周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

怪鳥来襲

  応永二十三年(一四一六)四月二十五日条 (『看聞日記』1─29頁)

 

 廿五日、晴、聞、北野社今夜有怪鳥、鳴声大竹ヒシクカ如云々、社頭鳴動

  二またの杉鳴、参詣通夜人消肝云々、宮仕一人以弓射落了、其形頭猫、

  身鶏也、尾如蛇、眼大光アリ、希代怪鳥也、室町殿注進申、射之宮仕

  御感有、練貫一重・太刀一振被下、鳥可流之由被仰云々、

 

 「書き下し文」

 廿五日、晴れ、聞く、北野社に今夜怪鳥有り、鳴き声大竹を拉ぐがごとしと云々、社

  頭も鳴動す、二股の杉に居て鳴く、参詣・通夜の人肝を消すと云々、宮仕一人弓を

  以て射落し了んぬ、其の形頭は猫、身は鶏なり、尾は蛇のごとし、眼大きに光有

  り、希代の怪鳥なり、室町殿へ注進申す、之を射る宮仕に御感有り、練貫一重・太

  刀一振下さる、鳥は河に流すべきの由仰せらると云々、

 

 「解釈」

 二十五日、晴。北野天満宮に今夜、怪しい鳥がいたという。鳴き声は、大竹を押しつぶしたような音だったそうだ。神社も大きな音を立てて揺れた。二またの杉に止まって鳴くので、参詣する人や通夜をする人たちがとても驚いたらしい。身分の低い社僧一人が弓でこの鳥を射落とした。鳥の頭は猫、身体は鶏で、尾は蛇のようだったそうだ。目は大きく光っていたという。世にも希な怪鳥である。室町殿へ報告したら、怪鳥を射落とした社僧にお褒めの言葉があった。練貫一重と太刀一振を社僧に下さった。鳥の死骸は川に流すようにお命じになったという。

 

*解釈、注釈の一部は、薗部寿樹「史料紹介『看聞日記』現代語訳(二)」(『山形県

 米沢女子短期大学紀要』50、2014・12、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=203&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。

 

 「注釈」

「北野社」─北野神社。北野聖廟・天満宮とも。現社名は北野天満宮山城国葛野郡

      京都市上京区馬喰町。皇城鎮守二十二社の第20位。下八社の内。天皇

      戚、摂関家の守護神。平安京内の守護神。正暦2年(991)十六社から

      吉田社・広田社とともに十九社となる。奉幣使は菅原氏の五位。天慶5年

      (942)、右京七条に住む多治比文子に神託があり、邸内に小祠を構え

      て祀る。天暦元年(947)には、近江国比良宮の神良種の童男太郎丸に

      託して、北野の地へ移座したい旨の託宣が下り、北野の朝日寺の僧最鎮と

      文子・良種が相図り、同年の6月に社殿を創建した。その後、度々社殿の

      増築があり、天徳3年(959)の5度目の大造営には右大臣藤原師輔

      尽力があり、摂関家の庇護をうけることになる。北野祭は永延元年(98

      7)より公祭となる。神社行幸七社の内(寛弘元年〈1004〉初例)。

      祭神は菅原道真。相殿に中将殿・吉祥女を祀る。本地仏は十一面観音(天

      神記)。神宮寺は、北野聖廟・北野寺と呼ばれ、比叡山西塔の東尾坊(の

      ちの曼殊院)を創った菅原氏出自の僧是算が寛弘元年(1004)別当

      に補せられ、以降代々東尾坊が相承して北野社を管理した(『中世諸国一

      宮制の基礎的研究』岩田書院、2000)。

「宮仕」─掃除などの雑役に従事した下級の社僧(『日本国語大辞典』)。

「練貫」─縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物。

 

*『看聞日記』─『看聞御記』とも。(伏見宮貞成親王の日記。本記・別記あわせて

        54巻。本記は1416─48(応永23─文安5)にわたる。筆者

        の日常生活、朝廷の動向、足利義教期の幕府政局、世相、芸能など多

        岐に及ぶ事柄が記されている。自筆本は宮内庁書陵部蔵(『新版 角

        川日本史辞典』)。

 

*頭は猫で、胴体が鶏、尻尾が蛇のような生き物って、な〜んだ!? そんな動物は知りません…。いわゆる、キメラだとか、キマイラと呼ばれる怪物なのでしょうか。きっと、ヤマドリのような尻尾の長い鳥が、ギャーギャー鳴き騒いでいたのでしょう。漆黒の闇夜に、見慣れない鳥が奇声を発していたのですから、さぞかし薄気味悪かったはずです。

 さて、射殺された怪鳥ですが、そのまま川に流されてしまいます。私なら焼却処分にしてしまいますが、中世人は流してしまうようです。中世人は、いったいどんな葬送慣習や他界観をもっていたのでしょうか。人間と怪物(人ならざるもの)の扱い方では、違いがあるのでしょうか。時間を見つけて勉強してみようと思います。

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自死の中世史 4 ─日本の古代2─

 「允恭天皇」『古事記』下巻(日本古典文学全集1、小学館、1973)

 

 天皇崩之後、定木梨之軽太子所知日継、未卽位之間、姧其伊呂妹軽大郎女而歌曰、

  阿志比紀能 夜麻陀袁豆久理 夜麻陀加美 斯多備袁和志勢 志多杼比爾

  和賀登布伊毛袁 斯多那岐爾 和賀那久都麻袁 許存許曾婆 夜須久波陀

  布礼

此者志良宜歌也。又歌曰、

  佐々波爾 宇都夜阿良礼能 多志陀志爾 韋泥弖牟能知波 比登波加由登

  母 宇流波斯登 佐泥斯佐泥弖婆 加理許母能 美陀礼婆美陀礼 佐泥斯

  佐泥弖婆

此者夷振之上歌也。

 是以百官及天下人等背軽太子而、帰穴穂御子。爾軽太子畏而、逃入大前小前宿禰大臣之家而、備作兵器〔爾時所作矢者、銅其箭之內。故号其矢謂軽箭也云々〕。穴穂御子亦作兵器〔此王子所作之矢者、即今時之矢者也。是謂穴穂箭也〕。於是穴穂御子興軍囲大前小前宿禰之家。爾到其門時、零大氷雨。故歌曰、

  意富麻幣 袁麻幣須久泥賀 加那斗加宜 加久余理許泥 阿米多知夜米牟

爾其大前小前宿禰挙手打膝、儛訶那伝〔自訶下三字以音〕歌参来。

其歌曰、

  美夜比登能 阿由比能古須受 淤知爾岐登 美夜比登々余牟 佐斗毘登母

  由米

此歌者宮人振也。如此歌參帰白之、我天皇之御子於伊呂兄王無及兵。若及兵者、必人咲。僕捕以貢進。爾解兵退坐。故大前小前宿禰捕其軽太子、率参出以貢進。其太子被捕歌曰、

  阿麻陀牟 加流乃袁登売 伊多那加婆 比登斯理奴倍志 波佐能夜麻能 波斗能 斯多那岐爾那久

又歌曰、

  阿麻陀牟 加流袁登売 志多多爾母 余理泥弖登富礼 加流袁登売杼母

故其軽太子者流於伊余湯也。亦将流之時、歌曰、

  阿麻登夫 登理母都加比曾 多豆賀泥能 岐許延牟登岐波 和賀那斗波佐

  泥

此三歌者天田振也。又歌曰、

  意富岐美袁 斯麻爾波夫良婆 布那阿麻理 伊賀幣理許牟叙 和賀多々弥

  由米 許登袁許曾 多々美登伊波米 和賀都麻波由米

此歌者夷振之片下也。其衣通王献歌。其歌曰、

  那都久佐能 阿比泥能波麻能 加岐加比爾 阿斯布麻須那 阿加斯弖杼富

  礼

故後亦不堪恋慕而追往時、歌曰、

  岐美賀由岐 気那賀久那理奴 夜麻多豆能 牟加閇袁由加牟 麻都爾波麻多士〔此云山多豆者、是今造木者也〕

故追到之時、待懐而歌曰、

  許母理久能 波都世能夜麻能 意富袁爾波 々多波理陀弖 佐袁々爾波 

  々多波理陀弖 意富袁余斯 那加佐陀売流 淤母比豆麻阿波礼 都久由美

  能 許夜流許夜理母 阿豆佐由美 多弖理多弖理母 能知母登理美流 意

  母比豆麻阿波礼

又歌曰、

  許母理久能 波都勢能賀波能 加美都勢爾 伊久比袁宇知 斯毛都勢爾

  麻久比袁宇知 伊久比爾波 加賀美袁加気 麻久比爾波 麻多麻袁加気 

  麻多麻那須 阿賀母布伊毛 加賀美那須 阿賀母布都麻 阿理登伊波婆許

  曾余 伊弊爾母由加米 久爾袁母斯怒波米

如此歌卽共自死。故此二歌者読歌也。

 

 「書き下し文」

 天皇崩りましし後、木梨之軽太子、日継を知らしめすに定まれるを、未だ位に即きたまはざりし間に、其のいろ妹軽大郎女に姧けて歌曰ひたまはく、

 

  あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下聘ひに 我が聘ふ妹を 下泣き

  に 我が泣く妻を 今夜こそは 安く肌触れ

 とうたひたまひき。此は志良宜歌なり。又歌曰ひたまはく、

 

  笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝し

  さ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば

とうたひたまひき。此は夷振之の上歌なり。

 是を以ちて百官及天下の人等、軽太子に背きて、穴穂御子に帰りぬ。爾に軽太子畏みて、大前小前宿禰大臣の家に逃げ入りて、兵器を備え作りきたまひき〔爾の時に作れる矢は、其の箭の内を銅にせり。故、其の矢を号けて軽箭と謂ふ云々〕。穴穂王子もまた兵器を作りたまひき〔此の王子の作りたまひし矢は、即ち今時の矢なり。是を穴穂箭と謂ふ〕。是に穴穂御子、軍を興して大前小前宿禰の家を囲みたまひき。爾に其の門に到りましし時、大氷雨零りき。故、歌曰ひたまはく、

 

  大前 小前宿禰が 金門蔭 かく寄り来ね 雨立ち止めむ

とうたひたまひき。爾に其の大前小前宿禰、手を挙げ膝を打ち、儛ひかなで歌ひ参来。其の歌に曰く、

 

  宮人の 脚結の小鈴 落ちにきと 宮人とよむ 里人もゆめ

とうたひき。此の歌は宮人振なり。如此歌ひ参帰て白さく、「我が天皇の御子、いろ兄の王に兵をな及りたまひそ。若し兵を及りたまはば、必ず人咲はむ。僕捕へて貢進らむ」とまをしき。爾に兵を解きて退き坐しき。故、大前小前宿禰、其の軽太子を捕へて、率て参出て貢進りき。其の太子、捕へて歌曰ひたまはく、

 

  天飛む 軽の嬢子 甚泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く

とうたひたまひき。又歌曰ひたまはく、

 

