周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

田所文書1 その3

    一 安藝国衙領注進状 その3

 

      [            [

       有富三百歩        爲光一反大

       友重三反小        近道一反大

       有福七反六十歩      弥冨一反大

       清重小          清末一反大

       貞安一反小        爲員六十歩

       近光大

     往生院免一丁

    八幡宮免四丁四反

         (一反斗ヵ)

     御供田二丁⬜︎⬜︎⬜︎

      久武一丁          宗門三反

      重門一反          慶淂三反

      末宗半           末員一反

      若松二反

     上分田二反          慶淂

     新宮免五反

    [              [

    諸社免四丁五反三百歩

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

                        (光)

    惣社免一丁五反         神主 兼⬜︎

     御神楽免一丁         弥冨

     仁王講免二反         明円 今上福

     御鏡田三反          一樂

    熊野山御油田六反小

          (半)

    角振社免三反斗         兼守

          (斗ヵ)

     御供田一反⬜︎         ⬜︎⬜︎

          (反)

     仁王講免二⬜︎         慶眞

    安木都彦社免一丁

    椙樌社免二反

    日吉大宮免一反

    男長社免二反

         (三反)

    府山王免⬜︎⬜︎

     道祖神ヵ)

    辻⬜︎⬜︎⬜︎免二反

    戸坂道祖神免一反

   府諸寺大般若經一丁五反      有光

   諸寺免五丁四反

    五ヶ寺免二丁一反

     下地一丁二反

      光永小           末延二反

      國守六十歩         國元小

      今冨一反          中太六十歩

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

      有冨五反          乃力一反小

      有福一反小         内侍小

     例免九反

      久武六反          包里三反

    三昧堂一丁一反

        (反ヵ)

     覺源四⬜︎          [  ]四反

      (三ヵ)

     ⬜︎⬜︎⬜︎反

     実相寺免一丁

     常行三昧免二反        長円 今上福

     願福寺免一丁

      堂免七反          塔免三反

                (半)

    御館長日御讀經免一丁四反斗

     嘉憲六反           鏡眞六反

         (半) (者)

     覺源二反斗 今⬜︎⬜︎円

    内侍免一丁一反百八十歩

     正内侍免五反         凡子二反

         (半)

     有光一反斗          今子三反

    舞人免一丁二反

     兼弘五反           高宗二反

     員家五反

     (従免ヵ)

    倍⬜︎⬜︎[    ]

    清[   ]子四反       宗國二反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「往生院」─未詳。

「上分田」─「上分」=もとは神仏に上納する貢進物のこと。上分を「ハツオ(初

      穂)」と称することがある。土地からの貢納物は地利上分と称し、商業・

      交易に伴う収益の一部を上納するときは交易上分、津之上分などといっ

      た。中世末期には年貢を意味する言葉となる(『古文書古記録語辞

      典』)。

「新宮」─熊野神社か。以下、「安木都彦社」の注釈参照。

「御神楽免」─神楽の費用を捻出する免田か。

「御鏡田」─鏡餅を作るための米を納める田地か。

「安木都彦社」─安佐南区祇園町南下安。安芸津彦神社はもと官幣社といい、「芸藩通

        志」に「厳島兼帯七社の一つなり、祭神十六座ありといふ、官幣の号

        を按ずるに、昔朝廷より毎歳厳島社に奉幣あり、その幣帛を当社より

        仕出し、又其旧幣を当社に納るよりかく称るならんか、今も厳島社、

        二月・十一月の祭に当社より弊紙・散米・敷布を供す」と記される。

        鎌倉中期と推定される安芸国衙領注進状(田所文書)に見える「一宮

        二季御祭御弊紙免」は、官幣社に宛行われたものと考えられる。のち

        に安芸津彦神社(安芸国衙領注進状には「安木都彦社とある)を合

        し、村内青原から現在地へ移り、明治五年(一八七二)安芸津彦神社

        と改称。熊野神社は新宮社とも称し、武田家が火防神として勧請した

        という(「南下安村」『広島県の地名』)。

「椙樌社」─現山田二丁目付近に「杉ヶ森」の地名が残っている(「芸藩通志」所載絵

      図)(「府中町」『広島県の地名』)。

「男長社」─「尾長社」と漢字をあてるか。「尾長村」は東区尾長町広島城下の村

      で、新開組に属した。古川村の北に位置する。東は安芸郡矢賀村。標高1

      80メートル前後の東西に長い尾長山(東部と高丸山、西部を二葉山とい

      う)の南麓に開けた低地で、南を江戸時代初期まで古川(太田川の分流)

      が流れていた(『広島県の地名』)。

「辻道祖神」─辻道祖神は「安芸国神名帳」の道通(みちとおり)明神で現本町三丁目

       にある導神社(通称「辻のいぼ落し」であろう(「府中町」『広島県

       地名』)。

「戸坂道祖神」─東区戸坂町。鎌倉中期と推定される安芸国衙領注進状(田所文書)に

        は「戸坂道祖神免一反」と見え、かつて大上字中の畑(現戸坂大上

        丁目)にあった幸之神社(現在三宅神社に合祀)は「戸坂道祖神」の

        後進と考えられる(「戸坂村」『広島県の地名』)。

実相寺」─安佐北区白木町小越村。市川村の三篠川を境に東対岸に位置し、南はその

      支流を挟んで秋山村に接する。高田郡に属し、古くは秋山村と一村であっ

      たともいう。「芸藩通志」に「広三十町、表十五町、東北は山高く、西南

      は平田にて、川を界す、民産、工商あり」とある。承安三年(1173)

      二月日付の安芸国司庁宣(厳島文書御判物帖)に「三田郷内尾越村為伊都

      岐島御領、知行民部大夫景弘事」とあり、続けて「右件三田郷内尾越村

      者、任文書相伝之理、為神主景弘朝臣地頭寄進伊都岐島御領、於官物者、

      弁済国庫、以万雑公事代、可令勤仕神役之状、所宣如件」とあり、他の三

      田郷内の村々と同様、平安時代末期には厳島神社領として万雑公事代を神

      社に納めることになっている。一方で、鎌倉時代中期のものと思われる安

      芸国衙領注進状(田所文書)には「小越村二丁一反斗」とあり、「除不輸

      免二丁一反斗」として「実相寺馬上免一反斗、同例免五反、鎌倉寺免五

      反、総社仁王講免一丁」と記される。なおこの頃小越村の地は厳島神社

      三田新庄にも属したらしく、同庄の上村と下村の村境の和与を記した永仁

      六年(1298)五月日付の藤原氏代使源光氏藤原親教和与状(永井文

      書)に「小押越狩倉内目籠大丸小丸可被付上村」とある。この「小押越」

      が小越村のことかと思われるが、この和与状に記される地名を現在地に比

      定すると、三田新庄上村はおおよそ現白木町秋山地区、下村が原三田地区

      と考えられる。(中略)居拝見にある中山神社は、「国郡志下調書出帳」

      に中山八幡社と記され、勧請年月は不詳であるが、寛永七年(1630)

