周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

三原城城壁文書(楢崎寛一郎氏舊蔵)3・4

    三 穂田元清書状

 

 此状自吉田只今罷越候、則明日人を差返候条、御返事させられ候て可被下

 候へく候、恐惶かしく、

       八月九日         元清(花押)

 (捻封ウハ書)

 「                  四郎

        隆景様まいる人々御中  元清」

 

 「書き下し文」

 此の状吉田より只今罷り越し候ふ、則ち明日人を差し返し候ふ条、御返事させられ候ひて下さるべく候ふべく候ふ、恐惶かしく、

 

 「解釈」

 この書状はたった今、吉田から参りました。そこで明日隆景様は、使者を差し戻しますことをお返事になりまして、それをお与えくださいませ。恐惶かしく、

 

 

 

    四 廣尊隆亮連署書状(折紙)

 

   現形衆之書立御見せ候、御懇之儀ニ候、留申候、

                  (備中)

 昨日廿一御折帋今日申尅到来拜見候、松山儀内々以御調略之旨、竹井宗左衛門尉・

 三村兵部丞・同名助左衛門尉以下致現形、天神丸大松山御仕取之由、誠御太利尤

 目出候、小松山□ニ可為落去候、早々被仰聞候、恐悦ニ候、廣尊事頓可罷出之通

 存其旨候、御吉事重畳可申承候、恐々謹言、

      天正三年・1575)

       五月廿二日     太郎廣尊(花押)

               (三吉)

                 安房隆亮(花押)

    (小早川)

     隆景

    (福原)   御返報

     貞俊参

 

 「書き下し文」

 昨日二十一御折紙今日申の尅に到来し拜見し候ふ、松山の儀内々に御調略の旨を以て、竹井宗左衛門尉・三村兵部丞・同名助左衛門尉以下現形致し、天神丸・大松山御仕え取るの由、誠に御多利尤も目出候ふ、小松山□に落去と為るべく候ふ、早々仰せ聞きけられ候ふ、恐悦に候ふ、廣尊の事頓に罷り出づべきの通り其の旨を存じ候ふ、御吉事重畳申し承るべく候ふ、恐々謹言、

   現形衆の書立御見せ候ふ、御懇の儀に候ふ、留め申し候ふ、

 

 「解釈」

 昨日五月二十一日の御折紙が、今日申の刻に到来し拝見しました。備中松山城の件ですが、内々にご調略になるという戦略によって、竹井宗左衛門尉・三村兵部丞・三村助左衛門尉以下が裏切り、天神丸・大松山も奪い取り申し上げたことは、誠に大きなご成果であり、たいそう喜ばしいことです。小松山もすぐに落城となるにちがいありません。すぐにわれわれへお伝えくださいましたことを、たいそう喜んでおります。廣尊はすぐにそちらへ出向き申し上げなければならないと存じております。このうえなくおめでたいことをうかがうつもりです。恐々謹言。

   裏切った衆の目録を我々にお見せになりましたことは、ご親切なことでございます。目録はこちらに留め申し上げます。

 

 「注釈」

松山城

 ─現高梁市内山下。高梁市街地の北方にそびえる臥牛山頂の小松山にある山城跡。天守閣の現存する山城としては日本で最高峰(標高460メートル)にある城として知られる。

 松山城承久の乱後、新補地頭として有漢郷(現上房郡有漢町)に来住した相模国三浦市一族と伝える秋庭三郎重信が延応二年(1240)に臥牛山のうち大松山に築城したのが創始と伝えられる(備中誌)。その後、小松山にも出城が築かれ、元弘年中(1331─34)には大松山に高橋九郎左衛門宗康、小松山に弟大五郎が居城していたというが(備中誌)、元弘三年五月北条仲時に従って東上した宗康とその子又四郎範時は近江国で仲時に殉じて寺外した(「太平記」巻九)。高橋氏はその後窪谷郡流山城(現倉敷市)に転じたと伝え、正平一〇年(1355)には備中守護高師秀が入場した。同一七年、南朝方の山名時氏が山陰から美作・備中に進出してくると、師秀は時氏麾下の多治目(多治部)・楢崎両氏と結んだ秋葉三郎信盛によって「松山ノ城」を追われ、備中徳倉城(現御津郡御津町)へ退き(「太平記巻三八」)、以後松山城には六代にわたって秋葉氏が在城し、守護代を勤めた。守護細川氏はおおむね在京していたために、当城が備中北部における守護所の機能を果たしていたと思われる。

