周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

己斐文書13

   一三 光珍請文

 

三たの(正覚)                      (道)

 しやうかく寺の御事ハ、代々申をかるゝしたい候によて、入たうのしやうかく寺をと

         (坊主) (仰)

 りたて申候、代々はうすのをほせおかれて候ハん寺しきの事、いけいきにおよひ候

          (周防守)          (文書)

 はゝ、御そうりやうすハうのかミかたに、かの所のもんしよあるへく候間、代々御た

 つね候へく候、

      (罰)

 一仏神の御はちかふりするにわたくしなく候、このよし御申候へく候、

                     

       二月十五日        光久(花押)

 

 「書き下し文」(必要に応じて漢字仮名交じりにしました)

 三田の正覚寺の御事は、代々申し置かるる次第候ふによて、入道の正覚寺を取り立て

 申し候ふ、代々坊主の仰せ置かれて候はん寺式の事、いけいきに及び候はば、御惣領

 周防守方に、彼の所の文書有るべく候ふ間、代々御尋ね候ふべく候ふ、

 一つ、仏神の御罰蒙りするに私なく候ふ、此の由御申し候ふべく候ふ、

       二月十五日        光珎(花押)

 

 「解釈」

 三田の正覚寺のことは、代々申し残されてきた由緒があることによりまして、入道が正覚寺を引き立て申し上げました。代々の住職がご遺言になりました寺の規式のことは、「いけいき」に及びますならば、惣領周防守方にこの寺の文書があるはずですので、代々お尋ねになるとよいです。

 一つ、私心なく仏神の御罰を蒙ります。このことを申し上げなさるべきです。

 

 「注釈」

「いけいき」─未詳。正覚寺の規則を記した文書が破損する、といった意味か。

「入道」─未詳。

「御惣領周防守」─未詳。厳島社神主か。正覚寺の文書は、この周防守宅で保管されて

         いたようです。

己斐文書12

   一二 厳島社神主藤原了親(親詮)書状

 

 御礼委細承了、

 抑舊冬入見参申奉之条、于今難忘悦入候、自然之御次者可御尋候、

 又御茶大勢賜候之条、返々喜入候、自當方こそ可進候ニ、結句送給候之条

 難申盡候、委細定荘原坊主御物語候歟之間、令省閣候之事候、期後信

 候、恐惶謹言、

      卯月廿四日         了親(花押)

 

 「書き下し文」

 御札委細承り了んぬ、

 抑も旧冬見参に入り申し奉るの条、今に忘れ難く悦び入り候、自然の御次いでは御尋

 ね有るべく候ふ、又御茶大勢賜り候ふの条、返す返す喜び入り候ふ、当方よりこそ進

 らすべく候ふに、結句送り給ひ候ふの条申し尽くし難く候ふ、委細定めて荘原坊主御

 物語り候ふかの間、省き閣かしめ候ふの事に候ふ、後信を期し候ふ、恐惶謹言、

 

 「解釈」

 お手紙の内容は詳細に承りました。

 そもそも昨年の冬にお目にかかりましたことは、今でも忘れられず喜んでおります。もしよい機会があれば、お尋ねください。また、お茶をたくさんくださいましたことに、とても喜んでおります。こちらから差し上げるべきでしたのに、結局そちらから送ってくださったことへの感謝の気持ちは、言葉では言い尽くせません。細かいことはきっと荘原坊主がお話しになるかと思いますので、省略することでございます。次のお便りをお待ちしております。以上、謹んで申し上げます。

己斐文書11

  一一 光珍寄進置文

 

    神領                (土橋)(湯屋谷)

  御しんりやうの内三田しんしやう下村のうち、つちハしゆやたにゝさきたち候て、

                             (正覚)

  た二たんきしん申候き、かさねて彼所のうちの田二たん、しやうかく寺へきしんた

  てまつり候なり、もし寺りやうの田はたけはやしいけにいたるまてわつらいを申さ

          (罪科)  (輩)

  るる物す候はゝ、さいくわのともからとあるへきなり、

        (相続)           (違乱)       (不孝)