      再建の棟札があると記される。同書出帳は他に吉井権現社・山根荒神社を

      記し、実相寺という地名が残り、観音堂一宇があると記すが、これは前記

      国衙領注進状に見える実相寺の跡地と思われる(「小越村」『広島県の地

      名』)。

「常行三昧」─仏語。摩訶止観の四種三昧の一つ。天台宗で、90日間を一期として、

       その間、飲食、大小便、乞食などのほかは堂内にあって、常に阿彌陀仏

       の像のまわりを歩きつつ、その名を唱え心に彌陀を念ずる三昧。常行

       (『日本国語大辞典』)。

「願福寺」─未詳。以下の「堂免七反」と「塔免三反」の地積の合計は「一丁」なの

      で、堂と塔は願福寺の所属だと考えられます。

田所文書1 その2

    一 安藝国衙領注進状 その2

 

      助門一反小

     人長免一丁           助俊

     主典免四反           宗俊

      (官)

     代⬜︎免六段

      (助)

      ⬜︎次三反           末弘三反

     勅使税所勘料田一丁       員家

     公廨田六丁七反六十歩

      弥富一反六十歩        貞重一反

      兼氏二丁           員家一丁

                     (利)

     [    ]          ⬜︎兼[

      高宗五反           保員⬜︎反

      (兼)

      ⬜︎重四反(割書)「今者 道祖房丸」

     府木屋免六反小

     御厩舎人近守免五反

     國役人給免七丁五反

      紙免一丁 守護押領       有富

      温屋免一丁

       氏吉三反小          爲冨三反小

       光正三反小

      馬木炭免二丁五反

                    (半)

      例代段⬜︎    二丁三反斗

  安南郡

   温科村六十三町八反小

    除不輸免五十四丁七反六十歩

     馬上免四丁九反

      村八幡宮免三反

      府守免二反

      石屋寺免一丁四反

       本免一丁三反     下符代佛供田一反大畠二反

      中山寺免二丁

      熊野御油免一丁

     一御社免十一町八段

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)

      國作所三丁二反 地頭押領

            (半)

       御瓦田九反斗

             (半)

        八斗代四反斗      四斗代四反

        六斗代一反

       松方佃三反

              (半)

       成元一丁九反斗      例代

            (半)

      恒武二反斗         例代

      迩保嶋四丁八反小 地頭押領  同

      弥冨二反三百歩 地頭押領   官米五斗代

      爲冨七反[  ]       例代

     [              [

       延行一丁七反        爲守七反

                (歩)

      御讀經免八丁一反三百⬜︎

       西入二丁三反       弁西大

       幸印一丁         嚴印一丁九反小

       覺源三反三百歩      有暹一丁

       明重一丁         修正大餠田五反

           (肴ヵ)

      沼田郡代酒希田一丁

・・・・・・・造酒免二反六十歩・・・・・有福・・(紙継目裏花押)

     八幡宮免三丁七反

      御供田一丁七反

           (半)

       包恒三反斗        武宗三反

       光利一反         宗時二反

       重門[  ]

      大般若經免一丁八反

                    (弁)

       幸舜五反         ⬜︎⬜︎三反

       爲光一丁

      仁王講免二反        幸舜

     諸社免五丁七反六十歩

      惣社免二丁七反

      法花經免九反

       幸印二反         幸舜七反

      仁王講免一丁八反

       榮西一反         明円五反

       幸印二反         信覺一丁

             (半)

     角振社免一丁三反斗

     [ 

      宮丸五反 元黒丸        末友三反 鶴王内侍

      安弘三反          有光二反

 

 

     御読經免五丁八反三百歩

      慶暹一丁          定円五反

      仁増三反          嚴印

      忠兼一丁          覺源六反六十歩

      幸印二反          良慶一丁

      朝覺二反          良賢二反

       (仕八ヵ)

      承⬜︎⬜︎反          (經)

       良[           ⬜︎法五反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)

   つづく

 

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「人長」─宮中の御神楽儀、石清水など大社での神楽の儀式で株を演奏する神楽人の