 応仁の乱では、秋葉元明細川勝元に属して京都洛東の岩倉山に陣を構え、山名方の軍勢を打ち破っているが(「応仁別記」)、やがて秋葉氏の勢力は衰え、永正年中(1504─21)には下道郡下原郷(現総社市)の鬼邑山(木村山)城を本拠としていた上野兵部少輔頼久が周防国山口の大内義興の支援を得て松山城主となった。上野氏は天文二年(1533)頼久の子伊豆守の時、猿掛城(現吉備郡真備町)城主庄為資に滅ぼされた(中国太平記)。庄氏は為資とその子高資の二代にわたって松山城に在城した。この間備中に進出してきた山陰の尼子氏に攻められたが(「鹿苑日録」天文八年九月一二日条)、やがて尼子氏と手を結んで威を振るった。しかし永禄四年(1561)に高資が尼子氏の加番吉田左京亮と対立して城を出ると、秋の毛利元就の支援を得た成羽鶴首城(現川上郡成羽町)城主三村家親が松山城を攻めて左京亮を討ち(同年四月二〇日「小早川隆景感状」萩藩閥閲録など)、松山城主となった。家親は毛利氏と手を結んで美作・備前に進出したが、同九年に久米郡籾村興禅寺(現久米南町)で宇喜多直家のために暗殺され、翌一〇年家親の子元親も明禅寺合戦で直家のために大敗を喫した(備前軍記)。この大敗によって三村氏の勢力が一時後退すると、備中には直家と結んだ尼子勝久の勢力が進出、元親は成羽へ退き、庄高資が再び松山城主となったようである。しかし元亀二年(1571)毛利の加勢を得た元親は再び松山城を回復した(同年二月一八日「穂田元清感状」黄薇古簡集)。

 元亀三年将軍足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると(同年一〇月二九日「小早川隆景吉川元春連署起請文」萩藩閥閲録)、元親は織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻した。かくして天正二年(1574)冬から翌三年夏にかけて毛利・宇喜多連合軍と三村勢との間で松山城をはじめ三村方の備中諸城をめぐって激戦が展開される。このいわゆる備中兵乱によって三村氏は滅ぶが、この頃の松山城は小松山に移っており、臥牛山一帯には大松山をはじめ天神丸・佐内丸・太鼓丸・馬酔木丸などの出城・出丸が設けられ、一大要害となっていた(中国兵乱記)。また城主の居館である御根小屋も後世の場所(臥牛山南西麓)に設けられていたようであるが(同書)、松山城とともにその縄張りや建物などについては明らかでない。三村氏滅亡後の松山城は毛利氏の番城隣、家臣天野氏・桂氏などが在城した(天正四年正月二三日「毛利輝元書状」萩藩閥閲録など)。(後略)(『岡山県の地名』平凡社)。

三原城城壁文書(楢崎寛一郎氏舊蔵)2

    二 小早川隆景書状

 

 備前兒島)

 就元太表之儀、先日者預御尋于今本望候、乍御報如申入候、彼表之儀詰口堅固ニ

 仕寄等申付之由候、急度可有一途趣候、雖然阿州衆事此砌出津候而、後巻必定由

 到来候、此時者非可致油断候之条、我等事出張候て追々人数并舟短息候而、後詰

 之覚悟候、敵於渡海者見合一安否可仕之通、細川野州・三村申合、

 乃美宗勝井上春忠

 従乃兵・井又右所申越候、先備後外郡衆事、急度可被指出之通吉田申談之候、於

 旨儀者重畳可申入候、猶此者申含候、恐々謹言、

       三月十日      隆景(花押)

