周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

須佐神社文書 その2

 一 須佐神社縁起 その2

 

*本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

   崇神天皇   (戊子)      (疫癘)

 一しゆぢんてんのふつちのへね、天下ニゑきれいはやる、しする物過分、

  欽明天皇    (丙寅)             (民)

 一きんめいてんのふひのへとら七ねん、ゑきれいはやる、たみ多く死る、癸酉十四

    ゑきれいはやる (物部)        (祭儀)

  年正月疫癘葉流、もののへのをきら、神國のさいきにそむけり、とうんぬん、

  (用明)   (午の誤ヵ)(元年) しちどう              (備)

 一やふめい天皇丙寅ぐわんねん、五畿七道をめくり給へ共、可然處もなし、び州

  (疫隅)                    (巨旦將來)

  江ずみとゆう處着き給、四月八日の事成るに、こたんしやうらいと申

   (長者)                   なさけ をいいたす  (同州)

  ちやうじやあり、一夜の宿をかり玉ふ、思ひもよらず情無く追出、其時どうしう

             蘇民

  賀屋とゆう處越玉ふ、そみん將來と申貧者あり、是者慈悲ふかき物成、たちよ

  り宿を借りたまふ、御宿可参わ安けれ共、御調物米なしと申ける、てんのふ宣

  ふわ、くるしからず、只かせよとの玉ふ、其時女房もんぜんの木、りやうめこ

   (粟三把)          (踏殼)      (敷)    (實)

  のあわさんばもちたるをおろし、ふみからおてんのふしかせ奉り、みおは

  (飯)    (柏) (葉)   (栃) (皮)   黄檗 (箸)

  はんにして、かしわのはにもり、とちのかわすへ、きはだのはしおこしらへ

                     (眷属)

  そなへ奉る、其時てんのふ大悦び玉ふ、けんそく達にくばり、しはらくあつて

  じやどく鬼神なふおめされ而宣ふわ、さらば、こたん將來が一やの宿をおしみ

    (憎)               のたもふ

  たるにくさに、是を七日之内ニはつすへしと宣ふ、おのゝゝけんぞくたち、

             (打立)

  いろゝゝに出立給いて、うちたち玉ふ、其時そみん奉申上者、何事ニ而候ぞと、

      (驚)

  おふけにをとろき申せは、てんのふ宣ふわ、このうしろにこたん將來が、

                  (貸)

  われゝゝがつかれ及處、一や宿かさす間、八万四せんのけんぞくを入、七日

    (滅)                            (某)

  七やほろほすへしとの玉ふ、其時そみん夫婦申けるは、難有御事成り、それが

          こたん

  し娘壹人持て候、古旦將來が太郎娵になし候、御助候へと、かんるいながし

              (汝等)  (今宵) (情)

  申ける、てんのふ宣ふわ、なんじらがこよいのなさけ嬉敷故免すとの玉ふ、女房

  (御前)     (斯)    おそれをゝく

  おんまへまいりて、か様申せば、恐れ多事候へ共、とてもの御慈悲に、

      (遊)       (有難)   (偕老同穴)    (契)

  ふう婦御助あそはされ候ハゝ、ありかたく、かいろうとうけつのちぎりにて候

      (婿)  (助)                    (子孫)

  ほとに、むこをもたすけ候へと申、其時てんのふの玉ふわ、こたんがしそんと

        (根)   (葉)              (汝)(夫婦)

  いわん物をば、ねをきり、はおからし、たへすへしと思へ共、なんじふうふの

   (志)         (許) のたま   (符守)

  こゝろざしふかきによつて、ゆるすと宣いて、ふまむりを給わりける、

  (南無)(獅子)    (蘇婆訶)

  なむやしゝをうまかはりやそわか、此ふと申わむねちより、こずてんのふ

  (修験)  (秘密) (守)

  しゆけんのひみつのまむりなり、

                 (符)  蘇民夫婦)

  なむやそきろかつはかやそわか、此ふわ、そみんふうふの心ぞしまかきひみつの

    そみんふうふ (薬師如)        (粟)       (菩薩)

  符也、蘇民夫婦、やくしによ來、ひやうめこのあわゝ、やくじやうぼさつと申、

  そみん將來しそんなりとうんぬん、

   つづく 

 

 「書き下し文」(可能な限り漢字仮名交じりにしました)

 一つ、崇神天皇戊子、天下に疫癘はやる、死する物過分、

 一つ、欽明天皇丙寅七年、疫癘はやる、民多く死ぬる、癸酉十四年正月疫癘はやる、

  物部のをきら、神国の祭儀に叛けり、と云々、

 一つ、用明天皇丙午元年、五畿七道を廻り給へども、然るべき処も無し、備州疫隅と

  云ふ處へ着き給ひて、四月八日の事なるに、古旦將來と申す長者有り、一夜の宿を

  借り玉ふ、思ひも寄らず情無く追い出だす、其の時同州賀屋と云う処へ越し玉ふ、

  蘇民將來と申す貧者有り、是の者慈悲深き者なり、立ち寄り宿を借り給ふ、御宿参

  るべきは安けれども、御調物に米無しと申しける、天王宣ふは、苦しからず、只貸

  せよと宣ふ、其の時女房門前の木に、りやうめこの粟三把持ちたるを下ろし、踏み

  殼を天王に敷かせ奉り、実をば飯にして、柏の葉に盛り、栃の皮に据ゑ、黄檗の箸

  を拵へて備へ奉る、其の時天王大いに悦び玉ふ、眷属達に配り、しばらくあって、

  蛇毒鬼神王を召されて宣ふは、さらば古旦將來が一夜の宿を惜しみたる憎さに、是

  れを七日の内に外すべしと宣ふ、各々眷属たち、色々に出で立ち給いて、打ち立ち

  玉ふ、其の時蘇民申し上げ奉るは、何事にて候ふぞと、大きに驚き申せば、天王宣

  ふは、この後ろに古旦將來が、我々が疲れに及ぶ処に、一夜の宿を貸さず間、八万

  四千の眷属を入れ、七日七夜に滅すべしと宣ふ、其の時蘇民夫婦申しけるは、有り

  難き御事なり、某の娘一人持て候ふ、古旦將來が太郎の嫁になして候ふ、御助け候

  へと、感涙流し申しける、天王宣ふは、汝等が今宵の情嬉しき故免すと宣ふ、女房

  御前へ参りて、斯様に申せば、恐れ多く事に候へども、とてもの御慈悲に、夫婦御

  助け遊ばされ候はば、有り難く、偕老同穴の契りにて候ふほどに、婿をも助け候へ

  と申す、其時てんのふ宣ふは、古旦が子孫といわん物をば、根を切り、葉を枯ら

  し、絶へすべしと思へども、汝夫婦の志深きに依つて、許すと宣いて、符守を給わ

  りける、

  南無や獅子をうまかはりや蘇婆訶、此の符と申すは無熱より、牛頭天の符修験の秘

  密の守なり、

  南無やそきろかつはかやそわか、此の符は、蘇民夫婦の心ぞしまかき秘密の符な

  り、蘇民夫婦、薬師如来、ひやうめこの粟は、薬上菩薩と申す、蘇民將來子孫なり

  と云々、

   つづく

 