     長。地下楽人では多家、堂上人では源雅信藤原頼宗・山科実教の家筋の者

     が担当した(『古文書古記録語辞典』)。

「主典」─令制四等官の最下位。上に長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)が

     ある。文案を奏し、公文書の抄録・読申をつかさどる。官司によって字が異

     なる。そうかん。しゅてん(『日本国語大辞典』)。

「勅使税所勘料田」─ここでの「勅使」の意味はわかりません。「税所」は正税・官物

          の収納・勘定を行う国衙の所(部署)。重要な職であったから、

          税所を統括する在庁官人には有力者が多かった(『古文書古記録

          語辞典』)。「勘料」は、中世、荘園・公領において、調査の結

          果免税地とされたときに支払うもの(『古文書古記録語辞

          典』)。ここでは、勘料を支払うことで免田となった土地と考え

          ておきます。

「公廨田」─くげでん・くがいでん。①太宰府官人および国司に支給された職田、不輸

      租田。②天平宝字元年(七五七)以後、諸司公廨田が設置され、これが各

      官衙の独自の財源となり官衙領化した(『古文書古記録語辞典』)。

「木屋」─貯木場。中世山城国木津の木屋は有名である。管理者として木屋預がおり、

     木守・寄人が田畠地子と雑公事を免除されて木屋役をつとめ、材木の搬出

     入・保管業務を行った(『古文書古記録語辞典』)。

「温科村」─東区安芸町温品。広島から東北方の高宮郡小河原村(現安佐北区)に至る

      谷の入口にあたる。安芸郡に属し、南は矢賀村、府中村(現安芸郡府中

      町)、西は稜線を境にして戸坂村・中山村にそれぞれ接する。北は蝦蟇ヶ

      峠を越えて細長い谷が矢口村(現安佐北区)に通じ、峠以北の谷も当村域

      に属した。村内を東北から西南へ温品川が貫流し、東には高尾山(42

      4・5メートル)がそびえる。「芸藩通志」に「昔は此辺まで入海なりし

      よし、金碇とよぶ地、往年鉄錨を掘出せしといふ、其地一段許は、今に深

      泥幾丈を知らず、耕種牛を入ことを得ずといふ、また舟隠とよぶ地もあ

      り、古の舟入なりしにや」とあり、府中村に近い字長伝寺には、金碇神社

      が鎮座する。

      建久九年(1198)正月日付平兼資解(「芸藩通志」所収田所文書)に

      「一所温品科方冬原」とあり、この土地の四至は「東限温科河 西依請

      浜 北限弥吉開発田 南限温科川依請」と記す。平安・鎌倉時代の温科村

      には六三町八反一二〇歩の国衙領があり、うち五四町七反余が不輸免で

      (年欠「安芸国衙領注進状」田所文書)、厳島社以下諸社寺の免田や、在

      庁官人田所氏の私領(一〇町余)などがあった(正応二年正月二十三日付

      「沙弥某譲状」同文書)。また平安末期に後三条天皇が設定した安芸国

      勅使田に含まれる部分もあったらしく、弘長三年(1263)安芸国新勅

      使田損得検注馬上帳案(東寺百合文書)などにある。「久曾田三反小」は

      寛永十五年(1638)温品村地詰帳(広島市公文書館蔵)に見える字名

      「くそた」にあたる。

      承久三年(1221)関東武士平(金子)慈蓮が温科村地頭職に任じられ

      た(同年十一月三日付「平盛忠譲状写」)以上毛利家文書)。金子氏は鎌

      倉時代は地頭代を派遣していたらしいが、(健治元年九月十日付「六波羅

      御教書」藤田精一氏旧蔵)、南北朝時代になると自ら温科村で押領を続け

      (嘉慶元年十月十一日付「室町将軍家御教書」東寺百合文書)、室町時代

      には温科氏を名乗るようになった。村の中央部温品川左岸の独立丘にある

      永町山城が温科氏の拠城といわれる(芸藩通志)。同氏は明応八年(14

      99)主君武田氏に背いて敗れた(同年八月六日付「室町幕府奉行人奉

      書」毛利家文書)。大永五年(1525)毛利元就は尼子・武田方から大

      内方に復帰、武田氏の治下にあった「温科三百貫」などを大内氏から与え

      られたが(年月日欠「毛利元就知行注文案」同文書)、武田氏滅亡後は大

      内氏領になったらしい(天文十年七月二十三日付「大内義隆預ヶ状写」同

      文書)。しかし天文二十一年(1552)元就は大内義隆を倒した陶晴賢

      から温科などの知行を認められた(同年二月二日付「毛利元就同隆元連署

      知行注文」同文書)。以後毛利氏は熊谷信直に温科半分を与えているのを

      はじめ(年未詳九月二十八日付「熊谷信直書状案」熊谷毛文書)、家臣に

      給地を分与し、村役人として散使を置いた(「毛利氏八箇国時代分限帳」

      山口県文書館蔵)(『広島県の地名』)。

「不輸免」─「不輸・不入」。不輸とは、国から賦課される税目の一部が太政官あるい

      は国衙によって免除されること、不入とは国使・国検田使等の立入りを拒

      否すること。一般に、不輸・不入の特権を獲得することによって荘園の成

      立とする見解があったが、正確ではない(『古文書古記録語辞典』)。

「馬上免」─馬上検田免除の特権の認められた土地。屋敷・堀ノ内・新開発地・仏神

      田・荘官給田・佃などが免除の対象となる(『古文書古記録語辞典』)。

「本免」─本免田とも。荘園成立時の免田部分。以後に課役免除となった部分は新免田

     である。

「下符」─徴符。徴下符、下符ともいう。国衙領・荘園で、百姓に官物・公事の納入を

     命ずるために徴収額を記載した文書。国衙から発行された徴符には国司の印

     を捺した赤符と、印のない白符の二種類があった。徴符を以て郡司・荘官

     官物・公事を徴収した。百姓が納入・弁済すると返抄(請取状)が交付され

     た(『古文書古記録語辞典』)。

中山寺」─未詳。

「熊野御油」─国衙領に勧請された熊野社で使用される油代の費用を捻出する土地か。

「國作所」─未詳。国の山作所のことか。山作所は、奈良時代寺院に属して造営のため

      の木材をきりだし、製材する作業事務所のこと(『日本国語大辞典』)。

「御瓦田」─未詳。瓦生産の費用を捻出するため、あるいは瓦職人の給田として設定さ

      れた田か。

「佃」─荘園・公領における領主・預所・地頭・下司・郡司・郷司の直営地。正作、用

    作、手作、門田などともいう。わずかな種子・営料を支給するが、農民の無償

    労働によって形成され、殆ど全収穫を領主が取る。平安末期に、名にほぼ均等

    に佃を割りつけ、妙手の責任で経営させることが起こり、時代が下るとともに

    佃の平田化が進み、通常の名田と同様に斗代を付し、佃としての特質は失われ

    る(『古文書古記録語辞典』)。

「迩保嶋」─仁保島。南区仁保。広島湾奥東部、府中村(現安芸郡府中町)の西南に浮

      かぶ仁保島を中心とし、猿猴川を隔てて東の向灘浦と、南方海上の金輪

      島・宇品島似島・峠島・珈玖摩島(弁天島)・小珈玖摩島(小弁天島

      を村域とするが、各島とも平地は乏しい。このうち仁保島と向灘は近世

      に、宇品島は明治二十二年(1889)の宇品築港でそれぞれ陸続きとな

      った。安芸郡に属した。「芸藩通志」は、「にほ」を鳰の義とするが、お

      そらく当島の鎮守神邇保姫社に由来する地名であろう。鎌倉中期ごろの安

      芸国衙領注進状(田所文書)に「迩保嶋四丁八反小地頭押領」とみえる。

      室町時代には出張城(跡地は現府中町)に拠った武田氏家臣白石の一族が

      仁保島に進出し、黄金山(212・2メートル)頂に築いた仁保城を拠点

      にして周辺海域を地下においた。その後、天正十九年(1591)に三浦

      元忠が仁保島の領主となっていて、検地の結果、当島は一三三石八斗六升

      とされた(天正十九年十一月九日付「毛利氏年寄連署知行注文」三浦家文

      書)(『広島県の地名』)。

「修正大餅田」─「修正会」。仏語。毎年正月諸宗の寺院で修する年始の法会。その年

        の天下平安、玉体安穏などを祈って読経する(『日本国語大辞

        典』)。中世では修正会を営むための経費は、在地から公事として壇

        供餅が寺院に納入され、それが法会に供えられた。法会が終了する

        と、壇供餅は花餅として参列した僧侶や承仕や猿楽・寺人に配分され

        た(井原今朝男『中世寺院と民衆』臨川書店、2004)。これは壇

        供餅の進上を公事として賦課された田地と考えられます。

沼田郡代酒肴田」─未詳。「郡代」は、室町・戦国時代、もと守護代といわれた、一

          郡・二郡を支配した役職。警備・租税のことを掌る。郡奉行、大

          代官などとも称した。江戸時代には勘定奉行配下似合って、幕府

          直轄地の支配に当たった職。「酒肴(料)」は、室町時代、荘園

          の年貢算用状の「国下用」の項目に見える費目。荘園領主から守

          護・守護代官・守護使に与えた一種の賄賂。一献料、秘計、礼物

          も同性質のもの(『古文書古記録語辞典』)。この史料は鎌倉時

          代中期のものと考えられています。鎌倉時代に「郡代」という役

          職があったのかどうかわかりません。

「造酒免」─未詳。酒造りの費用を捻出するために免田として設定した田地か。あるい

      は、造酒司の便補保として設定された田地か。

八幡宮免」─松崎八幡宮安芸郡府中町宮の町5丁目。石清水八幡宮末社(「安芸

       国」『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000)。

「大般若經免田」─大般若経を読誦する法会の費用を捻出するために設定された免田。

「仁王講免」─仁王経を読誦・講讃する法会を仁王会・仁王講といい、天武五年(67

       6)十一月には諸国で営まれていた。仁王経は、仁王護国般若波羅蜜多

       経のことで御斎会や最勝講の金光明最勝王経、法華経と並んで護国三部

       経と言われる。天皇が主催し国家の命令によって実施した仁王会・仁王

       講には三つの種類があった。第一は天皇の即位に際して一大一度の大仁

       王会(践祚仁王会)。第二は、季仁王会といわれて春・秋に行われる年

       中行事の仁王会。第三が天変地異や兵乱、外寇、虫害除去、地震、旱

       魃・疫病などの国家的危機に際して宣旨などで執行が命じられた臨時仁

       王会(井原今朝男『中世寺院と民衆』臨川書店、2004)。

惣社免」─安芸郡府中町本町3丁目に総社跡とある。明治七年に創設された多家神社

      への合祀を機に廃社となった(「安芸国」『中世諸国一宮制の基礎的研

      究』岩田書院、2000)。

「法華經免」─法華経を読誦する法会の費用を捻出するために設定された免田。

「角振社免」─安芸国神名帳に角振隼総(つのふりはやぶさ)明神とみえ、天文年中に

       破壊され、前記注進状にみえる末社の山王社(現本町三丁目の三翁社)

