周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史2─14 〜現世の浄土と自殺 分析編〜 (Suicide and Heaven on Earth part2)

【「自殺の中世史2─13」からのつづき】

 

 嘉元二年(1304)九月十三日、石清水八幡宮山上の社殿で、閉籠していた大山崎神人たちが集団で切腹事件を起こしました。いったい、なぜこのような事件が起きたのでしょうか。まずは、この事件の概要を説明しておきます。

 この事件の起きる2ヶ月前のこと。七月十六日に後深草法皇崩御しました。これによって「天下之穢気」と認定され、八月十五日に催行する予定だった放生会が九月に延期されました(史料4)。「天下触穢」の期間は三十日であるので(注1)、九月十五日に延引されたのでしょう(『実躬卿記』同年十月五日条所載の宣命案、5─280頁)。その後、八月二十四日に大山崎の神人らが石清水八幡宮に閉籠し(「石清水八幡宮放生会部類録目録」『石清水八幡宮史料叢書』3─334頁)、九月十三日に社務壇妙清が彼らの捕縛を命じました(史料1)。その捕縛者リストが【史料2】ということになります。閉籠した全14名の神人のうち7名が切腹し、その流血によって社殿は穢れてしまいました。こうした流血事件の先例を按察僧都に調査させ、注文として提出させたのが【史料3】だと考えられます。

 大山崎の神人たちが閉籠した事情は明記されていませんが、おそらく勅祭である放生会を妨害することで、自らの要求を石清水上層部や公武政権に認めさせることが目的だったと考えられます(注2)。ところが、彼らの要求は受け入れられるどころか、9名が捕らえられ、5名が自殺によって死に至ったのです。この事件により、放生会は十月十五日に再延期されることになりました(『実躬卿記』同年十月十五日条、5─296頁)。

 

 以上が、「大山崎神人 集団切腹事件」の概要になるのですが、ここで注目しておきたいことは2つあります。まず1つ目は、【史料2】の切腹した神人らの処置です。紀八以外の人物については、切腹した場所からすぐに運び出されたことが、そして死亡した5人については、絶命した場所が、細かく記されています。加えて、「以上五人」という文言をあえて記していることも重要です。つまり、「召捕交名(捕縛リスト)」と銘打ちながらも、この注文の作成主体である祠官や社僧は、神人が死んだか否か、その場所はどこか、ということにも強い関心を抱いていたことがわかります。

 ではなぜ、死とその場所が問題だったのでしょうか。一般的に宮中や寺社に死穢が及ぶと、儀式や仏神事が中止されたり延期されたりすることがありました(注1・山本著書、16頁)。前述のように、この事件の二日後、九月十五日に放生会が予定されていたのですから、神人らが死んだか否かは当然気になるところだったのでしょう。

 続いて、神人が死亡した場所を確認してみると、助二郎と宗永は「山下宿院谷辺」、清三郎と宗吉は「西鳥居外櫟木下」、紀内は「谷坊前」で絶命したと記されています。このうち、本殿から最も遠いと考えられるのが「山下宿院谷辺」です。鍛代敏雄氏の研究によると、石清水八幡宮の境内都市は、天下国家の祈祷・祭祀を勤仕するための、いわば聖なる空間としての「山上」と、地下の俗なる空間としての「山下」との、二元的な構成になっていたそうです(注3)。

 この指摘を踏まえると、祠官らは死穢が山上に及んで、放生会が延期されないようにするため、自殺者を少しでも遠い場所へ移送させたと考えられます。そして、山上に死穢が及んだか否かを判断するために、絶命した場所を詳細に報告させたのでしょう。今回の場合、捕縛時の流血や神殿の破損によって、放生会は延期されたので(『実躬卿記』同年十月五日条所載の宣命案、5─280頁)、死穢は発生していなかったことになります。

 

 それにしても、なぜ全体の半分にあたる7人もの神人が切腹を決行したのでしょうか。「命がけの要求」と言えばそれまでですが、そもそも自殺を脅しに使うにしても、本当に自殺してしまったら、死後に実現された要求を、生きて享受することはできません。自身の死によって、他者や自身の所属する集団の要求が叶えられることに満足感を見出し、自殺を決行する場合もあるのでしょうが、今回の場合、自殺によって神人らの要求が叶えられた様子もありません。神人たちの自殺には、どのような「原因動機」と「目的動機」があったのでしょうか。この疑問に答えるために、もう一度自殺決行に至る事件の流れを追ってみましょう。

 

 【史料1】によると、大山崎神人の強訴は、権別当堯清の奏状によって公家政権に伝えられた後、公武両政権で評議されたのですが、まったく聞き入れられませんでした。そして、神人たちが社殿に放火するという噂がたったので、放生会の前々日九月十三日に、社務妙清はとうとう捕縛を決意したのです。通常、神人たちは祠官らを通じて公家政権に要求を伝え、祠官らが公家政権側と交渉していくのですが(注2・伊藤著書、293頁)、今回はその要求が受け入れられないどころか、代弁者であるはずの祠官(社務妙清)によって捕縛が決行されました(注4)。それを知った神人たちの一部は刀を持って斬りかかり、一部は切腹を遂げたのです(史料2)。自分たちの要求が認められず、祠官にも見放されて捕縛対象になったことで、怒りの感情や報復・抵抗意志が生じた一部の神人たちは刃傷沙汰を引き起こし、絶望感や諦念感が生じた一部の神人たちは自殺に及んだのではないでしょうか。

 以上のような神人たちの心情推理の妥当性はさておき、次のことが気になります。それは、自分たちの要求が拒絶されたうえに、社務からも見放され捕縛対象になったという同じ原因でありながら、一方は傷害事件(他者への暴力)を引き起こし、もう一方は自殺(自己への暴力)を引き起こしているところです。いったい、なぜ暴力の向かう方向性が「他者」と「自己」で真反対になっているのでしょうか。自殺に絞り込んで、もう少し考えてみましょう。

 

 前述のように私は、神人たちが自殺を遂行した際の心情を「絶望感や諦念感」と推測しましたが、これらの感情の生起が、本当に自殺に至らしめる原因になるのでしょうか。「望みを絶たれた・諦めた」のなら、無抵抗なまま捕らえられるという選択肢もあり得たはずです。それこそが、【史料2】の「九郎・源三・源三郎・得一法師」の4人ではないでしょか。彼らは「無別子細、召捕了、」と記されているように、抵抗も自殺もせず、ただ捕らえられたと解釈できます。つまり、「絶望感や諦念感」の生起は、「自殺」だけでなく「投降」の原因にもなってしまうのです。もはや、これ以上心情を推理することに何の意味もないことは明らかなので、次に「目的動機」の分析に移りたいと思います(注5)。

 

 では、史料2の自殺者たちは、どんな目的を実現するために、自殺という手段を選択したのでしょうか。たとえば、捕縛されて処罰されるくらいなら自ら命を絶ったほうがましだ、という苦痛からの逃避を、「目的動機」であると推測することは可能かもしれません。ただし、かりにそうだったとしても、「命を絶ったほうがましだ」と考えるほどの「苦痛」とは何か、という疑問はまだ残ります。

 実は、この事件の二十年ほど前から、神人らの集団訴訟を禁止する公家新制が複数発布されており、違反するとその神人職が解却されるという厳しい処罰が下されることになっていたそうです(注2・鍛代著書、26頁)。とすると、ここで私が問題としていた「苦痛」とは、「神人身分の剥奪」ということになりそうです。当時の大山崎の神人は、神人身分であるがゆえに油商売の特権を得ていたわけですから、身分が剥奪されれば、即その特権(生きる糧)を失うことになります。強訴が認められなければ、特権の源である身分を失うことになるのですから、強訴閉籠は彼らにとって、まさに命がけの「賭け」だったのかもしれません。ただ、それでも、本当に身分を失うことが死ぬほどの大問題であったのかという疑問は、まだ残ります。

 その他にも疑問を挙げればきりがないのですが、たとえば、かりに自殺するにしても、わざわざ閉籠した社殿でなくてもよいはずです。捕らえられ、神人身分剥奪の処分を受け、その後別の場所で自殺してもよいはずです。あえて社殿のなかで自殺する理由とは何か、と問わなければならないのではないでしょうか。当時の神人たちが八幡神をどれほど信仰していたのかわかりませんし、その信仰心を数値化することもできませんが、祠官や社僧ほどの信仰心ではないにしろ、神に仕える身でありながら、本殿を血や死で穢すことに、何の躊躇もなかったとは考えられません。本殿を穢してでも、そこで自殺を遂げる何らかの目的や価値があったのではないでしょうか。このような問いの立て方がそもそも間違えている可能はありますが、この疑問を解くうえで示唆を与えてくれるのが、2つ目の注目点です。

 

 前述のように、【史料3】は流血事件の先例をまとめた注進状です。日付以降の文言によると、大山崎の神人助二郎が石清水の社殿で自殺したとき、検校の竹瀧清が先例を尋ね、按察僧都に注進させたものとされています。

 この史料では2人の僧侶の自殺が記されているのですが、1人目の勢田社司(未考)の親類の僧侶は内殿の廊下で自殺し、絶命前にそこから運び出されたことがわかります。2人目の僧侶は西の経所の前で自殺したのですが、これも絶命前に外に運び出されたようです。【史料2】と同様に、やはり社殿で死に、死穢で汚染されてしまうのを避けるために、外に運び出されたと考えられます。