 「解釈」

 一つ、崇神天皇戊子の年、国中に疫病が流行った。死者は非常に多かった。

 一つ、欽明天皇丙寅七年(五四六)疫病が流行った。民衆が多く死んだ。癸酉十四年(五五三)正月疫病が流行った。物部尾輿が神国の祭儀に背いたそうだ。

 一つ、用明天皇丙午元年(五八六)、牛頭天王五畿七道をお廻りになったが、適切な場所もなかった。備後国深津郡疫隈という所にお着きになったのは、四月八日のことである。そこには、古旦(巨旦)将来というお金持ちがいた。一夜の宿をお借りになった。古旦将来は思いも寄らず冷淡にも追い出した。それから、同じ備後国の賀屋という所にお移りになった。そこには、蘇民将来という貧乏人がいた。この者は慈悲深い者であった。牛頭天王はここに立ち寄り宿をお借りになった。「お宿を貸して差し上げることは簡単なことですが、おもてなしする米がありません」と蘇民将来は申した。牛頭天王が仰るには、「さしつかえない。ただ貸してくれ」と仰った。その時女房が門前の木に、りょうめこ?の粟三把を掛けていたのを下ろし、踏んだ籾殻を牛頭天王の座に敷いてさしあげ、粟の実を飯にして、柏の葉に盛り、栃の皮の上に据え、黄檗の箸を拵えて供え申し上げた。その時牛頭天王は大いにお喜びになった。眷属たちにも食事を配り、しばらくして、蛇毒鬼神王をお呼びになって仰るには、「それなら、古旦将来が一夜の宿を惜しんだ憎さに、この者を七日以内に取り除くべきである」と仰った。それぞれの眷属たちが現れ、勢いよく立ちなさっている。その時蘇民将来が申し上げるには、「何事でしょうか」と、ひどく驚いて申し上げたところ、牛頭天王が仰るには、「この前、古旦將來は我々が疲れ果てていたところに、一夜の宿を貸さなかったので、八万四千の眷属を入れて、七日七夜のうちに滅ぼすべきである」と仰った。その時、蘇民夫婦が申し上げるには、「あってはならないことです。私どもは娘を一人持っております。古旦將來の長男の嫁にしております。お助けください」と悲嘆の涙を流しながら申し上げた。牛頭天王が仰るには、「お前たちの今宵の心遣いが嬉しかったので許す」と仰った。蘇民将来の妻が牛頭天王の御前に参上して、「このように申し上げると畏れ多いことでございますが、大いなるご慈悲をもって娘夫婦をお助けくだされば、めったにないほど素晴らしいことで、夫婦の絆が固く結ばれておりますうちに、婿をも助けてください」と申し上げた。その時牛頭天王が仰るには、「古旦将来の子孫というものを、根を切り葉を枯らして絶やすべきであると思うが、お前たち夫婦の心遣いが深いので許す」と仰って、呪符をお与えになった。

「なむやししをうまかはりやそわか」。この呪符は、無熱天からもたらした、牛頭天王の修験の秘密の呪符である。

「なむやそきろかつはかやそわか」。この呪符は、蘇民夫婦の気遣いの深さに対する秘密の呪符である。蘇民夫婦は薬師如来、ひょうめこ?の粟は薬上菩薩と申す。蘇民将来の子孫であると唱える。

   つづく

 

 「注釈」

「もののへのをきら」─物部尾輿のことか。ここでは物部氏が神祇信仰をないがしろし

           たことになっていますが、本来物部氏は排仏派であるはずなの

           で、誤った情報が伝わっているのかもしれません。

「疫隅」─疫隈国社(えのくまのくにつやしろ)。現広島県福山市新市町戸手の素盞嗚

     神社。

「心ぞしまかき」─「心ざし深き」のことか。

「りやうめこ・ひやうめこ」─未詳。「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編

              一、一九八八)では、「両かんこ」という記載になって

              います。

「なむやししをうまかはりやそわか」・「なむやそきろかつはかやそわか」

  ─「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編一、一九八八)では、「南無耶

   獅子王摩訶破梨耶娑婆訶」・「南無耶蘇宜路掲破梨娑婆訶」という表記になって

   います。

 

 

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戸手の素盞嗚神社

 

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鳥居と随神門

 

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拝殿

 

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蘇民神社(相殿) 左が蘇民神社・右が疱瘡神

 

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本地堂(現・天満宮

本尊は聖観音菩薩(石橋健太郎「牛頭天王信仰と備後素盞嗚神社の一考察」『広島の考古学と文化財保護』2014.11)。

須佐神社文書 その1

 一 須佐神社縁起 その1

 

*本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

  (前闕)

 「                         」の中國

                牛頭天王

 [            ]國こずてんのふ[          ]にあまつ

                       伊弉諾) (さなみふたヵ)

 [              ]七代に當て、いさなきい[    ]はしらの

 尊を、中てん[      ]いこく、東王父天[          ]

 西王母天王)

 せいをうぼてんのふと奉申、男[ ]事をかなしみ、かうすさんの[    ]

 (無熱)             (牛)              (内)

 むねちとて、なん河のしろ[ ]のうしの口よりいずる水をむすびあげ、な伊外清

              祇園精舎

 流しよう[    ]なへ、ぎおんしやうじやゑ行、いろ[   ]七日七夜

 (滿)                (示現)

 まんずる夜、まんざ[   ]わると、じげんをかむり[  ]とまり王子一人も

                        (文字)   (頭)

 ふけ[ ]ちやうかう壹丈五尺、こしにとらといふもんじあり、かうへにいつつの

 (牛)     (面) (三)           (御手)

 うしをいたゝき、おもてみつ、御手わ六つ、左、第一おんてにわほこをもち、第二

           (三)   (瑠璃)(壺)     (第)

 の御手にわ弓を持、第⬜︎の手にわる利のつぼをもち、右、⬜︎一の御手にわ剣をもち、

       (矢)                      (天王)

 第二ノ手にわやを持、だいさんの手にハ四百四病をもち玉而、其時てんのふ御覧

              (似) (畜生)   (形)        (言葉)

 じて、大ニおとろき、人にわにず、ちくしやうのかたち成り、ふかうのことばをき

          (御門)                  (海神)

 かせよと宣ふ、さてみかとをたち出て、元のむねち江入給に依而、わたづみ⬜︎つの

     (素戔嗚)                     (千年)

 君共申、そさのをの尊共、こずてんのふ共申、それよりきゑ國にせんねん、それを

          兜率天            (三千年)   (東天)

 立出、大國に百年、とそつてんに八ねん、とせいてんにさんせんねん、とうてん、

 (西)  (北天)         (須弥山)    (埴安)      (現)

 さい天、ほくてん、中天のめぐり、しゆみせんに而、はにやすの尊地神とげんじて

 (三百年)

 さんびやくねん、みつばめの尊水神とけんじて五十年、れゐい國と申山に而、若君

                              (上天)   (天)

