周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

井原著書3

 井原今朝男『中世の国家と天皇儀礼校倉書房、2012

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第2章 劇場国家論批判と日本中世史研究の現代的課題

 

P56

 言い換えれば、現代社会をどう認識するか、という問題が歴史学研究の課題設定と密接不可分な関係になります。それなしには先端的な歴史研究は確立し得ない、といえます。

 通常の歴史学の分析論文では、こうした話は研究の背後に隠されているもので、むしろ研究の原動力に当たります。

 

P57

 歴史学という学問にとって重要なものは分析方法と資料であり、特に言説化・文字化された資料が基本であります。そこには必ず意図的な粉飾の色眼鏡を通してみた史実が反映されている。その意図的な粉飾、色眼鏡というものを批判的に検討して可能な限り除去する。これを史料批判学と私は呼んでいます。史料批判学が歴史学では非常に重要で基盤的な要素になってきています。人類学や社会学などとの大きな方法論的違いはこの点にあるといえます。それを基盤に、過去の史実を事実として掘り起こすための論理と推論が必要不可欠になる学問、それが歴史学であります。したがって、史料批判と論理的な推論の手続きというものを、自分だけではなくて他の人にも追体験できる。それが歴史学の実証性、科学性ということになるわけです。

 過去というものは、死人が生き返らないように絶対動かない事実です。絶対不変の事実を掘り起こして、それが起きた歴史的必然性というものを現代人が分析・認識して、その中からより民主的且つ平和に生きていくすべを引き出し、未来を切り開いていく。現代人がより人間的な対応策を選択する知恵を獲得することが歴史学の課題になるわけです。私たち現代人が歴史学を学び歴史を認識するということは、そうした現代的な課題とセットにならざるをえない。歴史学は社会がもっている現代的諸課題と斬り結ばざるをえないという構造的な性格をもっていると思います。

 

P58

 だから中世を知ること、中世社会を認識することによって、現代社会の時代的な閉塞というものを相対化する、批判することができる、そこから新しい未来の方向性を探ることができるのだ、と考えます。(中略)

 中世の国家儀礼や債務慣行を考察することで、近代とは異質な中世特有の知の体系というか、中世人特有の時代的社会思潮というか、ものの考え方、社会思想というものがわかってきます。そうした儀礼や債務慣行などからわかる中世の知が近代社会や現代人のものの考え方・社会思想というものを相対化する、批判的に考察することができるという問題です。

 債務という問題は借りたものを返す、という信用の問題です。私たち現代人はみな、お金や物を借りたら絶対に利子をつけて返さなければならない、それが常識だというふうに考えて、苦しんでいます。多重債務問題も、不良債権問題も自殺者3万人時代という問題もそうです。グローバル立地やミドルクラスの階層とはまったく別の第三の社会階層は、政府が保障している生活保護家庭の生活水準よりも所得が低い低所得者層をいいます。ワーキング・プアーと呼ばれる階層については統計すらないのですが、NHKは2006年7月の番組で約400万人と報道していました。

 →自殺に追い込む社会通念とは、どんなものか? なぜ、死を選ぶのか?

 

P59

 「社会意識論」とは何か言いますと、ある時代、ある社会がもっている慣習、あるいは規範、あるいは社会常識、社会通念のことです。ある時代・社会には、その時代特有の価値観とか、行動様式・社会通念というものが存在し、そこに共通する時代思潮あるいは社会思潮、そういうものが存在している。現代では現代人としてみんなが暗黙のうちに了解してしまう、共通した社会意識が存在する。そうした価値観というのは時代によって違う。それがなぜ形成されて、どう変化していくのか、というのを考え研究しようとするのが「社会意識論」なのです。

 

P60

 それで私は大塚(久雄)さんのいう人間類型を「日本国民」というのではなく、その中の階層性を踏まえた「社会意識論」として検討してみたい、というふうに考えているのです。ある時代・社会階層によってものの考え方や常識というものは微妙に違うのではないか、それに応じて一般的な社会常識の未来も変化していくのではないかということについて検討したいと思います。(中略)

 私たちは自分が生活している時代を簡単に認識できるかのように思うのですが、自己認識が意外に難しい。(中略)

 (ジュレミー・シーブルック『階級社会』2004年)それによると、第一の特徴は、現代社会では工業化社会の世界支配が成立し、市場原理の経済を中心に政治、文化、社会が世界的に統合されている、というふうにみんなが考えるようになったというのです。そこでは、豊かなものが先に富を生産していけば、あとから貧困を撲滅することができるという社会的錯覚、考え方が一般化している。アメリカや先進国が豊かになればなるほど、遅れた国も貧困を克服できるのだ、こういう考え方が浸透していく。国連や世界銀行およびIMFが「2015年までに貧困生活者を半減させる」という目標を立てて公言しているのは、こうした価値観によるというのです。

 二つ目の特徴が、一番大切なことは公平な競争条件を確保して機会の平等による自由競争社会を営むことであるという考え方が一般化している。機会が平等で、チャンスは皆に与えられているのだから、結果的に勝ち組と負け組が出るのは当然で仕方がないことなのだ、という考え方・価値観が広がっている。これを新自由主義能力主義による自由競争の市場原理だといいます。

 三つ目の特徴は、ひとりひとりのアイデンティティーが重視されて、消費文化によるアイデンティティーの獲得が社会の目標とされる時代だという意識をあげています。アイデンティティーの政治が階級にとってかわり、階級意識というものがかつてのように重要性をもたなくなっている。一般庶民の個人が、音楽、ファッション、映画だとかスポーツ、あるいは広告、マスコミ業界、投資などを通して非常なお金持ち、グローバルリッチに上昇しえる、アメリカンドリームが現実化する現象が一般化しているように宣伝され、社会常識化しているといいます。

 以上三つの特徴を挙げ、シーブルックは、これらの特徴は社会的錯覚であり、実際にはグローバルリッチの特権は、閉鎖性が強く、先進国の国民は全体がミドルクラス化し、階級が消滅し、不平等格差が世界的に拡大し、新しい貧困と階層構造が再編成されている。貧困国には、貧困生活者が集中して世界から見えないように隔離されていると注意を喚起し、「より幅広い人間解放の必要性が問題提起されいてる」と結んでいます。

 

