周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

石井文書(石井英三氏所蔵)2

    二 毛利隆元書状寫

 

 毛利隆元公御判物

『竪紙』

 石井侘言事、『以下三字不分明』、於防州之地『以下文字不知』、右可

(粟屋元親)

 粟右『以下右同断』、罷下裁判候て遣候へと、可被申聞候、謹言、

       十一月四日            隆元御書判

               『端書ニ』

                (石井宗勝ヵ)

                 弥三郎殿   隆元

 

 「書き下し文」

 石井の侘言の事、『以下三字不分明』、防州の地に於いて『以下文字知らず』、右之を遣はすべし粟右『以下右同断』、裁判に罷り下り候ひて遣はし候へと、申し聞かせらるべく候ふ、謹言、

 

*解釈はよくわからなかったので、省略しました。

石井文書(石井英三氏所蔵)1

解題

 本文書は文化十一年(1814)正月、財満氏伝来諸旧記類改写帳に所収されたものである。石井正樹家の一号文書一通、石井昭家の全九通の写とすでに原本を失った二十一通の写をのせる。江戸時代後期の写であるが原本の存するものを校してみるに資料としての使用に耐えると認められるのでここに掲載した。

 同帳末尾にのせる元和丁巳中(三)夏日の年紀のある由緒書によると、石井氏は平姓で大内義興に従い、芸州志和内村に在城した石井内蔵允康永を初代とし、二代 平左衛門尉元家 三代 九郎三郎宣家 四代 蔵人賢家は世々内村の城主であった。陶氏により大内氏が滅び、陶氏も毛利氏によって厳島に滅ぼされるや石井氏は毛利氏に属することになった。五代和泉守房家は正力に在住する。六代弥三郎宗勝 七代孫兵衛勝家としている。

 

 

    一 大内義長安堵状寫

          大内義長公

            御書判『アリ』

『竪紙』

 所帯證文事、藝州錯乱之時紛失云々、任先規領掌不相違之状如件、

    (1554)

    天文廿三年十月廿三日

                (賢家)

              石井蔵人殿

 

 「書き下し文」

 所帯証文の事、芸州錯乱の時紛失すと云々、先規に任せ領掌相違有るべからざるの状件のごとし、

 

 「解釈」

 所領・所職の証文こと。安芸国の争乱時に紛失したという。先例のとおりに領有することに間違いがあるはずもない。

未来からのサイン

  応永三十二年(一四二五)二月二十八日条

                    (『図書寮叢刊 看聞日記』3─99頁)

 

             参議右中将義量

 廿八日、晴、入風呂如例、将軍他界実事也、昨夕云々、為天下驚歎、両三年内損、此

  間興盛、種々被尽祈療、然而無其験、遂被堕命、当年十九歳也、尤可惜々々、室町

  殿於于今無一子、将軍人体忽闕如、天下惣別驚入者也、荼毘明日於等持院可有沙汰

     (日野栄子)

  云々、御台母儀、不堪悲歎存命不定云々、公家武家俗侶馳参、都鄙騒動也、当年

  相当三合、此歳天下必有凶事、自往昔度々例天下重事不可勝計、仍自旧年諸門跡御

  祈禱事被申云々、然而無其験歟、既二宮御事将軍連続、天下又大乱風聞、旁呈凶事

  了、正月中種々怪異風聞巷説雖難信用、聊記之、

                      管領(斯波義淳)

  正月一日、早朝大雨雷鳴、其時分勘解由小路武衛屋形棟上冑降下、銘将軍ト

  書云々、〈此事大に不審、定虚説歟、武衛堅隠密云々、〉其後〈月日不聞、〉

  甲斐宿所僧一人太刀持参申云、八幡参籠之時、此太刀是可持参之由蒙霊夢

             〔議〕

  了、夢覚太刀現形、不思儀之間持参之由申、甲斐若党比興イタカ之由申、太刀不

  請取追返了、然而不思儀之間、又彼僧召返太刀請取、事子細猶欲相尋之処、

                           斯波高経

  カキ消之様逐電、如何とも行方不知、件太刀武衛先祖七条入道太刀也、八幡

  奉納太刀也云々、此事実説云々、猶不審々々、

  正月一日、室町殿北野社参、宮廻之時、御殿内有声、当年御代可尽云々、又

                称光天皇

  北野鶏物ヲ言、今年御代可尽、主上可有崩御云々、此鶏被流捨云々、又管領

  (満家)