 をもうけ、世になき物とて許の天え帰り、十六ヶ国を廻り玉ふ、ちやうてん下てん

 唐土)(百済

 とうとはくさい國を廻り給て、大日本國江わたり玉ふ、

   つづく 

 

 「書き下し文」(可能な限り漢字仮名交じりにしました)

  (前闕)

 「                         」の中國[  ]牛頭天

 王[  ]にあまつ[  ]七代に当たりて、伊弉諾・伊奘冉二柱の尊を、中て

 ん[  ]いこく、東王父天王[  ]西王母天王と申し奉る、男[ ]事を悲

 しみ、かうすさんの[ ]無熱とて、なん河のしろ[ ]の牛の口より出づる水を

 結び上げ、内外清流しよう[ ]なへ、祇園精舎へ行き、いろ[ ]七日七夜満ず

 る夜、まんざ[ ]わると、示現を蒙り[ ]とまり王子一人儲け[ ]長高一丈

 五尺、腰に虎と言ふ文字あり、頭に五つの牛を戴き、面三つ、御手は六つ、左、第

 一の御手には鉾を持ち、第二の御手には弓を持ち、第三の手には瑠璃の壺を持ち。

 右、第一の御手には剣を持ち、第二の手には矢を持ち、第三の手には四百四病を持

 ち玉ひて、其の時天王御覧じて、大いに驚き、人には似ず、畜生の形成り、不孝の

 言葉を聞かせよと宣ふ、さて御門を立ち出でて、元のむねちへ入り給ふに依りて、

 海神⬜︎つの君とも申し、素盞嗚尊とも、牛頭天王とも申す、それよりきえ国に千年、

 それを立ち出で、大國に百年、兜率天に八年、とせいてんに三千年、東天、西天、

 北天、中天のめぐり、須弥山にて、埴安の尊地神と現じて三百年、弥都波能売の尊

 水神と現じて五十年、れえい國と申す山にて、若君を儲け、世に無き物とて許の天

 へ帰り、十六ケ国を廻り玉ふ、上天下天唐土百済国を廻り給て、大日本国へ渡り玉

 ふ、

   つづく

 

 「解釈」

  (前半部分は解釈できませんでした)

 王子を一人儲けた。背丈は一丈五尺(四・五メートル)、腰に虎という文字があった。頭に五つの牛をいただき、顔は三つ、御手は六つ、左の第一の御手には鉾を持ち、第二の御手には弓を持ち、第三の手には瑠璃の壺を持ち、右の第一の御手には剣を持ち、第二の手には矢を持ち、第三の手には四百四病をお持ちになっていた。その時に東王父天王・西王母天王は牛頭天王の姿をご覧になって、大いに驚き、「人には似ておらず、畜生の姿である。義絶の言葉を聞き入れてください」と仰った。王子はそのまま宮殿を出立して、もとの無熱天へお入りになったことによって、海神□つの君とも申し、素盞嗚尊とも、牛頭天王とも申した。それからきえ国に千年、そこを出立して、大国に百年、兜率天に八年、とせい天に三千年、東天、西天、北天、中天を巡り、須弥山で埴谷尊、土地の神として現れて三百年、弥都波能売尊、水神として現れて五十年、れえい国と申す山で若君を儲け、この世にないものとしてもとの天へ帰り、十六カ国を巡りなさった。上天・下天・中国・百済を廻りなさって、大日本国へお出でになった。

   つづく

 

 「注釈」

東王父」─陽の気の精とされる中国伝説上の仙人で、男の仙人を統べるもの。西王母

      と並び称され、詩題・画題として有名。東王公(『日本国語大辞典』)。

西王母」─中国、西方の崑崙山に住む神女の名。「山海経─西山経」によれば、人

      面・虎歯・豹尾・蓬髪とあるが、次第に美化されて「淮南子─覧冥訓」で

      は不死の薬をもった仙女とされ、さらに周の穆王が西征してともに瑶池で

      遊んだといい(「列子─周穆王」「穆天子伝」)、長寿を願う漢の武帝

      仙桃を与えられたという伝説ができ、寛大には西王母信仰が広く行われた

      (『日本国語大辞典』)。

「ふかうのことばをきかせよ」─「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編一、

               一九八八)では、「不幸」と表記されていますが、

               「不孝」の可能性もあります。また「聞かす」には、

               「聞かせる」の意味だけでなく、「聞く」の尊敬語と

               しての意味もあります(『古語大辞典』小学館)。断

               定はできませんが、ここでは「親子関係を断つという

               (義絶の)言葉を聞き入れてください」という意味で

               解釈しておきます。

須佐神社文書 紹介

  「須佐神社文書解説」

 当社は「小童(ひち)の祇園さん」の名前で親しまれている。『芸藩通志』によると「文禄三年甲午(一五九四)毛利氏営造」とあるが、これは社殿の造立を指していると思われる。当社の縁起はそれをさかのぼる文明元年(一四六九)の成立である。本縁起は別称を「牛頭天王縁起」ともいう。同社には、永正十四年(一五一七)の墨書のある大神輿もある。この銘文は付録(一一九四頁)に掲げた。須佐神社のある小童保は、平安末の承徳年間から官省符の地として大小の国役を免じられており、早くから京都祇園社領として支配されていた。

 

*次回から紹介する史料の書き下し文や解釈には、以下の文献を参照しました。

西田長男「祇園牛頭天王縁起の成立」(真弓常忠編『祇園信仰事典』神仏信仰事典シリ

    ーズ10、戎光祥出版、2002、初出1962)。

松本隆信「祇園牛頭天王縁起について」(『中世における本地物の研究』汲古書院

    1996、初出1982)。

『小童村誌』(小童村誌編纂委員会、2002・5)。なお、甲奴町情報ホームページ(http://kounu.jp/guide/data/hichi-sonshi)に、同書の内容が紹介されています。

 

【パンフレット】

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須佐神社の写真】

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武塔神社】

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福王寺文書22 その7(完)

   二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その7

 

*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま

 記しています。ただし、一部の旧字・異体字正字で記載しています。また、本文が

 長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

     續記

 夫聖–賢道契焉、「辶+本」–作義遠矣、旣歴于世而傳

 于今而酌事、當–山至大–古者雖風–塵仿彿、但因

                     (マ丶)

 前–賢之遺–脩弛–張之事–歴、聊效者記尒、

 熊谷伊–豆守平信直公信スルコト 當–像矣、天–正二甲戌年夏

 六–月廿四日登–山尊–像之時、靈–龜浮池–面、長五–尺有–余

 其甲金–色喉赤無恐、少クアツテ焉沈、公、聞説弘–法大–師

 開–基之後未見者、是希–代之奇–事也、予鄙–拙薄–信ニシテ

 見コト之者可也ト矣若乎感乎、僉曰、公至–誠也ト焉、此後

 益信–敬、自尒登–山之人臨、雖風度水動皆欲シテント

           (十一)

 龜而企–𨀉矣、天正癸未年御室法–親–王遊之時、登當山

 聞山–像之縁–起、見神–石之形–色、喟–歎シテフニ寺–僧

 名之字及門–弟焉、苟一–寺之榮–望也、卒シテ

 寄可–畏之人

     (1590)