P62

 (小泉劇場の)特徴の第一は、1990年代の「失われた10年」、不良債権が克服できないという問題があって、不良債権処理を小泉内閣が強行突破してデフレ脱出を図ること、それが大きな国民的な課題だとしてみんなが社会意識としてもった、もたされたと言えると思います。(中略)与党も野党もデフレ脱出・規制緩和行政改革を国民的課題だという。改革には痛みをともなう。むカル企業が先にいってどんどん儲かれば景気が良くなるのだから雇用も増えて堂々運動の利益にもつながる。こういう論理が社会意識になった。したがって、労働運動・階級運動や学生運動、政治闘争というものがほとんどなくなった。60年70年安保闘争沖縄返還運動・公害反対運動などの社会運動が90年代以降は見られなくなった。これが現代日本の第一の特徴だと思うのです。

 第二の特徴が、都市を中心としたミドルクラスを観客にした政治の劇場化・イベント化が進んだ。(中略)政府や地方自治体の膨大な財政赤字の下では、生活保護社会保障・障害者保険・老人・子どもの人権保護など日本国憲法の保障した社会権の削減はやむを得ないという社会意識が強まった。これが二番目の特徴です。

 三つ目が、自由貿易、消費文化、規制緩和による民間活力の導入による競争の個人文化です。(中略)貧しい庶民でも個人的努力でグローバルリッチになりうるのだという考え方が社会常識になっています。オリンピック選手や歌手やサッカー選手を初めとして、一個人がグローバルリッチになりうるのだという夢が宣伝される。こうして都市社会においては清貧だとか質素、知足の文化が消滅しつつある。

 これら三つの要素をもつ現代日本中産階級によるものの考え方が世論調査とつうじて現代政治をリードし、マスメディアを介してこの時代特有の社会意識が形成されている、これをグローバル文化論と言えるのではないかと思うのです。それが2001年〜06年をピークとした小泉劇場の本質だと思います。

 

P65

 2005年、国の債務は781兆円を超え、自治体も含めれば1千兆円を突破したと報道されています。世界の貧困国の債務危機はさらに深刻化しています。自殺者を生み出す温床となっている多重債務者の問題は社会問題となっています。自己破産者が激増し、その予備軍は100万人とも200万人とも言われ、利息制限法が決める金利20%と犯罪として刑罰の対象となる金利29%の間のグレーゾーン金利を使わざるを得ない人たちが約2000万人いる、と報道されています。

 結局、こうした社会矛盾がありながらも、一般市民の社会意識の中には登らずに、小さな国家づくりによる社会構造の改革が推進されています。小泉劇場の主人公、政府や民間が主催するイベントに参加する都会のミドルクラスが世論調査を介して現代日本の社会意識や常識をリードしていると言えると思います。それゆえ、儀礼とファッション、ブランド志向が強く、中産階級意識が肥大化していく。貧困や社会矛盾というものが、都市のミドルクラスの中には見えない仕組みになっている。こうした状況が現代社会意識の特質といえるのではないかと私は考えています。

 →マジョリティーには、マイノリティーの困難が見えにくい。マジョリティーはマジョリティーどうし、マイノリティーはマイノリティーどうしでつるむ。大卒は大卒でつるむから、高卒の状況がわからない。マジョリティーから脱落してマイノリティーとなった人は、マジョリティーとつるまなくなるから、マジョリティーを維持している人は、マイノリティーに陥った人のことがわからなくなり、気にもしなくなる。マイノリティーのことを気にしているマジョリティーは、一部の学者や政治家、公務員や福祉関係者、NGONPO職員ぐらいか。いわゆるサラリーマン層は、マイノリティーの存在を知識としては知っていても、身につまされるように感じている人はいない。マジョリティーはマジョリティーどうし、SNSで相互に繋がり、マイノリティーもマイノリティーどうし、SNSで相互に繋がる。マジョリティーに余裕があれば、マイノリティーを助けることもあろうが、余裕がないので、両者の分断に拍車がかかる。そんなところか。

 

P67

 (バブル以降)こういう中で、人文社会科学分野で、学問的な動向だけではなく、出版、情報分野と結びついて大きな動きが起きた。それが、アメリ文化人類学とサプライ─サイド経済学の台頭です。

 第一に重要な問題が、ギアツというアメリカの人類学者による劇場国家論の登場です。クリフォード・ギアツが書きました『ヌガラ』という著作が1980年に刊行され、日本でみすず書房から翻訳出版されたのは90年です。世界的に大きな影響与えた本で、一時期「ヌガラ」が流行語になりました。(中略)

 劇場国家論は、学問分野での影響だけにとどまらず、現実政治の中にも活用されるようになったことが大きな特質だと私は考えています。現代政治の手法として、サッチャー首相のエージェンシー化による小さい国家、民間活力の導入原理が、アメリカ・日本でも国策となるにつれて、劇場国家論の手法が活用され、それが大衆操作やマスコミ操作と結びつき、家弁と興行で新しい仕事や利益を生み出していったのです。

 歴史学の分野では、劇場国家論の影響とともにそれを批判する研究が登場します。天皇代替わり儀礼が行われたことと関連して、儀礼研究が活性化しました。

 

P72

 (中世社会史論の特徴の)第一は、網野説では、日本の中世社会は百姓と職能民が主人公の社会である、ととらえる特徴があります。(中略)

 つまり、網野さんが批判の対象とした学説は領主制論でした。(中略)

 第二には、物と物の交換とか出挙、税などを贈与論あるいは互酬論の立場から取り上げ、神物を貸し付ける行為が金融になると主張します。(中略)

 三つ目の特徴は、中世には貨幣信用経済というものが本格的に進展して、新しい商工業者や金融業者、運輸業者、倉庫業者たちが、広範に出現してくる。(中略)

 これを戦術のグローバル文化論や劇場国家論とリンクさせてみると、おもしろい現象が見えます。第一のポイントは、中世の百姓・職人ら平民重視の歴史像は、貴族や武士と並ぶ第三のミドルクラスを中心に置いた中産階級社会論だと言えます。グローバル文化論では、ミドルクラスが社会構成の中でいちばん重要なのだという価値観ですので、両者は共通しています。

 中産階級の独自性や自律性と責任を強調し、社会のオピニオンリーダーとしての社会意識と自信をもたせる論調が支配しています。網野さんの中世平民論は、日本の中産階級の自意識をくすぐるものとして待望され、受容された。それが網野ブームという社会現象であったと私は考えています。

 第二のポイントは、13・14世紀は文明史的な転換期で、中世は資本主義の源流であるという主張です。これは市場での自由競争原理不変論です。現代社会の市場競争原理は現代世界を統合する不変の原理だというグローバル文化論の骨格と見事に一致します。現代の市場原理謳歌の文化論と網野さんの中世資本主義源流論は一卵性双生児の関係にあると言えます。

 →談合という経済システムは昔からある。本当に中世を資本主義の源流とみなしてよいのか?

