周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

須佐神社文書 参考史料1の5

  小童祗園社由来拾遺伝 その5

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたと

 ころがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した

 箇所があります。

 

  于茲当山に金牛正銀と云者あり」十方勤化して宝殿を修理し」奉り、正中に牛頭て

  ん王、東に君達」八幡比叡権現と祝り奉る中に」一丁若の御眷属を合せ祭奉る。」

  毎年九月九日御供献上之時ハ先ツかミ」米と名付て清し、初ニ正米ニ而備、又」其

  次ニ未飯に調ハぬ内に、すくいまん」まと名付て粥のことくなるを備ふ、」其後能

  調て後諸神一列に備へ奉る」古実あり、御幼君故歟如何其訳」今ハ知る人無し、又

  人魚と名付て」ちかやに少しの幣を付て惣社人」頂戴して注連に結籠祝ることあ

  り、」蘇民将来に伝へ玉ふ遺風歟分り」がたし、又ハ明神伊勢稲荷の合殿」壱社其

  外御手洗水神後に山田」さまの祠あり山の神と云、其奥ニ」閼伽の池あり、又愛宕

  権現并に」御山天狗の祠あり、夫より山の」絶頂に竜王の祠あり、又広く村」内に

  七座別末社有、太歳・稲荷・」大明神・武答天神即蘇民将来を」祝流、天満天神・

  高山天神・妙見」大菩薩・春日谷八幡・広石山王権現、」潮谷八王子とて本地千手

  観音、」国狭槌尊水の祖神也、右のごとく」牛頭天王御所縁の御神かずく」有らせ

  玉ふ、此人を当山本願神宮寺」開基と申伝ふ、是又時代知れず」時の人牛頭天王

  再来といふ、」今疫之神の社といふは是なり、」此旧き宮跡は竹林行実の間に」あ

  り、古来より御除地にて今に」当寺の抱所なり、十方勤化の時之」笈并に身正躰の

  木像社内に」残れり、人王四拾九代」光仁天皇の御宇宝亀五甲寅四月」大いに疫病

  はやり殃亡にあるもの」勝て数へかたし、時に小童の姿に」現し馬に乗りて託して

                                    あおぐ

  の玉ハく、」吾ハ是蛇毒気神本地妙見菩薩也」此里ハ牛頭天王の霊地なり、仰もの

  ハ」ゑやみ速に⬜︎⬜︎すへしと諭して」此亀甲山に入り給ふて後、其小童」去り玉

  ふ方を知る人なし、同年六月」十四日本矢野より幡・笛・大鼓・鉦等」打囃し、神

  を諌めしよりして、名遠」近に聞え駈疫月々に験あり、夫より」追々十方崇敬し国

  家鎮護と」奉仰、古きを尋、彼のとうの宮」神幸を成し奉る、然れとも余り」遠

  く便りあしくとて、今ハ武答山へ」神幸為成奉る、往昔妙見大菩薩」出現の美地に

  て、殊に牛頭天王の」御幸の宮井なれハ、武答天神山と」いふ、本名ハ亀山と云、

  また馬の」出し所馬出しといふ、其名今ニ」残れり、また其馬の餝と申伝へて」鈴

  弐つ社内に残れり、且又御託宣」の内のすかた拝み奉るに、小サひちご」なりと時

  の人思へり、依而上下略して」ひちくと唱しとなん、

   つづく

 

 「書き下し文」

  茲に当山に金牛正銀と云ふ者あり、十方勤化して宝殿を修理し奉り、正中に牛頭天

  王、東に公達・八幡・比叡権現と祭り奉る中に、一丁若の御眷属を合わせ祭り奉

  る。毎年九月九日御供献上の時は先づ神米と名付けて清し、初めに正米にて備へ、

  又其の次に未だ飯に調はぬ内に、すくいまんまと名付けて粥のごとくなるを備ふ、

  其の後能く調へて後、諸神一列に備へ奉る故実あり、御幼君たる故か如何、其の訳

  今は知る人無し、又人魚と名付けて茅萱に少しの幣を付けて惣社人頂戴して注連に

  結ひ籠め祭ることあり、蘇民将来に伝へ給ふ遺風か分かり難し、又は明神・伊勢・

  稲荷の相殿一社、其の外御手洗水神の後ろに山田様の祠あり、山の神と云ふ、其の

  奥に閼伽の池あり、又愛宕権現并に御山天狗の祠あり、夫れより山の絶頂に竜王

  祠あり、又広く村内に七座の別の末社有り、太歳・稲荷・大明神・武塔天神即ち蘇

  民将来を祭る、天満天神・高山天神・妙見大菩薩・春日谷八幡、広石山王権現、潮

  谷八王子とて本地千手観音、国狭槌尊は水の祖神なり、右のごとく牛頭天王御所縁

  の御神数々有らせ給ふ、此の人を当山本願神宮寺開基と申し伝ふ、是れ又時代知れ

  ず、時の人牛頭天王の再来と云ふ、今疫の神の社といふは是れなり、此の旧き宮跡

  は竹森行実の間に有り、古来より御除地にて今に当寺の抱所なり、十方勤化の時の

  笈并に身正躰の木像は社内に残れり、人王四十九代光仁天皇の御宇宝亀五甲寅(七

  七四)四月大いに疫病流行り、殃亡にあるもの勝げて数へ難し、時に小童の姿に現

  じ馬に乗りて託して宣はく、吾は是れ邪毒気神、本地妙見菩薩なり、此の里は牛頭

  天王の霊地なり、仰ぐものは疫病速やかに⬜︎⬜︎すべしと諭して、此の亀甲山に入

  り給ふて後、其の小童去り給ふ方を知る人無し、同年六月十四日本矢野より幡・

  笛・大鼓・鉦等を打ち囃し、神を諌めしよりして、名遠近に聞こえ駈け、疫月々に

  験あり、夫れより追々十方崇敬し国家鎮護と仰せ奉る、古きを尋ぬるに、彼の塔の

  宮へ神幸を成し奉る、然れども余りに遠く便り悪しくとて、今は武塔山へ神幸を成

  し奉る、往昔妙見大菩薩出現の美地にて、殊に牛頭天王の御幸の宮居なれば、武塔

  天神山と云ふ、本名は亀山と云ふ、また馬の出だし所を馬出しと云ふ、其の名今に

  残れり、又其の馬の飾りと申し伝へて、鈴二つ社内に残れり、且つ又御託宣の内の

  姿拝み奉るに、小さひ稚児なりと時の人思へり、依りて、上下略してひちひちと唱

  えしとなん、

   つづく

 

 「解釈」

 ここに当亀甲山に金牛正銀というものがいた。あらゆる場所で勧進して社殿を修理し申し上げた。中央に牛頭天王、東に公達・八幡・比叡権現を祭り申し上げる中に、多くの御眷属を合わせ祭り申し上げている。毎年九月九日にお供えを献上するとき、まず神米と名付けてそれを清め、最初は生米のままで供え、またその次に飯として炊き上がらないうちに、「すくいまんま」と名付けて粥のようなものを供える。その後よく炊いた飯を諸神一列に供え申し上げる故実がある。お粥をお供えするのは、幼い神であるからだろうか。その訳を今は知る人がいない。また人魚と名付けられた、茅萱に少しの幣を付けたものをすべての社人が頂戴して、注連縄に結び籠めて祭ることがある。蘇民将来にお伝えになった慣習かはわからない。または明神・伊勢・稲荷の相殿一社、その他に弥都波能売明神の社の後ろに山田様の祠がある。山の神という。その奥に仏様に水を供えるための池がある。また愛宕権現と御山の天狗の祠がある。そこから山の頂上に龍王の祠がある。また広く村内に七座の別の末社がある。大歳神・稲荷・大明神・武塔天神つまり蘇民将来を祭っている。天満天神・高山天神・妙見大菩薩・春日井谷八幡・広石山王権現、塩貝谷八王子といって本地千手観音、国狭槌尊は水神である。牛頭天王とご縁のある神々が数々いらっしゃる。この金牛正銀という人を当山の本願神宮寺開基と申し伝えている。このことはまた時代がわからない。その当時の人は牛頭天王の再来という。いま疫神の社というのはこのことである。この古い社の跡は、竹林のあいだにある。昔から税の免除地で、今は当神宮寺の所有地である。あらゆる場所で勧進をしたときの笈や御神体の木像は、社内に残っている。人王四十九代光仁天皇の御代、宝亀五年甲寅(七七四)四月、大いに疫病が流行り、祟りによって亡くなったものは数えきれなかった。その時に幼い子どもの姿で出現し、馬に乗って託宣するには、「私は邪毒気神、本地は妙見菩薩である。この里は牛頭天王の霊地である。崇敬するものは、疫病が速やかに治癒するはずだ」と諭して、この亀甲山にお入りになった後、その幼子が立ち去りなさった方向を知る人はいない。同年六月十四日、本矢野から幡・笛・大鼓・鉦等を打ち囃し、神を諌めたことから、その評判はあちこちに聞こえ駈けめぐり、疫病に対して毎月ご利益があった。それから次第にあらゆる場所で崇敬され、国家鎮護の神として仰がれた。古い言い伝えを調べてみるとと、この塔の宮へ渡御をなし申し上げていた。しかしあまりに遠く不便であるといって、今は武塔山へ渡御をなし申し上げている。遠い昔に妙見大菩薩が出現した霊地で、とくに牛頭天王の渡御の御旅所であるので武塔天神山という。本当の名は亀山という。また馬の出しどころを馬出しという。その名は今に残っている。またその馬の飾りと申し伝える鈴二つが社内に残っている。さらにまたご託宣に記されたお姿を拝み申し上げるので、神の姿を「小さサひちご」(小さい子ども)である、と当時の人々は思った。だから、この「小さサひちご」という言葉の上下を略して、「ひちひち」と唱えたそうだ。

   つづく

 

 「注釈」

「御手洗水神」─弥都波能売明神のことか。

「為成奉」─「為成」で「なす」と読ませていると考えられます。

「一丁若」─未詳。「たくさん・多く」という意味か。

「高山天神」─菅原神社。甲奴町小童字高山(『甲奴町誌』)。推定地は下記の地図を

       記しておきましたが、現地を訪ねてみても発見することはできませんで

       した。現地の方にお話を聞くと、以前にはたしかにこの小高い山にあっ

       たそうですが、現在は荒れ果てて登ることができません。

「春日谷八幡」─春日井八幡神社。甲奴町小童四一九八。

「広石山王権現」─山王神社。甲奴町小童四五八。

「潮谷八王子」─塩貝谷八王子神社。甲奴町小童四七二三。

「本願」─社寺の造営管理に関わる機関(宮家準「熊野修験と比丘尼─本願所を中心

     に」『修験道─その伝播と定着─』法蔵館、二〇一二)。

「竹森行実」─未詳。竹林の意味か。

 

 