     天正十八年五月日       法印學雄

  右縁起相傳有數本者詞筆鄙拙、今住持學譽有才調窈憾焉、

  然恥自衒而要予筆、予不能固辭卒染毫、

                 埜峯寶光雲石堂

  釋自休登當山之佳什書于此備不失焉、

  題福王寺

 攀嶮登臨之字路 始知身在梵天宮 數聲清聲人間外 一箇閑僧法界中

 湛水接藍浸碧澗 青山擎筆聳虚空 偉哉不動明王境 萬像同揚古佛風

                     尺自休

   余書此一巻、鄙懐一絶贅後俲顰者、可絶倒焉、

   嘗聞靈驗亦風流 爽氣絶塵人豁眸 想像古今書一巻

   「ム+ム+几」毫慵坐若之遊

   おわり 

 

 「書き下し文」

 夫れ聖賢の道に契ひ、「辶+本」作の義遠し、既に世を歴て実を伝へ今に欽みて事を

 酌ぐ、当山太古のごとくに至るは風塵彷彿と雖も、但だ前賢の遺修に因りて以て弛張

 の事歴を知る、聊か顰みに倣ふ者後に記して云ふ、

 熊谷伊豆の守平信直公当像を信奉すること尚し、天正二甲戌の年夏六月廿四日登山し

 尊像を拜するの時、霊亀池面に浮かぶ、長け五尺有余、其の甲金色、喉赤く恐るる所

 無し、少くあつて沈む、公の曰く、聞き説く昔弘法大師開基の後未だ其の見る者を聞

 かず、是れ希代の奇事なり、予鄙拙薄信にして既に之を見ることは謂ふべき幸ひなり

 と、若し時か感ずるか、僉曰く、公の至誠なりと、此の後益々信敬す、而るにより登

 山の人池に臨み、風度を水動と雖も皆亀を見んと欲して企𨀉す、天正癸未年御室法親

 王此の州に遊ぶの時、当山に登り、山像の縁起を聞き、神石の形色を見る、喟歎して

 且つ寺僧の名を賜ふに学の字及び門弟に公の字を以てす、苟に一寺の栄望なり、卒に

 記して可畏の人に寄す、

     天正十八年五月日       法印学雄

  右の縁起相伝数本有るは詞筆鄙拙なり、今の住持学誉才調に窈憾有り、

  然して自衒を恥じて予の筆を要む、予固辞するに能はず卒に毫を染む、

                 埜峯寶光雲石堂

  釈自休当山に登るの佳什此に書き備へて失はず、

  題福王寺

 嶮に攀じり登り臨むの字路 始めて知る身の梵天宮に在るを

 数聲清聲人間の外 一箇の閑僧法界の中

 湛水藍に接し碧澗を浸す 青山筆を擎ぐるがごとく虚空に聳ゆ

 偉なるかな不動明王の境 万像同じく古仏の風を揚ぐ

                     釈自休

   余此の一巻を書く、鄙懐一贅を絶えす後顰みに倣ふ者、絶倒すべし、

   嘗て聞く霊験亦た風流 爽気塵を絶えし人眸を豁く 古今の書一巻を想像す 

   (ム+ム+几)毫慵く坐して之くのごとく遊ぶ

   おわり

 

 「解釈」

 そもそも聖人や賢人の道に叶い、「辶+本」作の義はまだ遠い。すでに歳月を経て真実を伝え、今謹んで事実を語り継ぐ。当山の大昔の姿は、風に吹かれて舞い上がる砂や埃によってぼんやりとさせるけれども、ただ前代の賢人たちの遺した慣わしによって、おおよその歴史を知ることができる。いくらか人の真似をするもの(私・学雄)が後代のために記して、このように言う。

 熊谷伊豆守平信直公が不動明王像を信じ尊んで久しい。天正二年甲戌(一五七四)六月二十四日に登山し尊像を拝んだとき、霊妙なる亀が池の水面に浮かんだ。長さは五尺余り、その甲羅は金色で喉は赤く、恐れるところはない。しばらくして沈んだ。熊谷信直公が言うには、「聞いたところによると、昔、弘法大師の福王寺開創以後、いまだ神亀を見たものを聞いたことはない。神亀の出現は世にも希な不思議なことである。私は品性が劣り信仰心も薄くて、すでにこの亀を見たことは、言葉にできないほどの幸運である」と。もしかすると時運に恵まれたのだろうか。みなが言うには、「信直公がこのうえなく誠実であるからだ」と。この後ますます信じ敬った。それ以来、登山した人々は池に向かって、風が吹き水が動こうとも、みな亀を見たいと企んでじっとしていた。天正癸未年(一五八三)御室任助法親王安芸国に遊行なさったとき、当山に登り、山の不動明王像の由来を聞き、霊妙なる石の形や色をご覧になった。感嘆して、そのうえ寺僧の名前として、学の字と門弟に公の字をお与えになった。本当に福王寺全体の栄誉である。こうして記し、畏れ多い後代の人に託す。

     天正十八年五月日       法印学雄

  右の縁起で相伝されたものは数本あるが、その表現や内容は稚拙である。今の住寺学誉の文才には少し物足りないところがある。

  だから自らひけらかして縁起を作成することを恥じて、私に書くように求めた。私は固辞することはできず、とうとう筆を染めた。

                 埜峯寶光雲石堂

  釈自休が当山に登ったときの優れた七言律詩をここに書き留めて失わないようにした。

  題は福王寺。

 険しい山によじ登り対面した美しい道。そこで初めて梵天の住む宮殿にいることを知った。数々の美しい声は人間の住む世界の外から聞こえ、一人の僧が静かに法界のなかにいる。湛えられた水は藍色に近く、緑の谷間を満たしている。木々で青々した山は筆を高く持ち上げたかのようで虚空に聳え立っている。偉大であることよ、不動明王の霊域は。さまざまな仏像は、どれも古仏の趣を示している。

                     釈自休

   私はこの縁起一巻を書いた。私の感懐がすべての無駄なものを消した後、人に倣って縁起を書いたことは、驚きのあまり倒れそうになってしまうほどだ。

   かつて当寺の霊験や風雅な趣を聞いた。爽やかな雰囲気は塵を絶やし、人は瞳を開く。昔から今までの縁起一巻に思いを巡らす。鋭く筆を進めるのに気が進まず、座ったままこのように書いた。

   おわり

 

 「注釈」

「效顰」─「顰みに倣ふ」のことか。人に倣って物事をする。

「𨀉」─「佇」のことか。

「御室法親王」─任助法親王厳島御室(大聖院)、伏見殿貞敦親王第四子

        (仁和寺ホームページhttp://www.ninnaji.or.jp/chronicles.html)。

「ム+ム+几」=「ム+ム+凡」。読み「タイ・ダイ」、意味「するどい」。

福王寺文書22 その6

   二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その6

 

