周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

田所文書2 その6(完)

    二 沙弥某譲状 その6

 

  ■■■   同舎弟藤五郎男

  ■■   同子一人 逆犬丸

                安南郡

      清次郎男 〈父清三郎男、牛田村弥冨名内崩田七反半下作人、是包父光包所當米代仁

               弁之畢、〉

      石王丸 〈母者石井入道殿下人乙女也、仍自襁褓中二十余歳仕之

             也、〉

      山田中五男 〈助清大政所殿下人武内源八包則引之者也、祖父者近清父者近道

                也、〉

      弥中次男 父者澤行、祖父者行包也、

                高宮郡

      北庄福田入道 〈子細見内部庄地頭代東条三津小三⬜︎爲方状等、彼奴父惣追

                 入道本者令居住濱邊末屋敷多年召仕之畢、〉

      同子二郎男

      又同子童

      宗大郎入道

      同大郎子宗源次男

      同次郎子又大郎男 人勾引守護取之云々、

                         (珂)

      秦三郎男 〈子細見父則包引文并本主人周防⬜︎玖河庄一方公文石崎大郎入道蓮聖⬜︎

               人状等、〉

                            (被ヵ)

  ■   同子勢至丸 〈開田兵衛尉与渡与畢、o但件奴任自由不⬜︎召仕云々、然者可[  〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

      同増田腹男子四人在之[

  二人■■■

              (召仕之ヵ)

      松王冠者 於童[

            (見ヵ)

      禰宜男 子細具父矢次郎掾重近引文

                         (依ヵ)

      西条o五郎子 〈死去畢、子者見存也、源太郎男⬜︎腹子也、〉

      同舎弟

      温科平六入道 子細見即引文

      濱久祖法師丸 〈子細見父伴大夫助武引文、祖父者武宗也、〉

                         (頭)

      弥中三重氏 〈子細o即状并母藤四郎内侍寺町地⬜︎⬜︎右衛門尉清義代郡戸治部

                入道〈于時俗名光成〉光眞状、〉

      北濱二郎冠者 〈子細見于父梶取宗四郎大夫末吉引文、〉

      濱橋本又王丸 子細父梶取夜叉太郎引文具者也、

      伴太国守孫 〈件祖父伴二郎男者父国守引文也、而云祖父父死去之間、件童

                付母迩保嶋令居住者也、仍弘安十一年改正應春之比、遣国造

                子男参勤之由、令下知之間、雖幼少参勤

                之旨、母等令申云々、〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

      南濱中小追清六末門子息等二人 〈云二人事屋敷子細、末門引文具

                           者也、〉

      腸權三郎男 〈云其身、云居住屋敷、父利恒〈本名清包〉引文明白也、〉

      同子二人 〈弥法師丸甲法師丸〉

        資俊分

      南濱乙若丸 〈件奴祖父宗門引進己身於銭五貫文代畢、其上者召仕彼子孫之条

                勿論也、而宗門死去之後、宗遠今俄爲地頭仕部之由令申之間、

                所詮可返宗門身直銭十貫〈本五貫〉文之由令下知之間、

                引進件乙若丸者也、子息等依其數、任傍例一人子

                於地頭方之上者、非沙汰之限之由、令問答畢、〉

      大崎中五郎 〈子細見父中三郎大夫安高引文、安高者中大夫安遠子也、〉

                       安南郡

      佐乃々江法師 〈今者江二郎云々、令住荒山庄者也、子細見于守護在國司

                 兼松崎下司代内藤左衛門入道盛仏〈俗名保廉〉同代官源三郎入道

                 状、〉

      同男子在之、

     安北郡

      田門庄矢口重員 〈於童召仕之、其名靏王丸、父者貞員、祖父者佐西大檢校

                  貞包貞延子也、而地頭代馬入道阿仏押召仕之間、訴申事由於

                  六波羅殿賜之畢、〉

    ■■■■同大郎子 〈於童召仕之畢、義王丸云々、今者又五郎是也、〉

    ■■■■同男子二人在之云々、

      同重員次男童 〈地頭代譲渡押仕之間、依申子細於六波羅殿去状之間、

                 下預御下知畢、〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

     佐東郡

      中洲別符友末 〈父者紀五郎大夫友道也、重代相傳下人也、子細友末起請文并日吉

                 大宮預所周防律師状次第沙汰證文具者也、〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目半裏花押)

 (後筆)

 「此間不知」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目半裏花押)

 (後筆)

 「人々に譲分といゝ、漏于此注文物等といゝ、可資賢分之状如件、

    (1289)

    正應貳年正月廿三日

                      沙弥(花押)」

       ○以上、一巻

   おわり

 

*割書は〈 〉で記しました。

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「江田村」─現安芸郡江田島町のことか。

「牛田村」─現東区牛田。奈良時代から鎌倉時代の初頭にかけては奈良西大寺領の牛田

      庄で、宝亀十一年(780)十二月二十五日の西大寺資財流記帳(西大寺

      文書)に「安芸国安芸郡牛田庄図二巻」とみえ、建久二年(一一九一)五

      月十九日付西大寺所領庄園注進状案(同文書)に「安芸郡牛田庄 墾田七

      十九町」とある。近世牛田村の田畠が約八十町であるから、右の墾田は未

      開原野を含むものであろう。正応二年(一二八九)正月二十三日付沙弥某

      譲状(田所文書)によれば、在庁官人田所氏は牛田村に私領田をもち、

      「牛田村弥富名内崩田七反半」と所従清次郎に下作させていたことがわか

      る。

      室町時代は守護武田氏の治下にあった。文亀三年(一五〇三)に武田氏の

      氏神を神田八幡宮として勧請したといわれ(国郡志下調書出帳)、天文二

      年(一五三三)には武田氏家臣豊島氏が真宗道場(現安楽寺)を開いたと

      いう(芸藩通志)。武田氏滅亡後は大内氏が領したが、のちの大内義隆

      毛利隆元に「大牛田」「小牛田」それぞれ一五〇貫の地を預けた(年未詳

      七月十五日付「内藤隆時書状」毛利家文書)弘治三年(一五五七)十一月

      十三日の毛利隆元宛行状(「閥閲録」所収宍戸藤兵衛家文書)に「牛田舟

      方給之内拾貫文地之事、為給地遣置候、全可知行候、水夫用之時者、涯分

      申付可調之由肝要候」とあるように、毛利氏は牛田に「舟方給」を設け、

      飯田・宍戸・羽仁・福井ら水軍勢力の諸氏に給地を与えた。毛利氏が牛田

      を水軍の拠点の一つに選んだのは、ここが広島湾頭を扼する戦略的要衝で

      あったことのほかに、当地にあった真宗寺院東林坊(現中区の光円寺)が

      川の内水軍の有力な一員であったように水軍勢力の拠点としての伝統があ

      ったからでもあろう。なお戦国期の牛田は矢賀・戸坂などと同様、佐東郡

      とされることがあった(大永七年四月二十四日付大内義興宛行状「閥閲

      録」所収白井友之進家文書)(『広島県の地名』)。

「荒山庄」─世能荒山庄か。現安芸区瀬野川町上瀬野・同下瀬野・同中野のほぼ全域に

      わたる荘園。

      承久三年(一二二一)承久の乱の功で浅沼次郎(阿曾沼親綱か)が地頭職

      に任じられたが、これ以前の地頭は安芸国守護宗孝親だったようである。

      阿曾沼氏は家臣野村氏を代官として派遣したが、同年十月には早くもその

      野村氏が非法を働いたとして官使から訴えられている(承久三年十月八日

      付「清原宣景申状」清原家文書)。ところで、この時地頭の権限の及ぶ範

      囲は「荒山村・阿土村・下世能村」の三ヵ村と地頭名の久武名とされてお

      り、阿土村(のちの熊野跡村)が荘域に入ったこと、世能村が上下に分か

      れたことなどが知られる。ただし、建久七年阿土熊野保が成立しているの

      で(健治三年のものと思われる「小槻有家申状」壬生家文書)、阿土村の

      一部が当庄に属したのかもしれない。

      地頭代野村氏の押妨は鎌倉時代を通じてやまず(嘉禎四年九月日付「伊都

      岐島社神官等重解」新出厳島文書、文永十年八月二十日付「関東御教書」

      壬生家文書など)、建武四年(一三三七)三月三日付の光厳上皇院宣并壬

      生官務家知行書立(壬生家文書)を最後に、小槻隆職の子孫壬生家の史料

      から世能荒山庄の名は消える。折しも南北朝の争乱を機に、阿曾沼氏は下

      野国から当庄に本拠を移して安芸有数の国人領主へ成長、その過程で当庄

      は阿曾沼氏の実質的所領となっていったものと思われる(『広島県の地

      名』)。

「中洲」─現安佐南区安古市町中須高宮郡中筋古市村の北に位置し、村の中央を安

     川、東端を古川がともに南流する。古く川中洲の地で、小瀬・来船・蔦島・

     黒川などの地名は往時の地勢を示す(安佐郡志)。沼田郡に属し、安川の上

     流が大町村、古川の上流が緑井村、西隣は北下安村、東は古川を越えて温井

     村に接する。雲石道が古川沿いに南北に通る。地勢上水害に見舞われること

     が多かったが、安川を古川へ直結する小瀬放水路が昭和三十年(一九五五)

     に完成、安川の中洲より下流は廃川敷となった。

     嘉禎四年(一二三八)四月十七日付の伊都岐島社回廊員数注進状案(新出厳

     島文書)の「自大宮御方南脇至于御供屋三十間」のうち「未被立分」に「中

     洲別府」とみえる。正応二年(一二八九)正月二十三日付の沙弥某譲状(田

     所文書)は、安芸国の在庁官人田所氏の譲状で、前半は得分や所領を、後半

     は所従などを書き上げているが、そのなかに「一所田畠一反大内田大畠一

     反 中洲作人不定即進止也」「中洲別符友末 父者紀五郎大夫友道也、重代

     相傳下人也、子細友末起請文并日吉大宮預所周防律師状次第沙汰證文具者

     也」とみえ、中洲別符の在地名を関する友末は、田所氏の譲与財産へ所従と

     して記されるような存在であった。応永四年(一三九七)六月日付の厳島

     領注進状(巻子本厳島文書)では、佐東郡神領などのなかに中洲別符がみ

     えるが、宝徳二年(一四五〇)四月日付の厳島社神主藤原教親申状案(同文

     書)には、武田伊豆守(信繁)押領分のなかに記されている。

     天文十年(一五四一)八月十一日付で大内氏が吉原弥七へ宛てた中洲内打渡

     坪付(「譜録」所収吉原市兵衛家文書)には、田畠二十一筆の分銭二十貫五

     十文目が記され、そのなかに「こせ」「トキ」を冠する人名が三人みられ

     る。この所領の知行を認められることは、銀山城番を勤める責任を伴うもの

     であった(閥閲録)。吉原弥七と同様に銀山城番を任じられた大谷善左衛門

     尉は、同年九月十一日に中洲のうち十八貫目品河左馬允先知行の跡を宛行わ

     れた(防長風土注進案)。同二十一年二月二日の毛利元就同隆元連署知行注

     文(毛利家文書)のなかには「中洲」とあり、大内氏の下とはいえ、毛利氏

     の支配が及んできたことを示している。永禄十三年(一五七〇)九月八日の

     毛利元就宛行状(「藩中諸家古文書纂」岩国徴古館蔵)では「中須」と記さ

     れ、その後中洲と混用される時期が続く(『広島県の地名』)。

ドラマチックな地蔵譚

  応永二十三年(一四一六)七月十六日条 (『看聞日記』1─45頁)

