周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

三原城城壁文書17

    一七 某書状(折紙)

 

 (前闕)

 「

 (宍戸)            (山内) 安芸高田郡)

 隆家よひ可申由得其心候、然とも隆通与風五龍下向候間、昨今之隙明差返可申之

 由候間、今日ハ被罷出ましく候、隆通只々被罷下候事ハ、太以不可然儀と申事

 候へとも、おさへて被罷下候、無申事候、自五龍すく成とも与州□可被罷出之

                               (宍戸)

 由被申出候、後出張之儀、弥はたと五龍にて被申堅候へと申事候、元孝出張候

 (之儀ヵ)

 □□是又以粟前[   ]別書[   ]紙[

                      (後闕)

 

 「書き下し文」

 隆家呼び申すべき由其の心を得候ふ、然れども隆通与風五龍に下向し候ふ間、昨今の隙明に差し返し申すべきの由に候ふ間、今日は罷り出でられまじく候ふ、隆通只々罷り下り候ふ事は、太だ以て然るべからざる儀と申す事に候へども、おさへて罷り下られ候ふ、申事無く候、五龍よりすぐに成るとも与州□罷り出でらるべきの由申し出でられ候、後に出張の儀、弥々はたと五龍にて申し堅められ候へと申す事に候ふ、元孝出張し候の儀是又以粟前を以て〜?〜

 

 「解釈」

 宍戸隆家をこちらに呼び申すべきという件については、承知しました。しかし山内隆通が急に五龍に下向しました。これからの手隙なときに差し戻し申すつもりなので、今日、下向することはありえません。山内隆通がただただ下向することは、たいそう不都合なことであると言う言い分もございますが、無理にでも下向なさいます。言い分はございません。山内隆通が五龍からすぐにこちらへやって来ても、伊予国へ下向しなければならないと申しております。後方の砦の件は、ますますすっかり五龍城で守備を堅固になさいませと申すことです。宍戸元孝が出陣します件は、これまた粟前をもって〜?〜

 

*書き下し文・解釈ともに、よくわかりませんでした。

 

 「注釈」

五龍

 ─広島県安芸高田市甲田町上甲立。可愛川と本村川が合流する地の南西、比高九〇─一四〇メートルにある。北および東は両河川を堀とし、西側には深い空堀を設ける。宍戸氏の居城で県指定史跡。山城全体の大きさに比べてツボの数が多く、「高田郡中聞書」に「東西に丸十一あり、南北に丸九つあり、山上に井あり」、また「廻り拾五丁三拾間程、東西へ長き山」ともある。(中略)すなわち東の尾崎丸から西の本丸に至るまで十余郭が配置され、本丸の南側には馬場の段、矢倉の段の下に続く釣井の壇には直径二メートルの井戸が残る。郭と郭の間には石塁・土塁・空堀が各所に残り、手の込んだ施設がなされていたことがわかる。

 宍戸氏は異説もあるが「閥閲録」所収宍戸美濃家書上によれば、源頼朝に仕えた八田知家の後裔で、知家の四男家政が常陸宍戸庄を領して宍戸姓を名乗り、安芸高田郡の所領を伝領した。家政六代持家の弟朝家が建武元年(1334)甲立に下向し、上甲立菊山麓に柳ヶ城を築いて移り住んだという。のち元木山に移って五竜城と改名。その後毛利元就と姻戚関係を結び、元就の中国制覇を助けた。宍戸元続のとき、毛利氏の防長移封に随従し、周防三丘(現山口県熊毛郡熊毛町)を領した(「五竜城跡」『広島県の地名』平凡社)。