*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま

 記しています。ただし、一部の旧字・異体字正字で記載しています。また、本文が

 長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

 應–永元–年征–夷将–軍義滿公下御–教–書毎年四季修セシム天下安–全

 護–摩–供、以永–準

 同六–年良–海入京–師、奉 東–寺佛–舎–利及大–師

 眞–影、乃其眞安之奥院、且奈原村行大–師

 影–前之燈–分–料、後–花–園–院 叡當–像及碝石

 太–守シム殿–陛、叡–覧儀備感不止、準シテ先–烈

 返–納シ玉焉、且シテ尊–像之因–縁即–事而–眞之義、勅シテ

 (長禄四)

 事–眞–院之額

 夫一–明一–暗者時之常一–榮一–襄者世之數也、當–寺中–世以–徃

 數–百–年之間陵–替正–和スルコトヲ焉、剰爲郡–中寺–社

 門首、亦今幸清–世、太–守公–命シテ當–寺當–国

 聖–道–門惣–別–當、苟僥–倖之遇雖毀–嫌弊–寺之

 盛–事也、故シテ後–葉

     (1460)           (マ丶)

     長祿四年正月日        僧正寛雅

   つづく

 

 「書き下し文」

 応永元年征夷大将軍義満公御教書を下し毎年四季天下安全の護摩供を修せしむ、以て

 永準と為す、

 同六年良海京師に入り、勅を奉じ東寺の仏舎利及び大師の真影を得、乃ち其の真今の

 奥の院に安んず、且つ奈原村を以て永く大師影前の燈分料に充て行はる、後花園院当

 像及び碝石を叡聞し州の太守に詔し石を殿陛に進らしむ、叡覧の儀備はり感止まら

 ず、先烈に準じて早く返納し玉ふ、且つ尊像の因縁即事而真の義を信服して勅して事

 真院の額を賜ふ、

 夫れ一明一暗は時の常一栄一襄は世の数なり、当寺中世以往数百年の間陵替し正和に

 至り復することを得、剰え郡中寺社の門首と為す、亦た今幸ひに清世に逢ひ、太守公

 命じて当寺を以て当国聖道門の惣別当と為す、苟に僥倖の遇毀嫌を免るべからずと雖

 も弊寺之盛事なり、故に聊か録して以て後葉に貽す、

     長禄四年正月日       僧正寛雅

   つづく

 

 「解釈」

 応永元年(一三九四)、征夷大将軍足利義満公が御教書を下し、毎年四季ごとに天下安全の護摩供を行わせた。これをもって永久に継続する規範とした。

 応永六年(一三九九)、良海は都に入り、勅命を承って東寺の仏舎利弘法大師肖像画を手に入れた。つまり、その肖像画が今の奥の院に安置されている。そのうえ、南原村を永久に大師御影の燈明料として給与した。後花園院は不動明王像と美しい石のことをお聞きになって、守護に命じて石を宮中に進上させた。ご覧になるための儀式が整い、帝のご感慨はおさまらない。先帝に準じて早々にご返納になった。その上、尊像の由来や、現実世界の事物がそのまま真理であるという意に敬服して、ご命令になって事真院の額をお与えになった。

 そもそも明るいと暗いは時の常であり、栄えることと移り変わることはこの世に多くある。福王寺は中世以来数百年のあいだ衰退し、正和年間になって復興することができた。そのうえ安北郡中の寺社の首席となった。また今幸いに清らかな世に逢い、守護が命令して当寺を安芸国真言宗の惣別当とした。本当に思いがけない幸運に逢い、(一時は)衰退を免れることができなかったが、その廃れた寺が栄えたのである。だから、いくらか記録してそれを後代に残す。

   つづく

 

 「注釈」

「奈原村」─南原村。安佐北区可部長南原(『広島県の地名』)のこと。

「碝石」─美しい石。昭和五二年(1977)の火災で消失した寺宝「さざれ石」のこ

     とか。1号文書注釈(『広島県の地名』)参照。

福王寺文書22 その5

   二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その5

 

*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま

 記しています。ただし、一部の旧字・異体字正字で記載しています。また、本文が

 長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

 有禅–智上–人ト云、河内國丹–南人也、精フシ於城–州之醍–醐

 布於四方無–縁、一–夜夢カハ西–海則必見ント生–身

 不–動明–王、於是乎正–和四–年春買

 時一–方山–中見ルヲ奇–光、相怪遂到ルニ可–部綾谷邑北–嶺也、

 老–翁出シテ山–像之來–由、上–人思夢–感之事レハ

 山則石–逕斜ニシテ幽邃之䜬、果シテ古–木佛–様儼–然トシテ苔–蘚

 封–滑雲–霧如光–焔、上–人乃念–誦キコト感–慨

 募邑–人茆盧觀–供弥、州–牧武田伊–豆太守氏信公

 聞而傾トシ再–興、高–堂寶–宇輪–奐殆于故–制、添

 本–尊之両脇士、寺–領又如遂–古、奥大師

 影–堂、東–北請熊野權–現十–二–所、北求–聞–持–堂、昔

 大–師修–行之道場也、西–南嚴島両–社、傍樓掛

 梵–鐘、南有五層畫塔、尊氏公之所建也、前樓–門

 有二–金–剛、山半–腹一–社、曰諸–天–堂、昔諸–天降

 于此、故ルト、一–時有人乗而過、其

 蟠–屈シテ鞭–策數回スレトモ而不、相怪乃下ヨリ謝于祠

 則人–馬無故、於是知天–祠之威–崇ナルコトヲ、自尓降

 爲下–馬之所、若レハ違越則無恠焉、禅–智上–人入

 洛 後–醍–酤天–皇山寺之事、  上感–歎増 勅シテ

 賜大勝金剛院之号、上–人住–持云良澄、任僧–正

 次良–海、此時郡–中寺–社悉當–寺門–首

   つづく

 

 「書き下し文」

 禅智上人と云ふ者有り、河内の国丹南の人なり、業を城州の醍醐に精しふし化を四方

 の無縁に布く、一夜の夢に西海の中に往かば則ち必ず生身の不動明王を見んと、是に

 於いて正和四年の春船を買ひ波に跨ぎて此の州に到る、時に一方の山中奇光有るを見

 る、相怪しみ遂に到るに可部綾谷邑北嶺なり、老翁出でて指して山像の来由を説く、

 上人夢感の事を思ひ早く山に入れば則ち石逕斜めにして幽邃の岫に至る、果たして古

 木の仏様厳然として苔蘚封滑し雲霧光焔のごとし、上人乃ち前に踞り念誦し感慨無き

 こと能はず、邑人に募りて茆盧を縛り観供日を弥る時、州牧武田伊豆の太守氏信公聞

 きて心を傾け再興を事とし、高堂宝宇輪奐として殆ど故制に過ぐ、本尊の両脇士を添

 ふ、寺領又往古のごとく之を寄附す、奥に大師の影堂有り、東北に熊野権現十二所を

 勧請す、北に求聞持堂有り、昔大師修行の道場なり、西南の山に厳島両社を鎮む、傍

 らに楼有り梵鐘を掛く、南に五層の画塔有り、尊氏公の建つる所なり、前に楼門を設

 く、二金剛有り、山の半腹に一社有り、諸天堂と曰ふ、昔は諸天此に降臨す、故に之

 を造ると云ふ、一時人有り馬に乗りて之を過ぐる、其の馬蟠屈して鞭策数回すれども

 敢へて前にすすまず、相怪しみ乃ち馬より下りて祠に陳謝すれば則ち人馬故無し、是

 に於いて天祠の威崇なることを知る、而るにより降りたる此の処を下馬の所と為す、

 若し違越有れば則ち怪有らざる無し、禅智上人洛に入りて後醍醐天皇に謁し山寺の事

 を奏す、上の感歎増す増す深く勅して大勝金剛院の号を賜ふ、上人の次の住持良澄と

 云ふ、僧正に任ず、次を良海と云ふ、此の時郡中の寺社悉く当寺を以て門首と為す、

   つづく

 