       に合祀したという(芸藩通志)(「府中町」『広島県の地名』)。

田所文書1 その1

解題

 田所氏は、本姓佐伯氏で平安時代後期から安芸国衙在庁官人として田所文書執行職を世襲した家である。一号文書は鎌倉中期ころの安芸国衙領の状態をしめしている。府中を中心とする郡・郷・村・名がいずれも並列的に記載され、おのおのの田積をあげ、応輸田と不輸田に分け、後者は各免田ごとに記している。

 二号文書はその前半には船所惣税所得分以下田所氏の相伝する得分、府中・船越村・原郷・三田郷その他所々に散在する数十町の田畠が書き上げられ、後半には同氏の所従が列挙されたものであり、在庁官人田所氏の財産を知ることができる。異筆ながら正応二年(一二八九)の年紀があるが、その内容は数十年さかのぼった時期の事情をも示している。

 なお、『楓軒文書纂』五十四(国立公文書館内閣文庫蔵)に、天明五年(一七八五)における田所氏所蔵の文書目録が収められているので、以下その全文を掲げる。(以下に目録が続きますが、省略しました)

 

 

 

    一 安藝国衙領注進状 その1

 

 「                  ⬜︎乗五反 今者良賢

                    (暹ヵ)

 「                  ⬜︎⬜︎五反 今者寛乗

        ]           宗海一丁

      ⬜︎立免           信家

     [  ]三反六十歩

     村十丁一反六十歩

                      (抹消)

                      六反大

        時宗三反[  ]    祝師二反

        中内三反        宗迫一反大

    (最勝講ヵ)

    [   ]免五反         道寂

     感神院社免三反

                    久家一反

     石屋寺免一丁

     ⬜︎人給免二丁一反

         ]          ⬜︎利

      ]免五反          如願跡 今者覺源

          ]        [   ]

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)

      員恒二反 今助員       友重二反

      宗員二反 今有⬜︎       貞安一反

     此物免一丁小

      末延七反          貞弘三反小

     上世乃正木[  ]小

     [              貞弘三反小

      仁王講免一丁[       羕兼

      修理免三反

     日吉大宮免五反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

      氏吉三反          末弘二反

     水別社仁王講免三段      有冨

     熊野上分田三反大       公俊

     府白山免五反         氏吉

    諸寺免一丁三反

     三昧堂免二反

     安養寺七反

     五ヶ寺[    ]

     梶取免一丁二反六十歩

      時宗四反三百歩       恒員四反

      眞安二反          安弘一反小

    (造府)

     ⬜︎⬜︎所免二丁三反

      武宗一丁八反        守弘五反

     鍛冶免八反          清眞

      (末國ヵ)

     狩飼⬜︎⬜︎免一丁一反

     水守四反

    逓送田五反三百歩

    新勅旨田七丁八反大

    本勅旨田二十丁

        六 『八』(半 以下同ジ)

   應輸田二十反斗

                         (代)

    別結解宮吉一丁八反三百歩     六斗二升七合⬜︎

    (諸別符二十)

    ⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎[

     (清ヵ)   (佐西ヵ)

     高⬜︎   『⬜︎⬜︎孫三郎』      遠清二反

     在廳屋敷一丁          有光

     御厩案主免三反大        有福

     國役人給免十丁五反三百歩

     紙免一丁三反

      有冨一丁 守護押領        爲光三反 諸社

     温屋免八反

      得重三反小 地頭押領       弥吉三反小

      今冨一反小 同

     國掌免七反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)

      法師丸一反          有光三反

   (諸)

    ⬜︎寺社大般若経免[         有冨

    御舘長日講経免一丁二反

     ⬜︎慶六反            有暹六反

    内侍免一丁四反斗

     木子二反            凡子三反斗

     石子三反            三子三反

     光子三反

     舞人免一丁

      爲光五反 元助行        清正五反

     倍従免一丁百⬜︎⬜︎((廿歩))

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)

   つづく

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「感神院社」─祇園感神院(京都市の八坂神社)から勧請されたものか。

「石屋寺」─未詳。

「仁王講」─「仁王会」。仁王経を講讃し災難をはらう法会。七世紀後半に始まり、平

      安時代に年中行事化した。二、三月と七、八月に行われる春秋二季仁王会

      と臨時仁王会がある(『古文書古記録語辞典』)。

「日吉大宮」─現在の滋賀県大津市日吉大社西本宮(旧大宮・大己貴神)を勧請した

       ものか。

「水別社」─「水分社」のことか。「みくまりの神」は「流水の分配をつかさどる

      神」、「水分神社」は「旱天に雨を祈る農耕の神を祀った神社」(『日本

      国語大辞典』)。

「熊野上分田」─熊野三社への初穂米を納めるために年貢を免除された田か(網野善彦

        『日本中世の百姓と職能民』)。

「府白山」─国府に勧請された白山神社のことか。

三昧堂」─仏語。僧が籠もって法華三昧または念仏三昧を修する堂。多くは法華三昧

      堂をいう(『日本国語大辞典』)。

「安養寺」─未詳。

「梶取」─船の舵を取り操るもので、挟抄、柁師とも書く。水手を指揮し、国衙領・荘

     園の官物・年貢の輸送に当たった。給免田を給与されているものもあった

     (『古文書古記録語辞典』)。

「造府所」─国衙を造営・修造するための免田か。

「狩飼」─未詳。狩猟場のことか。

「水守」─未詳。用水路、あるいは川堤の管理者か。

「逓送田」─宿場から宿場へ順々に送ること。宿継で送ること。伝送。逓伝(『日本国

      語大辞典』)。伝馬や飛脚のような通信システムの運営費を捻出する田

      か。

「勅旨田」─勅旨によって設定された田地。開発・経営には正税・公水を用いた。寺社

      に施入されたり貴族に与えられた例が多い。八〜九世紀の水田開発政策の

      一環と見ることができるが、面積の広大さにもかかわらず、多くは空閑

      地・荒廃地であって、経済的意義は小さいとする見方もある(『古文書古

      記録語辞典』)。

「応輸田」─国衙の課役が賦課される田地。

「温屋」─温室・湯屋のことか。「温室」は「湯屋、湯殿。室町時代の字書には『温

     室 ウンシツ 風呂也』とある」。「湯屋」は「入浴施設のある建物。温室

     院ともいう。東大寺法華寺などに古い湯屋が現存している」(『古文書古

     記録語辞典』)。湯屋とは沸かした湯を浴びる場をさし、これと類似した言

     葉である風呂とは蒸気を浴びる蒸風呂を指すのが本来の語義である。しかし

     両者は早くに混用されるようになっており、温室・浴堂などの言葉も用いら

     れた(国立歴史民俗博物館『中世寺院の姿とくらし』)。

「国掌」─九世紀半ば頃から諸国に設置された中央の官掌、省掌と同様な官。その職掌

     は、「訴人を通伝し、使部を検校し、官府を守当し、庁の事を舗設する」。

     定員二人で把笏を許され給田が与えられた(『古文書古記録語辞典』)。

「御舘長日講経」─国府で催される数日にわたる法会か。

「内侍」─内侍司の女官の総称。内侍司天皇の日常生活に供奉し、奏請・宣伝のこと

     を掌る官司。尚侍(二人)、典侍(四人)、掌侍(四人)、女孺(一〇〇

     人)よりなる(『古文書古記録語辞典』)。ここでは、国衙に仕える女官の

     給免田と考えておきます。

「倍従」─①天皇行幸に付き従うこと、またその人。②賀茂社・石清水社・春日社な

     どの祭礼における神楽・東遊びに奉仕した楽人(『古文書古記録語辞

     典』)。ここでは、国衙の祭礼に奉仕した地方の楽人への給免田と考えてお

     きます。

 

