周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

伊藤著書

  伊藤清郎『中世日本の国家と寺社』(高志書院、2000)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第Ⅱ部 国家と祭祀 第1章 石清水八幡宮

P227

石清水八幡宮の)組織は、⒜祠官、⒝神官、⒞三綱からなる。⒜祠官は検校・別当・権別当・修理別当・少別当から構成され、初め祠官の長たる性格を有していたのは別当で社寺務を執行していたが、検校が常置になると、別当に変わり検校が全権を掌握していくようになる。権別当別当の補佐をし、さらに別当・権別当を補佐し修理の事を掌るのが修理別当である。祠官の補佐は修理別当までは太政官符による官任であるが、少別当の場合は官任と官寺符で補佐される寺任の二通りがあり。12世紀に入ると祠官のうち検校・別当・権別当・修理別当に補任されるのは御豊系紀氏一族(のち田中・善法寺両家に分かれる)に限定されてきて、社寺務の統括権は紀氏一族に独占されていく。

 次に、⒝神官は神主・権神主・俗別当・権族別当禰宜から構成され、神事に預かる。神主は官任であり、この神主と俗別当を紀氏が独占している。が、権俗別当の方は他姓の者も多数補任されている。禰宜には山城方と称する大禰宜・楠葉方と称する小禰宜があり、いずれも源氏・紀氏をもって補任する。他に両氏以外のものをもって補す他禰宜、その中でも六位のものをもって補する禰宜を六位禰宜といい、合わせて四座禰宜という。この禰宜は神人身分のものであり、後述する石清水八幡宮寺言上状等の朝廷に対する上申文書に署判する神官らの中には、権神主・権俗別当と同様に含まれない層である。

 ⒞三綱は上座・権上座・寺主・権寺主・都維那・権都維那から構成され、官任と寺任のものがあり、紀氏以外の他性のものも補任されている。これらの組織の相互関係の詳細についてはよくわからないが、紀氏一族内部では通名[清]をもつ僧などが、はじめ三綱に補任され、次に祠官に昇進していき、そのうちから特定のものが祭祀に預かる神主や俗別当などの神官職に補任されていくことから、組織の相互関係をある程度想像できよう。

 

P230

 (石清水八幡宮の)機構は、⒜所司・諸職、⒝諸奉行からなる。⒜所司・諸職は、①別当・少別当・権寺主・公文などから構成される政所。②別当・少別当・三綱・宮侍層(右衛門尉源・右衛門尉中原・散位平・散位藤原など)・公文法師・権在庁・堂逹師・目代法師などから構成される公文所。③権寺主兼少別当・上座・権上座・堂逹法師などから構成される逹所。④権別当・大禰宜・宮寺などからなる供所。⑤馬所などがある。

 (中略)政所下文は下司職補任、請所の承認、所務相論の裁許などの場合に発給される。(中略)公文所下文は別宮・荘園経営の具体的内容に関して出される。公文所廻文は八幡宮内の仏神事経営に関する場合が多い。(中略)供所は、竃殿御釜などに御供を長身する役を担っている。(中略)

 この他、⒜には執行・御殿司・入寺・不出座・五座が存在するが、文書発給の例はほとんど見受けられない。ただ、これらの補任には室町期においても宮寺符をもって行われていたと思われる。

 

P232

 ⒝諸奉行には、①公家并弥勒寺正宮、②諸院宮并僧家、③諸家并越訴、④武家并諸荘園、⑤諸座神人并甲乙人、⑥山上并諸坊領、⑦検断、⑧巫女・山・市、⑨堺内・山城・楠葉検断、⑩南田井・図師、⑪酒、⑫安居取継、⑬力者・炭薪、⑭田楽、⑮小綱、⑯染殿・紺掻・あくわら・宿所、⑰革染、⑱菓子・湯、⑲銅細工・中間・人夫・童子・刀礪、⑳絵所・朱砂・仏師、21掃部所・檜物・御簾・贄殿・土器、22作所・鍛治・壁・檜皮・厩・中屋・桟敷、23柿渋・橘皮・木柴・塗師・蒔絵・筆生・念珠引、24油、25大番・御門兵士、26神人奉行などがいる。

