周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

木村文書4(完)

    四 狐爪木神社制札     ◯木札

 

     禁制    大宮司

 一甲乙人等亂入事

 一竹木伐取事

 一網張鳥類取事

     (1552)

     天文廿一年八月

 

 「書き下し文」

     禁制    大宮司

 一つ、甲乙人等乱入の事、

 一つ、竹木伐り取る事、

 一つ、網を張り鳥類を取る事、

 

 「解釈」

     禁止する。 大宮司

 一つ、庶民が神社に乱入すること。

 一つ、神社の竹木を伐採すること。

 一つ、網を張って鳥類を捕ること。

木村文書3

    三 狐爪木神社制札   ◯木札

 

     禁制

 一甲乙人等亂入事

   (竹木伐取之事ヵ)

 一[       ]

   (殺生之事ヵ)

 一[      ]

     (1542)

     天文十一年八月

 

 「書き下し文」

     禁制

 一つ、甲乙人等乱入の事、

 一つ、竹木伐り取るの事(ヵ)、

 一つ、殺生の事(ヵ)、

 

 「解釈」

     禁止する。

 一つ、庶民が神社に乱入すること。

 一つ、神社の竹木を伐採すること。

 一つ、神社で殺生すること。

 

 「注釈」

「甲乙人」─「甲の人乙の人」で特定の人以外の第三者を指し、転じて庶民をいう。

      「沙汰未練書」は「甲乙人等トハ凡下百姓等のことなり」と記す(『古文

      書古記録語辞典』)。

木村文書2

    二 毛利氏奉行人連署打渡坪付寫

 

    本勅司分

  田六町一反

 一分錢     四拾九貫四百五十文

  畠七町二反小

    柳

 一分錢     四貫文

    大御堂

 一分錢     三貫六百文

     (1552)             宍 戸 左 馬 助

     天文廿一年五月一日            元親

                    児玉二郎右衛門尉

                          就久

                       (源ヵ)

                    波多野⬜︎兵衛尉(兼ヵ)

                           ⬜︎信

       都伏

          七郎左衛門

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「分銭」─斗代に面積を乗じて算出された貢租の米の高。銭で納入すると分銭(「分

     米」『古文書古記録語辞典』)。

天狗のイタズラ

  応永二十七年(一四二〇)六月二十七日条 (『看聞日記』2─59頁)

 

               〔釈〕

 廿七日、晴、酉時有大地震、帝尺動也、又有焼亡、〈申時歟、〉北小路油小路辺

  云々、天狗洛中荒云々、先日中京辺在家四五間菖蒲葺云々、天狗所為歟、

  炎旱非只事、御祈禱雖被行無其験、春日大明神御祟云々、(後略)

 

 「書き下し文」

 二十七日、晴る、酉の時大地震有り、帝釈動くなり、又焼亡有り〈申の時か〉、北小

  路油小路辺りと云々、天狗洛中を荒らすと云々、先日中京辺りの在家四、五間の菖

  蒲を逆さに葺くと云々、天狗の所為か、炎旱只事に非ず、御祈祷行はると雖も、其

  の験無し、春日大明神の御祟りと云々、

 

 「解釈」

 二十七日、晴れ。酉の刻に大地震が起こった。帝釈天堂が動いたのである。また火事があった。〈申の刻か〉。北小路油小路あたりという。天狗が洛中を荒らしているそうだ。先日、中京あたりの民家四、五軒の菖蒲を逆に挿したという。天狗の仕業だろうか。日照りは只事ではない。ご祈祷が行われたが、そのご利益はなかった。春日大明神の祟りだそうだ。

 

 「注釈」

「帝釈」─帝釈天堂。南丹市八木町字船枝。船枝集落の北部山中にある。庚申さんと称

     して崇敬者が多い。船枝の福寿寺(曹洞宗)所蔵の慶長七年(一六〇二)正

     月一六日付の紫雲山小倉寺縁起によると、宝亀一一年(七八〇)和気清麻呂

     が神護寺(現京都市右京区)を草創した際霊感を受け、丹波の国船井郡吉富

     庄舟枝村東北の山上に至って小倉の中に帝釈天像を発見、一寺を建立して紫

     雲山小倉寺と号した、その後帝釈天弘法大師に寄進し、大師は千谷山を開

     き伽藍を構えた。応仁年間(一四六七─六九)に焼亡したが本尊のみ災いを

     免れて、中世末期に同山千谷口の上に草堂を再興し帝釈天を安置したとい

     う。旧跡地を寺床と呼び現在も地名が残る。その後、寛永三年(一六二六)

     にも火災に遭い、貞享年間(一六八四─八八)園部藩主ほかより寄進を受け

     て完成したのが現存の堂宇である(『京都府の地名』平凡社)。

 

*さまざまな災害が起こっているなかで、一つだけ、信じられないほど些細な災いが起こっています。邪気払いのためでしょうか、民家の軒先に挿していた菖蒲を、ひっくり返したものがいたようです。それがなんと、天狗の仕業だと噂されているのです。子どものいたずらとしか思えないのですが、天狗はこんなしょうもないことをすると考えられていたようです。大騒ぎするほどのことでもないように思いますが、中世人にとっては、これも無視できない災いだったのでしょう。天狗は神通力を使って菖蒲をひっくり返したのか、菖蒲を一本ずつ逆さまに挿し込んだのかわかりませんが、そんな姿を想像すると、ちょっと笑えます。

自死の中世史 28 ─中世の説話7─

 「臨終に執心を畏るべき事」『沙石集』巻第四ノ五

              (『新編日本古典文学全集』52、小学館、2001)

 

 近比、小原に上人ありけり。無智なりけれども、道心の僧にて、かかる浮世に、長らへてもよしなく思ひければ、三七日、無言して、結願の日、頸をくくりて、臨終せんと用意して、同法の僧両三人、相語らひ、道場に籠りゐぬ。また、かかる聞こえ有りければ、哀れに貴しとて、小原の僧正も、結縁せんとて、徃生講行ひ給ひけり。云ふべき事あれば、書きつけけるに、「徃生の志をすも勧めん為に、念仏の聴聞の志あり」とて、都の名僧ども請じて、七日の別時念仏始めけり。さるほどに、京中の道俗男女、聞き及ぶに随ひて、結縁せんとて集まりて、「拝まん」と云へば、出て拝まれなんどしけり。相語らはれたる上人どもは、「この事然るべからず。ことごとしき作法かな」と、請けぬ事にぞ思ひける。