*田所恒之助「地域の歴史と文化の学習」(『UEJジャーナル』14、2014・9、http://www.uejp.jp/pdf/journal/14/22_tadokoro1.pdf)参照。

 

 

*「安芸郡府中町」『広島県の地名』(中世のみの引用)

 平安時代後期当地に進出したとされる田所氏は、最有力在庁官人に成長し、周辺にも勢力を及ぼしていった。しかし、南北朝の内乱で南朝方に属したため衰退、代わって府中の支配者となるのは白井氏である。同氏は応永年間(1394〜1428)下総国から入部したと伝え、拠城は出張城。白井氏は終始守護武田氏と結び、天文十年(1541)大内氏に滅ぼされたといわれる。その後府中は大内氏家臣で銀山城(跡地は現広島市安佐南区)城番の麻生土佐守の知行地であったが(年欠八月十三日付「陶隆房書状」お茶の水図書館成簣堂文庫所蔵白井文書)、天文二十一年以降は毛利氏の領するところとなった(同年二月二日付「毛利元就同隆元連署知行注文」毛利家文書)。なお、中世の府中の所属は佐東郡(永禄十一年十一月二十五日付毛利元就宛行状「閥閲録」所収山県弥三左衛門家文書)とも安南郡(天文二十四年三月十四日付毛利元就宛行状「譜録」所収井上定之家文書)ともいわれた。

 鎌倉中期ごろの安芸国衙領注進状(田所文書)には府中所在の諸社として惣社八幡宮水分神社以外に角振(つのふり)社・椙樌(すぎもり)社・辻道祖神などがみえる。角振社は「安芸国神名帳」に角振隼総(つのふりはやぶさ)明神とみえ、天文年中に破壊され、前記注進状にみえる末社の山王社(現本町三丁目の三翁社)に合祀したという(芸藩通志)。椙樌社は現山田二丁目付近に「杉ヶ森」の地名が残っているようで(「芸藩通志」所載絵図)、辻道祖神は「安芸国神名帳」の道通(みちとおり)明神で現本町三丁目にある導神社(通称「辻のいぼ落し」)であろう。現山田一丁目の浄土真宗本願寺派竜仙寺は正徳二年(1712)府中村寺社堂古跡帳(宗像正臣氏蔵)では明応年中(1492〜1501)の開基とするが、もと真言宗で大永三年(1523)改宗したとも伝える。出張城跡東の吸江庵(現宮の町三丁目)は毛利氏八箇国時代分限帳(山口県文書館蔵)によると、毛利氏から六石余の寺領を認められ、このほかに花蔵寺や江本寺・海蔵寺などの名もみえるが、いずれも近世までに退転し、小堂のみとなったり地名に名を残すだけとなっていた(竜仙寺過去帳、国郡志下調書出帳)。

涙、なみだの、官僚暮らし

  宝徳三年(一四五一)十月二十五日 (『康富記』3─295・301頁)

 

 廿五日庚寅 晴陰、入夜雨下、向飯彦許、予窮困過法、小屋及大破、既欲令顚倒之間

 愁訴注一通、付弾正可令披露万里小路中納言殿之由答、

  (中略)

 權大外記康富謹言、

  欲優曩祖勤労助一流断絶被下御訪暫致堪忍間事、

 右高祖康綱経歴外記内記官史三局之朝要、奉仕徳治延慶以来五代之明時、権大外記

 者、貞観以降中絶也、而被再興之、被拜任之、隼人正者就有司領、爲羽翼被許相傳、

 于今為規模数代令相続之、又為記録所寄人被召加決断所衆、於日州兼任者被付吏務、

 殊更等持院殿御代、御出仕方御作法御揖等事、自中園相国被商量申之時節、為彼御使

 参入之、康綱具申上、随分致奉公、此子細鹿苑院殿御代自二條殿被申之、如節会御習

 禮時、毎度祗候之、被下恩録於康隆矣、惣代々相続致拜趨忠節之條、諸家所被知食

 也、康富不省不肖、十一歳之春拜任以来、自青衫之始至朱紱之今、外記之労既四十餘

 年也、愚息康顕者、外記之上被推任内記、康純者外記之上被兼帯官吏、各不量涯分、

 父子三人相並顕職、云恒例、云臨時、陣中之出仕、遠所之参向、頗超傍輩、報国之志

 何事如之、頃来舊領司領等過半令相違、綸旨院宣御判御教書等証文雖所持之、待時宜

 未企愁訴之間、窮困無比類、首陽之採蕨漸術盡、溝壑之餓莩亦不遠、爰居住敷地者、

 因 竹園細々参仕、自 仙洞被下之、蝸屋之営如形、而衡門之構未終之処、依度々大

 風、既欲令顚倒、吁嗟累祖相傳之記録、四壁荒而難避風雨、老臣衰邁之生命、一瓢空

 而不期旦暮、望請鴻慈被垂天憐、被申入於室町殿、被助置一流之断絶、被充下三千疋

 御訪、相継餘命、修治破屋、暫慰陸沈之愁、欲抽勤厚之忠、此趣預洩御奏聞被成進御

 奉書者、世以稱官仕之不空、人以知奉公之有勇、不堪懇款之至、謹言上如件、

   宝徳三年十月 日、

 

 「書き下し文」

 廿五日庚寅、晴れ陰る、夜に入り雨下る、飯彦の許へ向かふ、予の窮困過法、小屋大

 破に及ぶ、既に顚倒せしめんと欲するの間、愁訴し一通を注す、弾正に付し万里小路

 中納言殿に披露せしむるの由答ふ、

  (中略)