  天飛む 軽嬢子 したたにも 寄り寝てとほれ 軽嬢子ども

とうたひたまひき。故、其の軽太子をば伊余湯に流しまつりき。又流さえたまはむとせし時、歌曰ひたまはく、

 

  天飛ぶ 鳥も使そ 鶴が音の 聞えむ時は 我が名問はさね

とうたひたまひき。此の三つの歌は天田振なり。又歌曰ひたまはく、

 

  王を 島に放らば 船余り い帰り来むぞ 我が畳ゆめ 言をこそ 畳と言はめ 

  我が妻はゆめ

とうたひたまひき。此の歌は夷振の片下なり。其の衣通王、歌を献りき。其の歌に曰く、

 

  夏草の あひねの浜の 蠣貝に 足蹈ますな 明かして通れ

とうたひき。故、後に又恋慕ひ堪ねて追い往く時に、歌曰ひたまはく、

 

  君が往き け長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ〔此に山たづ

  と云ふは、是れ今の造木なり〕

とうたひたまひき。故、追ひ到りし時、待ち懐ひて歌曰ひたまはく、

 

  隠り処の 泊瀬の山の 大峰には 幡張り立て さ小峰には 幡張り立て 大峰よ

  し 仲定める 思ひ妻あはれ 槻弓の 臥やる臥やりも 梓弓 起てり起てりも 

  後も取り見る 思ひ妻あはれ

とうたひたまひき。又歌曰日たまはく、

 

  隠り処の 泊瀬の河の 上つ瀬に斎杙を打ち 下つ瀬に 真杙を打ち 斎杙には 

  真玉を懸け 真玉如す 吾が思ふ妹 鏡如す 吾が思ふ妻ありと言はばこそよ 家

  にも行かめ 国をも偲ばめ 

とうたひたまひき。如此歌ひて即ち共に自ら死にたまひき。故、此の二つの歌は読歌なり。

 

 「現代語訳」

 允恭天皇がお亡くなりになったのちに、皇太子木梨之軽王は皇位におつきになることに決まっていたが、まだ皇位にお着きにならなかった間に、その同母妹の軽大郎女と密通して、

 

  山田を作り、山が高いので、水を引くための下樋を走らせた。それと同じく、ひそかに私が言い寄る妹に、人目を忍んで私が慕い泣く妻に、今夜こそは心安らかにその膚に触れることよ。

とお歌になった。これは志良宜歌という歌曲である。また、

 

  笹の葉を打つ霰の音がたしだしと聞こえるが、そのように確かに共寝をしたのちは、あなたが私から離れていったとしてもかまわないよ、いとしいままに寝さえしたならば、〈刈薦の〉ばらばらに離れるのなら離れてもかまわないよ、寝さえしたならば。

とお歌いになった。これは夷振という歌曲の上歌である。

 この密通事件を知って、朝廷に仕える官人や国民たちは、軽王にそむいて穴穂御子のほうに心を寄せてしまった。それで軽王はこのことを恐れて、大前小前宿禰大臣の家に逃げ込んで、武器を作って備えられた〔その時に作った矢は、その矢筈を銅にした。それゆえ、その矢を名づけて軽箭というのである。云々〕。穴穂御子もまた武器をお作りになった〔この御子のお作りにあった矢は、すなわち今日使われている矢である。これを穴穂箭と呼んでいる〕。そして穴穂御子は軍勢を発して大前小前宿禰の家を包囲された。さてその家の門にお着きになった時、氷雨がひどく降ってきた。そこで、

 

  大前小前宿禰の金門の陰に、こう寄ってこい、ものどもよ。ここに立って雨のやむのを待つとしよう。

とお歌いになった。すると大前小前宿禰が手をあげ膝を打ち、舞を舞い、歌を歌いながら出てきた。その歌に、

 

  宮人の脚結につけた小鈴が、落ちてしまったといって、宮人たちが騒ぎ立てている。里人たちも軽挙妄動を慎みなさいよ。

と歌った。この歌は宮人振という歌曲である。大前小前宿禰はこのように歌いながら穴穂御子の前に参って、「わが皇子さまよ、兄君に兵士を差し向けなさいますな。もし兵士を差し向けなさるならば、きっと世間の者は兄弟の道にもとると誹り笑うでしょう。私が捕えてその身柄をお渡し致しましょう」と申し上げた。これを聞いて、穴穂御子は軍勢の包囲を解いて後方にしりぞかれた。そこで大前小前宿禰はその軽王を捕え、連れてきた穴穂御子に差し出した。その皇太子軽王は捕えられて、

 

  軽の乙女よ。おまえがひどく泣くならば、人が私たちのことを知ってしまうだろう。私はそれを気づかって、波佐の山の鳩のように、忍泣きに泣くことよ。

とお歌いになった。そしてまた、

 

  軽の乙女よ。こっそり寄って私と寝ていきなさい。軽の乙女たちよ。

とお歌いになった。そしてその後、その軽王を伊予湯に配流し申した。ここにまた配流されようとなされた時、軽王は、

 

  空を飛ぶ鳥も使者なのだよ。鶴の声が聞こえる時には、私の名をいって、私のことを尋ねておくれ。

とお歌いになった。この三つの歌は天田振という歌曲である。また軽王は、

 

  大王である私を四国の島に追放しても、〈船余り〉必ず帰ってこようぞ。その間は私の畳をそのままにして斎み慎んでいなさいよ。ことばでは畳というが、実はわが妻、おまえ自身が潔斎して待つのだよ。

とお歌いになった。この歌は夷振という歌曲の片下である。その時、衣通王(軽大郎女)は歌を軽王に献上した。その歌に、

 

  あいねの浜の牡蠣の貝殻に、足を踏み込んでおけがをなさいますな。ここで夜を明かしてからお通りなさいませ。

と歌った。さて軽王が旅立ったのち、軽大郎女はなお恋い慕う思いに堪えかねて、そのあと追っていったが、その時に、

 

  あなたの旅は随分日もたちました。お迎えにまいりましょう。こうしてお待ちするのは堪えられません〔ここに山たずというのは、これは今も造木のことである〕

とお歌いになった。こうして軽王のもとに追いついた時、軽王は待ち迎え、なつかしく思って、

 

  泊瀬の山の大きな峰には幡を張り立て、小さな峰にも幡を張り立て、二人の仲が定まっている、私のいとしい妻よ、ああ。臥している時も、立っている時も、後々までもかいがいしく、私が世話をしようと思う、いとしい妻よ、ああ。

とお歌いになった。また、

 

  泊瀬の川の上流の瀬に斎み清めた杭を打ち、下流の瀬に立派な杭を打ち、斎み清めた杭には鏡をかけ、立派な杭にはみごとな玉をかけ、そのみごとな玉のように私が大切に思う妻、その鏡のように私が大切に思う妻。その妻が家にいるというのならば、家にも訪ねていこうし、また故郷をなつかしくも思おう。しかし妻は家にはいないのだから、その家も故郷も、しのぶかいのないものなのだ。

 とお歌になった。このように歌って、そして二人一緒にみずからの命を断たれたのである。そしてこの二つの歌は読歌という歌曲である。

 

 「注釈」

 引用が少々長くなり、わかりにくくなったので、木村純二氏の研究(「恋の起源 ─『古事記イザナミ神話の意味するもの─」『人文社会論叢 人文科学篇』30、2013、http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/4930/1/JinbunShakaiRonso_J30_R1.pdf)で簡潔にまとめられている筋立てを、そのまま提示しておきます。

 

 「『古事記』に拠れば、允恭天皇崩御した後、長兄の軽太子が皇位を継ぐよう定められていたが、太子は同母の妹である軽郎女と姦通してしまう。臣下たちが軽太子を拒んで、穴穂皇子を支持したため、軽太子は大臣である大前小前宿禰のもとへ逃げ込み、武器を備えた。穴穂皇子(後の安康天皇)が軍勢を動員して取り囲むと、大前小前宿禰が間に立って、穴穂皇子には実の兄に矢を向けることの非を説き、軽太子には自首を促した。捕らえられた軽太子は伊予に流されるが、恋しさに堪え切れなくなった軽郎女があとを追い、思いを確かめ合った二人は、「共に自ら死」んでしまった。」

 

 この要約を参考に、ポイントを整理しておくと、以下のようなものになります。

  ①同母兄妹の姦通はタブーであり、軽太子と軽郎女はその禁忌を破った。

  ②それが露見したため、臣下たちは弟の穴穂皇子を支持(注1)。

  ③軽太子は捕縛され、伊予に配流。

  ④追いかけてきた軽郎女と軽太子は、一緒に自死を遂げる。

 

 一見してわかるように、愛し合う二人が自害に至るまでに、いくつかの挫折・絶望が設定されています。軽太子は許されざる相姦の罪を犯し、臣下の支持を失って皇位継承争いに敗れ、伊予に流罪となって、都に帰ることもできなくなったのです。軽太子には、自死を選択する要素がいくつも備わっていたと言えそうですが、軽郎女には相姦の罪しか理由がなさそうです。「死にたい」と漏らしたのは軽太子のほうで、軽郎女は愛しい軽太子と死別することを避けるため、ともに死の世界に向かうため、死ぬことを選んだのかもしれません。二人が自死を選んだ要因は異なっていたのではないでしょうか。

 神話・物語といった作品をこれ以上分析しても、史実は浮かび上がってきません。わかるのは、作り手の意図や、それに影響を及ぼした当時の社会的価値観などでしょう。そういったものをあぶり出す作業も重要なのでしょうが、私にはどうしてよいのかもわからないので、このあたりで筆を止めておきます。

 

 「注」

1、石田千尋「『古事記』木梨之軽太子の譚」(『山梨英和大学紀要』7、2009・

  2、https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180411213520.pdf?id=ART0009070796)では、相姦の露見によって臣下の支持を失ったのではなく、軽郎

  女と結ばれた喜びによって詠んだ歌が、はからずしも皇太子としての立場を否定す

  る、つまり天皇の世界の秩序に反する内容であったため、人々は軽太子を見棄てた

  と解釈しています。

自死の中世史 3 ─日本の古代1─

 「応神天皇」『日本書紀』巻十(新編日本古典文学全集2、小学館、1994)

 

 九年夏四月、遣武內宿禰於筑紫、以監察百姓。時武內宿禰弟甘美內宿禰、欲廃兄、即讒言于天皇、武內宿禰常有望天下之情。今聞、在筑紫而密謀之曰、独裂筑紫、招三韓令朝於己、遂将有天下。於是天皇則遣使、以令殺武內宿禰。時武內宿禰歎之曰、吾元無弐心。以忠事君、今何禍矣、無罪而死耶。於是有壱伎直祖真根子者。其為人能似武內宿禰之形。独惜武內宿禰無罪而空死、便語武內宿禰曰、今大臣以忠事君、既無黒心、天下共知。願密避之参赴于朝、親辨無罪、而後死不晩也。且時人毎云、僕形似大臣。故今我代大臣而死之、以明大臣之丹心、則伏剣自死焉。時武內宿禰独大悲之、窃避筑紫、浮海以従南海廻之、泊於紀水門。僅得逮朝、乃辨無罪。天皇則推問武內宿禰与甘美內宿禰。於是二人各堅執而争之、是非難決。天皇勅之令請神祇探湯。是以武內宿禰与甘美內宿禰、共出于磯城川湄爲探湯、武內宿禰勝之。便執横刀以殴仆甘美內宿禰、遂欲殺矣。天皇勅之令釈、仍賜紀直等之祖也。