 一愚身かあとをさうそくのもの、彼寺りやうニいらんを申事あらは、ふけうの物とあ

          (條々)              (惣領)  厳島

  るへきなり、このてうゝゝをそむきたらんもの事をは、そうりやういつくしま方へ

  仰あるへく候なり、よて後日ために状くだんのごとし、

    (1384)

    至徳元年十月廿六日(割書)「きのえねのとし」  光珎(花押)

 

 「書き下し文」(必要に応じて漢字を当てました)

  御神領の内三田新庄下村のうち、土橋湯屋谷に先立ち候ひて、田二反寄進申し候ひ

  き、重ねて彼の所の内の田二反、正覚寺へ寄進奉り候ふなり、もし寺領の田畠林池

  に至るまて煩ひを申さるる物候はば、罪科の輩と有るべきなり、

 一つ、愚身か跡を相続の者、彼の寺領に違乱を申す事有らば、不孝の物と有るべきな

  り、此の條々を背きたらん者事をば、惣領厳島方へ仰せ有るべく候ふなり、仍つて

  後日のために状件のごとし、

 

 「解釈」

  厳島神領三田新庄下村のうち、土橋湯屋谷に先立ちまして、田二反を寄進申しました。さらに、この場所の田二反を正覚寺へ寄進し申し上げるのであります。もし寺領の田畠林池に至るまで、寄進に対して異論を唱えるものがおりますなら、罪科に処されるべきである。

 一つ、私光珍の跡を相続するものが、この寺領に対して異論を申すことがあれば、不孝のものと見なすべきである。この条文に背くようなものを、惣領は厳島神主方へ訴えなさるはずであります。よって後日のため、置文の内容は以上のとおりです。

 

 「注釈」

「三田新庄」─高田郡。現在の広島市安佐北区白木町三田・秋山付近を領域とした厳島

       社領。高田郡藤原氏の没落を契機に、『和名抄』の高田郡三田郷が三

       田郷(再編後のもの)・三田小越村・三田久武村などの国衙領諸単位に

       分解を遂げた際、厳島社領として定着を見たもので、承安三年(一一七

       三)二月の伊都岐島社神主佐伯景弘(「厳島神主御判物帖」)に見える

       祈荘がその前身をなすと思われる。荘名は正治元年(一一九九)十二月

       の伊都岐島社政所解(「新出厳島文書」)に同年分厳島社朔幣田七反・

       六節供田二町の指定在所として現れるのを初見とし、降って応永四年

       (一三九七)六月の厳島社領注進状にも見える(「巻子本厳島

       書」)。永仁六年(一二九八)五月の三田新荘藤原氏代源光氏・藤原親

       教和与状によれば、三田新荘は上村(秋山)・下村(三田)に分かれ、

       それぞれに藤原姓を名乗り厳島社神主の諱「親」を用いる領主の存在し

       ていたことが知られる(「永井操六氏所蔵文書」)。南北朝期の下村領

       主一族の譲状や菩提所正覚寺への位牌料所の寄進状などにも掃部頭

       貞・前能登守親冬・宮内少輔親房の名が見え、彼らと厳島社神主家との

       深い交渉の様子をうかがわせている(「己斐文書」)。三田新荘は、比

       較的早期に預所職を梃子とする神主一族の在地領主化が図られた厳島

       一円社領であったと考えられる(『講座日本荘園史9 中国地方の荘

       園』)。

己斐文書10

   一〇 前能登守親冬寄進状

 

          寺⬜︎修理之時ハ面々人夫御出候て可修理候、親冬も人夫以下可進上仕

          也、

 畏申入候、

 抑眞如庵 成佛寺 引導寺 常楽寺 念福寺 万福寺寺領等、私之用要仁不

 (反ヵ)          (以)

 有⬜︎⬜︎態申事候、但公方事社役⬜︎下事ハ可御沙汰候、爲在⬜︎在論若無

  (懸)                  (懸)

 親冬態申事候間、子孫共田畠ニ用途不態事候、如此雖申候

 共在

  (後闕)

 

 「書き下し文」

 畏み申し入れ候ふ、

 抑も真如庵・成仏寺・引導寺・常楽寺・念福寺・万福寺の寺領等、私の用要に⬜︎⬜︎懸

 け申す事有るべからず候ふ、但し公方の事・社役以下の事は御沙汰有るべく候ふ、在

 ⬜︎在論としてもし親冬懸け申す事無く候ふ間、子孫共田畠に用途を懸くる事有るべか

 らず候ふ、此くのごとく申さしめ候ふと雖も在

   (後欠)

