定めた規則を互いに守らならなければならないこと。
一つ、諸派から人員を出す番衆・納所等の役職は、資質・才能のない人間に任せてはならないこと。
一つ、現納所の一度目の任期中は、寺院のあらゆる雑務は評定衆の評議を受けなければならないこと。
一つ、年ごとの年貢の豊凶にしたがって衆僧の数を増減すること。
一つ、寺の共有物としている請負銭については、各番衆が使い尽くさないこと。
一つ、寺中の植木を伐採して、境内の景観を損なわないこと。
一つ、山林の材木などを伐採して、境外に持ち出さないこと。
一つ、本寺ならびに諸塔頭において、もし一つの塔頭でも前例にない勝手な振る舞いがあれば、評定衆がその行為を正さなければならないこと。
右、この規則によって、将来まで寺院が適切であるように評議するべきである。
(中略)
五年甲申。慈雲派が番衆を勤める。元哉の跡を嗣いだ実中妙秀禅師が住持を勤める。元哉和尚が亡くなった。三月六日。
六年乙酉。正覚派が番衆を勤める。(記)百五代後土御門院。叔源永本禅師が諾渓を嗣ぎ、塔を拝んだ。
「注釈」
*この記事に引用された文書は、『仏通寺文書』23号を参照。
つづく