周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

仏通寺住持記 その10

 「仏通寺住持記」 その10

 

 (1425)

 卅二乙巳 諾渓和尚住 〈番衆幻観等、八月昔方丈立

             千畝自立同勘〉

 卅三丙午 三月六日昔東司立、十月十五日昔庫院始杣

 卅四丁未 心源和尚住       八月昔庫裡開堂

       宗綱録、心源和上有退仏通首席、故記于此

 

    禁制

 仏通・天寧并諸末寺之住持、不叢林出頭之輩、若有違犯者、門中

 同心永可罰擯者也、

  (1427)

  応永三十四年正月日

               安心

               玄胤字覚伝

               真知〈字覚隠、耆旧侍者」飛州人〉

               清唯〈南禅侍者」字諾渓〉

 

 当寺入牌之本銭四十貫文之外、若有入牌銭重出現者、宜彼本銭番々

 度上レ之、雖然或換殿堂之上葺、或企新造之大事之時、住持番衆相共評議

 而取彼本銭之外所加之余分以可之、然後以某人入牌銭某殿堂修造

 用之、 之言宜于入牌帳以貽功於不朽矣、或復称小破之修理

 号斎供之闕乏、以至歳節祖忌之費煩塩醤油麻之不足等一々不之、

 何況於余瑣細之事乎、故以衆評議永為当寺不易之規式、若有違犯者

 宜擯罸者也、

       (三十四年)

  衆悉 応永〈丁未〉八月廿五日       安心

                       玄胤

                       真知

                       清唯

 

 「書き下し文」

 三十二乙巳、諾渓和尚住す、番衆幻観ら、八月に昔の方丈立つ、千畝自ら立て同じく勘ふ、

 三十三丙午、三月六日昔の東司立つ、十月十五日昔の庫院の杣を始む、

 三十四丁未、心源和尚住す、八月昔の庫裡開堂す、宗綱録に、心源和上仏通首席を退くの語有り、故に此に記す、

 

 仏通・天寧并びに諸末寺の住持、叢林出頭の輩を請ずべからず、若し違犯する有らば、門中同心に永く罰擯すべき者なり、

 (後略)

 

 当寺入牌の本銭四十貫文の外、若し入牌銭重ねて出で現るること有らば、宜しく彼の本銭に加へて番々之を渡すべし、然りと雖も或いは殿堂の上葺を換へ、或いは新造の大事を企てしの時は、住持・番衆相共に評議して彼の本銭の外加ふる所の余分を取りて以て之を用ふべし、然して後某(なにがし)人の入牌銭を以て、某(そこ)の殿堂の修造に之を用ふる、之の言は宜しく入牌帳に載せて以て功有ることを不朽に貽すべし、或いは復た小破の修理と称し、斎供の闕乏と号し、以て歳節・祖忌の費煩、塩・醤油・麻の不足等に至るまで一々に之を用ふることを許さず、何に況んや余の瑣細の事に於いてをや、故に衆の評議を以て、永く当寺不易の規式と為す、若し違犯の者有らば宜しく擯罸を加ふべき者なり、

 (後略)

 

 「解釈」

 三十二年(1425年)乙巳。諾渓和尚が住持を勤める。番衆は幻観らであった。八月に昔の方丈が建立された。千畝周竹が自ら設計して建立した。

 三十三年丙午。三月六日に昔の東司が建立された。十月十五日に昔の庫院用の材木伐採が始まった。

 三十四年丁未。心源和尚が住持を勤める。八月に昔の庫裡で開堂した。宗綱の記録に、心源和上が仏通寺の首席を退いたという記載があった。だから、ここに記した。

 

 仏通寺・天寧寺ならびに諸末寺の住持は、五山派寺院の出身者を招請してはならない。もし違反することがあれば、われら愚中門派は団結し、永久に違反者を罰して追い出さなければならないものである。

 (後略)

 

 当寺入牌の本銭四十貫文以外に、もし入牌料が重ねて納められることがあれば、この本銭に加えて各番にそれを渡すのがよい。そうではあるが、殿堂の屋根を葺き替えたり、あるいは新築の大事業を計画したりしたときには、住持と番衆がともに評議して、この本銭のほかに加えられた余分の銭も取り、それを使用するべきである。その後、誰かの入牌料をもって、どこそこの殿堂の修理・造営に用いる、という言葉を入牌帳に載せ、修造の功績があることを永久に残すのがよい。一方ではまた、ちょっとした破損の修理と称したり、斎食が欠乏したと主張したりして、歳末や節日、祖師の忌日の出費、塩・醤油・麻の不足などに至るまで、一々これを用いることを許してはならない。ましてその他の些細なことについては、なおさら用いることを許してはならない。したがって、評定衆の評議により、永久に当寺不変の規則とする。もし違犯する者がいれば、追放して罰するのがよいのである。

 (後略)

 

 「注釈」

「千畝周竹」

 ─千畝周竹は、京都の近衛家に生まれ、安芸国(現在の広島県)の三原にある仏通寺の開山愚中周及のもとで臨済宗を学んだ。当時、井原の善福寺に在住していた足利義将が彼の徳を慕い、自ら重玄寺の開基となり周竹を招いて重玄寺の開山としたとあるが、重玄寺はそのころすでに存在しており、嘉吉の乱で亡くなった義将を弔うために周竹を招いて重玄寺を改めて開山した可能性もある。画聖雪舟は、この周竹と親交があり、その縁がもとで重玄寺を訪れたとされ、雪舟終焉の地の候補のひとつとなっている。周竹は近衛家出身ということで、重玄寺には近衛家ゆかりの資料が多く残されている(「いばら歴史館」条件検索http://mahoroba.city.ibara.okayama.jp/search_b.php、「井原歴史人物伝」平成24年度放映http://mahoroba.city.ibara.okayama.jp/movie_list.php参照)。

 

*三十四年の記事に引用された文書は『仏通寺文書』13・14号を参照。

 

  つづく