 

        寺⬜︎修理の時は面々の人夫御出で候ひて修理有るべく候ふ、親冬も人夫以下進上仕るべく

        候ふなり、

 

 「解釈」

 畏れながら申し入れます。

 さて、真如庵・成仏寺・引導寺・常楽寺・念福寺・万福寺の寺領等に対して、私親冬の必要に応じて、諸役を賦課し申し上げることはあるはずもありません。ただし、厳島社の年貢や公事、社役のことは、お勤めにならなければなりません。在□在論として、万一にも私親冬は用途を賦課することがございませんので、子孫たちもあなた様の田畠に私的な用途を賦課することがあるはずもありません。このように申し上げますが、

   (後欠)

 

        寺の修理のときには、面々が人夫をお出しになりまして修理をするはずです。私親冬も、人夫などを進上するつもりでおります。

 

 「注釈」

「公方」─厳島社へ納入する年貢や公事などのことか。

「在□在論」─未詳。

己斐文書9

   九 前能登守親冬寄進状

 

  安藝国三田新庄下村内寺原之良心知行分⬜︎⬜︎田一反、寄進申候由申候者間、親冬

     (地)

  寄進申候也之内一反者、道専之位拜料處寄進申處也、

 一土橋湯屋谷田二反 本眞如庵敷地畠 同林之内田一反 妙光之位拜料處、岡之當庵

  敷地畠寄進申處也、

 一眞木之たハ之田一反 屋敷林 良阿之位拜料處寄進申所也、以此旨

  披露候、仍爲後日之状如件、

     (1381)

     康暦三年辛酉二月七日    前能登守親冬(花押)

 

 「書き下し文」

  安芸国三田新庄下村内寺原の良心知行分⬜︎⬜︎田一反、寄進申し候ふ由申し候ふ者

  間、親冬寄進申し候ふ地の内一反は、道専の位牌料所寄進申す処なり、

 一つ、土橋湯屋谷田二反 本真如庵敷地畠 同林の内田一反 妙光の位牌料所、岡の

  当庵敷地畠寄進申す処なり、

 一つ、真木の峠の田一反 屋敷林 良阿の位牌料所寄進申す所なり、此の旨を以つて

  御披露有るべく候ふ、仍つて後日のための状件のごとし、

 

 「解釈」

  安芸国三田新庄下村寺原の良心の知行分⬜︎⬜︎田一反を寄進申しますことを申し上げます。私親冬が寄進申します土地のうち一反は、道専の菩提を弔うための所領として寄進し申すものである。

 一つ、土橋湯屋谷田二反、もと真如庵の敷地の畠・同林の内の田一反、妙光の位牌料所である岡の真如庵の敷地の畠を寄進し申すものである。

 一つ、真木の峠の田一反・屋敷林を、良阿の位牌料所として寄進し申すものである。この内容を住職にご披露ください。よって後日のため、書状の内容は以上のとおりです。

 

 「注釈」

「寺原」─未詳。広島市安佐北区白木町大字三田近辺の小字か。

「良心」─未詳。親冬の一族か。

「妙光」─未詳。親冬の一族か。

「土橋湯屋谷」─未詳。広島市安佐北区白木町大字三田近辺の小字か。

「林」─広島市安佐北区白木町大字三田近辺の小字。

「岡」─広島市安佐北区白木町大字三田近辺の小字。

「真木」─未詳。広島市安佐北区白木町大字三田近辺の小字か。

「良阿」─差出親冬の父親で、八号文書の「親家」のことか。

己斐文書8

   八 前能登守親冬寄進状

 

                                   (牌)

 安藝国三田新庄下村栗原之内池坪田一反、道専并栗原右京助親家之二親爲位拜

               (違)             (親房)

 料處眞如庵寄進申處也、若彼所韋乱之於友族者、親冬之嫡子宮内少輔可

 其沙汰状如件、以此旨御披露候、

     (1381)

     康暦三年辛酉二月七日    前能登守親冬(花押)