      (熊谷)

      信直 まいる 申給へ

 

 「書き下し文」

 元太表の儀に就き、先日は御尋に預かり今に本望に候ふ、御報ながら申し入れ候ふごとく、彼の表の儀詰口堅固に仕寄等を申し付くるの由に候ふ、急度一途の趣有るべく候ふ、然りと雖も阿州の衆事此の砌に津を出で候ひて、後巻必定の由到来し候ふ、此の時は油断致すべきに非ず候ふの条、我等の事出張り候ひて追々人数并びに舟短息し候ひて、後詰の覚悟候ふ、敵渡海に於いては見合ひ一安否仕るべきの通り、細川野州・三村申し合わせ、乃兵・井又右より申し越す所に候ふ、先づ備後外郡衆の事、急度指し出ださるべきの通り吉田に之を申し談じ候ふ、於旨儀に於いては重畳申し入るべく候ふ、猶ほ此の者に申し含め候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 備前国本太城の最前線の件について、先日はお尋ねいただき、今、喜んでおります。お返事としてお伝えするとおり、この最前線の件ですが、敵方は詰口に仕寄などを堅固に設置することを申し付けたとのことです。きっと一つの方針がある(守備に専念する)のでしょう。しかし、阿波衆はこの機会に津を出発しまして、我らの背後を取り巻くことは必定であるとの情報が到来しました。そのときは油断してはなるまいと、我らも攻め寄せまして、次第に軍勢や舟を調達しまして、後詰をする覚悟でございます。敵が渡海してきた場合には、時機を見計らって敵の動静を見極めるという取り決めに従って、細川通薫や三村元親と相談し、乃美宗勝井上春忠から申し伝えるところです。まず備後外郡衆を、是が非でも差し出すように、吉田の毛利元就に相談し申しあげます。この件については、重ねがさね申し伝えるつもりです。なお詳細は、この使者に言い聞かせております。恐々謹言。

 

*解釈はよくわかりませんでした。

Lyricの一部

「And I'm gibing all my love to this world」 以降

僕の愛をすべて この世界に捧げても

むだなこと

物は見えるし、息もしてる

ただ心の行き場はどこにもない

僕たちの生き方を 変えられるものは何もない

取るだけ取って 何も与えなくてもいいから

すべてが悪い方向へと 向かっているのさ

僕たちが生きているのは くるった世界

わからないよ この世の半分が罪に浸っていて

それしか僕らにはないのか

 

未来はヴァーチャル・インサニティ(得体のしれない狂気)

いつもこうなってしまう

無駄に技術をねじることが どうしても好きらしい

今では音も消えてしまった

地下で暮らしているのだから

 

なぜこんなにひどくなったのか

どこから考えればいいんだろう

眠ることができれば終わるさ

人が生み出した恐怖は

母親が自分の子供の肌の色まで 選べるようになってしまった

もう子供を布で縛ることもない

つい昨日そんな話を聞いた

もう祈ることしか残されていない

新しい宗教を見つけるときがきた

なんて狂気の沙汰なんだ

人の流れの中に身を沈めるなんて

僕たちの未来には 語られなくてはいけないことが

 

未来はヴァーチャル・インサニティ(得体のしれない狂気)

いつもこうなってしまう

無駄に技術をねじることが どうしても好きらしい

今では音も消えてしまった

地下で暮らしているのだから

 

音も消えてしまうさ 地下で暮らしていたら

ここからはヴァーチャル・インサニティ(得体のしれない狂気)

ヴァーチャル・リアリティは忘れて

こんなにひどいことはない

僕はわかっているさ

 

未来はヴァーチャル・インサニティ(得体のしれない狂気)

いつもこうなってしまう

無駄に技術をねじることが どうしても好きらしい

今では音も消えてしまった

地下で暮らしているのだから

 

*札幌の地下街に影響を受けて作られた歌

妖怪 女面鯉鳥!