 

 「書き下し文」

 九年の夏四月に、武内宿禰を筑紫に遣して、百姓を監察しめたまふ。時に、武内宿禰が弟甘美内宿禰、兄を廃てむと欲ひ、即ち天皇に讒言さく、「武内宿禰、常に天下を望ふ情有り。今し聞かく、筑紫に在りて、密に謀りて曰く、『独り筑紫を裂き、三韓を招きて己に朝はしめ、遂に天下を有たむ』といふときく」とまをす。是に天皇、則ち使を遣して、武内宿禰を殺さしむ。時に、武内宿禰歎きて曰く、「吾元より弐心無し。忠を以ちて君に事へけるを、今し何の禍ぞも、罪無くして死らむや」といふ。是に、壱伎直が祖真根子といふ者有り。其の為人、能く武内宿禰の形に似れり。独り武内宿禰の、罪無くして空しく死らむことを惜み、便ち武内宿禰に語りて曰く、「今し大臣、忠を以ちて君に事へ、既に黒心無きことは、天下共に知れり。願はくは、密かに避りて朝に参赴き、親ら罪無きことを弁めて、後に死るとも晩からじ。且、時人毎に云はく、『僕が形、大臣に似れり』といふ。故、今し我、大臣に代りて死りて、大臣の丹心を明さむ」といひ、則ち剣に伏して自ら死りぬ。時に武内宿禰、独り大きに悲しびて、窃に筑紫を去りて、海に浮きて南海より廻り、紀水門に泊る。僅に朝に逮ることを得て、乃ち罪無きことを弁む。天皇、則ち武内宿禰に甘美内宿禰とを推問ひたまふ。是に二人、各堅く執へて争ひ、是非決め確し。天皇、勅して神祇に請して探湯せしめたまふ。是を以ちて、武内宿禰と甘美内宿禰と、共に磯城川の湄に出でて探湯せしに、武内宿禰勝ちぬ。便ち横刀を執りて、甘美内宿禰殴仆し、遂に殺さむとす。天皇、勅して釈さしめたまひ、仍りて、紀直等が祖に賜ふ。

 

 「解釈」

 九年夏四月に、武内宿禰を筑紫に派遣して、人民を監察させられた。その時、武内宿禰の弟甘美内宿禰は、兄を除こうとし、天皇に讒言して、「武内宿禰には、常に天下をうかがう野心があります。いま、聞くところによると、筑紫にあって、ひそかに謀って、『ひとり筑紫を分割して、三韓を招いて己に従わせ、ついには天下を掌握しよう』と言っているとのことであります」と申しあげた。そこで天皇は、ただちに使者を遣わして、武内宿禰を殺させようとされた。その時、武内宿禰は嘆いて、「私はもとより二心はありません。誠意をもって君にお仕えしてきたのに、今、何の禍いでしょうか、罪無くして死ななければならないとは」と言った。この時、壱伎直の祖真根子という者がいた。その容貌が、よく武内宿禰の姿に似ていた。ひとり武内宿禰が、罪なくして空しく死ぬことを惜しみ、すぐに武内宿禰に語って、「今、大臣は忠心をもって君にお仕えし、まったく邪心のないことは、天下の人がみんな知っております。どうか、ひそかに流れて朝廷に参向し、ご自分で罪のないことを弁明して、その後に死なれても遅くはないでしょう。また、時の人が常に、『お前の顔かたちは、大臣に似ている』と言っています。それで今、私が大臣に代わって死んで、大臣の忠誠心を明らかにいたしましょう」と言って、たちまち剣に伏して自ら命を絶った。その時、武内宿禰は、ひとり大いに悲嘆にくれ、ひそかに筑紫を離れ、海路を南海より廻って紀水門に泊まった。かろうじて朝廷に行き着くことができ、罪のないことを弁明した。天皇は、そこで武内宿禰と甘美内宿禰と尋問された。そして二人は互いに堅く主張して争い、是非を決することは容易ではなかった。天皇は、勅して、天神地祇に祈請して探湯を行わしめられた。そこで、武内宿禰と甘美内宿禰とが、共に磯城川のほとりに出て探湯をしたところ、武内宿禰が勝った。それで太刀を執って甘美内宿禰を打ち倒し、ついに彼を殺そうとした。天皇は、勅して甘美内宿禰を放免され、そして、紀直らの祖に隷民として授けられた。

 

 「注釈」

 弟甘美内宿禰の讒言によって処刑されそうになった武内宿禰に、無実の弁明をさせるため、壱岐の真根子は身代わりとなって自死を遂げます。出典は『日本書紀』なのでこの話も史実とは言い難いですが、献身的自殺、つまり他者のために自分の命を犠牲にすることがあり得ると、当時の人々は考えていたようです。

 強烈な忠誠心といえばそれまでですが、壱岐の真根子は自分の命のことをどのように考えていたのでしょうか。自分よりも他者である武内宿禰の命のほうを重いと考えていたのかでしょうか。そもそも、自分と他人の命の重さを比較するような発想があったのでしょうか。この物語には、このような関心に答えてくれる記述はありません。

田所文書2 その1

    二 沙弥某譲状 その1

 

 (前闕)

 「   神事勤仕頭人等⬜︎役事、              」

     一宮二季〈二月十二月〉御祭鎭祭一夜⬜︎ 〈此物長〉進魚類酒二瓶等事、

                             

     八幡宮二季〈四月九月〉御祭役人別⬜︎人各送遣精進二種o酒一垂腹〈納三升〉

     宛事、頭人名神事参勤時依無其隠略之了、〉

     同臨時御祭役人〈本主時宗今者下司勤之、⬜︎⬜︎請取用途致其沙汰者也〉、二種清酒

     三升以同前也、

     同御社四季〈春夏秋冬〉御神楽役人季別五人[  ]二種清酒

     一垂腹〈納三升〉宛事、

   o正月修正斗餅一枚

                        

     角振社二季〈二月十一月〉御祭役人〈⬜︎⬜︎大夫清⬜︎後家⬜︎⬜︎平大夫多門〉

     膳[   ]進事、

    [      ]御神事[

 [

       伊勢大神宮ヵ)

     造[

                  (功ヵ)

     以下臨時段米徴下料田作進筆切得分事、〈子細波色々沙汰具書等具者也、〉

             (時弁ヵ)

     諸人申立免田畠之[  ]勘料事、子細見進物状等、

     同免田畠在所出入勘定得分事、〈子細載解文書状等分明者也、〉

     一宮御讀經衆不常住供僧等御初任之時、弁勘料其内切止壹町分事、〈子細

      代々任々次第沙汰状等明白者也、〉

             安南郡

     勧農時一[   ]符中温科供僧[  ]下書生以下國役人等迄、佐乃 八

                   (部ヵ)

     幡 戸坂 江田 牛田 原郷内⬜︎[   ]畢、懸具宿所令催勤[   ]

     依國宣参路時[ ]、

      件条、在廳并諸供僧郷々公文等下書生以下諸國役人等、先々皆以致

      沙汰畢、而近年寄事於世間不沙汰之条、無其謂者哉、

 一  船所惣税所職得分事、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)

 一  天台末五ヶ寺公文職得分事、

     給田壹町 〈國司御寄進浮免十一丁三百歩内也、但寺家若違乱者[    ]内之由、

      可問答者也、〉

     秋畠給免壹町 〈[  ]下地也、供物徴下之時[  ]加定壹[  ]升也、〉

    [

      (末節)

     歳⬜︎⬜︎料[

     名田畠等者後[

 

        (マ丶)

     栗林地子搗[   ]五合 〈[        不成年者五升宛⬜︎〉

     屋敷壹所 〈在阿奈[  ]者可見作、令自作哉否即進止也、〉

     散在名田畠栗林等、任古帳別紙之者也、

     京上時百姓人別草手銭百文宛弁之事、

     歳末節料百姓人別炭二籠宛弁進事、

     村人等官位時任料弁事、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

*割書は〈 〉で記しました。

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「一宮」─厳島神社

八幡宮」─松崎八幡宮安芸郡府中町宮の町5丁目。石清水八幡宮末社(「安芸国

      『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000)。

「垂腹」─未詳。酒量の単位で、飲んで腹が垂れるほどの量ということか。以下に、

     「納三升」とあることから、「納升」で三升の量が、「一垂腹」という単位

     なのかもしれません。

「角振社」─安芸国神名帳に角振隼総(つのふりはやぶさ)明神とみえ、天文年中に破

      壊され、前記注進状にみえる末社の山王社(現本町三丁目の三翁社)に合

      祀したという(芸藩通志)(「府中町」『広島県の地名』)。

「筆功」─習字に熟達すること。また、その人。「筆耕」のことであれば、写字によっ

     て報酬を受けること。また、その人(いずれも『日本国語大辞典』)。どち

     らにせよ、どのような「功」なのか、よくわかりません。

「勧農」─農業を勧めること。律令制下、国守の職掌中に勧課農桑があり、耕地を拡大

     し収穫を増やし官物の増徴につとめることになった。荘園においては領家・

     預所が勧農を行い、種子・農料を支出し、灌漑施設の整備、労働力の確保に

     つとめ、年間の農作業の進行に支障のないようにした。在地で実際に勧農に

     当たったのは荘官・地頭であったが、かれらはその権限を槓杆として在地支

     配を行い、領主化の途をたどる(『古文書古記録語辞典』)。

「浮免」─負担額と田積のみ指定され、それを負担すべき田地(下地)、坪が固定して

     いない免田をいう。大和国東大寺白米免・香菜免・油免、興福寺の雑役免

     田など、国衙から雑役を免除されたが、面積だけは定まっていたものの、下

     地は毎年浮動し固定していなかった。鎌倉時代高野山備後国太田庄で

     は、地頭別作が浮免で「雑役免は浮免なり、下地不定」と言われている

     (『古文書古記録語辞典』)。

「見作」─見作田。耕作可能の田地で、所当・加地子などを負担すべき田。現在、耕作

     している田。見は現(『古文書古記録語辞典』)。

「歳末節料」─歳末行事(読経や霊供)の実施に必要な物資として徴収されたもの(井

       原今朝男「中世の五節供天皇制」『日本中世の国政と家政』校倉書

       房、一九九五)。

「草手銭」─山野に入り草を刈る代償として支払う米・銭。草手米、草手銭(『古文書

      古記録語辞典』)。ただし、「京上時」という言葉とともに表記されてい

      るので、京上夫の代銭納であったのかもしれません。戦国時代、室町幕府

      御料所で見られ、荷物の運送に使役された夫役の一種に「草夫」というも

      のがあるようですが(『古文書古記録語辞典』)、これと同様のものかも

      しれません。「京上夫」は「荘園領主や地頭が住民に貸した夫役の一種。

      荘官・地頭らが荘園現地と京都との間を往来するとき、また年貢送進に用

      いる人夫役」(『古文書古記録語辞典』)。

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銀の花

  弘安三年(一二八〇)八月三日・四日・七日・二十一日条

    (「弘安三年中臣祐賢記」『増補續史料大成 春日社記録』3─60〜67)

