解題
楢崎氏は正慶二年(1333)、備後国芦田郡久佐村地頭職を賜った宇多加賀守にはじまる。この時より、久佐村楢崎山に居住し楢崎をもって氏とした。その後、三河守豊景は毛利元就に属し、神辺の陣、筑前立花の陣に加わる。朝鮮の役にも従うが、その一族は各地に散居することになったという。
本文書は、毛利輝元とその家臣への書状が主体をなしている。
一 毛利輝元書状 ◯以下一三通、東大影写本ニヨル
彼是此者可申候、万吉重畳可申承候、恐々かしく、
(捻封ウハ書)
「 (小早川) 少輔太郎
隆景 まいる 人々 輝元」
申給へ
「書き下し文」
彼是此の者申すべく候ふ、万吉重畳申し承るべく候ふ、恐々かしく、
「解釈」
あれもこれもこの者が申すはずです。このうえなく喜ばしいお話を伺いたいです。
二 毛利輝元書状(折紙)
尚々[ ]帋承之由候、被到来候へく候、
(周防大島郡)
就宇賀嶋抱様之儀、追々被仰越候、人数之儀無残差遣之候、自然物色相見候者、
猶以不可有緩候、可御心安候、
(吉川) (マヽ)
一普請之儀、申付度候へ共、如何にも爰元之儀、無人之故不相成候、元春申間着
(福原元俊・志道元保)
之由候、福式志上なと罷越候間、各相催候て急度可申付候、
一板之事尤存候、是又可相調候、尚重畳可申入候、恐々謹言、
右馬頭
卯月十三日 輝元(花押)
◯本文書宛所ナシ
「書き下し文」
宇賀嶋抱え様の儀に就き、追々仰せ越され候へ、人数の儀残り無く之を差し遣し候ふ、自然物色相見候はば、猶ほ以て緩有るべからず候ふ、御心安すべく候ふ、
一つ、普請の儀、申し付け度く候へども、如何にも爰元の儀、人無きの故相成らず候ふ、元春申すまじきの由に候ひ、福式・志上など罷り越し候ふ間、各々相催し候ひて急度申し付くべく候ふ、
一つ、板の事尤も存じ候ふ、是又相調ふべく候ふ、尚ほ重畳申し入るべく候ふ、恐々謹言、
尚々〜?〜帋承るの由候ふ、到来せられ候ふべく候ふ、
「解釈」
宇賀島の支配の仕方について、おいおいおっしゃってください。人数の件ですが、残すところなく派遣します。戦況によっては、いっそういいかげんに対処することはありえません。ご安心なさってください。
一つ、普請の件を命じたいですが、どうにもこちらには人夫がいないので、命じることはできません。吉川元春は申すつもりはないということです。福原元俊と志道元保などがやって来ましたので、それぞれせきたてて集めまして、厳しく命じるはずです。
一つ、板のことは当然のことと思っております。これもまた調進するつもりです。さらに重ねがさね申し伝えるつもりです。以上、謹んで申し上げます。
さらに、〜?〜紙をいただいたことがございました。到来するはずです。
*解釈はよくわかりませんでした。
「注釈」
「宇賀嶋」
─現大島郡橘町大字浮島。屋代島の北方海上約五キロに位置し、周囲七キロ、面積二・八平方キロの小島。
大内氏の水軍宇賀島十郎左衛門の根拠地で、弘治元年(1555)九月には陶晴賢が浮島の兵船を率いて厳島を攻めた。その様子を「陰徳太平記」は「先陣宗勝、其後に左は武慶、右は通康、其後に因島、村上と次第に漕並べ、三百余艘を杉形に備へて馳せ向へば、大島、宇賀島是を見て三百艘許り漕ぎ出し戦ひたりけれども」と記している。同年一〇月一日には毛利元就は宇賀島衆をはじめとする陶軍を三島方より攻撃し、これを全滅させた(武家万代記)。この時より浮島は無人島になったと伝える。その後、「注進案」によれば天和元年(1681)沖家室(現東和町)の友澤四郎左衛門(萩藩遠近付友沢左兵衛の先祖という)が浮島に渡り田畑を開き、森村(現東和町)の百姓に働きかけてより島の開発が進んだ。のち、油良村の沓屋氏、沖家室の友沢氏の所領となった。明治一七年(一八八四)までは森村に属していた。
島内の江浦には盤尾神社がある。「注進案」によれば、友沢四郎左衛門が浮島を開拓する時、二丈余りの黒蚖蛇が出現、人家を害することが続いたので、森村宝王大明神の祠官高田左近を頼み、記念、守札をもらったところ退散。しかし今度は大鼠が幾千万と出現し作物や人家を荒らした。再び高田左近に祈念をしてもらい、宝王大明神より三宝荒神を勧請、岩尾大明神として祀ったところ、祟りはなくなったという(「浮島」『山口県の地名』平凡社)。