【三原城城壁文書(県立三原高等学校所蔵)】
解題
本文書は三原城の城壁裏に貼られていたものであり、破損が著しい。この文書は楢崎氏と三原高等学校に分有されているが、この間の事情について、三原高等学校所蔵文書の奥書につぎのように記されている。
本書者貼附于三原城紙壁裡者也、其完全者数十通保存於楢崎家、既遂東京帝国大学史料編纂局之監査、不完備者数葉楢崎亨造氏贈之于余、今纏之一紙永久欲保存之焉、
昭和十一年九月下澣 沢井常四郎
なお、沢井常四郎氏に贈られたものは、のちに三原高等学校で教鞭をとられた沢井一夫氏(常四郎氏子息)によって同校社会科研究室へ寄贈され、現在に至っている。
一 安国寺恵瓊書状(切紙)(断簡)
(前闕)
「 」
[ ]相[ ]無[ ]被[
安国寺
]月六日 恵瓊(花押)
二 毛利輝元自筆書状
(包紙ウハ書)
「
[ ]人々申給へ 少輔太郎輝元」
(一) (安国)
□[ ]□□寺下向候於趣者、[ ]候間不能詳候、[ ]
(相) (恵瓊) (不)
□調安国寺給候間、[ ]□相違候、
(一) 然処
□安国寺爰元下着候、翌日自 公方様御使僧被差下候、
一其趣者、今度就御帰洛之儀、安国寺差上御祝着被思召候、いつれ重而織田か
(改ヵ)
対面所もいかゝ候、第一表裏之者候間、御□心も有之事候条、無御同心□、然間
(座候)
至紀国ニ被成御□□、弥御心安御安座あり度候条、毛利分国之はしへも可被成
御下向候分別も候ハヽ、可為御祝着候由御意候、使僧向上如此候、
一御内書も隆景元春我等へ御座候、御帋面ニハ安国寺差上儀被下候、
一去年之秋直之御左右ハ無之、たゝたゝ風聞ニさへ互ニ各仰天、無申斗事候つ、
如此被成御意候時ハ、何ともさらニ迷惑此時候、其表又先御」
(後闕)
「書き下し文」
一つ、[ ]安国寺下向し候ふ趣に於いては、[ ]候ふ間、詳らかにする能はず候ふ、[ ]相調ひ安国寺給ひ候ふ間、相違せず候ふ、
一つ、安国寺爰元に下着し候ふ、然る処翌日公方様より御使僧を差し下され候ふ、
一つ、其の趣は、今度御帰洛の儀に就き、安国寺を差し上ぐること御祝着に思し召され候ふ、いつれ重ねて織田か対面所もいかが候ふ、第一表裏の者に候ふ間、御改心も之れ有る事に候ふ条、御同心無し、然る間紀の国に至り御座成され候ふ、いよいよ御心安・御安座ありたく候ふ条、毛利分国の端へも御下向に成らるべく候ふ分別も候はば、御祝着足るべく候ふ由御意に候、使僧の向上かくのごとく候ふ、
一つ、御内書も隆景・元春・我らへ御座候ふ、御紙面には安国寺差し上ぐる儀下され候ふ、
一つ、去年の秋直の御左右は之無し、ただただ風聞にさへ互におのおの仰天し、申すばかりの事も無く候ひつ、此くのごとく御意を成され候ふ時は、何ともさらに迷惑此の時に候ふ、其の表また先づ御」
「解釈」
一つ、[ ]安国寺恵瓊が下向します件については、[ ]ですので、明らかにすることはできません。[ ]調整して安国寺にお与えになりましたので、それに背くことはありません。
一つ、安国寺がこちらに下着しました。そうしたところ、翌日公方足利義昭様からご使僧が差し下されました。
一つ、その内容は、今度ご帰洛の件について、安国寺を使者として遣わしたことを、たいへん喜ばしいこととお思いになっております。いずれ織田信長の対面所で再び会うのもどうでしょうか。信長はまずもって裏切り者ですので、いずれご改心になることもあるという考えには、公方様はまったくご同心にならない。そうしているうちに、公方様は紀州にお移りになりました。ますますご安心になり、落ち着いてお暮らしになりたいので、毛利分国の端へでもご下向になってもよいという考えが、そちら(毛利側)にありますのなら、たいへん喜ばしく満足であるというお気持ちです。私(使僧)の訪問はこのような件を伝えるためです。
一つ、御内書も小早川隆景・吉川元春・我ら(毛利輝元)へありました。ご紙面には安国寺を遣わすようお命じになっています。
一つ、去年の秋以来、直接お便りを交わすことはなかった。ただただ噂で互いの情報を聞いてそれぞれに仰天し、言葉を申し上げることもできませんでした。このように、お考えを思い付かれましたときは、何も伝えないのはまったくもって迷惑の至りです。また、その文書の事柄はまず〜」
*書き下し文・解釈ともに、まったくわかりませんでした。