 

 「書き下し文」

 安芸国三田新庄下村栗原の内池坪田一反、道専并に栗原右京助親家の二親位牌料所と

 して真如庵に寄進申す処なり、若し彼の所違乱の輩に於いては、親冬の嫡子宮内少輔

 其の沙汰を致すべきの状件のごとし、此の旨を以つて御披露有るべく候ふ、

 

 「解釈」

 安芸国三田新庄下村栗原のうち池坪田一反を、道専と栗原右京助親家の二親の菩提を弔うための所領として、真如庵に寄進し申し上げるところである。もしこの所領を妨害する輩がいれば、親冬の嫡子宮内少輔親房がその処置をするはずである。書状の内容は以上のとおりである。この内容を庵主にご披露ください。

 

 「注釈」

「栗原」─広島市安佐北区白木町大字三田字栗原か。

「道専」─未詳。一・二・九号文書参照。

「右京助親家」─未詳。七号文書の「良阿」のことか。

「二親」─両親(『日本国語大辞典』)。辞書の意味通りなら、道専と親家は親冬の両

     親で、道専は母親ということになります。七号文書によると、親冬の親と表

     記されている良阿が、親冬に先駆けて真如庵に所領を寄進しています。「道

     専」が母親なら、良阿は「親家」と同一人物になります。

あ〜、高くついたなぁ…

  宝徳二年(一四五〇)七月十九日条 (『康富記』3─190頁)

 

 十九日辛酉 晴、

  (中略)

 或語云、和泉守護細川兵部少輔去年被誅山臥之間、都鄙山臥楯籠新熊野社頭、呼集諸

 国山臥、率大勢、一昨日可押寄兵部少輔屋形、(割書)「綾小路万里小路、」且新熊

 野神輿可振入之由令支度之、事可及大儀之間、自兵部少輔方被出下手人、両人、又科

 (怠ヵ)

 貸料足百二十貫田地(割書)「十六町、」神馬等出之、被懇望之間、昨日屬無為

 云々、

 

 「書き下し文」

 或るひと語りて云く、和泉守護細川兵部少輔去年山臥を誅せらるるの間、都鄙の山臥

 新熊野社頭に楯籠り、諸国の山臥を呼び集め、大勢を率ゐ、一昨日兵部少輔の屋形

 (割書)「綾小路万里小路」に押し寄すべく、且つ新熊野神輿を振り入るべきの由之

 を支度す、事大儀に及ぶべきの間、兵部少輔方より下手人、両人、を出ださる、又科

 怠料足百二十貫田地(割書)「十六町」、神馬等之を出だす、懇望せらるるの間、昨

 日無為に属すと云々、

 

 「解釈」

 ある人が語って言うには、「和泉国の守護細川持久が、去年山伏を誅殺しなさったので、都や田舎の山伏たちが新熊野社の社殿に立て籠り、諸国の山伏を呼び集め、大勢を率い、一昨日綾小路・万里小路にある細川持久の屋敷に押し寄せ、さらに新熊野社の神輿を振り入れるつもりで準備をしていた。この事件は大事になるに違いなかったので、細川持久方から下手人二人をお出しになった。また、慰謝料として一二〇貫文分の田地十六町と、神馬等を差し出した。熱心に和解を願ったので、昨日無事に解決した」という。

 

 「注釈」

「或」─「名前を記すと差し障りのある人」のことか。

「細川兵部少輔」─細川持久。

「新熊野社」─現在の東山区今熊野椥ノ森町。東大路通の西側に位置する。鳥居は東面

       して東大路通に向かうが、拝殿・社殿はともに南面する。祭神は伊弉冊

       命。現在の祭日は五月五日。熊野信仰の高まりのなかで、後白河院が紀

       州熊野権現本宮の祭神を勧請し、院御所である法住寺殿の鎮守としたの

       に始まる(『京都市の地名』)。

「綾小路万里小路」─京都市下京区綾小路柳馬場近辺か。

 