 ここで注目したいのは次の点です。自殺以外の事件では、争論・口論・強盗といった流血の原因が記されているのですが、自殺事件については、その原因が書いてないのです。おそらく原因がわからなかったから書いてないのでしょうが、そうであるがゆえにより示唆的なのです。1人目の僧侶はただ「参籠」(籠もって祈願)しただけで、訴訟のために「閉籠」したのではないことがわかります。2人目もただ「参詣」しただけのようです。つまり、純粋に石清水に参籠・参拝し、そして自殺したと考えられるのです。まるで自殺するために、石清水に参詣したかのように読み取れるのですが、どうして2人の僧侶は石清水の社殿で自殺を遂げたのでしょうか。それはこの場所が死を迎えるのに適した場所だったからだ、と私は考えています。

 

 石清水八幡宮本地仏には諸説あるようですが、当時、阿弥陀如来(中御前)・観音菩薩(東御前)・勢至菩薩(西御前)の三尊が本地仏と考えられていました(注6)。つまり、石清水八幡宮の鎮座する男山山上は、現世に現れた阿弥陀如来の御坐します西方極楽浄土ということになるのです。中世びとは、そこで命を絶てば、そのまま来世でも極楽に往生できると考えていたのではないでしょうか。

 こうした石清水山上を西方極楽浄土とみなす考え方については、すでに先学によって指摘されており、鍛代敏雄氏は、中世における石清水祭祀の最大の目的は、西方極楽浄土の世界を再現することであったのではないか、と考えられています(注7)。また、石清水本殿の周辺に設置された僧坊は「男山四十八坊」と称されていますが、その四十八という数字は阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩の「四十八願」に由来すると考えられています(注8)。

 このように、中世の石清水八幡宮の山上が現世の西方極楽浄土と見なされていたからこそ、【史料3】の2人の僧侶は純粋に極楽往生を願い、仏のすぐそばで自殺を遂げたのではないでしょうか。また【史料2】の7人の神人たちは、自分たちの要求が拒絶され、捕縛対象になったことによって絶望感・諦念感が生じ(原因動機)、捕縛・処罰され、特権を失ったまま生きる苦痛を避けたい、そしてそれなら現世の極楽浄土で往生したい(目的動機)と考えて、自殺を遂げたのではないでしょうか。このように考えなければ、神仏に仕える神人や僧侶が、死や血で聖域を穢す理由が説明できないのです。

 以前、「自殺の中世史30 ─中世の説話9・説話のまとめ─」のなかで、西本宗助氏(注9)の研究を引用しながら、次のようなことを指摘しました。仏教は自殺行為自体を否定的に捉えていたが、浄土信仰への誤解や狂信によって、往生目的の自殺が増加する、と。今回の事例も同様で、浄土信仰への誤解や狂信が、「逃避・往生という目的」と「自殺という手段」を、安易に結びつけてしまったのではないでしょうか。

 

 

 「注釈」

(1)黒田日出男「こもる・つつむ・かくす─中世の身体感覚と秩序─」(『日本の社会史』第8巻、岩波書店、1987、191頁)、山本幸司「穢とされる事象」(『穢と大祓 増補版』解放出版社、2009、16頁)。

(2)伊藤清郎「石清水八幡宮」・「中世国家と八幡宮放生会」(『中世日本の国家と寺社』高志書院、2000、263・293頁)。また、鍛代敏雄氏の研究によると、石清水八幡宮の神人たちの強訴は「神訴」と呼ばれ、神人らが放生会を楯にして、主に神領の保証と、神人の生業の支障や身分特権に関する訴訟を受理、裁許させることを目的としたものだった、と説明されています(「石清水放生会に於ける『神訴』」『国史学』134、1988・3、38頁、「石清水神人と商業」『中世後期の寺社と経済』思文閣出版、1999、26頁など)。なお、この閉籠事件については、伊藤著書262・293頁、鍛代著書26頁、小西瑞恵「都市大山崎の歴史的位置」(『大阪樟蔭女子大学学芸学部論集』39、2002・3、62・63頁、

https://osaka-shoin.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1729&item_no=1&page_id=3&block_id=24)で触れられています。

(3)「戦国期の境内都市『八幡』の構造」(『戦国期の石清水と本願寺法蔵館、2008、10頁)。

(4)神人らを捕縛した社務妙清ですが、この事件を遡ること約二十年、弘安五年(1282)十二月二十日に気になる事件を起こしています。この日、石清水の神人たちは強訴しているのですが、裏で糸を引いていたのは当時も社務であった妙清だったのです(『勘仲記』同日・二十四日条、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949542)。つまり、妙清は神人たちと結託して、彼らに強訴させていたのです。結局そのことが露見し、十二月二十八日に次の社務田中守清と交代しています(「守清」『石清水八幡宮寺祠官系図国文学研究資料館

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00021.jpg

および「妙清」

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00032.jpg)。以下は単なる憶測ですが、ひょっとすると、今回も社務妙清と神人は裏で結びついていたのに、神人を見放し捕縛へと転じたため、神人たちはその怒りや絶望から、刃傷・自殺事件を引き起こしたのかもしれません。

(5)自殺の「原因動機」を追究することは、「自殺研究」には意味があっても、「自殺防止研究」にはそれほど意味がない、と私は考えています。その理由については、「自殺の中世史17〜21 ─自殺史料紹介の悩み1〜5─」で詳細に述べましたが、簡単に言えば、今回の史料のように、①原因が後から後から現れて、結局何が真の原因か確定できなくなること(因果連鎖の問題)、②原因を指摘したところで、それを解決する効果的な対策をうつことが現実的には難しいこと、を指摘しました。「自殺」は行為です。行為分析には原因動機だけでなく、「目的動機」の解明が必要です。私は、「自殺とは何か」という問いを立てていません。私は、「何を目的に人は自殺するのか」「なぜ目的実現のために自殺という手段を選ぶのか」「自殺でなければその目的は本当に達成できないのか」「どうして目的達成のために自殺という手段が思い浮かんでしまうのか」という問いを立てています。自殺の目的を明らかにし、目的実現のために自殺という手段を選択することの無意味さを説明できなければ、いつまで経っても自殺を防ぐことはできないと考えています。自然科学、社会科学、人文科学のどれでもいいので、早いところ科学的にその無意味さを証明してほしいものです。

(6)「二十二社の概要 ②石清水八幡宮」(『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000、689頁)、「宮寺縁事抄第一末」(『神道大系 神社編七 石清水』1988、38頁)。

(7)「石清水祭祀と神人の経済活動」『会報』八幡の歴史を探求する会、29、2012・8、https://yrekitan.exblog.jp/22318195/。同「中世から近世における神仏習合の新研究─八幡宮寺の神事と仏事─」科研成果報告書、2017・8、

https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-26370783/26370783seika.pdf。なお鍛代氏はより厳密に、本宮・本社が西方浄土護国寺薬師如来の東方浄瑠璃浄土と見なされていた、と考えています。

(8)本庄良文「八幡における浄土信仰」(『会報』八幡の歴史を探求する会、43、2013・10、https://yrekitan.exblog.jp/22316376/)。

(9)「仏教と自殺」(『京都府立大学学術報告』人文、14、1962、 https://kpu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3549&item_no=1&page_id=13&block_id=17)。

 

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平成の大修造パンフレット その1

 

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 その2

 

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 その3

 

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その4

自殺の中世史2─13 〜現世の浄土と自殺 史料編〜 (Suicide and Heaven on Earth part1)

【史料1】

  嘉元二年(1304)九月十三日条       (『実躬卿記』5─240頁)

 

                    (源師重)    〔堯ヵ〕

 十三日、〈壬戌、〉晴、(中略)抑万里小路大納言持参権別当桑清法印状、備叡覧、

 此事八幡大山崎神人致嗷訴之余、自去比閉籠社頭、閉三方楼門立籠、追出御殿司等之

 間、常燈并不断大般若経退転云々、就公家・武家重々雖有其沙汰、都不承引、剰及放

 火之企間、社務妙清法印今暁以人数搦取彼神人之処、両三人自殺云々、搦手少々被刃

 傷、此上者社壇流血無異儀歟、然而於閉籠之神人者、悉召取云々、是又珍事歟、後

 聞、社務此子細馳申、前検校尚清法印又申入、両方申詞参差、所詮於妙清者、無身咎

 之次第言上之、至尚清者、揚社務之罪科者歟云々、

 

 「書き下し文」

 十三日、〈壬戌、〉晴る、(中略)抑も万里小路大納言権別当堯清法印の状を持参し、叡覧に備ふ、此の事八幡大山崎神人嗷訴を致すの余り、去んぬる比より社頭に閉籠す、三方の楼門を閉じ立て籠もり、御殿司らを追ひ出すの間、常燈并びに不断大般若経退転すと云々、公家・武家に就き重ねがさね其の沙汰有りと雖も、都て承引せず、剰へ放火の企てに及ぶの間、社務妙清法印今暁人数を以て彼の神人を搦め取るの処、両三人自殺すと云々、搦め手少々刃傷せらる、此の上は社壇流血異儀無きか、然れども閉籠の神人に於いては、悉く召し取ると云々、是れ又珍事か、後に聞く、社務此の子細を馳せ申す、前検校尚清も又申し入る、両方申す詞参差たり、所詮妙清に於いては、身に咎無きの次第之を言上す、尚清に至りては、社務の罪科を揚ぐる者かと云々、

 

 「解釈」

 十三日、〈壬戌、〉晴、(中略)さて、万里小路大納言源師重が石清水八幡宮別当堯清法印の書状を持参し、後二条天皇のお目にかけた。これは石清水八幡宮大山崎神人が強訴に及んだ結果、この前から社殿に閉籠していた。三方の楼門を閉じて立て籠もり、御殿司らを追い出したので、常灯や不断大般若経のお勤めが中断したという。公家や武家がたびたび評議したが、神人らの要求をまったく聞き入れなかった。そのうえに、神人らは放火までも企てたので、社務の妙清法印が今日の明け方に手勢を遣わして彼らを捕縛したところ、二、三人は自殺したそうだ。捕り手は少々刃物で傷つけられた。このうえは、社壇に血が流れたことに異論はないだろう。だが、閉籠の神人については、すべて捕縛したという。これもまた一大事だろう。あとで聞いたことによると、社務妙清がこの経緯を急いで申し上げた。前検校尚清もまた申し入れた。両人が申した内容は矛盾している。結局のところ妙清については、自身に罪はないという理由を言上した。尚清に至っては、社務妙清の罪科を指摘したのだろうという。