 ここで注目されることは、①公家、②諸院宮・僧家、③諸家、④武家などの各権門毎に奉行が設定されていることで、各々八幡宮と他権門との間の折衝にあたっていたと思われる。次に、⑦検断奉行は三番制で、頭人評定衆・公文・執筆・合奉行・庭中奉行から構成されていて、「評定式日」や「評定衆式日」も定められ、検断の訴訟において訴陳三問三答が行なわれていることがわかる。ただし、⑨堺内・山城・楠葉検断奉行は独自に存在している。

 また八幡宮内の治安・警察の任に当たるのは、神人奉行の一つ執行勾当に統率されている巡検・下部・非人であり、彼らは「宮検非違使」とも呼ばれ、八幡宮領で紛争が起きると巡検使以下が八幡使として現地に下向するのである。次に、神人は⑤諸座神人奉行、26神人奉行に統率されるわけであるが、26神人奉行の構成とその下に統率される神人名を列記すると、兼官─草内御綱引・山崎・誉田・薪・御香法師・師子・堂逹・鏡蛍・本田原、検知─山城方禰宜・俗官・宮寺・淀供祭・山崎・菓子、公文─楠葉方禰宜・駒形番雑色・御供所・交野御綱引神人・平河燈油、執行勾当─巡検・下部・非人、拒捍使─御前払、山上執行─仕丁・承仕、革染奉行─神宝所などとなる。⑤・26の奉行に統率された八幡宮神人は、紛争が生じて強訴に及んだときなどには請文を提出しており、自らの意志を明確にしうる集団として存在しているのである。

 

P236

 鎌倉中期以降検校が常置になると別当に変わってその地位に立つのは検校と思われるが、検校と別当の権限分担は明確ではない。(中略)

 

P240

 検校・別当系譜

1安奈、2幡朗、3運真、4会俗、5延晟、6総祐、7定胤、8清鑒、9清昭、10観康、11貞芳、12光誉、13聖清、14暦雅、15朝鑒、16康平、17尋慶

P242

18貞清、19元命、20清成、21清秀、22戒信、23頼清、24清円

P244

25光清、26任清、27厳清、28勝清、29慶清、30成清、31道清、32祐清、33幸清、34宗清、35棟清、36宝清、37燿清、38宮清、39行清、40妙清、41・43守清、42・44尚清、45良清、46長清、47・54朝清、48・55堯清、49・52・56栄清、50承清、51・53・57龍清、58・62陶清、59称清、60用清、61・63嚢清

 

P256

 豊田武氏は神人を本社との隷属関係から、本社に直属し本社の境内やその周囲に住む本所神人と、地方に散在する神領にいる多数の散在神人(とくに京都にあるものを住京神人と呼ぶ)に分けておられる。(中略)

 さらに神人を分業・生産活動の面から見た場合、『年中用抄』上の「諸神人事」によると、⒜「楽人・舞人」などの芸能者、⒝「鍛冶・銅細工・大工」などの手工業者、⒞「室町座・伯楽座・鳥羽座」などの商人、それに⒟「御前払廿四人河内散在、御綱引七十二人此内草内十人、大住十人、淀庄十六人、大山崎廿四人、今福十二人・巡検勾当同衆二十一人」など八幡宮近隣の荘・郷などにいて所役に従う神人らから構成されていることがわかる。

 

P262

 これらの事実から、荏胡麻購入独占権を得た大山崎神人が隊列を組んで阿波・播磨等方面において荏胡麻を購入し、それを山崎の地に集荷し、そこで油製作具で製油して大山崎神人および散在神人・油商人にも配給する。そして関税を免除された彼らが丹波・播磨・阿波・美濃・尾張さらには遠く肥後まで赴いて独占的に販売営業活動を行なうことがわかる。その際、神人らは諸国に散在する神領や別宮を拠点として活動したのであろう。また最大の油消費地京都には京住の大山崎神人がいて営業を行なっていたと思われる。

