「仏通寺住持記」 その11
四月廿七日改元
(1428)
正長戊申 十月四日昔山門始レ杣、構レ閣欲レ安二置十六羅漢木像一、未レ終レ功而
炎上、故一尊残在二含暉客殿壇上一
(記)「一百四代後花園院」覚隠和尚住 番衆惟超
九月五日改
(1429)
永享己酉
二月七日午時、昔山門立柱
二 庚戌 今年含暉祠堂観音安置
三 辛亥 宗綱和尚住
四 壬子 向上寺塔本尊開光安座并上棟六月三日、導師一笑、十月初九日同
塔供養、導師宗綱和尚
〈千畝住二丹金一 一咲和尚住 聖僧龕并椅子造立、祥雲寺納所祥澤
向上住持華林〉 派而直焉、納所祥澤、享徳
四歳乙亥六月十三日造畢、
大工藤原宮内右衛門尉
五 癸丑 正月廿六日大言逝焉、齢六十一、治世三十二年、此代真田長門守任二于
政所一、三度十五年云々、時代未レ審、法字月渓、諱則通、
年中帳天心建二当寺一未レ幾而逝、嗣二其家一興二造当寺一実大言之功也、
「書き下し文」
四月二十七日改元、
正長戊申、十月四日、昔の山門杣を始む、閣を構へ十六羅漢の木像を安置せんと欲す、未だ功を終えずして炎上す、故に一尊残りて含暉客殿の壇上に在り、
(記)「一百四代後花園院」覚隠和尚住す、番衆惟超、
九月五日改む
永享己酉、
二月七日午の時、昔の山門立柱す
二庚戌、今年含暉祠堂に観音安置す、
三辛亥、宗綱和尚住す
四壬子、向上寺の塔本尊、開光・安座并びに上棟六月三日、導師一笑、十月初九日同塔を供養す、導師宗綱和尚
千畝丹金に住す、向上住持華林、一咲和尚住す
聖僧龕并びに椅子造立す、祥雲寺納所祥澤派にて直す、納所祥澤、享徳四歳乙亥六月十三日造り畢んぬ、大工藤原宮内右衛門尉
五癸丑、正月二十六日大言逝く、齢六十一、治世三十二年、此の代真田長門守を政所に任ず、三度に十五年と云々、時代未だ審らかならず、法字(な)は月渓、諱則通、
年中帳に天心当寺を建て未だ幾ばくならずして逝す、其の家を嗣ぎて当寺を興造す、実に大言の功なり、
「解釈」
四月二十七日改元。
正長元年(1428)戊申、十月四日、昔の山門用の材木伐採が始まった。仏殿を造立して十六羅漢の木像を安置しようとした。まだ完成しないうちに炎上した。だから一尊だけ残り、含暉院客殿の壇上にある。
(記)一百四代後花園院のとき、覚隠和尚が住持を勤めた。番衆惟超。
九月五日改元。
永享元年(1429)己酉、二月七日午の時、昔の山門の立柱を行なった。
二年庚戌。今年含暉院の祠堂に観音安置した。
三年辛亥。宗綱和尚が住持を勤める。
四年壬子。向上寺の塔本尊の開眼・安座ならびに上棟が六月三日に行なわれた。導師は一笑禅慶。十月初九日同塔を供養した。導師宗綱和尚。
千畝が丹波国天寧寺の住持を勤める。向上寺の住持は華林。一咲和尚が仏通寺の住持を勤める。
聖僧の厨子や椅子を造立した。祥雲寺納所祥澤派が担当として直した。納所祥澤が享徳四歳(1455)乙亥六月十三日に造りおわった。大工は藤原宮内右衛門尉。
五年癸丑。正月二十六日小早川則平が逝去した。年は六十一、治世三十二年。この代は真田長門守を政所に任命した。三度十五年という。年代はまだはっきりしない。法名は月渓、諱は則通。
年譜によると、先代の小早川春平が当寺を建て、ほどなく逝去した。その跡を継いで当寺の造営を続けた。まことに、春平の功績である。
「注釈」
「大言」
─小早川則平。肯心院大言常建。http://hongoukankoukyoukai.com/img/file12.pdf。
「天心」
─小早川春平。仏通寺天心宗順。http://hongoukankoukyoukai.com/img/file12.pdf。
「年中帳」─仏通寺に伝来した年譜のようなものか。
「真田則通」─『仏通寺正法院文書』1号参照。
つづく