周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

福成寺文書8

    八 毛利氏奉行人連署禁制

 

    禁制  安藝国東西条福成寺

       (通直)

 右、今度爲河野殿御会合所、有数日御逗-留當山也、仍至四至傍尓

 山野竹木伐採以下之狼藉、堅被停止畢、若於違背之族者、忽可

 重科旨、依 仰下知如件、

    (1584)           赤川(元秀)

    天正拾貳年六月廿五日     十郎左衛門尉(花押)

                      粟屋(元勝)

                   右 京 亮 (花押)

 

 「書き下し文」

    禁制  安芸国東西条福成寺

 右、今度河野殿との御会合所として、数日当山に御逗留有るなり、仍て四至傍尓に至

 りて、山野竹木伐採以下の狼藉、堅く停止せられ畢んぬ、若し違背の族に於いては、

 忽ち重科に処せらるべき旨、仰せにより下知件のごとし、

 

 「解釈」

    禁止する  安芸国東西条福成寺

 右、この度河野殿とのご会合所として、数日当山福成寺にご逗留なさったのである。そこで四至牓示内で、山野の竹木伐採以下の狼藉を厳しく差し止められた。万一これに背く連中がいれば、すぐに厳罰に処せられるべきである。輝元様の仰せにより、命令を下すことは以上のとおりである。

 

*5号文書の関連文書。

福成寺文書7

    七 小早川隆景書状

 

 當山之儀、前々姿聊無相違申談、何篇不疎意候、猶裳懸河内守可

 申候、恐々謹言、

       十月九日          隆景(花押)

      福成寺々務 御同宿中

 

 「書き下し文」

 当山の儀、前々の姿聊かも相違無く申し談じ、何篇疎意を存ずべからず候ふ、猶ほ裳

 懸河内守申すべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 当山福成寺のことは、以前の習わしと少しも異なることなく相談し申し上げ、何事についても疎ましく思い申し上げるはずもありません。さらに、裳懸河内守が申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「裳懸」─裳懸河内守盛聡か(村井良介「芸備国衆家臣団一覧表」

     https://core.ac.uk/download/pdf/35266460.pdf)参照)。

遺骨の使いみち

  応永二十九年(一四二二)九月六日条 (『看聞日記』2─224頁)

 

 六日、雨降大風吹、所々吹破、御所門以下破了、

  (中略)

  抑聞、於河五条原今日大施餓鬼依風雨延引云々、此事去年飢饉病悩万人死亡之間、

  為追善有勧進僧、〈往来囉斎僧相集、〉以死骸之骨造地蔵六体、又立大石塔為供

                         足利義持

  養、可有施餓鬼云々、此間有読経、万人鼓操打桟敷、室町殿可有御見物云々、五山

  僧可行施餓鬼云々、(後略)

 

 「書き下し文」

 六日、雨降り大風吹く、所々吹き破る、御所の門以下破れ了んぬ、

  (中略)

  抑も聞く、五条河原に於いて今日大施餓鬼会風雨により延引すと云々、此の事去年

  飢饉病悩万人死亡するの間、追善のため勧進僧有り、〈往来の囉斎僧相集ふ、〉死

  骸の骨を以て地蔵六体を造り、又大石塔を立て供養を為す、施餓鬼有るべしと

  云々、此の間読経有り、万人鼓操し桟敷を打つ、室町殿御見物有るべしと云々、五

  山僧施餓鬼を行ふべしと云々、(後略)

 

 「解釈」

 六日、雨が降って大風が吹いた。あちこちを吹き壊した。御所の門などが壊れた。

  (中略)

  さて、聞くところによると、五条河原で今日(実施されるはずだった)大施餓鬼会が風雨により延引したそうだ。去年の飢饉や疫病で多くの人が死亡したので、その追善のために勧進僧〈往来の羅斎僧〉が集まった。死骸の骨を使って地蔵六体を造り、また大きな石塔を立てて供養した。施餓鬼会が行われるはずだという。この間に読経も行われた。多くの人々が騒ぎ立て、桟敷を設けた。室町殿足利義持が御見物になるはずだという。五山僧が施餓鬼会を営むはずだそうだ。