 

 「注釈」

「実躬卿記」

 ─三条実躬の日記。『愚林記』『貫弓記』『先人記』ともいう。実躬は公貫の男。弘安八年(1285)右近衛中将、永仁三年(1295)蔵人頭、同六年参議、正和五年(1316)権大納言となり、文保元年(1317)出家した。彼の日記は少なくとも弘安六年から延慶三年(1310)の間にわたって書き留められたと見られるが、まとまった記述の残る部分は弘安六年より徳治二年(1307)の間である。ただし中間に欠失部分がある。亀山・後深草・後宇多院による院政の時期の廷臣としての実躬の行動が記述されており、鎌倉時代末期の史料として重要である。自筆本は尊経閣文庫に二十三巻、宮内庁書陵部に一巻が蔵せられている。このほかに、昭和十八年(1943)冨山房刊行の『国史辞典』四『実躬卿記』に大阪市武田長兵衛所蔵の自筆本五十一巻が存する旨の報告と詳しい説明が載っているが、筆者はこの武田氏所蔵本を閲覧する機会を得ていない(『国史大辞典』)。

「堯清」

 ─四十八代別当田中堯清。文永十一年(1274)正月二日誕生。弘安五年(1282)二月十九日権別当補任。正中二年(1325)正月十一日入滅(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、続群書類従完成会、1939、25頁。『石清水八幡宮寺祠官系図国文学研究資料館

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00021.jpg)。

「御殿司」

 ─内殿・外殿の役人で、御神体に関わる仕事や、曼荼羅供の修法を練習して三所の祭神の神威を増し、法華経・最勝経を転読して、天長地久の御願を祈ることを仕事としている(「山上御殿司」『石清水八幡宮史』首巻、41頁。「御殿司舎」『石清水八幡宮史料叢書一 男山考古録』続群書類従完成会、1960、91頁)。

「妙清」

 ─四十代別当壇妙清。延応元年(1239)六月十一日誕生。永仁六年(1298)十二月社務還補。嘉元三年(1305)十月四日入滅(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、69頁。『石清水八幡宮寺祠官系図国文学研究資料館https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00032.jpg)。伊藤清郎「石清水八幡宮」(『中世日本の国家と寺社』高志書院、2000、239頁図1等参照)。

「尚清」

 ─四二・四四代別当善法寺尚清。後嵯峨院皇胤。建長六年(1254)三月誕生。永仁三年(1295)閏二月二十一日社務・検校宣下。同六年(1298)十二月社務を辞退。元応二年(1320)十月六日入滅(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、4154頁。『石清水八幡宮寺祠官系図国文学研究資料館https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00038.jpg)。前掲伊藤著書参照。

 

 

【史料2】

  嘉元二年(1304)九月日付石清水八幡宮召捕神人交名

             (「八幡宮寺縁事抄」『鎌倉遺文』29─21992、

              『石清水八幡宮史』史料第四輯、890頁)

 

   (閉)

 社頭同籠神人悪党召捕交名

  平三 中三 左衛門太郎〈以上三人、雖内殿、不自」害刀走出

              候間、召捕了、〉

  九郎 源三 源三郎 得一法師〈以上四人、無」別子細、召捕了、〉

  助二郎 宗永〈於後戸切腹之間、即取退候処、」於山下宿院谷辺殞命

         畢、〉

  清三郎 宗吉〈於外殿西御前大床切腹、取出候後、」於西鳥居外櫟木下

         殞命了、〉

  紀内〈於内所切腹、取出候後、於」谷口坊前殞命、〉

  紀八 於瑞籬西端切腹、于今現存、

  禅知法師〈於外殿西御前大床下切腹候間、取出候、〉

   以上五人

   (マヽ)

  翁三弓及脱、於外殿東狐戸内、無子細取之

   (1304)

   嘉元二年九月 日

  ○本事件は、九月十三日のことなり、

 

*割書とその改行は、〈 」 〉で記載しました。また、この史料は『鎌倉遺文』の表記を土台に、『石清水八幡宮史』の表記によって、読点や文字の一部を改めたところがあります。

 

 「書き下し文」

 社頭に閉籠する神人・悪党を召し捕る交名

  平三 中三 左衛門太郎〈以上三人、内殿に参ると雖も、自害に及ばず刀を抜き走り出だし候ふ間、召し捕り了んぬ、〉

  九郎 源三 源三郎 得一法師〈以上四人、別の子細無く、召し捕り了んぬ、〉

  助二郎 宗永〈後戸に於いて切腹するの間、即ち取り退き候ふ処、山下宿院谷辺に於いて殞命し畢んぬ、〉

  清三郎 宗吉〈外殿の西御前の大床に於いて切腹す、取り出だし候ふ後、西鳥居の外櫟の木の下に於いて、殞命し了んぬ、〉

  紀内〈内所に於いて切腹す、取り出だし候ふ後、谷口坊の前に於いて殞命す、〉

  紀八 瑞牆の西端に於いて切腹す、今に現存す、

  禅知法師〈外殿の西御前の大床の下に於いて、切腹し候ふ間、取り出だし候ふ、〉

   以上五人

   (マヽ)

  翁三弓及脱、外殿の東狐戸の内に於いて、子細無く之を搦め取る、

   (1304)

   嘉元二年九月 日

 

 「解釈」

 社殿に閉籠した神人・悪党を召し捕った交名。

  平三・中三・左衛門太郎。〈以上三人は内殿に参上したが、自害はせず刀を抜いて走り出しましたので、捕縛しました。〉

  九郎・源三・源三郎・得一法師。〈以上四人は特別な事情はなく召し捕った。〉

  助二郎・宗永。〈本殿の後戸で切腹したので、すぐに運び出しましたが、山下の宿院の谷あたりで命を落とした。〉

  清三郎・宗吉。〈外殿の西御前の大床で切腹した。彼らを取り出したのち、西の鳥居の外の櫟の木の下で、命を落とした〉

  紀内。〈内殿(ヵ)で切腹した。彼を取り出しましたのち、谷口坊の前で命を落とした。〉

  紀八。瑞垣の西端で切腹した。いま現在、生きている。

  禅知法師。〈外殿の西御前の大床の下で切腹したので、彼を取り出した。〉

   以上、命を落とした人間は、助二郎・宗永・清三郎・宗吉・紀内の五人である。

 (解釈不能)。外殿の東の狐戸の内で、特別な事情もなく捕縛した。

 

 

【史料3】

  嘉元二年(1304)九月日付石清水八幡宮社頭流血先例注進状

             (「八幡宮寺縁事抄」『鎌倉遺文』29─21993、

              『石清水八幡宮史』史料第四輯、891頁)

 

 一 注進

  当宮社頭流血先例事

  (948)

  天暦二年八月十三日、検校貞延与別当清昭、依執行之諍論、互方人致闘諍之間、及

  社頭流血了、

  (1244)

  寛元二年十月一日、御節神事之時、俗別当兼盛与神官光資依口論、兼盛以笏敺破面

  之間、外殿御前板敷并登階、令流血了、

        (マヽ)

  検校耀清時、勢田社司親類僧参籠当宮、於内廊西寄之辺自害、不殞命之以前雖引出

  之、令流血云々、

        (1259)

  検校宮清時、正嘉三年正月十五日夜踏歌、神人被刃傷之間、令流血了、同宮清時、

         (マヽ)            (マ丶)

  山上僧教暹法橋被時強盗、不知所被之疵、走上北門令内廊之間、及流血云々、

  先年参詣之僧、於西経所前、令自害之間、雖取却之、令流血了、

 右、大概注進如件、

   (1304)

   嘉元二年九月 日 〈瀧─時、依被尋下注進之、」按察僧都注進歟、〉

   (崎ヵ)            (嘉元二年九月十三日)

  山路神人京都住人助二郎、於社頭自害之時也、

 

*割書とその改行は、〈 」 〉で記載しました。また、この史料は『鎌倉遺文』の表記を土台に、『石清水八幡宮史』の表記によって、読点や文字の一部を改めたところがあります。

 

 「書き下し文」

 一つ、注進す、

  当宮社頭流血の先例の事

  天暦二年八月十三日、検校貞延と別当清昭と、執行の諍論により、互いの方人闘諍致すの間、社頭流血に及び了んぬ、

  寛元二年十月一日、御節神事の時、俗別当兼盛と神官光資と口論により、兼盛笏を以て面を敺ち破るの間、外殿御前の板敷并びに登階、流血せしめ了んぬ、

  検校耀清の時、勢田社司(未考)の親類の僧当宮に参籠し、内廊西寄の辺りに於いて自害す、殞命せざるの以前に之を引き出だすと雖も、流血せしむと云々、

  検校宮清の時、正嘉三年正月十五日の夜踏歌、神人刃傷せらるるの間、流血し了んぬ、同じく宮清の時、山上の僧教暹法橋「被時、強盗、」之疵を被る所を知らず、「走上北門令内廊之間」流血に及ぶと云々、

  先年参詣の僧、西経所の前に於いて、自害せしむるの間、之を取り却くと雖も、流血せしめ了んぬ、

 右、大概注進件のごとし、

   嘉元二年九月 日 〈瀧─時、尋ね下さるるにより、之を注進す、按察僧都注進するか、〉

  山崎神人京都住人助二郎、社頭に於いて自害の時なり、

 

*「 」で記した箇所は、書き下すことができませんでした。

 