  畠山、厩馬物云、只今ヘシ、能々可養云々、其時厩馬共同様イナヽク

  ト云々、

  又正月一日、将軍室町殿御前被参之時、鳩二来喫合死云々、

  同中旬之比、天狗拍物ヲシテ夜々クルイ行云々、

  又華王院夢想神祇官シキ諸神会合、一座人云、将軍代欲尽、諸神已捨

  給了、但北野未捨給之由被申蒙夢想云々、仍披露申、北野可参籠之由被仰云々、

  又去比、日吉大宮社頭モナキ猿二死テアリ、此社檀ニハ猿不入、惣シテ鳥獣も

  不入云々、不思儀事也、

  又二月将軍病気已火急之時、室町殿寝殿棟瓦白羽箭一筋立、其箭紙ニテ

  羽ヲハク、箆華也云々、瓦立事殊不思儀云々、其後無幾程将軍死去云々、

  謳歌説事々不足信用、雖然天下風聞説大概記之、

   (後略)

 

 「書き下し文」

 二十八日、晴る、風呂に入ること例のごとし、将軍他界実事なり、昨夕と云々、天下

  驚歎たり、両三年内損するも、此の間興隆す、種々祈療を尽くさる、然れども其の

  験無く、遂に命を堕とさる、当年十九歳なり、尤も惜しむべし惜しむべし、室町殿

  今に一子無く、将軍の人体忽ち闕如す、天下惣別驚き入る者なり、荼毘明日等持院

  に於いて沙汰有るべしと云々、御台母儀、悲歎に堪へず存命不定と云々、公家武家

  俗侶馳せ参じ、都鄙騒動なり、当年三合に相当し、此の歳天下に必ず凶事有り、往

  昔より度々の例、天下の重事勝げて計ふべからず、仍て旧年より諸門跡に御祈祷の

  事を申さると云々、然れども其の験無きか、既に二宮の御事将軍連続す、天下又大

  乱と風聞す、旁々凶事を呈し了んぬ、正月中種々の怪異の風聞巷説信用し難しと雖

  も、聊か之を記す、

  正月一日、早朝大雨雷鳴、其の時分勘解由小路前管領武衛屋形の棟の上に冑降下

  す、銘に将軍と書く云々、〈此の事大いに不審、定めて虚説か、武衛堅く隠密すと

  云々、〉其の後〈月日聞かず、〉甲斐の宿所へ僧一人太刀を持参し申して云く、八

  幡参籠の時、此の太刀を是へ持参すべきの由霊夢を蒙り了んぬ、夢覚め太刀現形

  す、不思議の間持参するの由申す、甲斐の若党比興のいたかの由申し、太刀を請け

  取らず追ひ返し了んぬ、然れども不思議の間、又彼の僧を召し返し太刀を請け取

  る、事の子細を猶ほ相尋ねんと欲するの処、カキ消ゆるの様に逐電し、如何に尋ぬ

  とも行方知らず、件の太刀武衛先祖七条入道の太刀なり、八幡に奉納せる太刀なり

  と云々、此の事実説と云々、猶ほ不審不審、

  正月一日、室町殿北野へ社参す、宮廻りの時、御殿の内に声有り、当年御代尽くべ

  しと云々、又北野に鶏物を言ひ、今年御代尽くべし、主上崩御有るべしと云々、此

  の鶏流し捨てらると云々、又管領畠山、厩の馬物を云ひ、只今に骨を折るべし、よ

  くよく養ふべしと云々、其の時厩の馬ども同様にいななく云々、

  又正月一日、将軍室町殿の御前に参らるるの時、鳩二つ来たりて喫ひ合ひに死すと

  云々、

  同中旬の比、天狗拍物をして夜々くるい行くと云々、

  又華王院の夢想に、神祇官と覚しき所に諸神会合す、一座の人云く、将軍代尽きん

  と欲す、諸神已に捨て給ひ了んぬ、但し北野未だ捨て給はざるの由申さると夢想を

  蒙ると云々、仍て披露し申す、北野に参籠すべきの由仰せらると云々、

  又去んぬる比、日吉大宮社頭に頭もなき猿二つ死してあり、此の社壇には猿を入れ

  ず、惣じて鳥獣も入れずと云々、不思議の事なり、

  又二月将軍の病気已に火急の時、室町殿寝殿の棟瓦の上に白羽の箭一筋立つ、其の