 

 「注釈」

「施餓鬼」─仏語。餓鬼道におちて飢餓に苦しむ亡者(餓鬼)に飲食物を施す意で、無

      縁の亡者のために催す読経や供養。真宗以外で広く行われる。本来、時節

      を限らない。七月一日より一五日にわたって行われるものは盂蘭盆の施餓

      鬼。盂蘭盆と施餓鬼の併用が両者の混同を招いたらしい(『日本国語大辞

      典』)。

「追善」─死者の冥福を祈って仏事供養を営むこと(『古文書古記録語辞典』)。

「囉斎」─ろさい。邏斎・羅斎とも書く。①僧が四方を托鉢してめぐり供養を請うこ

     と。②他人に食物や物品を請うこと。③乞食のこと(『古文書古記録語辞

     典』)。

「骨仏(こつぼとけ)」

 ─多くの遺骨を固めて造立された仏像。遺骨を死者の象徴として考えたり、霊魂の容

  器などと観念する、日本人の遺骨信仰から生まれたもので、大阪市天王寺区逢阪に

  ある浄土宗一心寺の骨仏が広く知られる。同寺の骨仏は一八五一年(嘉永四)から

  八七年(明治二十)までに納骨された五万体の白骨で練造された第一期に始まり、

  第二次世界大戦まで六体が作られたが戦災で破損した。現在、納骨堂には五体が安

  置されているが、これは一九四七年(昭和二十二)に破損した六体の破片を集めて

  造った第七期以降のものである。十年ごとに造られ、一九九七年(平成九)には第

  十二期として新たにもう一体が造立された。一心寺は、一一八五年(文治元)、法

  然が四天王寺の西門あたりに荒陵の新別所と称して止住したことに始まると伝え、

  徳川家康大坂夏の陣では決戦場となって死屍累々としたという。近世後期、施餓

  鬼寺の一心寺として有名になるにつれ納骨が年々多くなり、第五十二世真諄と院代

  の聴典上人の発案により骨仏が造立された。このほか骨仏は、浄土宗重願寺(東京

  都江東区)や築地本願寺(同中央区)が関東大震災の罹災者骨で作ったといわれ、

  孝真寺(金沢市十一屋町)でも一九三〇年以来、火葬場からの灰骨で造られてい

  る。このように骨仏そのものの歴史は新しいが、この背景には中世以来の納骨習俗

  や仏像の体内に遺骨・遺髪を納入するといった信仰の流れの中で成立したものとみ

  ることができよう(文責・蒲池勢至)(新谷尚紀・関沢まゆみ編『民俗小事典 死

  と葬送』(吉川弘文館、2005)。

 

 

*死者の遺骨で仏像をつくる。こうした供養の仕方があるというのを初めて知りました。ずいぶんと珍しい風習だと思っていたのですが、これは「骨仏」と呼ばれ、現代でも造られているそうです。今回の史料もネット(「コトバンク」『世界大百科事典』第2版)で簡単に検索できるので、たいして珍しくもないようですが、せっかく見つけたので紹介しました。

 さて、今回の記事では、遺骨を使って地蔵菩薩を六体造ったと記されていますが、いったいどのように遺骨を使用したのでしょうか。ここで参考になるのが、大喜直彦氏の研究です(「生命・身体としての遺骨─親鸞遺骨墨書発見によせて─」『中世びとの信仰社会史』法蔵館、2011、207頁)。この研究によると、中世では遺骨をくだいて細かくし、漆に混ぜて木像に塗るという慣習があったと考えられています。今回の場合も、おそらく同じような方法で、地蔵菩薩を造ったのではないでしょうか。

 飢饉で亡くなり餓鬼道に堕ちたであろう死者の遺骨を集め、その魂を救う地蔵菩薩と一体化させるために、細かく砕いた遺骨を木像に塗りつけたのでしょう。人間とは、ほんとうにいろいろなことを考えつくものです。