 「解釈」

 一つ、注進する。

  当石清水八幡宮流血の先例のこと。

  天暦二年(948)八月十三日、検校貞延と別当清昭との、執行をめぐる相論により、互いの味方が闘争したので、社殿に流血が広がった。

  寛元二年(1244)十月一日の御節神事のとき、俗別当兼盛と神官光資とが口論に及んだことによって、兼盛が笏を用いて光資の顔面を叩き傷つけたので、外殿御前の板敷と登り階段に血が流れてしまった。

  検校耀清のとき、勢田社司の親類の僧侶が当宮に参籠し、内殿の廊下の西側のあたりで自害した。命を落とす前にこの僧侶を引き出したが、血が流れたという。

  検校宮清のとき、正嘉三年(1259)正月十五日の夜に踏歌神事が催行された。そのとき神人が刃物で傷つけられので、血が流れてしまった。同じく宮清のとき、山上の僧侶教暹法橋は強盗に遭った。傷つけられたところはわからない。北門に逃げ上がり、内殿の廊下に流血が広がったという。

  先年参詣した僧侶が、西の経所の前で自害したので、その僧を運び出したが、血が流れてしまった。

 右、注進する先例の大部分は、以上のとおりです。

   嘉元二年(1304)九月 日 〈検校瀧清のときに、尋ね下されたことにより、これを注進した。按察僧都が注進したのだろう。〉

  大山崎神人で京都住人の助二郎が社頭で自害したときである。

 

 「注釈」

「貞延」

 ─三代検校。天慶八年(945)十一月四日検校。天暦二年(948)検校兼別当。同五年(951)十二月九日入滅、七十五歳(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、84頁。『石清水八幡宮寺祠官系図国文学研究資料館

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00057.jpg)。

「清昭」

 ─九代別当。天慶八年(945)十一月四日別当。応和三年(963)閏三月二十二日入滅(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、85頁。『石清水八幡宮寺祠官系図国文学研究資料館

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00057.jpg)。

「兼盛・光資」

 ─兼盛が光資を殴打した事件の詳細については、早川庄八「寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件」(『中世に生きる律令 ─言葉と事件をめぐって─』平凡社、1986年)を参照。

「瀧清」

 ─竹瀧清。正応5(1292)─建武3(1336)。四十五代別当竹良清の子(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、41頁。『石清水八幡宮寺祠官系図国文学研究資料館

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00027.jpg)。

「勢田社」

 ─未詳。尾張熱田社のことか。

「耀清」

 ─柳耀清。第三十七代別当。建長七年(1255)三月一日入滅、五十四歳(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、51頁。『石清水八幡宮寺祠官系図国文学研究資料館

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00053.jpg)。耀清の活動については、鍛代敏雄「鎌倉時代における石清水八幡宮寺祠官の印章―幸清・宗清・耀清―」『東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報』9、2018・6、

https://tfulib.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=625&item_no=1&page_id=47&block_id=149)を参照。

「宮清」

 ─善法寺宮清。三十八代別当、二十七代検校。建長七年(1255)九月三日検校。建治二年(1276)十月十二日入滅、五十一歳(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、54頁。『石清水八幡宮寺祠官系図国文学研究資料館

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00037.jpg)。前掲鍛代論文参照。

「山路」

 ─『鎌倉遺文』は「山路」、『石清水八幡宮史』と小西瑞恵氏は「山崎」の誤記と考えています(「都市大山崎の歴史的位置」『大阪樟蔭女子大学学芸学部論集』39、2002・3、62・63頁、https://osaka-shoin.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1729&item_no=1&page_id=3&block_id=24)。【史料1】にも「大山崎神人」と記されているので、「山路」ではないと考えられますが、念のため、以下に「大山崎」と「山路郷」の説明を、それぞれ提示しておきます。

 

 「大山崎

 ─現乙訓郡大山崎町大山崎。天王山と、淀川に至る南・東南山麓一帯に位置する。古代以来、村のやや西寄りで山城国摂津国に分かれ、河川など自然の境界はない。長岡京の造営以来、長岡京平安京と西国とを結ぶ水陸交通の要地。山崎村ともいう。

 「日本書紀」白雉四年是歳条に「是に由りて、天皇、恨みて国位を捨りたまはむと欲して、宮を山碕の宮をつくらせたという。ただし天皇は実際に山崎に移ることなく、翌年没した。一方、大山崎の名称は、貞応元年(1222)十二月十七日付六波羅下知状(離宮八幡宮文書)に「八幡宮大山崎神人」と見える。その後とも地名は山崎だが、神人は大山崎神人を通称とし、大山崎もやがて地名となった。また平安前期、嵯峨天皇はしばしば山崎に遊び、漢詩を賦して山崎を河陽(かや)と称したので、河陽は山崎の別名として用いられた。

 天平十三年(741)の東大寺奴婢帳(東南院文書)には「乙訓郡山埼里」が所見し、乙訓郡条里の南端にあたり、山崎は里名に用いられた。淀川に架ける橋は「行基年譜」に現れ、次いで長岡京造営とともに朝廷によって架橋・管理された。平安時代に入って山崎駅が置かれ、山崎津は長岡京平安京の外港となった。一方、山崎関も置かれたが、大宝律以来、関の場所は摂津国とされ、山崎駅が史料に現れる弘仁初年にはすでに廃絶していた。

 橋・津・駅の所在によって山崎の集落はしだいに賑いを見せ、斉衡二年(855)には火事で300余家を焼いたという(文徳実録)。そのなかには商家も多かったと思われ山崎は流通の一拠点をなした。「信貴山縁起」や「宇治拾遺物語」巻八に描かれる山崎長者は、そうした繁栄のなかから生まれた。だが平安中期から後期にかけて、京都の外港として淀(現京都市伏見区)が開発されるに及び、山崎の歴史は変わった。そして住人たちは、対岸男山にある石清水八幡宮(現八幡市)の神人身分を取得して、灯油を中心に商業活動を展開するに至る。大山崎神人の活動が史料に登場するのは貞応元年だが、しかし当時すでに美濃国まで商圏を拡大しており、以後室町時代を最盛期に、九州から東海地方に営業独占権をもって活躍し、京都に進出して居住する者も多かった。

 白鳳期の瓦が出土する山崎廃寺のあと、宝積寺・相応寺・成恩寺など、天王山南麓の地に寺院の建立が相次ぎ、南北朝時代には山崎出身の禅僧友山士偲が地蔵寺を開創した。このように寺院が多いのも山崎の大きな特色で、江戸時代前期にも、寺庵を含めて実に五十九院に達する。

 南北朝時代に天王山に築城されて以後、山崎や天王山は軍事上の要衝としてしばしば合戦が行なわれ、また軍隊の駐屯もあった。とくに応仁の乱以後は戦火に巻き込まれることが多く、そのため油商人のなかには商売をやめて逐電するものもあったが(「大乗院寺社雑事記」文明二年六月二十四日条)、一方、武士として合戦に参加するものもあり、応仁の乱には「大山崎住人中」「山崎地下衆中」などとして感状や軍勢催促状を受けている(離宮八幡宮文書)。

 文明三年(1472)を史料の初見として、「大山崎惣中」が登場する(同文書)。神人はこれまでにも商業の座としての組織をもち、また山崎は神領として保の制度がとられていたが、戦乱の激化とともに新たな自治組織を結成したものであろう。神人以外の住人をも参加させる組織であったかもしれない。惣中として、町政や町の自衛に当たったほか、合戦にも参加した。同年には惣中として紀伊国和佐庄(現和歌山市)を兵糧料として与えられたのをはじめ、細川澄元・同高国らから感状を受け、また禁制や徳政免除の特権なども受けている(同文書)。この間も荏胡麻油売買の特権に関しては神人として文書を交付されており、山崎は惣中と神人の二重の組織を有した。なお惣中の団結の紐帯は天王山に祀られている地主神天神八王子社の信仰にあり、宮座を結成してその祭礼を盛大に行なっている。一方、神人の側にも、石清水八幡宮とは別に山崎の地にも離宮八幡宮の社殿が造営され、しだいに大きくなっていったようである。

 永禄十一年(1568)十二月、大山崎惣中は次の前文のもとに175名の連署状を作成している(同文書)。

 今度大乱ニ付、惣中御賄依不相調、各御斟酌、尤無余儀候、此分ニ候ハ者、在所可為滅亡候、今一度被成御出、可被相続候、就惣中御要脚之儀者、如何様之儀雖被仰出候、老若一味同心申、馳走可申候、若被及異儀仁躰於在之者、縦雖為親類縁類、不顧其前、末代絶傍輩可申候、両社も御照覧候へ、更不可有相違者也、仍連署如件、

 永禄十一年十二月といえば、足利義昭を奉じて上洛した織田信長が山崎を駆け抜けて摂津池田まで進んだ直後にあたる。信長は町場であった山崎にも過大な矢銭をかけ、惣中は解体の危機に瀕し、この連署になった。このあと信長は山崎を直轄地にして代官を配し、惣中も名称は残るものの変質を余儀なくされた。天正十年(1582)の明智光秀羽柴秀吉による山崎合戦は天王山の戦いとして人口に膾炙するが、事実は天王山の争奪戦は行なわれていない。山崎合戦ののち、秀吉は約一年山崎城に在城し、彼自身による天下統一の第一歩を踏み出し、山崎を城下町として経営しようとしたが、翌年には大阪に移った(攻略)(「大山崎」『京都府の地名』平凡社)。

 

 「山路郷」

 ─現八幡市八幡。八幡内四郷の一。北は常盤郷、西は放生川、南は放生川を境として金振郷、東は沼地で定かでないが、東西に長い郷域であった。郷内には山路町・壇所町・森之町が属した。石清水八幡宮領。