 

 第三のポイントは、百姓や職能民は儀礼や神仏を通じて天皇権力・中世国家の社会基盤になっていたという主張で、芸能や儀礼・祭礼を重視します。これも劇場国家論の適用として整合性をもっています。中産階級が現代国家の社会基盤であり、世論調査を通じて輿論やマスコミを動かし、ファッションや流行をリードするという文化論と対応していることがわかります。

 

P75

 (網野史学は)日本人が60〜80年頃までもっていた日本国・日本人を前提とした歴史認識の常識を根底から批判・転換させようとする側面を濃厚にもっていました。言い換えれば、網野史学は社会批判力としてのキバをたくさんもっていました。しかし、網野史学が批判した「古い」日本の歴史像や日本人の歴史意識論は、70・80年代までのもので、90〜2000年代にもはや時代おくれになっていたのではないでしょうか。言い換えれば、90年代サッチャーイズムの導入やグローバル文化論の中で、都市のミドルクラスを中心とした現代社会意識論が生まれたことによって、日本社会がこの時期大きく変質したことガレの目にも見えるようになった。それによって、網野史学がもっていた社会的批判力の位置づけが変わってしまった。日本社会が変わったことで、網野史学がもっていた70・80年代社会論に対するキバが抜き取られ、グローバル文化論や劇場国家論に整合的な部分だけがマスコミ・出版読書界によって利用されたのではない、と思うのです。

 →網野史学はキバではなく、90年代以降のサポート論になってしまった。

 

P76

 ギアツの『ヌガラ』に代表される劇場国家論の特徴は、王宮、貴族、つまりグローバルリッチ・特権階級の演劇性、儀礼という問題は、即民間に直結するというふうに理解するわけですが、日本やアメリカ、フランス、イギリスのような近代国家では、マスメディアによる大衆操作を介さないことには民間を動員することができない、ということを忘れていると思います。ギアツが分析した19世紀のバリ島世界にはマスコミはなかったし、必要ありませんでした。19世紀のバリ島の宮廷儀礼、劇場国家論というものは、人類史の中では部族国家の段階に入らざるを得ません。その分析論は中央集権的、官僚制的な近代国家や現代国家の類型にはそのまま適用できないものだと私は考えます。近代。現代国家の特有の時代的特質、これを分析しないと劇場国家論の落とし穴に陥るのではないかと思います。もともと文化人類学の分析概念は、人類学のフィールドワークから抽象的に定義されるもので、その歴史的性格が捨象されています。ここに歴史学の独自性・有効性があるのだ、と私は考えています。

 →マスメディアの功罪を考える必要がある。たとえば、トランプ批判とトランプ支持のニュースを、メディアが垂れ流し続けることで、国家意識や国民意識が醸成される。近代国家のメディアに当たるものが前近代国家にはない場合、何がその役割を果たしていたのか、その役割を果たす必要はなかったのか。文学作品・学問がメディアの役割を果たしたのではないか。

 

P84

 支配層の仁王会は天皇や百姓の安穏が目的であるが、民間の仁王会は家事防止や虫祓いという現世利益を目的に営んでおり、同じ行事でも目的に微妙なズレがあるのです。

 

P85

 実際の儀礼がもつ社会的意味には多様性があった、ということになります。これを私は「儀礼の多様性」と呼んでいます。他方で、全体として仁王会という儀礼をつうじて社会意識の共通化が進み、同じ価値観や考え方が徐々に広がりを見せるようにある。これを儀礼の民衆統合機能・文化的な統合機能と名づけたわけです

 国家儀礼と民間儀礼によって、民衆の側から見れば、百姓たちまでミドルクラスとして社会的に組織されて一体感や社会意識の均一性が生まれていたといえます。これを私は民衆統合儀礼と呼びました。

 当然、そこから排除され、落ちこぼれた人たちはいなかったのかが次の問題です。私はこれを儀礼の排他性・暴力性と呼んでいます。中世の在地儀礼の中では、参加者には座の規定があり、座の位置は地域社会の中での身分序列や社会秩序を表現するものとして厳密に決められていました。それゆえ、名主座・百姓座・女房座などが慣行で決められ、座の無いものは参加を拒否され、見物人になるより他に手はありませんでした。言い換えれば、中世儀礼では百姓や職人までが正規のメンバーであり、それ以外の社会階層は儀礼のシステムから排除されていたのです。

 →統合を分析するなら、分化を分析しなければならないし、同時に統合から排除も分析しなければならない。

 

P90

 ここには、近代法のように貸借契約が存続する限り無限に利子が増殖するという債権者保護の思想とはまったく反対で、むしろ債務者保護の思想が生きているといえます。言い換えれば、近代法の市場原理優先の考え方と、中世人の債務や信用に対する考え方・中世の知の体系が根本的に異なっているように思えます。中世特有の債務債権関係の考え方を中世的債権論と呼びます。

 

P91

 近代社会の貸借契約では、借金が年月を経ると自動的になくなるなどという事項による債務不履行の免責規定はまったく存在しません。近代では、殺人罪には事項法が存在しているにもかかわらず、借用書には時効はありません。長期間の返済によって利子分の返済が元本を上回っても、返さなければならない。利子が続く限り、無限に増えていくのです。多重債務で不良債権になっても、返済義務は消えない。一家路頭に迷って親子心中して、社会的な悲劇が繰り返されているわけです。ひとの命よりも債権を重要視しているのが現代社会。それほど私有財産制を絶対とする法体系が近代知の世界です。

 →殺人よりも債務不履行の方が、罪が重いのか?