 ところで独占権とはいえ大山崎神人が畿内一円で販売独占権を得ているわけではない。もともと寺社の燈明油が中世では油需要の中心であったのであるから、各寺社ごとに油神人が存在し活動しているのは当然である。例えば醍醐寺三宝院には元暦元年(1184)ごろ十一人の御油座神人がいるし、東大寺では正和年間符坂油座商人から油を購入しているし、室町期に入ると摂津国住吉神社神人が大山崎神人と相論を行なっているし、先に見たように畿内だけでなく地方にも大山崎油神人と競合する油神人・油商人が存在しているのである。だからこそ、嘉元2年(1304)には大山崎神人が自らの要求を掲げて社頭に閉籠し、検校妙清が彼らを搦め捕ろうとしたため内殿に乱入したり、自害したりするものが出たりする事件が起き、嘉暦2年には関所のことで大山崎神人らが神輿を入洛させる事件が起きているのである。つまりかかる強訴などを通じて自らの要求を八幡宮さらには公家政権に認めさせ大山崎神人の権限を拡大していったのである。

 さて大山崎神人が、荏胡麻購入権・油販売権・関津料免除権などの諸特権を獲得するためには、まず石清水八幡宮の油神人に認められることが必要であり、八幡宮の方は神人を「名帳」に登録して朝廷に届け出ることによって、彼らは公家政権や幕府から諸特権を保障されるのである。

 一方、神人は「日使頭役」などの神人役を負担する。これは油神人のほか、⒜芸能者、⒝手工業者、⒞商人など石清水八幡宮神人全体に言えることであろう。ただ、「新加神人」を無制限に認めていったのではなく、保元新制第三条にもあるように公家政権は、増大する神人を「本所神人」と「新加神人」に区別して後者神人の増大に歯止めをかけていったものと思われる。

 では最後に以上の考察をまとめてみる。石清水八幡宮は芸能者・手工業者・商人などの神人を神人奉行・諸座神人奉行の支配下に置き、彼らを「名帳」に記載して朝廷に届け出ることによって、公家政権および幕府から諸特権を保証される。また彼らから神人役を徴収し、そして神人に対する行政裁判権も有している。このことは、三浦圭一氏が各権門とも分業流通機構を一定掌握しつつ非農業民も編成していると指摘されていることと合致するものであり、社家権門石清水八幡宮も一定分業流通機構を担いつつ非農業民を編成していることを示すものであろう。

 

P267

 八幡宮領は宮寺(護国寺)領、宿院極楽寺領、別当家領(田中坊領・善法寺坊領)、渡領としての社務領、所司・供僧等領からなっている。(中略)田中坊領は観音堂領、筥崎宮領、宇美宮領、東宝塔院領、山上坊舎などからなり、一方、善法寺坊領は宇佐弥勒寺・喜多院・正八幡領、香椎宮領、別神領(私領)、八幡宮内・京・仁和寺等所々の坊舎などからなる。

 

第2章 中世国家と八幡宮放生会

 2 石清水放生会と神人強訴

P293

 八幡宮に関する相論の発端の一つには、商業活動や農業生産活動上で神人が障害を蒙ることが挙げられよう。事件発生とともに本宮で問題となり、公家政権に提訴する。建暦二年(1212)三月二十二日付新制には「諸社有訴之時、勒状付官、官以頭蔵人奏聞、尋理非成敗、随状跡裁断」とあり、実際神人の訴えがあると八幡宮別当等が訴えの旨を奏上する。公家政権では訴え・陳状をもとにしながら公卿議定が行われる。嘉禎元年(1235)の薪・大住両荘園をめぐる興福寺との相論の際には、摂政九条道家が御教書をもって評定の議に参集するよう中納言藤原頼資を促している。公卿が参集すると議定が始まり、その場に八幡宮所司(権別当宗清・棟清・宝清・耀清)が召され、宮寺奏状・神人訴訟状が披覧されている。またこの間に、嘉禄三年(1227)の興福寺との相論では、興福寺宮司との間で「牒」を交わして、事件の張本人巡検勾当盛親を搦め出すことをめぐって当事者間で交渉している。