 山路郷と常盤郷との境界についての近世末の「男山考古録」は、「安居橋の通り道より北は常盤郷、南は山路郷也」、山路郷は「安居橋東の道通りより南、放生川上流の北岸」と記し、安居橋筋より北の柴座町も市場町も常盤郷とする。ところが柴座町の北に位置する近世の常盤郷田中町を例として「天正二年安居頭人補任に山路郷田中と記せり、按にドンドの辻子ハ安居橋の通り也、此処より北は常盤郷、南は山路郷なり、依て此境限を誤りたる也」と記す。安居橋筋を郷境とするこの説は江戸時代のことかと思われる。享禄五年(1532)七月の安居頭人の名に「山路郷住人市庭大西」とある(「安居頭人記」男山考古録所引)ことからすれば、江戸時代以前の郷境は安居橋筋より一筋北の高橋筋と考えるのが妥当である。そのため高橋筋南側の田中町も江戸時代以前は山路郷であったと考えられる。

 安居橋筋までの常盤道は山路郷で大道となり、さらに南進して金振郷境の放生川に架かる買屋橋へ至る(「山路郷」『京都府の地名』平凡社)。

 

 

【史料4】

  嘉元二年(1304)十月五日条        (『実躬卿記』5─279頁)

 

 五日、〈甲申、〉晴、(中略)

   ○底本、以下藤原実任ノ奉ル仰詞ヲ続グ、

(別筆、折紙)

 「宗永男以下悪徒、閉籠石清水社壇、致濫行之間、血気満神殿、所々覃破損、為遂行

  更衣神事、且造替汚穢登階畢、此上准延久三年例、来十一日差遣 勅使、可被修造

                     〔使脱ヵ〕

  内外殿、神慮難測、宸襟不聊、仍被発遣奉幣被謝申之由、令載 宣命

(以下折裏)

 放生会仲秋依天下之穢気延引、季秋依社頭之濫行延引、然而遥温天暦之古風、択定玄

 律之望日、雖小忽祭祀、尽恐連懇誠、殊可祈謝之由、宜載辞別、

 

 「書き下し文」

 五日、〈甲申、〉晴、(中略)

 「宗永男以下悪徒、石清水社壇に閉籠し、濫行致すの間、血気神殿に満ち、所々破損に覃ぶ、更衣神事を遂行せんがため、且つがつ汚穢の登階を造替し畢んぬ、此の上延久三年の例に准じ、来たる十一日に勅使を差し遣はし、内外殿を修造せらるべし、神慮測り難く、宸襟無聊たり、仍て奉幣使を発遣せられ謝し申さるるの由、宣命に載せしめよ、

 放生会秋天下の穢気により延引し、季秋社頭の濫行により延引す、然れども遥か天暦の古風を温ね、玄律の望日を択び定む、小忽の祭祀と雖も、恐連懇誠を尽くし、殊に祈謝すべきの由、宜しく辞別に載すべし、

 

 「解釈」

 五日、〈甲申、〉晴、(中略)

 「宗永以下の悪党が石清水八幡宮の社壇に閉じ籠もり、乱暴な振る舞いをしたので、血が神殿に広がり、所々が破損した。更衣神事を遂行しようとするために、早くも血で穢れた昇り階段を造り替えた。このうえは、延久三年(1071)の先例に従い、来たる十月十一日に勅使を派遣し、内殿・外殿も修造するべきである。神の御心は推し量りがたく、天皇の御心は晴れない。そこで、奉幣使を派遣し神に祈謝し申し上げることを、宣命に書き載せよ。

 八月の放生会は天下の穢気により延引し、九月は社頭での乱行によって延引した。しかし、はるか昔、村上天皇治世の古い慣例を調べ、十二月十五日を選定した。取るに足りない祭祀であっても、畏敬の念をもち真心を込めて、とくに祈謝するべきである、と宣命に載せるのがよい。

 

 「注釈」

「延久三年例」

 ─石清水八幡宮の修理造営の先例(『石清水八幡宮史』史料第一輯、171〜175頁。土田充義「石清水八幡宮本殿について」『日本建築学会論文報告集』201、1972・11、

https://www.jstage.jst.go.jp/article/aijsaxx/201/0/201_KJ00003921992/_article/-char/ja/)。

 

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石清水八幡宮参道(馬場先)

 

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南総門

 

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本殿

安芸国楽音寺

 『安芸国楽音寺 ─楽音寺縁起絵巻と楽音寺文書の全貌─』

                     (広島県立歴史博物館、1996)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

「楽音寺の歴史」

 《沼田庄と沼田氏》

 楽音寺は、真言宗御室仁和寺派の寺院〔応永年間(1394〜1428)頃以前は天台宗であったという〕で、現在の広島県豊田郡本郷町南方に位置する。このあたりは、平安時代から蓮華王院領の沼田庄が存在していたところで、沼田庄の開発領主であり、この地域の有力者であった沼田氏が、天慶年間(938〜47)頃に当時を氏寺として創建したとされている。また、この地域には梅木平(ばいきひら)古墳(広島県史跡・七世紀初頭前後)、貞丸古墳(広島県史跡・七世紀中頃)などの巨大な古墳があることからも、早くから開けていたことが推察される。

 沼田庄の本家である京都の蓮華王院は、後白河法皇の発願により、長寛二年(1164)に平清盛によって造営された寺院である。沼田庄の立荘の経緯等については詳細な資料はないが、平安時代末期頃に沼田氏の平氏への寄進を媒介にして成立したと推定される。

 鎌倉時代には、沼田庄は本庄と新庄とに分かれていたが、耕作田地面積が460町余りに及ぶ広大な荘園であった。本庄は、現在の豊田郡本郷町を中心として、三原市西南部と竹原市東南部、新庄は、現在の賀茂郡河内町・大和町豊栄町域と竹原市域に散在する。

 ところで、沼田庄の開発を進めた沼田氏の始祖は、十世紀半ばに起きた藤原純友の乱を平定した藤原倫実(ともざね)で、その功績に対して沼田七郷が与えられ(「楽音寺縁起絵巻」)、このうち六郷を荘園化したものが沼田本庄と考えられている。沼田氏は、平家滅亡とともに没落したようで、その後を小早川氏が沼田庄地頭職として領有している。しかし、鎌倉時代になっても沼田庄の下級荘官である公文や、沼田氏氏寺の楽音寺の院主職には沼田氏の位置ぞ奥のものが就任していたと言われている。院主職は、文治三年(1187)以降、建武五年(1338)まで、「栄俊─仁光─宴海─隆憲─舜海─良承─頼賢」と継承されていることが知られている(「蟇沼(ひきぬ)寺文書」。

 

 《沼田庄と小早川氏》

 鎌倉時代になって、沼田氏の後、沼田庄の年貢の徴収・土地の管理・治安維持などを職務とする地頭に補任されたのは、相模国土肥郷(とひごう・現在の神奈川県足柄下郡湯河原町)の土肥実平の子遠平である。これは実平の平氏追討の功績に拠るものとされる。遠平は小早川を名乗り、養子景平(信濃国平賀義信の子)がこの職を継いだ。景平は、まもなくその子茂平と季平に対して、本庄と新庄をそれぞれ相続させた。この頃、[建永元年(1206)頃]、小早川氏は沼田庄に本拠を置いて在地勢力として安定したようである。

 本庄を譲り受けた茂平は、沼田小早川家の祖となり、その所領の中核部分はほとんど分割されることなく代々伝えられた。なお、茂平は文永元年(1264)に没している。一方、季平は、新庄の中心の椋梨(現在の賀茂郡大和町)に拠点を置き、椋梨氏の祖となったが、新庄はその地理的状況による支配形態のあり方の違いなどから分割相続された。さらに、承久三年(1221)に起きた承久の乱の功績により得た都宇竹原庄(現在の竹原市)の地頭職は、正嘉二年(1258)に茂平の子政景に譲渡され、政景は竹原小早川家の祖となった。

 このように、沼田庄に関わった小早川氏は、概ね三勢力において戦国時代まで勢力を保っていたと言える。[「小早川家略系図」(11頁)参照]

 

 《小早川家と楽音寺》

 さて、小早川氏は楽音寺に対して、自らの氏寺として様々な恩恵や保護の手立てを加えている。これらを「楽音寺文書」から知ることができるが、詳細については後述する。

 鎌倉時代には、新たに開墾などによって拡張した名田を楽音寺に寄進したり、茂平の娘犬女(法名浄蓮・梨子羽郷地頭)が、楽音寺に三重宝塔を造営するためや塔修理のために自らの土地を寄進したりしている。南北朝時代には、梨子羽郷が南北に二分され、楽音寺の本寺・子院・寺領の大半は南方内にあり、その地頭職は竹原小早川氏に与えられた。そのため、楽音寺は室町時代に至るまで竹原小早川氏と深い関係を結ぶこととなる。仲義(好)による楽音寺院主職の安堵や寺の修理に対する恩恵や田畠等の寄進などがうかがわれる。一方、熙平(ひろひら)・興平・繁平・隆景など沼田小早川氏からも本拠高山城(国史跡)内にある楽音寺法持院管理の若宮八幡の田地に対する配慮がなされている。

 当時、楽音寺は沼田庄内の各寺院の先頭に立ち、多くの僧侶を擁し、地域内に与える影響力が大きかった。その背景には免田の所在があった。そこで領主は楽音寺を自己の支配下に置こうとしたのであろう。

 やがて、天文十三年(1544)に毛利元就の子隆景が竹原小早川氏の養子となり、同十九年には併せて沼田小早川氏の跡も継いでいるが、この頃から当地域は次第に毛利氏の勢力下に入っていった。

 