 

 中世の知の世界は、債務書と債権者の権利を両立させ、両者の拮抗と並存の中で合議によって問題を解決しようとしていたのです。

 →「折中の法」の感覚に近いのか。経済苦で自殺しない中世社会と、自殺する現代社会では、知の体系が違うことになる。中世の方が、債権よりも人の命を重要視していることになるか。

 

P92

 もともと債権とは、健全な債務者の存在を前提にしなければ、行使できない権利です。相手がいるからこそ、債務債権関係は成立するものです。物権は物を支配する権利で、これを絶対なものにしているのが近代の社会意識です。債権は他人という人に対する請求権です。中世でも現代でも、健全な債務者の存在を前提にしなければ、債権者の権利も行使し得ない面白い権利が債権だといえます。

 →現代は、物権を絶対視している社会。中世は債権を重視している社会か。

 

 

第3章 中世国家史研究の意義と課題

P95

 本稿に与えられた課題は、「歴史研究にとって国家とは何か、公権とは何か、中世国家史研究の意義を追究しつつ課題を解明する」ことにある。もとより非力に過ぎる課題であり、中世国家史の研究史をたどりながら、国家と相対的に区別すべき特定社会集団がもつ公権力を設定すべきこと、国家機関と家政期間とを区別し国家機関の進化論の重要性などについて検討し、政治史研究とは相対的に区別して論じるべき国家史研究独自の研究課題とは何かについて筆者の考えを提示して批判を乞いたいと思う。

 

P97

 (戦後歴史学による国家史研究)そこでは、東アジア社会の独自性をどう認識するかという問題と半国家論=社会主義におけるプロレタリア独裁と国家死滅への移行問題が論議され、「国家は階級対立を抑制する必要から生まれた」側面と、「支配階級がその支配を永続するためにつくった権力機関」が重視された。

 

P98

 政治学の分野でも企業国家・福祉国家ネオリベラル国家・国民国家論など多様な国家論が提示された(宇沢弘文責任編集『岩波講座 転換期における人間 5 国家とは』岩波書店、1989)。

 こうした国家観の分裂状態は、日本中世国家史研究にそのまま反映した。中世におけるといういつ国家の存在を否定・疑問視する無国家論や国家の分裂の様相を徹底して洗い出そうとする多国家論が、石井進む『日本中世国家史の研究』(岩波書店、1970年)、佐藤進一『日本の中世国家』岩波書店、1983年)を代表として展開された。他方、黒田俊雄『日本の中世の国家と宗教』(岩波書店、1975年)、永原慶二『日本中世の社会と国家』(青木書店、1982年)は、「「日本国」と称する「国家」が今日の日本にほぼ近い規模で日本列島上に存在していたことは疑いない」(『歴史学の再生』校倉書房、1983年、14頁)という立場から、権門体制論や職制国家・複合国家論を展開した。この両説を大局に諸説乱舞の研究状況を呈した。

 国家論が分裂する一方で、この時期、支配機構の総体を概念化した律令体制・権門体制・幕藩体制という体制概念が設定されて歴史研究が進展した。しかし、体制概念と国家概念との違いや国家史研究の独自性などについては論点とならず不明瞭なままであった。

 

P99

 こうした関連諸学の国家概念を歴史研究者の論者がそれぞれ恣意的に歴史学に導入したのでは、歴史学における国家論研究は混乱するのみで、生産的な学術論争は不可能にならざるを得ない。この時期の歴史研究者は、歴史学がなぜ国家という分析概念を必要とするのか、そのために諸学の国家概念を参考にしながら歴史学独自の分析概念として国家論を共同してつくり上げる必要性があるという共通認識をもち合わせていなかったように思う。

 

P100

 政治権力が消滅・交代するのにともなって解体する国家機構と、官僚制・軍隊警察・財政システムなど容易に動揺しない国家機構とが存在することが明らかになり、政治権力としての王権と執行権力組織としての官僚制や軍隊とを区別して論ずることが多くなった。(中略)

 国家権力が弱体化したとき、地域の軍閥や宗教的地域権力が自主的に行動する武装組織や徴税組織をもち公権力として登場する現実が鮮明になっている。社会が生み出す公権力が国家とは別に存在して大きな社会的機能を果たすことが明瞭になった。これは、日本中世国家史研究において、公家政権や武家政権を中世国家とみる複合国家論や多国家論や、神仏の位階秩序を決める国家の機能を無視してきたこれまでの国家論を克服する新しい方法論をもちうる視点といえる。

 

P101

 第三に、EUの発足による欧州統合国家が構想される一方で、民族や市民の生命・財産を守り得ない国民国家への批判や東アジアやラテンアメリカなど地域の中で国家を論ずることが多くなった。(中略)

 国内では、科学技術立国政策の下で、社会科学の現状批判力は衰退し、藤原正彦国家の品格』(新潮新書、2005年)や「美しい国日本」に中間階級が動員される中で、戦後民主主義がつくり上げてきた労働三権社会権・平和主義の成果が厳しい攻撃に晒されている。

 

P102

 国民国家は、支配的諸階級の利害対立を調整統合して、中間階級を特権的グローバルエリートの側に組織して、階級対立を一定の社会秩序の枠内に押し込めている姿を見せる。先進国では中間階級や勤労人民までもが国家の主人であるかのように錯覚させられ、国家による人民意識の領有は宗教・マスコミ等と一体になって巧妙に実現させられている。その巧妙な国家支配の構造を被抑圧者の立場から解明しなければ、平和憲法の下で戦争や危機を社会的に克服した現代日本社会が年間三万人の自殺者を生み出しているという非人間性のメカニズムを明らかにすることはできない。現代国家と社会について社会科学による厳しい批判的分析が必要不可欠である。そのために、国家を相対化するための歴史学における国家史研究の重要性は、高まることはあっても減少することはない。

 →自殺研究の意義でもある。

 

P103

 国家とは、外から社会に押しつけられた権力ではなく、一定の発展段階における社会の産物であると考えられている。こうした方法論はエンゲルスに始まる。「経済的利害をもつ諸階級が無益な闘争によって自分自身と社会を消耗させることのないように、外見上社会のうえに立ってこの衝突を緩和し、それを秩序の枠内に引き止めておく権力が必要になった」「社会から生れながら社会のうえに立ち、社会に対して自らをますます疎外してゆく権力が国家である」。この規定は、革命運動の理論化のために、単婚家族・私有財産制・国家の三つが同時にいかに成立し解体するかという歴史過程を極度に抽象化した中でつくられた概念であって、それがそのまま歴史学の分析概念に用いられるわけではない。改めてこの国家論を歴史分析概念として活用するために何が必要かの議論を歴史学の課題に即して深める必要がある。