 

 三日、申剋、五所の御寶殿等、銀花開之由、神人令申之間、令實檢之處、數十本

                            (安倍)(土御門)

  之間、銀實否依難治定、先以三方神人件花小土器、晴氏・資朝等令見

  之處、晴氏ハ花之由申之、資朝ハ非花之由申之、依之猶依難散不審、

  次日四日、朝、神主之代官兼時・祐賢代官祐春、参上 寺家、此次第令申入之

  處、被仰出云、花歟非花事ハ、件花ヲ鏡ノ上、以刀切之、件花ハ不切之由

  被仰出之間、歸参社頭、致此沙汰之處、則切畢、仍不能言上殿下也、且爲後代

  不審、今度花員数在所注之、

 

  注進 御寶殿銀花開事(割書)「但於今度者、非花之由事切了、」

   (後略1)

 

  又四日見出銀花、

   (中略1)

  雖然非花之由治定之間、不及言上、向後爲存知注置也、

   (後略2)

 

          (舊記)

 同四日、注進 寺家先例

   (中略2)

           〔大中臣經世〕

  鏡面ニ天切レ候之由、神主申入 寺家之處、御返事如此、

  銀花否事、以此旨申入候了、鏡面ニも生事候歟、被伐歟否事、御不審許候、於事

  之次第者、早可被注進歟之由、被仰下候、仍執達如件、

      八月四日             有舜

    追申

     已然両三度之例、同可被注進歟之由同候也、

  依之神主同四日、言上 殿下云々、仍祐賢も同五日言上了、銀花咲在所ハ若宮

  御方分ハカリ書抜テ注進了、

   (後略3)

 

 七日、銀花事、弁殿御返事到来、

  銀花事申入候了、御不審之處被注進候、目出候之由所候也、恐々

       八月六日           左衛門尉康長

 一廿一日、あこ雑士夫ノ神人景時之父神殿守景末死去、西向テヒタタレヲキテ往生了、

   (中略3)

 一今日披露御占方

   春日社司言上恠異吉凶若宮寶殿并小社等銀花開、今月三日申時見付、   

  占、今月三日壬申、時加七月節、太一臨申爲用、将天一

  中功曹、六合、終徴明、天空、御行年午上大衝朱雀、

  卦遇、元首玄胎四牝、

    推之、依神事違例不浄致之上、可─二食口舌闘諍事歟、期、

    彼日以後四十日内、及明年四月・七月節中、并戌巳日也、至期被忌誡

    無其咎乎、

       弘安三年八月十六日       大監物安倍泰統

                       主税助賀茂在有

                       大舎人頭安倍朝臣有光

   (後略4)

 

 「書き下し文」

 三日、申の剋、五所の御宝殿等に、銀の花開くの由、神人申さしむるの間、実検せし

  むるの処、数十本の間、銀の実否治定し難きにより、先ず以て三方神人件の花を小

  さき土器に入れて、晴氏・資朝らに見しむるの処、晴氏は花の由之を申し、資朝は

  花に非ざるの由之を申す、之により猶ほ不審を散らし難きにより、次の日の四日

  朝、神主の代官兼時・祐賢の代官祐春寺家に参上す、此の次第を申し入れしむるの

  処、仰せ出せられて云く、花か花に非ざるかの事は、件の花を鏡の上に置きて、刀

  を以て之を切るに、件の花は切れざるの由仰せ出ださるるの間、社頭に帰参し、此

  の沙汰を致すの処、則ち切れ畢んぬ、仍って殿下に言上する能はざるなり、且つが

  つ後代の不審のため、今度の花の員数・在所之を注す、

  注進す 御宝殿銀の花開く事、但し今度に於いては、花に非ざるの由事切れ了ん

  ぬ、

   (後略1)

 

  又四日銀の花を見出す、

   (中略1)

  然りと雖も花に非ざるの由治定の間、言上に及ばず、向後存知として注し置くな

  り、

   (後略2)

 

 同四日、注進す 寺家旧記の事

   (中略2)

  鏡の面にて切れ候ふの由、神主寺家に申し入るるの処、御返事此くのごとし、

  銀の花や否やの事、此の旨を申し入れ候ひ了んぬ、鏡の面にも生ふる事候ふか、伐

  らるや否やの事、御不審ばかりに候ふ、事の次第に於いては、早く注進せらるべき

  かの由、仰せ下され候ふ、仍つて執達件のごとし、

      八月四日             有舜

    追つて申す

     已然両三度の例、同じく注進せらるべきかの由同じく候ふなり、

  之により神主同四日、殿下に言上すと云々、仍つて祐賢も同五日に言上し了んぬ、

  銀の花咲く在所は若宮御方分ばかり書き抜きて注進し了んぬ、

   (後略3)

 

 七日、銀の花の事、弁殿の御返事到来す、

  銀の花の事申し入れ了んぬ、御不審の処注進せられ候はば、目出候ふの由候ふ所な

  り、恐々、

       八月六日           左衛門尉康長

 一つ、廿一日、あこ雑士夫の神人景時の父神殿守景末死去、西に向ひて直垂を着て往

  生し了んぬ、

   (中略3)

 一つ、今日披露す御占方

   春日社司言上する恠異吉凶(割書)「若宮宝殿并に小社等銀の花開く、今月三日

   申の時見付く、」

  占ふ、今月三日壬申、時に申を加ふ、七月節、太一申に臨みて用と為す、将天一

  中功曹、六合、終徴明、天空、御行年、午上大衝朱雀、

  卦遇、元首玄胎四牝、

    之を推すに、神事違例不浄により致す所の上、口舌闘諍を聞こし食すべき事

    か、期す、彼の日以後四十日内、及び明年四月、七月節中、并に戌巳なり、期

    に至り忌み誡むれば、其の咎無きか、

 

 「解釈」

 三日、申の刻、本社四殿と若宮社の御宝殿等で、銀色の花が咲いたという出来事を、神人が申し上げたので、実検させたところ、数十本の花が咲いていた。銀の花の真偽を決定することができなかったので、まず三方神人がその花を小さな土器に入れて、安倍晴氏と土御門資朝らに見せたところ、晴氏は本物の花であると申し、資朝は花ではないと申した。これにより、さらに不審を晴らすことができなくなったので、翌四日の朝に、神主の代官兼時と私祐賢の代官祐春が興福寺に参上した。この事情を申し入れさせたところ、興福寺別当信昭がおっしゃるには、「本物の花かそうではないかということは(本物の花であれば)、その花を鏡の上に置いて、刀でそれを切ると、その花は切れない」とおっしゃるので、春日社に帰参し、その指示を実行したところ、すぐに切れてしまった。だから、関白鷹司兼平に言上するまでもなくなったのである。とりあえず、将来の不審のために、今回の花の数と場所を注進しておく。

  注進する、御宝殿で銀の花が開いたこと。ただし、今回については、本物の花ではないと決着した。

   (後略1)

 

  さらに四日、銀の花を発見した。

   (中略1)

  そうではあるが、本物の花ではないと決定したので、言上するまでもない。今後の先例として記し残すものである。

   (後略2)

 

 同四日、注進する、興福寺の古い記録のこと。

   (中略2)

  鏡の表面で切れましたことを、神主が興福寺に申し入れたところ、ご返事は以下のようなものであった。

  本物の銀の花であるかそうではないかのこと。この件を別当に申し入れました。鏡の表面にも生えることがあるのか、切れるか切れないかのことについて、疑いをお持ちでした。この出来事の事情については、早く注進なさるべきであると、ご命令になりました。そこで、以上の内容を下達します。

      八月四日             有舜

    さらに申し上げる

     以前の二、三度の事例は、同じように注進するべきかという件ですが、同じように注進するべきです。

  これにより、神主は同四日に、殿下鷹司兼平に言上したそうだ。そこで私祐賢も同五日に言上した。銀の花が咲いた場所は、若宮社の分だけ書き抜いて注進した。

   (後略3)

 

 七日、銀の花のこと。弁殿のご返事が到来した。

  銀の花のことを申し入れました。御不審のところを注進なさるならば、喜ばしく結構なことであります。

       八月六日           左衛門尉康長

 一つ、二十一日。あこ雑士女の夫の神人景時の父神殿守景末が死去した。西に向かい、直垂を着て往生した。

   (中略3)

 一つ、今日披露した占いの結果。

   春日社司が言上する怪異吉凶。「若宮の御宝殿や小社等で銀の花が咲いた。今月三日、申の時に見つけた。」

  占う。今月八月三日壬申。時は申。節月では七月。占いの式盤の天盤を回転させ、十二月将のうち七月将・太一を地盤の申に合わせる。十二天将のうちの貴人が太一(巳)に当たる。中の功曹(寅)は、十二天将のうち六合に配当される。終の徴明(亥)は、十二天将のうち天空に配当される。御行年は地盤の午の上の大衝(卯)で、これに乗ずる天将は朱雀である。

  占った怪異の性格は、元首玄胎四牝(主君に何か変化が起こる)である。

    これを推測するに、神事違例不浄が原因でこの怪異が起きたうえに、大きな争乱につながる争論をお聞きになるではないだろうか。期日を定める。銀の花が咲いたあの八月三日以後四十日以内、および翌年四月、七月節中、以上の戌巳の日。期間中に忌み戒めるならば、その神罰はないだろう。

 

 「注釈」

「五所の御宝殿」─春日社の祭神四座を祀った四殿と若宮社の宝殿のことか(永島福太

         郎「解説」『増補續史料大成 春日社記録』1、参照)。

「三方神人」─本社正預方の南郷神人、本社神主方の北郷神人、若宮社の若宮神人(永

       島福太郎「解説」『増補續史料大成 春日社記録』1、参照)。

「寺家」─興福寺。当時の別当は信昭(「興福寺別当次第表」『大乗院寺社雑事記研究

     論集』第五巻、和泉書院、2016)。

「殿下」─関白鷹司兼平か。

「雑士」─「雑士女」。①後宮などで走り使い、雑役に従う最下級の女官。②貴族の家

     に仕える下級職員。③幕府に仕えた下級女子職員。こ

 

*(後略3)には、先例が記されています。長承二年には金の花が三御殿で開き、安元二年には若宮の御簾に銀の花が五本開き、天福二年には若宮の橋に金の花が五本開き、正嘉元年には四御殿の庇の西の柱に銀の花が出現しました。

 

*(中略3)以降の占文の書き下し文や解釈は、細井浩志「六壬占法の一手順に関する覚書─『本朝世紀』仁平元年(一一五一)六月二七日条の伊勢神宮怪異占文について」『活水論文集』四六、二〇〇三・三、https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180320043420.pdf?id=ART0001138434)を参考にしました。ただ、この論文自体を理解するのがかなり難しかったので、書き下し文や解釈にきちんと反映できませんでした。