 

 十六日、晴、伝聞、山城国桂里辻堂之石地蔵、去四日有奇得不思儀事、其子細

  者、阿波国有賤男、或時小法師一人来云様、我住所草庵破壊雨露もたまらす、

  仍可造作之由思也、来て仕るへし、可憑之由申、此男云様、身貧して渡世

  難治也、妻子を捨て他所罷事不可叶之由申、小法師重申様、可致扶持也、只可

  来之由申、則同道して行、阿波国より山城ヘハ三日路也、然片時之間行着

  破損辻堂石地蔵アリ、造作スル人モナシ、小法師打失、近辺之人

  相尋ヌレハ、山城桂里答、此男思様、サテハ地蔵是マテ同道シテオハシ

  ケルト、貴覚ヘテ居タリケレトモ、智人モナシ、加様ニテハ如何カト思テ京ヘ

  上ラントシケルニ、アリツル小法師来云様、何方ヘモ不可行、只爰可居住之由

  申又失、サテ堂居タリケル程、西岡スル男、〈竹商人云々、〉日来此堂

  破壊シヌル事心中痛敷思ケリ、件堂休息之間、彼阿波男寄合雑談スル

  程、此事最初ヨリ次第、地蔵奇得不思儀語、サテ御堂造営諸共

  テチタヘモシ給ヘト云ケレハ、西岡男スチナキ事云イタカ也トテ散々云合

  程、イサカヒアカリテ刀阿波男突ントス、彼男逃ノキヌ、去程西岡男心

  狂乱シテ、彼石地蔵ヲ切突ケルホトニ、忽腰居テ物狂成ケリ、近辺物共集

  見之、地蔵之御罰ナル事ヲ貴ケリ、サテ狂気男、暫シテ心神を取直シテ地蔵

  オコタリ申、此御堂造営シテ宮仕申ヘキ由祈念シケルホトニ、則腰モ起、狂気モ

  醒ケリ、サテ入道セントシケルニ、地蔵夢見ヘテ法師成ルヘカラストノ給

  ケレハ、男ニテ浄衣ヲ着テ宮仕ケリ、地蔵奉斬突腰刀散々ニユカミチ丶ミタリ

  ケリ、御堂懸テ参詣人拝セケリ、サテ阿波男ヲハ、法師ナルヘキ由、地蔵被

  示ケレハ、入道シテ彼男ト二人御堂造営奉行シケリ、此事世披露アリテ、貴賤

  参詣群集シケル程、銭以下種々物共奉加如山積、造営無程功成ケリ、祈精

  成就、殊病者盲目ナト忽眼開ケレハ、利生掲焉ナル事、都鄙聞ヘテ、貴賤

  参詣幾千万云事ナシ、種々風流之拍物シテ参ス、都鄙経営近日只此事也、

  伝説雖難信用、多聞之説記之、且比興也、

 

 「書き下し文」

 十六日、晴る、伝へ聞く、山城国桂の里に辻堂の石地蔵、去んぬる四日奇得不思儀の

  事有り、其の子細は、阿波国に賤男有り、或る時小法師一人来たり云ふ様、我が住

  所の草庵破れ壊たれ、雨露もたまらず、仍つて造作すべきの由思ふなり、来て仕る

  べし、憑むべきの由申す、此の男云ふ様、身貧にして渡世難治なり、妻子を捨て他

  所へ罷る事叶ふべからざるの由申す、小法師重ねて申す様、扶持致すべきなり、只

  来るべきの由申す、則ち同道して行く、阿波国より山城へは三日の路なり、然るに

  片時の間行き着きぬ、破損の辻堂に石地蔵あり、造作する人もなし、小法師も打ち

  失ひぬ、近辺の人に相尋ぬれば、山城桂の里と答ふ、此の男思ふ様、さては地蔵是

  れまで同道しておはしけると、貴く覚へて居たりけれども、智人もなし、加様にて

  は如何がと思ひて京へ上らんとしけるに、ありつる小法師来たりて云ふ様、何方へ

  も行くべからず、只爰に居住すべきの由申し又失しぬ、さて堂に居たりける程に、

  西岡に住する男、〈竹商人云々、〉日来此の堂破壊しぬる事を心中に痛ましく思ひ

  けり、件の堂に休息の間、彼の阿波男と寄り合ひて雑談する程に、此の事最初より

  次第を語りて、地蔵の奇得不思儀を語る、さて御堂造営諸共にてちたへもし給へと

  云ひければ、西岡男すちなき事云いたか也とて、散々に云ひ合ふ程にいさかひあか

  りて刀を抜きて阿波男突かんとす、彼男逃げのきぬ、去んぬる程に西岡男心狂乱し

  て、彼の石地蔵を切り突けるほどに、忽ち腰居きて物狂ひに成りけり、近辺の物共

  集まりて之を見る、地蔵の御罰なる事を貴みけり、さて狂気の男、暫くして心神

  り直して地蔵におこたりを申す、此の御堂造営して宮仕へ申すべき由祈念しけるほ

  どに、則ち腰も起き、狂気も醒めけり、さて入道せんとしけるに、地蔵夢に見へて

  法師に成るべからずとの給ひければ、男にて浄衣を着て宮仕へけり、地蔵斬り突き

  奉る腰刀散々にゆがみちぢみたりけり、御堂に懸けて参詣人に拝せけり、さて阿波

  男をば、法師になるべき由、地蔵に示されければ、入道して彼の男と二人御堂造営

  奉行しけり、此の事世に披露ありて、貴賤参詣群集しける程に、銭以下種々の物共

  奉加すること山のごとく積みて、造営程無く功成りけり、祈精も則ち成就し、殊に

  病者盲目など忽ち眼も開ければ、利生掲焉なる事、都鄙に聞こへて、貴賤参詣幾千

  万と云ふ事なし、種々の風流の拍物をして参ず、都鄙経営近日只此の事なり、伝説

  信用し難しと雖も、多聞の説之を記す、且つがつ比興なり、

 

 「解釈」

 十六日、晴。伝え聞くところによると、山城国桂里にある辻堂の石地蔵で、去る四日、とても珍しく不思議なことがあったという。その詳細は、次の通りだ。阿波国に身分の賤しい男がいた。ある時、小柄な法師が一人来て、「私が住んでいる草庵は壊れて、雨露にも耐えられません。それで建て替えようと思っています。あなたが来て建てて下さい。頼みます」と言った。男は「私は貧しくて、食べていくことさえもままなりません。ましてや妻や子を捨てて、他所へ出かけることなど、できるわけがありません」と断った。小柄な法師は重ねて「そのことはお助けしましょう。ただ来て下さい」と言った。それですぐに男はその法師と出かけた。阿波国から山城国へ行くのに三日はかかる。ところが、ほんのわずかな時間で、山城国へ到着した。

 壊れた辻堂には石地蔵が安置してあった。辻堂を建て直そうとする人もいない。小柄な法師も姿を消してしまった。近くにいた人にここはどこかと男が尋ねると、山城国桂里だと答えた。それでこの男は、「さてはこのお地蔵様がここまで俺を連れてきて下さったのだな」とありがたく思った。しかし、桂里には知り合いもいないし、このままではどうしようもない。そう思ってとりあえず京へ上ろうとしていたところ、さきほどの小さな法師が現れて、「どこへも行ってはいけません。ただここに住んでいて下さい」と言って、また姿を消した。それでしかたなく辻堂に佇んでいた。

 一方、西岡に住んでいる竹商人の男がいて、日頃、この辻堂が壊れていることに心を痛めていた。その竹商人がこの辻堂に来て休んでいると、あの阿波国の男と出会い、二人で雑談をした。阿波国の男が、今回のことを最初から話して、地蔵の優れた法力は不思議であると語った。そして「辻堂の再建を一緒に手伝ってください」と言ったら、西岡の男は、筋違いの事を言う傲慢な奴だと散々に悪口を言い合った。そのいさかいが白熱して、とうとう西岡の男は刀を抜いて阿波の男を突き刺そうとした。それで阿波の男は逃げ出した。さらに西岡の男は頭に血が上って、その石地蔵を切りつけた。そうしたら、男の腰が抜けて気が狂ってしまった。

 近所の者たちが集まり、この騒動を見ていて、お地蔵様の罰はやはりてきめんだと言って、皆で石地蔵を拝んだ。さて気が違った男はしばらくすると正気に戻り、お地蔵様にお詫びした。そして「この御堂を建て直してお地蔵様にお仕えします」とお祈りしたところ、すぐに腰も立ち、頭もスッキリした。それで出家しようとしたら、夢に地蔵が出てきて、「法師になってはいけません」と仰るので、男は白い狩衣姿で、地蔵に奉仕した。地蔵を突き刺した腰刀は散々にゆがんでいた。その腰刀を御堂に懸けて、参詣者に拝ませた。一方、阿波の男は法師になるように地蔵が命じていたので出家して、西岡の男と二人で御堂再建の準備をした。やがてこの事件が世に知れ渡り、大勢の者たちが参拝に来たので、銭などいろいろなお供え物が山のように貯まり、御堂の再建はすぐに竣工した。

 この石地蔵への願い事はすぐに叶った。特に病気の者にてきめんで、盲目の者がお祈りするとすぐに目が見えるようになった。その霊験あらたかなことは全国に知れ渡り、参詣者は何千万人ともなった。人々はこの地蔵堂へいろいろと風流な拍物でパレードしながら、お参りした。このところ、京都でも地方でも、この桂里の石地蔵のうわさでもちきりだ。伝え聞いた話で信用しがたいが、いろいろな人から耳に入ったので、記しておく。それにしても、道理に合わない話である。

 

*解釈は、薗部寿樹「史料紹介『看聞日記』現代語訳(二)」(『山形県立米沢女子短期

 大学紀要』50、2014・12、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=203&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。

 

 

*これには後日談があります。

  応永二十三年(一四一六)十月十四日条 (『看聞日記』1─69頁)

 

 十四日、晴、聞、桂地蔵奉仕阿波法師并与党七人、自公方被召捕被禁獄云々、彼法

  師非阿波国住人近郷者也、与党同心之者共数十人、種々回謀計、地蔵菩薩

  奉付顕奇得云々、或相語病人愈衆病、或非盲目者、令開眼目、種々事、彼法師等

  所行之由露顕之間、被召捕被糺問之間、令白状云々、西岡男非同心者云々、仍

  不相替奉仕云々、倩案之、不信輩如此申成歟、設雖相語病人、於万人利生、争

  可為謀略哉、地蔵霊験不可及人力者哉、尤不審事也、然而貴賤参詣不相替云々、

   (後略)

 

 「書き下し文」

 十四日、晴る、聞く、桂地蔵に奉仕する阿波法師并に与党七人、公方より召し捕らへ

  られ禁獄せらると云々、彼の法師阿波国の住人に非ずして近郷の者なり、与党同心

  の者共数十人、種々謀計を回し、地蔵菩薩に狐を付け奉り奇得を顕すと云々、或う

  は病人を相語らひ衆病を愈し、或うは盲目に非ざる者に、眼目を開かしむ、種々の

  事、彼の法師らの所行の由露顕の間、召し捕らへられ糾問せらるるの間、白状せし

  むと云々、西岡男は同心する者に非ずと云々、仍て相替はらず奉仕すと云々、倩

  (つらつら)之を案ずるに、不信の輩此くのごとく申し成すか、設ひ病人を相語ら

  ふと雖も、万人の利生に於いては、争でか謀略たるべけんや、地蔵の霊験人力に及

  ぶべからざらんや、尤も不審の事なり、然れども貴賤の参詣は相替はらずと云々、

 