 提訴後、状況によっては神人側は神輿動座の動きを示し、第一段階では神殿から宿院へ、さらに第二段階では八幡宮祠官らの制止を振り切って神輿を入洛させて強訴に及ぶ。神輿入洛の動きに対して公家政権は、勅使を派遣して入洛を抑えようと説得するが、逆に追い返されることがしばしばあり、さらに淀の大渡付近で入洛を阻止しようとする検非違使官人・在京武士と神人とが衝突することもある。それらを突破して入洛すると、神人は神輿を泥土のなかへ投げ捨てたり、あるいは当時八幡宮に仮置したりして裁判に圧力をかける。八幡宮側と公家政権側との間のパイプ役は「奉行人」などがあたり、八幡宮の祠官などを召し問い事情聴取を行ない、また事件解決のための交渉をすすめる。その際、前述の嘉禎元年の相論では、閏六月二十日公卿議定に基づき使者頭弁を氏長者土御門(源)定通に遣わして神人を誡慰するよう申し入れている。それを受けてどう二十三日には「氏公卿中、土御門大納言、左衛門督、為御使参八幡、為語仰神人也」という行動に出ているし、また同日三条坊門大納言邸に氏公卿が集まり、八幡宮祠官らと相談している。このように氏公卿が朝廷工作に活発に動いている。

 ところで、訴訟の上で八幡宮側の要求を公家政権に認めさせていく戦術的論理は、「八幡宮者宗廟異于他」なり、二十二社の中でも三社たる地位にある「国之宗廟」なので、「凡宗廟閉門戸者、公家可閉門戸、宗廟不行神事者、公家不可行公事」ということであった。したがって「宗廟」の大祭の時期にぶつかった場合は、大祭を遅引させないために宮寺側の要求を公家政権がのまざるを得ないというところまで発展していく。ここに神人強訴等が八月放生会期に焦点を合わせ展開する理由があるのである。ただし、これは(1)強訴が長引いている途中で放生会期にぶつかった場合(嘉禎元年の薪・大住両荘をめぐる興福寺との相論がその代表例)と、明確に八月の放生会期を狙って行なわれる強訴(建仁三年八月十五日に放生会を抑留しつつ神人が遡上を公卿に手渡そうとした例など)の二つの場合があるが、いずれも「国之宗廟」・国の大会という性格を巧みに利用して強訴を展開しており、強訴における戦術的論理を明らかにする上では両者を区別する必要がないので、本節では両者を合わせて論を進めていく。

 さて、訴訟の過程では「依如此之沙汰、有所役之懈怠者、不可謂小事之課役、尤可為大会之違乱」と主張し、さらに「裁報遅引」すれば大会たる放生会が延引することになり、「於今者大会之有無、非短慮之可及、延否之条、只可任叡慮」と言上して「叡慮」の断を迫り、しかも要求が認められないと石清水放生会=国家の大祭が延引し、「公家不可公事」という非常事態を招くという論理の線で訴訟が有利に裁断されるように交渉を続けていいく。だから嘉禎元年の相論で、御綱引神人長藤井為行がが神人の主張の成否を八幡神に問い、正当と認めた八幡神が宝殿の扉を自ら開いて神輿入洛を促すという状況をつくりだすのも、この戦術的論理を一層強力なものにするためであろう。