 《楽音寺の院主職》

 さて、楽音寺一切の寺務を司る院主職には、楽音寺建立以後法持院と中台院の両門主が交代でついていたとされる。

 法持院は梨子羽郷の南方、中台院は北方に対峙し、それぞれ九坊の子院をもっていた。この両門主の勢力争いは中世末期にかけて激しくなったようであるが、中台院は、天正年間(1573〜92)に三原城下に移り、法持院が単独で寺務に当たることとなった。また、法持院は、天和年間(1681〜84)には現在の本堂東隣りに移っている。(後略)

 

 《小早川家略系図

 

 土肥実平(〜1191)─小早川遠平(〜1237)─景平(〜1244)

  ─沼田小早川茂平(〜1264)・・・

  ─沼田新庄季平─椋梨国平…

 

  ・・・茂平─雅平(〜1298)・・・

      ─犬女(法名浄蓮)

      ─政景(竹原小早川)・・・

 

  ・・・雅平─宣平(〜1369)─春平(〜1402)─熙平(1472)

      ─興平(1526)─又鶴丸繁平(〜1574)─隆景

 

  ・・・政景・・・義春─仲義(好)─弘景(陽満)─盛景─弘景─弘平─興景

      ─隆景

 

 

「楽音寺文書」

 《楽音寺と小早川氏との関わり》

 建永年間(1206〜07)以降、楽音寺は、沼田氏にかわる地頭小早川氏の氏寺となった。小早川氏は、沼田庄に来住すると、沼田氏の氏寺であった楽音寺を自らの氏寺として受け継ぎ、保護することによってここに勢力を植え付けようとした。楽音寺を自らの勢力下におくのは、楽音寺の荘内に及ぼす影響力の大きさにあった。したがって、荘園領主と在地領主である地頭小早川氏のとの間には、楽音寺の支配権をめぐって攻防が展開された(〈1─3〉〈1─5〉)。

 沼田小早川氏の経済的基盤には、門田と荘園領主から職務の報酬として与えられた給田があった。門田は、在地領主が屋敷地の周りに設けた田地で、荘園領主から年貢が免除される免田として認められた完全な私領であった。それは吉野屋敷八町門田や梨子羽郷地頭門田などであった。ところで、梨子羽郷の地頭職は、正嘉二年(1258)頃には小早川茂平から娘の犬女(法名浄蓮)に譲られていた。浄蓮は、この八町余りの門田を中心に、周囲の田地を取り込んだり開墾するなどして、門田を拡張していった。ところが、文永八年(1271)の検注時から仁治・建長(1243・1252)の検注後にできた新門田十四町は、検注帳に載せて課税されるべき裁決が弘安十一年(1288)に出されている。ただし、もとの八町余りは、以前地頭小早川氏の私領として荘園領主の関与は許されなかった。こうして、楽音寺の氏寺としての地位が幕府からも認められ、小早川氏は浄蓮を通じて楽音寺の寺務に介入することとなった(〈1─2〉〈1─3〉〈1─4〉)。〈2─1〉〈2─2〉〈2─3〉によると、楽音寺のある梨子羽郷への小早川氏の在地領主化の進行、つまり、楽音寺の支配権の独占化に対し、荘園領主側はそれを牽制するため、弘安四年(1281)の正検(大検注)の際、新たに開墾によって拡張された名田を新燈油田として、そこから差し出される勘料を坪付を添えて楽音寺へ寄進し、僧乗戒の沙汰として祈祷するように申し入れている。これらは、小早川氏の楽音寺に対する恩典を示しているものであるが、この他、同様のものは、次の項目にまとめた。

 さらに、楽音寺と小早川氏との関わりを示すものとして、天文年間(1532〜55)頃に小早川隆景が楽音寺に対して、領主の使僧(外交僧)として度々遠国に出かけてもらっていることに感謝しているものなどがある(〈4─9〉)。

 

 《小早川氏から楽音寺への寄進》

 正応三年(1290)に、浄蓮が関東将軍家や自分たちの菩提を弔うため、楽音寺に三重塔の造営を志して、本門田一町をその助成田として寄進し(〈3─1〉)、翌年に寄進田畠の坪付を差し出している(〈3─2〉)。浄蓮は、さらに正応五年(1291)に一町を塔修理田として寄進している(〈3─3〉)。

 茂平の子忠茂の曽孫頼平も、元弘三年(1333)に楽音寺に対し、四季に大般若経を供養する法会を営む費用として、一町二反の免田を寄進している(〈3─4〉)。ちなみに頼平は、建武新政府の中央機関である武者所の一員に加わっている。

 南北朝時代になると、梨子羽郷は南北に二分され、竹原小早川氏はそのうち南方の地頭職を与えられたが、楽音寺の寺域や寺領の大半はその中にあったため、これ以降、楽音寺は竹原小早川氏と深い関係をもつことになる。竹原小早川氏一族仲義(好)は、楽音寺院主職の頼真と親交を結んでいた人物であるが、彼は、応永六年(1399)に楽音寺に対し修理料を寄進したり(〈2─6〉)、応永七年(1400)に頼真を、楽音寺が管理に当たっていた一宮豊田神社(現在の三原市納所(のうそ))の学頭職并びに供僧職につけ、これに付属する田畠・林などを寄進している。

 永享九年(1437)・同十一年(1439)。嘉吉二年(1442)には、小早川陽満(弘景・仲義の子)・盛景父子の協力を得て楽音寺が行なった結縁灌頂に対して諸役・諸公事の免除や田畠の寄進をしている(〈2─8・9・10〉)。なお、この結縁灌頂に対しては、永享十二年(1440)に沼田小早川氏の一員と思われる小早川熙景からも免田の寄進が見られる(〈3─6〉)。さらに、同年、陽満・盛景父子は、寺内十王堂の修理等に対する免田や(〈2─11〉)、釈迦堂の修理免を寄進している(〈2─12〉)。

 

 《小早川氏から楽音寺への安堵や諸役の免除など》

 応永七年(1400)、竹原小早川氏の奉行人と思われる祐明から、梨子羽郷南方内六町の山林が一宮豊田神社に返進されている。これはもともと、一宮に寄進されていたものであるが、収益が上がらなくなったので、奉行人が預かって植林して得分ができてきたので返進するというものである(〈3─5〉)。文安元年(1444)に沼田小早川熙平は、その本拠とする城内にある若宮八幡の田地に対して、今後も先例に任せて諸公事をかけないという確約を、若宮八幡の管理に当たっている楽音寺内法持院に与えている(〈4─8・10〉)。その後も、興平〔〈3─7〉(年未詳)〕、繁平〔〈3─9〉天文十七年(1548)〕、隆景〔〈3─10〉天文二十二年(1553)〕からも、同様のことが行なわれている。また〈1─12〉も若宮面d年に関するものである。

 寛正五年(1464)に小早川弘景は、大内教弘に従って河野通春を討つために四国へ渡るが、これに際し楽音寺領から挑発される労役を寺からの申し出により、四国と回帰年の布施として免除している(〈4─11〉)。

 

 《楽音寺の歴史─楽音寺の僧侶と院主職─》

 楽音寺の僧侶の名前として楽音寺文書に初見されるのは、弘安四年(1281)〈2─1・3〉に見られる「戒乗」である。戒乗は、祈祷の沙汰(執行)を領家から申し入れられている。

 正応五年(1292)〈1─5〉に見られる「隆憲」は、院主職についている。院主とは、寺務一切を司る僧侶のことで、寺の総責任者ということになる。この文書は、地頭小早川氏が楽音寺の院主職隆憲を改易したことに対して、前預所(橘)朝嗣朝臣はこれを不当として幕府に訴えたが、小早川氏は関東下知状〈1─3〉によって楽音寺一切の支配権は地頭側にあるからこの改易は正当であるとしている。隆憲改易後、新院主についたのが「舜海」である。

 浄地房舜海の名は、正応三年(1290)〈3─1〉・正応五年(1292)〈3─3〉に見られ、楽音寺三重塔などの建立に際しての祈祷を常連から申しつけられている。なお、この両名の名は、『蟇沼寺文書』にある元弘三年(1333)の「楽音寺院主良承申状」に添えられた寺務職相伝系図に見られる(7頁参照)。

 〈1─6〉に見られる「真道房」は院主代官職で、また、「法泉阿闍梨御房」は院主職についた賢海のことであろう。賢海の名も、先ほどの寺務職相伝系図に見られる。この文書では、浄蓮は、院主代官職として真道房を任じたことは承認するが、十二人の僧侶を置いて、寺内田畠をそれらの所当田に分割しようとしていることには難色を示し、また、楽音寺の修理に際してその費用の工面について、苦心していることを述べている。

 〈4─3〉は、永和五年(1379)に竹原小早川義春が楽音寺南方三分の二の院主職を、「観智」に対して安堵したものである。南方三分の二の院主職というのは、楽音寺院主職に付属している寺領の三分の二が、竹原小早川氏の所領梨子羽郷南方の中にあったことによるものである。

 至徳元年(1384)の〈4─4〉には「鏡賢」「頼真」の名が見られる。頼真は、観智・鏡賢の後を受けて楽音寺院主しきとなっているが、蟇沼寺(東禅寺)院主職や一宮学頭職をも兼任していた。頼真は、小早川義春の後を受けた小早川仲義(好)と親交を結んでおり、楽音寺文書のなかに仲義に関するものが八通ある。仲義は、頼真に対して、今後の楽音寺南方院主代官職は領主にことわることなく、院主が自由に決めてよいこと〔康応元年(1389)〈4─5〉〕、楽音寺院主職の継ぎ目の際に領主に出す安堵料は、今後差し出さなくてもよいこと〔明徳四年(1393)〈4─6〉〕、楽音寺の百姓軍役は、領内に大事が起きたときを除き、他国援助の際は免除すること〔応永元年(1394)〈4─7〉〕、楽音寺の臨時天役として課せられる段銭・棟別銭は、幕府からのもの以外は免除すること〔応永二年(1395)〈2─4〉〕、その他、前述した楽音寺に対する修理料所の寄進〔応永六年(1399)〈2─6〉〕、万雑公事の停止〔応永七年(1400)〈2─7〉〕など、数々の恩典を与えている。万雑公事とは、年中行事の費用や、地頭や召喚の直営地での労働などの雑税のことである。