 権大外記康富謹言、

  曩祖勤労に優るる一流の断絶を助け御訪を下されば暫く堪忍致さんと欲する間の

  事、

 右高祖康綱外記・内記・官史三局の朝要を経歴し、徳治・延慶以来五代の明時に奉仕

 す、権大外記は貞観以降中絶なり、而れども之を再興せられ、之を拜任せられる、隼

 人正は司領有るに就き、羽翼として相伝を許され、今に規模として数代之を相続せし

 む、又記録所寄人として決断所衆に召し加へられ、日州兼任に於いては吏務を付けら

 る、殊更等持院殿の御代、御出仕方・御作法・御揖等の事、中園相国より商量し申さ

 るるの時節、彼の御使ひとして之に参入す、康綱具に申し上げ、随分奉公致す、此の

 子細鹿苑院殿の御代に二條殿より之を申さる、節会御習礼の時のごとく、毎度之に祗

 候し、恩禄を康隆に下さる、惣じて代々相続し拜趨の忠節を致すの條、諸家知ろし食

 さるる所なり、康富不肖を省みず、十一歳の春の拜任以来、青衫の始めより朱紱の今

 に至り、外記の労既に四十餘年なり、愚息康顕は、外記の上内記に推任せらる、康純

 は外記の上官吏を兼帯せらる、各々涯分を量らず、父子三人顕職に相並び、恒例と云

 ひ、臨時と云ひ、陣中の出仕、遠所の参向、頗る傍輩を超ゆ、報国の志何事か之に如

 かんや、頃来旧領・司領等の過半は相違せしめ、綸旨・院宣・御判御教書等の証文之

 を所持すと雖も、時宜を待ち未だ愁訴を企てざるの間、窮困比類無し、首陽の採蕨漸

 く術盡き、溝壑の餓莩亦遠からず、爰に居住の敷地は、竹園に細々参仕するに因り、

 仙洞より之を下さる、蝸屋の営形のごとし、而して衡門の構へ未だ終わらざるの処、

 度々の大風に依り、既に顚倒せしめんと欲す、吁嗟累祖相伝の記録、四壁荒れて風雨

 を避け難し、老臣衰邁の生命、一瓢空しくして旦暮を期せず、鴻慈天憐を垂れらるる

 を望み請ひ、室町殿に申し入れられ、一流の断絶を助け置かれ、三千疋の御訪を充て

 下されよ、余命を相継ぎ、破屋を修治し、暫く陸沈の愁ひを慰め、勤厚の忠を抽きん

 ぜんと欲す、此の趣御奏聞に預かり洩れ御奉書を成し進らせらるれば、世に以つて官

 仕の空しからざるを称し、人を以つて奉公の勇み有るを知り、懇款の至りに堪へず、

 謹んで言上件のごとし、

 

 「解釈」

 二十五日庚寅、晴れのち曇り。夜になって雨が降った。飯尾彦のもとに向かった。私の困窮は度を過ぎ、我が家は大破した。もう少しで倒れようとしているので、嘆き訴える書状を記した。弾正に託して万里小路中納言冬房殿に披露する、と飯尾彦は答えた。

  (中略)

 権大外記康富が謹んで申し上げます。

  先祖が勤労に優れていた我ら一流の断絶を助け、お見舞い金をくださるなら、しばらく耐え忍ぼうと思いますこと。

  右、先祖康綱は外記局・内記・弁官局の三局という朝廷の要職を歴任し、徳治・延慶以来五代にわたる太平の世に奉仕してきた。権大外記は貞観以降中絶していた。しかし、これが再興され、廉綱が拜任された。隼人正には隼人司領が所属しているので、帝の補佐役として相伝を許され、今に名誉として数代隼人正を相続してきた。また記録荘園券契所の寄人として、雑訴決断所の職員にも召し加えられ、日向国を兼任し職務を託された。とくに足利尊氏様の御代に、尊氏様のご出仕の仕方・ご作法・ご挨拶の作法等のことを、洞院公賢からよく考え申し上げるように命じられたとき、公賢の御使いとして尊氏様のもとに参上した。康綱は詳細に申し上げ、随分と奉公した。この事情を足利義満様の御代に、二条持基様から義満様に申し上げなさった。節会の練習のときのように、毎度の義満様にお仕えし、恩禄を康隆に下さいました。すべてを代々相続し、参勤の忠節を致してきたことは、諸家の方々がご存知である。私康富は愚かであることを顧みず、十一歳の春の拜任以来、身分の低いときから五位に叙された今に至り、外記を務めてすでに四十数年である。息子の康顕は、外記に加えて内記にも推挙され任じられた。康純は外記のうえに弁官を兼帯した。それぞれ身の程をわきまえず、父子三人ともに要職に就き、恒例行事も臨時行事も、陣の座への出仕や、遠隔地への参向も、同輩をすっかり超えている。国のために尽くす気持ちは、何事かこれに匹敵しようか、いやしない。近頃旧領や司領の過半は押領され、綸旨・院宣・将軍家御判御教書等の証文を所持しているけれども、将軍様のご意向を待ち望み、いまだに嘆き訴えていないので、このうえなく困窮している。首陽山の蕨を採りながら(困窮に耐えていたが)次第に生きる術も尽き、困難な状況で飢え死にするのもまた遠くはない。いま居住している敷地は、皇族に細やかに参仕してきたことにより、上皇からこれを下された。小さな家の生活は形ばかりで(貧しく)、粗末な住居の造営はまだ終わっていなかったが、度々の大風のせいで、今にも転倒しようとしている。ああ、先祖代々の相伝の記録は、粗末な家が荒れ果てたことで、風雨を避けることができない。私の命は老い衰え、わずかな酒も空となって、明日の命も期待できない。大きな慈悲と帝の憐れみを下されることを望み願う。このことを室町殿に申し入れなさって、我が一流の断絶を助け、三千疋の見舞金を支給してください。余命をつなぎ、壊れた家を修繕し、しばらくの間滅びる不安を慰め、忠勤に励みたいと思う。この内容を帝のお耳に入れ、御奉書を発給してくだされば、真心に対し感謝の気持ちを表さずにはいられない。以上、謹んで言上致します。

 

 「注釈」

「飯彦」─未詳。室町幕府奉行人飯尾肥前彦三郎為数か。

「弾正」─未詳。弾正尹坊城俊秀か。

万里小路中納言殿」─万里小路冬房。

「康綱」─中原康綱。記主中原康富の高祖父。文保元年(一三一七)三月二十七日少外

     記任、建武元年(一三三四)十二月十七日権大外記任、暦応二年(一三三

     九)六月十日卒(松園斉「中世の外記について」(『人間文化』九、一九九

     四・九、https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180204145648.pdf?id=ART0001217506)。

