六 豊臣秀吉朱印状
(継飛脚)
つきひきやく壹人、大坂まて夜中ニよらす可二相届一候、然者御定のことく、
壹里ニ四文つゝ可レ遣レ之候也、
(1593)
文禄貳年六月廿九日 ◯ (秀吉朱印)
ふか江
「書き下し文」
次飛脚一人、大坂まで夜中によらず相届くべく候ふ、然れば御定めのごとく、一里に
四文づつ之を遣はすべく候ふなり、
「解釈」
次飛脚一人を、大坂まで夜中によらず届け合うべきです。だから、御定めのとおりに、一里につき四文ずつ、次飛脚に与えるべきであります。
「注釈」
「次飛脚」─「継飛脚」と漢字を当てた場合、江戸幕府公用の飛脚を指します(『角川
新版日本史辞典』)。豊臣政権の場合は「次飛脚」と漢字を当てます。本
多博之論文では次のように説明されています(「豊臣政権の次夫・次馬・
次飛脚・次船制について」『内海文化研究紀要』45、2017・3、
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/list/HU_journals/AN00176886/--/45/item/42925)。「豊臣政権の次夫・次馬・次飛脚・次船制は、第一次朝鮮侵略戦争
(文禄の役)の実施に当たり、軍勢発進基地となった肥前名護屋と京・大
阪との間の通信・輸送を迅速かつ確実にするために、政権がその経路(陸
路・海路)を整備して設定した長距離通信輸送制度である」。
「ふか江」─深江宿。福岡県糸島市二丈深江。