自死の中世史 32 ─吾妻鏡1─

  寿永元年(一一八二)二月十四・十五日条

                    『吾妻鏡』第二(『国史大系』第三二巻)

 

 十四日乙卯、伊東次郎祐親法師者、去々年已後、所被召預三浦介義澄也、而御臺所御懷孕之由風聞之間、義澄得便、頻窺御氣色之處、召御前、直可有恩赦之旨被仰出、義澄傳此趣於伊東、伊東申可參上之由、義澄於營中相待之際、郎從奔來云、禪門承今恩言、更稱耻前勘、忽以企自殺、只今僅一瞬之程也云々義澄雖奔至、已取捨云々、

 十五日丙辰、義澄參門前、以堀藤次親家、申祐親法師自殺之由、武衛且歎且感給、仍召伊東九郎〈祐親子〉父入道其過雖惟重、猶欲有宥沙汰之處、令自殺畢、後悔無益食臍、况於汝有勞哉、尤可被抽賞之旨被仰、九郎申云、父已亡、後榮似無其詮、早可給身暇云々、仍被加不意誅戮、世以莫不美談之、武衛御座豆州之時、去安元々年九月之比、祐親法師欲奉誅武衛、九郎聞此事、潜告申之間、武衛逃走湯山給、不忘其功給之處、有孝行之志如此云々、

 

 「書き下し文」

 十四日乙卯、伊東次郎祐親法師は、去々年已後、三浦介義澄に召し預けらるる所なり、而るに御台所御懐孕の由風聞の間、義澄便を得て、頻りに御気色を窺ふの処、御前に召し、直に恩赦有るべきの旨仰せ出さる、義澄此の趣を伊東に伝ふ、伊東参上すべきの由を申し、義澄営中に於いて相待つの際、郎従奔り来りて云く、禅門今の恩言を承り、更に前勘を恥づと称し、忽ち以て自殺を企つ、只今僅か一瞬の程なりと云々、義澄奔り至ると雖も、已に取り捨つと云々、

 十五日 丙辰   義澄門前に参り、堀藤次親家を以て、祐親法師自殺の由を申す、武衛且つうは歎き且つうは感じ給ふ、仍て伊東九郎〈祐親子〉を召し、父入道其の過惟れ重しと雖も、猶ほ宥め沙汰有らんと欲するの処、自殺せしめ畢んぬ、後悔臍を食らふに益無し、況や汝に労り有るに於いてをや、尤も抽賞せらるべきの旨仰せらる、九郎申して云く、父已に亡ぶ、後栄其の詮無きに似たり。早く身の暇を給ふべしと云々。仍て意ならず誅戮を加へらる、世に以て美談とせざる莫し、武衛豆州に御座するの時、去る安元元年九月の比、祐親法師武衛を誅し奉らんと欲す、九郎此の事を聞き、潛かに告げ申すの間、武衛走湯山に逃れ給ふ、其の功を忘れ給はざるの処、孝行の志有りて此くの如しと云々。

 

 「解釈」(『現代語訳 吾妻鏡』1、吉川弘文館、2007)

 十四日、乙卯。伊東次郎祐親法師は去々年の治承四年以後、召して三浦介義澄に預けられていた。ところが御台所(政子)がご懐妊という噂があったので、義澄は機会を得て、何度もご機嫌をうかがったところ、(頼朝が)御前に召し直接恩赦すると仰った。義澄はこのことを伊東祐親に伝え、祐親は参上するとのことを申したので、義澄が御所で待っていたところ、郎従が走って来て、「禅門(伊東祐親)は今の(頼朝の)恩言を聴き、改めて以前の行いを恥じると言い、すぐに自害を企てました。ただ今、わずか一瞬の間のことでした。」と言った。義澄は走って行ったが死体はすでに片付けられていたという。