 「解釈」

 十四日、晴。聞くところによると、桂地蔵に奉仕していた阿波国の法師とその一味の者ども七人が室町幕府によって逮捕され収監されたそうだ。その法師は阿波国の住人ではなく、桂近郷の者だった。一味の者ども数十人は、いろいろと謀略をたくらみ、地蔵菩薩像にキツネを付けて、不思議なことをやらせたらしい。また病人と共謀して、多くの病が治ったように見せかけたり、あるいはもともと盲目ではない者に盲人の真似をさせ、治って目が見えるようになったと演じさせたらしい。以上のようなことがあの法師らの仕業だという情報が流れたので、逮捕して尋問したところ、自白したという。西岡の男は共謀者ではないそうだ。それで彼はこれまで通り、桂地蔵に奉仕しているという。

 いろいろと考えてみるに、地蔵を信仰しない一部の者がこのように言いなしたのではなかろうか。たとえ一部の病人と共謀したことがあったとしても、多くの人が地蔵菩薩の恵みを受けたことを、どうして謀略と言えようか。地蔵の霊験は人の力の及ぶところではないはずだ。それにしても、不可解な事件である。その一方で、多くの人が参詣していることは、以前と変わりがないそうだ。

 

*解釈は、薗部寿樹「史料紹介『看聞日記』現代語訳(二)」(『山形県立米沢女子短期

 大学紀要』50、2014・12、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=203&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。

 

 「注釈」

 「地蔵堂」─西京区春日町桂離宮の西南、山陰道沿いにある。俗に桂地蔵とい

      い、浄土宗。洛陽六地蔵第五番札所。本尊は地蔵菩薩立像(江戸期)

      (『京都市の地名』)。

 

 

*なんとドラマチックな展開でしょうか。地蔵の化身である小坊主に導かれ、阿波出身の男が荒れ果てたお堂を再建する。その話が大ウソだった…。これほど信仰心をないがしろにしたエピソードが、中世にあったとは思いもよりませんでした。現代人とは異なり、中世人はもう少し神仏を純粋に信仰しているものだと思っていました。悪い奴というのは、いつの時代にもいるものです。おそらく、お地蔵さんの評判を高めて、お供物や賽銭を掠め取ろうと考えたのでしょうが、この作為がバレて逮捕されてしまいます。

 ところで、この阿波出身と自称したウソつき男は、いったいどのような罪を犯したと見なされたのでしょうか。幕府の役人に捕らえられたということは、検断沙汰(刑事事件)ということになるのでしょうが、どこに問題があったのか、何を根拠に断罪したのか、いまいちよくわかりません。詐欺罪といえば詐欺罪に当たるような気もしますが、誰にとって、どのような被害があったというのでしょうか。たしかに、人々を欺いたことに違いはないのですが、騙されたとはいえ、人々はお供えや賽銭を自主的に寄付しているので、詐取されたといえるのか疑問です。

 また、中世に詐欺罪があったのかどうかもよくわかりません。法制史には詳しくないので何ともいえませんが、鎌倉幕府法や室町幕府法を眺めても、このようなケースに該当する法令を見つけることはできませんでした。当然のことかもしれませんが、こんな事件が頻発するとは思えませんので、成文化されるには至らなかったのかもしれません。そうすると、残る根拠は律令ということになりそうですが、古代の律には詐偽律があります。文書を偽作したり、偽りの契約を結んだりしたわけでもないので、詐偽律も決め手に欠けるのですが、いまのところ、これを援用したと考えておきます。これも「中世に生きる律令」ということになるのでしょうか。ひょっとすると、寺社法や在地法に、詐欺に関する規定が残っているのかもしれません。また、調べてみようと思います。

 神仏の霊験譚をウリにした寺社は、現在でもたくさんあります。役行者行基空海や円仁開創と称する寺社が、全国各地にあります。本当か…!? 史実は歴史の闇の中。バレなきゃ、罪にはならない。そんな罰当たりなことが頭をかすめながら、私は今日も、喜んでお賽銭を納めています。

自死の中世史 10 ─古代史の研究紹介─

 自死の中世史と言いながら、なかなか中世にたどり着かないまま、ここまで古代の史料を紹介してきました。古代の自死を正面から分析した研究はないのかと思っていたのですが、最近その論文に出会えたので紹介します。こうした研究があると知っていれば、わざわざ駄文を書き連ねることもなかったのですが…。

 以下に紹介する2論文は、歴史学を専門にされている方ではなく、医学(精神神経科学)を専門にされている方がお書きになっているものです。日本史の研究者は、こういうテーマにあまり興味がないのかもしれません。

 

 

 鈴木英鷹「古代の日本人の自殺について─『日本書紀』の自殺記事による検討」

                    (『精神医学』53─2、2011・2)

 この論文はタイトルにもあるように、『日本書紀』を素材に自殺の事例を抽出し、分析を加えられています。そして、世のため、人のために自殺することは、古代日本の風習であったと結論づけられています。以下、その他の分析結果について、簡単に紹介します。

 

 1、自殺の事例数と男女数

 全部で32例。性別が確定できる事例は28例で、男性21例、女性7例。75%が男性だった。

 2、自殺の年齢

 自殺時の年齢が判明するのは、2事例のみで、大友皇子25歳、山辺皇女18歳。

 3、自殺理由

 「殉死」8例、「戦闘中勝を得ざるを知り」7例、「重刑を予知」6例、「身代わり」4例、「苦しみから逃れるため」2例、「内乱が起こり人民を苦しめることを避けるため」「即位を辞退して」「冤罪に抗議して」「不敬を悔いて」「友人の死を悼んで」がそれぞれ1例ずつ。

 4、自殺方法

 「自経(縊死)」7例、「頸を刺す」5例、「自刎(自分で首をはねる)」2例、「入水」4例、「剣に伏す」「焚死」「絶食死」「投身」がそれぞれ1例。「不明」10例。「自経」「頸を刺す」「自刎」など首に関係する方法が14例と全体の約44%。

 

 

 鈴木英鷹「奈良から平安初期における日本人の自殺─『続日本紀』『日本後紀』によ

      る検討─」(『日本医事新報』4517、2010・11)

 この論文は、『続日本紀』と『日本後紀』から自殺の事例を抽出し、分析した研究です。以下、簡単に紹介します。

 

 1、自殺の事例数と男女数

 『続日本紀』は全5事例、そのうち性別が判明するのは4例で、すべて男性。『日本後紀』は全4事例で、男女各2例。

 2、自殺理由

 『続日本紀』の自殺理由は、「勝を得ざるを知り」「詰問に苦しみて」「左遷に失望して」「詐欺」「印書偽造」がそれぞれ1例ずつ。『日本後紀」では、「勝を得ざるを知り」が3例、不明1例。

 3、自殺方法

 『続日本紀』では、「自経(縊死)」が4例、「不明」1例。『日本後紀』では、「服毒」3例、「自経」1例。

 

 結論では、次のようにまとめられています。

 『日本書紀』の自殺記事を通してみた藤原京までの日本人の自殺理由の特徴は、道徳、慣習上の犠牲、あるいは法律に背いた自責観念により自殺する場合が多い。

 『続日本紀』『日本後紀』の自殺記事における奈良〜平安時代初期の自殺理由の特徴を検討した結果、「左遷に失望して」「詐欺」「印書偽造」など、『日本書紀』では見られなかった自殺の理由が登場した一方で、『日本書紀』にあった「殉死」は見られなかった。

自死の中世史 9 ─日本の古代7─

  永延二年(九八八)六月十七日条

         『日本紀略』(『国史大系』第五巻、『大日本史料』第二編之一)

 

 十七日、壬申、左獄被禁固、強盗首保輔依自害疵死去了、是右馬權頭藤原

  致忠三男也、件致忠、日来候左衛門弓場、昨日免、

 

 「書き下し文」

 十七日、壬申、左獄に禁固せらる、強盗の首保輔自害の疵により死去し了んぬ。是れ

  右馬権頭藤原致忠三男なり、件の致忠、日来左衛門弓場に候ふ、昨日免ず、

 

 「解釈」

 十七日、壬申。強盗の首領である藤原保輔は左獄に禁獄され、自害の傷によって死んだ。この男は、右馬権頭藤原致忠の三男である。この致忠は、ここ数日、左衛門府の弓場に祗候していた。昨日、放免した。

 

 「注釈」

日本紀略」─神代から後一条天皇までの歴史書。著者不詳。34巻。平安後期成立。

       前半は六国史からの抄録。後半は公私の日記にもとづき編集した。六国

       史の欠を補い、かつ平安中期の歴史を知る重要史料(『新版 角川日本

       史辞典』)。

「保輔」─(〜九八八)平安中期に本朝第一の武略を以て知られた大盗賊。南家武智麻

     呂流。皇嗣問題から死後に怨霊となったといわれる元方の孫。右京大夫致忠

     の三男。藤原道長の家司の一人であり、和泉式部の夫でもあった保昌の弟。

     正五位下。右兵衛尉、右馬助、右京亮等を歴任。永延二年六月十七日獄中に

     て死去。捕縛された時に自殺を図り、切腹ののちに腸を引きずり出した傷が

     原因であるという(『続古事談』五)。寛和元年(九八五)に左大臣源雅信

     邸の大饗で藤原季孝を傷つけた科で罪を問われて以来、藤原景斉・茜是茂ら

     の家を襲い、更に検非違使の源是良を射るなど京中を騒然とさせ、追討の宣

     旨を被ること一五度であったという。姉小路南高倉の保輔の屋敷には落とし

     穴を隠した蔵が建てられ、物売りを招き入れては強奪をほしいままにして、

     生きて出られるものはなかった(『宇治拾遺』一二五)。保輔を袴垂と同一

     視する説は後世の付会。なお、保輔の切腹は本朝最古の実例であり、以降東

     国の武士の間で自殺の手段として切腹が頻繁になった(仲井克己『平安時代

     史事典』下)。

「左衛門弓場」─本来射芸を教習・披露する場であるが、十世紀中・後期以降は勅裁

        (天皇の裁き)の対象となる訴訟や事件の当事者・関係者を拘禁・

        喚問(取り調べ)する場としても利用されていた。そのため獄所の

        場合と同様に看督長が配置され、その警護・管理に当たっていたもの

        と思われる(前田禎彦「看督長見不注進状」(九条家本 『延喜式

        紙背文書) に関する基礎的検討」『人文研究』神奈川大学人文学会

        誌、157、2005・12、http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/3580/1/kana-10-18-0004.pdf

 

 

平安時代の大盗賊として有名な藤原保輔の最期を記した記事です。この記事からわかることは、禁獄された後に自害し、その傷がもとで死んだという事実だけです。注釈にも記しましたが、『続古事談』という説話には、もう少し詳しい内容が記されているので、次にそれを示しておきます。

 