  箭紙にて羽をはき、箆は華なりと云々、瓦の上に立つ事殊に不思議と云々、其の後

  幾程も無く将軍死去すと云々、謳歌の説事々しく信用に足らず、然りと雖も天下風

  聞の説大概之を記す、

   (後略)

 

 「解釈」

 二十八日、晴れ。いつものように風呂に入った。将軍足利義量の他界は事実である。昨夕だという。世間は驚嘆した。二、三年内臓を痛めていたが、ここのところ回復していた。多様な祈祷と治療を尽くした。しかし、その効き目はなく、とうとう命を落としなさった。当年十九歳である。いかにも残念なことである。足利義量には現在一人の子もなく、次の将軍になる人物は突如いなくなってしまった。世間は総じて驚くばかりである。荼毘は明日等持院で行われるはずだそうです。足利義持御台所で母である日野栄子は悲嘆に耐えられず、その生死ははっきりしないという。公家や武家、僧侶などが大急ぎで参上し、都も田舎も大騒ぎである。今年は三合に相当し、この年は天下に必ず凶事が起こる。昔からたびたび先例があり、天下の重大事件は数え尽くすことができない。そこで、去年から諸門跡にご祈祷を申し付けなさったそうだ。しかし、その効き目はなかったのだろう。すでに二宮(小川宮)の薨御と将軍薨去が連続した。天下がまた大いに乱れると噂が立った。正月中に様々な怪異の噂があり、信用することはできないが、少しばかりそれを記しておく。

  正月一日。早朝に大雨が降り、雷が鳴った。その時分に勘解由小路前管領斯波義淳の屋敷の棟の上に冑が落下した。その銘に将軍と書いてあったそうだ。〈このことは大いに不審である。きっと根拠のない噂だろう。斯波義淳はひた隠しにしたという。〉その後〈月日は聞いていない。〉甲斐将久の宿所へ僧が一人太刀を持参し、申し上げて言うには、「石清水八幡宮に参籠したとき、この太刀をこちらへ持参せよとの霊夢を見た。夢が覚めると太刀が姿を現していた。不思議に思ったので持参した」と申し上げた。甲斐将久の若党はつまらない乞食坊主だと申し上げ、太刀を受け取らずに追い返した。しかし、不思議に思ったので、またこの僧侶を呼び戻し太刀を受け取った。さらに事情を尋ねようと思ったところ、かき消すようにいなくなり、どのように探しても行方が分からない。この太刀は斯波義淳の先祖七条入道斯波高経の太刀である。石清水八幡宮に奉納した太刀であるという。このことは事実だそうだ。それでもやはり不審である。

  正月一日、室町殿足利義持が北野社へ参拝した。社殿を巡拝しているとき、社殿の中で声がして、当年称光天皇の治世が終わるにちがいないと言った。また北野社にいる鶏が口をきき、今年称光天皇の治世が終わるにちがいない、帝がお亡くなりになるはずだと言った。この鶏は流し捨てられたそうだ。また管領畠山満家の厩の馬が物を言い、今すぐ骨を折るはずだ、十分に養生しなければならないと言った。そのとき、厩の馬どもが同様にいなないたそうだ。

  また正月一日、将軍足利義量が室町殿足利義持の御前に参上しなさったとき、鳩が二羽やってきてぶつかって死んだという。

  正月中旬のころ、天狗が楽器をもって毎夜狂い歩いているという。

  また華王院は、神祇官と思われる場所で諸神が会合している夢を見た。一の座の人が言うには、将軍の治世が終わろうとしている。諸神はすでに見捨てなさった。ただし、北野の神はまだ見捨てなさっていない、と申し上げたという夢を見たという。そこで、その夢の内容を(後小松上皇にヵ)披露し申し上げた。(上皇は)北野社に参籠せよと(室町殿にヵ)仰せになったそうだ。