 十五日、丙辰。(三浦)義澄が御所の門前に参り、堀藤次親家を通じて、祐親法師が自殺したことを申し入れた。武衛(源頼朝)は歎きつつも感動された。そこで祐親の子である伊藤九郎(祐清)を召し、「父の入道はその罪科が重いとはいえ、それでも許そうと思っていたところ、自殺してしまった。『臍を噛むに益無し。』と言われているように、後悔しても致し方なく、ましておまえには、功労がある。特に賞されるであろう。」と仰った。これに九郎は、「父は既に亡く、後の栄誉は無意味に等しいものです。早くお暇をいただきたい。」と申した。そこで(頼朝は)心ならずも誅殺された。世間ではこれを美談としない人はいなかった。頼朝が伊豆にいらっしゃった時、去る安元元年九月のころ、祐親法師は頼朝を殺そうとした。祐清はこのことを聞き、密かに告げてきたので、頼朝は走湯山へお逃げになった。その功を忘れずにおられたが、(祐清は)孝行の志が厚く、こうしたことになったという。

 

 「注釈」(以下、断らないかぎり、『現代語訳 吾妻鏡』の注釈を引用)

「祐親」─ ?─1182 平安時代後期の武将。祐近ともいう。字は次郎。伊豆の住人伊

     東祐家の子。母未詳。治承四年(一一八〇)八月以前に出家。父の死後、祖

     父家継は祐家の兄弟祐継に本領伊豆伊東荘を与え、一族の惣領とした。この

     時祐親は同国河津荘を与えられたが、惣領の地位を奪われたことに不満で、

     しばしば訴訟を起こし、祐継の死後その子祐経の所領を奪い、ために同族間

     の深刻な対立が生まれた。のちに祐親の子河津祐泰が祐経に殺害され、祐泰

     の子祐成・時致(曽我兄弟)による仇討事件が起こったのも、この両流の紛

     争に起因する。祐親は平氏に仕え、伊豆の流人源頼朝の監視を命ぜられてい

     たが、頼朝が祐親の女に通じ、一子を挙げたため、平氏を憚って安元元年

     (一一七五)頼朝を殺そうとしたので、頼朝は北条時政のもとに逃れた。治

     承四年八月頼朝が挙兵した時、これを石橋山に攻めたが、成功せず、のちの

     頼朝の勢威が高まり不利な立場に立った祐親は同年十月駿河に逃れんとして

     捕らわれ、娘婿三浦義澄に預けられた。のち義澄の尽力で罪を許されたが、

     祐親はこれを潔しとせず自殺した。時に寿永元年(一一八二)二月十四日

     (『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館)。

「義澄」─伊東祐親の娘婿にあたる。

「祐清」─ ?─1183(?─寿永二)。祐親の子。治承四年十月十九日条及び建久四年

     六月一日条によれば、この後、祐清は平家軍に加わり北陸道の合戦で討ち死

     にしたという。一方、寿永元年二月十五日条では、父の自害を聞き頼朝に殺

     されることを願ったとあり、検討を要す。なお、祐清の兄河津三郎祐泰は安

     元二年に工藤祐経のために横死している。

 

 

*今回からしばらく、『吾妻鏡』所載の自死関係記事を紹介していきます。『吾妻鏡』は言わずと知れた鎌倉時代の歴史書です。その特徴については、『現代語訳吾妻鏡 別巻 鎌倉時代を探る』(吉川弘文館、2016)の各論文で説明されているので、ここで詳しく述べることはしませんが、やはり編纂物である以上、記事に誤りはあるようです。

 『吾妻鏡』は、朝廷の貴族や幕府の奉行人の日記、御家人の家や寺社に伝えられた文書や記録などをもとに編纂されているのですが、引用した原史料自体の誤り、編纂過程での誤り、原本を書写していく過程での誤りという三つのレベルにおける誤りを含み込んでいるそうです(西田友広「『吾妻鏡』と文書」(前掲書所収)。