 『続古事談』巻第5─45 諸道(『新日本古典文学大系』41、岩波書店

 保輔と云者は、元方の民部卿の孫、致忠朝臣の子也。故国章の三位の家に強盗入にけり。保輔がしわざときこえて、かれが郎等さし申て、ざう物どもあらはれにけり。又、忠信朝臣をいたる事、兵衛尉維時をころさんとする事、みな保輔が所為のよし、郎等、白状によりて、検非違使、所々をうかゞふといへども、からめえず。顕光中納言の家にこもりたるよしきこえて、検非違使并に武芸の者、滝口にいたるまで、かの家をかこみてさぐりもとむるに、中納言の北方、車にのりていでんとするに、うたがひて、くるまをさゝしめず。父致忠には、看督長・下部をつけて、すだれもかけぬ車にのせてまもりけり。此家にもなかりければ、三日のうちにたてまつるべきよし、父致忠が請文をたてまつらしむ。此事によりて、諸衛の官人、弓箭をおひて内裏に候ふ。京中しづかならず。からめてたてまつりたらんもの、勧賞をこなはるへきよし、宣旨くだりけり、父致忠は、左衛門弓ばにくたされけり。保輔、せめにたえず、北山花園寺にて出家のよしきこえければ、検非違使、はせむかひてたづぬるに、にげにけり。きりすてたる髪、狩衣、指貫をとりてかへりにけり。其後、保輔法師、ひそかに従者左大将の随身忠延と云ふもののもとへきたりけるを、はかりごとをまはしてからめてけり。保輔、にぐるにあたはず、かたなをぬきて腹をさしきりて、はらはたをひきいでたりけり。検非違使、このよし申て、禁獄せられにけり。此賞に、忠延、左馬医師になされけり。保輔、次の日、獄中にて死にけり。獄よりとりいでてゐてゆくとて葬礼して、念仏僧ぐしてゆきければ、公家とがめ仰られて、検非違使、過状たてまつりけるとぞ。

 

 「解釈」

 藤原保輔という者は、民部卿藤原元方の孫で、致忠朝臣の子である。故藤原国章の三位の家に強盗が入った。保輔の仕業と噂され、その郎等が白状して、盗品が発見された。また、源忠良朝臣を弓で射たことも、兵衛尉平維時を殺そうとしたことも、すべて保輔の仕業であると、郎等が白状したことによって、検非違使がさまざまな場所を捜索したが、捕らえることができなかった。顕光中納言の家に籠居していると噂され、検非違使ならびに武芸に秀でた者、滝口の武士にいたるまで、顕光の家を取り囲んで、捜索したところ、中納言の北の方が車に乗って出かけようとしていたので、車中に保輔がいるのではと疑って、車を遮って止めた。父の右馬権頭致忠には看督長と下部(放免)を見張りにつけて、簾も掛けない車に乗せて監視した。この家にもいなかったので、三日以内に保輔の身柄を差し出し申し上げると、父致忠の請文を差し出し申し上げさせた。このことによって、六衛府の武官たちが弓箭を背負って内裏に祗候した。京中は騒々しかった。捕らえ申し上げた者に、褒賞を与えるという宣旨が下された。父致忠は左衛門府の弓場に下された。保輔は追討の厳しさと父への処罰の厳しさに耐えられず、北山花園寺で出家したと噂されたので、検非違使は急ぎ駆けつけて捜索したが逃げてしまった。切り捨てた髪や狩衣、指貫を取って帰った。その後保輔法師は、密かに従者であった、左大将藤原朝光の随身の忠延という者のところへ来ていたのを、謀を巡らして捕縛した。保輔は逃げることができず、刀を抜いて腹を刺し切り、腸を引っ張り出した。検非違使はこの次第を申し上げて、保輔は禁獄されてしまった。この恩賞として、忠延は左馬寮の馬医になされた。保輔は翌日、獄中で死んだ。(父致忠?は)獄中より遺体を取り出し連れて行こうと思って、葬儀を行い、念仏僧を連れていった。だから、朝廷は、罪人に対して過剰な礼法をとったことを咎めて、検非違使は詫び状を差し出し申し上げたということだ。

 

 「注釈」(以下、とくに断らない限り、脚注をそのまま引用しています)

続古事談」─鎌倉前期の説話集。著者不詳。6巻(現存本は第3巻欠)。1219

       (承久1)成立。『古事談』にならい公家社会の説話を多く伝えるが、

       漢朝編をもうけ政道論・治世論にも及ぶ。一部に散逸した公家日記を引

       用して貴重(『新版 角川日本史辞典』)。

「忠信朝臣」─諸本「忠信」だが、「忠良」が正しい。→人名一覧。但し保輔が「射

       た」史実は未詳。永観三年(九八五)右衛門尉で検非違使の時、保輔と

       その兄斉明を追捕したが(小右記)、その恨みに本件の淵源があるか

       (土田直鎮)。

       諸本は「忠信」だが、「忠良」が正しい。『続古事談』には藤原保輔

       捕の関連記事に登場する足羽忠信との行動があるか。忠良は文徳源氏

       仲連男。永観3年(985)に右衛門尉で検非違使であった時、保輔と

       その兄斉明を追捕。下総守を歴任(「人名一覧」『続古事談』)。

「顕光中納言」─藤原。権中納言顕光・右府〈顕光〉・左大臣・親・広幡のおとゞ・右

        大臣顕光・顕光左大臣・顕光中納言。944─1021。兼通嫡男。

        母は昭子女王。異母弟の朝光に官位は常に超越される。愚人の評価が

        あった。最終官位は従一位左大臣。娘が嫁した小一条院敦明が道長

        策謀で春宮を辞すなど、不如意が多く、道長一族に祟る「悪霊左府」

        と呼ばれる。広幡は邸第の呼称(「人名一覧」『続古事談』)

中納言の北の方」─顕光は当時村上天皇女盛子を妻としていた。

「諸衛の官人」─六衛府(近衛・衛門・兵衛)の武官達。この様は検非違使の追捕を超

        えた大策(おおあなぐり/大捜索のこと)に相当。弓箭を帯し、早朝

        卯一点に建礼門に集合する(北山抄四)。

「北山花園寺」─「今暁保輔朝臣権北花園寺剃頭出家」(小右記・十四日条)。近くを

        紙屋川が流れている「西京花園寺」(小右記・長和四年六月二十五日

        条)ならば、「北山」の呼称(今西祐一郎)に齟齬はない。

「かたなをぬきて…」─小右記に「自害」記事なく、切腹の詳細は本書のみ所伝。

 

*注釈でも書きましたが、仲井克己(『平安時代史事典』下)によると、どうやらこの記事が、日本最古の切腹事例になるそうです。脚色もされているのでしょうが、腸を引っ張り出すなど、かなり強烈な描写になっています。

 さて、この記事もどこまで信用してよいのかわかりませんが、自害に至るまでの状況をまとめてみると、次のようになります。

 藤原保輔は、強盗・障害・殺人未遂などの罪を犯し、検非違使から追われるようになりました。ところが、その追討を逃れ続けていたため、捕らえたものに褒賞を与えるという宣旨が下され、保輔の父致忠も左衛門府の弓場に拘禁されることになったのです。

 こうした追討の厳しさや父への処罰の厳しさに耐え切れなくなった保輔は、まず花園寺で出家します。その後も捜索を掻い潜って逃亡するのですが、計略にはまってとうとう捕らえられます。保輔は逃げることができず、刀を抜いて腹を刺し切り、腸を引っ張り出したのですが、どうやらこの傷がもとで死んでしまったようです。

 さて、これまでの記事で見られなかった新たな事態に、捕縛前の出家があります。逃走のために僧衣に身をやつしたのか、浄土思想の影響を受けた臨終出家を意識したのか、その両方だったのか、判断に苦しみますが、もう逃げ切れない、そして捕まれば処刑される、という予期が頭を過ぎったのかもしれません。

自死の中世史 8 ─日本の古代6─

 弘仁七年(八一六)八月二十三日条

        (森田悌日本後紀(下)』巻二十五、講談社学術文庫、2007)

 

 ◯丙辰、公卿奏言、上総国夷灊郡、官物所焼、准穎五十七万九百束、正倉六十

  宇、刑部省罪言、検焼損使散位正六位上大中臣朝臣井作等申、税長久米部

  当人、臨失火時、逃亡自殺、推量意況、豈無犯、忽自引乎、可

  謂当人侵盗官物、謀而放火上レ者、省案律、当人所犯、罪当絞刑

  而其身自殺、仍更不論、但新任守小野朝臣真野・介茨田宿禰文足等、就

  日浅、此火之起、不不粛、仍案延暦五年八月七日格、不神災・

  人火、令当時国司・郡司及税長等、一物已上、依数塡備、然則実雖

  神災、猶令当時公廨塡納、蓋以公廨之設、本為欠負故也、須在任

  国司・郡司及税長等、共塡備之者、省断如此、臣等尋検法意、外從五位

  下守大判事物部中原宿禰敏久曰、法家者、如此事類、禁得其身、則自備償、

  若資財乏尽、役身相折、然而不五歳、年限既満、贓物未塡、即従

  原免、斯則公家有損無益、是以延暦五年格、令神災・人火、以

  当時公廨上レ之、良由負之設在後人也、前人去職、不更追咎者、

  官議商量、事不穏便、所以者何、格云、正倉被燒、未必由一レ神、何者、

  譜第之徒、害傍人而相焼、監主之司、避虚納以放火、因茲観之、格之

  大体、責帰虚納也、又選用郡司、前人之所行、後司乍到、雜務未分、

  雖印鎰、交替未畢、在於此間、会逢失火、前司寄言去一レ職、

  専避其咎、新任則交替当時、独以労塡、夫虚納者旧時之怠也、公廨者後司之

  料也、有怠則黙然免罪責、無怠則毎年奪料物、以怠之料、備

  有怠之損、事之為緒、不物情、今臣等商量、事有大小、政有

  閑忙、是以分付・受領、既立程期、今前司全成雖職、是収納之当時

  也、後任真野雖印鎰、而見災之当時也、験格意、則疑渉虚納

  何者、行火自殺、責以塡備、則不不粛、何者、到任日浅、凡交替

  之事、限内未畢、則宜其由、縦令無故過百廿日、然後火起、則後任

  官司、更無遁、而就任以降、十有余日、歴任不幾、至于独填、誰甘

  心前怠後責、伏聞天裁者、奏可、

 

*「蓋以公廨之設」の返り点を、「蓋以公廨之設」に改めました。

 

 

 「書き下し文」

       (現代語訳を参考に作ってみましたが、まったくわかりませんでした)

 

 ◯丙辰、公卿奏言す、上総国夷灊郡に、官物焼く所、穎に准じ五十七万九百束、正倉六十宇なり、刑部省罪を断じて言はく、検焼損使散位正六位上大中臣朝臣井作等申すに、税長久米部当人、失火の時に臨み、逃亡し自殺す、意況を推量するに、豈に犯す所無くして、忽ち自引せんや、当人官物を侵し盗み、謀りて放火すと謂ふべしてへり、省律を案ずるに、当人の犯す所、罪絞刑に当たる、而れども其の身自殺す、仍て更に論ぜず、但し新任の守小野朝臣真野・介茨田宿禰文足ら、政に就きて日浅し、此の火の起こり、不粛に縁らず、仍て延暦五年八月七日の格を案ずるに、神災・人火を問はず、当時の国司・郡司及税長らをして、一物已上、数に依り塡備せしむ、然れば則ち神災と雖も、猶ほ実に当時の公廨をもつて塡納せしむ、蓋し公廨の設けを以て、本の欠負と為す故なり、須らく在任の国司・郡司及税長ら、共に之を塡備すてへり、省断此くのごとし、臣ら法意を尋ね検ずるに、外從五位下守大判事物部中原宿禰敏久曰く、法家は、此くのごとき事類、其の身を禁得せば、則ち自ら備償し、若し資財乏尽せば、身を役し相折せしむ、然れども五歳を過ぐるを得ずして、年限既に満つるとき、贓物未だ塡ぜざるも、即ち原免に従ふ、斯れ則ち公家に損有りて益無し、是を以て延暦五年格に、神災・人火を論ぜず、当時の公廨を以て之を塡ぜしむ、良に負の設け後人に在るに由るなり、前人職を去らば、更に追つて咎めずてへり、官議して商量するに、事穏便ならず、所以は何ぞや、格に云く、正倉焼かるるは、未だ必ずしも神に由らず、何となれば、譜第の徒、傍人を害して相焼き、監主の司、虚納を避け以て放火す、茲れに因り之を観るに、格の大体、責めは虚納に帰するなり、又郡司を選用するは、前人の行ふ所、後司は到りながら、雑務未だ分かたず、印鎰を領すと雖も、交代未だ畢らず、此の間に在り、たまたま失火に逢ふ、前司言職を去るに寄せて、専ら其の咎を避く、新任則ち交替の当時、独り以て塡に労す、夫れ虚納は旧時の怠りなり、公廨は後司の料なり、怠り有れども則ち黙然として罪責を免ぜられ、怠り無けれども則ち毎年料物を奪はる、怠り無きの料を以て、怠り有るの損に備ふは、事の緒として、物情に近からず、今臣ら商量するに、事に大小有り、政に閑忙有り、是を以て分け付け・受領す、既に程期を立て、今前司全成職を去ると雖も、是れ収納の当時なり、後任の真野印鎰を領すと雖も、見災の当時なり、格の意を験ずるに、則ち疑ひ虚納に渉わる、何となれば、行火し自殺す、責むるに塡備を以てすとも、則ち不粛に縁らず、何となれば、任に到り日浅し、凡そ交替の事、限内未だ畢らずんば、則ち宜しく其の由を言ふべし、縦へ故無く百二十日を過ぎ、然る後火起くれば、則ち後任の官司、更に遁るる所無し、而れども任に就きて以降、十有余日、歴任幾ばくならず、独塡に至らば、誰か前怠後責を甘心せんや、伏して天裁を聞く、てへれば奏可す、