「妖怪 女面鯉鳥(にょめんりちょう)」

(『安位寺殿御自記』42巻─4枚目、国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0410000000/0000000975/00

 

【史料1】

  長禄四年(1460)原表紙・六月十六日条

        (『経覚私要鈔』4─216・247頁)

 

 (原表紙、自筆)   伊予守所ニ

 長禄四年六月自鎌倉○注進妖物絵図

        武蔵国

        伊豆国いかこの宮出現

                  云々

    (中略)

  〔十六日〕〔辛丑〕

  □□□、□□、[

    (中略)

 〔一〕

 □[     ]帰来云、関東妖物[    ]可京着云々、希代事□、

 

 「書き下し文」

 長禄四年六月鎌倉より伊予守所に注進する妖物絵図、

        伊豆国いかこの宮に出現すと云々、

    (中略)

  十六日、辛丑、[

    (中略)

 一つ、[ ]帰り来りて云く、関東妖物[ ]京着すべしと云々、希代の事□、

 

 「解釈」

 長禄四年(1460)六月鎌倉より伊予守のところに注進された妖怪の絵図。

        武蔵国五十子に出現したという。

    (中略)

  十六日、辛丑。

    (中略)

 一つ、[ ]が帰ってきていうには、関東の妖怪が[ ]京都に到着する予定だという。驚くべきことである。

 

 A picture of a yokai reported to governor of Ehime Prefecture from Kamakura in June 1460. It is said to have appeared in Ikatsuko, Honjo City, Saitama Prefecture.

 Someone came back and said that the yokai captured in Kanto was scheduled to arrive in Kyoto. That's surprising.

 (I used Google Translate.)

 

 「注釈」

「五十子」

 ─いかっこ。北東流する小山川の左岸、本庄台地の東端一帯と見られる中世の地名。現本庄市東五十子・西五十子付近に比定され、北部を女堀川が流れる。関東管領山内上杉房顕は、享徳の乱を中心とした古河公方足利成氏との攻防に際し、五十子に砦を築いて自ら滞陣し、陣頭指揮をとった。これを五十子陣と呼ぶ。房顕の五十子下向は長禄三年(1459)頃と推定され、「鎌倉大草紙」に「房顕ハ武州五十子といふ所に陣取、成氏衆と対陣して、日々夜々の合戦なり」と記される。五十子は上野の白井(現群馬県子持村)・平井(現同県藤岡市)と武蔵の河越、岩付(現岩槻市)および江戸を結ぶ対古河公方防衛戦のほぼ中央に位置し、利根川に沿って進出する古河公方勢に対する押さえにもなった。以後、房顕は五十子に滞陣するが、寛正七年(1466)二月十一日に戦没した(同書)。なお「鎌倉九代後記」はこれを二月十二日のこととする。寛正元年十一月には「一、社務神守院今月廿八日、上州五十子・同河越江下向在之」(「香蔵院珎祐記録」國學院大学図書館蔵)とあり、鎌倉鶴岡八幡宮若宮別当の神守院弘尊が五十子の陣を訪れている。文正元年(1466)十月には、連歌師飯尾宗祇が五十子陣で千句興行を行ない、長尾孫六連歌指南書「長六文」を与えた。なお現存する同書古写本中の一本は、県立博物館に所蔵されている。