 

P104

 古代・中世から前近代の国家は、鎮護国家の目標を五穀豊穣・万民豊楽において護国主義と攘災招福の理念の下に人民を動員しようとした。国家権力は、徳政の実現を義務として自己規制する存在でもあり、それによって人民の意思を領有することができた。前近代国家においては、人民の人格的奴隷状態が残存していることから、国家権力は政治的統治権とは別に、神や仏の霊力を動員して国家安穏・万民豊楽=護国利民を実現する存在として自己表現しなければならなかった。国家権力は、世俗の政治力だけなく、仏や鬼神を動員しうる宗教力を合わせもつことによって、社会統合機能を発揮する専門的組織体であった。前近代の国家は、政治力と神仏の宗教力を動員することによって護国利民のイデオロギーを発揮する組織体であり、宗教国家的性格が強い。(中略)

 →中世の「護国利民」と現代の「公共の福祉の実現」は、ほぼ一緒か。後者は、小泉政権のときに「小さな政府」を目指したため、最低限の「公共の福祉の実現」へと機能を縮小した。だから、国家への信頼が減少し、自己責任が増大した。貧困層は助けられず、さらに苦境に陥る。だから、NGONPO的な、新たな公権力が登場している。

 

 エンゲルスは、「国家の特徴は第一に、国民を地域によって区分することである」「第二に、自らを武装力として組織する住民ともはやちょ憶説には一致しない一つの公的権力を打ち立てる」「公的権力を維持するためには租税と国債が必要である」「いまや公的権力と徴税権をにぎって官吏は社会の機関でありながら社会のうえに立っている」と述べる。ここでは、国家と公的強力=公権力とは同時存在として前提され、ともに住民を地域的に区分編成し、軍隊・警察・監獄をもち、徴税や債務の調達組織と官吏をもって社会から疎外しつつあることを指摘する。

 しかし、社会が生み出す公権力と国家とは歴史過程において同時存在ではない。(中略)現代国家をめぐる社会事象を見ても、国家とは別に社会が作り出す公権力が存在していることは、パレスチナハマスやヒスボラを見ても明らかである。社会がつくり出す公権力を社会権力と呼ぼう。(中略)

 日本中世史研究においても、古代の律令国家や共同体が動揺・解体した8〜9世紀以降、疫病・災害・内乱の激化の中で、人々は保護者として院宮諸家を頼り、地縁・血縁。強縁など利用して、寄人・家人・従者・郎等・所従・奴婢などとして主従関係や被扶養関係を結び、権門勢家という特定の社会集団を形成した。中田薫は、9〜10世紀に社会的弱者が優勢者の私的保護下に入ろうとしていた社会動向を「私人的保護制の発達」と評価し、充員を荘園の組織に編成し、そこから職・恩給・知行という新しい中世的観念が登場すると論じた(「王朝時代の荘園に関する研究」『法制史論集』2。岩波書店、1938年)。牧健二『日本封建制度成立史』(清水弘文堂再刊、1969年、初出1935年)や大饗亮『封建的主従制成立史研究』(風間書房、1967年)は、人的保護関係を封建的主従関係として位置づけた。石母田正『中世的世界の形成』は、領主の指摘保護制による地域支配を高く評価し領主制と概念化し、新しい封建社会を切り開いた新興勢力と評価した。戸田芳実『日本領主制成立史の研究』(岩波書店、1967年)が領主制は宅の論理によって領域支配権を生み出していくと説明した。これら諸権門や領主制の形成は、個別の特定社会集団ごとに形成される公権力の形成過程であり、社会がつくりだす家政権力と規定できる。前近代の社会権力は家産制的官僚制や家父長制的原理によって編成された家政権力となる。

 (公家権門・寺社権門も社会権力と言える)

 在地の社会集団についても、ヨコの契約・連合体とみられていた一揆専制権力であったことは、勝俣鎮夫『戦国法成史論』(東京大学出版会、1979年)が明らかにした。須磨千頴によれば、鴨者の氏人惣中が沙汰人・雑掌・奉行・別当などの諸役人を組織し、行事用途の結鎮銭・村段銭・懸銭などを地下百姓に賦課し、境内近辺所領を知行して年貢を徴収していた。(中略)これは「惣」という共同体組織が自らを武装集団として組織し、役人や徴税組織を生み出し債務契約の主体になり、住人を地域的に編成してタテの権力でもあったことを示している。

 こうして、摂関・院・将軍家・幕府から大名・一揆・惣などに至るまで、中世の特定社会集団は主従制的原理と家産官僚制的原理によって編成される家政権力であり、一定の領域支配権を持って成長・並存する自力救済原理による公権力であったことは明白になっていると考える。社会がつくり出す公権力は細胞分裂のように家政権力を再生産しつづける。したがって、21世紀の国家試験級においては、社会の中から成長した家政権力と、疎外されて外見上社会のうえに立って内部対立や衝突を緩和しそれを社会秩序の枠内に引き止めておくための国家権力・国家組織とをどのように相対的に区別して論じることができるか、が鍵になる。そのための歴史理論と分析概念が、歴史事実の解明の中からつくり出され豊かにされなければならない。国家とは、その内部に多様で重層的な公権力=社会権力の存在を容認しながら成立・存続しうるのである。

 

P108

 佐藤進一は、幕府を一つの中世国家とみて、将軍権力を主従制的支配と統治権的支配の二元論として概念化した。古代からの統治権的支配権を継承した公家政権は中世国家の祖型である王朝国家と概念化し、主従制的支配権から出発しながら統治権的支配権を獲得していった鎌倉幕府を中世国家のもう一つの型と評価した。

 第一の問題点は、中央政治機構の整備・軍事組織・法と訴訟制度・地方支配など統治機構は国家のみが独占するという国家=統治機構論の立場にある。王朝国家も鎌倉幕府もともに統治権的支配を行なっているから中世国家であるという立場にあるため、複合国家論・多国家論となっている。