末社の地図

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山王神社

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春日井八幡神社

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塩貝八王子神社

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*今回の記事には、小童の由来が書いてあります。宝亀五年(七七四)四月、疫病が流行したときに、蛇毒鬼神、本地妙見菩薩と名乗る尊い存在が、小さな子どもの姿で現れたのです。そして、幼子では口にするはずもない神仏の名を口走り、疫病を治すと託宣し、そのまま姿を消してしまいます。神仏の姿を見たことのない民衆は、このあり得ない出来事を信じたわけです。昔の人々は、きっと現代人以上に音声情報を重視していたのでしょう。この点、状況判断をするうえで視覚に囚われすぎ、聴覚を軽んじる現代人との違いを感じます。

 「小さひちご」。前後を略して「ひち」。近世人の考えそうな安易な発想で、笑い飛ばして終わりそうな話ですが、一方でこの「小童」信仰は、現在まで脈々と続いています。小童には「わらべ」という有名なお蕎麦屋さんがあります。『ミシュラン広島』の掲載店なので、たしかにお蕎麦は美味しいのですが、特筆すべきはこちらのお店、「座敷わらし」がお住まいなのだそうです。ネット上でも有名で、遠方から来店(お参り?)する方も多いそうです。私はそんなことも知らずに立ち寄り、女将のご好意でお参りもさせていただきました。これもフィールドワークの賜物です。かつて、「小童」(幼子)の姿で顕現した蛇毒鬼神・妙見菩薩は、現在「座敷わらし」として信仰され続けているということになりそうです。「座敷わらし」と言えば、岩手県遠野の専売特許かと思っていたのですが、広島の山間村落にもいらっしゃったのです。小童というのは、なんとも興味深い場所です。

 

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須佐神社文書 参考史料1の4

  小童祗園社由来拾遺伝 その4

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたと

 ころがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した

 箇所があります。

 

  又山かつの昔語ニ素盞嗚尊ハ」伊弉議尊の第四の御子也、其御行」状甚無道、御父

                       あち  こち

  母太タ促徴して」遠く根之国へ適との御事ニ而西風」東風と経廻り給時、大山祇

  娘」磐長姫と云あり、其性質」甚醜、此故ニ余神愛し給はす」妹之木花開耶姫甚美

  神」余神の寵愛不浅候而、妹ならハ」好らんと思召て日夜怨念」積り玉ひて、終に

  は其面体悪鬼と」変して、初ハ女人を取り」後にハかうかけ山に住追々人を」害す

  る事夥し、時に素盞嗚尊」其由を聞給ひけれハ、素よ」り達徳するどき御神ゆ

  へ、」所帯の十握の剣を以壱刀」きり給へハ弐つとなり、弐刀」斬給へハ四つと

  成、又切玉へバ」八頭となり、虚空を凌安芸」国江の川といひて水無川へ」飛来ル

  と聞玉ひて追かけ来」り玉へハ、其所には見ず雲州」簸の川に居ると聞玉ひて」天

  より彼の処へ行玉ふて大雨」のふるに蓑笠着て当村」の布留屋に来り玉ふ、巨旦」

  蘇民とて兄弟あり、宿を巨旦」にかり給へともゆるさす、夫」のミならす勇士の三

  郎と」いふ者をしていた追はしむ」其時木瓜の垣に懸りこけ玉へり」仍而今時胡瓜

  を忌といへり」又蘇民にやどりて其夜を」明し玉へり、夫より雲州ひの」川へ進み

  玉ふて見玉へハ」老翁姥あり中に小童を居へて」なき居たり、其故を問ひ給へハ」

  我に小童八にんあり、皆蛇の」めにのまれき、又此小童も」呑れなんとすとてなき

  か」なしむ、さあらハ此小童を」我にくれよとの玉へハ、とにもかくにも従ひ奉ら

  んと」いへハ、其侭酒を造りて八所」に居へて蛇の来るを待玉ふ、」はたして蛇来

  り姫のすかたの酒の中ニうつるを」見て、其の姫かとおもひ」ことくく呑尽し、酔

  ひ」ひちて眠所を十握剣にて」きり給ふ、夫よりして其童」女と夫婦になり玉ふて

  住」給ふ、其後、根の国へ行西風」東風と漂泊して、終ニ天笠へ」渡り牛頭川原と

  いふ所ニ居」給ふ、仍而牛頭の名あり、又」祇遠精舎に居玉ふ、其時ハ」金毘羅神

  とも、又摩訶羅神」ともいふ、から国ニ而ハ青龍寺の」鎮守となり給ふ、其後又」

  吾が日の本へ帰り、蘇民将来の」元江来り玉へハ、巨旦将来も」蘇民将来もともに

  処をかへて」ゆゝしき長者たり、其時巨旦」をバ亡し、蘇民には茅の輪を」帯さ

  せ、秘文を授て助け給ふ、」また後世疫気流行せば」茅の輪を帯て汝が子孫と」い

  はゝ、其災必まぬかるへしと」懇に教玉ひて、我ハ是はや」すさのうの神との玉ふ

  て」此里来り給ふと申伝ふ、」疑ふらくハ此こともありし」事歟、今聞当村に

  布留屋」といふ所あり、又たん田と」いふ所あり、此辺に小たん田と」いふ所あ

  り、今ハ寺町分の安田」分なるべし、此ふるやハ巨旦」蘇民の旧居と申伝ふ、且

  又」品治郡に蘇民古旦の旧跡」ありと、また備中国かや郡」今市村にも蘇民の御

  跡」ありと聞伝ふ、何を是と」し、何れを非とせん、後の」君子をまつことはり玉

  へ」

   つづく

 

 「書き下し文」

  又山賤の昔語りに素盞嗚尊は伊弉諾尊の第四の御子なり、其の御行状甚だ無道、御

  父母太だ促徴して遠く根の国へ適くとの御事にてあちこちと経廻り給ふ時、大山祇

  の娘に磐長姫と云ふあり、其の性質甚だ醜し、此の故に余神愛し給はず、妹の木花

  咲耶姫は甚だ美神、余神の寵愛浅からず候ひて、妹ならば好むらんと思し召して日

  夜怨念積もり給ひて、終には其の面体悪鬼と変じて、初めは女人を取り、後にはか

  うかけ山に住み、追々人を害すること夥し、時に素盞嗚尊其の由を聞き給ひけれ

  ば、素より達徳鋭き御神故、所帯の十握の剣を以て一刀に斬り給へば二つとなり、

  二刀に斬り給へば四つとなり、又切り給へば八頭となり、虚空を凌ぎ安芸国江の川

  と云ひて水無川へ飛び来ると聞き給ひて追ひかけ来たり給へば、其所には見ず、雲

  州簸の川に居ると聞き給ひて、天より彼の処へ行き給ふて、大雨の降るに蓑笠を着

  て当村の古屋に来たり給ふ、巨旦・蘇民とて兄弟あり、宿を巨旦に借り給へとも許

  さず、夫れのみならず勇士の三郎といふ者をしていた追はしむ、其の時木瓜の垣に

  罹り転け給へり、仍つて今時胡瓜を忌むと云へり、又蘇民に宿りて其の夜を明かし

  給へり、夫れより雲州日野川へ進み給ふて見給へば、老翁姥あり中に小童を据へて

  泣き居たり、其の故を問ひ給へば、我に小童八人あり、皆蛇の目に呑まれき、又此

  の小童も呑まれなんとすとて泣き悲しむ、さあらば此の小童を我にくれよと宣へ

  ば、とにもかくにも従ひ奉らんと云へば、其の儘酒を造りて八所に据へて蛇の来る

  を待ち給ふ、果たして蛇来たり姫の姿の酒の中に映るを見て、其の姫かと思ひ悉く

  呑み尽くし、酔ひ漬ちて眠る所を十握剣にて切り給ふ、夫れよりして其の童女と夫

  婦になり給ふて住み給ふ、其の後、根の国へ行き西風東風と漂泊して、終に天竺へ

  渡り牛頭川原といふ所に居給ふ、仍つて牛頭の名あり、又祇園精舎に居給ふ、其の

  時は金毘羅神とも、又摩訶羅神とも云ふ、唐国にては青龍寺の鎮守となり給ふ、其

  の後又吾が日の本へ帰り、蘇民将来の元へ来たり給へば、巨旦将来も蘇民将来も共

  に処を変えてゆゆしき長者たり、其の時巨旦をば亡ぼし、蘇民には茅の輪を帯びさ

  せ、秘文を授けて助け給ふ、また後世疫気流行せば、茅の輪を帯びて汝が子孫と云

  はば、其の災ひ必ず免るべしと懇ろに教へ給ひて、我は是れは速須佐男の神と宣ふ

  て此の里へ来たり給ふと申し伝ふ、疑ふらくは此の事もありし事か、今聞く当村に

  古屋といふ所あり、又たん田といふ所あり、此の辺りに小たん田といふ所あり、今

  は寺町分の安田分なるべし、此の古屋は巨旦・蘇民の旧居と申し伝ふ、且つ又品治

  郡に蘇民・古旦の宮跡ありと、また備中国賀陽郡今市村にも蘇民の御跡ありと聞き

  伝ふ、何を是とし、何れを非とせん、後の君子を待ち理り給へ、

   つづく

 

 「解釈」

 また山で暮らしている村人の昔話によると、素盞嗚尊は伊弉諾尊の第四子である。そのお振る舞いはとてもひどいものであった。ご父母がひどく懲らしめたため、遠く根の国へと行くとのことで、あちこちを廻りなさったとき、大山祇の娘に磐長姫という姫がいた。その姿はとても醜い。このために、ある神は愛しなさらなかった。妹の木花咲耶姫はとても美しい神で、その神のご寵愛は浅くはありませんで、妹なら愛そうとお思いになって、日夜その思いがお積りになって、とうとうその容貌は悪鬼に変わった。初めは女性を奪い取り、その後はかうかけ山に住み、次第に人に害を及ぼすことが多くなった。その時に、素盞嗚尊はその事情をお聞きになったところ、もともと優れた能力をお持ちの神だから、持っていた十握の剣を使って、その神を一刀のもとにお切りになると、その神の頭が二つになった。二太刀目を当てると四つとなり、またお切りになると八つの頭となった。「その神は虚空を飛び越え、安芸国江の川という水無川へ飛んできた」と素盞嗚尊はお聞きになり、追いかけて来なさったところ、そこにはその神の姿は見えず、出雲国斐伊川に居るとお聞きになって、天空からそこへ行きなさろうとして、大雨の降る日に簑笠を着て当村の古屋にお出でになった。巨旦・蘇民という兄弟がいた。素盞嗚尊が宿を借りなさろうとしても、巨旦は許さず、そればかりか勇猛な奉公人の三郎というものにひどく追い払わせた。その時、素盞嗚尊は木瓜の垣に引っ掛かり転びなさった。だから、いま胡瓜を恐れ避けると言った。それから、蘇民の家に宿泊して、その夜を明かしなさった。それから出雲国斐伊川へお進みなってご覧になると、老夫婦がいてその中に幼い姫を置いて泣いていた。その訳をお尋ねになると、「私には幼い子どもが八人います。みな蛇の目に飲まれた。またこの子も飲み込まれようとしている」と言って泣き悲しんでいる。素盞嗚尊は「それならこの姫を私にくれよ」と仰るので、「とにかく従い申し上げよう」と言うと、素盞嗚尊はそのまま酒を作って八箇所に置き、蛇が来るのをお待ちになった。思ったとおり蛇がやって来た。姫の姿が酒の中に映っているのを見て、その姫かと思い、すべて飲み干し、酔い潰れて眠っていたところを十握の剣で切りなさった。それからその姫と夫婦になりなさってお住みになった。その後根の国に行き、あちこちに漂泊し、とうとうインドに渡り、牛頭川原というところにお住みなった。だから、牛頭の名をもっている。さらに祇園精舎にお住みになった。その時は金毘羅神とも、また摩訶羅神とも言った。中国では青龍寺の鎮守となりなさった。その後また我が日本に帰り、蘇民将来のもとへいらっしゃったところ、巨旦将来も蘇民将来もともに居所を変えて、たいそうなお金持ちになっていた。その時、巨旦を滅ぼし、蘇民には茅の輪を身に付けさせ、秘密の呪文を授けてお助けになった。また「今後疫病が流行した場合、茅の輪を身に付けてお前の子孫と言えば、その災いを必ず逃れることができる」と丁寧に教えなさって、「私は速須佐男の神である」と仰って、この里へお出でになったと申し伝えている。おそらく、このようなこともあったのだろうか。いま聞くところによると、当小童村に古屋というところがある。また反田というところがある。この辺りに小反田というところがある。今は寺町分の安田分であるはずだ。この古屋は巨旦と蘇民の旧居と申し伝えている。さらに品治郡に蘇民と古旦の旧跡があると。また備中国賀陽郡今市村にも蘇民の旧跡があると伝え聞いている。何を是とし、どれを非としようか。後世に学識の高い人が現れるのを待ち、判断してください。