 さて、日数已に満じて、行水など用意しけり。かかるほどに、同法の中に申しけるは「今はこれ程に成りては、別義有るべからず候へども、人の心は定まり無き事なれば、若し妄執もとどまり、また思し食す事も有らば、仰せられ、御心に残る所なくして、御臨終もあらんは、然るべしと覚え侍り。今は、無言もよしなく候ふ」と云ふ時に、実にとや思秘剣、申しけるは、「始め思い立ちたりし時は、心は勇猛成り。一日比、湯屋の房焼けて、かの房主、焼け死なんどせしを聞きし時は、今一日も疾く臨終して、かかる憂き事も聞かじ、はやく死なむと思ひしか、この程は、心もゆるくして、急ぎ死なばやとも覚えぬぞ」と云ふ時、年来の弟子の中に、大人しき在家法師、京に住まひけるが、このことによりて來るありけり。道場にも入れられずして、少しそねましげなる気色にて、障子の際に居寄りて、上人の加様に云ふを聞きて、高声に申しけるは、「物の義などと云ふは、定まらぬ時の事成り。これ程にののしり、披露して、日も時も定まりたる事を、なまこざかしき異儀の出来こそ、返す返す有るべからざる事なれ。魔の所為にこそ。疾く疾く御行水参らせて、急ぎ給へ。時延びなんとす」とののしりければ、上人も物言ひさして、にがりて、心ならぬ行水し、房の前の榎の木に縄をかけて、頸をくびりて死す。人々拝み貴び、面々に、その道具をぞ形見に取りける。

 さて、その後、半年ばかりあつて、座主の僧正悩み給ふ事ありけるが、例ならぬ気色に見え給ひければ、護身し、陀羅尼なんどを唱へけるに、口ばしりて様々の事ども宣ひけり。かの頸くくり上人が憑き奉りたりける。「あはれ制し給へかし、とどまらんと思ひしに、さる御事なかりし口惜しさよ」と云ひける。実に妄念執心、忘れ難く、捨て難し。ただ思ひとどまるべかりけるに、よしなく名聞に耽りて、なまじひに頸くくりて、魔道に入りけること、詮無く覚ゆる。能く能く執心妄念をば、畏れ弁ふべきなり。このことは、知りたる小原の上人の、親り語りて、「よく見たる」とて、語りたりしかば、慥の事成り。

 

 「解釈」

 近ごろ、大原に上人がいた。無知だが道心のある僧で、このような浮世に長らえても無駄だと思い、二十一日間無言の修行をして、結願の日に頸を括って臨終しようと考えた。そして同法の僧二、三人と相談し、道場に籠もった。この噂が立つと、感動的で尊いことだと、大原の僧正も結縁しようと往生講を執り行いなさった。無言行中なので、何か言うべきことがあると、ものに書き付けたのだが、その中に、「往生の志を励ますために、念仏の聴聞を希望する」とあったので、京の名僧たちを招いて、七日間の別時念仏を始めた。そのうちに京中の道俗男女が、この噂を聞き及ぶにつれて、結縁しようと集まって来て、「拝ませて下さい」と言うと、この僧は道場から出てきて拝まれなどしていた。相談を受けた僧たちは、「これは適切でない。仰々しい作法よ」と、納得できない事に思った。

 さて日数もすでに満ちて、行水などを用意した。同法の僧の一人が、「今はもう格別の事情もないとは思いますが、人の心は定まりないことですので、もし妄執が残ったり、あるいはお考えになっておられる事でもありましたら、おっしゃって下さい。御心に何も残さず、ご臨終なさるのが適当だと思われます。今は無言行を続けられても仕方がありません」と申した。本当にそうだと思ったのか、無言の僧が、「始めに思い立った時は、心も勇ましかった。先日、湯屋の房が焼けて、その房の主が焼け死んだ事を聞いた時は、一日も早く臨終して、このような悲しい事も聞くまい、早く死んでしまおうと思った。しかしこのごろは、心もたるんできて、急いで死のうとも思えないのだよ」と言った時、この僧の年来の弟子で、主だった弟子である在家法師が、京に住んでいたのが、この事によって当地に来ていた。道場にも入れてもらえずに、少し嫉ましげな様子で、障子の際に近寄って座っていたが、上人がこのように弱音を吐くのを聞いて、大声で、「物の道理などというものは、何もまだ決定してない時に言うものだ。これ程大仰に披露して、日程も時間も決まっているのに、小利口ぶった異議が今さら出てくるのは、返す返すあってはならないことであるよ。天魔の仕業に違いない。一刻も早く行水をなさり、お急ぎなさいませ。時間が遅くなってしまいます」と叫んだので、上人も物を言いかけて、顔をしかめて、心ならずも行水をすませ、房の前の榎に縄をかけて、頸を括って死んだ。人々は拝み尊び、めいめいその道具を形見として取っていった。

 さて、その後、半年程経って、天台座主の僧正が病気で苦しみなさることがあった。尋常ではない様子にお見受けしたので、護身の加持をして、陀羅尼などを唱えたところ、様々なことを口走っておっしゃった。あの頸括りの上人が、取り憑き申したのである。「ああ、制止なさって下さいよ。やめようと思ったのに、そうして下さらなかったことが口惜しいことよ」と言った。本当に妄念執心は、忘れがたく捨てがたいものである。ただもう思いとどまるべきだったのに、つまらない名聞にこだわって、無理やり頸を括って魔道に入ってしまったのは、無益に思われる。よくよく執心妄念を、恐れ心得るべきである。この事は、知人である大原の上人が、「よくよく見たことだ」と直接私に語ったので、確かな事である。

 

 「注釈」

*今回は『沙石集』の事例を紹介してみよう。主人公である大原の上人は、俗世で生きながらえることを無駄と考え、二十一日間の無言行に入った。そして、極楽往生を目指したのだろう、結願の日に首を括って死ぬという計画を立てたのである。厭世観の生起が原因となり、極楽往生という目的のために、縊死という手段を選択した。これが今回の自死の説明になる。