南都北嶺と呼ばれた延暦寺興福寺の強訴は有名です。延暦寺なら日吉大社の神輿、興福寺なら春日大社のご神木を都に持ち込んで、自らの要求を押し通してきたそうです。

 今回の場合、新熊野社の山伏殺害事件が原因で、各地の熊野系山伏が集結し、神輿を担いで細川持久亭に押し寄せようとしていました。大事件になることを恐れた持久は、下手人二人を差し出すとともに、一二〇貫文分の土地と神馬を差し出しました。現代の価値で一貫文をいくらに設定するかにもよりますが、まず慰謝料として一千万円ぐらいの土地を渡したことになります。このとき、いったいどんな文書を作成して手渡したのでしょうか。現物が残っているとおもしろいのですが。

 また、馬の値段もピンキリでしょうが、神馬にするわけですから、安い馬を差し出したとも思えません。よい馬というのは、現代の高級車や競走馬と同じくらいの値段だったそうなので、ひょっとすると、合計で二千万円ぐらいの出費であったのかもしれません。どんな理由で山伏を誅殺したのかわかりませんが、随分と高くついたものです。いや、この程度の損害でよかったのかもしれません。戦になれば、こんな被害では済まないでしょうから。

 それにしても、山伏の団結力には目を見張るものがあります。一声かければ、守護が恐れるほどの人数が集まってくる。山伏に限ったことではないですが、中世の社会集団は、内部に権力闘争を抱えながら、外部からの攻撃に対しては、一致団結して対抗するようです。中世人がより良く生きていくというのは、こういうことなのでしょうか。

 今回のような記事を読んでいると、道理って何だろう、と思います。盗人にも三分の理ではないですが、山伏を誅殺した細川方には彼らなりの理があったでしょうし、報復しようとした山伏集団にも彼らなりの理があったのでしょう。互いに道理は大事なのですが、それを突き詰めすぎると、反対に自らを滅ぼしてしまうことにもなりうる。追い詰めるときには追い詰め、退くときには退く、金で解決できるときには解決する。矛の抜き方収め方の上手い人が、当時の集団のトップに相応しい人物だったのかもしれません。現代社会も同じでしょうか…?

己斐文書7

   七 前能登守親冬寄進状

 

   (三)

 安藝国⬜︎田新庄下村内成佛寺々領等事、親候物良阿依⬜︎進申、田畠林以下親冬

  (申處)    (違)

 寄進⬜︎⬜︎也、若於⬜︎乱友族者、親冬之嫡子宮内少輔親房可其沙汰、坊主

        (持)

 御死去之後者、住地可御計候也、能々以此旨御披露候、恐惶

 謹言、仍爲後日之状如件、

     (1381)

     康暦三年辛酉二月七日    前能登守親冬(花押)

 

 「書き下し文」

 安芸国三田新庄下村内成仏寺寺領等事、親に候ふ物良阿⬜︎進申すに依り、田畠林以下

 親冬寄進申す処なり、若し違乱の輩に於いては、親冬の嫡子宮内少輔親房其の沙汰致

 すべし、坊主御死去の後は、住持御計らひたるべく候ふなり、能く能く此の旨を以つ

 て御披露有るべく候ふ、恐惶謹言、仍つて後日のための状件のごとし、

 

 「解釈」

 安芸国三田新庄下村内成仏寺領等のこと。親でございます良阿が寄進申したことにより、田畠林等を私親冬も寄進申すところである。もし妨害するものがいれば、私の嫡子宮内少輔親房が裁許するはずである。坊主がお亡くなりになった後には、住持が寺領を経営なさるべきであります。よくよくこの内容を寺中に御披露ください。以上、謹んで申し上げます。よって後日のため、書状の内容は以上のとおりです。

 

 「解釈」

「成仏寺」─未詳。三田新庄の寺院か。

「良阿」─差出親冬の父親で、八号文書の「親家」のことか。

「坊主」─「真如庵そううん僧」のことか(四号文書)。

「住持」─未詳。真如庵の住職か。

 

*この文書は書状形式なので、寄進状の副状と考えられます。また、寄進された成仏寺

 領は、親冬の親である良阿からすでに寄進されていたことになります。四号文書によ

 ると、良親という人物が、成仏寺領と奉請田畠・栗林を真如庵の「そううん」に寄進

 していることがわかります。四号文書と七号文書の成仏寺領が同じものであるなら

 ば、七号文書の「良阿」は四号文書の「良親」と同一人物であり、七号文書の「坊

 主」は四号文書の「そううん」と同一人物であると考えられます。

己斐文書6

 六 前能登守親冬寄進状

 