 

 「解釈」(前掲森田悌日本後紀(下)』より引用)

◯丙辰(二十三日) 公卿が次のように奏上した。

 上総国夷灊郡の焼失した官有物は穎に換算して五十七万九百束になり、正倉六十棟を焼きました。この件について刑部省の判断は、「検焼損使散位正六位上大中臣朝臣井作らの報告は『税長久米部当人は失火時に逃亡して自殺しました。その心理を推測しますに、無罪だとすれば、どうしてすぐに自殺しましょうか。当人が官物を盗み、隠すために放火したに違いありません』ということでした。これに基づき刑部省で律(雑律)を検討しましたところ、当人の罪は絞刑に当たりますが、自殺してしまいましたので、追及することはできません。新任の守小野朝臣真野と介茨田宿禰文足らは着任して日が浅く、このたびの出火に責任はありませんが、延暦五年八月七日の格(『続日本紀延暦五年八月甲子条)によれば、神火(神異による出火)・人火(人の放火)を問わず、当時の国司・郡司・税長らに火損の塡償をさせよとありますから、たとえ神火であっても国司の公廨をもって塡納させることになります。元来、公廨は欠負を補塡するためのものだからです。これにより現任の国司・郡司・税長らが共同して火損を塡備すべきです」ということでした。

 ここで私たちが法意を調べてみますに、外従五位下守大判事物部中原宿禰敏久は「法律家は、このような事案に関しては、犯人の身柄を拘束できれば、犯人に弁償させることになり、資財が尽きたときは使役して返済させることになります。ただし、五年が限度で、その年限に達したときは塡償が終了しなくても放免することになります。しかし、これでは朝廷にとり不利となりますので、延暦五年格では神火・人火を問わず現任の者に公廨をもって塡償させることにしたのです。まことに欠負を補塡する責任は後任の者にあり、前任が職を去れば責任は追及されません」という見解を述べましたが、私たちが検討しますに、この見解は穏当ではありません。格では、正倉の焼失は必ずしも神火ではなく、郡司をめざす譜第の徒(郡司を出す家柄の者)が現任の解任を図って放火したり、正倉を管理する役人(国司・郡司・税長)が虚納を隠蔽するために着火していると指摘しています。そして、大方の認識としては、虚納を契機と見ています。

 また、郡司を任用したのは前司であり、後任は着任しても任務に就かず、印鎰(国印と鍵)を受領しても交替の事務は完了しておらず、この間に今回の失火が出来したのでした。前任者は離任にこと寄せて責任を逃れ、新任者は現在ということで塡償に苦労する事態となっています。虚納は前任のときのことなのに、後司の公廨で塡償するということであり、怠りのある前司は罪責を許され、怠りのない新任は俸料を奪われる始末になります。怠りのない者の俸料により、怠りのある者の損失を塡償するということは、事の次第としてあるべきあり方とは異なっています。

 いま私たちが考えますに、何かにつけ事には大小があり、政務には閑忙があり、適切な処置をすることが必要です。国司の事務引き継ぎでは期限(百二十日)を定めていますが、今回の事件では、前司多治比全成が離任したのは収納時であり、後任小野真野が印鎰を受領した段階で火災となったのでした。先の格意を踏まえれば、虚納が契機となっている疑いがあります。理由は放火して自殺したと見られるからです。後任に塡償させるにしても、不粛の責任は問えません。着任して日が浅いからです。交替引き継ぎでは、日限のうちに完了しないときは、その理由を言上することになっています。仮に特別の理由がないのに程限百二十日を経過したのちの出火ならば、後任は責任を逃れることができませんが、今回は十余日後のことでわずかな日数でしかなく、後任の責任で塡償するとなれば、いったい誰が甘んじることができましょうか。伏して、勅裁を仰ぐしだいです。天皇は奏上を裁可した。

 

 「注釈」

 今回も、『日本後紀』からの紹介です。長い紹介になりましたが、ここでは、放火犯とされた久米部当人(くめべのまさひと)の自殺を検討してみます。

 上総国夷灊(いしみ)郡で火災が起こり、官有物の稲穂が焼失するという事件が起こりました。検焼損使大中臣朝臣井作(いつくり)らの報告によると、租の収納・保管に当たっていた久米部当人は、失火時に逃亡し、自殺したそうです。

 興味深いのはこの後の表記です。第三者である検焼損使は、自死を遂げた久米部当人の心理を推測し、「無罪であれば、すぐに自殺などしない。久米部が官物を盗み、その隠蔽のために放火したのだ」と考えていたことがわかります。つまり、「放火・自殺」という結果から、「官物横領・隠蔽」という原因を推測したことになります。そして、この報告をもとに刑部省は、久米部の罪は絞首刑に当たるが、自殺したのでこれ以上追及することはできないとし、新任の国司・郡司・税長らに、焼失した官物の補塡を命じる判断を下しているのです。

 では、検焼損使の心理分析は、本当に妥当だったのでしょうか。この記事には、延暦五年(七八六)八月七日の格がたびたび引き合いに出されているのですが、それによると、正倉の焼失は、郡司を出す家柄の者が現任(新任)郡司の解職を目論んだり、正倉を管理する役人が虚納の隠蔽を謀ったりしたための結果と見なしているのです。この格が、刑部省の役人や法律家中原敏久、今回の奏上者である公卿たちにも、判断の根拠として引用されていることを踏まえると、格の存在を検焼損使が知らなかったとは考えられません。おそらく、検焼損使の頭には、役人が放火犯であるという先入観があり、加えて久米部が自殺したのだから、犯人に間違いないと確信したのではないでしょうか。純粋に久米部の心理を推測したとは言えない、と考えられます。

 検焼損使の心理分析には、もう一つ大きな問題があります。「放火」という結果と「横領・隠蔽」という原因を結びつけた理屈は納得できるのですが、なぜ「自殺」という結果と「横領・隠蔽」という原因を結びつけたのでしょうか。横領を隠蔽するために放火したというロジックは理解できますが、自殺してしまっては、隠蔽の意味がありません。生きてこそ隠す意味があるはずです。今回の事件は税長久米部の単独犯ではなく、国司・郡司も共犯であり、罪を久米部になすりつけて殺害したと推測することもできそうですが、ここで問題としたいのは、生きている人間(検焼損使)の、「自死」と「犯罪」の結びつけ方です。私は、次の点が重要だと考えています。

 犯罪には、それに応じた量刑が科されます。今回の場合、仮に久米部が自殺せずに生きており、なおかつ罪が確定したならば、絞首刑に処されたはずです。反対に、無罪が確定すれば、絞首刑になることはなく、焼失した官物を補償する以上の責任は及びません。しかも、国司・郡司・税長の共同補償になるので、一人で負担するのでもありません。したがって、自殺する必要はなくなるわけです。つまり、自殺したということは、罪を認めたということになる。これが、検焼損使の論理だったのではないでしょうか。「日本の古代3・4」でも同様のことを述べましたが、「死刑を予期した犯人は、自死を選択する可能性がある」という観念が、当該社会に広まっていたと考えられます。

 

 余談になりますが、今回の記事の論点は、焼失した官物の補塡を、前任者の責任とするか、新任(後任)者の責任にするか、というところでした。3・4段落の解釈からも明らかなように、後任者は就任して間もないため、責任を負わせるのは不適切だ、と公卿たちは考えたのです。そして、その主張を補強し、前任の国司・郡司に補償をさせるためには、根拠の一つとして、前任の税長久米部を犯人にしなければならなかったと考えられます。

 

*直木孝次郎「税長について」(『大阪市立大学大学院文学研究科紀要 人文研究』、

 9─11、1958・10、http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/detail

 を参照しました。

 

田所文書2 その5

    二 沙弥某譲状 その5

 

      一所畠二反         下作人 □□

       件二ヶ所之子細、見于本主南次郎大夫則助

       并安南郡公文信政去状、将又國衙之外題

       分明也、而今所當下作人凡不子細、爲

       領之由令存知歟、然者所詮可行他人者也、

      一所田小       ■■領分大木下

      一所田二反小[     ■■■

      一所田一丁[

       件田、子細見于留守所下文

      江田村

        田

        畠

                    (井ヵ)

       一所畠二反       高⬜︎ 作人不定

                         (性ヵ)

       一所畠二反[ ⬜︎◼️◼️◼️〉永井 〈本作人⬜︎忍房〉

       一所畠四反[    ■■同 作人[

       一所畠三反       同 久冨作

       一所畠一反半      同 〈國元作永束畠⬜︎〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

       一所田畠一反大内 〈田大畠一反〉 中洲 〈作人不定即進止也、〉

       一所畠二反小      藤三入道作

                    (王ヵ)

       一所⬜︎二反    [  ]⬜︎御房作

       一所田畠[ ]

                   俗名親宗

        件畠者、福原⬜︎衛入道了西o傳領之、而守護押領之上者、經

        訴訟領知歟、不然者可─汰─上其用途之處、一向

        依其儀、訴申事之由御下知畢、凡不子細

        歟、

       一所田三百歩 〈子細見南一門小乃如云[ 〉

       一所田[        ⬜︎本

       一所田三反       柳原

       一所田四反       青行

       一所田二反       同

     安南郡

      牛田村田畠

         畠

         田

     高田郡           (地)

      三田郷田一丁七反大 〈[  ]⬜︎頭方迄加徴以下公事課[ ]庭公事一向不

                     勤仕者也、是且⬜︎免(不ヵ)例之上、國判武家御下知

                     次第證文等厳重之故、〉

       一所五反 高田      一所大 諸多木

       一所四反 𣓏本      一所八反 見都

      温科村田畠十丁小

        田十丁

        (畠小ヵ)

        ⬜︎⬜︎

               (田六反ヵ)

       一所六反小内 〈[   ]畠小〉 一所八反 舩木口

       一所五反 江良田     一所二反 黒谷

       一所三反 天𣓏       一所六反 手箱

       一所七丁 新堤

        件所者、爲温科村内之条、國方進止之⬜︎厳重也、而安南郡地頭

        押領[    ]訴申子細[  ]之[

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

 一  地頭押領所々注漏于先段坪々、

     安南郡     原郷

               (此ヵ)