 さて、大原の上人は結願の当日になると、急いで死のうという気持ちが失せてしまった。しかし、京からやってきた弟子が自死を催促するので、心ならずも首を括って死んでしまったのである。こうして、妄念を残したまま縊死を遂げてしまったために、上人は死霊となり、天台座主に取り憑いた。往生を目的に縊死を遂行したにもかかわらず、妄念を残したために魔道に落ちてしまったのである。この事例からも明らかにように、執心妄念をもったままの自死は、極楽往生の実現にとって何の役にも立たないどころか、むしろ戒められるべき行為と理解されていたことになる。中世前期の社会では、ただ単に異相往生を遂げればよいと考えられていたわけではなく、正念を保った異相往生だけが高く評価されていたのである。

自死の中世史 27 ─中世の説話6─

仁和寺西尾の上人、我執に依つて身を焼く事」『発心集』第第八─三

       (三木紀人『現代語訳 方丈記 発心集 歎異抄學燈社、2006)

 

 近き世の事にや、仁和寺の奥に同じさまなる聖、二人ありけり。ひとりを西尾の聖と云ひ、今ひとりをば東尾の聖と名付けたり。  此の二人の聖、事にふれて徳をいとなみ、ひとりは如法経書けば、ひとりは如法念仏す。ひとりは五十日逆修すれば、ひとりは千日講を行ひなど、互ひにおとらじとしければ、人もひきひきに方々別れつつ結縁しけり。

 年ごろかくのごとくいとなむ間、西尾の聖、身灯すべしと云ふこと聞こえて、結縁すべき人、貴賤道俗市をなして、たふとみこぞる。東尾の聖、これを聞きて、狂惑の事にこそあらめとて信ぜざるほどに、つひに期日になりて、弟子どもいみじく囲繞して、念仏して火屋に火をさす。  ここら集まりし人、涙を流しつつ尊みあへる程に、火中にて、念仏二百返ばかり申して、つひにいみじく尊げなる声にて、「今ぞ、東尾の聖にかちはてぬる」と云ひてなむ、をはりにける。

 此の事を聞かぬ人は、尊としとて、袖をうるほして去りぬ。おのづから洩れ聞ける者は、思はずに、「こは何事ぞ。いと本意ならず。妄念なりや。定めて天狗などにこそはなるべかりぬれ。益なき結縁をしてげるかな」なんど云ひけり。まことに、あらたに身命を捨てて、さる心を発しけん、珍しき身なるべし。

 或る人語りて云はく、「唐に帝おはしけり。夜いたう更けて、燈壁にそむけつつ、寝所に入りてしづまりぬる程に、火のかげにかげろう物あり。あやしくて、寝入りたる様にて、よく見たまへば、盗人なるべし。ここかしこにありきて、御宝物・御衣など取りて、大きなる袋に入れて、いとむくつけなくおぼされて、いとど息音もし給はず。かかる間、此の盗人、御かたはらに薬合はせんとて、灰焼き置かれたりけるを見つけて、さうなくつかみ喰ふ。『いとあやし』と見たまふほどに、とばかりありて打ち案じて、此の袋なる物ども取り出でて、皆もとのごとく置きて、やをら出でなんとす。其の時、帝いと心得がたくおぼして、『汝は何者ぞ。いかにも、人の物を取り、また、いかなる心にて返し置くぞ』とのたまふ。申して云はく、『我は某と申し候ひし大臣が子なり。をさなくて父にまかりおくれて後、堪へて世にあるべきたつきも侍らず。さりとも、今更に人のやつことならん事も、親の為心憂く思ひたまへて、念じて過し侍りしかど、今は命も生くべきはかりごともはべらねば、盗人をこそ仕らめと覚えて侍るにとりて、なみなみの人の物は、主の嘆き深く、取り得てはべるにつけて、ものぎよくも覚えはべらねば、かたじけなくもかく参りて、まづ物の欲しくはべりつるままに、灰を置かれてはべりけるを、さるべき物にこそと思ひて、これをたべつる程に、物の欲しさなほりて後、灰にてはべりける事をはじめて悟りはべれば、せめては、かやうの物をも食しはべりぬべかりけり。よしなき心を発しはべりけるものかなと悔しく思ひて』なんど申す。帝つぶさに此の事を聞きたまひて、御涙を流され、感じたまふ。『汝は盗人なれども、賢者なり。心の底いさぎよし。我、王位にあれども、愚者と云ふべし。空しく忠臣の跡を失へり。早くまかり帰り候へ。明日召し出だし、父の跡を起さしめん』と仰せられければ、盗人泣く泣く出でにけり。其の後、本意のごとく仕へ奉りて、すなはち父の跡をなむ伝へたりける」。

 しかれば、上人の身命を捨てしも、他に勝れ、名聞を先とす。貧者が財宝を盗めるも、清くうるはしき心あり。すべて、人の心の中、たやすく余所にはかりがたき物なり。されば、「魚にあらざれば、水の楽しみを知らず」と云ふも、此の心なるべし。

 

 「解釈」

 近代のことと思う。仁和寺の奥に、同じようなさまをした聖が二人いた。一人は西尾の聖と言い、もう一人は東尾の聖と呼んでいた。この二人は、何かにつけて徳行を営み、一人が作法にそって経文を書写すれば、一人は期間を設けて念仏を唱えた。一人が死後の冥福を祈って五十日の仏事をすれば、一人は千日間にわたる法華経の講義を行うなどして、互いに相手に劣るまいとつとめたので、人も思い思いに二方に別れて、結縁をした。

 数年来、二人がこのように修行している間に、西尾の聖が焼身をするということが評判になって、彼と結縁する人が、貴賤僧俗の別なく市をなすほど集まって尊んだ。東尾の聖はこれを聞いて、「ばかげた噂にすぎまい」と言って信じなかったが、ついにその当日となって、弟子どもがものものしくまわりに居並び、念仏を唱えて、西尾の聖の籠る小屋に火をつけた。そこに大勢集まっていた人々は、涙を流して尊みあううちに、聖は火の中で念仏を二百回ばかり唱えて、最後にたいそう尊げな声をたてて、「今や、東尾の聖に完全に勝ったのだ」と言って死んだのであった。