 応永二十五年(1418)には、楽音寺の院主職が頼真から頼春に替わっている。「頼春」の名は、永享九年(1437)〈2─8〉、永享十一年(1439)〈2─10〉、永享十二年(1440)〈3─6〉などに見られる。

 以上が、楽音寺文書に見られる歴代院主職についた僧侶の名前である。

 さて、楽音寺の院主職には、梨子羽郷南方に位置した法持院と北方に位置した中台院がついていた。両者のもとには、それぞれ九坊の子院があった。両者は楽音寺建立当初から存在していたと言われているが、楽音寺文書において法持院の名が初見されるのは、文安元年(1444)〈4─10〉である。

 永正年間(1504〜20)頃には、両者の勢力争いが激しくなったようであり、双方がかかえる九坊のみならず、相手方の九坊まで以前は自分のもとにあったと言い争いが生じことに対して、小早川弘平はその裁定に苦しんで、双方に自分の抱えている坊には、何という者がいるのかを書面にて提出するように命じている〈1─8〉。また、慶長五年(1600)にも両者の僧侶が互いに争うので、毛利輝元から制止されている〈6─2〉。

 

 《楽音寺の歴史─その他─》

 天正十二年(1584)に京都・仁和寺門跡の任助法親王は、九州へ向かう途中で楽音寺に宿泊し、その時に受けた接待に対して礼状を送るとともに〈4─1〉、法持院の子院である金剛坊に院号を許している〈4─2〉。ちなみに、任助は同年、厳島の大聖院に滞留中に病死している。

 判物は、土地の領有を確定する最も重要な資産文書である。天文四年(1535)〈3─8〉は、小早川興景が法持院の領地について、天文十七年(1548)〈3─9〉は、小早川繁平が若宮経免について、天文二十二年(1553)〈3─10〉は、小早川隆景が若宮朝日田について、それぞれ判物を発給している。

 〈4─12〉は、天正十四年(1586)に常州常陸国・現在の茨城県)筑波根小田住の僧侶頼源が法持院に宛てた置文である。置文は、将来の恒久的規範として代々の者が遵守することを定めた文書である。

 

 《毛利氏と楽音寺》

 天文十三年(1544)に毛利元就の子隆景が竹原小早川家を継ぎ、同十九年(1550)には沼田小早川家を継いで両小早川家を統一した。こうして、沼田庄地域も次第に毛利氏の勢力下に入っていった。

 毛利輝元は、豊臣秀吉が全国を画一的な基準による石高制の確立をはかるために行なった検地の一環として、天正十八年(1590)から翌年にかけて領国内にて検地を行なっているが、これはあまり厳重なものではなく、天正十八年、毛利氏から楽音寺の仁王門内は守護不入の地として検地が免除されている〈1─11〉。また、翌年には寺の内外で百石の高付けを申し付けられている〈3─11・12〉。

 慶長五年(1600)には、毛利輝元から楽音寺に対して、小早川氏以来の先例に従った寄進も行われている〈6─1・2〉。

 さて、検地については、慶長元年(1596)から同五年(1600)にかけて、全領国内の本格的検地が行なわれているが、毛利氏の両国では丈量の単位が360歩=1段から300歩=1段となり、その下の単位に畝があらわれるのは、この慶長の検地からとされる。楽音寺には慶長元年(1596)の検地帳〈5─1〉と、在地の代官などが権利授与者に所領を引き渡す時に交付する打渡状〔慶長五年(1600)〈6─3〉〕がある。

 

 《蟇沼寺(東禅寺)に関するもの》

 楽音寺文書中には、楽音寺の南方に位置し、密接なつながりのあった蟇沼寺(東禅寺)に関するものもある。

 蟇沼寺と楽音寺が密接な関係にあったことは、正応五年(1292)〈1─5〉の文書中に見られる、「蟇沼寺事以同前」という記述から察することができる。また、前述したように、頼真は、楽音寺の院主職のみでなく、蟇沼寺院主職も兼任していた。

 蟇沼寺の寺領であった乃力名は、名田から、名主のいない間人名(もうどみょう・間田)になったが、宝治二年(1248)に、荘園での雑税とされる万雑公事を停止して、寺の修理に当たるように命じられている〈1─1〉。中世荘園制社会のもと、名田は、農村社会において指導的位置にあった名主が所有管理等するもので、一方、間田は、名主以外の階層の一つで、半隷属的位置にあった間人が耕作にあたっていたのである。

 また、応永元年(1394)には楽音寺とともに百姓軍役を免除したり〈4─7〉、同様に応永二年(1395)に臨時天役として課せられる段銭・棟別銭を免除したり〈2─4〉、応永五年(1398)には修理料所を寄進する〈2─5〉など、小早川仲義が当時に対して与えた恩典に関するものがある。

 

 《沼田庄地域の中世の産業を示すもの》

 楽音寺文書の中に、中世、沼田庄地域において存在した産業の一端を伺うことができる興味深いものがある。

 正応四年(1291)〈3─2〉には、「紙すき」「番匠」の記述が見られ、この地域に手工業に従事する人が存在し、在地領主らの需要に応じて働いたことが察せられる。また、正応五年(1292)〈3─3〉の「大工」とあるのも同様であろう。さらに、〈5─1・6─3〉にも「番匠」の記述が見られる。

 この他、応永七年(1400)〈3─5〉からは、伐採することを目的として、木を育てていたこともわかる。

 

 《その他》

 〈1─10〉は、巻数に対する小早川隆景の返事である。巻数とは、寺院において祈祷または護摩を行なった後に、その証拠を願主を示すために作成した文書のことで、これを受け取った願主は返事を出すのが慣例であった。

 この他、小早川隆景に関するものには、天正十四年(1586)に小田景盛へ宛てた書状がある〈4─13〉。

 〈4─14〉は、天正十四年に小田景盛が、平坂寺の僧侶宥忍に宛てた寄進状である。平坂寺は、もと豊田郡本郷町船木にあった真言宗の寺院で、楽音寺や蟇沼寺とも深いつながりをもっていた。また、小早川隆景の母の祈願所とされていたという。

 〈4─15〉は、中世末期に楽音寺が中心となって執行された、一宮神社の御修正会の役人定書だが、この儀式に平坂寺・円御堂・東禅寺など沼田庄内の寺院から役人が出ていることがわかる。この他、小早川弘平の書状〈1─7・9〉や、日名内慶岳が、竹原小早川氏の奉行河合四郎右衛門に宛てた書状がある〈1─13〉。

楽音寺文書1

解題

 当寺は、沼田庄の開発領主であった沼田氏が創建した寺である。現在は真言宗であるが、応永以前は天台宗であった。この寺創建の事情を同寺縁起絵巻は次のように記している。沼田氏の先祖藤原倫実は承平天慶のころ安芸国に配流されていたが、藤原純友が乱を起こすや朱雀天皇から命をうけて純友の本拠地備前釜島を攻めることになった。その戦で倫実は髻の中にこめていた一寸二分の薬師像の霊言によって救われ、遂に純友を滅ぼした。このことを謝してこの像をまつるため当寺を建立したという。

 小早川氏が地頭として沼田庄へ入るのは源平争乱の直後で、沼田氏が平家についたのでこの庄が没官領となっていたのであろう。小早川氏が地頭として在地支配に当たるようになってからも下級荘官は沼田氏の系譜に連なる者が多く残存していた。

 地頭小早川氏はこの寺を沼田氏から引き継いで自らの氏寺とし、所領の寄進などを重ねている。小早川氏惣領家は鎌倉時代後期には独自の氏寺巨真山寺(米山寺)を建立するが、楽音寺はその後も小早川氏一門の崇敬を集め、室町時代にはことに竹原小早川氏歴代の厚い保護をうけている。当寺には宝治二年(1248)から慶長五年(1600)までの間、連続した五十八通の文書が残っており、当寺をめぐる領家・地頭・下級荘官などの動向を物語っている。

 楽音寺縁起絵巻と天正十三年(1585)の奥書のある江戸時代の楽音寺略縁起もあわせ収めた。

 

 「楽音寺」(『広島県の地名』平凡社より)

 豊田郡本郷町南方。楽音寺山南麓に位置し、真言宗御室派歓喜山法持院と号し、本尊薬師如来。弘安十一年(1288)四月十二日の関東下知状案(楽音寺文書)に天慶年中(938〜947)沼田庄本下司沼田氏の建立とみえる。沼田庄の中心寺院として二院十八坊を擁し勢力を振るった。もと天台宗で、室町時代初期に真言宗に改宗。楽音寺縁起絵巻によると、沼田の地に流されていた藤原倫実が、護持仏の一寸二分の薬師像の霊験で藤原純友を討ち沼田七郷を与えられたので、これを体内仏とした丈六の薬師像を造立、伽藍を建立して安置したのが楽音寺だという。楽音寺院主職は代々倫実の一族に相伝されていた(元弘三年八月日付「楽音寺院主良承申状」蟇沼寺文書)。しかし、建永年間(1206─07)以後、小早川氏が地頭として沼田庄に来住すると同氏の氏寺となった。その後小早川氏が、巨真山寺(のちの米山寺、現三原市)を新たに氏寺とするに伴い、当寺は小早川茂平の娘の梨子羽郷地頭尼浄蓮の肩入れで梨子羽郷地頭の氏寺化し、地頭尼は領家補任の院主を改易するほどの力を発揮した(正応五年正月日付「地頭尼浄蓮代浄円陳状」楽音寺文書)。鎌倉時代末期から寺務は中台院・法持院の両院が交代であたり、室町時代には竹原小早川氏が当寺の所務に関与している。