 統治権的支配は国家が独占するという方法論は戦後歴史学の高柳光寿や石母田正らから継承したものである。戦前の近代天皇制国家が崩壊したとき、戦後歴史学は、戦争責任の追及と民主国家建設のあり方の探求から国家権力や天皇制についての批判的研究を設定した。国家とは唯一絶対の統治機構であり、人民や民衆に対する強制力であり、国家がすべての権力を独占し唯一の公権力であるというのが当時の歴史研究者における暗黙の前提であった。したがって、前近代社会における国家史研究は、国家権力=公権力=政権論の解明として取り組まれたのである。

 20〜21世紀の国際紛争や国家の機能を考えるとき、国家は最高の公権力ではあるが、唯一の公権力ではないことはいまや誰の目にも明らかである。社会が作り出す社会集団も公権力をもちうることを前提にした国家論こそ、国家を相対化する方法論的視角として重要になっている。国家と社会が生み出す公権力=社会権力との重層的な支配構造の解明こそ、国家史研究の独自課題であると考える。

 

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 第二の問題点は、統治権的支配と主従制的支配を権力の二元論とする方法論は、幕府にも領主制にも中世国家論にも適用されており、領主制論と区別される国家論の独自の課題が設定できない論理になっている。このことは、佐藤説を継承した石井進に典型的に見られる。石井は前者を幕府による国衙支配論として分析し、後者の問題を地頭や守護権力による領主制の地域支配として解明しようとし、さらに領主制によるイエ支配権によって統治権的地域支配の問題を処理しうるとする。この方法は、大山喬平のいう領主制の構成的支配と主従制的支配論にも言える。(中略)佐藤進一が将軍に見出した支配権の二元論は、石井・大山のいう領主制にも共通して見られる。その結果、幕府も領主もともに統治権的支配と主従制的支配を行使する社会集団ということになる。

 佐藤・石井・大山説では、幕府論と領主制論と中世国家論が一体のものになってしまう。(中略)

 しかし、実際の鎌倉御家人は、幕府のみならず公家政権にも重層的に結集していったのであり、武士層の重層的主従関係が存在した。それゆえ、武家と公家政権の対立・抗争が続いたのである。史実のうえでは、領主制を基盤にした非御家人下司荘官層・国人層が公家政権や権門寺社にも結集していた。それゆえ幕府は公家政権を打倒し得なかった。領主制を基盤にした社会勢力は、幕府権力以外の家政権力と重層的に関係を結んでいたからこそ、幕府論とは別に中世国家論として解明すべき独自の分析対象や課題が存在するのである。武士層の多面的重層的主従関係と全国的な活動の実態の解明は、旧来の幕府論を脱するためにも急務の課題である。言い換えれば、中世史研究において武家・公家政権の利害対立を超えて両者の紛争を一定の社会秩序の中に押し留める権力や制度的枠組みが機能していた構造を解明しなければならない。家政権力による個別支配を超えて、国家機構に結集しながら全体として、被抑圧者に対する支配システムが存在しており、その複雑性・多面性を解明するためにこそ、国家という分析概念を設定する必要性があるものと私は考えている。

 

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 第三の問題は、王朝国家を中世国家の祖型とし、鎌倉幕府を「中世国家の第二の型」として世俗の政治権力論のみで国家を論ずるため、神仏を動員する宗教力の諸機能や諸権門の最高意思の矛盾や対立を調整する社会的国家的統合システムをまったく抗争し得ない論理になっている。(中略)

 関東申次武家伝奏・関東使の制度的解明はもとより、摂関と幕府の関係・公家の関東奉公・武家の朝廷奉仕、公武を結ぶ「勅問の輩」「執奏」権など国家意識の決定過程に参加しえる国家的統合システムの実態解明は、中世国家論の独自の研究課題と言わなくてはならない。とりわけ、検非違使別当と侍所所司、禁裏門番衆と侍所所司代検非違使庁・京職による暴力機構・京都支配構造の解明は、室町戦国期の国家暴力機構の諸問題として重要な研究課題である。(中略)

 平雅行『日本中世の社会と仏教』(塙書房、1992年)は、中世国家が政治的暴力のみならず呪詛などの宗教的暴力を合わせ行使する存在であったことを指摘している。21世紀の国家論も、世俗のける私企業や法人がもつ公権力やマスコミや情報産業を通じて世論を動かすイデオロギー力を合わせもつ存在を組み込んで進化しなければ、近代主義的歴史分析法でいう権力と権威の二元論を克服しえないと考える。

 

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 佐藤進一の中世国家論は、統合の契機をそぎ落とし、分裂の様相と国家的次元に残されている諸機能を抽出したものである。したがって、その批判的継承をはかるためには、逆に国家的統合の様相を具体的に解明することが今後の課題である。

 第一は、政治史と国家史研究との相違・相互の独自性を明確する必要がある。(中略)私見では、国家史研究においては、「鎮護国家の要は只五穀豊穣にあり」「攘災招福・護国利民」の国家目標を掲げて社会の統合機能を果たそうとする官僚制的官吏の行政執行機構の解明が第一の課題と考える。百瀬今朝雄が論じたように中世での書札礼は、官位と家職による家格の二つの原理から成立していた(同『公安書札礼の研究』東京大学出版会、1999年)。中世の公家・武家は、朝廷の官職に補任され、官僚制的官吏であるとともに、幕府や院・摂関家など家政機関の家司・院司・下家司・家侍・院侍や殿上人・諸大夫・家礼ともなっており、家産官僚制的官吏でもあった。中世では朝廷の官吏であるとともに権門の家産官僚制の官吏ともなっており、重層的な主従関係を取り結んでいた。(中略)

 したがって、国家の官僚としての側面と、公家・武家・寺社権門の家産官僚制的官吏の側面という二重、三重の権力構造の解明が第一義的な研究課題と考える。

 

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 第二は、①支配的な特定社会集団や多様な政治権力の意志や利害がどのように利害調整されて国家意思としてまとめられ、どのような形式的手続きによって国家意思が決定・交付されるのか。②公家・武家・寺社権門の相互矛盾や対立抗争の歴史事象に歴史学の目を奪われるのではなく、分裂や相互矛盾を超えて一定の秩序維持のために利害調整をどうはかり、社会的統合システムがどのように機能していたのか、の解明が需要である。言い換えれば、多様で重層的な支配層の共同利益として国家意思を決定するための統合システムは、社会から疎外され国家機関化した天皇制を抜きに組織しえなかったと考える。