 この言葉を聞かなかった人は、尊いことだと言って、涙に袖をぬらして立ち去った。たまたま漏れ聞いた者は、意外さに、「これは何事だ。実に不本意だ。迷いの心ゆえか。あの聖は、きっと天狗などになったことだろう。とんだ無用な結縁をしてしまったものだ」などと言った。ほんとうに、みごとに身命を捨てたのに、そんな心をおこしたというのは、珍しい人というべきであろう。

 ある人がこう語った。「唐にある帝がおられた。夜がかなり更けて、燈火を壁のほうに向けて、寝所にはいって横になると、燈火の陰にちらちらする物がある。不審に思い、寝たふりをして、よく御覧になると、盗人とおぼしく、誰やらがあちこち歩きまわって、御宝物や御衣などを手にして、大きな袋を入れる。帝は気味が悪く思われて、ますます息をひそめて、じっとしておられた。その間に、この盗人は、帝のかたわらに薬を調合しようとして灰を焼いておかれたのを見つけて、あたふたとつかみ食った。『いったい何をするのだろう』と思ってご覧になっていると、盗人はしばらく考えこんで、この袋の中に入れた物を取り出して、皆もとのように置いて、静かに出て行こうとした。その時に、帝は実に不思議に思われて、『お前は何者か。なんのために、人の物を取り、また、何を思ってそれを返しておくのか』とおっしゃった。すると、盗人は、『私は、なにがしと申した大臣の子です。幼い時に父に先だたれてからは、みなしごとなった身で何とか生きていけるだけの手段がありません。かといって、今さら人の召使いとなることも、親のことを思うと情けなく存じまして、我慢をして過ごしてきましたが、いまは、命をつなぐべき手だてもありませんので、盗人をいたそうと思いましたが、それにつけても、普通の人の物の場合は、持ち主の嘆きが深刻で、盗み出しましても後味がよくありませんので、おそれおおくも、このように宮中へ参って、まず何か食物がほしく思いまして、その心のままに、おかれてあった灰を、しかるべき食物に違いないと思って、これを食べたところ、食欲がおさまってから、これが灰であったことを初めて知りました。そういうわけで、いざとなると、このような物も食べられるのであったか、何か盗もうなどとくだらない心をおこしたものだと、後悔の念がわきまして』などと申し上げる。帝はつぶさにこのことをお聞きになり、涙を流して感動なさった。そして、『お前は盗人ではあるが、賢者だ。本心は潔い。私は、王位にはあるが、愚者と言わねばならない。むざむざと、忠臣の後継者を失ったからだ。すぐに帰りなさい。明日、お前を召し出して、父の跡を継がせよう』とおっしゃったので盗人は感涙にむせびつつ退出した。その後、望みのごとく帝にお仕えして、まもなく父の跡を継いだのであった」と。

 以上のように、西尾の上人が身命を捨てたのも、他人に勝ち、名誉を重んじたからだ。貧者が財宝を盗んでも、彼には清くうるわしい心がある。すべて、人の心の中は、たやすく外から判断できない。だから、「魚自身でなければ、水に住む楽しみはわからない」というのも、同じ趣旨だ。

 

 「注釈」

*今回も『発心集』からの引用で、焼身往生の事例を紹介します。登場人物の西尾の聖と東尾の聖は、互いに修行を積んでいました。二人は競い合った結果、西尾の聖はとうとう焼身を遂げることを決意します。当日、西尾の聖は燃えさかる小屋のなかで念仏を唱え、最後に「今や、東尾の聖に完全に勝ったのだ」と言って息絶えました。

 前回と同じく、この場には結縁者がたくさん集まっていました。そのなかで、西尾の聖の最期の言葉を聞いた人は、極楽往生の成功をすっかり疑っています。極楽往生を目的とした焼身自殺であったはずが、ライバルの聖に勝つために焼身自殺を遂げたわけですから、明らかに妄念がわき起こっています。これまでの事例で紹介してきたように、妄念は往生の妨げにしかなりません。見物人は、妄念にまみれた西尾の聖と結縁したわけですから、さぞかしがっかりしたことでしょう。

 西尾の聖は本来、浄土に赴くという目的を実現するために、東尾の聖と競いながら修行を続けてきたのだと思われます。ところが、その目的は東尾の聖に勝ち、名誉を得るというものにすり替わり、焼身自殺を遂行してしまったのです。この事例を史実とみなすかはさておき、名誉欲や優越感のために、人間は自ら命を絶つことがある、と中世の人々は考えていたようです。

 では、なぜこのような目的のすり替わりが起きてしまったのでしょうか。問題は、結縁者の存在です。二人の評判を聞きつけた人々は、それぞれの聖のファンであるかのように、分かれて結縁したのです。供養や修行のグレードが上がれば上がるほど、高徳の聖という評判は高まり、結縁者も増える。おそらくこうした状況が、西尾の聖を勘違いさせた原因なのでしょう。死後に讃えられる名誉は、極楽往生の結果として得られるはずですが、西尾の聖はその名誉を得るために異相往生を遂げたのです。

自死の中世史 26 ─中世の説話5─

「蓮花城、入水の事」『発心集』第三─八

       (三木紀人『現代語訳 方丈記 発心集 歎異抄學燈社、2006)

 

 近きころ、蓮花城といひて、人に知られたる聖ありき。登蓮法師相知りて、ことにふれ、情けをかけつつ、過ぎけるほどに、年ごろありて、この聖の言ひけるやうは、「今は年に添へつつ弱くなりまかれば、死期の近づくこと、疑ふべからず。終はり正念にてまかり隠れむこと、極まれる望みにて侍るを、心の澄む時、入水をして、終はり取らむと侍る。」と言ふ。登蓮聞きおどろきて、「あるべきことにもあらず。いま一日なりとも、念仏の功を積まむとこそ願はるべけれ。さやうの行は、愚痴なる人のする業なり。」と言ひていさめけれど、さらにゆるぎなく思ひ堅めたることと見えければ、「かく、これほど思ひ取られたらむに至りては、とどむるに及ばず。さるべきにこそあらめ。」とて、そのほどの用意なんど、力を分けてもろともに沙汰しけり。