 一 田畠目六大略如斯、但於⬜︎注文内者、縦雖養子沽却、不

   惣領于他人矣、

 一  所従

      男

      女

     男

      長三郎國助 童召仕之、其名恵奴法師丸、父者國元也、

      同子二人内 國造房

    資俊分貳王冠者 〈宗國子、國元孫也、宗國者於童召仕之、其名熊王丸、〉

      乙王丸 子細見父年⬜︎二郎大夫則重引文

      則延法師 近延子、是延孫也、

      同子源三郎男 童召仕之、其名得法師、

                   ◼️◼️◼️

      同子三人内 大o法師丸、石同王丸、 逆法師丸、

      薬師丸 則延法師甥也、

      貞包 童召仕之、其名小源太丸、

      藤三郎男 〈父者座頭男、祖父者藤三郎男也、久時殿重代奴也、〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

*割書は〈 〉で記しました。

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「加徴」─荘園・公領の正規の官物・年貢に加えて賦課すること、またその物(銭)。

     一〇世紀末の「尾張国郡司百姓等解」に見えるのが早い例である。恒例の加

     徴と、造営料・兵粮米のような臨時の加徴がある(『古文書古記録語辞

     典』)。

広告を非表示にする

自死の中世史 7 ─日本の古代5─

 弘仁元年(八一〇)九月十二日条

         (森田悌日本後紀(中)』巻二十、講談社学術文庫、2006)

 

 ◯己酉、太上天皇大和国添上郡越田村、即聞甲兵遮一レ前、不行、

  中納言藤原朝臣葛野麻呂・左馬頭藤原朝臣眞雄等、先未然固諌、猶

  不納、催駕発進焉、天皇遂知勢蹙、乃旋宮剃髮入道、藤原朝臣薬子

  自殺、藥子、贈太政大臣種継之女、中納言藤原朝臣繩主之妻也、有三男

  二女、長女太上天皇太子時、以選入宮、其後薬子以東宮宣旨、出

  入臥内天皇私焉、皇統弥照天皇婬之傷一レ義、即令駈逐天皇之嗣

  位、徴為尚侍、巧求愛媚、恩寵隆渥、所言之事、無聴容、百司

  衆務、吐納自由、威福之盛、熏灼四方、属倉卒之際、与天皇輦、

  知衆悪之帰一レ己、遂仰薬而死、

 

 「書き下し文」

 ◯己酉、太上天皇大和国添上郡越田村に至る、即ち甲兵の前を遮るを聞き、行く所を

  知らず、中納言藤原朝臣葛野麻呂・左馬頭藤原朝臣眞雄等、未然に先んじ固く諌む

  と雖も、猶ほ納れず、駕を催し発進す、天皇遂に勢蹙まるを知り、乃ち宮に旋り剃

  髪入道し、藤原朝臣薬子自殺す、薬子、贈太政大臣種継の女、中納言藤原朝臣繩主

  の妻なり、三男二女有り、長女太上天皇太子たる時、選を以て宮に入る、其の後薬

  子東宮宣旨を以て、臥内に出入る、天皇私す、皇統弥照天皇婬の義を傷むるを慮

  り、即ち駈逐せしむ、天皇の位を継ぐに、徴して尚侍と為し、巧みに愛媚を求め、

  恩寵隆渥、言ふ所の事、聴容せざる無し、百司の衆務、吐納を自由にし、威福の盛

  んなり、四方を熏灼し、倉卒の際に属し、天皇と輦を同じうす、衆悪の己に帰する

  を知り、遂に薬を仰ぎて死す、

 

*書き下し文については、よくわからないところが多いです。

 

 「解釈」(前掲森田悌日本後紀(中)』より引用)

 ◯己酉 平城太上天皇大和国添上郡奈良市北之庄町のあたり)まで来たが、そこで武装した兵士が前進を阻んでいることを聞いて進めなくなった。中納言藤原朝臣葛野麻呂と左馬頭藤原朝臣真雄らが事を起こす前に強く諌めたが、それに従わず、輿に乗り発進したのであった。太上天皇はここで自らの勢いの挫けたことを知り、平城宮へ戻り髪を剃って僧体となり、藤原朝臣薬子は自殺した。

 薬子は、贈太政大臣種継の娘で、中納言藤原朝臣縄主の妻であり、三男二女を生んでいる。長女は太上天皇が皇太子であったとき、選ばれてその配偶となった。その後、薬子は東宮宣旨となり、太上天皇の寝所に出入りして通じるようになった。桓武天皇は薬子の振る舞いが義に背くと考えて、宮中から追放した。しかし、平城天皇が即位すると、薬子を召して尚侍に任じ、薬子は巧みに天皇の愛寵を求め、恩寵は盛んになり、その言うところはすべて聞き入れられた。百司の政務や天皇への取次を勝手に行い、人を脅し手なずけ、威力を盛んにした。太上天皇がにわかに事を起こして東国に向かうと、輿を同じくした。多くの人の憎しみが自分に由来することを知り、ついに薬を仰いで自殺したのであった。

 

*「薬子の変」─平安初期、嵯峨天皇平城上皇および側近との構想。平城上皇は嵯峨

        天皇に譲位後、寵愛する藤原薬子とその兄仲成ら多数の公卿・官人を

        率いて平城京に居を移し、嵯峨天皇の朝政に干渉して「二所朝庭(朝

        廷)」とよばれる対立をひきおこした。810(弘仁1)上皇重祚

        をはかり挙兵を企てたが、坂上田村麻呂の率いる朝廷軍に遮られた。

        上皇平城京に帰り出家、また仲成は射殺、薬子は自殺し、事変は3

        日で決着した(『新版 角川日本史辞典』)。

 

 

 「注釈」

 前回に続き、『日本後紀』から事例を紹介していきます。そもそも『日本後紀』は歴史書、つまり編纂物なので、記事の描写に編纂者の見えざる意図が反映されている可能性はあります。そういう意味で言えば、自死の要因を語った「知衆悪之帰一レ己」という記載は、史実としての薬子の語りではなく、伝聞情報や当時の常識から生まれた編纂者の想定によって記されたものだと考えられます。したがって、この記述の責任を最終的に負わせるとすれば、それは編者としなければならず、編者は薬子が自殺した理由を「知衆悪之帰一レ己」と考えていたことになります。

 では、「知衆悪之帰一レ己」をどのように解釈すればよいのでしょうか。前に「解釈」で示したように、「多くの人の憎しみが自分に由来することを知り」でよいのでしょうが、「帰」するという言葉は、「結局ある一つのところに落ち着く。最後にはそこへ寄り集まってくる。」(『日本国語大辞典』)という意味です。大した違いはないかもしれませんが、私は「多くの人々の憎しみが自分に集まっていることを知り」と解釈しておきます。繰り返しになりますが、この記事からは、「多くの人々の憎悪感情が自分に向けられていることを、薬子が知った」という原因と、「毒薬を飲んで自殺した」という結果を、編者が結びつけたということがわかるだけです。

 言外に想定される要因を、読み取ろうと思えば読み取れます。たとえば、政変の挫折や情夫平城上皇の出家、それに伴った怒り、悲しみ、絶望といった感情の生起を、自殺の要因とすることもできそうです。ですが、編者は「憎悪の感情が薬子自身に集まっている」ことを、自死の要因として記しているだけです。憎悪感情が薬子に向けられたことは、おそらく史実なのでしょうが、こうした事態に対する薬子の感情的反応はわかりません。憎悪の対象となったことによる恐怖だったのか、なぜ恨まれなければならないのかという反発だったのか、このような事態を招いた責任感・悔恨だったのか。「自分が憎まれている」という事態に対して、恐怖、反発、悔恨のどれを妥当な感情として採用するかは、もはや解釈の問題でしかなく、真実などは永遠にわからないのでしょう。せめて一言、編者の立場で心理描写を記していてくれれば、同時代人の感情だけは明らかにすることができたのですが、結局わかったことと言えば、「多くの人間の憎悪感情が自分に向けられると、自殺する可能性が生じる」と平安時代には考えられていた、ということだけです。

自死の中世史 6 ─日本の古代4─

  大同三年(八〇八)十一月四日条

         (森田悌日本後紀(中)』巻十七、講談社学術文庫、2006)

 

 ◯十一月辛巳、(中略)是夜、有盗、入内蔵寮府、為人所一レ囲、時属

  大嘗、恐其自殺、遣使告喩、投昏出去、(後略)

 

 「書き下し文」

 ◯十一月辛巳、(中略)是の夜、盗有り、内蔵寮の府に入りて、人の囲む所と為る。

  時大嘗に属り、其の自殺するを恐れ、使を遣して告諭せしむ。昏に投りて出去す。

 

*書き下し文は、鈴木英鷹「『日本文徳天皇実録』にみる平安時代初期の医療福祉」(『人間科学部研究年報』14、2012・12、http://www.lib.tezuka-gu.ac.jp/kiyo/mokuji/n14.html)を引用しました。

 

 「解釈」

 本日夜、盗人が内蔵寮の倉庫へ入った。包囲したが、大嘗祭が間近なので、盗人が自殺し穢れとなるのを恐れ、使いを遣わして告諭して、夕暮れに至り逃亡させた。

 

*解釈は前掲森田悌日本後紀』の解釈をそのまま引用しました。

 

*『日本後紀』─勅撰の歴史書で六国史の一つ。藤原緒嗣ら撰。40巻。840(承和7)成立。792─833(延暦11─天長10)の編年史で、平安初期の根本史料。現存は10巻のみ(『新版 角川日本史辞典』)。

 

 「注釈」

 単純な記事ですが、追い込まれた盗人には、自殺する可能性があったようです。今回の場合、盗人を捕らえようとした役人たちは、盗人が自殺することを恐れただけなので、実際に自殺を遂げたわけではありません。だから、盗人の思考を推測することに意味はないのですが、そうであるがゆえに、役人たちが何を考えていたのかが際立ってきます。少なくとも役人たちの頭の中では、「捕縛行為」と「自殺の可能性」が、因果関係で結びつけられていたことがわかります。

 では、なぜ「捕縛行為」と「自殺の可能性」が結びつくのでしょうか。戸川点氏の研究(『平安時代の死刑』吉川弘文館、2015)によると、平安時代では、盗犯は死刑に処されることがあったそうなのです。この盗人は、強盗だったのか窃盗だったのかはっきりしませんが、「盗人は『捕縛されて死刑になるくらいなら、自殺したほうがましだ』と考えているはずだ」、と役人たちは推測したのではないでしょうか。おそらく、同様の事件がこれまでにもあったのでしょう。

 つまり、こうした事件の積み重ねによって、「捕縛、あるいは死刑から逃れるために、犯人は自ら命を断つ可能性がある」という経験則が形成されてきた、と言えそうです。「追い込まれた犯人が自殺する」という単純な事実認識に、さまざまな意味や要因、背景を想定して複雑にしていくのは、いつでも生き残った人間のほうです。そして、こうした情報が伝わり広まることによって、似たような状況に追い込まれた人間が、同じ意図で同じ振る舞いをすることになるのではないでしょうか。

 前回の長屋王の記事でも書きましたが、死刑の予期が自死の要因の一つになり得たと考えられそうです。ただ、これも前回同様、どのようにして「他人の手で殺されるよりは、自殺したほうがましだ」という思考が生まれてきたのか、という点は謎のままです。「死刑」も「自死」も結果として同じ「死」なのですが、それでも「自死」を選ぶ理由がよくわからないのです。