  安藝国厳島神領内三田新庄下村内正覚寺寄進申候田畠林事

 一所 眞如庵敷地畠林之内壹反

 一所 湯屋谷田貳反

       (峠)

 一所 眞木かたをに田壹反

    同所林屋敷一所

 一所 栗原内池坪田壹反 寄進申候也、

   若於親冬子孫違乱申者候者、惣領方可其沙汰候也、仍寄進状如件、

     (1381)

     康暦三年辛酉二月七日     前能登守親冬(花押)

 

 「書き下し文」

  安芸国厳島神領内三田新庄下村内正覚寺に寄進申し候ふ田畠林事

 一所 真如庵敷地畠林の内一反

 一所 湯屋谷田二反

 一所 真木が峠に田一反

    同所林屋敷一所

 一所 栗原内池坪田一反 寄進申し候ふなり、

   若し親冬子孫に於いて違乱申す者候はば、惣領方其の沙汰有るべく候ふなり、仍

   つて寄進状件のごとし、

 

 「解釈」

 安芸国厳島神領内の三田新庄下村内の正覚寺に寄進申します田畠林のこと。

 一所 真如庵の敷地の畠林のうち一反

 一所 湯屋谷の田二反

 一所 真木が峠の田一反

    同所の林屋敷一所

 一所 栗原のうち池坪田一反 寄進申すのであります。

   もし私親冬の子孫で異論を唱え申すものがおりますなら、惣領方がそれを裁許す

   るはずである。よって、寄進状の内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「真如庵」─未詳。三田新庄内の寺院で、正覚寺の塔頭か。

「湯屋谷・真木が峠」─未詳。三田新庄内の地名か。

「栗原」─広島市安佐北区白木町大字三田字栗原か。

「親冬」─未詳。厳島神主家藤原氏の一族か(「三田新庄」『講座日本荘園史9 中国

     地方の荘園』参照)。

「惣領方」─良親のことか(四号文書)。

己斐文書5

   五 中務少輔親冬寄進状

 

 畏申入候、

 下栗原之内田一反進上仕候、親冬⬜︎⬜︎子孫者彼田異儀申候者、可不孝友

 (族)                           (競望)

 から候、就其眞如庵奉請之、於御寺領愚身之子孫親類けいはう成申物

 候者、可不孝仁候、爲後如此申入候、以此旨御披露候、

 恐惶謹言、

     (暦)

     康歴二年庚申八月五日     中務少輔親冬(花押)

     眞如庵侍者御中

 

 「書き下し文」

 畏み申し入れ候ふ、

 下栗原の内田一反進上仕り候ふ、親冬⬜︎⬜︎子孫は彼の田に異儀申し候はば、不孝の輩

 に有るべく候ふ、其れに就き真如庵に之を奉請す、御寺領に於いて愚身の子孫親類競

 望を成し申す物候はば、不孝の仁に有るべく候ふ、後のため此くのごとく申し入れ候

 ふ、此の旨を以つて御披露有るべく候ふ、恐惶謹言、

     (1380)

     康暦二年庚申八月五日     中務少輔親冬(花押)

     眞如庵侍者御中

 

 「解釈」

 畏れながら申し入れます。

 下栗原のうち、田一反を進上し申し上げます。親冬の親類?・子孫は、この田の領有に対して異論を申し上げますなら、不孝の輩とみなすべきです。それについて、真如庵にこの田を寄進し申し上げる。御寺領において、私の子孫・親類で競望し申すものがおりますなら、不孝の輩とみなすべきです。後のためこのように申し入れます。この内容をもって住持にご披露ください。謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「下栗原」─広島市安佐北区白木町大字三田字栗原か。

「真如庵」─未詳。三田新庄内の寺院で、正覚寺の塔頭か。

「親冬」─未詳。厳島神主家藤原氏の一族か(「三田新庄」『講座日本荘園史9 中国

     地方の荘園』参照)。

 

*この文書は書状形式なので、寄進状というよりはその副状と考えられます。