周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

三原城城壁文書(楢崎寛一郎氏舊蔵)10

    一〇 毛利元就書状

 

   結句隆景ハ御腹中いかゝニ候せうし候、元春之儀早々御出待申候へく候、所々成替候ハんと

   推量仕候へく候、

 中郡雑説之事弥如此申候、何篇にも此方動なく候間、見かけ候て不可有正体待て

 まいらせ候へく候、口惜次第無念候、かやうにすまぬ事ハ候ハす候、此度之儀更々

 何そおさへまいらせ候やと存計候へく候、何もかもならぬ仕合候へく候、我等事

 ひとへニたゝ無計方無了簡儀まいらせ候へく候、

                      かしく

 (捻封ウハ書)

 「                 より

  〈元春」隆景〉まいる 申給へ   元就」

 

 「書き下し文」

 中郡雑説の事弥此くのごとく申し候ふ、何篇にも此方働きなく候ふ間、見かけ候ひて正体有るべからず待ちてまいらせ候ふべく候ふ、口惜しき次第無念に候ふ、かやうにすまぬ事は候はず候ふ、此度の儀更々何ぞおさへまいらせ候ふやと存ずるばかりに候ふべく候ふ、何もかもならぬ仕合に候ふべく候ふ、我等の事ひとへにただ計方も無く了簡も無き儀まいらせ候ふべく候ふ、

 

   結句隆景は御腹中いかがに候ふ、笑止に候ふ、元春の儀早々御出でを待ち申し候ふべく候ふ、所々成り替はり候はんと推量仕る候ふべく候ふ、

 

 「解釈」

 中郡の根も葉もないうわさのことは、ますますこのように申し上げます。こちらはまったく成果がございませんので、見かけましても頼りにもならず待ち申し上げております。残念な次第で無念です。この度の件は、まったくもって抑える申し上げることができないと存ずるばかりでございます。何もかも思いどおりにならない成り行きでございます。我らのことは、ただまったく方法や計略もなく、何の考えもなく参上するつもりです。

 

   結局、小早川隆景のご心中はいかがにでしょうか。気の毒なことでございます。吉川元春の件ですが、早々にお出でになるのを待ち申しあげております。ところどころ成り替わるだろうと推量し申し上げております。

 

*書き下し文・解釈ともにほとんどわかりませんでした。

把月 ─メルヘンチックな吉夢─

  寛正二年(1461)五月二日条

        (『経覚私要鈔』5─151頁)

 

  二日、霽、

     (尋尊)

  禅定院御房一両日以前見夢云々、其趣ハ、モトノ寝殿ニ愚老并僧正両人在之、

  西ノ射駒山ヲ見心地ス、其山邊月三在之、不思義ノ思ヲナシテ、モトアリシ渡廊

  ヲ下ル心地ハ、一月前ナル梅木ニ在テ、カヽヤキ渡テ、マハユキ計ニ覚ヲ、手ニ

  トリテ持ト見之由、畑経胤ニ被物語之由語申、随分吉夢也、可信々々、

 

 「書き下し文」

  禅定院御房一両日以前夢を見ると云々、其の趣は、もとの寝殿に愚老并びに僧正両人之在り、西の射駒山を見る心地す、其の山辺に月三つ之在り、不思議の思ひをなして、もとありし渡廊を下る心地は、一つの月前なる梅木に在りて、かがやき渡りて、まばゆきばかりに覚ゆるを、手にとり持つと見ゆるの由、畑経胤に物語らるるの由語り申す、随分の吉夢なり、信ずべし信ずべし、

 

 「解釈」

  禅定院御房尋尊が、一、二日前に夢を見たという。その内容であるが、もとの寝殿に私(経覚)と尋尊二人がいた。西の生駒山を見ているようだった。その山のほとりに月が三つ出ていた。不思議に思って、もとあった渡廊を下っているときの気持ちであるが、一つの月が目の前の梅の木にあり、一面に輝いていて、眩いばかりであると思われたのを手に取って持つという夢を見た、と私の側近である畑経胤にお話になった、と畑が語り申し上げた。すばらしい吉夢である。しっかりと信じるべきである。

 

 

 「注釈」

「畑経胤」─経覚の側近(酒井紀美『経覚』吉川弘文館、2020年、244頁)。

 

 

【考察】

 夏の生駒山に現れた三つの月のうち、目の前の梅の木にかかった一つを手に取る。尋尊はこんな夢を見たそうです。現代人の感覚からすると、なんともメルヘンチックな夢だなあと思ってしまいますが、記主経覚にとっては必ずしもそのようなものではなかったようです。「すばらしい吉夢である。信じなければならない、信じなければならない…」などと、ずいぶん現金な感想を述べています。情趣・幽玄どこへやら…。

 「三つ現れた月のうち、一つを手に入れる」という夢は、いったい何を表象しているのでしょうか。必死に信じようとしているところをみると、よっぽど手に入れたい願望を表しているのかもしれません。

 ちなみに、平安時代には「月」を「后」の隠喩とすることがあったそうですが(丸山淳一「この世をば…藤原道長の「望月の歌」新解釈から見える政権の試練とは」読売新聞オンラインWebコラムhttps://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20210628-OYT8T50054/)、室町時代の高僧二人が望む「月」とはいったい何だったのでしょうか。案外、金や権力のような俗っぽいものだったのかもしれません。