 つひに、桂川の深き所に至りて、念仏高く申し、時経て水の底に沈みぬ。その時、聞き及ぶ人、市のごとく集まりて、しばらくは貴み悲しぶこと限りなし。登蓮は、年ごろ見慣れたりつるものを、とあはれにおぼえて、涙を押さへつつ帰りにけり。

 かくて、日ごろ経るままに、登蓮、物の怪めかしき病をす。あたりの人あやしく思ひて、事としけるほどに、霊現れて、「ありし蓮花城。」と名のりければ、「このこと、げにとおぼえず。年ごろ相知りて、終はりまでさらに恨みらるべきことなし。いはむや、発心のさま、なほざりならず、貴くて終はり給ひしにあらずや。かたがた、何のゆゑにや、思はぬさまにて来たるらむ。」と言ふ。物の怪の言ふやう、「そのことなり。よく制し給ひしものを、わが心のほどを知らで、いひがひなき死にをして侍り。さばかり、ひとのためのことにもあらねば、その際にて思ひ返すべしともおぼえざりしかど、いかなる天魔の仕業にてありけむ、まさしく水に入らむとせし時、たちまちに悔しくなむなりて侍りし。されども、さばかりの人中に、いかにしてわが心と思ひ返さむ。あはれ、ただ今制し給へかし、と思ひて目を見合はせたりしかど、知らぬ顔にて、『今は疾く疾く。』ともよほして沈みてむ恨めしさに、何の往生のこともおぼえず。すずろなる道に入りて侍るなり。このこと、わがおろかなる咎なれば、人を恨み申すべきならねど、最期に口惜しと思ひし一念によりて、かくまうで来たるなり。」と云ひける。

 これこそ、げに宿業と覚えてはべれ。かつはまた、末の世の人の誡となりぬべし。人の心はかりがたき物なれば、必ずしも清浄・質直の心よりもおこらず。或いは勝他名聞にも住し、或いは憍慢・嫉妬をもととして、愚かに、身燈・入海するは浄土に生るるぞとばかり知りて、心のはやるままに、かやうの行を思ひ立つ事しはべりなん。すなはち、外道の苦行に同じ。大きなる邪見と云ふべし。其の故に、火水に入る苦しみなのめならず。其のこころざし深からずは、いかが耐え忍ばん。苦患あれば、また、心安からず。仏の助けより外には、正念ならん事、極めてかたし。中にも、愚かなるひとのことくさまで、「身燈はえせじ。水にはやすくしてん」と申しはべるめり。すなはち、よそ目なだらかにて、其の心知らぬゆゑなるべし。

 或る聖の語りしは、「彼の水に溺れて、既に死なんと仕りしを、人に助けられて、からうして生きたる事侍りき。その時、鼻・口より水入りて責めし程の苦しみは、たとひ地獄の苦しみなりとも、さばかりこそはと覚えはべりしか。然るを、人の水をやすき事と思へるは、いまだ、水の人殺す様を知らぬなり」と申しはべりし。

 或る人の云はく、「諸々の行ひは、皆我が心にあり。みづから勤めて、みづから知るべし。よそにははからひがたき事なり。すべて過去の業因も、未来の果報も、仏天加護もうち傾きて、我が心の程を安くせば、おのづからおしはかられぬべし。かつかつ、一事顕はす。もし、人、仏道を行はん為に山林にもまじはり、ひとり壙野の中にもをらん時、なほ身を恐れ、寿を惜しむ心あらば、必ずしも、仏擁護したまふらんとは憑むべからず。垣・壁をもかこひ、遁るべきかまへをして、みづから身を守り、病ひを助けて、やうやうすすまん事を願ひつべし。もし、ひたすら仏に奉りつる身ぞと思ひて、虎・狼来たりて犯すとも、あながちに恐るる心なく、食ひ物たえて、飢ゑ死ぬとも、うれはしからず覚ゆる程になりなば、仏も必ず擁護したまひ、菩薩も聖衆も来たりて、守りたまふべし。法の悪鬼も毒獣も、便りを得べからず。盗人は年を起こして去り、病ひは仏力によりて癒えなん。これを思ひ分かず、心は心として浅く、仏天の護持を憑むは、危ふき事なり」と語りはべりし。此の事、さもと聞こゆ。

 

 「解釈」

 近年、蓮花城という名の有名な聖がいた。登蓮法師が親しくして、何かにつけて面倒を見ていたところ、何年かたって、この聖は登蓮に対し、「今は、年とともに身体が弱くなってまいりましたから、死期が近づいているのはまちがいありません。臨終に冷静な意識を持って死ぬことが、このうえない望みでございますので、心が澄みきった時に入水して死のうと存じます」と言った。登蓮はこれを聞いてびっくりし、「とんでもありません。もう一日なりとも余分に生きて、念仏の功徳を積みたいと祈願なさるべきですのに。おっしゃるような行いは、愚かな人のすることです」と言って忠告したが、蓮花城の決意は少しも変わらないように見えたので、「おっしゃるように、それほど深く決心なさったからには、私もとめることはできません。そうなさるのが、前世からの約束事なのでしょう」と言って、入水の時の用意などについて力を借して、本人とともに手配した。

 当日、ついに蓮花城は、桂河の深い所に行って、高らかに念仏を唱え、しばらくして水の底に沈んだ。その時、彼の入水を聞きつけた人々が市のごとく集まって、しばらくは、心から貴み悲しんだ。登蓮は、「長い間親しくした人だったのに」と、あわれに思い、涙をおさえつつ帰って行った。