 したがって、これから紹介していく記事も、正確に史実を示しているとは言えません。これまで紹介してきた神話や説話、歴史書の類と同じレベルの信用度と言えるでしょう。ただ、その記事を採用した編纂者や同時代の人々の社会通念は読み取れそうです。できるかぎり禁欲的な態度をとりつつ、史料を紹介していこうと思います。

 

 さて、今回の史料で自死を遂げているのは、伊東祐親です。祐親の娘は源頼朝と通じ、子(千鶴御前)を儲けるまでの仲になっていたのですが、それに憤慨した祐親は千鶴御前を殺害し、安元元年(1175)に伊豆にいる源頼朝も殺害しようとします。ところが、祐親の息子祐清が頼朝にその情報を知らせたことで、頼朝は危機を脱することができました。

 祐親はその後、治承四年(1180)十月十九日に捕らえられ(富士川の戦い)、娘婿の三浦義澄に預けられていました。そのうち、御台所北条政子が懐妊したという情報を得て、義澄は頼朝の機嫌を伺いに何度も足を運びます。その結果、頼朝は祐親の恩赦を約束したので、義澄は祐親にそれを伝えたのですが、祐親は参上するとだけ伝え、そのまま自害してしまいます。遺言は「恥前勘」(以前の行いを恥じる)でした。

 「前勘」が具体的に何を指すのかははっきりしません。試みに『大漢語林』(大修館書店)で「勘」を調べてみると、「①かんがえる。くらべ合わせる。調べ考える。②とりしらべる。罪人を取り調べる。」と記載されています。ついでに、収録された熟語を見ると、罪や過失に関するものが多々見受けられます。したがって、「前勘」は「以前の罪」を意味すると考えられます。したがって、今回の記事だけを見れば、安元元年の頼朝殺害未遂事件を指すと考えられそうです。ただ、祐親は治承四年八月の石橋山の戦いで、大庭景親らとともに頼朝軍を打ち破っているので、これも含めた頼朝への敵対行為のすべてを指すのかもしれません。

 さて、ここで注目したいのは、またしても「恥」です。同時代の説話を紹介した「自死の中世史29」(『沙石集』)でも、キーワードとして「恥」が現れていました。ですが、今回はいささか状況が異なるようです。

 「自死の中世史29」では、生け捕られたことを「恥」と考え、それを拭い去ろうとして自死を決意しました。ところが、今回の伊東祐親の場合は、捕らえられてからすでに一年四ヶ月も経過しており、三浦義澄に預けられて刑の宣告を待っている状況だったと考えられます。つまり祐親は、捕らえられたこと自体を、自殺するほどの恥だと思っていないのです。おそらく何らかの処罰があるはずだと考え、それを受け入れようとしていたのでしょう。それなのに、恩赦の決定が下ってしまったのです。祐親は、頼朝への反逆という罪を犯したにもかかわらず、それを許されてしまったために、「恥」の意識が生じてしまったと考えられます。犯した罪は、それ相応の罰で償う。それができなくなったため、自ら命を絶ったのではないでしょうか。石橋山の戦い富士川の戦いで同心していた大庭景親は、祐親と同じ時期に捕らえられ、すぐに処刑されています(治承四年十月二十六日)。したがって、祐親は自分の罪が死罪に相当すると覚悟を決めていたと考えられます。反逆したにもかかわらず、罪を償う機会を逸し、のうのうと生きのびていくことを恥ずかしいと思い、恩赦によって死ぬことができなくなったため、自ら命を絶つしかなくなったのではないでしょうか。いや、そうした意図のもと自殺した、と編纂者が考えたのではないでしょうか。

 祐親自害の報は、翌日源頼朝に伝えられます。頼朝はこの一件について、「歎きつつも感動なさった(且歎且感給)」ようで、伊東祐親を失ったことに悲嘆するとともに、自害を賞賛しています。前述のように、祐親は捕らえられてから一年四ヶ月もの間、三浦義澄のもとに預けられていました。大庭景親とは異なり、すぐに処刑されていないことから、頼朝は本当に祐親の罪を許すつもりでいたと考えられます。したがって、祐親の自害を嘆いたというのは本心だったのでしょう。その一方で、罪を恥じて自害したことを立派だとみなしたことも本心だったと想像されます。恩赦が決定されたにもかかわらず、それでも自身の罪を恥じ、自死を遂げる行為は、当時の武家社会では賞賛される行為だったことだけはわかります。