 「解釈」

 禅智上人というものがいた。河内国丹南郡の人であった。仏道を山城の醍醐寺で詳しく学び、四方の衆生を教化した。ある夜の夢で、西海のなかに行くと必ず生身の不動明王を見るだろう、という夢告を得た。そこで正和四年(一三一五)の春に船を買い、波を越えて安芸国にやって来た。その時に一方の山中に不思議な光があるのを見た。禅智上人らは互いに不思議に思って、とうとう可部庄綾谷村の北方の山にやって来た。老翁が現れて山の仏像の由来を説明した。禅智上人は夢告のことを思いすぐに山中に入ると、石の小道が斜めに敷いてあり、奥深く静かな岩穴にやって来た。思ったとおり、古木の仏のお姿は厳かで近寄りがたく、苔が滑らかに覆い、仏を取り巻く雲や霧が光背のようであった。上人はそこで仏前にうずくまり念誦して、深く心に感じないことはなかった。村人に呼びかけて茅の飯櫃を縛り付け、歳月を経て供物を供えていた時、守護武田伊豆守氏信公がこのことを聞いて信心を起こし、寺を再興した。寺の堂舎は高大壮麗で、おおよそ以前の伽藍様式を越えていた。本尊の両脇侍を添えた。また寺領は昔のように寄進した。奥に弘法大師の御影堂がある。東北に熊野権現十二所を勧請した。北に虚空蔵求聞持堂がある。昔、弘法大師が修行した道場である。西南の山に厳島両社を鎮座させた。そばに鐘楼があって梵鐘を掛けた。南に五層の美しい塔がある。足利尊氏公が建てたものである。前に楼門を設置した。そこには二体の金剛力士像がある。山の中腹に一つの社があって、諸天堂という。昔は諸天がここに降臨した。だからこれを造ったそうだ。ある時、人がいて馬に乗ってここに立ち寄った。その馬はうずくまって、鞭を数回打ったけれども一向に前に進まず、互いに不思議に思ってすぐに馬から降りて祠に陳謝したところ、人馬に差し障りはなかった。そこで諸天の祠は、畏れ崇拝するものであることを知った。それ以来、降りたこの場所を下馬の場所とした。もし誤ってそこを通り過ぎるなら、必ず怪異が起こる。禅智上人が都に入って、後醍醐天皇に謁見し、福王寺のことを奏上した。帝の感嘆はますます深く、勅命を下して大勝金剛院という院号をお授けになった。禅智上人の次の住持を良澄という。僧正に任命された。次の住持を良海という。この時、安北郡中の寺社はみな福王寺を首席と見なした。

つづく

 

*注釈は数が多すぎるので省略しました。

福王寺文書22 その4

   二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その4

 

*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま

 記しています。ただし、一部の旧字・異体字正字で記載しています。また、本文が

 長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

 昔麓及左右–前–後寺有四–十八–宇、然レトモ境屬邊僻近智

 不來、所以及頽廢也、旣至數–百之歳–華而聞–尓トシテ

 絶スルニ人–迹、然トモ希–夷未尊–像猶、時一–樵–夫

 不此像而為朽木斧觸、像忽𥁃–血迸–流山–谷震–動

 岩–樹如クカ、觸ル丶者轉–仆目–心昏–沈、同–樵者驚見而恐–悔𥡴首シテ

 對シテ像請、夫者、自–業之所、救フハ物者聖–者之常–事

 故、旣得ル丶コトノ身全而去、邑–人相聞シマ焉、

                             (未)

  聞夫佛不自佛必感乎、然尚此時末

  一宇而奉スル禮誦之人

   つづく

 

 「書き下し文」

 昔は麓及び寺の左右前後に寺凡て四十八宇有り、然れども境辺僻に属し近智は来たら

 ず、頽廃に及ぶ所以なり、既に数百の歳華を歴て聞尓として人迹を絶するに至る、然

 れども尚ほ希夷未だ滅びず尊像猶ほ存ず、時に一樵夫有り、此の像を知らずして朽木

 と為し斧を以て像に触る、像忽ちに𥁃血迸流し山谷震動すること岩樹を裂くがごと

 し、触るる者転仆し目心昏沈す、同樵の者驚き見て恐悔稽首して像に対して救ひを請

 ふ、夫れ罰は自業の受くる所、物を救ふは聖者の常事の故に、既に罰を免るることを

 得身全て去る、邑人相聞きて欽しまざる無し、

  聞く仏自ら仏ならず必ず物に感ずる者の蓋し此の謂か、然して尚ほ此の時未だ一宇

  有りて礼誦を奉ずるの人を聞かず、

   つづく

 

 「解釈」

 昔は、山麓や福王寺の左右前後に寺が全部で四十八宇あった。しかし、その場所は辺鄙なところにあり、近隣の僧侶たちはやって来なかった。これが衰退した理由である。すでに数百年の歳月を経て、人が訪れなくなったと聞いている。しかし、依然として仏道の道理はまだ滅びておらず、尊像も依然として現存している。ある時、一人の木こりがいた。この立ち木に刻まれた不動明王像の存在を知らず、朽木と思い斧で仏像に触れた。像からはたちまち血が溢れ流れ出し、山や谷が震動することは、岩や樹木が裂けるようであった。仏像に触ったものは転倒し、目はくらみ心は沈んでしまった。同じ木こりはその様子を驚き見て恐れ後悔し、頭を地につけて礼をし、仏像に対して救いを請うた。そもそも罸は自らの行いによって受けるもので、衆生を救うのは聖者の行ういつものことであるがゆえに、早くも罰を免れることができ、その身からすべて取り去られた。村人は互いに聞いて敬わないものはいなかった。

  聞くところによると、仏は自ら仏であることを示すものではなく、必ず物に感応する者に示すというのは、こういうわけかと思う。だから、依然としてこの時に一宇の寺院があって、礼拝し読誦し奉る人をまだ聞いたことはない。

   つづく

 

 「注釈」

「聞尓」─未詳。

「𥁃」─「孟」に同じ。

「聞夫」─未詳。

 

*最後の一段落がまったくわかりません。

福王寺文書22 その3

   二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その3

 