 房顕には世嗣がなかったため、その死後、越後守護上杉房定の子顕定が山内上杉氏家督を継いで関東管領に就任し(年欠六月三日「足利義政御内書写」足利家御内書案など)、扇谷上杉定正らとともに五十子陣に滞陣した。文明三年(1471)には関東管領山内上杉顕定をはじめ、越後上杉氏・扇谷上杉氏や武蔵・上野・相模の諸将七千余騎が五十子陣およびその近辺の牧西・小和瀬・滝瀬・阿波瀬・堀田、榛沢(現岡部町)、手計河原(現深谷市)に陣を張っていたという(松蔭私語)。同五年十一月二十四日、足利成氏が五十子陣を攻め、扇谷上杉政真が戦死している(鎌倉大草紙)同八年暮れ、関東管領上杉顕定の家臣長尾景春鉢形城(現寄居町)に拠って主家に反旗を翻して五十子を攻め、翌年一月十八日にも再度急襲を行なったため、顕定・定正らはいったん上野国に逃れた。しかしまもなく、太田資長(道灌)によって五十子の陣は奪回され、顕定・定正らの復帰を見た(同十二年十一月二十八日「太田道灌書状写」松平文庫所蔵文書、「松蔭私語」など)。なお天正八年(1580)十二月一日に鉢形城北条氏邦は長谷部備中守に上野武田方への塩荷の差押えを命じているが、その定められた範囲のなかに五十子が含まれている(「北条氏邦印判状」長谷部文書)。

 本庄台地を開析する女堀川と小山川に挟まれた三─五メートルの舌状の崖上に、五十子陣の砦跡と見られる遺構がある。五十子城跡とも呼ばれ、平坦な台地は南東方向へ接続し、東方の低地内の微高地上を鎌倉街道が南北に通る。五十子陣の中心と伝える東五十子城跡からは、宝篋印塔や五輪塔、板碑を利用した竈、かわらけや瓦片が出土。東五十子に接する西五十子字台では、おびただしい数のかわらけを出土する堀状遺構二箇所や宝篋印塔など利用した竃、同字大塚・諏訪廻からもかわらけが発見されていることなどから、当時の五十子陣は広範囲に渡っていたと考えられる。なお、「武蔵志」の児玉郡東五十子の項に、五十子古城図が載る(『埼玉県の地名』平凡社・)。

 

 

【史料2】

  同年六月十五日条

   (『臥雲日件録抜尤』124頁・『静岡県史 資料編6中世二』1148頁)

 

         (景浦寿睦)     (利根)

 十五日、─等持寺睦蔵主来、因話、関東ト子河出怪物、面女人、身鯉魚、

                 田方郡

 足似鳥、口能言、里落相送、今在伊豆三島、其形為図画、伝于京師、又話、

        コケヤノ ト

 京六条有倉、曰後家屋倉、々主妻、腰以下為蛇体云々、

   (中略)

                       ル シ   サメ   キ シ

 此皆因淫雨之訛言也、又聞、山婆生四子、一曰春好、二曰夏雨、三曰秋好、四曰

  サメ

 冬雨、此依今夏多雨也、

 

 「書き下し文」

 十五日、等持寺睦蔵主来り、因みに話す、関東利根川に怪物出づ、面は女人、身は鯉魚、足は鳥に似る、口能く言ふ、里落相送り、今伊豆三島に在り、其の形図画に為し、京師に伝ふ、又話す、京の六条に倉有り、後家屋の倉と曰ふ、倉主の妻、腰以下蛇体たりと云々、(中略)

 此れ皆淫雨の訛言に因るなり、又聞く、山婆四子を生む、一は曰春好と曰ひ、二は夏雨と曰ひ、三は秋好と曰ひ、四は冬雨と曰ふ、此れ今夏多雨に依るなり、

 

 「解釈」

 十五日、等持寺景浦寿睦蔵主がやってきた。ついでに話した。関東の利根川に怪物が出現した。顔は女人で、身体は鯉、足は鳥に似ている。人語を話すことができる。村人が届けてきて、今は伊豆国の三島にいる。その姿を絵に描き、都に伝えてきた。また話した。京の六条に倉がある。後家屋の倉という。倉主の妻は、腰から下が蛇体であるという。(中略)

 これらの話は、すべて長雨の戯言によるのである。また聞いた。山婆が四人の子どもを生んだ。一人目は春好と言い、二人目は夏雨と言い、三人目は秋好と言い、四人目は冬雨と言う。このような噂話も、今年の夏の大雨が原因である。

 

 On June 15th, Keihozyumoku from Tojiji Temple came. he spoke in passing. A monster appeared in the Tone River in the Kanto region. It has the face of a woman, the body of a carp, and the feet of a bird. It can speak human language. It was delivered by a villager and is now in Mishima City, Shizuoka Prefecture. The picture depicting the monster has been passed down to the capital.