三原城城壁文書(楢崎寛一郎氏舊蔵)8・9

    八 小早川氏奉行人連署請取状

 

    肴注文

 一干鮭                拾喉

 一ほしふく              数百ほん

 一するめ               拾連

 一しひたけ              壹斗温泉津舛

   以上

  右之請取所如件、

    天正九年・1581)            (政綱)

    〈辛巳〉六月四日      横見助右衛門(花押)

                    (元盛)

                  河本源右衛門(花押)

                    (尊継)

                  飯田 讃岐守(花押)

    南平右衛門殿

    山縣十郎衛門殿

 

*書き下し文と解釈は省略します。

 

 「注釈」

「喉」─こう・こん。魚を数えるのに用いる。

 

「温泉津舛」─島根県大田市温泉津町地域で用いられた収納枡か。

 

 

 

    九 小早川氏奉行人連署勘合状

 

 陶保〈永禄七」甲子〉御米之内拾八石分

 銀子貳百七十文目小数大小拾貳

         但石別拾五文宛勘合

     (1565)         楊井刑部丞

     永禄八年三月十二日      元勢(花押)

                  粟 小

                    盛忠(花押)

         令存知之訖、

        ◯紙破損ノタメ図省略

 

*書き下し文と解釈は省略します。

 

 「注釈」

「陶保」

 ─山口市大字陶。新開作によって南側に名田島村ができるまでは、小郡湾(山口湾)の奥に海に面して位置する村であった。東は鋳銭司、西は中下郷、北は狐ヶ峰を境に平野の各村に接した。村内南部を東西に山陽道が通る。小郡宰判所属。

 陶の地名は古代この地で須恵器を製したことによるといわれ、村内北方の山麓には所々に陶窯遺跡があり、現在でも多くの須恵器の破片が散乱する。この地に良質の陶土があり、それを材料としたわけで、近代に至るまで続けられている。平安時代初期、周防鋳銭司が設置されたのは、陶の寺家の地で、その後東方潟上山に移った。

 陶の名は正治二年(1200)一一月日の周防阿弥陀寺田畠坪付(周防阿弥陀寺文書)に「陶一丁 矢地里」とみえるのが早い。中世、大内氏の支流右田弘賢はこの地を領し、居館をここに定めて陶氏を称した。しかしその子弘政の時、巨漢は都濃郡富田(現新南陽市)に移された。なお陶保宛毛利隆元書状(「閥閲録」所収)などに「就陶保之儀に、書状にて申越候通」など頻出しているが、詳細は不明。なお児玉氏は「周防国陶保之内四拾石足」(天正一〇年八月三日付毛利輝元書状)を知行していたらしい。(後略)(『山口県の地名』平凡社)。

三原城城壁文書(楢崎寛一郎氏舊蔵)6・7

    六 吉川元春書状

 

 今日鉄炮可令放せ之由、従安国寺承候、聢其御催候哉、左候ハヽ爰元之儀

 申触候、御返事可示給候、恐々謹言、

       卯月廿六日       元春(花押)

 (後闕)

 

 「書き下し文」

 今日鉄炮放たせしむべき之の由、安国寺より承り候ふ、聢と其の御催候ふか、左候はば爰元の儀も申し触るべく候ふ、御返事示し給ひ候へ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 今日鉄炮を放出させなければならない、と安国寺恵瓊からお聞きしました。しっかりとご催促があるでしょうか。そうであれば、こちらの件も伝え申し上げるつもりです。お返事をお示しくださいませ。恐々謹言。

 

 

 

    七 小早川氏奉行人連署書状

 

 (端裏書)

 「於厳島四十貫文可渡御奉書〈天正十」七月四日〉」

    呉々来十三日より内ニ厳島へ御着肝要候べく候、

                         (内侍方、小早川氏御師

 於厳島舞楽御調候間、御段銭方百貳拾貫文被仰談、急度竹林殿へ登せ可被置候、

 然者俄之儀候間、四拾貫文宛御調専一候、恐々謹言、

     天正十午(1582)        鵜飼新右衛門尉

       七月四日        元辰

                横見和泉守

                   景俊

       井上但馬守殿

       東光寺

 

 「書き下し文」

 厳島に於いて四十貫文渡すべき御奉書、天正十七月四日、

 

 厳島に於いて舞楽の御調候ふ間、御段銭方百貳拾貫文仰せ談ぜられ、急度竹林殿へ登らせ置かるべく候ふ、然れば俄の儀に候ふ間、四拾貫文ずつの御調専一に候ふ、恐々謹言、

 

    呉々も来たる十三日より内に厳島へ御着肝要候ふべく候ふ、

 

 「解釈」

 厳島で四十貫文を渡さなければならないことを指示した御奉書。天正十年七月四日。

 

 厳島舞楽の奉納がありますので、御段銭から百二十貫文支出することをご相談になり、きちんと内侍方で小早川氏の御師である竹林殿へお渡しにならなけばなりません。したがって、急な件ですので、四十貫文ずつ奉納することが第一でございます。恐々謹言。

 

    くれぐれも、来たる十三日よりも前に、厳島へ費用がご到着になることが大切でございます。