   つづく

 

 「注釈」

「布留屋」─現広島県三次市甲奴町小童字古屋。

「品治郡」─福山市北西部、新市町にあたる。おそらく、現広島県福山市新市町戸手の

      素盞嗚神社のことと考えられます。

「かや郡今市村」─賀陽郡は現岡山県加賀郡吉備中央町・総社市に当たりますが、『岡

         山県の地名』(平凡社)を見るかぎり、「今市村」という地名は存

         在しません。したがって、郡の名前を間違えている可能性もありま

         す。『岡山県の地名』で立項されている「今市」は、新見市と井原

         市西江原町(今市宿)の二箇所で、後者の近隣には武塔神社(小田

         郡矢掛町小田)があります。推測にすぎませんが、この「今市村」

         は井原市西江原町のことかもしれません。

「かうかけ山」─未詳。

須佐神社文書 参考史料1の3

  小童祗園社由来拾遺伝 その3

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたと

 ころがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した

 箇所があります。

 

 人王四十九代」光仁天皇御宇宝亀二年辛亥」詔を以、国々に牛頭天王を祭らしめ」給

                  (園)

 ふ、当社ハをや御の御神にて、本朝」祇遠の本元也、八王子を産み玉ふ、」太郎王子

 は讃岐国瀧の社、本地」日光菩薩大歳神也、二郎王子は」播州広峯天王、本地勢至菩

 薩」大陰神也、三郎王子倶摩羅天王」因幡国高岡天王、本地地蔵菩薩」大将軍神也、

 四郎王子ハ得達天王」安芸国佐東天王、本地観世音菩薩」歳刑神也、五郎王子ハ即侍

 天王越中国」少尾天王、本地月光菩薩歳破神なり」六郎王子ハ侍神相天王、大和国

 野天王」本地釈迦如来歳殺神なり」七郎王子ハ亀神相天王下総国蘇達」天王、本地薬

 師如来黄幡神也、」八郎王子ハ山城国二ツ鳥居之天王、」本地虚空蔵菩薩、豿尾神

 也、」蛇毒気神と申ハ五條之天神是也云云」古記に江の熊の国之神社と云ハ」当社の

 事歟、伝を失ふのみならず」剰昔尽焼して有も無か如く」たえくニ而年久しき事と見

 へたり、」

   つづく

 

 「書き下し文」

 人王四十九代光仁天皇御宇宝亀二年辛亥(七七一)詔を以て、国々に牛頭天王を祭ら

 しめ給ふ、当社は親御の御神にて、本朝祇園の本元なり、八王子を産み給ふ、太郎王

 子は讃岐国瀧の社、本地日光菩薩・大歳神なり、二郎王子は播州広峯天王、本地勢至

 菩薩・大陰神なり、三郎王子は倶摩羅天王、因幡国高岡天王、本地地蔵菩薩・大将軍

 神なり、四郎王子は得達天王、安芸国佐東天王、本地観世音菩薩・歳刑神なり、五郎

 王子は即侍天王、越中国少尾天王、本地月光菩薩歳破神なり、六郎王子は侍神相天

 王、大和国吉野天王、本地釈迦如来歳殺神なり、七郎王子は亀神相天王、下総国

 達天王、本地薬師如来黄幡神なり、八郎王子は山城国二ツ鳥居の天王、本地虚空蔵

 菩薩・豹尾神なり、邪毒気神と申すは五條の天神是れなりと云々、古記に江の熊の国

 の神社と云ふは当社の事か、伝を失ふのみならず、剰え昔尽焼して有も無がごとく、

 絶え絶えにて年久しき事と見えたり、

   つづく

 

 「解釈」

 人王四十九代光仁天皇御宇宝亀二年辛亥(七七一)、勅命によって各国に牛頭天王を祭らせなさった。当社は親御の神で、我が国の祇園の本社である。八王子を儲けなさった。太郎王子は讃岐国瀧の社に鎮座し、本地は日光菩薩・大歳神である。二郎王子は播州広峯天王のことで、本地は勢至菩薩大陰神である。三郎王子は倶摩羅天王で、因幡国の高岡天王のことである。本地は地蔵菩薩・大将軍神である。四郎王子は得達天王で、安芸国の佐東天王のことである。本地は観世音菩薩・歳刑神である。五郎王子は即侍天王で、越中国の少尾天王のことである。本地は月光菩薩歳破神である。六郎王子は侍神相天王で、大和国の吉野天王のことである。本地は釈迦如来歳殺神である。七郎王子は亀神相天王で、下総国の蘇達天王のことである。本地は薬師如来黄幡神である。八郎王子は山城国二ツ鳥居の天王である。本地は虚空蔵菩薩豹尾神である。邪毒気神と申すのは五條の天神のことであるという。古い記録に江の熊の国の神社というのは、当社のことか。所伝を失っただけでなく、あろうことか以前に悉く焼けてしまって、かつてあったものも、もともとなかったかのようで、途切れ途切れに年月が長く経過したように見えた。

   つづく

 

 「注釈」

「瀧の社」─滝宮天満宮のことか。香川県綾歌郡綾川町滝宮。

「広峯」─廣峯神社姫路市広嶺山。

「高岡」─高岡神社。鳥取市国府町高岡。

「佐東」─安神社。広島市安佐南区祇園

「少尾」─未詳。

「大和の国吉野」─奈良県吉野郡吉野町吉野山牛頭天王社跡。

「蘇達」─未詳。

「二ツ鳥居」─未詳。

「五条の天王」─五条天神社か。下京区天神前町。

「江の熊」─現広島県福山市新市町戸手の素盞嗚神社。ここでは、小童の祇園社が江隈

      国社ということになっています。

須佐神社文書 参考史料1の2

 小童祗園社由来拾遺伝 その2

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたと

 ころがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した

 箇所があります。

 

 時に前なる」松の樹小鳩壱つがひ来り、是より」南海に龍宮あり、彼の処に頗梨采

 女」といふ姫宮あり、行て幸し給へと」囀りて飛去リぬ、其鳩の行へに随ひ」て龍宮

 に入八王子を生み玉ふ、各」八万四千六百五十四神の御眷属」出来給へり、夫より人

 王四十弐代」文武天皇の大宝四年、江州栗本郡」へそ村につき玉ふて、一夜の間に」

 千本の杉苗を植給ふ、時に御湯」献上の宣下あり、其時我ハ是東王父天王の王子牛頭

 天王也、父に不幸を蒙り天笠震旦を廻り」此穐津洲に渡り、東西守護の神」たらんと

 の御託宣にて、其所には」大(宝+壬)天王と奉仰とかや、同慶雲元年甲辰四、ちゝ

 蛇毒気神天王を」召して、古旦を亡すべしとて数万」の御眷属を倶立出させ玉ひて」

 また蘇民将来が方へ来り給へハ」変してゆゝしき長者たり、なに」事にやをわすと驚

 き申けれバ、」此山のあなたなる古旦将来は、」昔むかし旅の労を息んため宿を」求

 しにをしみてゆるさず、甚不仁也」此故に眷属とも打入て今より」七日七夜に亡べし

 との玉ふ、蘇民」将来大に驚き、予に娘壱人あり、」巨旦が太郎ハ我がむこ也、いか

 にも」して此ふたりを助けたまへと」なみだながらに願ひけれバ、根を切」葉をから

 すべしと思へとも、汝に」宿の恩あり、さあらバ助くべしとて」茅の輪を帯しめ」南

 無耶獅子王摩訶破梨耶娑婆訶」南無耶蘇宜路掲破梨娑婆訶と秘文」を授てとらしめ、

 後世疫気天下に」流行せば又茅輪を帯て蘇民将来」子孫といふべし、其災必 まぬか

 れん」吾は是速須佐ノ雄の神也との玉ふ」其巨旦が苗代変して藪となる、」今早苗天

 王とて戸手村の天王」是なりとぞ、夫より当村へ来らせ給」とき当国芦田郡荒谷と云

 所にて」御食めさせ玉ひて立せ給ふ時」めうがの芽の残りを捨させ玉ひし跡」変して

 原となる。其所を今は」めうがの丸といふ、夫より漸すゝませ」給ふて甲怒郡本矢野

                               みそぎ

 村に着せ」たもう、其所の路上に少し水の出る」所あり、其水にて潔身し給、其後」

 行来の旅人其わけを知らすのむ者ハ」何の障もなし、又神慮恐れず」みだりに穢すも

 のは病を得ること」有り、依而此水を今ハ若水とも又祗園」水ともいふ、末世の今に

 至迄六月」御祭御輿すましにハ必此水を用、」夫より当村へ入らせ給ふ故五月晦日」

 村堺に忌の木を立る祭有、其時分矢」野堺に立ざるハ此遺風なり、夫より」当村へ御

 越在らせられ、初而御腰を」かけさせられしか所おごせといふ」舎し給ふ所をとうの

 宮いひて」宮跡あり、今養生大明神の祠」のこれり、夫より西南に当り半里許」

 にして連枝の桜あり、此桜ハ忝も天王」御手つから植させ玉ふとなん、然とも」伝へ

 あやまつて曽我の十郎の植流」所とも伝ふる人まゝあり、我聞所と」異なりいづれに

 も旧きことにて」真偽わからす、我所伝を以正として」ここに記す、されハ右歌に祇

 園の」御うたとて、我宿にちもとの桜」花さかは、うへ置人の身も栄えなん」との御

 神詠思ひ合されたり、今」壱株残れり、星霜しばく転じて」幾とせを経とも更に分明

 ならず」土俗の唱に古く過にし事をとうと」いふにや、とうの宮いふ歟、また」武

 塔天神の上略にや、

   つづく

 