 天皇親政・摂関政治院政・幕府政治・得宗専制・大名合議・将軍専制などの政治構造の変遷にもかかわらず、中世という長い時代を通じて変わることなく一貫して共通して機能しつづけた諸権門の個別利害を調整して国家意思として決定している過程のシステムを国家制度史として分析・提示することが重要な研究課題だと考える。幕府の個別利害を国家意思に反映させるための「武家執奏」と同様、摂家や門跡・女院親王らも「執奏」によって国家意思決定過程に参入することができた。天皇が行う「勅問輩」に対する勅問も、国家意志決定過程システムの一つである。武家伝奏や惣用伝奏の命を受ける職事・弁官ら公家奉行と、惣奉行や仙洞御所奉行など武家奉行人らは、国家官僚制の官吏と見るべきである。幕府の奉行人制についても、将軍の交代とともに失脚する結城政胤のような存在がいる一方で、摂津之親・元親・政親のように将軍の交代に無関係に朝廷儀式の惣奉行を連続して家職としてつとめる存在が現れている。侍所や所司代なども含めて、そうした幕府の官司は、単なる家政機関としての幕府の官吏ではなく、禁裏との主従関係をもった官僚制的官吏として分析してみることが必要になっていると私は考えている。

 →政治構造が議会制民主政治・議院内閣制へと変化しても、天皇制が残っているということはどういうことか?象徴天皇制は政治とは無関係と言いながら、法律に縛られて、内閣や国会の政治行為と微妙に関わりをもつ現状、メディアを通じて国民に影響を与える現状は、どう評価されるのか?改元儀礼)によって、コンピューターシステムを筆頭に産業への影響が起こる。これは社会現象だが、政治的原因と呼べるのではないのか?元号の変更は政治問題であり、その根源は天皇制ではないのか?つまり、天皇制は政治制度ではないのか?象徴天皇制は、各方面に政治的に影響を及ぼす国家制度ではないか。成立時の意図は別にして、天皇制が現代社会で誰にどう利用されているか、どのような意味をもたらしているのかを、冷静に客観的に見つめなければならない。影響を受けているのに気づきもしないのは、愚の骨頂。天皇の職務は国事行為(儀礼)で、国政に関する機能はもたないと規定されているが、国事行為(儀礼)の概念的範疇が広がるようなことがあれば、本当は政治的な行為に抵触しているのに、国事行為(儀礼)だと処理されて、問題にならない可能性がある。現状、すでにそうかもしれない。

 

 

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 私見によれば、官職任命権をめぐる実質的決定権のあり方の解明は政治史の課題であるが、後者の形式的制度的決定権のあり方こそ、国家意思の決定過程であり、その国政史的枠組みの解明が国家史研究の課題と考える。(中略)

 ここでは、天皇・関白・上卿・伝奏・職事・官務・局務・大内記・六位外記史らが揃えば、官職官位任命や勅書発給という国政運営の行政執行が完結しえたこと示している。これこそ、中世国家の中央行政執行機関と言わなければならない。

 →法案の制定過程において、どのような人物(政治家・官僚・有識者・利害関係者など)の意見が強く反映されるのかは政治現象の問題だが、あらかじめ、どうしてその人物が関与すると決められているのか、どのような手続きで決定されるのかが国家制度の問題。本来は、政治家と官僚がいれば法案は提出できる。有識者や利害関係者はいなくてもよい。

 

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 除目の形式的最終決定権者が天皇とその代行者である執柄にあるという制度的淵源は、摂関政治の時代にある。一条天皇道長に対して「除目必ず奉仕すべし、もし不参ならば行うべきにあらず」(『御堂関白記』寛弘二年正月二十三日条)とした摂関政治が出発点であり、その慣習が制度化されていたとみるべきである。

 

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 こうしてみると、政治形態がいかに変わろうとも、官位官職の形式的制度的最終決定権限は天皇と摂関の手にあり、上卿・参議・伝奏・職事弁官と官務・局務・六位外記史が聞書・位記発給のために必要不可欠な行政機構であったことがわかる。このことは、天皇・摂関・上卿・伝奏・職事弁官・官務・局務が時代や政局の変化を超えて、社会から疎外されたながら社会から必要とされる国家機構に変貌していたことを物語るものと考える。中世の国家意思の決定過程とその国家意志の決定過程とその国家意思を施行し、行政執行を行うための中央官僚機構の中枢機能の解明が中世国家論の主要課題である。

 

 社会の分裂が進展し内乱が激化するほど、「社会のうえに立ってこの衝突を緩和し、それを秩序の枠内に引き止めておく」特殊な権力と組織が必要になる。それこそが社会統合・秩序維持のための機能を専門とした統治組織・国家機構である。家政機関=家産官僚制として生まれたものが、国家機関に進化し、通時代史的に再利用されながら、社会の外に立って社会秩序維持のために機能する。官僚制の進化論である。

 

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 日本の近代国家誕生に際して廃止・不用になった前近代の国政機関は何かという問題設定は、これまで見られない。しかし、明治維新においていかなる統治機関が廃止され、近代国家に引き継がれた統治機関は何かを議論することは、前近代の国家論にとって重要な研究課題と考える。(中略)(明治維新)このとき廃絶しなかった天皇制と完成・藩制は改編されて近代の国家機関に組み込まれた。したがって、前近代から近代を通して国家機関になっていたものは、天皇太政官神祇官からなる官制と、人民を地域に編成した国郡制の三つであったと言える。特に強調すべきは、太政官制は世俗の身分序列をきめる官僚制であり、神祇官は神階叙位の身分序列に応じて神仏を動員する制度である。前近代の国家機関は人と神によって構成される「社会」の身分秩序をきめる存在であり、宗教的性格が強かった。

 

 近代国家機構には継承されず廃止された前近代の国家機関は中世に淵源するものが多い。(中略)

 守護職京都守護職なども、中世の守護職に淵源を発することは明らかである。守護は一般には幕府の家政機関として理解されている。しかし、室町戦国期には守護・守護代が在京を義務づけられ、朝廷儀式での用途である諸国所課や国宛の国役を国司に代わって守護・守護代が務める義務を負っており、国家的行政官の機能を果たしていたことが指摘されている。