 楽音寺は沼田氏の時代から多くの免田をもち、小早川氏時代にはさらに寺領を拡大、当地方の一大勢力として在地に与える影響力も大きかった。正和三年(1314)五月十八日付一宮修正会勤行所作人注文(蟇沼寺文書)によると、当寺は一宮(現三原市の一宮豊田神社)の学頭職を兼ね、正月二日には社前で行われる修正会を執行した。この会には神名帳が読み上げられているが、これが法持院に伝来していた「安芸国神名帳」である。なお、天正年間(1573─92)には小早川隆景により、中台院が三原へ移された。慶長五年(1600)四月の毛利輝元寄進状(楽音寺文書)によると、楽音寺寺領100石余と山林境内一町四反四畝が寄進されている。しかし福島氏によって寺領は没収、坊の多くは廃されて、寺務は法持院が行った。

 近世には南方・上北方・下北方・善入寺の四ヵ村の管理とされ、本堂の費用の三分の二は郡負担、三分の一は四ヵ村負担、法持院・明雲院その他の堂宇の費用は、南方・下北方の二ヵ村に課された(豊田郡誌)。明治六年(1873)無檀無住として廃寺とされたが、同二十年寺号の再興が許可され(同書)、法持院が管理運営するようになった。当寺は、前記楽音寺縁起絵巻一軸、小早川家関係の文書を中心とする楽音寺文書六巻(以上県指定重要文化財)などを所蔵。なお、「安芸国神名帳」には安芸国国府および十郡に鎮座する一九〇の神名が記され、法持院に伝来した原本の写が不完全ながらも「芸藩通志」に収められている。

 

*なお、これから紹介していく史料の改行については、『安芸国楽音寺 ─楽音寺縁起絵巻と楽音寺文書の全貌─』(広島県立歴史博物館、1996)に掲載された写真と翻刻を見て、 」 で記載してあります。

  

 

 

    一 公文仲原外二名連署下文案

 

 下  乃力名田所

  早可止万雑公事

                         (営)

 右於彼寺者、古乃力名田被」募進、勤修御堂造栄、近来」間人名被

                 (壊)

 堕、仍勤彼役、御」堂已成破懐地畢、于爰」早領家地頭沙汰人相共、」

 停止万雑公事、彼寺可修理」状如件、

   (1248)

   宝治貳年〈戊申〉二月三日

            公文仲原在判

            地頭藤原在判

            御使  在判

 

*割書とその改行は〈 」 〉で記載しました。

 

 「書き下し文」

 下す  乃力名の田所

  早く万雑公事を停止せしむべきの事

 右彼の寺に於いて、古くは乃力名田募り進らせられ、御堂造営を勤修す、近来は間人名に堕せられて、仍て彼の役を勤め、御堂已に破壊の地と成り畢んぬ、爰に早く領家・地頭・沙汰人相共に、万雑公事を停止し、彼の寺修理すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 乃力名の田所に下達する。

  早くさまざまな公事の徴収を停止させなければならないこと。

 右、この楽音寺では、古くは乃力名の田を集めて寄進し、名主が納入した年貢でお堂の修造を勤めた。近頃では名主のいない間人名に陥ってしまったので、そこをあてがわれた作人らは雑税だけを負担して修造を勤めなかったため、お堂はすでに荒廃してしまった。そこで、早く領家・地頭・沙汰人らは一緒に雑税の徴収を停止し、その分で楽音寺を修理するべきである。

 

 「注釈」

「田所」

 ─①国衙在庁の所の一つ。田積の調査を主要任務とする。②十二世紀半ばから、国衙の田所に倣って荘園にも荘官としての田所が置かれた(『古文書古記録語辞典』)。

「間人」

 ─亡人とも書く。「もうど」とも読む。平民百姓の最下層に置かれ、村落共同体の正式メンバーにはなれない。しかし、所従・下人とは異なり、身分的には自由で、経済的に富裕なものもいた(『古文書古記録語辞典』)。

 

*「近来〜地畢」の部分がよくわかりませんでしたが、前掲『安芸国楽音寺 ─楽音寺縁起絵巻と楽音寺文書の全貌─』(34頁)を参考に、一応の書き下し文と解釈を作ってみました。なお、この図録では1号文書を次のように解説しています。

 「蟇沼寺の寺領であった乃力名は、名田から、名主のいない間人名(もうどみょう・間田)になったが、宝治二年(1248)に、荘園での雑税とされる万雑公事を停止して、寺の修理に当たるように命じられている〈1─1〉。中世荘園制社会のもと、名田は、農村社会において指導的位置にあった名主が所有管理等するもので、一方、間田は、名主以外の階層の一つで、半隷属的位置にあった間人が耕作にあたっていたのである。」

 

「間田」

 ─一般には、遊休田、無主田の意。荘園において、本田である名田と本佃を除いた部分。下級荘官の給田や人給田に宛てられたり、名主に宛行われたりし、残りは地子田そして作人に借耕させた。一般には新田や悪田が多いが、地子田として公事・夫役を負担せず、間田百姓には間人身分の者が多かった(『古文書古記録語辞典』)。

てるてるビーフ、てるビーフ♪ (Magic spell for praying for fine weather)

  応永三十一年(1424)七月十七日条

                    (『図書寮叢刊 看聞日記』3─47頁)

 

       (生島)

 十七日、晴、明盛参、世事語之、牛一枚〈板切両方」ニ二頭書、〉持参、当絵所預

  秀行筆云々、雨降之時牛釣、然雨晴云々、其為絵所可令書之由兼仰付

  了、仍持参神妙也、(後略)

 

*割書とその改行は、〈 」 〉で記しました。

 

 「書き下し文」

 十七日、晴る、明盛参る、世事之を語る、牛一枚〈板切の両方に二頭書く、〉持参す、当絵所預秀行の筆と云々、雨降るの時牛を逆さに釣る、然れば雨晴ると云々、其のため絵所に書かしむべきの由兼ねて仰せ付け了んぬ、仍て持参せしこと神妙なり、

 

 「解釈」

 十七日、晴れ。伏見の地下人生島明盛が参上した。世間話をした。明盛は、牛の絵一枚〈板切れの両面に二頭の牛を書いている〉を持参した。伏見御所の絵所預(画工の筆頭)秀行の筆によるという。雨が降っているときに、牛を逆さに吊るす。そうすると雨は止んで晴れるそうだ。そのために絵所に書かせよ、と以前から申し付けておいた。よって、これを持参したことは感心なことである。

 

 It was sunny on July 17. Ikushima Akimori in Fushimi visited me. We had a chat. Akimori brought a picture of cows (two cows were drawn on both sides of the board). I heard that the court painter Hideyuki at the Fushimi Imperial Court painted it. I heard that the rain stopped and the weather got better by hanging the cow's picture upside down. So, I ordered a painter to write it before. I was pleased that he brought this.

 (I used Google Translate.)

 

 

 「注釈」

*「てるてるビーフ、てるビーフ。あ〜した天気にしておくれ〜♪」

 本当は「てるてる牛」なのですが、「てるてる坊主」の音数に合わせるために、「ビーフ」にしてしまいました。これでは、晴れを祈るために、牛肉を食べる風習のようになってしまいますね…。

 ふざけたネーミングのことはさておき、馴染み深い「てるてる坊主」が普及する以前に、日本人は牛の絵を描いた板切れを逆さに吊るして、晴れを祈っていたようです。現代の「てるてる坊主」は、逆さに吊るすと雨が降ると言われていますが、中世はその逆だったのです。いったい、どこからこんな風習が発生したのか、さっぱりわかりませんが、この記事は「てるてる坊主」史研究に一石を投じる、貴重な史料になるかもしれません。

 「てるてる坊主」の風習は、平安時代に中国から伝わった「掃晴娘」に由来し(「『てるてる坊主の歌』が怖すぎる?削除された1番の歌詞とは」日本気象協会https://tenki.jp/suppl/usagida/2015/05/14/3771.html)、江戸時代中期には普及していたそうです(「照る照る法師」『日本国語大辞典』の引用文献、ウィキペディア等)。この平安時代と江戸時代の間隙を埋めるのが、今回の史料ということになります。

 さて、考えるのをやめてしまおうかとも思ったのですが、やはり気になるのは、なぜ「牛」を描くのか、そして「逆さに」吊るすのか、という2点です。牛を描くことについては、以下のような憶測が成り立つかもしれません。この記事が書かれたのは七月です。ということは、乞巧奠(七夕)の時期になります。快晴を祈願するわけですから、当然、祈るべき対象は空にあるはずです。七夕で天空といえば牽牛星。つまり、「牛」つながり…。ここに牛を描く理由があったのではないでしょうか。

 次に、牛を「逆さに」吊るすことについて考えてみます。そもそも、なぜ「晴れ」を祈ったのでしょうか。ためしに、この記事の書かれた7月17日以前の1ヶ月間の天気を調べてみると、夕立を含めて4日しか雨が降っていません(『看聞日記』より)。かりに、この1ヶ月雨が続いて困っていたから、これから先の晴天を祈った、というのなら納得できますが、どうやらそうではなさそうです。では、なぜか。旧暦の7月末から8月といえば、稲の収穫時期に当たるので(木村茂光「中世農村と盂蘭盆会」『日本・古代中世畠作史の研究』校倉書房、1992年、353頁)、秋雨はきっと稲の成熟や収穫作業の邪魔になったことでしょう。本来は雨の続く時期なわけですから、それとは「逆」の晴れを祈ったため、牛の絵柄を「逆さまに」して吊るしたのではないでしょうか。

 もはや単なる連想ゲームで、何の根拠もありませんが、こんな妄想もおもしろいかもしれません。