 そして、何日かたって、登蓮は物の怪がついたらしく、病気になった。身近な人が不思議がり、異常なことだと言っていると、蓮花城の霊が現れて、「今は亡き蓮花城です」と名のるので、登蓮は、「これは、信じがたいことです。長年親しくして、最後まで、恨まれることは一つもありません。まして、あなたの発心のさまは一通りでなく、貴くお亡くなりになったのではありませんか。それにつけて、なぜそんな意外な姿できたのですか」と言った。物の怪は、「よく聞いてくださった。適切にも入水を制止してくださったのに、自分の心のほども知らず、取り返しのつかない死に方をしてしまいました。格別、人のためにしたことではないから、死の間際に決心が変わるとは思っておりませんでしたが、いかなる天魔のしわざか、まさに水にはいろうとしたその時、たちまちに、後悔の念がわいてまいりました。しかし、あれほど多くの人がいる中で、どのようにして自分から思い返すことができましょう。『ああ、たった今、私をとめていただきたい』と思ってあなたの目をじっと見たのに、知らぬ顔をして、『さあ、早く早く』とあなたがせきたてて沈めた恨めしさで、往生のことなど念頭から去りました。それで、思いがけない道にはいってしまいました。このことは、自分の愚かさが招いた罪だから、お恨み申すべきではありませんが、死に際に未練を持ったその一瞬の迷いによって、このように、まいったのです」と言った。

 この話は、前世からの因縁だと痛感する。一方、これは、末世を生きる人の教訓となろう。人の心ははかりがたいものだから、このような行為は、必ずしも清浄ですなおな心から起きるとは限らない。ある場合は名誉欲にとらわれ、ある場合は優越感や嫉妬心をもととし、愚かにも、焼身自殺や入海すれば往生できるとばかり思いこみ、心のはやるままにこんな行を思いたつことがあるだろう。それはつまり外道の苦行と同じだ。たいへんな思い違いというべきである。苦行なのだから、火や水にはいる苦しみは一通りではない。その決意が深くなければ、どうして耐えられようか。苦痛があると、また、心は安らかではあり得ない。仏の助けによらなければ、正しい信仰心を持つことは、きわめてむずかしい。しかしとりわけ愚かな人のいいぐさに至るまで、「焼身はできまい。入水なら容易であろう」と申すようだ。それは、水は、見た目には何でもないようなので、入水の時の感じを知らないからだろう。

 ある聖が、「あの水におぼれて、すんでのところで死にそうになりましたが、人に助けられて、かろうじて命をとりとめたことがあります。その時、鼻や口から水がはいって私を責めつけた時の苦しみは、たとえ、地獄の苦しみであっても、これ以上ではなかろうと思ったものです。それなのに、人が水を見くびるのは、まだ、水が人を殺すさまを知らないのです」と申していた。

 ある人が、「もろもろの行いは、皆、自分の心によるものだ。自ら勤行し、自ら悟らねばならない。他人にはうかがい知れぬことだ。すべて、過去に積んだ善悪も、その結果たる未来の幸不幸も、御仏の加護が衰え、心の持ち方を容易にするなら、自然と、他人にもわかるものだ。せいぜい、一事を実現するのが関の山だ。もし、人が仏道修行のために山林にはいったり、ひとりで広野の中にいるような時にも、なお身の不安を恐れ、命を惜しむ心があるなら、必ずしも、仏がご加護くださるとは期待できない。垣や壁で囲い、遁世の用意をして、自分の身体を守り、病いをいやして、そのうえで、徐々に信仰が深まるのを願うべきである。もしも、すべて仏に差し上げた身だと思って、虎や狼がやって来て害を加えることがあっても、とりたててそれを恐れることもなく、食い物がなくなり、飢え死んでも、それが悲しくないようになれば、仏も必ず、その身を保護してくださるし、菩薩も聖衆も現れて、守ってくださるだろう。すべての悪鬼も毒獣も修行を妨げるきっかけが得られない。盗人は良心を起こして立ち去り、病は仏の力によっていえるだろう。これを理解せず、心はあさはかなまま、仏の加護に頼るのは危ういことだ」と語った。この意見は、そのとおりだと私も思う。

 

 「注釈」(三木紀人『現代語訳 方丈記 発心集 歎異抄』の注釈を引用)

「蓮花城」─『日本紀略』安元二年(一一七六)八月十五日条に、「上人十一人入水

      す。其の中に蓮花浄上人と称する者、発起を為す」とある。その他には所

      伝未詳。ちなみに、焼身往生のほとんどが、月の15日に行われていたそ

      うです。蓮花浄上人は入水でしたが、『日本紀略』によれば8月15日に

      実行しているので、異相往生は15日に実行するという慣習があったのか

      もしれません。月の15日は、戒律を守り、各々が罪を告白し、懺悔する

      布薩の日に当たるとともに、阿弥陀の縁日でもあります。このような日で

      あれば、必ず往生できるという強い信仰が普及していたものと考えられま

      す(根井浄「平安時代焼身往生について」『印度學佛教學研究』27─

      2、1979、https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/27/2/27_2_634/_article/-char/ja/)。

「登蓮」─底本の「卜蓮」を神宮文庫本により改める。中古六歌仙の一人、歌林苑会衆

     として知られる遁世者。

 

*今回は『発心集』からの引用です。前回の事例は入水往生未遂でした。ですが、今回は入水自殺を遂行したのに、極楽に行けず死霊となった事例です。

 主人公の蓮花城は、老化と死期が近づいたことを原因に、正念を維持したまま臨終を迎えるという目的を実現するために、入水自殺という手段を選択しました。

 これに対し、親しく交遊してきた登蓮法師は、入水など、愚か者の行為であり、少しでも長生きして、念仏の功徳を積むようにと諌めています。同じ仏教者でありながら、二人の考えは対極にありますが、結局登蓮法師は蓮花城を止めることができず、入水の準備を手伝うことにしたのです。

 蓮花城の入水は、滞りなく遂行されたように見えました。ところが、そうではなかったのです。後日、死霊となった蓮花城は登蓮法師にとり憑き、入水時の状況を語ります。蓮花城は死の間際に入水を決意したことを後悔してしまい、その思いのまま急き立てられて入水してしまったため、死霊の姿で現れた、と言うのです。

