丹生谷哲一「中世における寺院の童について」(『身分・差別と中世社会』塙書房、2005年、初出、大山喬平教授退官記念論集『日本社会の史的構造 古代・中世』思文閣出版、1997年)
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八 中世における寺院の童について
はじめに
P197
日本の中世社会を特徴づけている社会的集団の1つに「童」がある。寺院の稚児・中童子・大童子・堂童子をはじめ、一種のした役人ともいうべき小舎人童・牛飼童・樋洗童(ひすましわらわ)、天皇や将軍・門跡の輿舁きを務めた八瀬童子、賤視された穢多童、童名をもって呼ばれた検非違使庁の「放免」、さらには、平家の悪口をいう者の家に乱入し、禁中にも自由に出入りして、「京師の長吏」も目を側めたという六波羅殿の「禿童(かぶろ)」などである。
P200 土谷氏の研究
そしてこの事実(醍醐寺の朝拝と節供における座次の違い)に基づき、氏は、これまで漠然と寺院童の代表のように考えられてきた堂童子と、児・中童子・大童子らと、が実は別個の存在であったこと、前者が「寺家」に属し堂に付く存在であったのに対して、後者は座主の「房」や「院家」に属し僧に付く存在であったことを指摘された。そしてさらに、後者の児・中童子・大童子の階層・序列や役割について詳細に検討を加え、「児」は、上は清華家から下は侍や北面の子であったこと、「中童子」の出自は明確にし得ないものの、その序列は「侍」の次に位置づけられ「大童子」より上位であること、そして以上「児」・「中童子」が「上仕え」の童として行列で華美な衣装で供奉するのに対して、「大童子」はおそらく寺家の職掌・小寺主・堂童子らとともに里在家の出自で、「中童子」の下に位置づけられる「下仕え」の童で、行列でも白張り姿で供奉したこと、などを跡付けられている。これは、何らの根拠もなく、童を年齢によって大・中・小に分けたり、その序列を上童子─大童子─中童子と考えたり、堂童子と中童子・大童子の区別も不分明であったこれまでの常識を完全に打破した画期的な研究といえよう。しかも重要なことは、「児」・「中童子」は成年に達すると出家あるいは元服する(すなわち子どもとしての童子である)のに対して、「大童子」には、それらの途が閉ざされており、遁世するか大童子として生涯を終えるしかなかった(すなわち童姿を強制された大人としての童子である)ことが指摘されて、「大童子」という童の身分的特徴を明確にした点である。かくして氏は、中世寺院の童姿の代表は、堂童子ではなく大童子だったと結論されたのである。
P202
ところで、本来、大童子しか存在しなかったのであるから、これら御童子・座大童子・列大童子は、大童子の分化とみられる(これを→印であらわす)。そしてこの分化にともなって、大童子の語は、次第に、分化で残された部分=大童子長を指称することが多くなったようである(Bのかたち)。
P203
結論から言えば、御童子・座大童子・列大童子は実質的に同じであり、大童子長と御童子長も同じであった。それは多くの記載例から帰納されるところだが、ただ南都寺院では座大童子、京都寺院では列大童子と呼ばれ(列ではなく連・貫と記されていることもあり、すべてツラと呼ばれたのかもしれない)、御童子(列御童子ともある)は、南都・京都両方に見られるようである。
P206
すなわち、御童子というのは大童子制から分化したもので、その下部集団の呼称である(ただそれは「公家新制」などにはみられず私的な呼称)。御童子が座大童子・列大童子などと呼ばれたり、大童子の語が長・列を含む総称として使われることがあるのも、そのためであろう。
P212
以上、跡付けられる例は僅かであるが、しかしこれによって、古年童が実は御童子らを意味したことは明らかであろう。ことに、春熊・千菊など御童子であることを明証できたものが、いずれも古年童交名の冒頭部分にその名を連ねているという事実は決して偶然とは思われないので、実は、御童子こそ古年童の中核的存在であったと考えられる。すなわち、古年童は、門跡直属の御童子らよりなっていたのであり、その点、寺家所属の堂童子とはやはり別個の存在だったのである。古年童が東西両金堂に編成された南都に特有の存在だったのであろう。
P217
根拠があってのことではないのだが、私は、(聖僧は)文殊像だったのではないかと思っている。