 He told another story. There is a financial company in Rokujo, Kyoto. Its name is Gokeyanokura. He heard that the owner's wife has a snake-shaped lower body.

 These stories are all rumors spread due to the long rains. He told another story. Mountain witch gave birth to four children. The first person's name is Haruyoshi, the second person's name is Natsusame, the third person's name is Akiyoshi, and the fourth person's name is Fuyusame. This rumor was spread due to the heavy rains this summer.

 (I used Google Translate.)

 

 

【考察】

 長禄四年(1460)六月、鎌倉から驚くべき情報が飛び込んできました。なんと、武蔵国の五十子(現在の埼玉県本庄市)で妖怪が捕らえられたのです。伝聞情報だけであれば、たいして珍しくもないのですが、今回はその妖怪の図像も伝わっているのです。しかも、百鬼夜行絵巻のような創作物ではなく、寺僧の日記に書き残されているところが本当に珍しい。

 この妖怪の情報ですが、やや錯綜しているようです。【史料1】と【史料2】の情報を、整合性をつけながらまとめてみると、武蔵国五十子で村人によって捕らえられた妖怪は、伊豆国三島に送られ、いずれ都に連れて来られるはずだ、ということになります。

 さて、注目すべきは、この妖怪の形象描写です。【史料2】によると、「面は女人、身は鯉魚、足は鳥に似る」と記載されています。上記掲載の図像を見てみると、「身体は鯉、足は鳥」という説明には納得できます。ただ、「顔が女」だと言われても、はいそうですか、とはなかなか納得できません。絵画史料論を専門にされている研究者が見れば、女だと気づけるのかもしれませんが、私のような素人では、「面は女人」という表記がなければ、女の顔などとは思いもしなかったことでしょう。やはり、図像だけでは見誤るし、言葉だけでは正確に想像することができないのです。言葉と図像がセットで伝来しているというのは、本当にありがたいことだと思います。

 ちなみに【史料2】には、この妖怪(「女面鯉鳥〈にょめんりちょう〉」と命名)の話題以外にも、二つの怪奇譚が記されています。一つ目は、土倉の妻の下半身が蛇体であるという噂。富裕のシンボルである「倉」、その倉主の「妻(女性)」、「蛇体」というキーワードが揃えば、これは福徳の神「宇賀神」を意味していると見て間違いないでしょう。宇賀神は弁財天の別名でもあるので、おそらく土倉の妻は、宇賀神や弁財天の化身と考えられていたのではないでしょうか(宇賀神については、「室町時代の都市伝説」参照)。

 二つ目は、山姥が子どもを産んだという噂。一人目は春好(はるよし)、二人目は夏雨(なつさめ)、三人目は秋好(あきよし)、四人目は冬雨(ふゆさめ)。春と秋は天候が良く、夏と冬は雨が多いので、このような名前を付けたということなのでしょう。山姥も、なかなか小洒落たキラキラネームを付けるものです。

三原城城壁文書(楢崎寛一郎氏舊蔵)1

    一 某書状  ◯以下二通、東大影写本ニヨル

 

  御状披見申候、

         (朝山)

 一中郡雑説付而、日乗以前者人質□可取候、何事も安やうに被申候条、其時者日乗

  被出候者可然之由申候処、何とや[    ]相違候辻者、人を被出申候て

  被聞け候、依其返事可出候との事にてありけ候、

 一昨日自日乗御方へ之折紙披見[ ]延引不可然候 被申候事ニ尤候へく候、其外

  之儀者受候事いつ□□りたる事に候、事多上ニてハさやうに口ニて申候様には

  不成事存候、彼仁もよく分別あるへく候へ共、何とそむきける事に候や、

 一何ハ不入候、於爰元ハ理すミ候ましく候へく候、それへまいられ候へ者申候而

  可進之候、もしもし中郡衆之儀付而入事共被調候ハんならは、能々被仰合候而、

  一両日中にも可被出候へく候、

 一人質ハ得とられす候共、雑説之儀さあるましき所、被申分候事を、早々被出被申

  候へかしとハ存候へく候、

    かしく

      豊前松山城) 〔吉川〕(市川経好)(坂元祐)(財満忠久)(ヵ)