 

 

*中世の春日社では、銀色の花が咲くことがあったようです。いったい誰のいたずらだったのか、どんなトリックを使ったのか、単なる自然現象なのか。特殊なカビが生えた花でも見て、銀色と認識したのでしょうか。こんな考え方をするから、いつまで経っても中世史料が読み込めないのかもしれません…。

 さて、今回出現した銀の花ですが、当初は偽物であると判断していました。ですが、興福寺別当はこの件に不審ありと考え、結局のところ関白に事件を報告することになりました。そして、陰陽師に占いをさせてみたところ、残念ながら悪い結果が出てしまったのです。

 銀の花が咲くなんて、なんと素敵な現象かと思いきや、どうやら争乱の前兆だったようです。ただ、物忌みをすれば、その神罰を避けることができたこともわかります。中世の人々は、奇怪な現象に遭遇しても、それを占断し、物忌みすることで神罰を避けるという手続きを、きちんと確立できていたようです。人智を超えた不可思議な現象は、恐るべき神仏の意志の結果ではあるが、それを統御する術も身につけていたということになります。この一件から、陰陽道という最先端の科学知識によって、合理的に対処しようとする中世人のたくましい姿が浮かんできます。

 それにしても、どんな色を見て、銀色だと判断したのでしょうか。色の感知・表現には、歴史・文化・言語が深く関わります。虹の色の数が国によって違うことは有名ですが、現代人とは異なる社会に生きる中世人は、いったいどんなものを見て、銀の花と感じていたのでしょうか。とても気になります。

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自死の中世史 2 ─中国の場合2─

 「孝婦の冤罪」 『捜神記』巻11─290(佐野誠子著・竹田晃・黒田真美子編『中国古典小説選2 捜神記・幽明録・異苑他〈六朝Ⅰ〉』明治書院、2006)

 

 漢時、東海孝婦、養姑甚謹。姑曰、「婦養我勤苦。我已老。何惜余年、久累年少。」遂自縊死。

 其女告官云。「婦殺我母。」官收─二繫之、拷掠毒治。孝婦不苦楚、自誣服之。

 時于公為獄吏、曰、「此婦養姑十余年、以孝聞徹、必不殺也。」太守不聽。于公争不理、抱其獄詞、哭於府而去。自後郡中枯旱、三年不雨。

 後太守至、于公曰、「孝婦不死、前太守枉─二殺之、咎当此。」太守即時身祭孝婦冢、因表其墓。天立雨、歳大熟。

 長老伝云。孝婦名周青。青将死、車載十丈竹竿、以懸五旛。立誓於衆曰、「青若有罪、願殺、血当順下。青若枉死、血当逆流。」既行刑已、其血青黃、縁旛竹而上標、又縁旛而下云。

 

 

 「書き下し文」(前掲書参照)

 漢の時、東海の孝婦、姑を養ふこと甚だ謹む。姑曰く、「婦我を養ふこと勤て苦だし。我已に老ゆ。何ぞ余年を惜しみて、久しく年少を累はさんや」、と。遂に自ら縊死す。

 其の女官に告して云ふ。「婦我が母を殺す」、と。官之を收繋し、拷掠毒治す。孝婦苦楚に堪へず、自ら誣りて之に服す。

 時に于公は獄吏為り、曰はく、「此の婦姑を養ふこと十余年、孝を以て聞徹するに、必ず殺さざるなり」と。太守聴かず、于公争ふも理を得ず。其の獄詞を抱きて、府に哭して去る。自後郡中枯旱し、三年雨らず。

 後の太守至り、于公曰はく、「孝婦死に当たらざるも、前の太守之を枉殺し、咎当に此に在るべし」、と。太守即時に身ら孝婦の冢を祭り、因りて其の墓を表す。天立ろに雨りて、歳大いに熟す。

 長老伝へて云ふ。孝婦の名は周青。青将に死せんとするに、車に十丈の竹竿を載せ、以て五旛を懸く。誓ひを衆に立てて曰はく、「青若し枉死なれば、血当に逆流すべし」、と。既に行刑已みて、其の血青黄なり。旛竹に縁りて標に上り、又た旛に縁りて下ると云ふ。

 

 「解釈」(前掲書参照)

 前漢のこと。東海郡(山東省)に孝行な婦人がいて、まめまめしく姑に仕えていた。姑は、「嫁が私を世話することはとても骨の折れることでしょう。私はもう年寄りなのに、余生を惜しんで、若い人に大変なことをさせられません。」と自ら首をくくって死んでしまった。

 姑の実の娘が、役所に「嫁が私の母を殺した」と告発した。役所は婦人を収監し、ひどく鞭打って厳しく取り調べた。孝行な婦人は、苦痛に耐えきれず、自ら偽りの告白をして、罪を認めてしまった。

 このとき于公は獄吏であったが、「この婦人は姑を十数年世話してきて、孝行なことで評判です。殺すなんてことはあり得ません。」と言った。太守はそれを聞き入れなかった。于公は言い争ったが、理屈が通らず、判決文を抱いて、役所で声を上げて泣いて立ち去った。婦人を処刑した後、郡は旱になり、三年の間雨が降らなかった。

 後任の太守が到着すると、于公は事情を説明した。「孝行な婦人は、死ぬべきではなかったのです。それなのに前任の太守は、婦人を無実の罪で殺してしまいました。旱はその罰に違いありません。」太守はただちに、自ら孝行な婦人の墓で祭祀をして、その墓を表揚した。天はただちに雨を降らせて、その年は大豊作となった。

 長老たちは次のような話を伝える。孝行な婦人の名前は周青という。周青は死刑のときに、車に長さ十丈(約25メートル)の竹竿をたて、それに五色の旗をかけて、みなの前で誓った。「青(私)に罪があるのなら、殺されることを願います。そのときには血はそのまま地面に流れるでしょう。もし無実で死ぬのなら、血は逆流することでしょう。」処刑が行われると、血は青黄色をしていて、旗をかけた竹竿に沿って先端まで上がり、さらに旗にそって流れ落ちたという。

 

*今回も『捜神記』からの引用です。この説話も、池澤優氏の「中国の死生観」(注1)で検討されています。ただし、論点になっているのは、無実の罪で処刑された嫁のほうでした。

 この説話も嫁姑関係をテーマにしたものですが、自死を遂げたのは姑のほうでした。健気に仕えてくれる嫁に苦労をかけまいと、老い先短い姑は首を括ってしまったのです。嫁に迷惑をかけたくないという思いやりから自害することがある、と当時の人々は考えていたようです。この状況を改善する方法は、他になかったのでしょうか。この説話についても、自死に対する感情は読み取れません。

 前回同様、今回も説話なので、史実とするには問題があります。ここでは、嫁を思いやって縊死した姑が本当に存在したのか、という真偽の判断は留保しておきますが、仮に史実であったとして、姑が自害した理由が本当に「思いやり」であったことを、いったいどうすれば証明できるのでしょうか。遺書でも残したのでしょうか。それとも嫁に姑本人が語ったのでしょうか。また、遺書や本人の語りがあったとして、その言葉が本心を語ったものであることを、どのように証明すればよいのでしょうか。言葉は嘘をつきますから。自死の本当の理由は、自死した本人しかわからないのです。いや、これも違うかもしれません。実は、自死した本人自身が、自死に踏み切った瞬間の動機を正確に理解していたのかどうかもわからないのです。

 

 「あるひとりの人間の自殺には多くの原因があるが、一般的にいって、これが原因だといちばんはっきり目につくものが、じつは、いちばん強力に作用した原因であったというためしがない。熟考のすえ自殺するということは(そういう仮説をたてることができないわけではないが)まずほとんどない。なにが発作的行為の引き金を引いたか、それを立証することはほとんどつねにできない。」

 アルベール・カミュ「不条理な論証」(『シーシュポスの神話』新潮文庫

 

 どうやら自死の要因は1つではないようです。つまり、自死は複数の要因が覆い重なって引き起こされるのではないでしょうか。また、自死を引き起こした要因を証明することができないとなれば、私たちが自死の要因だと考えてきたものは、いったい何だったのでしょうか。ひょっとすると、それは「人間はこんな状況に陥ると自死する」という第三者の判断にすぎないのかもしれません。自死という出来事についてわかるのは、生きている私たちがそれをどのように理解し意味づけたか、ということだけではないでしょうか。そして、このような「自死に関する知」が新たな自死を生むのかもしれません。生きている私たちは、自死予備軍である可能性を免れることはできないのですから。

 

 さて、もう1つ問題があります。姑は嫁の苦労を思いやるという理由から、なぜ縊死という手段を選択したのでしょうか。嫁への思いやりを示すための行為なら、他に選択肢はいくらでもあったはずです。今回の場合、その思いやりが仇となり、嫁は処刑されるわけですから、姑の善意による企ては失敗に終わっています。(自死の目的と現実に起きた結果が、必ずしも一致するとは限らないことを、この説話から教訓として読み取るべきなのかもしれません。)

 この選択は、個人的な価値判断によってなされたことではあるのですが、個人の価値判断には必ず社会的な価値判断が影響を与えるものです。「迷惑をかけるくらいなら、死んだほうがましだ」という社会的な価値観が当時の中国にあり、それを強く内面化していたと考えられそうです。当然、こうした価値観が一般的であったからといって、すべての老人が自死を遂げるわけではありません。その価値観の強度が問題なのです。強く内面化される人とそうではない人の違いは、いったい何に由来するのでしょうか。それこそが個人的な資質の問題なのでしょうか。おそらくそればかりではないでしょう。きっと、自死者が生活してきた環境の影響も大きいのではないでしょうか。社会といった広く漠然とした環境ではなく、家族や親族、地域などのようなミクロな共同体の影響や、そこでの生活体験(成功や失敗の体験)が、価値観や規範を強く内面化させるのではないでしょうか。現代であれば、学校や会社、SNSなども、そのミクロな共同体に含めてよいかもしれません。

 私は、知らず知らずに身につけてしまっている、誰もが疑わない、社会的に是とされるイデオロギーこそが、自死へと誘う真の曲者だと思っています。

 

 「注釈」

1、池澤優「中国の死生観」『死および死者崇拝・死者儀礼の宗教的意義に関する比較

  文化的・総合的研究』(平成12~14年度科学研究費補助金(基盤研究C(1))研

  究成果報告書、2003.3、http://mcm-www.jwu.ac.jp/~skproject/member/ikezawa.htmlhttp://mcm-www.jwu.ac.jp/~skproject/member/pdf_ikezawa/mi11.pdf)。

自死の中世史 1 ─中国の場合1─

 「嫁の神様」

  『捜神記』巻5─6(開放文學、http://open-lit.com/bookindex.php?gbid=119

 