「外記」─太政官少納言の下にあり、大外記・少外記(各二人)・史生(二〇人)よ

     り成る。内記が作る詔勅の草案を訂正し奏文を作る。また恒例・臨時の儀式

     行事を奉行する。平安末期から大外記の官は中原・清原家の独占するところ

     となり、局務と称した(『古文書古記録語辞典』。

「内記」─律令官制で、中務省の書記官で。詔勅の起草、位記の作成を掌る。令制では

     大内記・中内記・少内記各二名を置いたが、のち、中内記は大同元年(八〇

     六)に廃止された。内記の詰所は内記所で、内記局ともいい、左兵衛陣(陽

     明門内南掖)の南にあった(『古文書古記録語辞典』)。

「官史」─弁官局の史の意。太政官の弁官局の左右大史・小史のこと(『日本国語大辞

     典』)。「弁官」は、律令国家機構の中心的事務機関。太政官内の部局。左

     右の弁官局は少納言局とともに行政事務の遂行に当たった。それぞれ、大・

     中・少弁の下に大・少史をおく。左弁官は中務・式部・民部省を、右弁官は

     兵部・刑部・大蔵・宮内省を担当して、「因事管隷」(職掌に基づいて他官

     司を統括すること)の権限をもち、事務連絡を担当した。太政官符は弁官が

     作成。のち手続きが煩瑣な官符にかわりに、官宣旨を弁官が下すようにな

     る。平安中期から左大史が実質事務を担当し、両局を合併して官務と呼ばれ

     るようになる。これを小槻氏が、戦国期以降は壬生家が世襲した(『新版 

     角川日本史辞典』)。

「隼人司」─隼人司は、律令中央官司の一つで、衛門府のちに兵部省に属し、隼人を管

      掌下においていた。この官司には、正(かみ)・佑(じょう)・令史(さ

      かん)の三官各一人がおり、その下に使部十人、直丁一人、隼人がいた。

      正は隼人および名帳の検校、歌舞の教習、竹笠の造作のことを掌った。管

      掌下の隼人は、もと大隅薩摩国からの更新者もいたが、やがて機内およ

      び近江・丹波紀伊国の居住者に限られ、大衣(おおきぬ)・番上隼人・

      今来(いまき)隼人などは大嘗祭などの儀式への参加、行幸時の従駕に奉

      仕し、また作手隼人は油衣・竹笠の政策に従事していた。この司が右衛門

      府のちに兵部省に属していたのは、大化前代に隼人が天皇や皇子の守護と

      いった軍事関係の任ついていた伝統による(『国史大辞典』)。

「記録所」─後三条天皇が諸国の荘園の公験を直接中央政府で審査するために設置した

      機関で、記録所ともいう(『国史大辞典』)。

「決断所」─雑訴決断所建武政権の訴訟機関。鎌倉時代王朝の所務訴訟は記録所・文

      殿によって所轄されたが、幕府が倒れ、建武政権が成立すると記録所は公

      武の訴訟を一手に処理することができず、ここに雑訴決断所が新設され

      た。雑訴とは主として所領関係の訴訟をいい、その処理は政局担当者の重

      要な責務であった(『国史大辞典』)。

等持院殿」─足利尊氏

「中園相国」─洞院公賢か。

鹿苑院殿」─足利義満

「二絛殿」─二条持基か。

「康隆」─中原康綱の子。記主中原康富の曽祖父。文和三年(一三五四)少外記任。応

     安六年(一三七三)四月二十三日権大外記任(松園斉「中世の外記につい

     て」(『人間文化』九、一九九四・九、

     https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180204145648.pdf?id=ART0001217506

 

*かなり大げさな表現であるように思いますが、それゆえに必死さは伝わってきます。武士の押領や百姓の年貢減免闘争などにより、当時の貴族や役人はかなり貧乏になっていたそうですが、まるで餓死するかのような勢いで窮状を訴えています。この史料がどこまで事実を表しているのかはわかりませんが、なんだか、読んでいるだけで気の毒になってきます。

田中文書3(完)

    三 小早川隆景書状寫

 

   猶々一二ヶ条、次而なから此者申聞候、可分別事干要ニ候、

 其方數年之忠儀辛労之段、誠ニ無比類候、内々雖忘却、あまり心安

 思候て、無申聞儀候、弥別而大小事及心長久可相替事干要ニ候、然間焼山

 之事可遣置候、趣者委細弥左可申渡候、謹言、

 

      四月廿一日         隆景

   (ウハ書)(井上春忠

     「又右衛門尉殿        隆景」

 

 「書き下し文」

 其方数年の忠儀辛労の段、誠に比類無く候ふ、内々に忘却無く候ふと雖も、あまり心

 安く思ひ候ひて、申し聞こゆる儀無く候ふ、弥々別して大小事心に及び長久相替ふべ

 き事肝要に候ふ、然る間焼山の事遣はし置くべく候ふ、趣は委細弥左申し渡すべく候

 ふ、謹言、

   猶々一二ヶ条、次いでながら此者申し聞こえ候ふ、分別有るべき事肝要に候ふ、

 

 「解釈」

 あなたの数年来の忠義・辛労は、本当にこの上ないものです。心の中で忘れたことはありませんが、あまりに親しく思っておりまして、申し上げることはありませんでした。とりわけ重大なことや些細なことはますます心にかけ、長く替わるべきことが大切です。だから、焼山のことはあなたに遣わし置くつもりです。その内容の詳細は、弥左が申し渡すはずです。以上、謹んで申し上げます。

   もう一つ、二つの用件を、ついでにこの弥左が申し上げます。是非を判断することが肝要です。

 

 「注釈」

「弥左」─未詳。弥左衛門という名か。

「大小事及心長久可相替事」─解釈できませんでした。

「焼山」─広島県呉市焼山町か。大屋村の北に位置し、北東は苗代村、東は栃原・庄山

     田の両村に接し、西は坂村(現安芸郡坂町)。四周をほぼ標高三〇〇―四〇

     〇メートル内外の山地に囲まれ、北西の押込村から流れ込み、小山田村に流

     れ出る二河川が、庄山田境の山地に二河峡と呼ばれる渓谷を形成。村内は北

     部の平坦地のほかは山がちで、二河川両岸に狭小な低地が開ける。枝郷神山

     が両方の山間にある。安芸郡に属した(『広島県の地名』)。

田中文書2

    二 豊臣氏奉行人連署書状(切紙)

 

 従 関白様之御使丹羽五平次殿歸朝候、人數拾九人小荷駄壹疋さきゝゝ送之

 儀、被御念使夫ニ可御申付候、五平次殿乗馬并小荷駄等之儀、

 さきゝゝの城迄、御馳走肝要候、恐々謹言、

                 増田右衛門尉

      二月二日          長盛(花押)

                 大谷刑部少輔

                    吉継(花押)

                 石田治部少輔

                    三成(花押)

           (丞)

      伊藤民部大⬜︎殿

 

 「書き下し文」

 関白様の御使丹羽五平次殿帰朝し候ふにより、人数拾九人・小荷駄壱疋さきざき送る

 の儀、御念を入れられ使夫に御申付有るべく候ふ、五平次殿乗馬并に小荷駄等の儀、

 さきざきの城まで御馳走肝要に候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 関白豊臣秀次様の御使者丹羽五平次殿が帰朝しますことにより、人数十九人・小荷駄一疋を前もって送り届ける件について、よくご注意になって、人夫にお申し付けにならなければなりません。五平次殿の乗る馬や小荷駄などのことは、立ち寄る予定の先々の城までお世話なさることが大切です。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「関白様」─豊臣秀次

「丹羽五平次」─未詳。

「伊藤民部大丞」─伊東祐兵。日向飫肥を領する大名(中野等『石田三成伝』吉川弘文

         館、二〇一六)。

 

*この史料は、中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、2016、P189〜190)で分析されています。以下は、その引用です。

 豊臣秀次の使者丹羽五平次は、朝鮮に出兵していた諸将を労うために挑戦に派遣されていたが、二月上旬に日本に帰還することになり、石田三成増田長盛大谷吉継の三奉行が諸々を指示し、帰途の便宜を図っている。

 (解釈)関白秀次様の御使者丹羽五平次殿の御帰りに際し、人数一九人・小荷駄一疋を帰途入念に送り届けられるように命令があると思います。五平次殿、乗馬ならびに小荷駄などを先々の城までお世話いただくことが肝要です。

 充所の伊藤祐兵(民部大輔)は日向飫肥を領する大名で、三奉行の立場で直接に指示を出せるものではない。おそらく宇喜多秀家あたりが「申し付ける」のであろう。したがって、この連署状は副状の位置づけになり、帰還に従う人数や小荷駄の数などの詳細を伝える意味合いがあったと判断される。

田中文書1

解題

 田中氏は長浜の神職をつとめる。本文書の伝来関係については明らかでない。

 

 

    一 豊臣氏奉行連署書状(切紙) ◯以下三通ハ、東大影寫本ニヨル

 

 其方御代官所此方ゟ、近年者以金銀米召置候へ共、自今以後者公用にて、

 百姓於取納、可運上之旨候条、可其意候、恐々謹言、

 

                  (長束)

                   長大

       六月朔日          正家

                  (浅野)

                   淺弾

                     長政

                  (前田)

                   徳善

                     玄以

      増田長盛

       増右殿 御宿所

 