 「書き下し文」

 時に前なる松の樹に小鳩一番来たり、是れより南海に龍宮あり、彼の処に頗梨采女

 いう姫宮あり、行きて幸し給へと囀りて飛び去りぬ、其の鳩の行方に随ひて龍宮に入

 り八王子を生み給ふ、各々八万四千六百五十四神の御眷属出で来たり給へり、夫れよ

 り人王四十二代文武天皇の大宝四年(七〇四)、江州栗本郡綣村に着き給ふて、一夜

 の間に千本の杉苗を植え給ふ、時に御湯献上の宣下あり、其の時我は是東王父天王の

 王子牛頭天王なり、父に不幸を蒙り天竺震旦を廻り、此の秋津洲に渡り、東西守護の

 神たらんとの御託宣にて、其の所には大宝天王と仰せ奉るとかや、同慶雲元年(七〇

 四)甲辰四、ちち邪毒気神天王を召して、古旦を亡ぼすべしとて数万の御眷属を倶に

 立ち出ださせ給ひて、また蘇民将来が方へ来たり給へば、変じてゆゆしき長者たり、

 何事にやおはすと驚き申しければ、此の山のあなたなる古旦将来は、昔むかし旅の労

 を息めんため宿を求しに惜しみて許さず、甚だ不仁なり、此の故に眷属ども打ち入り

 て今より七日七夜に亡ぼすべしと宣ふ、蘇民将来大いに驚き、予に娘一人あり、巨旦

 が太郎は我が婿なり、いかにもして此の二人を助け給へと涙ながらに願ひければ、根

 を切り葉を枯らすべしと思へども、汝に宿の恩あり、さあらば助くべしとて茅の輪を

 帯びしめ、

 南無耶獅子王摩訶破梨耶娑婆訶

 南無耶蘇宜路掲破梨娑婆訶

 と秘文を授けて取らしめ、後世疫気天下に流行せば又茅の輪を帯びて蘇民将来子孫と

 云ふべし、其の災ひ必ず 免れん、吾は是れ速須佐ノ雄の神なりと宣ふ、其の巨旦が

 苗代変じて藪となる、今早苗天王とて戸手村の天王是れなりとぞ、夫れより当村へ来

 たらせ給ふとき当国芦田郡荒谷と云ふ所にて、御食召させ給ひて立たせ給ふ時、茗荷

 の芽の残りを捨てさせ給ひし跡、変じて原となる、其の所を今は茗荷の丸と云ふ、夫

 れより漸く進ませ給ふて甲奴郡本矢野村に着かせ給ふ、其の所の路上に少し水の出る

 所あり、其の水にて禊し給ふ、其の後行き来の旅人其の訳を知らず飲む者は何の障り

 も無し、又神慮を恐れずみだりに穢すものは病を得ること有り、依りて此の水を今は

 若水とも又祇園水とも云ふ、末世の今に至るまで六月御祭の神輿澄ましには必ず此の

 水を用ゐる、夫れより当村へ入らせ給ふ故に、五月晦日村境に忌みの木を立つる祭り

 有り、其の時分矢野境にに立てざるは此の遺風なり、夫れより当村へ御越し在らせら

 れ、初めて御腰をかけさせられしか所をおごせと云ふ、舎し給ふ所をとうの宮と云ひ

 て宮跡あり、今養生大明神の祠残れり、夫れより西南に当たり半里ばかりにして連枝

 の桜あり、此の桜は忝くも天王御手づから植ゑさせ給ふとなん、然れども伝へ誤って

 曽我の十郎の植うる所とも伝ふる人ままあり、我が聞く所と異なりいずれにも旧きこ

 とにて真偽わからず、我が所伝を以て正としてここに記す、されば右の歌に祇園の御

 歌とて、「我が宿に ちもとの桜 花咲かば 植ゑ置く人の 身も栄なん」との御神

 詠思ひ合わされたり、今一株残れり、星霜しばしば転じて幾年を経とも更に分明なら

 ず、土俗の唱に古く過ぎにし事をとうと云ふにや、とうの宮と云ふか、また武塔天神

 の上略にや、

   つづく

 

 「解釈」

 その時、門前にあった松の木に小さな鳩のつがいが飛んできた。「ここから南の海に龍宮がある。そこに頗梨采女という姫宮がいる。お出かけになってください」と囀って飛び去った。その鳩の飛び行く方向に付いていって龍宮に入り、八人の王子を儲けなさった。それぞれ八万四千六百五十四神の御眷属が現れなさった。そもそも人王四十二代文武天皇の大宝四年(七〇四)、近江国栗本郡綣村にお着きなって、一晩のうちに千本の杉苗をお植えになった。その時にお湯献上の宣旨が下された。その時、「私は東王父天王の王子牛頭天王である。父に義絶され天竺震旦を巡り、この日本にやってきて、東西守護の神になろう」とご託宣になって、そこでは大宝天王と呼び申し上げているとかいう。同慶雲元年甲辰(七〇四)四月、蛇毒鬼神をお呼びになって、「古旦を滅ぼせ」とご命令になり、数万の御眷属とともに出立させなさった。また、牛頭天王蘇民将来のもとへお出でになると、蘇民はたいそうお金持ちになっていた。「何事でいらっしゃいますか」と驚いて申し上げたところ、「この山の向こうにいる古旦将来は、以前旅の疲れを癒すために宿を探していたときに、惜しんで宿を貸さなかった。たいそう思いやりのないものである。だから眷属どもが討ち入って、今から七日七夜のうちに滅ぼすはずだ」と仰った。蘇民将来は大いに驚いて、「私には娘が一人いる。巨旦の長男は私の婿である。なんとかしてこの二人を助けてください」と涙ながらに願ったので、牛頭天王は「根を切り葉を枯らすように、ことごとく巨旦一族を滅ぼさなければならない」と思ったが、「お前には一宿の恩義がある。それなら助けよう」と仰って、茅の輪を身につけさせ、「南無耶獅子王摩訶破梨耶娑婆訶、南無耶蘇宜路掲破梨娑婆訶」という秘密の呪文を授けて取らせ、「将来、疫病が国中に流行したなら、また茅の輪を身につけ、蘇民将来の子孫と言え。その災いをきっと避けることができるだろう。私は速須佐男の神である」と仰った。その巨旦の苗代は変化して薮となった。今早苗天王といって、戸手村の天王がこれであると言う。そこから当村へお出でになるときに、備後国芦田郡荒谷というところでお食事を召し上がりご出立になったとき、茗荷の芽の残りをお捨てになったあとが変化して野原となった。その場所を今は茗荷丸という。そこからしばらくお進みなって甲奴郡本矢野村にお着きになった。その路上に少し水の出るところがあった。その水で禊をなさった。その後、往来の旅人でその事情を知らずに飲んだものは、何の差し障りもない。他方、神の御心を恐れず、みだりに水を汚すものは病気になることがある。そこで、この水を今は若水ともまたは祇園水ともいう。末法の世の今に至るまで、六月のお祭りで神輿を清めるには、必ずこの水を用いる。そこから当小童村へお入りなったから、五月晦日に村境に結界の木を立てる祭があるけれども、その時分に矢野村との境に結界の木を立てないのは、この理由による風習である。それから小童村へお越しになり、初めて腰をおかけになった場所を「おごせ」という。お泊りになったところを「とうのみや」と言って宮跡がある。いま養生大明神の祠が残っている。そこから西南半里ほどの場所に、枝の連なった二本の桜がある。この桜は畏れ多くも牛頭天王が御自らの手でお植えになったという。しかし、伝え間違って曽我の十郎祐成が植えたものとも伝える人がまれにいる。私の聞いたことと異なるが、どちらにしても古いことで真偽はわからない。私の伝え聞いたことを正しいものとしてここに記しておく。さて、次の祇園のお歌という、「我が社に多くの桜の花が咲くなら、植え置いた人の身も栄えるだろう」との牛頭天王の御詠歌が思い当たる。いま一株だけ残っている。歳月が転変して何年過ぎてもまったくはっきりしない。この土地の民衆の言葉に、古く過ぎ去ってしまったことを「とう」と言うのだろうか。だから、とうの宮と言うのか。また武塔天神の上の「武」を略したのだろうか。

   つづく

 

 「注釈」

「江州栗郡へそ村」─現滋賀県栗東市綣に鎮座する大宝神社。

「不幸」─「不孝」で義絶のことか。

「(宝+壬)」─「宝」の異体字か。

「ちゝ」─未詳。牛頭天王の「父」は「東王父」なので、「父」ではないと思います。

     牛頭天王の眷属、あるいは王子の意味でしょうか。

「荒谷」─現広島県府中市荒谷町。

「めうがの丸」─茗荷丸。現広島県府中市荒谷町。

「本矢野村」─現広島県府中市上下町矢野。

「曽我の十郎」─曽我十郎祐成。

 

以下は、「祇園水」の写真です。

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須佐神社文書 参考史料1の1

 【参考史料1】 小童祗園社由来拾遺伝 その1

 

 「解説」(『甲奴町誌』資料編一、一九八八)

 この記録は小童祇園(現在の須佐神社)の神宮寺別当(貧道か)が小童祇園社の由来にかかわる種々の伝承を書き遺したものである。「二、須佐神社縁起」と同じ内容の、牛頭天王諸国臨幸説話や、蘇民将来、巨旦将来の説話などの外素盞嗚命の八岐の大蛇退治の伝承、小童の地名の由来についてもふれている。

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたと

 ころがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した

 箇所があります。

 

  備後国世羅郡小童亀甲山感神院

  祗園社由来拾遺伝

 当山牛頭天王ハ由来旧記焼失して」今はさだかに知れず、然して土俗之」言の葉に

 残を拾ひ集めて縁起と」す、夫れ御本地ハ薬師如来我朝ニ而は」素盞嗚尊、異国ニ而

 ハ牛頭天王申」奉りて、天の神の不幸を蒙り」玉いて、天笠震旦等の異国迄」を

 さすらへ給ふて我朝」用明天皇五畿七道をめぐり」すみ所を求め給ふに、御意

 叶せ」玉ふ所なしとて、同年四月八日」当国江の隅云所に着せ給ふ」其所に巨旦

 長者いふ者あり、立寄て一宿を乞ひ玉ふに情なく」阿りて借し参らせす、かの

 勇士之」三良云者をして箒にて打擲」せしか、いたく追ハしむ時に、天王」逃

 玉ハんとして木瓜の垣に懸らせ」玉ふて転ひ玉ひしとなん、其事の」縁にて今の世

 に信仰のものは」胡瓜を食ふ事なしと申伝ふ、」又其三良妻子数多亡しとなん、」

 此ゆへに、世に箒にて人を打ことを」嫌ふハ此縁とかや、かくてせんかた」無く

 赤ねのたわを越へて同州かやと」いふ所へ越玉ふに、わつかなる浅ぢふ」宿とぼそ

 あり、名つけて蘇民」将来といふ翁夫婦あり、宿を乞」玉へは、安き事なれ共、

 我貧賤」にして饗に奉るへきものなし、」いかにといらへけれハ、苦しからす」

 とて内に入らせ玉へハ、老女門前の」木のしづへより両かんこの粟三ば」持来り、

 からをば席に備え実をば」炊て柏の葉にもり黄蘗の箸を」添へ饗応し奉り候れば、

 巨旦がし」わざにたくらへ思召合させられ」其歓喜し玉ふ事無限、

   つづく

 