 淮南全椒縣有丁新婦者、本丹陽丁氏女、年十六、適全椒謝家。其姑嚴酷、使役有程、不如限者、仍便笞捶不可堪。九月九日、乃自經死。

 遂有靈向、聞於民間。發言於巫祝曰、「念人家婦女、作息不倦、使避九月九日。勿用作事。」

 見形、著縹衣、戴青蓋、從一婢、至牛渚津。求渡、有兩男子、共乘船捕魚。乃呼求載、兩男子笑共調弄之。言、「聽我為婦、當相渡也。」丁嫗曰、「謂汝是佳人、而無所知。汝是人、當使汝入泥死。是鬼、使汝入水。」便卻入草中。

 須臾有一老翁、乘船、載葦。嫗從索渡、翁曰、「船上無裝。豈可露渡。恐不中載耳。」

 嫗言無苦、翁因出葦半許、安處不著船中、徐渡之。

 至南岸、臨去、語翁曰、「吾是鬼神。非人也。自能得過、然宜使民間粗相聞知。翁之厚意、出葦相渡、深有慚感。當有以相謝者。若翁速還去、必有所見、亦當有所得也。」翁曰、「恐燥濕不至、何敢蒙謝。」翁還西岸、見兩男子覆水中。進前數里、有魚千數、跳躍水邊、風吹至岸上。翁遂棄葦、載魚以歸。

 於是丁嫗遂還丹陽。江南人皆呼為丁姑。九月九日不用作事、咸以為息日也。今所在祠之。

 

 

 「解釈」(竹田晃訳『捜神記』東洋文庫を参照)

 淮南郡全椒県(安徽省)に丁氏という嫁がいた。もとは丹陽郡(江蘇省)の丁家の娘であったが、十六歳のときに全椒の謝家へ輿入れしたのである。ところが姑が厳しい人で、仕事の量を決めてこき使い、言いつけられただけのことをしなければ笞で叩くため、嫁は辛抱ができない。とうとう九月九日に首をくくり、自殺してしまった。

 それからはその霊異が現れて、民間の評判となったのである。この神は巫女に乗りうつって、次のような神託をくだした。「家々の嫁が絶えず働く苦労を哀れに思うゆえ、九月九日は嫁を使うことを避けよ。この日には、嫁に仕事をさせてはならぬぞよ」。

 それから姿を現し、縹色の着物をつけ、黒い笠をかぶり、女中を一人連れて牛渚の渡しへさしかかった。そして渡し舟をさがしていると、二人の男が一つの船に乗り、魚をとっていた。のせてくれと呼びかけたが、二人は笑いながら口をそろえてからかうのであった。「おれの女房になってくれたら、渡してやるぜ。」すると丁氏は、「お前さんたちはよい人だと思っていたのに、わからずやなのだね。お前さんたちが人間なら、泥の中へもぐって死ぬようにしてやるよ。亡者なら、水の中へつっこんでやるから。」と言うなり、草の中に引っ込んでしまった。

 まもなくそこへ、葦を積んだ舟を漕ぎながら、一人の爺さんが通りかかった。丁氏がそれに渡してくれと言うと、爺さんは、「この舟には覆いがないでな。むき出しのまま女の人が渡るわけにもゆくめえ。お乗りいただくほどの船ではありませんぜ。」

 しかし、丁氏がかまわないと言うので、爺さんは積んである葦を半分ばかり引き出し、船底へじかにふれないように座り心地をよくしてやったうえで、ゆっくりと渡した。

 船が南の岸へ着いて、別れようとするとき、丁氏は爺さんに言った。「わたくしは神です。人間ではありません。自分で渡ることもできるですが、世の人々に少し知らせてやったほうがよいと思ったのです。葦を引き出して渡してくださったお爺さんのお志は、たいへんありがたく思いますよ。いずれなにかお礼をしましょう。あなたが早く引き返せば、きっと何かが見られるでしょうし、何かが手に入るでしょう。」お爺さんは、「さぞ乗りごこちがお悪かったでしょうに、お礼などとは痛みいります。」とあいさつをして西の岸まで引き返すと、そこに二人の男が溺れていた。それからまた一里近く進むと、何千匹という魚が水の上をはねていて、風に吹かれるままに岸へとびあがった。そこで爺さんは葦を捨て、魚を舟に積んで帰ったのであった。

 丁氏はこのようにして丹陽へ帰ったのである。江南の人たちはみな丁姑と呼ぶようになった。そして九月九日には仕事をせず、どこの家でも安息日と言うことにした。今でも方々でこの神を祭っている。

 

 

*「解題」(佐野誠子著・竹田晃・黒田真美子編『中国古典小説選2 捜神記・幽明録・異苑他』明治書院、2006)

 晋・干宝。二十巻。四六四条。佚文三四条。現在、二十巻本、八巻本、敦煌本のテキストが存在する。その内、敦煌本は、唐代以降に作られたと考えられる通俗的なテキストで、干宝の原著とはみなしがたい。また八巻本(稗海本とも呼ばれる)は、敦煌本と重複する話などを含み、これも干宝以後の著作と考えられている。各種類書に『捜神記』からとして引用される話との重複が最も多いのが、二十巻本であり、干宝の原著に最も近いとされる。だが、この二十巻本も明末になって突如現れたものであり、近年の研究では、明人の編集・水増しがかなり行われていると考えられている。現在の二十巻本はほぼ内容別に構成されているが、原本の捜神記にも「妖怪篇」、「感応篇」、「変化篇」などといった篇が存在したという。干宝は、『晋書』巻八二に伝があり、字は令升。新蔡郡(河南省)の人。東晋王朝で、書記官・歴史官である著作佐郎を勤めた。また、術数にも詳しく『周易』に注を施した。干宝は職業柄、王朝の管理する史料や書籍を扱えたためか、収める話は幅広く、過去の史籍等からの引用があるのが特徴である。また、善吏・孝子の話など、志怪の中ではほぼ『捜神記』のみに集中してみられるような題材もある。

 

*「六朝志怪について」(『中国古典小説選2 捜神記・幽明録・異苑他』)

 「志怪」という言葉は、「怪を志す」と読めるように、怪しいコトやモノを記した書籍の総称として用いられている。(中略)今日、志怪は一般的には「志怪小説」と呼ばれる。だが、志怪は、現代的な小説とは性質を些か異にする。志怪は少なくとも今日の小説のように創作の意志を持って書かれてはいなかった。むしろ、記録としての側面が強い。

 

*日本中世の史料を扱うと言っておきながら、まずは中国の説話から紹介していきます。中国の事例も気になったもので…。この話はいつの時代のものかはっきりしません。晋代であれば3世紀から5世紀の間、明代であれば14〜17世紀の間ということになります。

 この説話からわかることは、姑のいびりを苦に、嫁が自死することがある、と当時の人々は考えていたということです。自死の方法は縊死。志怪小説である『捜神記』は完全な創作ではないようなので、きっと似たような事件が実際に起こっていたのでしょう。

 そして、この自死した嫁は神様になり、霊異を発揮します。池澤優氏は、「本来なら怨死者(厲鬼タイプ)に属すが、祟りだけでなく、恩寵を降す力を持つ」(注1)と指摘しています。つまり、この嫁は自死したから神になったというよりは、恨みを抱いて死んだから神になった、ということなのでしょう。

 それにしても、この時代の嫁は、姑のいびりから逃れる方法が他になかったのでしょうか。一般化するのは危険ですが、この説話を読むと、当時の嫁は奴隷のように働かされていたとしか考えられません。そのうえ、誰も助けてくれない、離婚することも叶わない、逃げても捕まる、あるいは生きてゆけない。嫁ぎ先の家族関係に雁字搦めにされて、どうしようもなく自死を選んだのではないかと思えてなりません。

 これ以上の深読みをしても詮ないので、ここでやめておきますが、ただ1点、この説話からは自死に対する感情(例えば憐憫など)は読み取れません。

 

 「注釈」

1、池澤優「中国の死生観」『死および死者崇拝・死者儀礼の宗教的意義に関する比較

  文化的・総合的研究』(平成12~14年度科学研究費補助金(基盤研究C(1))研

  究成果報告書、2003.3、http://mcm-www.jwu.ac.jp/~skproject/member/ikezawa.htmlhttp://mcm-www.jwu.ac.jp/~skproject/member/pdf_ikezawa/mi11.pdf)。

自死の中世史 〜はじめに〜

 「数年前だったか、新聞紙上で、大宅映子さんのこんな行文にふれた。『死ぬとわかっていて、なぜ人間は生きてゆけるのか』、そういう根源的な問いに答えを出していくのが文学部というところだという、ある大学での講演のくだりである。」

  鷲田清一「死なないでいる理由」

   (『死なないでいる理由』角川ソフィア文庫、2011、初出2008)

 

 数十年前に文学部というところ卒業した私に、このくだりはとても新鮮かつ強烈なインパクトを与えました。文学部にはそんな役割があったのか…。たしかに、文学部以外にこんな問題を扱える学部は存在しません。

 学生時代には考えもしなかったことですし、当時この言葉を聞いていたところで、心に響きはしなかったでしょう。人生も折り返し地点を過ぎてしまった今だからこそ、心に染み渡る言葉だと考えるようになったのかもしれません。

 

 私は大学で歴史の勉強をしました。勉強すること自体は、とても楽しいことでしたが、ただ、いつも考えていました。いったい何のために私は歴史を勉強をしているのか、歴史の研究はいったい何の役に立つのか、と。簡単に言えば、研究の社会的意義や目的は何か、ということです。

 結局、その答えを見つけることができないまま卒業してしまいました。私には、内から湧き上がるような問題関心がなかったのです。先行研究を読みながら研究史上の論点を探すこと、史料を解釈し、それを操作して、課題を解決すること。それだけでした。私は、こうした作業を社会的意義や目的と結びつけることができないばかりか、最後まで「私」個人の課題にすることもできませんでした。研究史上の論点は、歴史学という学問上の問題であり、社会にも「私」にも、どこか関係のないもののように思っていたわけです。

 

 よくもわるくも、年齢を重ねるとさまざまな経験をします。そして、自分の最期も見つめるようになります。他者の死をいくつも経験したからでしょうか、それとも絶望をいくつも経験したからでしょうか、次第に自己の死にも関心が芽生えはじめました。これが、内から湧き上がる問題関心なのでしょう。文学部に通っていた経験を生かすときが来ました。

 「死」は誰にでも訪れるものです。どの社会にもあるものですし、いつの時代にもありました。そして、これからもあり続けます。「死」がなくなることはありません。ただ、「死」という現象は、言葉で説明されるものです。言葉から離れて「死」を認識することはできません。言葉は歴史的・社会的に形成されるものですから、「死」の観念も時代や社会に特有なものがあるのではないでしょうか。

 死を追究することの社会的な意義や目的など、研究者でもない私にはもはやどうでもよいことです。ただ、自分のなかには初めて生まれた問題関心にしたがって、中世人たちが死について何を考えていたのかを調べていこうと思います。

 

 さて、「死」とはいっても、さまざまな論点があります。私はそのなかでも、「自死・自殺」に関する史料を紹介していこうと思います。こうした問題に関心を抱いたきっかけは、モーリス・パンゲ『自死の日本史』(竹内信夫役、講談社学術文庫、2011、初出1986筑摩書房)を読んだことです。この本を手に取った当時、いろいろと思い悩む日々を送っていましたが、おかげで「自死」を客観的に見つめるよいきっかけになりました。