 以上が、伊東祐親自害事件の概要です。ここに記された祐親の発言や頼朝の感慨が史実であるかどうかはわかりません。また、あくまで幕府が編纂した歴史書であるため、源頼朝に反逆した人物の言動を、幕府にとって都合のよいように書き改めた可能性もあります。罪人がその罪を恥じて自害する点や、それを悲しみつつも賞賛する頼朝の美談など、明らかに権力側の倫理的な意図を感じてしまいます。ですが、これが広まり読み継がれることが、むしろ問題なのではないでしょうか。罪人が罪を恥じて自害したという出来事が、常識として広まり語り継がれれば、それは真実となり、人々の心に一つのしがらみ(「罪人は罪を恥じて自害すべきだ」という通念)を生みだすことになるのでしょう。『吾妻鏡』は自死についても、知らぬ間に、鎌倉武士や後代の武士の精神に影響を与えているのかもしれません。

自死の中世史 31 ─古代史研究の紹介2─

 以前、「古代史の研究紹介1」(「自死の中世史10」)で、鈴木英鷹氏の論文を紹介しましたが、その引用文献のなかに、かなり古い歴史学者の論文がありました。最近、それをやっと読むことができたので、ここで紹介しておきたいと思います。

 

 江馬務「自殺史」『江馬務著作集』第6巻、1977

  (初出『風俗研究』142・147・154・161号、1932・3、8、

   1933・3、10)

 

 きちんと探せばもっと古いものがあるのかもしれませんが、これが自死を本格的に研究した歴史学者の最初の論文だと思います。戦前の論文なのですが、各時代ごとに自死の原因や方法を分類していて、とても参考になります。本当は、鎌倉時代以降についても検討するつもりだったようですが、未完に終わっていることが残念です。

 以下、この論文の要点を示しておきます。

 

1、古代の自殺の原因

 ①いずれ近く殺されなければならないので、自殺する場合。

   →死刑囚、あるいは大罪を犯して捕らえられた人に多い。

 ②精神的・肉体的な苦痛を免れようとして自殺する場合。

   →被疑者として捕らえられ詰問に苦しむ人や、戦争で捕らえられた悔しさを抱い

    ている人。

 ③神のため、国のため、人のために自殺する場合。

 

2、古代の自殺の方法

 投身、焚死、自刃、縊死、生埋。縊死を選ぶものが多く、自刃がこれに続く。

 

3、平安時代の自殺の原因

 

 ①自己の罪悪を認め、これを詫びるために自殺を選ぶ。

 ②人手に掛かるより自殺したほうがよいとする場合。

  →敵の威に恐れおののいて自殺する。

 ③一家一身の破滅、失恋等の精神の苦痛(無念)を免れるための自殺。

 ④浄土信仰が発達して、愛人が死ねばその後を追うという観念。

  →跡追心中。自発的殉死。

 ⑤神仏信仰に関しての自殺。

  →生贄。奉仕。

 ⑥公共のための自殺。

  →人柱。

 

4、平安時代の自殺の方法

 毒薬、投身、舌を噛み切る、切腹切腹して入水、太刀の峰を口に含み落馬、二人共同で互いに刺し違えて死する、家に火をかけて自害、栄養不良により死を早める。水死は婦人に多く、刃は男子、なかでも武人に多い。

 

5、鎌倉時代の自殺の原因

 自殺原因ともみられるものを『太平記』その他から探してみると、戦場に臨み、敗戦の憂き目を見、敵の手にかかるよりは、自分の手で命を絶つという、切羽詰まって自殺する者が大部分を占めている。その他に、失恋、跡追心中、殉死がある。

 