 「書き下し文」

  備後国世羅郡小童亀甲山感神院

  祗園社由来拾遺伝

 当山牛頭天王は由来・旧記消失して今は定かに知れず、然して土俗の言の葉に残りを

 拾い集めて縁起とす、夫れ御本地は薬師如来、我が朝にては素盞嗚尊、異国にては牛

 頭天王と申し奉りて、天の神の不幸を蒙り給ひて、天笠(天竺)震旦等の異国までを

 さすらえ給うて、我が朝用明天皇未(五八七)五畿七道を廻り住む所求め給ふに御意

 に叶はせ給ふ所なしとて、同年四月八日当国江の隅と云ふ所に着かせ給ふ、其の所に

 巨旦長者と云ふ者あり、立ち寄りて一宿を乞ひ給ふに、情けなく阿りて借し参らせ

 ず、彼の勇士の三郎と云ふ者をして箒にて打擲せしか、いたく追はしむる時に、天王

 逃げ給はんとして木瓜の垣に懸からせ給ふて転び給ひしとなん、其事の縁にて今の世

 に信仰のものは胡瓜を食ふ事なしと申し伝ふ、又其の三郎の妻子数多亡ぼすとなん、

 此の故に、世に箒にて人を打つことを嫌ふは此の縁とかや、かくてせん方無く赤ねの

 撓を越へて同州賀屋といふ所へ越し給ふに、わづかなる浅茅生の宿枢あり、名付けて

 蘇民将来といふ翁夫婦あり、宿を乞ひ給へば、安き事なれども、我貧賤にして饗に奉

 るべきものなし、如何にと答へければ、苦しからずとて内に入らせ給へば、老女門前

 の木の下枝より両かんこの粟三把を持ち来たり、殻をば席に備へ実をば炊いて柏の葉

 に盛り黄檗の箸を添へ饗応し奉り候へば、巨旦が仕業に比べ思し召し合はさせられ、

 其の歓喜し給ふ事限り無し、

   つづく

 

 「解釈」

 当山牛頭天王は由来・旧記を焼失して、今ははっきりわからない。だから、民衆の言葉に残っている伝承を拾い集めて縁起とした。そもそも御本地は薬師如来である。日本では素盞嗚尊、異国では牛頭天王と申し上げて、天の神の義絶を蒙りなさって、インドや中国等の異国をさすらいなさって、我が朝用明天皇未(五八七年)に五畿七道を廻り、住むところを探しなさったが、御心に叶うところがなくて、同年四月八日備後国江の隅というところにお着きになった。そこに巨旦長者というものがいた。牛頭天王は立ち寄って一夜の宿をお求めになったが、巨旦はそっけない態度でへつらって貸し申し上げなかった。その勇ましい奉公人の三郎というものに箒で叩かせた。ひどく追わせたときに、牛頭天王がお逃げになろうとして、胡瓜の垣に引っ掛かりなさってお転びになったそうだ。そのことが原因で、今の世で牛頭天王を信仰するものは、胡瓜を食べることはないと申し伝えている。また、奉公人の三郎の妻子らを数多く滅ぼしたそうだ。このゆえに、今の世で箒で人を叩くことを嫌うのは、これが理由であるというのだろうか。こうしてどうしようもなく赤ねの撓を越えて、同国加屋というところへお越しになったところ、わずかに茅萱の生えている荒れ果てた家があった。名を蘇民将来という老夫婦がいた。一夜の宿をお求めになると、「簡単なことですが、私は貧乏で食事として差し上げるのによいものがない。どうしようもありません」と答えたところ、「差し障りはない」といって、家にお入りになったので、蘇民将来の妻は門前の木の枝にかけてあった粟三把を持ってきた。その殻を座に敷き、実を炊いて柏の葉に盛り、黄檗の箸を添えてもてなし申し上げましたところ、巨旦の仕業と比べてお考え合わせになり、たいそうお喜びになることこの上なかった。

   つづく

 

 「注釈」

「不幸」─「不孝」で、義絶のことか。

「当国江の隅」─現広島県福山市新市町戸手の素盞嗚神社

「賀屋」─広島県福山市津之郷町大字加屋か。

「巨旦がしわざにたくらへ」─「た」は衍字か。

この木何の木? 餅のなる木

  文安五年(一四四八)五月二日条 (『康富記』2─289頁)

 

 二日丁亥 晴、

  (中略)

 一昨日室町殿祗候了、其時分、自大方殿、椿枝ニ餅之生タル被送進之間、人々稱奇異

 見了、同於御前拜見之由令語給、此椿樹ハ嵯峨雲居庵之庭之椿也、赤キ餅ノちいさき

 が出生也云々、(割書)「一寸よほう程也云々、やわらかなる餅の如云々、」勝定院

 贈太相国御代、此樹ニ餅なりける也、帰宅之後、於家中語之處、山下将監入道云、先

 年美濃国ニ椿ニ餅なりたり、其ハ色白之由見及云々、言語道断奇特事共也、

 

 「書き下し文」

 二日丁亥、晴れ、

  (中略)

 一昨日室町殿に祗候し了んぬ、其の時分、大方殿より、椿の枝に餅の生えたるを送り

 進らせらるるの間、人々奇異と称して見了んぬ、同じく御前に於いて拜見の由語らし

 め給ふ、此の椿の樹は嵯峨雲居庵の庭の椿なり、赤き餅のちいさきが出で生ゆるなり

 と云々、(割書)「一寸よほう程なりと云々、やわらかなる餅のごとしと云々、」勝

 定院贈太相国の御代、此の樹に餅なりけるなり、帰宅の後、家中に於いて語るの処、

 山下将監入道云く、先年美濃国に椿に餅なりたり、其れは色白の由見及ぶと云々、言

 語道断奇特の事どもなり、

 

 「解釈」

 一昨日、室町殿足利義政のもとに祗候した。その時大方殿日野重子から、椿の枝に餅の生えたものを進上されたので、人々は奇妙だと言って見ていた。「同じように私(室町殿)の御前で拝見せよ」とお話になった。この椿の木は、嵯峨の雲居庵の庭の椿である。赤い餅で小さいものが生え出したそうだ。(割書)「一寸(約三センチ)四方ほどの大きさであるそうだ。やわらなか餅のようであるという。」五代将軍足利義持の御代、この木に餅がなったのである。帰宅後に家中で話したところ、山下将監入道が言うには、「先年美濃国で椿に餅がなっていた。色の白いものを見ることができた」という。言葉で表現できないほど不思議なことである。

 

 「注釈」

「室町殿」─八代将軍足利義政

「大方殿」─日野重子。

「嵯峨雲居庵」─天龍寺境内塔頭か(『京都市の地名』)。

「勝定院贈太相国」─五代将軍足利義持

 

室町時代の椿には、餅のようなものが実っていたようです。その色は赤や白。京都や

 岐阜で、この現象は起きていたそうです。いったい何が生えてきた、あるいはくっ付

 いていたのでしょうか。何かの虫の卵でしょうか。いずれにせよ、不思議な現象で

 す。これまでの記事を読んでくると、不思議現象には必ず吉凶の評価が付きまとって

 いたのですが、今回は何も書いていません。ただ単に、不思議だと思っていたのでし

 ょう。

須佐神社文書 その5(完)

 一 須佐神社縁起 その5

 

*本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

 一ひごのくにせらごおりひち村、むとうざんきおんしやふじやこずてんのふちん

  ざしだいき

  座次第記

        さんじや

                          おうミやうちこさつす

  ひかしにじやどくきちんてんのふ、なかにこずてんのふ大宮内座、

  西しやふしよいてんのふ

        まつしや

  ほんみやよりひがしにいざなぎいさなみ、わがきんたち八王子、

  ほんミやにしにりやふぐうじやふにてのきさきはりさいによ、御しんかうの時、

  をふ

  大ごせんとゆふ、

    さんはんのおどり、しるすおよばず、

  どうてんに、いつくしまさん所、みたらしみつはめの明神、りふおうやしろ、

  おふやまづみのめうぢん、さんのふ七社の別宮、

    さいれいしんかふのしだい、おんさきはらいわ、ひゑの治郎左衛門、

  いちのみこし、ゆきざね、ゆきもり、むねかね、おんとも、こんのいち、ねき、

  はなみこいつきん、ありやふみこにきん、くろふ十町いつきん、この際、をふつゞ

  みかき二人わ、よりとうのけんご、ゆきざねのけんごなり、いかみのいろぶし、

  やす國の色ぶしはなみこ九らとまちいつきん、

          さき

    さんのふの御先はらいねき

                              みこざ

  二のみこし、な羅びなし、きわゝ、物申かすがい、物申の座わ、神子座になおり

                                 

  申し、きわに、たわのなんしたなもり、きわに、いかみの神子さたひ路、みここぎ

                         がわ

  ふたちのさんまいそふのいち、こんのいち、壹ねん替り、

    のりじり、おんさきはらい、たかやま、

  さんのみこし、そふのいち、こくそふさしずしだい、かふぎやくかんぬし

  まとわり、をんともにて候、きわに、くぞうふ六人やぶさめにとしゝゝ壹人つゝ

                     かへ     しゆじふ

  かわるゝゝゝ出て申候、さんだいのみこし歸り、ちやふの衆中のりむね、

                

  みなんばら、しながい、こいずみ、すいちの、かきのたいまつ、まるぎりまつ、

           いて

  みうちかくれず、出可申候、つゞミかきわ、しものミやじ、をふつずみなり、

                    ごぢんでん

 一もりすへミやふのうちより、いちもつの御神田、

              くニやす だいひやく いだ

 一りやふおふめんの御神田、國安のうち代百もん出し可申候、

 一みゆ之しだい、ふたかまゆのときわ、ものもふし、こくそふつかふまへなり、よそ

  よりいらんわづらい不可有者也、

   (1469)    つちのとの  ふもとじや⬜︎しゆ

   ぶんめいくわんねん五月十五日      つなとき

          うし

   おわり

 