 この後、蓮花城はどうなったのか。死後の世界で救われたのか、救われなかったのかはわかりません。ただこの文章では、安易に入水を遂げることを、強く戒めていることだけはわかります。次回でも紹介することになりますが、名誉欲・優越感・嫉妬心によって、焼身自殺や入水をすることは愚かであり、往生は叶わないと考えられていたようです。つまり、異相往生(入水・焼身・断食・埋身等の方法によって往生を遂げること)のすべてが高く評価されていたわけではなく、正念を失った異相往生は戒められていたのです。

自死の中世史 25 ─中世の説話4─

「空入水したる僧の事」『宇治拾遺物語』巻第十一・第九話

                     (『日本古典文学全集』二八、小学館

 

 これも今は昔、桂川に身投げんずる聖とて、まづ祇陀林寺にして百日懺法行ひければ、近き遠き者ども、道もさりあへず、拝み行きちがふ女房車など隙なし。

 見れば、三十余ばかりなる僧の細やかなる、目をも人に見合せず、ねぶり目にて、時々阿弥陀仏を申す。そのはざまは、唇ばかりはたらくは、念仏なめりと見ゆ。また時々、そこに息を放つやうにして、集ひたる者どもの顔を見わたせば、その目に見合せんと集ひたる者どもの顔を見わたせば、その目に見合せんと集ひたる者ども、こち押し、あち押し、ひしめき合ひたり。

 さて、すでにその日のつとめては、堂へ入りて、先にさし入たる僧ども、多く歩み続きたり。尻に雑役車に、この僧は紙の衣、袈裟など着て乗りたり。何といふにか、唇はたらく。人に目も見合せずして、時々大息をぞ放つ。行く道に立ち並みたる見物の者ども、打撒を霰の降るやうに撒き散す。聖、「いかに。かく目鼻に入る、堪へ難し。志あらば、紙袋などに入れて、我が居たりつる所へ送れ」と時々いふ。これを無下の者は、手を摺りて拝む。少し心ある者は、「などかうは、この聖はいふぞ。只今水に入りなんずるに、『ぎんだりへやれ。目鼻に入る、堪へ難し』などいふこそ怪しけれ」など、ささめく者もあり。

 さて、やりもて行きて、七条の末にやり出したれば、京よりはまさりて、入水の聖拝まんとて、川原の石よりも多く、人集ひたり。川ばたへ車やり寄せて立てれば、聖、「只今は何時ぞ」といふ。供なる僧ども、「申の下りになり候ひにたり」といふ。「往生の刻限にはまだしかんなるは。今少し暮せ」といふ。待ちかねて、遠くより来たる者は帰りなどして、川原人少なになりぬ。これを見果てんと思たる者は、なほ立てり。それが中に僧のあるが、「往生には剋限やはさだむべき。心得ぬ事かな」といふ。

 とかくいふ程に、この聖褌にて、西に向ひて、川にざぶりと入る程に、舟ばたなる縄に足をかけて、づぶりとも入らで、ひしめく程に、弟子の聖はづしたれば、さかさまに入りて、ごぶごぶとするを、男の川へおり下りて、「よく見ん」とて立てるが、この聖の手を取りて、引き上げたれば、左右の手して顔払ひて、くくみたる水を吐き捨てて、この引き上げたる男に向ひて、手を摺りて、「広大の御恩蒙り候ひぬ。この御恩は極楽にて申し候はん」といひて、陸へ走り上るを、そこら集りたる者ども、童部、川原の石を取りて、まきかくるやうに打つ。裸なる法師の、川原下りに走るを、集ひたる者ども、受け取り受け取り打ちければ、頭打ち破られにけり。

 この法師にやありけん。大和より瓜を人のもとへやりける文の上書に、前の入水の上人と書きたりけるとか。

 

 「解釈」

 これも今は昔のこと、桂川に身を投げようとする聖だといって、まず祇陀林寺で百日間の法華懺法を行う者がいたので、遠近の人たちが道も避けられないほどに集まり、また拝みに行き来する女房車などすきまもないほどであった。

 見ると、三十余りほどの僧で、ほっそりとしており、目をも人に見合わせず、つむったような目で、時々阿弥陀仏を唱えている。その間には、唇だけが動いているのは、念仏なのだろうと見える。また時々、ふっと息を吐くようにして、集まった者たちの顔を見渡すと、その目と視線を合わせようと、集まった者たちがこち押しあち押しして、ひしめきあっていた。

 そうして、いよいよその日の早朝には堂へ入って、先に入っていた僧たちが大勢それに続いた。後ろの雑役車に、この僧は紙の衣や袈裟などを着て乗っている。何と言っているのか、唇が動いている。人に目を見合わせずに、時々大きな息をついている。行く道に立ち並んでいる見物の者たちは、散米をあられの降るようにまき散らす。すると聖は、「なんと皆の衆、こんなに目鼻に入って、たまらない。お気持ちがあるなら、紙袋などに入れて、わしのもといた寺へ送ってくれ」と、時々言う。これを下賤の者は、手をすって拝む。少し分別のある者は、「なぜこんなことをこの聖は言うのか。いまにも入水しようとするのに、『祇陀林寺へやれ、目鼻に入ってたまらない』などと言うのはどうもおかしなことだ」などとささやく者もいる。

 そうして、牛車をだんだん進めて行って、七条大路の果てまで行くと、京の町内以上に、入水の聖を拝もうとして、川原の石よりも多くの人が集まっている。川のほとりに車を進め寄せて停めると、聖は、「ただ今は何時か」と言う。供の僧たちが、「四時過ぎになりました」と言う。「往生の時刻にはまだ早いわ。もう少し暮れるまで待て」と言う。待ちかねて、遠くから来た者は帰ったりなどして、川原は人少なになった。これを最後まで見届けようと思っている者はまだ立っている。その中に僧がいたが、「往生には時刻を定めるべきだろうか。おかしなことよ」と言う。

 かれこれするうちに、この聖はふんどし一つになり、西に向かって川にざんぶと入ったが、舟ばたにある縄に足をひっかけて、どんぶりとも入らずにもがいているので、弟子の僧がはずしてやると、まっさかさまに入ってごぼごぼとしていた。そこで、川の中へおりて行って、「よくみよう」として立っていた男が、この聖の手をとって引き上げた。すると、聖は左右の手で顔の水をはらい、口に含んだ水を吐き捨てて、この引き上げた男に向かって手をすり合わせ、「なんとも大変なご恩をいただきました。この御恩はいずれ極楽でお返し申しましょう」と言って陸の方へ走り上った。そこで、大勢集まっていた者たちや子供らが、川原の石を取って、撒きかけるように投げつけた。裸の法師が川原を下って走るのを、集まっていた者たちが、引き継ぎ引き継ぎ打ったので、頭を打ち割られてしまった。