 この著書では、さまざまな事例が分析され、自死の要因や背景、影響などが明らかにされており、目から鱗が落ちる思いがしました。ただ、分析された史料のほとんどは文学作品でした。文学作品のすべてがフィクションであり、現実を反映したものでないとは言い切れませんが、古文書や古記録に記された史実としての自死を分析したら、何か違うものが見えてくるのではないかと思うようになりました。ひょっとしたら、何も見えないかもしれません。それも、どうでもよいことです。とにかく、史料を集めてみよう、解釈してみよう、しっかりと自分の頭で考えてみよう、と思っています。

 

 

 「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。」

  アルベール・カミュ「不条理と自殺」

   (清水徹訳『シーシュポスの神話』所収、新潮文庫、2013、初出1969)

 

 人間には必ず死が訪れる。それも、いつ死ぬのか誰にもわからない。にもかかわらず、なぜ今、自ら命を絶つのか。一見すると単純な問題に思われ、それでいて明確に説明ができない。こういう問題をライフワークとして、「体力」ならぬ「脳力」が続く限り考えてみようと思います。

 大それたことは言えようはずもありません。おそらく、単なる史料紹介の連続になるのだろうと思いますが、スルメを味わうかのように、1つの史料に沈潜しながら、読み取れること、考えられることを書き記していこうと思います。

 

 ところで、いったい何を明らかにしたら、自死を理解したことになるのでしょうか。自死に関する問題関心といえば、まず自死の要因ということになると思います。現代では、内閣府が中心となって調査・研究が行われており、その要因を「家庭問題」・「健康問題」・「経済・生活問題」・「勤務問題」・「男女問題」・「学校問題」・「その他」・「不詳」に分類しています(注1)。では、過去の歴史においても、似たような要因によって自死を遂げたのでしょうか。社会状況が異なるなかで、過去の人間がどのような要因によって自死を遂げたのか。まずは、その事例を集めていこうと思います。

 ただし、注意しておかなければならないのは、明らかになった自死要因も、蓋然性が高いだけではないかという点です。究極的には、自死要因は自死を遂げた人にしかわからないのかもしれません。自死要因を判断するには、自死既遂者の遺書や、その人に関わっていた周囲の人々の証言に依らなければなりませんが、それらにどこまで証拠能力をもたせてよいのか、なかなか難しいところです。

 その一方で、自死既遂者に、自己の自死要因が本当にわかっていたのかどうか、ということもはっきりしません。はっきりとした意識をもち、自死要因を認識しながら自死に及んだのでしょうか。結局のところ、その要因は確実なものではなく、推論でしかないということになりますが、それでもその推論を積み重ね、批判をすることでしか、自死を明らかにすることはできないと思います。

 大きな成果を期待せず、まずは書き進めてみようと思います。

 

 

 【注釈】

1、「自殺の経済社会的要因に関する調査研究報告書」(『平成17年度内閣府経済社会総合研究所委託調査』京都大学、2006・3、http://www.esri.go.jp/jp/prj/hou/hou018/hou018.htmlhttp://www.esri.go.jp/jp/prj/hou/hou018/hou18.pdf)。

 

 【追記】

① なるべく年次で史料は紹介していく予定ですが、新しい史料が見つかれば、その都度

 掲載していきます。

② 史料は古文書・古記録を中心に掲載していきますが、興味深いものがあれば文学作品

 でも紹介していきます。

自死・自殺については、さまざまな分野でかなりの研究が蓄積されています。史料を

 解釈するときに参考にしたものは、適宜紹介していきます。

④ 書きためていくうちに、解釈や考え方が変わる可能性もあります。そのときは随時記

 事内容を変更していきます。

田所文書1 その10

    一 安藝国衙領注進状 その10

 

  (東)

  『⬜︎寺勸學院管領

   三田郷九町 被庄号之間、除今度文書了、

            (半)

    除不輸免五丁五反斗

     崇道天皇免百八十歩

     八幡宮御神楽免一丁五反

     角振社御供田        有福

     鎌倉寺免五反

     倍従免二反         弘眞

     公廨田三丁

      久武一丁         助包一丁

      貞助一丁

           (半)

    應輸田三丁四反斗

     乃米五斗代六反

              (半)

     乃米三斗代二丁八反斗

   三田(高田郡   (半)

   同小越村二丁一反斗

            (半)

    除不輸免二丁一反斗

             (半)

     實相寺馬上免一反斗

     同例免五反

     鎌倉寺免五反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

     惣社仁王講免一丁      観念跡

   三田(高田郡

   同久武二丁二百歩

    除八幡宮無量壽院免一丁六反三百歩

    應輸田四反

     五斗代二反

     例代二反

   高田郡

   志道村六丁六反大

    除不輸免二丁四反三百歩

             (半)

     八幡宮免一丁一反斗     智保

     府守社免一反小       今冨

     瀧蔵寺免三反        弥冨

     吉祥御願六反

      友宗三反         宗重三反

     代官免三反         包恒

    應輸田四丁一反三百歩

     五斗代一丁      四斗代一丁一反小

         (半)

     例代二丁斗      加畑七反定

   (山縣郡)

   河戸村二分方八丁七反大卅歩

    平田押領二丁一反小

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

    除不輸免(三丁反) 三丁七反

     公廨田二反) 三丁二反

            今者

     今冨一丁五反 𣃥⬜︎     遠繼七反

     信覺五反          (孫一丸五反入广輸)孫一丸五反

    清書免四反          良高

    國掌免一反          貞末

   應輸田反小卅歩

    官米五斗代七反        同三斗代九反

    三斗代(一丁反小卅歩)     一丁三反小卅歩

 『中分以後依不治定丸以本丸令備進之』

           (半)

  同村一分方四丁二反斗廿歩

   平田押領一丁大

   除不輸免一丁一反

    公廨田九反

     今冨五反 今者弥冨      遠繼三反

     信覺一反

    清書免一反          良高

    國掌免一反          重近跡

          (廿ヵ)

   應輸田二丁三百⬜︎歩

 

    官米五斗代三反小       同三斗代

           (半)

    三斗代一丁三反斗

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

 『[ ]管領

  高田郡

  井原村十六町三反大 一宮御領之間、於今度者除上覧文書了、

   除不輸免三丁四反

    即新宮免一丁七反

    一宮神官恪勤免一丁      友宗

    角振社御祭田七反

   應輸田十二丁九反大       三斗代

 

  右、太畧注進如件、

     三月  日           大判官代(花押)

       ○以上、一巻

 

   おわり

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「鎌倉寺」─小越村(現広島市安佐北区)との境、鎌倉寺山山上には鎌倉寺があって、

      「高田郡村々覚書」に「鎌倉寺一宇、堂八尺四面、本尊文殊、宗旨者禅宗

      之由、毛利御時代は大寺之由、開起之由来知れ不申」とあるが、現在は小

      堂のみ。鎌倉中期と考えられる安芸国衙領注進状(田所文書)の「三田郷

      九町」のなかに「鎌倉寺免五反」とある寺と思われる。村内の拝みと呼ぶ

      地の水田八反が鎌倉寺領であったが、福島氏時代に没収されたと伝える

      (「有留村」『広島県の地名』)。

「小越村」─安佐北区白木町小越村。市川村の三篠川を境に東対岸に位置し、南はその

      支流を挟んで秋山村に接する。高田郡に属し、古くは秋山村と一村であっ

      たともいう。「芸藩通志」に「広三十町、表十五町、東北は山高く、西南

      は平田にて、川を界す、民産、工商あり」とある。承安三年(1173)

      二月日付の安芸国司庁宣(厳島文書御判物帖)に「三田郷内尾越村為伊都

      岐島御領、知行民部大夫景弘事」とあり、続けて「右件三田郷内尾越村

      者、任文書相伝之理、為神主景弘朝臣地頭寄進伊都岐島御領、於官物者、

      弁済国庫、以万雑公事代、可令勤仕神役之状、所宣如件」とあり、他の三

      田郷内の村々と同様、平安時代末期には厳島神社領として万雑公事代を神

      社に納めることになっている。一方で、鎌倉時代中期のものと思われる安

      芸国衙領注進状(田所文書)には「小越村二丁一反斗」とあり、「除不輸

      免二丁一反斗」として「実相寺馬上免一反斗、同例免五反、鎌倉寺免五

      反、惣社仁王講免一丁」と記される。なおこの頃小越村の地は厳島神社

      三田新庄にも属したらしく、同庄の上村と下村の村境の和与を記した永仁

      六年(1298)五月日付の藤原氏代使源光氏藤原親教和与状(永井文

      書)に「小押越狩倉内目籠大丸小丸可被付上村」とある。この「小押越」

      が小越村のことかと思われるが、この和与状に記される地名を現在地に比

      定すると、三田新庄上村はおおよそ現白木町秋山地区、下村が原三田地区

      と考えられる。(中略)居拝見にある中山神社は、「国郡志下調書出帳」

      に中山八幡社と記され、感情年月は不詳であるが、寛永七年(1630)