 「書き下し文」

 一つ、備後国世羅郡小童村、武塔山祇園精舎牛頭天王鎮座次第記

       三社

  東に蛇毒鬼神天王、中に牛頭天王大宮内座、西にしやふしよい天王、

       末社

  本宮より東に伊弉諾・伊弉冊、我が公達八王子、

  本宮西に龍宮城にての后頗梨采女、御神幸の時、大御前といふ、

    三番の踊り、記すに及ばず、

  同殿に、厳島三所、御手洗弥都波能売の明神、龍王社、大山祇の明神、山王七社の

  別宮、

    祭礼神幸の次第、御先払ひは、ひゑの次郎左衛門、

  一の神輿、ゆきざね、ゆきもり、むねかね、御供、こんのいち、禰宜、はなみこい

  つきん、ありやふみこにきん、くろうふ十町いつきん、この際、大鼓舁き二人は、

  よりとうの健児、ゆきざねの健児なり、いかみのいろぶし、やす國の色ぶしはなみ

  こ九うらとまちいつきん、

    山王の御先払ひ

  二の神輿、並び無し、際は、物申春日井、物申の座は、神子座に直り申し、際に、

  たわのなんし棚守、際に、いかみの神子さだひろ、神子こぎふたちの三昧僧のい

  ち、こんのいち、壹ねん替わり、

    乗り尻、御先払ひ、高山

  三の神輿、そふのいち、国造指図次第、こうぎゃく神主まとわり、御供にて候ふ、

  際に、供僧六人流鏑馬に年々一人ずつかわるがわる出でて申し候ふ、三台の神輿帰

  り、ちょうの衆中のりむね、南原、塩貝、小泉、すいちの、かきのたいまつ、まる

  ぎりまつ、みうち隠れずに、出で申すべく候ふ、鼓舁きは、下の宮仕、上の宮仕、

  大鼓なり、

 一つ、もりすへみやふのうちより、いちもつの御神田、

 一つ、りょうおうめんの御神田、国安のうち代百文出だし申すべく候ふ、

 一つ、御湯の次第、ふたかまゆの時は、物申し、国造仕う奉るなり、他所より違乱・

  煩有るべからざる者なり、

   文明元年己丑五月十五日   麓城主綱時

   おわり

 

 「解釈」

 一つ、備後国世羅郡小童村、武塔山祇園精舎牛頭天王鎮座次第記

       三社

  本殿の東に蛇毒鬼神天王、本殿中央に牛頭天王が鎮座している。本殿西には邪不しよい天王。

       末社

  本殿より東の末社には、伊弉諾尊伊弉冊尊、その御子である八王子が鎮座している。

  本殿より西には、龍宮城で后となった頗梨采女が鎮座している。御神幸のときには大御前と言う。

    三番の踊りは、記す必要はない。

  西殿には、厳島三所(三女神)、御手洗弥都波能売明神、龍王社、大山祇明神、山王上七社の別宮が鎮座している。

    祭礼神幸の次第、御先払いは、ひえの次郎左衛門。

  一の神輿は、行実、ゆきもり、むねかね、お供として、ごんのいち、禰宜。はなみこ一きん、ありやふみこ二きん、くろふ十町一きん。このそばにいる大鼓舁き二人は、頼藤の若者、行実の若者である。いかみの色ぶし、安国の色ぶし、はなみこ、くろうまち一きん。

    山王の御先払いは禰宜

  二の神輿には、お供がいない。このそばにいる祝詞を奏上する人は春日井の住人である。祝詞を奏上する座は神子の座に直し申し上げ、そのそばに、たわのなんし棚守がいる。そのそばにいる、いかみの神子さだひろ、神子こぎふたちの三昧僧の一人、こんのいちが、一年交代で務める。

    行列後尾の供奉者、御先払いは、高山の住人。

  三の神輿は、そうのいち、国造が指図するとすぐに、かふぎゃく神主がお供として神輿に付き従うのです。そのそばにいる供僧六人は、流鏑馬に年ごとに一人ずつ代わる代わる出場し申し上げます。三台の神輿が戻り、長氏の輩下の則宗、南原、塩貝、小泉、すいちの、かきのたいまつ、丸切松の住人らは内に隠れずに、出で申し上げるべきです。鼓舁きは下の宮仕と上の宮仕である。大鼓である。

 一つ、森末名のうちから、いちもつの御神田。

 一つ、りやふおふ免の御神田。国安のうちから代百文を出さなければならない。

 一つ、御湯献上の手順。二釜湯のとき、祝詞奏上は国造が申し上げるのである。他所からの違乱や妨害があってはならないものである。

   おわり

 

 「注釈」

「九らとまち」─原本を見ていないのでよくわかりませんが、これは直前の「くろうふ

        十町」のことで、「くらふまち」と翻刻するべきかもしれません。

「山王七社」─比叡山の鎮守、日吉大社の上七社(大宮・二宮・聖真子・八王子・客

       人・十禅師・三宮)を勧請したものか。江戸時代、神宮寺の別当は今高

       野山安楽院(世羅郡世羅町甲山)の僧が兼帯していたので、真言宗

       あったと考えられますが、もとは天台宗であったのではないでしょう

       か。そもそも本社である祇園社(八坂神社)は、天台別院でもあったの

       で、中世では天台宗だったと考えられます。

 

*「神輿」の説明箇所は、ほとんど意味がわかりませんでした。強引に解釈したものも

 ありますが、わからない箇所は本文の表記のままにしてあります。また、『甲奴町

 誌』の解説も参照しています。

須佐神社文書 その4

 一 須佐神社縁起 その4

 

*本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

                (讃岐)

  太郎王子、そふかふてんのふ、さぬきの國たきのやしろ、こすてんのふ、

  (本) (日光菩薩    (大歳神)          (魔王天王)

  ほん地につかふぼさつ、だいさいぢんなり、二郎王子、まをふてんのふ、

       (廣峯)            勢至菩薩   (陰神)

  はりまの國ひろみね、こずてんのふ、ほんぢせいしぼさつ、大おんぢんなり、

               因幡

  三郎王子、ぐまらてんのふ、いなばの国たかをか、こずてんのふ、ほん地ぢぞう

      だいじやう                   (安芸) (佐東)

  ぼさつ、大将ぐんちんなり、四郎王子、とくだつてんのふ、あきの國さとう、

                       とく

  こずてんのふ、本地くわんせおんぼさつ、とし徳神也、五郎王子、りやふじ

       (越)                   月光菩薩

  てんのふ、ゑつ中の國しよふび、こずてんのふ、ほん地ぐわつこふぼさつ、

 

  さいはちん也、六郎王子、たつびさてんのふ、やまとの國吉野、こずてんのふ、

     (釋迦如)

  ほんちしやかによ來さいぎやふ神なり、七郎王子、地神藏天王、しもをさの國

  そたつ、こすてんのふ、ほん地薬師如來、ひやふびちんなり、八郎王子、

  としやうそふてんのふ、やましろの國二鳥谷、こすてんのふ、本地こくう地蔵

      ばん

  菩薩、大番神也、じやどくきぢんてんのふと申奉るわ、五条の天王是なり、

  しやれいでんき、ふときに而、かんかへ見るときんば、此こずてんのふ八王子

  じやとく鬼神、とうむ天神、やく而、ぎやふぢん、はりさいによ、まかだいこく

                

  てん神、八まん四せん六百五拾除神、ろくづろくめんろつひろくそくのけんぞく

  ぶんしんなりとうんぬん、じひふかき物をは、しゆこし、しやけんの物をは、

                                  (寶龜)

  ばつせんとの御せいくわんなり、あるせつにいわく、にんのふ四十九代ほうき

            光仁天皇   (御)      ゑきれい

  五ねんきのへとら、かうにんてんのふのぎよ宇四月、天下疫癘はやる、びしう

  (世羅)さと(童武塔)

  せらの郷わらんへむとうにおいて、たくしていわく、あつかれわ、これじやどく

  鬼神成り、本地めうけんぼさつなり、此さと、こずてんのふをまつるへし、

  此ちのさしもぐさ、ゑきれいみそきばらいせよとかんさりましぬ、ごんてん所を

  たて、どうねん六月十四日、はた、つゞみ、ふへ、かねをうち、きやうむ

      しんかう ぎやふ

  さりゝゝと神幸しゆ行、おたび處ニ而ひじたるちんぎ、をなじく十六日ひつじさる

                                   ひゝ

  のこく、もとのごんてん所はいのふすとうんぬん、それよりれいじやふ目目に

  はんゑい、むらさと、こをりくより、あかめうやまいたてまつりおわん、

   つづく

 

 「書き下し文」(可能な限り漢字仮名交じりにしました)

  太郎王子、相光天王、讃岐の国滝の社、牛頭天王、本地日光菩薩、大歳神なり、二

  郎王子、魔王天王、播磨国廣峯、牛頭天王、本地勢至菩薩大陰神なり、三郎王

  子、倶摩羅天王、因幡の国高岡、牛頭天王、本地地蔵菩薩、大将軍神なり、四郎王

  子、得逹天王、安芸の国佐東、牛頭天王、本地観世音菩薩、歳徳神なり、五郎王

  子、良持天王、越中国しよふび、牛頭天王、本地月光菩薩歳破神なり、六郎王

  子、逹尼漢天王、大和の国吉野、牛頭天王、本地釈迦如来歳刑神なり、七郎王子、

  地神蔵(侍神相)天王、下総の国そたつ、牛頭天王、本地薬師如来、山城の国二鳥

  谷、牛頭天王、本地虚空蔵菩薩、大番神(黄幡神)なり、蛇毒鬼神天王と申し奉る

  は、五条の天王是れなり、社例伝記、風土記にて、勘へ見る時んば、此の牛頭天

  王、八王子蛇毒鬼神、武塔天王、やく而、ぎやふじん、頗梨采女、摩訶大黒天神、

  八万四千六百五十四神、六頭六面六臂六足の眷属分身なりと云々、慈悲深き物を

  ば、守護し、邪険の物をば、罰せんとの御誓願なり、或る説に曰く、人皇四十九代

  宝亀五年甲寅、光仁天皇御宇四月、天下に疫癘はやる、備州世羅の郷童武塔に於い

  て、託して曰く、あつかれは、これ蛇毒鬼神成り、本地妙見菩薩なり、此の郷に、

  牛頭天王を祭るべし、此の地のさしも草、疫癘禊祓せよと神去りましぬ、御殿所を

  建て、同年六月十四日に、幡、鼓、笛、鉦を打ち、凶夢去り去りと神幸執行、御旅

  所にて秘事たる神儀、同じく十六日未申の刻、元の御殿所へ拝納すと云々、それよ

  り霊場日々に繁栄、村里、郡々より、崇め敬い奉り了ん、

   つづく

 

 「解釈」

 太郎王子は相光天王で、讃岐国滝宮社でお祭りされている。牛頭天王の本地は日光菩薩で、大歳神でもある。二郎王子は魔王天王で、播磨国広峯社でお祭りされている。牛頭天王の本地は勢至菩薩で、大陰神でもある。三郎王子は倶摩羅天王で、因幡国高岡社でお祭りされている。牛頭天王の本地は地蔵菩薩で、大将軍神でもある。四郎王子は得逹天王で、安芸国祇園社でお祭りされている。牛頭天王の本地は観世音菩薩で、歳徳神でもある。五郎王子は良持天王で、越中国少尾でお祭りされている。牛頭天王の本地月光菩薩で、歳破神でもある。六郎王子は逹尼漢天王で、大和国吉野でお祭りされている。牛頭天王の本地は釈迦如来で、歳刑神でもある。七郎王子は侍神相天王で、下総国蘇達でお祭りされている。牛頭天王の本地は薬師如来で、山城の国二つ鳥居でお祭りされている。牛頭天王の本地は虚空蔵菩薩で、黄幡神でもある。蛇毒鬼神天王と申し奉るのは、五条の天王である。神社のしきたりや伝記、風土記で調べてみると、八王子・蛇毒鬼神・武塔天王・行疫神・頗梨采女・大黒天以下、八万四千六百五十四柱の神々は、この牛頭天王の六頭六面六臂六足が分身した眷属であるという。慈悲深いものを守護し、邪険のものを罰しようとの御誓願である。ある説に言うには、人皇四十九代宝亀五年甲寅(七七四)、光仁天皇の御代四月に、国中で疫病が流行った。備後国世羅郷小童武塔で、お告げになって言うには、「我は蛇毒鬼神である。本地は妙見菩薩である。この里に牛頭天王を祭るべきである。この地の蓬を燃やして、疫病を禊ぎ祓え」と仰って、神通力で消え去った。御殿を建て、同年六月十四日に、幡を用意し、鼓を打ち、笛を吹き、鉦を打って、「悪夢よ去れ」と唱えながら、神輿渡御を行った。御旅所で秘密の祭儀を行った。同月十六日未申の刻に、もとの御殿へ神輿を納め申し上げたそうだ。それ以来、霊場として日々繁栄し、近隣の村々や郡からの参拝者が崇め敬い申し上げた。