 また提訴も放生会の行われる時期に集中してくる。放生会の遅延か否かを刃にした強訴は多数みられるが、実際に放生会延引の理由を見てみると、大風・馬死・平賀朝雅死・京中穢など自然災害、宮中ならびに宮寺内死穢が一般的であるが、嘉元2年(1304)には大山崎神人閉籠が原因となり、以降徳治元年(1306)大山崎人狼藉、延慶三年(1310)舞人不参、嘉暦三年(1328)大山崎神人閉籠など、鎌倉後期に入ると構成員(とくに神人)の狼藉が延引の主な理由になっている。

 

P300

 放生会の概要を述べると、八月十三日は放生会勘下の日で、御殿司・禰宜・仕丁・御子・鏡磨神人・仏師・金物細工らが宝前に参集し、開倉して三所神輿を出して飾り付けなどを行なう。翌十四日は勅使つまり上卿・参議(宰相)・弁・外記・史・諸衛官人(左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府の各官人)・左右馬寮官人・史生・官掌・導師・咒願らが下向する。夜に入り高坊において勅使等に膳が設けられ、一方、宮寺側では山上僧都らによって宿院・頓宮で懺法勤仕が行なわれる。

 十五日には、上院の神殿から三所神輿が行列をなして下院絹屋殿に渡御する。一方下院では勅使、宮寺の供僧・神官らが宿院等から礼堂に出着し、さらに上卿らは神輿を迎えに礼堂から絹屋へ赴き、絹屋から神輿を舞台宝殿に先導して安置したのち、献供・献花・献舞そして相撲奉納が行なわれ、さらに入夜行事も行なわれたのち、三所神輿が還御して再び仮置される。儀式終了後、勅使らは早速帰洛の途につき翌朝帰宅する。この日には宣命も奉幣される。十六日には御殿司・禰宜・仕丁らが宝殿に参集して神輿・神宝を倉納する儀式が催されて放生会は終了する。

 以上が放生会儀式の概観であるが、さらに石清水放生会の運営は、「公家之沙汰」・「武家之沙汰」・「宮寺之沙汰」の三つの部分から構成されている。「公家之沙汰」を具体的に見てみると、放生会上卿が朝廷内諸公事について実施される「公卿配分」の「篇目」に加えられ、放生会供奉人も公家新制に員数が定められている。さらに上卿以外の勅使選考は蔵人によってなされ、放生会の用途も「蔵人方恒例公事用途」の一つとして諸国から徴納させていた。また相撲についても近衛府相撲役催促牒が各国衙に下され、徴進させているのである。

 次に「武家之沙汰」を見てみると、弘安2年(1279)十二月十五日、官宣旨をもって「石清水放生会以前禁断事」が五畿内諸国に下され、また同月十八日、ほとんど同内容の後宇多天皇宣旨が「京夷諸国」に下され、幕府はこれを施行して同三年七月二十三日、関東御教書をもって河内・摂津・信濃紀伊・日向五カ国地頭御家人に遵守させるよう五カ国守護陸奥彦三郎に下命している。またこれと同文の関東御教書が全国の守護に発せられたようである。したがって、「武家之沙汰」とは、宣旨・官宣旨を受けて、幕府が関東御教書をもって諸国守護に対して地頭・御家人に八月一日から十五日までの間、「石清水放生会以前殺生禁断事」を厳守させることである。

 次に「宮寺之沙汰」を具体的に見てみると、まず八月十五日・十六日両日の行事責任者たる「所司」が定められているし、用途も八月一ヶ月の「御供米庄」は和泉国蜂田庄、十四日の僧徒供料役は伊予国生名・石城両荘、十五日の放生会供米は山城国稲八間庄、伶人禄塩237石は備前国牛窓庄・伊予国生名・石城両荘、山城国片岡庄役となっている。その他に放生会直米や宿直役など放生会の諸雑役は宮寺公文所廻文をもって定められる。また放生会で使役される神馬の蒭を確保するため八幡使として「放生会御馬蒭使」が在地に下向する。さらに付言すると、上院から下院へ神輿が下る際の行列構成員の多くは本所神人と称される男山の周辺の荘・郷・薗を出身地とする石清水神人からなっている。