 この法師であったろうか、大和から瓜をある人のもとへ送った手紙の上書きに、「前の入水の上人」と書いたとかいうことである。

 

 「注釈」(『日本古典文学全集』の頭注を引用)

「祇陀林寺」─京都中御門京極の東、現在の上京区寺町下御霊社の北方にあった寺院。

       慈恵大師良源の弟子、仁康上人が長保二(一〇〇〇)年四月、その父河

       原左大臣源融の河原院にあった丈六釈迦像を移して創建。承久元(一二

       一九)年焼亡(百錬抄)。延元元(一三三六)年兵乱後滅びたらしい。

「百日懺法」─百日間法華懺法(『法華経』を読誦して、罪障を懺悔する法)を修する

       こと。

 

*今回は、『宇治拾遺物語』の事例を紹介します。これは前3回のパターンとは異なり、入水往生未遂の事例になります。

 主人公の聖が入水をしようとした原因は語られていませんが、阿弥陀仏を念じていることから、西方極楽浄土への往生を目的とした入水未遂だったことがわかります。

 入水当日、聖は見物人から散米を浴びせられるのですが、それが目鼻に入ってたまらないとか、その散米を祇陀林寺へ送ってくれと言うなど、妄念がわき起こっていることがわかります。そして、やっと入水を遂げようとして桂川に飛び込んだのですが、結局溺れているところを見物人に助けられてしまいます。聖はこの見物人に感謝して、その場から逃げ去ろうとしたのですが、見物人から石を投げつけられた挙句、殴られて頭を打ち割られた、というのが事の顛末です。

 この事例から分かるように、入水往生はそう簡単にできる行為ではなかったようです。いざとなると妄念がわき起こり、入水の苦しみから逃れたいと思うようです。

 それにしても恐ろしいのが、入水往生を見届けるためにやって来た見物人たちです。おそらく彼らは、入水往生の現場に立ち会うことで聖と結縁し、死後自分たちも極楽に往生できるように導いてもらおうと考えたのでしょう。だからこそ、入水を中止して逃げ出した聖に対して腹を立て、暴行に及んだのだと考えられます。入水往生では、観衆のプレッシャーにも動じない正念が必要だということがわかります。

木村文書1

解題

 木村氏は戸坂村(広島市戸坂町)狐爪木(くるめぎ)神社の神主職を勤めた家である。

 

 

    一 大内義隆下文

 

         (木村)

  補下  大宮司藤原正廉

       (マ丶)

    安藝國佐東郡狐爪木八幡社神料田畠壹町玖段余地事

 右件料田事、全知行、不夷礼奠、可國家安全萬民快楽、故以下、

        (1542)

       天文十一年八月廿三日

  大宰大貳多々良朝臣(花押)

 

 「書き下し文」

  補し下す 大宮司藤原正廉

    安芸国佐東郡狐爪木八幡社神料田畠壹町玖段余りの地の事

 右件の料田の事、知行を全うし、礼奠を陵夷せず、国家安全万民快楽を祈り奉るべし、故に以て下す、

 

 「解釈」

  補任し下知する。大宮司藤原正廉。

    安芸国佐東郡狐爪木八幡神社の神料田畠一町九段余りの事。

 右の料田のこと。支配を全うし、神へのお供えを廃れさせず、国家安全・万民快楽を祈り申し上げよ。特に下知する。

 

 

 「注釈」

「狐爪木神社」─狐瓜木神社。現東区戸坂くるめ木一丁目。古代山陽道太田川を渡る

        千足のすぐ南の地にある標高二〇メートルほどの独立丘上に鎮座。祭

        神は仲哀天皇神功皇后応神天皇。相殿に風伯神・言代主神を祀

        る。旧村社。もと「狐爪木神社」と書いた。祭神の一つ風伯神は、

        「三代実録」元慶七年(八八三)十二月二十八日条に「安芸国正六位

        上風伯神」が従五位下を授けられたことがみえ、「安芸国神名帳」に

        も、安南郡に「風伯明神」があげられている。当社がいつ頃から狐爪

        木神社と称されるようになったかは不明であるが、最も古い史料は天

        文十一年(一五四二)八月二十八日付の大内義隆下文(木村文書)で

        「安芸国佐東郡狐爪木八幡社神料田畠壱町玖段余地事」とある。当時

        安南郡に属したこの地を佐東郡としているのは、牛田・矢賀などが佐

        東郡とされていることがあったのと同様、戦国期における佐東・安南

        両郡界が明確でなかったことを物語る(『広島県の地名』平凡社)。

千葉文書9(完)

    九 毛利輝元書状(折紙)

 

 爲御音信ねり酒両樽并蚫一折被送越候、懇志之段祝着候、則令賞翫

 恐入候、いつれも可申候、謹言、

                (輝元)

       正月廿九日    (花押)

         神保源右衛門尉殿

 

 「書き下し文」

 御音信としてねり酒両樽并に蚫一折を送り越され候ふ、懇志の段祝着に候ふ、則ち

 賞翫せしめ候ひ恐れ入り候ふ、いづれも申すべく候ふ、謹言、

 

 「解釈」

 ご進物として練酒二樽と鮑一箱を送ってくださいました。親切なお気持ちに満足しております。すぐに味わいまして、恐縮しております。いずれの者かがお礼を申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「ねり酒」─練酒・煉酒。①白酒の一種。蒸した餅米を酒とかきまぜ、石臼でひいて漉

      したもの。製法は現在とほとんど同じであるが、当時はみりんが一般にな

      かったため酒を用いたので現在のように甘口のものではない。その色が練

      絹のようだというのでこの名がつけられ、博多の練酒は特に有名であっ

      た。練貫酒(ねりぬきざけ)。練貫(『日本国語大辞典』)。