   つづく

 

 「注釈」

「たきのやしろ」─滝宮天満宮のことか。香川県綾歌郡綾川町滝宮。

「たかをか」─高岡神社。鳥取市国府町高岡。

「安芸の国佐東」─安神社。広島市安佐南区祇園

越中の国しよふび」─未詳。「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編一、一

           九八八)には「少尾」と記されている。

「大和の国吉野」─奈良県吉野郡吉野町吉野山牛頭天王社跡。

「下総の国そたつ」─未詳。「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編一、一九

          八八)には「蘇達」と記されている。

「山城の国二鳥谷」─未詳。「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編一、一九

          八八)には「二ツ鳥居」と記されている。

「五条の天王」─五条天神社か。下京区天神前町。

須佐神社文書 その3

 一 須佐神社縁起 その3

 

*本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

            いそ もちゆき          (疑)

 一ふてあそばし給はゝ、急ぎ持行娘と娵とにかけけれバ、うたがいなくたすかり、

  のかる

  遁るものなり、

                (札守)       (立)    (弓)

  こたん將來處にわくしやう神のふだまむりを四方八方にたてければ、ゆみや、

  つるぎ (鉾)     やう                  (符)

  劔、ほこ、入ルへき様もそらになし、其時に、じやどくぎぢんのふ、

  (懇)      まと した (塞)     (切入)     (千)

  ねん比見玉へは、窓の下をふさがず、是よりきりいり、八万四せんの

           よ(神)(部類)     (上)

  けんぞく、六百五拾除ぢんぶるいおしいり、かみ八拾人中八十人下八十人貳百

              や (滅)

  四十人のけんぞく、七日七夜ニほろぼし給いて、ゑいさゝゝ、ゑいをふ、

  よきかな      (龍宮城)

  善哉々々、それよりりうぐうじやうめぐり、にしやまがけぼろん國

  (住)        まつ (木)  (鳩)ひとつかい(羽)やすめ

  すみたまふ、おんまへの松のきに、はと一番はを休、さえどりけるやふ、

        りうくうじやう(宮)   きさき        なく  はと

  これよりなん瀧宮城姫ミやまします、后ニしやくし給へと鳴、その鳩

  とびゆく(連)                 (契)

  飛行つらねて見給ふに、はりさいによと申后御ちぎりあつて、八人の王子を

             (我朝) 人皇     文武天皇   (御宇)

  もふけ玉ふ、それより、わかてふにんのふ四十二代もんむてんのふのぎよう

   慶雲元年    (甲辰)     (江)しう(栗太郡        (夜)

  けいうんくわんねんきのへたつ四月、がう州くり許こうりへ着き給ふ、一やに

   (千本)  (杉苗)          (都)    (捧)

  貳せんぼんのすぎなへをうへ玉ふ、そんしミやこへ一紙おさゝけ奉る、時の

   (関白)  (奏聞)    (献上)   (宣旨)(蒙)   (崇敬)

  くわんばく、そうもん、御湯けんじやふのせんじをかふむり、そふきやふ奉る、

          (波羅奈) 東王父天王)          ちゝ

  あつかれわ、是、はらない國とうをふふてんのふの王子なり、父のまかふお

        (天竺震旦)         秋津島       (神託)

  こふむり、てんじくしんたんをめぐり、このあきつしまわたるとのぢんたく

  なり                人皇  (三代)(和銅  (年)

  也、こずてんのふおあがめたてまつるにんのふ四十さんだいわどふ六ねん癸丑、

   元明天皇   (御)  (日本)  ふとき しむ つくら

  げんめふてんのふのぎよ宇、につほんの風土記お令作、にんのふ四十五代

  ぢん(亀)(年)(乙亥)       (播磨)   ひろみねこずてんのふ(出現)

  神き七ねんきのとのい三月十八日に、はりまの國廣峯牛頭天王しゆつけんし

       播州風土記              (寶龜)

  給ふと、ばんしふふときにあり、にんなふ四十九だいほふき二年辛亥

  光仁 (皇)(御)う       もつて (国々)      まつらしむ

  かふにん天王のぎよ宇、みことのりを以、くにゝゝに牛頭天王を令祭、

   つづく

 

 「書き下し文」(可能な限り漢字仮名交じりにしました)

 一つ、筆を遊ばし給はば、急ぎ持ち行き娘と婿とにかけければ、疑いなく助かり、遁

  るるものなり、

  古旦將來処には倶生神の札守を、四方八方に立てければ、弓矢、劔、鉾、入るべき

  様もそらに無し、其の時に、蛇毒鬼神の符、懇ろに見玉へば、窓の下を塞がず、是

  れより切り入り、八万四千の眷属、六百五十余神・部類押し入り、上八十人、中八

  十人、下八十人、二百四十人の眷属、七日七夜に滅ぼし給いて、えいさえいさ、え

  いえいおう、善きかな善きかな、それより龍宮城へ廻り、にしやまがけぼろん国へ

  住み給ふ、御前の松の木に、鳩一番羽を休め、さえどりける様、これよりなん瀧宮

  城に姫宮まします、后にしやくし給へと鳴く、その鳩飛び行くに連ねて見給ふに、

  頗梨采女と申す后に御契りあつて、八人の王子を儲け玉ふ、それより我が朝人皇

  十二代文武天皇の御宇慶雲元年甲辰四月に、江州栗許郡へ着き給ふ、一夜に貳千本

  の杉苗を植へ玉ふ、孫子都へ一紙を捧げ奉る、時の関白、奏聞す、御湯献上の宣旨

  を蒙り、崇敬奉る、あつかれは、是れ、波羅奈国東王父天王の王子なり、父のまか

  ふを蒙り、天竺震旦を廻り、この秋津島へ渡るとの神託なり、牛頭天王を崇め奉る

  人皇四十三代和銅六年癸丑、元明天皇の御宇、日本の風土記を作らしむ、人皇四十

  五代神亀天平の誤か)七年乙亥三月十八日に、播磨の国廣峯牛頭天王出現し給ふ

  と、播州風土記にあり、人皇四十九代寶龜二年辛亥光仁天皇の御宇、勅を以つて、

  国々に牛頭天王を祭らしむ、

   つづく

 

 「解釈」

 一つ、牛頭天王が筆を走らせて呪符をお書きになり、急いでその呪符を持っていき娘と婿に掛けるなら、間違いなく助かり、災厄から逃れることができるものである。

  古旦将来の所には倶生神の呪符を、四方八方に立てていたので、弓矢、劔、鉾を入れるべきところはまったくない。その時に、蛇毒鬼神王が丁寧にご覧になると、窓の下を塞いでいなかった。ここから切り入り、八万四千の眷属や六百五十四神の部類が押し入り、上の八十人、中の八十人、下の八十人の眷属が七日七夜のうちに滅ぼしなさって、えいさえいさ、えいえいおう、善きかな善きかな、と勝ち鬨をあげた。それから龍宮城を廻り、にしやまがけぼろん国にお住みになった。御前の松の木に鳩一番が羽を休めて囀るには、「ここより南の龍宮城に姫宮がいらっしゃいます。后になさいませ」と鳴いた。その鳩が飛んでいくのに付いていきご覧になると、頗梨采女と申す后がいらっしゃって夫婦の契りを結びなさって、八人の皇子を儲けなさった。それから、本朝人皇四十二代文武天皇の御代慶雲元年甲辰(七〇四)四月に、近江国栗太郡へお着きになった。一夜で二千本の杉苗を植えなさった。住人たちの子孫が都へ書状を捧げ申し上げた。時の関白が帝に奏聞し、御湯献上の宣旨をいただき、崇敬し申し上げた。「あつかれわ」牛頭天王は波羅奈国東王父天王の王子である。父の「まかふ」を蒙って、天竺震旦を廻り、この日本へ移るとの神託であった。牛頭天王を崇め奉る人皇四十三代和銅六年癸丑(七一三)、元明天皇の御代に日本の風土記を作らせた。人皇四十五代天平七年乙亥(七三五)三月十八日に、播磨国広峯に牛頭天王が出現しなさったと、播磨国風土記に書いてある。人皇四十九代宝亀二年辛亥(七七一)光仁天皇の御代に勅命によって各国に牛頭天王を祭らせた。

   つづく

 

 「注釈」

「くり許こうり」─栗本郡(栗太郡)。現滋賀県栗東市綣に鎮座する大宝神社のこと

         か。

「娵」─婿の誤り。

「倶生神」─インド神話を受けた仏教の神。人が生まれた時から、その左右の肩の上に

      あって、その人の善悪の所行を記録するという同名、同生の二神。また、

      これを男女の二神とし、男神は同名といい、左肩にあって善行を記録し、

      女神は同生といい、右肩にあって悪行を記し、死後、閻魔王による断罪の

      資料とするという。また、俗に、閻魔王の側で罪人を訊問し罪状を記録す

      る神とする(『日本国語大辞典』)。

「あつかれわ」─未詳。

「まかふ」─「ふかう」(不幸・不孝)の誤記・誤読か。

「廣峯」─廣峯神社姫路市広嶺山。

 

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広峯神社随神門

 

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拝殿

 

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神輿

 

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拝殿(手前)・本殿(奥)

 

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本殿

 

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本殿裏

 

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地養社(祭神は蘇民将来

 

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掲示板

 

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荒神

 

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吉備神社

須佐神社文書 その2

 一 須佐神社縁起 その2

 

*本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

   崇神天皇   (戊子)      (疫癘)

 一しゆぢんてんのふつちのへね、天下ニゑきれいはやる、しする物過分、

  欽明天皇    (丙寅)             (民)

 一きんめいてんのふひのへとら七ねん、ゑきれいはやる、たみ多く死る、癸酉十四

    ゑきれいはやる (物部)        (祭儀)

  年正月疫癘葉流、もののへのをきら、神國のさいきにそむけり、とうんぬん、

  (用明)   (午の誤ヵ)(元年) しちどう              (備)

 一やふめい天皇丙寅ぐわんねん、五畿七道をめくり給へ共、可然處もなし、び州

  (疫隅)                    (巨旦將來)