*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま

 記しています。ただし、一部の旧字・異体字正字で記載しています。また、本文が

 長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

 山絶–頂一–池、大–師相臨自撥藻–蘚、則清–華含天山–樹

 倒ニス、身–心凄–然トシテ煩–想金–色浮出

 延而三退、大–師感–見シテ金–龜山–号、本–尊

 福–智該–主之明–王ナルカ福–王–寺

  夫之爲ルヤ霊也、游コト三–千–歳ニシテ其域、安–平靜–正ニシテ

  動コト、壽蔽天地物變–化、四–時變色居而自匿シテ

  不、春蒼夏黄秋白冬、傳蓍生シテ満(寸)百–莖者下必

  有神–龜、其上常青–雲之、又曰

  獣無虎–狼草無毒螫焉、知之道於上–古利–害

  察禍–福、龜之神ナルコト也若此、豈ナル哉可敬歟、故

  藏シテ高庿神–寶焉、如之金–龜又不

  感也、

   つづく

 

 「書き下し文」

 山の絶頂に一池有り、大師相臨み自ら藻や苔を撥ふ、則ち清華天を含み山樹影を倒に

 す、身心凄然として煩想を疏くべき時に忽ち金色の亀有りて浮き出づ、頸を延ばして

 三たび前み三たび退く、大師感見して金亀を以て山号と為す、本尊福智該主の明王

 るが故に福王寺と云ふ、

  夫れ亀の霊たるや、游すること三千歳にして其の域を出でず、安平静正にして動く

  こと力を用ひず、寿天地を蔽ひ、物と與に変化す、四時に色を変じ居りて自ら匿

  れ、伏して食はず、春は蒼く夏は黄に、秋は白く、冬は黒し、伝に曰く蓍生じて百

  茎に満たす者は下に必ず神亀有りて之を守る、其の上に常に青雲有りて之を覆ふ、

  又曰く亀の生ずる所、獣に虎狼無く、草に毒螫無し、天の道を知ること上古に明ら

  かなり、利害を知り禍福を察す、亀の神なることや此くのごとし、豈に偉なるや敬

  はざるべし、故に高庿に蔵して以て神宝と為す、今の金亀のごとき又測るべからざ

  るの感なり、

   つづく

 

 「解釈」

 山の頂上に一つの池がある。大師はそこに臨み、自ら藻や苔を取り除いた。すると、清らかな花々が天を覆い、山の木々がその姿を逆さまにした。心身は冷え冷えとして世事の煩わしい思いを除くことができたときに、すぐに金色の亀が現れ浮き出てきた。首を伸ばして三歩前進し三歩後退した。弘法大師は感動しながら見て、この金色の亀を理由に、金亀山を山号とした。本尊は福行と智行の功徳を併せ持つ不動明王であるがゆえに、福王寺と言う。

  そもそも亀のはかりしれない不思議な力とは、三千年のあいだ泳ぎ続け、その生存区域を出ることはない。動くことに力を使わない。その長寿は天地の長さを超え、物とともに変化する。四季ごとに体の色が変わり、自分からその身を隠し、隠れ潜んでいるあいだは物を食べることはない。春は青く、夏は黄色、秋は白く、冬は黒色になる。古い書物には、メドギが成長して百本の茎になったとき、その下には必ず霊妙なる亀がいてこれを守り、その上には常に青い雲があってこれを覆っているという。また、亀が暮らしているところには、虎や狼のような猛獣はおらず、草むらには毒虫もいない。亀が天の道を知っていることは、遠い昔から明らかなことだ。利害を知り、不幸や幸福を感じ取ることもできる。亀の霊妙なことは、このようなものである。亀の優れていることは、どうして敬わないことがあろうか、いや敬うべきである。だから、立派な祠にしまい、神聖な宝物としているのだ。この金色の亀のようなものは、やはり人知では測りきれない力があると感じる。

   つづく

 

 「注釈」

*この部分は、「亀策列伝」(『史記』巻一二八)を参考に書かれたものと考えられま

 す。この縁起を作成したのは「寛雅」という僧侶と考えられます。彼がどこで修行を

 し、その知識を身につけたのかはよくわかりませんが、室町時代安芸国真言寺院

 に、『史記』の知識をもっていた僧侶がいたことは、これではっきりします。以下、

 参考までに「亀策列伝」における類似文章を記しておきます。なお、文章・書き下し

 文・解釈は、『新釈漢文大系』一一五(明治書院、二〇一三)を引用しました。

 

①「夫龜之爲霊也」以降─『新釈漢文大系』一一五、三一九頁。

 [本文]

 游三千歳、不其域。安平靜正、動不力。壽蔽天地、莫其極。與物變化、四時變色。居而自匿、伏而不食、春蒼夏黄、秋白冬黑。

 [書き下し文]

 游すること三千歳、其の域を出でず。安平靜正(あんぺいせいせい)にして、動くに力を用ひず。壽、天地を蔽(おほ)ひ、其の極を知るもの無し。物と與(とも)に變化し、四時(しじ)に色を變ず。居りて自(みづか)ら匿れ、伏して食らはず、春は倉(あを)く夏は黄に、秋は白く冬は黑し。

 [現代語訳]

 三千年の間、遊歴して、その生存区域を出ることがありません。心は平静で正しく、動き回っても力を使いません。その寿命は天地をも超え、きわまるところを知りません。万物とともに変化し、四季ごとに体の色が変わります。ふだんは自分からその身を隠し、隠れ潜んでいる間は、物を食べません。春は青く夏は黄色、秋は白く冬は黒色になります。

 

②「傳曰」以降─『新釈漢文大系』一一五、三〇四頁。

 [本文]

 聞蓍生満百莖者、其下必有神龜之、其上常有青雲之。

 [書き下し文]

 聞く、蓍(し)生(しやう)じて百莖(ひやくけい)に満つる者は、其の下(しも)に必ず神龜(しんき)有りて之を守り、其の上(かみ)に常に青雲有りて之を覆ふと。

 [現代語訳]

 聞くところでは、メドギは成長して百本の茎になった時、その下にはきっとこれを守る霊妙なる亀がおり、その上には常にこれを覆う青い雲があるという。

 

③「又曰」以降─『新釈漢文大系』一一五、三〇〇頁。

 [本文]

 又其所生、獣無虎狼、草無毒螫

 [書き下し文]

 又其の生ずる所、獣に虎狼無く、草に毒螫(どくせき)無し。

 [現代語訳]

 またメドギの生えている所には、虎や狼などの猛獣はおらず、毒虫のいる草はないとのことであった。

 

 *『縁起』では「龜所生」となっていますが、『史記』では「其所生」となってお

  り、かつ「其」の指示先は「蓍」(メドギ)です。つまり『縁起』作者寛雅は、間

  違えて引用したか、あるいは「亀」で文章を作り変えたのかもしません。

中世のキラキラネーム ─女子の幼名はどう決まる?