 「書き下し文」

 其方御代官所此方より、近年は金銀米を以て召し置かれ候へども、自今以後は公用に

 て、百姓取り納めらるるに於いて、運上有るべき旨に候ふ条、其の意を得らるべく候

 ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 そちらの御代官所は、近年は金銀米をお取り置きになっておりますが、今後は公用として、百姓より収納なさるときに、こちらへ運上しなければならないというご命令ですので、その指示をご了承ください。以上、謹んで申し上げます。

西村治雄氏所蔵文書2(完)

   二 安藝国佐西郡寺田村打渡坪付寫

 

    神領寺田村之内   (割書)「打渡坪付」

 おき田

  田四反    米貳石五斗       惣兵衛

 きしの下

  田貳反    米壹石四斗       同 人

 よこたけ    (米)

  田壹反小   ⬜︎九斗         同 人

 にし      (米)

  田貳反    ⬜︎壹石六斗       同 人

 同所

  田貳反小   米壹石七斗       同 人

 ミソはさミ

  田半     米四斗         弥 六

 いやのくほ

  田壹反六十歩 米三斗五升       同 人

 同所

  田壹反    米三斗二升       同 人

 同所

  田四反    米壹石三斗       同 人

 ほりこし

  田半     米壹斗六升       同 人

 河かしら

  田壱反大   米五斗         神 六

 迫くち

  田壹反小   米五斗三升       同 人

     田數貳町壹反三百歩

    合

     米拾壹石六斗六升

 下北原

  畠貳反小   代三百卅貳文      神 六

 ほりこし

  畠六十歩   代廿四文        同 人

 にし

  屋軄     壹所          惣兵衛

 下にし

  屋軄     小           神 六

  屋敷     一

     以上

    并而米拾貳石壹升六合 矢銭共ニ

     (1591)

     天正十九年十二月十四日   越 中 守判

                   神左衛門判

            小田次郎左衛門殿

 

*書き下し文・解釈は省略します。

 

 「注釈」

「寺田村」─広島市佐伯区五日市町寺田・八幡ヶ丘・八幡ヶ丘二─三丁目。極楽寺山東

      麓にあり、河内川を隔てて利松村と相対する。西方は低い山地で、三方に

      開けた平地に集落が展開。村名について「芸藩通志」は廃山入寺の項で

      「古は大寺にて、此村を領せし故、寺田といへるにや」と記す。中世の山

      陽道は、沼田郡伴(現広島市安佐南区)から石内を経て当地を通過してい

      たと考えられ、当地には塚松があったという(石内村の「国郡志下調書出

      帳」)。嘉禎四年(一二三八)四月十七日付の伊都岐島社廻廊員数注進状

      案(新出厳島文書)に「保井田 川内 寺田一間」と見える。天文二十三

      年(一五五四)八月五日付毛利元就同隆元連署判物(「閥閲録」所収熊谷

      帯刀家文書)に「石道本城分九十貫文之事 三宅寺田ニ替候て進置候」と

      あり、天文頃は毛利氏家臣熊谷信直の給知であった。天正十九年(一五九

      一)十二月十四日付の佐西郡寺田村打渡坪付写(西村治雄氏蔵)に「神領

      寺田村」とあり、田数二町四反余、一二・〇一六石が小田次郎左衛門の給

      知となっている(『広島県の地名』)。

西村治雄氏所蔵文書1

解題

 山県郡穴村(加計町)の地は古くは佐伯郡に属していた。この地の小田氏は源頼政の二男山県先生国政の後といい、国政は美濃国山県郡を経て、治承四年(一一八〇)安芸国豊田郡へ来住し、後に穴村へ移ったという。

 西村氏は小田氏の女が嫁したことから親戚関係を生じたものである。

 

 

   一 瀧原名打渡坪付寫

    打渡    瀧原名

 一田壹町壹段 (割書)「上六反半中四段半」   名主分

 一田八段 (割書)「上七段大中小」      四郎兵衛尉

 一田貳段                彦左衛門

 一田参段大               孫九郎

 一田参段                与三郎

 一田壹段小               神 田

  合貳町九段 分銭四拾九貫八百文并大豆三斗

                  ミそ代

        茶四斤 柒沢三ツ此外   貳段半

 一田貳段 上壹段 屋敷在之

      中壹段 山河在之 野井袮原之内

     (1577)

     天正五年三月十二日     山 城 守判

                 (森脇春親

                   大 蔵 丞判

                 (二宮)

                   筑 後 守判

                 (森脇春忠)

                   宗兵衛尉判

         小田浄空入道殿

         小田次郎左衛門殿

 

*書き下し文・解釈は省略します。

 

 「注釈」

「上・中」─「田品」。田地の等級、単位面積当たりの生産高に応じた区分で、「延喜

      式」に「上田五百束、中田四百束、下田三百束、下下田百五十束」とある

      (『古文書古記録語辞典』)。

猪突猛進!

  宝徳三年(一四五一)九月十三日条 (『康富記』3─278頁)

 

 十三日戊申 晴、

  (中略)

 是日或語云、今月七日就春日神木御入洛事、被制止之由、綸旨御教書等被成下南都、

 使節奉行三人下向之日、朝之程、於宇治邊、自或藪中猪走出、(割書)「自元負手歟

 云々、」渡宇治、差京方欲上歟之處、川之面二三丈游而、游返而、平等院前藪中走

 歸、於彼篁中忽死云々、爲希代之有様之間、自宇治注進管領云々、如何々々、傳説

 也、承及分聊注之、

 

 「書き下し文」

 是の日或るひと語りて云く、今月七日春日神木御入洛の事に就き、制止せらるるの

 由、綸旨・御教書等南都に成し下さる、使節奉行三人下向の日、朝の程、宇治辺りに

 於いて、或る薮の中より猪走り出づ、(割書)「元より手を負ふかと云々、」宇治を

 渡り、京方を差して上らんと欲する歟の処、川の面を二、三丈游ぎて、游ぎ返りて、

 平等院の前の薮の中を走り帰り、彼の篁の中に於いて忽ち死すと云々、希代の有様た

 るの間、宇治より管領に注進すと云々、如何如何、伝説なり、承り及ぶ分聊か之を注

 す、

 

 「解釈」

 この日、或る人が語って言うには、「今月七日、春日大社のご神木が都にお入りなろうとした件について、それを止めなさるという綸旨と御教書などを、興福寺にお下しになった。その命令を実行するための奉行三人が下向した日の朝に、宇治あたりである藪の中から猪が走り出てきた。もともと手傷を負っていたのだろうか。宇治川を渡り、都の方を目指して上ろうとしていたのか、川の水面を六、九メートルほど泳いでから戻ってきて、平等院の前の藪の中に走り帰り、その竹藪のなかで死んだそうだ。世にも稀な様子だったので、宇治から管領に注進した」という。いったいどういうことか。噂である。聞き及んだ分を少しばかり書き記した。

 

 「注釈」

管領」─畠山持国

 

*いったいこの出来事のどこが、世にも珍しいところだったのでしょう。猪が爆走したことか、爆泳したことか、泳ぎ帰ってきたことか、平等院の藪の中に突っ込んだことか、そこで急死したことか、そのすべての過程か。わざわざ管領にまで報告していることを踏まえると、これも不吉な出来事だったのでしょう。使節が下向しているときに猪を見ると、何か不吉なことが起きるのでしょうか。春日の神の祟りなのでしょうか。謎は深まるばかりです。