6、鎌倉時代の自殺の方法

 焼死、切腹、腹に突き立てる、太刀の峰で咽喉を突く、切腹の上で放火・焼死、鋸で自分の首を落とす、投身。

福成寺文書6

    六 小早川隆景書状

 

 至此間者厳嶋、山中衆下向、炎天之時分御気⬜︎儀候、次用段之儀、従両人

 可申候、御同心可祝着候、猶日名内源三可申候、恐々謹言、

       七月一日          隆景(花押)

       福成寺 一山中

 

 「書き下し文」

 此の間に至りては、厳島に山中衆下向す、炎天の時分に御気⬜︎儀に候ふ、ついでに用段の儀、両人より申すべく候ふ、御同心祝着たるべく候ふ、猶ほ日名内源三申すべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 この間、厳島に山中衆が下向した。炎天の時分にお気遣いくださいました。次いで、話し合いの件について、両人から申すはずです。こちらとお心を合わせてくださることに満足しております。なお、日名内源三が申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。

 

*さっぱり解釈できませんでした。

 

 「注釈」

「日名内源三」─三原市本郷町南方に拠点をもつ小早川氏の被官か。

「用段」─「用談」のことか。

福成寺文書5

    五 毛利輝元書状

 

     (通直)

 就今度河野殿会合、数日令逗留之處、毎事御馳走祝着候、殊往代之證文等

                 (元秀)    (元勝)

 銘々披見之、感入存候、猶赤川十郎左衛門尉粟屋右京亮可申候、恐々謹言、

     天正十二年)(1584)

       六月廿五日        輝元(花押)

      福成寺 人々御中

 

 「書き下し文」

 今度河野殿との会合に就き、数日逗留せしむるの処、毎事御馳走祝着に候ふ、殊に往

 代の証文など銘々之を披見し、感じ入り存じ候ふ、猶ほ赤川十郎左衛門尉・粟屋右京

 亮申すべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 この度、河野殿との会合について、数日逗留したところ、すべてのことでご尽力くださり満足に思っています。とくに昔の証文などをそれぞれ拝見し、感心し申し上げました。なお、奉行人の赤川十郎左衛門尉と粟屋右京亮がお礼を申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

河野通直」─?〜一五八七(?〜天正十五)。牛福丸・四郎・伊予守・兵部少輔。父

       は河野通吉。宗家の弾正少弼通直が元亀三年(一五七二)に死去し、伊

       予守通直が河野家臣団を率いて、長宗我部氏・三好氏の侵入に対応す

       る。とくに土佐長宗我部元親の侵入に苦しみ、安芸の毛利氏らに支持を

       求めたが、家臣の内紛もあって態勢の好転は望めず、ついに元親に降

       伏、伊予一国は長宗我部氏の支配に属した。天正十三年(一五八五)、

       豊臣秀吉の四国派兵があり、通直は長宗我部勢の前衛として湯築(月)

       城に籠って小早川隆景の軍と対戦したが、隆景の勧めにより降伏。伊予

       一国は隆景に与えられ、河野家臣団とくに水軍は小早川氏に従い、通直

       は隆景の本領安芸竹原に仮寓を与えられたが、天正十五年、同地で死去

       (『戦国人名事典』新人物往来社)。

福成寺文書4

    四 毛利輝元加判并同氏奉行人連署制札

 

         (輝元)

         (花押)

 右當寺立山竹木採用之事、堅加制止畢、若於違犯族者、可厳科之旨、

 依 仰制札如件、

     (1572)          赤川(元秀)

     元亀参年二月九日      十郎左衛門尉(花押)

                  粟屋(元眞)

                   掃 部 助(花押)

                  粟屋(元勝)

                   弥 次 郎(花押)

                  兒玉(元良)

                   三郎右衛門尉(花押)

                  粟屋(就秀)

                   宗兵衛尉(花押)

                  粟屋(元種)

                   内 蔵 丞(花押)

                  國司(元武)

                   右 京 亮(花押)

                  粟屋(元通)

                   縫 殿 允(花押)

 