  又申候、自松山左右候、吉見方市式・坂新・才満・満福寺以下、松山登城候て、

                                (警固)

  自松山之状参らせ候、自是進之候て可懸御目候へく候、唯今之事ハけいこ衆城中

                  さのみ

  へ出入たくさん候て、堅固之覚悟◯仰天なき趣ニ聞え候、先以可然候へく候、

                     かしく

 (後闕)

 (捻封ウハ書)              (報)

 「           隆景まいる御返□」

 

 「書き下し文」

 一つ、中郡の雑説付けて、日乗以前は人質□を取るべく候ふ、何事も安養に申され候ふ条、其の時は日乗出でられ候はば然かるべきの由申し候ふ処、何とや[    ]相違し候ふ辻は、人を出だし申され候ひて聞かれけるに候ふ、其の返事により出づべく候ふとの事にてありけるに候ふ、

 一つ、昨日日乗より御方への折紙披見[ ]延引然かるべからず候ふ、 申され候ふ事に尤も候ふべく候ふ、其の外の儀は受け候ふ事いつ□□りたる事に候ふ、事多き上にてはさやうに口にて申し候ふ様には事成らず存じ候ふ、彼の仁もよく分別あるべく候へども、何とそむきける事に候ふや、

 一つ、何は不入に候ふ、爰元に於いては理済み候ふまじく候ひべく候ふ、それへまいられ候へば申し候ひて之を進らすべく候ふ、もしもし中郡衆の儀付けて入るる事ども調へられ候はんならば、能々仰せ合わせられ候ひて、一両日中にも出でらるべく候べく候ふ、

 一つ、人質は得取られず候へども、雑説の儀さあるまじき所、申し分けられ候ふ事を、早々に出でられ申され候へかしとは存じ候べく候ふ、

    かしく

  又申し候ふ、松山より左右候ふ、吉川方市式・坂新・才満・満福寺以下、松山登城し候ひて、松山よりの状参らせ候ふ、是より之を進らせ候ひて御目に懸くべく候べく候ふ、唯今の事は警固衆城中へ出入たくさんに候ひて、堅固之覚悟さのみ仰天無き趣に聞こえ候ふ、先づ以て然かるべく候べく候ふ、

                     かしく

 

 「解釈」

 一つ、中郡の根も葉もないうわさについて、朝山日乗は以前、「人質を取らなければなりません。何事も心を安らかにして人質の身を養うように」と申し上げなさいました。そのときは、日乗がお出でになりますならようございましょう、と申し上げましたが、どうしたことか、日乗が出向かなかった結果、他の人を遣わし申されましてお聞きになりました。その返事によって、日乗はそちらへ出向くつもりですとのことであったのです。

 一つ、昨日日乗から御方への折紙を披見した。延引することは不適切です。申し上げなさいましたことは当然のことでございます。その外の件については、引き受けますこと 〜?〜 ことです。案件が多いからには、そのように口頭で申し上げますようでは、物事はうまく運ばないと存じます。あの人もよく物事を弁えているはずですが、どうして取り決めに背いたことでしょうか。

 一つ、何も立ち入りません。こちらでは、訳がわかろうはずもございません。そちらへ参上なさいますので、申し上げまして、これを差し上げるつもりです。もし中郡衆の件について、立ち入りを調整なさいますならば、よくよくご相談になりまして、一両日中にもお出かけになるのがよいでしょう。

 一つ、人質は手に入れることができませんが、根も歯もないうわさの件は、そのようなことはあるはずもないことを申し開きなさいますことを、早々にお出かけになり申し上げなさってくださいよ、と存じ上げております。