 一つだけ考えられそうなのは、「死刑」の場合、「死」に至るプロセスが、「自死」よりも苦難を伴うということです。拘禁・尋問・処刑、場合によっては梟首。その死へのプロセスを知っていれば、苦痛・恐怖といった最小限の困難で死に至ることのできる「自死」のほうが、追い込まれた犯罪者にとっては魅力的だったのかもしれません。

田所文書2 その4

    二 沙弥某譲状 その4

 

       一所畠栗林        南山大歳[

             (公ヵ)(二ヵ)

        件所者、國掌⬜︎⬜︎⬜︎郎掾近清并同嫡子矢目近道、出擧物代ニ所

        引進上山權⬜︎兼直也、而彼子息正行房乗兼遣件證文

        望用途之間、与渡銭五貫面葦毛馬一疋畢、此内當時下人中五丸

                (兼ヵ)

        給恩屋敷者、在廳⬜︎安南郡公文左藤大夫助眞〈左藤四郎大夫助正父左藤

          五郎大夫清正祖父〉之[ ]局、自清近之手負物之代ニ割

        之、多年無違乱居住之間、令件次第沙汰證文等於石井入

        道殿之間、彼状等同共以令之者也、然者云彼云此一向

        令進退畢、

                         (内ヵ)

       一所屋敷田一反 蓮法房垣内 留守所御薗⬜︎

                        (令)

        件所、彼法師後家并嫡女引文在之、⬜︎[ ]所當公事於留守所、

        令自作否即進止也、

       一所屋敷田畠二反  後藤掾  同

        件田地并權三郎男等彼父利恒引文分明也、子細同前、

       一所國清屋敷田畠      同

                            

        件所者、故得王冠者一具證文也、子細見國□引文者也

        巨細先段同前、

                    ■■■■

       一所屋敷田畠一反      脇

        件子細、就本主下書生近末後家并娘訴状、留守所之外題明白也、

        當時乙靏女給恩也、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

                     (田村ヵ)

       一所田二反 景行給田   山⬜︎⬜︎畠田

                             (嘉ヵ)

        件田地者、自本弥冨領也、仍譲与刑部阿闍梨□憲(嘉ヵ)畢、而自

        彼後家之手菜原阿弥陀仏[ ]時資領之者也、

                              (ヵ)

       一所田二反 〈二王冠者給田國元譲内也、〉   同村 米原

       一所田四反 下人等給田  資俊同 松本

     安南郡

      船越村一丁一反

        田五反

        畠五反

        塩濱一反

       一所田五反      資俊大迫

       一所畠三反       東浦 自見乃古志北

       一所二反        西浦 

       一所塩濱一反      堀南東浦

        件所々、子細見于國衙外題以下次第證文等、将又源六宗実入道

               (父ヵ)

        〈源頭実直法師之⬜︎毗沙王入道祖父〉起請文并書状等分明也、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

    安南郡

 一   原郷田畠六丁三反六十歩 〈云國衙地頭両方承伏、建保承久取帳、爲弥冨

                      久武各別之間、不巨細者也、〉

       名田四丁二反三百歩

       畠二丁百二十歩

      一所田一丁         萱原

      一所同一丁内 〈多阿五反 願覺跡今者毗沙王、依多阿譲状也、毗沙二郎五反 

                 〈地頭押領依博打〉〉西烏田

        

      一所o一丁         東烏田

        

      一所o同三反        ■■■大豆田

      一所同四反        資俊大沼口 國元作

      一所三百歩 〈大沼田苗代〉  自同溝上

      一所同五反         同 友道作

      一所畠二反       資俊北庄堺 藤太作

      一所同二反        伴太 墓畠云々

      一所同二反        道末 又鈎金

      一所同三反 六波羅殿御下知在之、〉 伊与寺

      一所同四反        今津 長畠云々

      一所同二反       ■■■同 矢古畠云々

                       (給ヵ)

      一所同二反       ■■尾飡 國助⬜︎畠

      一所同二反        同今冨

      一所同二反        小向

      一所同一反小       東畠 宗房作

      一所畠二反        下作人 □□

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

*割書は〈 〉で記しました。

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「下書生」─書生は、日々国司の庁に出勤して、書類を認め事務をとったことが『今昔

      物語』に見える(『新訂官職要解』)。上書生・下書生にわかれていたの

      かもしれません。

「外題」─「外題安堵」。所領・土地の譲状・寄進状、売買の袖・奥、あるいは裏など

     余白に、その行為を承認する旨の文言を記したもの。平安時代10〜12世

     紀に始まるが、室町期にはほとんど見られなくなる(『古文書古記録語辞

     典』)。

「菜原」─南原(なばら)村か。安佐北区可部町南原。冠山(735・7メートル)よ

     り南流する南原川の谷筋に集落が開かれ、北は可部峠を越えて山県郡本地村

     (現千代田町)、西南は綾谷村。南原川沿いに石見浜田路が通り、谷の途中

     と可部峠の二ヵ所に一里塚があった。応安六年(一三七三)九月五日の今川

     了俊書下(熊谷家文書)に「加部庄内」の「名原両村」を熊谷宗直に預け置

     いたとみえる。古く九品寺村を下南原村とよんでいたから、同村域を併せた

     地が名原両村とよばれ、可部庄に含まれていた。至徳二年(一三八五)十月

     三日の今川了俊安堵状(同文書)は、応安六年に宗直に預け置いた「名原

     郷」を安堵したもの。

     南原八幡宮(現幡崎八幡宮)は、近世には当村・九品寺村と東綾谷に氏子が

     あり、かつての名原郷の範囲を反映している。また、当村は、可部庄総鎮守

     と推定される両延八幡宮の祭祀圏に含まれながら(芸藩通志)、南原八幡宮

     は三入庄鎮守の三入八幡宮の管掌下にある(郡中国郡志)など、かなり流動

     的であった。南原八幡境内からは壺形・甕形・鉢形の三種の弥生式土器が出

     土、南原八幡遺跡といわれる。またここより約二キロの北方の南原川西側の

     水田から縄文時代の石斧が出土、長さ十三センチ・最大幅七センチ。南原遺

     跡と呼ばれる(『広島県の地名』)。

「船越村」─現安芸区船越町。畑賀村の西南に位置し、南部は海に面する。北は標高2

      00メートル前後の山を背負い、東部を花都川、西部を的場川が南流して

      それぞれ小さな河谷と扇状地を形成。正応二年(一二八九)正月二十三日

      付沙弥某譲状(田所文書)に「船越村一丁一反」とみえ、田五反が大迫に

      畠五反が見乃古志(みのこし)より北にある東浦・西浦に、塩浜一反が堀

      より南の東浦にあったとする。大迫の名は的場川上流の谷に残り、谷奥に

      は田所氏が府中(現安芸郡府中町)の水分神社分祀したと思われる水分

      神社が鎮座する。見乃古志も村西端の丘陵南縁に水越の地名があり、この

      付近が当時の海岸線で塩浜があったことが知られる。南北朝から室町前期

      ごろに東から阿曾沼氏が進出する。大内氏と銀山城(跡地は現安佐南区

      の城主武田氏とが文正元年(一四六六)に船越で衝突した(年欠閏二月一

      日付武田信賢感状写「閥閲録」所収中村藤左衛門家文書)。その後阿曾沼

      氏は大永三年(一五二三)尼子・武田方に降ったため、同七年陶興房の率

      いる大内軍が船越に進軍し、阿曾沼氏本拠鳥籠山(とこのやま)城の「手

      宛」として、船越と海田(現安芸郡海田町)の境にある日浦山城を攻略し

      ている(年欠三月十九日付「弥富依重軍忠状」今仁文書)。天正年間(一

      五七三─九二)と思われる年欠正月三十日付阿曾沼元秀奉行人連署打渡坪

      付(大願寺文書)には元秀が大願寺(現佐伯郡宮島町)に寄進した五筆の

      土地のうち三筆が「舟越」とある。村を東西に分ける稜線上に木舟山

      (別名市場山城)、日浦山に続く丘陵南端に飯山城があり、ともに阿曾沼

      氏家臣小田村氏の居城と伝える(芸藩通志)。前者は水軍城と考えられ、

      小田村氏は阿曾沼水軍の一端を担っていたと思われる(『広島県の地

      名』)。

「原郷」─「和名抄」高山寺本・東急本ともに「幡良」と記し、前者が「波羅」、後者

     が「波良」と訓を付す。「芸藩通志」は「今上原村あり」とし、現広島市

     佐北区の上原を遺名とするが、「日本地理志料」は「府中田所氏文書、佐東

     郡原郷注村名萱原、鳥田、大豆田、道末、尾喰、伊与寺」とし、

     西原・東原両村(現広島市安佐南区)をあて、南下安・北下安・東山本・西

     山本諸村(現同区)にも及ぶとする。「大日本地名辞書」は「今東原、西

     原、小田、川内、三川の諸村なるべし」とする。

     「広島県史」も鎌倉中期の沙弥某譲状(田所文書)に「原郷」が記されると

     し、東原・西原を原郷の遺名とする。ただし中世には原郷は佐東郡であるか

     ら郡域に変化があったことが考えられる。なお同書は福田・馬木(現広島市

     東区)に原の地名が多いので、この方面に求める説もあるとする(「幡良

     郷」『広島県の地名』)。

「取帳」─「検注帳」。検注使が所領の検注の結果を書き注した帳簿。耕地一筆ごとに

     所在地・面積・租税量・名請人の名を記す。地鑑帳とも。古代には検田帳と

     称した(『古文書古記録語辞典』)。

 

 

*「原郷」内の名田の二項目に、「地頭押領博打に依る」とあります。博打の形に土地が押領された事例を初めて見ました。地頭の押領といえば、出挙・利銭などの貸借関係、あるいは経済外強制(暴力)によって行われるものと思っていましたが、まさか賭け事がきっかけとなって押領が始まるとは思ってもみませんでした。

 ちなみに、『御成敗式目』の追加法には、博奕に関する条文がいくつもあります。博打が相当に横行していたのでしょう。まず、検断法54条には、「一 以田地所領、為双六賭事」(田地所領をもつて、双六の賭となす事」とあります(『中世政治社会思想』上、P67)。おそらくこの条文は、御家人どうしの博打禁制を規定した条文なのでしょうが、賭けの対象となった土地は、幕府に没収されたそうです。

 次に、追加法290条には「一 博奕輩事」という条文(建長5年(1253)10月1日、前掲書、P73)があります。解釈が難しいのですが、博奕禁制に違反した場合、その当人自身を召し捕り、妻子・所従を連座させてはならなかったようです。また、博打の形だと思いますが、田畠・資財・雑具を取り上げてはならないと規定されています。

 最後に、追加法707条では、侍身分以外の一般庶民の場合、2度目までは指を切られ、3度目は伊豆大島流罪になると規定されています(乾元2年(1303)6月12日、前掲書、P85)。

 

【追記】

 グダグタと不確かなことを書きましたが、博奕については、網野善彦「博奕」(『中世の罪と罰東京大学出版会、1983)という研究があることを思い出しました。正確な情報は、この研究をご覧ください。

広告を非表示にする

ありがとう、天神様! 神をいたわる中世人

  応永二十三年(一四一六)五月二十一日条 (『看聞日記』1─32頁)

 

       (庭田)