      再建の棟札があると記される。同書出帳は他に吉井権現社・山根荒神社を

      記し、実相寺という地名が残り、観音堂一宇があると記すが、これは前記

      国衙領注進状に見える実相寺の跡地と思われる(「小越村」『広島県の地

      名』)。

「志道村」─安佐北区白木町志路。永承七年(一〇五二)三月二十日付田口代武田畠売

      券(新出厳島文書)に「三田郷内志道村」とあるのがのちの志路村で、応

      徳二年(一〇八五)三月十六日付の高田郡司藤原頼方所領畠立券文(同文

      書)に三田郷のうちとして「志道村」が記され。字名として「とゝろ木・

      太木田・段冶原・仁恵谷・かたと田」などが見える。すなわち「和名抄」

      記載の古代の三田郷に含まれるが、鎌倉中期ごろとされる安芸国衙注進状

      (田所文書)には「志道村六丁六反大」とあり、「不輸免二丁四反三百

      歩」のうちには「八幡宮免一丁一反斗・府守社免一反小・瀧蔵寺免三反」

      などが記されている。中世末期には毛利氏の一族坂氏より出た志道氏が居

      住しており、「閥閲録」所収の志道太郎衛門家書上には「芸州高田郡志道

      村ニ致在居候付、以邑名改志道申候」とある。また同書所収同家文書には

      天正年間(一五七三─九二)の志道村知行安堵の判物が載る。(中略)前

      記国衙領注進状に「瀧蔵寺」と記される寺は古く竜蔵寺山にあり、「高田

      郡村々覚書」に「先年ハ坊数拾弐坊、下寺御座候由、何年以前より退転仕

      候も知レ不申候」とある(『広島県の地名』。

「河戸村」─未詳。「上四日市村」(現安佐北区可部町四日市)のことか。中世では可

      部庄に含まれ、戦国時代には下四日市村・今井田柳瀬村と一村で、総名を

      河戸(高度)と称したが、毎月四日に市立てをしたところから、四日市

      村名を得たという(郡中国郡志)。太田川河岸の河戸浜は、中世には川船

      の遡行限界地で、高宮・山県・佐伯・沼田各郡など上流地域からの年貢の

      積出港であった(『広島県の地名』)。

「井原村」─安佐北区白木町井原。「和名抄」に記す高田郡三田郷のうちで、寛治三年

      (一〇八九)十月九日の散位佐伯忠国田地売券(野坂文書)に「合肆段 

      在三田郷井原村字斗前坪 四至東限公田 南限友垣田 北限山道 南限斗

      前」とある。またこれより四年前の応徳二年(一〇八五)三月十六日付の

      高田郡司藤原頼方所領畠立券文」(新出厳島文書)に「先祖相伝所領畠」

      と記されている三田郷内の「熊埼村・小田村・佐々井村・高山村・大寺

      村」は、いずれも井原村内に小字として地名が残る。なかでも佐々井村は

      古く治暦二年(一〇六六)三月二日付中原実安田地売券(酒井清太郎氏所

      蔵厳島文書)に「三田郷佐々井村字桑田」と見え、散位中原実安が佐々井

      村内の田を郷司藤原朝臣(守遠か)に売り渡している。また寛治三年四月

      五日の橘頼時が、佐々井村の相伝所領田を売却している。

      他の三田郷内の地と同様、井原村の地は十一世紀中期ごろには在庁官人の

      藤原氏が自己の所領として相続・譲与する地に含まれ、平安末期から中世

      初期にかけては藤原氏から源頼信、さらに厳島神社神領・佐伯氏という経

      緯をたどるが、寛元元年(一二四三)十一月日付の安芸国司庁宣案(新出

      厳島文書)には「可令早以一宮半不輸地井原村、限永代為一円当社領、造

      営未造舎屋等事」とあり、井原村はとくに厳島神社の未造舎屋の造営料地

      とされている。鎌倉時代中期とされる安芸国衙領注進状(田所文書)にも

      「井原村十六町三反大 爲一宮御領之間、於今度者除上覧文書了」と記さ

      れる。一宮は厳島神社である。しかし厳島社領としての実際の領知はなか

      なか困難であったらしく、正応五年(一二九二)五月九日の厳島社神官等

      申状(新出厳島文書)では、井原村を「如元為一円神領、令

      未造舎屋」ことを願い出ている。

      一方、「閥閲録」所収の内藤二郎左衛門家文書によれば、嘉暦二年(一三

      二七)「井原村地頭職内名田」が、内藤為綱より甥の泰廉に譲られてお

      り、暦応四年(一三四一)には内藤教泰が「安芸国長田郷地頭職并井原村

      一分地頭職」を安堵されている。なお同書所収井原孫左衛門家書上には

      「御当家越後国佐橋より芸州吉田え御移被成候時致随身、同国井原村え令

      下向、号井原高四郎師久」とあり、毛利氏の時代には在地名を負う井原氏

      のいたことが知られる。(中略)高瀬にある顕本法華宗高源寺は銀明山と

      いい、承元三年(一二〇九)天台僧道正が有留村に開基したが、永禄三年

      (一五六〇)法華宗の僧日殷と宗意問答をし、ついに門とともに法華宗

      帰し、末寺鎌倉寺を有留村に残しこの地に高源寺を創始したという(『広

      島県の地名』)。

田所文書1 その9

    一 安藝国衙領注進状 その9

 

   應輸田二丁七反         例代

  (高宮郡

  佐々井村七丁二百卅歩

   除不輸免丁五反) 六丁五反

    即新宮免一丁

    一宮免二丁七反

     八月一日御供田一丁一反

     山王社免一丁

     御神楽免六反

     惣社仁王講免一反      行西

     瀧蔵寺免三反        弥冨

     舞人免二反         有光

     調所勘料田         朝資跡

     左方税所勘料田二反     遠宗 今者淂重

        

   (入广輸 在廳屋敷一丁)      (王一丸)

      一丁                 

    應輸田五反大         官米三斗代反大

     三斗代七反

  (石)(高宮郡

   ⬜︎浦村四丁五反三百八十歩

    除不輸免三丁二反

     即新宮免一丁

     一御社免二丁二反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

      御供田一丁二反

      御神楽免一丁

           (半)

    應輸田一丁三反斗       三斗代

  高宮郡

   苅田郷四丁一反二百卅歩

    除不輸免二丁一反六十歩

     崇道天皇免六十歩

     八幡宮御神楽免一丁

     五ヶ寺免一丁一反

    應輸田二丁百八十歩      例代

   同久武村五丁六反

    除不輸免二丁六反卅歩

               廿歩

     八幡宮免一丁五反小四十歩

      御神楽免九反

      無量壽院免六反百四十歩

     五ヶ寺下地大

     久武公廨田一丁

           三百廿歩

    應輸田二丁九反斗卅歩

     官米五斗代七反

           三百廿歩

     例代二丁二反斗卅歩

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   𣃥次村五丁百廿歩

    除不輸免四反

     税所勘料田二反大      清遠

     御厩案主免一反小      有福

    應輸田四丁六反小     官米五斗代

   高田郡

   粟屋郷十八丁一反三百歩

    除不輸免二丁七反大

     五ヶ寺例免五反

     倍従免二反大        今富

     久武公廨田二丁

    應輸田十五丁四反六十歩

     葉本村二丁四反小      官米五斗代

     郷分十二丁九反三百歩    例代

   高田郡

   長田久武六反三百歩

    除不輸免六反三百歩

     五ヶ寺例免一反三百歩

     久武公廨田五反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「佐々井村」─現八千代町佐々井。文明二年(一四七〇)六月三日付の室町幕府奉行衆

       下知状(毛利家文書)をもって毛利豊元は将軍義政より「宍戸駿河守跡

       但除秋野粟屋等」の領地を預けられたが、同七年十一月二十四日付の毛

       利豊元譲状(同文書)によると、このうちに「佐々井」の地が含まれて

       いる。なお永正四年(一五〇七)のものと思われる毛利興元上洛浮役日

       記(同文書)に「七十五貫 佐々井」とある。「閥閲録」所収の天文十

       九年(一五五〇)十二月二十日付の兼重五郎兵衛家文書によれば「佐々

       井之内常定名」の田二町、同じく同二十三年九月二十五日付文書には

       「佐々井村七拾五貫」の地が毛利隆元によって兼重弥三郎に給せられて

       いる。また同書所収の永禄十年(一五六七)十二月五日付の重見与三左

       衛門家文書には「佐々井村之内森兼名」が木原元次に渡されている

       (『広島県の地名』)。

「瀧蔵寺」─前記国衙領注進状に「瀧蔵寺」と記される寺は古く竜蔵寺山にあり、「高

      田郡村々覚書」に「先年ハ坊数拾弐坊、下寺御座候由、何年以前より退転

      仕候も知レ不申候」とある(「志道村」『広島県の地名』)。

「調所」─「ちょうしよ」とも。もとは調の収納を掌る役所であったが、平安末期には

     軽物(繊維類)の収納、度量衡の管理、納入製品の価格決定、返抄の発給を

     掌った(『古文書古記録語辞典』)。

石浦村」─吉田町西浦。嘉禎四年(一二三八)四月十七日の伊都岐島社廻廊員数注進

      状案(新出厳島文書)に「石浦」とあるのがこの地と思われ、古くは厳島

      神社社領であった。村内の平家ヶ丸城跡南麓に厳島神社跡があり、「安芸

      国神名帳」に記される四位石占明神がそれと言われる。のち毛利氏の領有

      となり、文明七年(一四七五)十一月二十四日付の毛利豊元の千代寿丸

      (弘元)宛譲状(毛利家文書)に「西浦」の地名が見える。また明応四年

      (一四九五)三月十二日付の棟別銭支配帳(同文書)に「石浦分壱貫五百

      十もん」が見える。天文十九年(一五五〇)八月十五日、毛利隆元厳島

      神社に寿命長遠・武運長久などの祈願料として「安芸国高田郡吉田庄之内

      小山七十五貫 西浦七十五貫」を寄進している(「芸藩通志」所収厳島

      書)。他にも西浦・小山のうち別に百五十貫目を棚師房顕の庶路用として

      いる(野坂文書)。天正十九年(一五九一)ごろには厳島神社内宮外宮の

      毎月二十五日の月次連歌入用料として西浦村から一二九石三斗四升が送ら

      れている(同文書)。

「一御社」─一宮のことか。厳島神社

苅田郷」─「勝田村」現八千代町勝田。「和名抄」に記される高宮郡苅田郷の地とさ

      れ、苅田郷は嘉応三年(一一七一)正月日付の伊都岐島社領安芸国壬生庄

      立券文(新出厳島文書)に、壬生庄(現山県郡千代田町)の四至のうちに

      「限東多治比苅田簗原堺」と記される。また文暦二年(一二三五)六月五

      日付で幕府が安芸国守護藤原親実に「原郷」以下の所領を領知された関東

      下知状案(同文書)に散在名田四ヵ所の一つとして「苅田郷内」とある。

      下って応永十五年(一四〇八)四月九日付の毛利光房に宛てた山名時凞書

      状(毛利家文書)にも「苅田、佐々井」の名が見える。享徳三年(一四五

      四)四月二十八日の内宮役夫工米段銭請取状案(同文書)に毛利凞元知行

      関係のうち「苅田郷内弥次村三段分」が記されている。また文明二年(一

      四七〇)六月三日には、毛利豊元が宍戸持朝を撃破してその旧領を将軍義

      政から授けられたが、そのなかに苅田の地もあり、同七年十一月二十四日

      に嫡子弘元に宛てた譲状(同文書)にも苅田が明記されている(『広島県

      の地名』)。

「案主」─「あんず」とも。①荘園の下級荘官。公文・下司の指揮下で文書の作成・保

      管の仕事を行った。②造寺司・六衛府検非違使庁や公家政所、勧学院

      所の職員。多くは清原・中原・紀氏などの六、七位の官人であった(『古

      文書古記録語辞典』)。ここでは厩の役人の給免田を指していると考えら

      れます。

「長田」─現向原町長田。「和名抄」所載の高田郡風速郷に含まれる地で、大治二年

     (一一二七)三月日付の安芸国高田郡風早郷田畠等立券文(新出厳島文書)

     に「長田村」と見え、三十余の名と段数および「本垣村」を含む長田村の桑

     の本数が千五百五本と記される。風早郷内の他の村々と同じく平安時代末期

     には厳島社領となり、健保四年(一二一六)にはその神主職で鎌倉御家人

     もなっていた佐伯(内藤)為弘が地頭職を得、以後この一族よって地頭職が

     伝領される(「閥閲録」所収内藤次郎左衛門家文書)。厳島神社領としては

     中世後期にまで存続し、応永四年(一三九七)六月日付の厳島社領注進状

     (巻子本厳島文書)にも「諸免田等」の一つに「長田郷」が記される(『広

     島県の地名』)。

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