    かしく

  また申し上げます。豊前国松山城からの書状があります。吉川元春方の市川経好や、坂元祐・財満忠久・満福寺以下が松山城に登城しまして、松山城からの書状を受け取って参りました。こちらからその書状を差し上げまして、お目に懸けるつもりでおります。ただ今の状況は、大友方の警固衆が松山城中へ何度も出入りしておりまして、堅固に守ろうとする心構えはそれほど驚くほどではないと申し上げております。まずはよいことでございます。

                     かしく

 

*解釈はよくわかりませんでした。

 

 「注釈」

松山城

 ─福岡県京都郡苅田町松山。周防灘に突き出た半島に所在した中世の城郭。半島の頂上部(城山、標高127・9メートル)を削平して本丸とし、南東に向けて郭を連ね、南麓に大手口を開く。海と急峻な斜面に囲まれた天然の要害である。「豊前古城記」や「豊前志」などには天平一二年(740)に藤原広嗣を防ぐために築城されたとあり、その後の動向も詳しく記されているが口承の域を出ない。

 弘治二年(1556)に否定される九月二〇日の大友義鎮書状写し(横山文書/大一一)によれば、義鎮は同年八月一三日「松山城切岸」において戸次中務少輔に戦功があったと賞している。同三年大内義長が毛利元就に滅ぼされると、大友氏と毛利氏による豊前争奪戦が繰り返される。永禄四年(1561)一一月門司城(現北九州市門司区)攻略戦で大友軍が総崩れとなり敗走すると、毛利軍は松山城を確保し(十二月八日「小早川隆景書状写」麻生文書/麻)、城番を置いた(一二月二三日「毛利元就感状」萩藩閥閲録三)。しかし翌五年九月頃には大友方の攻勢が強まり(九月一〇日「戸次鑑連書状」田尻文書/佐七)同月十三日に大友軍の城攻めが始まった(一〇月一二日「大友宗麟書状写」真修寺文書/大一三)これに対して同年一一月元就は松山城へ兵糧の搬送を指示し籠城戦に備え(一一月一六日「毛利元就書状」萩藩閥閲録三)、翌一二月には毛利隆元が参陣している(一二月二二日「毛利隆元書状」同書三)。さらに当城に籠る天野隆重・杉松千代(重良)らの奮戦もあり(正月二七日「毛利隆元袖判奉行人連署書状」同書二)、戦線は膠着状態に陥ったが、幕府の調停により戦闘を終結、当城は大友方に引き渡されたらしい(中国治乱記)。しかし同九年に尼子氏を破った毛利氏は再び九州での動きを活発化させ、当城も回復する。同一一年五月当城周辺で大友軍が構成を強めると(同月二九日「毛利元就・輝元連署書状」堀立家証文写/内海文化研究紀要一六)、城将杉重良らが防戦に努め(九月二〇日「杉重良分捕并手負討死人数注文」萩藩閥閲録二)、翌一二年毛利方は城普請を行って備えを固めた(閏五月六日、「毛利元就・輝元連署書状」同書四)。しかし同年一〇月大友氏の後援を受けた大内輝弘が周防山口を強襲、毛利勢が九州から撤収し当城は再び大友方となった(同月二八日「吉弘鑑理書状写」無尽集/史一〇─三)。

 天正六年(1578)一一月大友勢が日向国耳川の合戦で薩摩島津氏に大敗し、反大友勢力が決起すると、松山城将出会った長野氏も大友方に反旗を翻している(九月二八日「長野助守覚」神代長野文書/北九歴二)。この背景には毛利方による積極的な工作があったとみられ、同九年には毛利輝元が松山近辺の動向をめぐって指示を与えている。(一〇月二八日「毛利輝元書状」萩藩閥閲録一)。同一四年大友氏の要請により豊臣軍が島津軍鎮圧のために九州に進出した際、当城へは先鋒となった小早川隆景が家臣の仁保氏や湯浅氏を城番に据えている(一二月二日「小早川隆景軍忠状」同書三)(「松山城跡」『福岡県の地名』平凡社)。