  文安五年(一四四八)四月十五日条 (『康富記』2─274頁)

 

 十五日庚午 晴、

  (中略)

 鴨御蔭山祭也、祭儀如例、予密々伴山下親衛禅門見物、先過出雲路道祖神敬白之

                          (サイ)

 處、或女姓令懐兒女、可被付名之由、令申山下之間、卽道祖付了、其母堂卜

 小宿、令饗應山下予等了、不思寄嬖幸ニ遇者也、後聞、彼母者、細川野州

 官人吉良ト云者ノ妾也云々、

  (後略)

 

 「書き下し文」

 鴨御蔭山祭なり、祭儀例のごとし、予密々に山下親衛禅門を伴ひ見物す、先に出雲路

 の道祖神を過ぎり敬白するの処、或る女姓児女を懐かしむ、名を付けらるべきの由、

 山下に申さしむるの間、即ち道祖(サイ)と付け了んぬ、其の母堂小宿を卜し、山

 下・予等を饗応せしめ了んぬ、思ひ寄らざる嬖幸に遇ふ者なり、後に聞く、彼の母

 は、細川野州被官人吉良と云ふ者の妾なりと云々、

 

 「解釈」

 今日は鴨の御蔭山祭である。祭儀はいつものとおりである。私は密かに山下親衛禅門を伴って見物した。その前に出雲路道祖神社に立ち寄り、謹んで祈願していたところ、ある女性が女児を抱いていた。その母親は、女児に名を付けてください、と山下に申したので、すぐに道祖(サイ)と名付けた。その母親はちょっとした宿を占い定めて、山下と私たちをもてなした。思いも寄らない幸運にあったものである。後で聞いた。この母親は、細川下野守の被官人吉良という者の妾であるそうだ。

 

 「注釈」

「鴨御蔭山祭」─葵祭賀茂祭)に先駆け、前儀として賀茂御祖神社下鴨神社)の摂

        社・御蔭神社(左京区上高野東山)で行われる祭儀(新木直人『葵祭

        の始原の祭り』ナカニシヤ出版、二〇〇八)。

「山下親衛禅門」─未詳。

出雲路道祖神」─現上京区神町の幸神社(さいのかみしゃ)。近世以前は青竜町に

         あった(『京都市の地名』)。

「嬖幸」─君主などに特別にかわいがられること。また、その人。お気にいり(『日本

     国語大辞典』)。ここでは「僥倖」と同じ意味で、「思いがけない幸運」く

     らいの意味と考えておきます。

「細川野州」─細川持春。

「吉良」─未詳。

 

*一般化できるかどうかはさておいて、中世人はこんな名付け方をするようです。現代では到底考えられません。

 まず、記主中原康富・山下親衛禅門と、女児を抱いた女性の関係ですが、「後聞」とあるように、後で吉良の妾であると判明していることから、互いに初対面であったと考えられます。康富にしても山下にしても、どちらかの知り合いであれば、「後聞」という書き方はしないのではないでしょうか。また、「不思寄嬖幸」と記しているからには、彼女との出会いは、やはり偶然だったことになります。

 ですが、神前でのこの偶然の出会いが、名付け親になる機縁になったと考えられます。「道祖」と書いて「サイ」と読む。神の名をいただいたこの名前こそ、本当の意味での神がかったキラキラネームと言えそうです。やや、安直な気もしますが…。中世の女性は一部の高貴な人を除いて、幼名や実名がはっきりしません。庶民とは言えませんが、守護被官クラスの妻女の幼名が判明する、珍しい事例ではないでしょうか。

 さて、この記事を読んでいると、一つ違和感を覚える箇所があります。それは、「小宿を卜し」というところです。幼名を付けてくれたお礼に接待をするだけなら、近くにある適当な宿を自分の意志で選べばよいと思うのですが、この母親はわざわざ接待場所を占っているのです。単なる占い好きの女性だったということかもしれませんが、そうではない可能性があります。つまりこの記事は、当時の名付けの慣習を教えてくれているのではないでしょうか。幼名をつけるには、まず寺社に参拝する。次に見知らぬ人に名前を決めてもらう。そして、接待場所を占いによって決め、最後にそこでもてなす。これが当時の慣習だったのかもしれません。

 他の事例を知らないので推測に過ぎないのですが、幼名の決定は非常に呪術的な手続きによって行われていたと考えられます。新生児・乳幼児死亡率の高かった前近代の社会では、神仏のご加護以外に頼るべきものはなかったのでしょう。冥慮を尊ばざるを得ない中世人だからこそ、このような慣習を生み出したのかもしれません。

福王寺文書22 その2

   二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その2

 

*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま

 記しています。ただし、一部の旧字・異体字正字で記載しています。また、本文が

 長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

  夫ルヤ物也法–界無外、法–然本–有コト一–事

  假–法トシテ而非當–躰卽–眞焉、是卽–事而–眞、凡

  法–門顕–密衍–門之行–者爲栖–心之所、然レトモニス

  其、如キハ顕–教則約スルカ攝–相–性–門、故卽–事而–眞

  義者古–賢論シテ密–家不–共者也、今不焉、既今非–情

  之樹–木直當–躰以不–動、是以我卽–事之爲一レ

                                  

  卽也、大師釋シテ卽–事卽–日義乎、是

  以今院–号取事–眞之二–字卽–而而已矣、

   つづく

 

 「書き下し文」

  夫れ物の物たるや法界外無し、法然本有りし故に事の仮法として当体即真に非ざる

  者有ること無し、是れを即事而真と曰ふ、凡そ此の法門は顕密衍門の行者栖心の所

  と為す、然れども尚ほ宗に隨ひ其の旨を異にす、顕教のごときは則ち摂相性門に約

  するか、故に即事而真の義は古賢論じて密家の不共と為す者なり、今悉くすべから

  ず、既に今非情の樹木直に当体以て不動の真と為す、是れ乃ち我が即事の即たる所

  以なり、大師即の義を釈して曰く、常の即事即日のごとし、豈に其れ当の義か、是

  を以て今の院号事真の二字を取りて即而の字を略するのみ、

   つづく

 

 「解釈」

 そもそも意識の対象のなかでしか、物が物であることはできない。本来のあるがままの姿が本来固有の存在であるから、どんな実体のない仮の存在でも、あるがままの本性が真理でないことはない。これを、現実世界の事物がそのまま真理である、という。そもそもこの寺院は、顕教密教を広く学ぶ行者が暮らす場所である。しかし、依然として宗派に従い、その目的を別にしている。顕教のようなものは、現象と本体を捉える考え方をまとめたものだろうか。だから、現実世界の事物がそのまま真理である、という意味は、昔の賢人たちが論じて、密教者は考えを同じにしないものである。今極め尽くすことはできない。すでに今現前している、感情を持たない樹木のあるがままの本性を、そのまま不動の真理と見なす。これはつまり、自分の目の前の現実世界の事物が、現実そのものである理由である。弘法大師が即の意味を解き明かして言うには、いつもの現実世界の事物と、ある事柄のあったその日のようなものだ。どうして「当」(あるがまま)の意味であろうか。こういうわけで、今の院号は「即事而真」のうち「事真」の二文字を採用して、「即而」の字を省略しただけだ。

   つづく

 

*注釈は数が多すぎるので省略しました。解釈はしてみましたが、難しくてよくわかり

 ません。