周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

極楽寺所蔵文書5

    五 法持院領臨時反銭請取日記

 

 法 持 院 臨 時 反 銭 請 取 日 記

   天文六年〈丁酉〉歳院主山口下之時臨時懸候事

        (者)

   一三分二方ゝ四貫六百七十六文歟

    〈此内ニ貳百十文ハ春冬不足秋ハ百四十文歟」

     月光坊此度斗被納候、〉        取次九郎右衛門

       (者)

   一三分一ゝ壹貫貳百四十文歟     取次孫左衛門

     都合已上五貫九百十九文歟

                      請取圓光坊

     為後日此誌候定、

       (1537)

       丁酉八月十二日

 

*書き下し文・解釈は省略します。

*割書と改行は、〈 」 〉で表記しています。

極楽寺所蔵文書4

    四 川井右衛門尉請取状

 

       法持院四分壹

      壹貫文先請取申候、

     (1535)         川井右衛門尉

     天文四〈乙未〉六月六日     □□(花押)

 

*書き下し文・解釈は省略します。

極楽寺所蔵文書3

   三 楽音寺領四分一寺僧分請取日記

 

    御寺領分四分一請取日記

 五百文   介坊     三百文   定安房

 三百文   勝実坊    二百文   安楽坊

 百文    日輪坊    二百文   月光坊

 二百文   承仕免    二百文   番匠

 百八十文  圓光坊    二百文   宮仕

 二百文   木引谷    百五十文  善哉坊

        住持宰相公

 百五十文  宥乗坊

     (1533)

     天文二年〈癸巳〉歳

  殿様九州へ御下向候時、如此に候、

 

*書き下し文・解釈は省略します。

 

*小早川興景の九州出陣を指す(『広島県史年表(中世2)』https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/nenpyou/nenpyou-cyusei2.pdf)。

極楽寺所蔵文書2

    二 吽奝楽音寺領未進注文

 

 (前闕ヵ)

 「

 一□上一反五十文   四十まへ

                (未進)

  料足二くわん文   是ハ一同みしん

 一吉書

   六十文

  百文     池迫     八十文    古屋敷

                 廿

  百廿文    奥      百○文    江田

  六十五文   胡广迫    七十八文   与一迫

           (ハいヵ)          (ハいヵ)

  七十文    上くいひ   五十三文   下くいひ

  百文     寂仏    已上八百六十六文

     (1493)

     明応貳年癸丑とし  ミしん

 

*書き下し文・解釈は省略します。

極楽寺所蔵文書1

解題

 当寺は佐伯郡廿日市町にある真言宗の寺院である。本文書の内容は室町時代の楽音寺と法持院に関するものが中心である。法持院は中台院とともに楽音寺の両門主として寺務を司った。法持院は梨子羽郷南方に、中台院は同郷北方にあって、それぞれ九坊の子院を従えていた。

 本文書は厚紙に貼り付けられ、折本風の一冊に仕立てられているが、その表紙には「安芸国〈楽音寺」極楽寺〉古文書の題箋が貼られている。

 

 

 「極楽寺」(『広島県の地名』平凡社

 現廿日市町原。標高661メートルの極楽寺山山頂にある。上不見山浄土王院と号し、高野山真言宗別格本山。本尊千手観音。寺伝によると、天平三年(731)行基が諸国巡錫の途次当山の大杉から光明が放たれるのを見、その杉で千手観音を造仏したのが始まりで、大同元年(806)弘法大師がその開眼供養をしたという。

 中世には桜尾城主藤原氏や、大内氏・毛利氏など戦国武将の祈願寺として信仰を集め、伽藍の修造や寺領の寄進を得た。銅製鰐口(県指定重要文化財)には「奉施入鰐口芸州佐西郡極楽寺常住」「明応二年癸丑五月朔日 本願明賢大工久信敬白」との陰刻銘がある。天文(1532─55)頃と推定される極楽寺々領坪付(当寺文書)は後欠文書で全体は不明であるが、五貫文余と「早田宮迫」の地および畠・茶薗が記される。天正十二年(1584)京都仁和寺仁助法親王厳島の西方院で没し、当寺がその葬儀を執行し位牌所とされたことから、(執次詰所記)、仁和寺の直末寺となる。慶長五年(1600)福島正則の入部により、寺領は没収された。

 現本堂(県指定重要文化財)は、永禄五年(1562)に毛利氏が再興寄進したもので、年不詳八月十八日付の毛利秀元書状写(当寺文書)に「極楽寺本堂建立之事可然候」とある。江戸時代にも浅野氏により幾度か修理が加えられた。寺宝として文治三年(1187)後鳥羽天皇より与えられたという勅額がある。

 

 

    一 楽音寺領供田注文

 

 正月一日   二月はつ卯   八月十五日[  ]田

 三月三日   四月三日一反小   五月五日

 同宮六月十四日    七月七日   十一月はつ卯

 半   八月十五日    酒めん一反

     (供)

 厳嶋御くう田一反

 山神畠一反

     (1398)

     応永五年六月十七日

 

*書き下し文・解釈は省略します。