 天皇による国家意思決定に際して公卿合議を行う担当者が議奏であるから、国家機関の性格を帯びていたのである。(中略)勅問輩は、摂家・室町殿・清華大臣家や門跡・女院・伝奏などで、彼らは「執申」=執奏する権利をもっており、天皇の勅裁である国家意思決定過程に意見具申を通じて参加する権利をもっていたといえる。

 武家伝奏は、禁裏と幕府との折衝窓口で関東申次に淵源をもつ中世の家産官僚制の官吏である。伝奏という院庁の院奏を行う院司からスタートしたもので、本来は朝廷の儀式ごとに担当する伝奏が置かれた。幕府と朝廷との交渉担当の伝奏が武家伝奏、幕府と朝廷の共同財政帳簿である惣用下行帳の管理と公武の交渉担当の伝奏が惣用伝奏、幕府が納入する貢馬用途を用いて行う朝廷の儀式担当の伝奏が貢馬伝奏、などと呼ばれた。

 

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 とりわけ、武家伝奏は、天皇の官吏(官僚制的官吏)であるとともに室町殿の家司(家産官僚制的官吏)にもなっており、天皇家と将軍家との重層的な主従関係になっていた。武家伝奏・惣用伝奏の下には公家奉行の職事弁・頭中将のほか、武家奉行人の惣奉行(摂津之親・元親・政親)が置かれていた(船橋清原家旧蔵史料)。摂津満親から之親への所領譲与は、管領畠山持国管領奉書(美吉文書、神奈川県史6133)によって安堵されている。とりわけ、惣奉行職は、将軍が政変で交代しても一貫して摂津氏が代々家職として継承している。幕府の奉行人というよりも中世国家の官僚制的官吏と呼ぶべき存在になっていると私は考えている。摂家と幕府との交渉窓口も、幕府側では関白別奉行が置かれ、近衛家では京都雑掌を専門に置いて武家奉行と交渉(『後法興院記』応仁二年四月十日条)させている。仙洞御所や親王家と幕府との交渉窓口も、仙洞別奉行と伏見殿別奉行人(『康富記』文案五年五月八・九日条)という訴訟専門の別奉行が武家に設置されていた。

 室町幕府と禁裏との関係は、江戸幕府の制度との関係から、武家伝奏のみが注目されているが、現実の幕府は、公家側との交渉のために、武家伝奏のほかに、惣奉行・関白別奉行・伏見殿別奉行・仙洞別奉行など多様な官僚組織を置いており、官務・局務・六位外記史の中原・清原・壬生・大宮・高橋・安倍ら地下官人らと相互に姻戚関係を結び緊密な人間依存関係を構築していたと見るべきである。武家伝奏に連なる公武の奉行人制こそ、単なる幕府や禁裏の家産官僚制的官吏ではなく、中世国家の官僚制的官吏に進化して国政機関化していたものと評価すべきであろう。

 

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 一般に、摂政・関白については、「内々関白家中事を申す所取乱すと云々」(『山槐記』永暦元年十一月三日条)とあるごとく、関白の政務は「家中事」と認識された。室町幕府の場合にも、文明年間の武家故実書「武政軌範」には、「凡将軍家御家務条々、皆以於問注所政所、有其沙汰、近代者一向為当所沙汰之」とある。将軍家の政務が「家務」と認識され、家政権力の側面を脱しきれていない。中世の摂関や上皇・将軍・幕府などの組織は「公私混淆」の家政機関と国政機関としての二面性をもった家政権力であり、社会のつくり出した公権力であった。

 議奏・勅問御人数・武家伝奏・守護・所司代も、特定の諸家に官司請負されながら家政機関であるとともに国政機関としての二面性をもっていたものといえよう。こうしてみれば、「国家組織の進化論・国政と家政の共同執行論で中世社会・国家像を考える」(『拙著』549頁)ことによって、時代別国家論と通史的国家論との対立点や矛盾点も克服しえるものといえよう。中世の家政権力は国政運営と分かちがたく結びついて執行されており、公私を峻別し、家政と国政を厳密に区別しようとする政治史研究は近代主義的視点を前近代社会の分析にも持ち込む無理な方法と言わざるをえない。中世国家の構造や運動が、家政権力のそれと整然と切れた形で存在したのではなく、渾然・曖昧な形で一体化していたところに中世国家の特質がある。

 拙著『日本中世の国政と家政』では、家政権力の機能を国家権力の「委任」「付与」として説明する視角を強調したことについては、厳しい批判がある。家政権力の自力的側面を過小評価する点があったことは自己批判しなければならない。事実、家政権力は主従制的関係や家産官僚制を土台に自力によって成長し、当知行として地域的支配権を強化しながら自力救済の権力体となっており、国家によって後から安堵や保障による公認を獲得していく。家政権力がもつ自力救済能力・当事者主義の能力を高く評価せざるをえない。国家権力が家政権力の二面性を「追認」し、社会から疎外されて国家機関としての側面を純化していく中で、その歴史的性格を変化させた側面を分析していく必要があろう。

 

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 日本歴史研究においては、政治史と国家史との違いや相互の独自性について、学界の共通認識はできていない。国家史研究の歴史を振り返ると、国家のみが統治権的支配権や統治機構を独占しているとする国家観に呪縛されてきた。20世紀末から現代の国際情勢を総括すれば、国家権力の他に社会がつくり出す公権力が重層的に存在したことを前提にして、国家論を再構築する必要がある。前近代の国家権力は世俗の政治力と神仏を動員する宗教力を合わせ持ち護国利民を実現する宗教権力的組織体である。中世国家の構造や運動は、社会がつくり出す公権力としての家政権力と渾然・曖昧な形で一体化していたところに特質があるといわなければならない。

 中世国家史研究の課題としては、国家機関そのものの解明とともに、国家的統合システムを必要とする中世的社会矛盾についても解明されなくてはならない。①中世社会において公家・寺社・幕府や大名・一揆・惣など個別の公権力である家政権力がいかなる矛盾と限界をもち、②なぜ複数の家政権力が相互に利害を調整・統合しあって国家的支配を必要としたのか、③複数の家政権力に合力のための動員を命じる社会的統合システムはいかなるもので、なにゆえ必要とされたのかなど社会的要因の解明が必要になる。家政権力が伸張し分裂の契機が拡大していく中世社会にあって、弱体であったにしても国家的統合システムを必要とした社会的要因について検討が必要である。今後の課題としなければならない。