解題
当寺は佐伯郡廿日市町にある真言宗の寺院である。本文書の内容は室町時代の楽音寺と法持院に関するものが中心である。法持院は中台院とともに楽音寺の両門主として寺務を司った。法持院は梨子羽郷南方に、中台院は同郷北方にあって、それぞれ九坊の子院を従えていた。
本文書は厚紙に貼り付けられ、折本風の一冊に仕立てられているが、その表紙には「安芸国〈楽音寺」極楽寺〉古文書の題箋が貼られている。
現廿日市町原。標高661メートルの極楽寺山山頂にある。上不見山浄土王院と号し、高野山真言宗別格本山。本尊千手観音。寺伝によると、天平三年(731)行基が諸国巡錫の途次当山の大杉から光明が放たれるのを見、その杉で千手観音を造仏したのが始まりで、大同元年(806)弘法大師がその開眼供養をしたという。
中世には桜尾城主藤原氏や、大内氏・毛利氏など戦国武将の祈願寺として信仰を集め、伽藍の修造や寺領の寄進を得た。銅製鰐口(県指定重要文化財)には「奉施入鰐口芸州佐西郡極楽寺常住」「明応二年癸丑五月朔日 本願明賢大工久信敬白」との陰刻銘がある。天文(1532─55)頃と推定される極楽寺々領坪付(当寺文書)は後欠文書で全体は不明であるが、五貫文余と「早田宮迫」の地および畠・茶薗が記される。天正十二年(1584)京都仁和寺仁助法親王が厳島の西方院で没し、当寺がその葬儀を執行し位牌所とされたことから、(執次詰所記)、仁和寺の直末寺となる。慶長五年(1600)福島正則の入部により、寺領は没収された。
現本堂(県指定重要文化財)は、永禄五年(1562)に毛利氏が再興寄進したもので、年不詳八月十八日付の毛利秀元書状写(当寺文書)に「極楽寺本堂建立之事可然候」とある。江戸時代にも浅野氏により幾度か修理が加えられた。寺宝として文治三年(1187)後鳥羽天皇より与えられたという勅額がある。
一 楽音寺領供田注文
正月一日 二月はつ卯 八月十五日[ ]田
三月三日 四月三日一反小 五月五日
同宮六月十四日 七月七日 十一月はつ卯
半 八月十五日 酒めん一反
(供)
厳嶋御くう田一反
山神畠一反
(1398)
応永五年六月十七日
*書き下し文・解釈は省略します。