 「書き下し文」

 右、当寺立山の竹木採用の事、堅く制止を加へ畢んぬ、若し違犯の族に於いては、

 厳科せらるべきの旨、仰せにより制札件のごとし、

 

 「解釈」

 右、福成寺の独占している山で竹木を伐採すること。厳しく制止を加えた。もし違犯する連中においては、厳罰に処せられるべきである。輝元様のご命令により、制札は以上のとおりである。

 

 「注釈」

立山」─立野・立山荘園領主や在地領主が荘民らの入り会い利用を禁じて独占した

     林野や山。草木採取など荘民が利用するためには山手・野手・立野銭などを

     支払わねばならなかった(『古文書古記録語辞典』)。

福成寺文書3

    三 毛利弘元書状

 

 爲末代愁訴も如何ニ候之間、就御申御奉行衆承候者、以次心底申上

 度候、被御心得分候て可御意候、委細之旨、飯田下野守護御使者

 可申入候、毎事重而恐惶謹言、

       三月廿一日         弘元(花押)

      (周防興隆寺

      氷上別當御坊

            御報 御同宿御中

       (切封)

       「 ﹅ ﹅ 」

 

 「書き下し文」

 末代のため愁訴も如何に候ふの間、御申しに就き御奉行衆より承り候はば、次いでを以て心底申し上げ度く候ふ、御心得分けられ候ひて御意を懸けらるべく候ふ、委細の旨、飯田下野守護の御使者申し入るべく候ふ、毎事重ねて恐惶謹言、

 

 「解釈」

 今後のため、愁訴もどのようにするべきか考えておりましたところ、あなた様の御申し出について、大内氏の御奉行衆からお聞きしますならば、ついでをもって本心を申し上げたいです。それをお聞き分けになってお心遣いください。詳細は飯田下野が守護の御使者に申し入れるはずです。すべてのことを重ねがさね謹んで申し上げます。

 

*さっぱり解釈できませんでした。

 

 「注釈」

興隆寺」─現山口市大字大内御堀氷上。天台宗の古刹で、山号は氷上山、本尊釈迦如

      来。〔創建〕大内盛見が応永十一年(一四〇四)二月、興隆寺本堂の再建

      供養に際して納めた興隆寺本堂供養日記(興隆寺文書)に、推古天皇十九

      年に、大内家の祖百済国の琳聖太子が創建した仏閣であると述べている。

      天長四年(八二七)頃、大内重村が妙見社を寺中に造立してから、大内氏

      の氏寺と定められたという。

      興隆寺の名は正嘉元年(一二五七)大内広定が施入した銅鐘の銘文に「興

      隆寺 奉施入 権介散位多々良弘貞 娑婆世界南閻浮提大日本国山陽道

      防国吉敷郡大内村氷上山興隆寺搥鐘也 正嘉元年丁巳十一月廿七日 鋳冶

      大工丹治助利 観達金剛仏子定直」とあったという(寛延三年「氷上山秘

      奥記」)が、鐘は現存しない。また氷上寺とも称したらしく、弘安五年

      (一二八二)の興隆寺文書に「氷上てらはたゝらのうちてらなり」とみえ

      る。南北朝時代の文書には氷上寺・興隆寺と二つの寺号が入り交じって記

      される。

福成寺文書2

    二 後村上天皇綸旨(宿紙)

 

    賀茂郡

 安藝國東條郷之内三永村事、爲福成寺領寄附了、寺務不相違

 者、天気如此、悉之、以状、

     (1358)

     正平十三季十二月八日

                     左中将(花押)

 

 「書き下し文」

 安芸国東條郷の内三永村の事、福成寺領として寄附せしめ了んぬ、寺務相違有るべか

 らず、てへれば、天気此くのごとし、之を悉せ、以て状す、

 

 「解釈」

 安芸国東條郷のうち三永村のこと。福成寺領として寄付した。寺の職務に相違があるはずもない。というわけで、天皇のご意向は以上のとおりである。命令を執行せよ。以上の内容を下達する。