  江ずみとゆう處着き給、四月八日の事成るに、こたんしやうらいと申

   (長者)                   なさけ をいいたす  (同州)

  ちやうじやあり、一夜の宿をかり玉ふ、思ひもよらず情無く追出、其時どうしう

             蘇民

  賀屋とゆう處越玉ふ、そみん將來と申貧者あり、是者慈悲ふかき物成、たちよ

  り宿を借りたまふ、御宿可参わ安けれ共、御調物米なしと申ける、てんのふ宣

  ふわ、くるしからず、只かせよとの玉ふ、其時女房もんぜんの木、りやうめこ

   (粟三把)          (踏殼)      (敷)    (實)

  のあわさんばもちたるをおろし、ふみからおてんのふしかせ奉り、みおは

  (飯)    (柏) (葉)   (栃) (皮)   黄檗 (箸)

  はんにして、かしわのはにもり、とちのかわすへ、きはだのはしおこしらへ

                     (眷属)

  そなへ奉る、其時てんのふ大悦び玉ふ、けんそく達にくばり、しはらくあつて

  じやどく鬼神なふおめされ而宣ふわ、さらば、こたん將來が一やの宿をおしみ

    (憎)               のたもふ

  たるにくさに、是を七日之内ニはつすへしと宣ふ、おのゝゝけんぞくたち、

             (打立)

  いろゝゝに出立給いて、うちたち玉ふ、其時そみん奉申上者、何事ニ而候ぞと、

      (驚)

  おふけにをとろき申せは、てんのふ宣ふわ、このうしろにこたん將來が、

                  (貸)

  われゝゝがつかれ及處、一や宿かさす間、八万四せんのけんぞくを入、七日

    (滅)                            (某)

  七やほろほすへしとの玉ふ、其時そみん夫婦申けるは、難有御事成り、それが

          こたん

  し娘壹人持て候、古旦將來が太郎娵になし候、御助候へと、かんるいながし

              (汝等)  (今宵) (情)

  申ける、てんのふ宣ふわ、なんじらがこよいのなさけ嬉敷故免すとの玉ふ、女房

  (御前)     (斯)    おそれをゝく

  おんまへまいりて、か様申せば、恐れ多事候へ共、とてもの御慈悲に、

      (遊)       (有難)   (偕老同穴)    (契)

  ふう婦御助あそはされ候ハゝ、ありかたく、かいろうとうけつのちぎりにて候

      (婿)  (助)                    (子孫)

  ほとに、むこをもたすけ候へと申、其時てんのふの玉ふわ、こたんがしそんと

        (根)   (葉)              (汝)(夫婦)

  いわん物をば、ねをきり、はおからし、たへすへしと思へ共、なんじふうふの

   (志)         (許) のたま   (符守)

  こゝろざしふかきによつて、ゆるすと宣いて、ふまむりを給わりける、

  (南無)(獅子)    (蘇婆訶)

  なむやしゝをうまかはりやそわか、此ふと申わむねちより、こずてんのふ

  (修験)  (秘密) (守)

  しゆけんのひみつのまむりなり、

                 (符)  蘇民夫婦)

  なむやそきろかつはかやそわか、此ふわ、そみんふうふの心ぞしまかきひみつの

    そみんふうふ (薬師如)        (粟)       (菩薩)

  符也、蘇民夫婦、やくしによ來、ひやうめこのあわゝ、やくじやうぼさつと申、

  そみん將來しそんなりとうんぬん、

   つづく 

 

 「書き下し文」(可能な限り漢字仮名交じりにしました)

 一つ、崇神天皇戊子、天下に疫癘はやる、死する物過分、

 一つ、欽明天皇丙寅七年、疫癘はやる、民多く死ぬる、癸酉十四年正月疫癘はやる、

  物部のをきら、神国の祭儀に叛けり、と云々、

 一つ、用明天皇丙午元年、五畿七道を廻り給へども、然るべき処も無し、備州疫隅と

  云ふ處へ着き給ひて、四月八日の事なるに、古旦將來と申す長者有り、一夜の宿を

  借り玉ふ、思ひも寄らず情無く追い出だす、其の時同州賀屋と云う処へ越し玉ふ、

  蘇民將來と申す貧者有り、是の者慈悲深き者なり、立ち寄り宿を借り給ふ、御宿参

  るべきは安けれども、御調物に米無しと申しける、天王宣ふは、苦しからず、只貸

  せよと宣ふ、其の時女房門前の木に、りやうめこの粟三把持ちたるを下ろし、踏み

  殼を天王に敷かせ奉り、実をば飯にして、柏の葉に盛り、栃の皮に据ゑ、黄檗の箸

  を拵へて備へ奉る、其の時天王大いに悦び玉ふ、眷属達に配り、しばらくあって、

  蛇毒鬼神王を召されて宣ふは、さらば古旦將來が一夜の宿を惜しみたる憎さに、是

  れを七日の内に外すべしと宣ふ、各々眷属たち、色々に出で立ち給いて、打ち立ち

  玉ふ、其の時蘇民申し上げ奉るは、何事にて候ふぞと、大きに驚き申せば、天王宣

  ふは、この後ろに古旦將來が、我々が疲れに及ぶ処に、一夜の宿を貸さず間、八万

  四千の眷属を入れ、七日七夜に滅すべしと宣ふ、其の時蘇民夫婦申しけるは、有り

  難き御事なり、某の娘一人持て候ふ、古旦將來が太郎の嫁になして候ふ、御助け候

  へと、感涙流し申しける、天王宣ふは、汝等が今宵の情嬉しき故免すと宣ふ、女房

  御前へ参りて、斯様に申せば、恐れ多く事に候へども、とてもの御慈悲に、夫婦御

  助け遊ばされ候はば、有り難く、偕老同穴の契りにて候ふほどに、婿をも助け候へ

  と申す、其時てんのふ宣ふは、古旦が子孫といわん物をば、根を切り、葉を枯ら

  し、絶へすべしと思へども、汝夫婦の志深きに依つて、許すと宣いて、符守を給わ

  りける、

  南無や獅子をうまかはりや蘇婆訶、此の符と申すは無熱より、牛頭天の符修験の秘

  密の守なり、

  南無やそきろかつはかやそわか、此の符は、蘇民夫婦の心ぞしまかき秘密の符な

  り、蘇民夫婦、薬師如来、ひやうめこの粟は、薬上菩薩と申す、蘇民將來子孫なり

  と云々、

   つづく

 

 「解釈」

 一つ、崇神天皇戊子の年、国中に疫病が流行った。死者は非常に多かった。

 一つ、欽明天皇丙寅七年(五四六)疫病が流行った。民衆が多く死んだ。癸酉十四年(五五三)正月疫病が流行った。物部尾輿が神国の祭儀に背いたそうだ。

 一つ、用明天皇丙午元年(五八六)、牛頭天王五畿七道をお廻りになったが、適切な場所もなかった。備後国深津郡疫隈という所にお着きになったのは、四月八日のことである。そこには、古旦(巨旦)将来というお金持ちがいた。一夜の宿をお借りになった。古旦将来は思いも寄らず冷淡にも追い出した。それから、同じ備後国の賀屋という所にお移りになった。そこには、蘇民将来という貧乏人がいた。この者は慈悲深い者であった。牛頭天王はここに立ち寄り宿をお借りになった。「お宿を貸して差し上げることは簡単なことですが、おもてなしする米がありません」と蘇民将来は申した。牛頭天王が仰るには、「さしつかえない。ただ貸してくれ」と仰った。その時女房が門前の木に、りょうめこ?の粟三把を掛けていたのを下ろし、踏んだ籾殻を牛頭天王の座に敷いてさしあげ、粟の実を飯にして、柏の葉に盛り、栃の皮の上に据え、黄檗の箸を拵えて供え申し上げた。その時牛頭天王は大いにお喜びになった。眷属たちにも食事を配り、しばらくして、蛇毒鬼神王をお呼びになって仰るには、「それなら、古旦将来が一夜の宿を惜しんだ憎さに、この者を七日以内に取り除くべきである」と仰った。それぞれの眷属たちが現れ、勢いよく立ちなさっている。その時蘇民将来が申し上げるには、「何事でしょうか」と、ひどく驚いて申し上げたところ、牛頭天王が仰るには、「この前、古旦將來は我々が疲れ果てていたところに、一夜の宿を貸さなかったので、八万四千の眷属を入れて、七日七夜のうちに滅ぼすべきである」と仰った。その時、蘇民夫婦が申し上げるには、「あってはならないことです。私どもは娘を一人持っております。古旦將來の長男の嫁にしております。お助けください」と悲嘆の涙を流しながら申し上げた。牛頭天王が仰るには、「お前たちの今宵の心遣いが嬉しかったので許す」と仰った。蘇民将来の妻が牛頭天王の御前に参上して、「このように申し上げると畏れ多いことでございますが、大いなるご慈悲をもって娘夫婦をお助けくだされば、めったにないほど素晴らしいことで、夫婦の絆が固く結ばれておりますうちに、婿をも助けてください」と申し上げた。その時牛頭天王が仰るには、「古旦将来の子孫というものを、根を切り葉を枯らして絶やすべきであると思うが、お前たち夫婦の心遣いが深いので許す」と仰って、呪符をお与えになった。

「なむやししをうまかはりやそわか」。この呪符は、無熱天からもたらした、牛頭天王の修験の秘密の呪符である。

「なむやそきろかつはかやそわか」。この呪符は、蘇民夫婦の気遣いの深さに対する秘密の呪符である。蘇民夫婦は薬師如来、ひょうめこ?の粟は薬上菩薩と申す。蘇民将来の子孫であると唱える。

   つづく

 

 「注釈」

「もののへのをきら」─物部尾輿のことか。ここでは物部氏が神祇信仰をないがしろし

           たことになっていますが、本来物部氏は排仏派であるはずなの

           で、誤った情報が伝わっているのかもしれません。

「疫隅」─疫隈国社(えのくまのくにつやしろ)。現広島県福山市新市町戸手の素盞嗚

     神社。

「心ぞしまかき」─「心ざし深き」のことか。

「りやうめこ・ひやうめこ」─未詳。「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編

              一、一九八八)では、「両かんこ」という記載になって

              います。

              なお、『簠簋内傳』(国文学研究資料館

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-04207&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=【簠簋内伝金烏玉兎集】&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=7)の同様の箇所は、

              「粱(りょう)粟」という表記になっています。「りや

              う」は「粱」=「粟のこと」かもしれません。

「なむやししをうまかはりやそわか」・「なむやそきろかつはかやそわか」

  ─「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編一、一九八八)では、「南無耶

   獅子王摩訶破梨耶娑婆訶」・「南無耶蘇宜路掲破梨娑婆訶」という表記になって

   います。

 

 

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戸手の素盞嗚神社

 

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鳥居と随神門

 

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拝殿

 

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蘇民神社(相殿) 左が蘇民神社・右が疱瘡神

 

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本地堂(現・天満宮

本尊は聖観音菩薩(石橋健太郎「牛頭天王信仰と備後素盞嗚神社の一考察」『広島の考古学と文化財保護』2014.11)。