 廿一日、晴、重有朝臣出京帰参、世事語之、春日社・日吉社有怪異云々、春日宝前

  辺穴俄出来、〈一夜之間出来〉、穴底差入深事及二丈云々、不思儀之間、

  社家注進云々、又日吉小五月神輿出御之時、鳩一羽飛来、神輿轅飛当胸

  死云々、凡於日吉、鳩希有也云々、又鹿一頭死、条々注進申、八幡にも有怪

  異、然而社務当時雖何事不注進云々、又北野天神衆生相替有御悩云々、仍貴賤

  参詣、和歌・連歌等万人令法楽云々、又自去春比、三井寺湖上ヨリ御灯

  如櫛戸、是天下寺家怪異也、先例有如此事之時、三井寺炎上了、諸社・諸寺怪異

  共不思儀也云々、

 

 「書き下し文」

 二十一日、晴る、重有朝臣出京し帰参す。世事之を語る、春日社・日吉社に怪異有り

  と云々、春日宝前辺りに穴俄かに出来す、〈一夜の間に出来す〉、穴の底へ棹を差

  し入るに、深き事二丈に及ぶと云々、不思儀の間、社家注進すと云々、又日吉小五

  月の神輿出御の時、鳩一羽飛来し、神輿の轅に飛び当たり胸を突きて則ち死すと

  云々、凡そ日吉に於いては、鳩希有なりと云々、又鹿一頭死す、条々注進申す、八

  幡にも怪異有り、然るに社務当時何事と雖も注進せずと云々、又北野天神衆生に相

  替はり御悩み有りと云々、仍つて貴賤参詣し、和歌・連歌等万人法楽せしむと

  云々、又去んぬる春ごろより、三井寺に湖上より御灯を進らす、櫛戸のごとし、是

  れ天下・寺家の怪異なり、先例此くのごとき事有るの時、三井寺炎上し了んぬ、諸

  社・諸寺怪異ども不思儀なりと云々、

 

 「解釈」

 二十一日、晴れ。庭田重有朝臣が京都から帰ってきた。京都で聞いた世間話を語ってくれた。春日社や日吉社で、怪異があったそうだ。春日社の社頭あたりに突然、一夜のうちに穴が空いたという。穴の底へ棹を差し込むと、深さは六メートルほどに及んだという。あまりに不思議な事なので、春日社の社家が朝廷へ報告したそうだ。また日吉社の小五月会で神輿が出発する時に、鳩が一羽飛んでき て、神輿の長柄に衝突し胸を強打して即死したそうだ。だいたい日吉社のあたりでは鳩がほとんどいないという。また鹿も一頭死んだそうだ。これらのことも日吉社の社家から報告されたという。石清水八幡宮でも怪異があった。しかし同社の社務は当時、何も報告しなかったそうだ。また北野天神である菅原道真が、大衆になりかわってご病気になっているらしい。それで大勢が北野天満宮にお参りし、皆、和歌や連歌などを奉納しているそうだ。また春頃から三井寺へ琵琶湖から燈明が流れ寄ってくる。まるで櫛戸のようだ。これは、日本国にとっても三井寺にとっても怪異である。先例では、このような事があると、三井寺に火災があるという。諸社・諸寺の怪異は不思議なことだといえよう。

 

*解釈、注釈の一部は、薗部寿樹「史料紹介『看聞日記』現代語訳(二)」(『山形県

 米沢女子短期大学紀要』50、2014・12、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=203&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。

 

 「注釈」

「櫛戸」(くしど)─頻繁なことのたとえのようだが、未詳。

 

 

*あ〜、なんだ、いつもの怪異記事か…。もう驚きもしなくなりました。春日社では一夜のうちに社頭に大きな穴が空き、日吉社では鳩の激突死、プラス鹿が死ぬ。石清水の場合、そもそも朝廷に報告しない。

 あれっ、天神様こと、菅原道真公がご病気になっている。しかも、民衆の代わりに病苦を受けているなんて。天神様はそもそも災厄や疫病を撒き散らす怖い神様なので、御霊会などで祭り鎮めるものだと思っていました。

 どうやら、神様も病気になるようです。しかも、庶民の代わりに。これは菩薩行の一つ、代受苦ではないでしょうか。身代わりになってくれるお不動さんやお地蔵さん、観音さんはよく聞きますが、中世では神様も身代わりになってくれたようです。これも神仏習合思想の一つなのかもしれません。

 中世になると、神様もかなり慈悲深くなるようです。そういう意味で、次の論稿はとても示唆に富んでいるので、そのまま引用しておきます。

 

 「この『今昔物語』に登場する院政期の天神地祇の神々や怨霊・魔性・鬼神は、人間が謹慎して供物を捧げ、法会や読経・供養をすれば、鎮魂・慰霊・成仏して善神や福神に変わる存在になっている。古代社会では「神に逆らう者は死す」と信じられていた荒神であったが、中世では、「神は非礼を受けず」といい供養や祈願を怠れば天罰・冥罰を与える存在に変化している。神と人とが双務契約を結ぶことができると信じる世界が広まり始めた。古代に人間を殺すと信じられた荒神は、中世では神前読経や供養によって人間に福を招来する善神にとってかわる。中世の鬼神は仏によって両義性をもたらされた。私はこれを「鬼神の両義性」と呼ぶ。」

(井原今朝男『中世寺院と民衆』臨川書店、2004、51頁)

 

 中世前期で荒神と善神の両義性をもたされた鬼神は、中世後期になると、さらに仏教思想の影響を受け、代受苦を果たす慈悲深い菩薩のような存在にまで変化したのかもしれません。天神様の本地仏は十一面観音(『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院)なので、観音様の菩薩としての特徴が、天神様の性質に影響を及ぼしたと考えられそうです。

 

 それにしてもおもしろいのが、天神様のご病気を知った人々がこぞって参詣し、和歌や連歌を奉納しているところです。さすが、学問の神様。こういう供養の仕方で神様の病気は回復すると、当時の人々は考えていたようです。

 では、なぜ和歌や連歌で神様が供養できるのでしょうか。どうも院政期には、「和歌即陀羅尼」・「和歌即真言」という観念が成立していたそうなのです。つまり、和歌は、仏の真如の「コトバ」である陀羅尼(真言)と同じものだと考えられていました。ちなみに、「和歌即陀羅尼」・「和歌即真言」という語は、史料用語ではなく、史料から読み取った内容をもとにつくられた分析概念です(石黒志保「慈円の言語観と院政期の歌論」『寧楽史苑』55、2020・2、http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/handle/10935/4069)。

 ということは、天神様に和歌・連歌を奉納することは、神前で陀羅尼・真言を唱えること、ざっくり言ってしまえば、神前読経とほぼ同じ行為になると考えられそうです。神仏習合下の神様は、お経や陀羅尼・真言で供養してもらうことを喜びました。それを端的に示す事例が、『発心集』第七にあります。これについては、藤島秀隆氏「『発心集』第七「空也上人脱衣奉松尾大明神事」をめぐる諸問題」(『金沢大学語学・文学研究』5、1974・10、https://kanazawa-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2127&item_no=1&page_id=13&block_id=21)に詳しいので、そちらを参照していただき、ここでは要点のみを述べておきます。

 

 空也雲林院に住んでいた七月ごろ、京都大宮大路を南下していると、ただ人とは思えない人が寒さに震えているのに出会った。不審に思って尋ねると、その人は松尾の大明神だと名乗り、妄想や煩悩で苦しんでいるから、法華経を読んでほしい、と言った。そこで、空也は自分が四十数年着ている、法華経を読みしめた小袖を差し上げた。大明神は喜んでそれを身につけ、大変暖かくなったから、今後は空也仏道成就するその日までお守りしましょう、と言った。

 

 これは、西の猛霊と呼ばれ、東の賀茂社と並び称された松尾大社の説話ですが、妄想・煩悩を原因とした寒さに苦しむ神が、法華経の功徳によって救われているのです。天神様のエピソードも、これと同じ論理で理解できそうです。天神様は在世中、漢詩や和歌に秀でた人だったから、和歌や連歌の奉納を喜ぶという考え方もあるのでしょうが、もう一つの背景として「和歌即陀羅尼」という観念も影響していたと考えられます。

 和歌というのは、文学の一ジャンルとしてしか考えていませんでしたが、当時の社会を理解するうえで、とても大事なキーワードだったようです。こちらも少々長いですが、そのまま引用しておきます。

 

 「国を護るのは人の力によるのではない。鬼神をまず勧請して、供物を献上し、鬼神の前で読経する。鬼神が聞き楽しみ喜んで、人と共飲共食をする。鬼神や仏と人が法楽する。それにより、神の威力が倍増して、世の中が五穀豊穣になり、国土が鎮まり、安邦治民が実現する、という論理になっている。これを攘災招福の世界観と呼ぶ。

 人が神仏と法楽すると、鬼神力で護国が実現するとする中世的護国思想が展開されている。したがって漢詩・管弦・和歌は法楽のため、神と人とが楽しみ喜び護国を実現するための手段という考え方が中世知の体系であったいえる。いいかえれば、中世国家儀礼において漢詩・管弦・和歌は鬼神や仏が人間の世界と一緒に法楽するための手段であった。鬼神を勧請して神前読経を行い、後宴で漢詩・管弦・和歌によって人と鬼神とが法楽することによって鎮護国家・五穀豊穣が実現されるという宗教的宇宙観・世界観をもっていたといえよう。荒ぶる鬼神を経典と漢詩・管弦・和歌によって法楽して、福神に転じて、鬼神の力で鎮護国家・五穀豊穣を実現するという中世的護国思想の論理・法楽主義とも呼ぶべき世界観が中世の時代意識・社会意識になっていた。その意味で、中世社会は通説でいわれるような神仏習合の世界ではなく、あくまで仏教は鬼神を楽しませる手段であった神事優先の社会・護国思想の強い社会であったといわなくてはならない。中世の国家観は、近代人のそれとは全く異質であり、鬼神や仏神と人とが法楽して護持されるという呪術的護国思想と一体のものであった。」

井原今朝男「中世儀礼における漢詩・管弦・和歌と社会教養」『中世の国家と天皇儀礼校倉書房、2012、初出2007、311頁)

 

 天神様は民衆の病苦を引き受け、民衆はその神を病から救うために和歌・連歌を奉納する。病から回復した神様は、再び霊験を発揮する。こうした神と人との協力関係が、中世後期にはできあがっていたと評価できるかもしれません。ただ、現代人には神様を救おうとする意識はないので、いつの間にかこうした意識は消え去ってしまったようです。中世人は現代人に比べて優しいであるとか、慈悲深いなどと言うつもりはありません。神を救わなければ、人間を守ってもらえないから、という双務契約だったのでしょうが、一方的にご利益だけを期待する現代人の感覚とは、ずいぶん違うようです。

 ところで、中世人は天神様が病気になったことを、どのようにして知ったのでしょうか。何らかの怪異が北野天満宮で起きたのでしょうか。それとも、誰かの夢に現れて、お告げでもしたのでしょうか。また、誰が天神様の病気を人々に知らせたのでしょうか。このような疑問点が明らかになると、さらにおもしろいのですが…。

 

【追記】 2018.5.6

 先ほど、上記の疑問点について私信をいただきました。天神様の病気は、天満宮の梅に変化が起きたことでわかったのではないか、というご指摘でした。さもありなん。梅が枯れる、あるいは梅の花が咲かない、花の付きが悪いなどの怪異?によって、判断した可能性があります。梅は天神様の象徴なので、その変化によって天神様の異変に気づいたということは、十分にあり得ると思います。

 古記録で見つけることは難しいかもしれませんが、説話などで梅の異変エピソードを見つけることができたなら、追加で紹介していこうと思います。

 先月、英語のスパムコメントが来るようになって、コメント欄を消しましたが、そろそろ復活させようと思うので、また何かお気づきのことがあればご教示ください。ご指摘ありがとうございました。