  また先日、日吉大宮社の社殿前に、頭のない猿が二頭死んでいた。この社壇には猿を入れず、すべての鳥獣を入れないそうだ。不思議なことである。

  また二月、将軍の病気がすでに重篤になっていたとき、室町殿足利義持邸の寝殿の棟瓦の上に、白羽の矢が一本立った。その矢は紙で羽をはってあり、矢竹は花であったそうだ。瓦の上に立つことがとりわけ不思議であるという。その後、ほどなく将軍は亡くなったそうだ。みながそろって口々に言う噂は、大げさで信用に足りない。そうではあるが、世間の噂はだいたい記載しておいた。

 

 「注釈」

「内損」─内臓を痛めること。特に飲酒のために胃腸をなどを壊すこと(『日本国語大

     辞典』)。

「三合」─陰陽道でいう厄年の一つ。暦の上で一年に大歳・太陰・客気の三神が合する

     こと。これを大凶とし、この年は天災、兵乱などが多いとする。三合の年

     (『日本国語大辞典』)。

「二宮」─小川宮。後小松上皇第二皇子。応永三十二年二月十六日薨御(『看聞日記』

     同日条)。

「甲斐」─甲斐将久(法名常治)。斯波家の執事(「第三章 守護支配の展開」『福井

     県史』通史編2中世、

   http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-3-01-01-02-02.htm)。

「いたか」─(「いたかき(板書)」の意か)乞食坊主の一種。供養のために、板の卒

      塔婆(そとば)に経文、戒名などを書いて川に流したり、経を読んだりし

      て銭をもらって歩くもの(『日本国語大辞典』)。

 

 

*凶兆であればあるほど、それをきちんと感知できればどれほどありがたいことか…。今も昔も、未来からのメッセージを正確に読み取るのは難しいようです。逆向き因果の一種と言えそうですが、今回の史料では将軍足利義量の死が原因となって、過去に起きた怪異や夢想が、結果として次々に記されることになったわけです。後からあとから湧いてくる。予兆なんてものは、そんなものかもしれません。

 なお、この記事については、桜井英治『室町人の精神』(日本の歴史12、講談社、2001、94頁)で触れられています。

自死の中世史 34 ─吾妻鏡3─

  文治元年(一一八五)十月十三日条

                    『吾妻鏡』第五(『国史大系』第三二巻)

 

 十三日壬戌、去十一日并今日、伊豫大夫判官義經潜參 仙洞、奏聞云、前備前守行家向背關東企謀反、其故者、可誅其身之趣、鎌倉二位卿所命、達行家後聞之間、以何過怠可誅無罪叔父哉之由、依含欝陶也、義經頻雖加制止、敢不拘、而義經亦退平氏凶惡、令属世於靜謐、是盍大功乎、然而二品曾不存其酬、適所計宛之所領等悉以改變、剰可誅滅之由有結搆之聞、爲遁其難已同意行家、此上者可賜頼朝追討官苻、無 勅許者兩人共欲自殺云々、能可宥行家欝憤之旨有勅答云々、

 

  文治元年(一一八五)十一月十五日条

                    『吾妻鏡』第五(『国史大系』第三二巻)

 十五日甲午、大藏卿泰經朝臣使者參着、依怖刑歟、直不參營中、先到左典厩御亭、告被献状於鎌倉殿之由、又一通獻典厩、義經等事、全非微臣結搆、只怖武威傳奏許也、及何様遠聞哉、就世上浮説、無左右不鑚之様、可被宥申云々、典厩相具使者、達子細給、府卿云状披覽、俊兼讀申之、其趣、行家・義經謀叛事偏爲天魔所爲歟、無 宣下者參宮中可自殺之由、言上之間、爲避當時難、一旦雖似有 勅許、曾非 叡慮之所與云々、是偏傳 天氣歟、二品被投返報云、行家・義經謀叛事、爲天魔所爲之由被仰下、甚無謂事候、天魔者爲佛法成妨、於人倫致煩者也、頼朝降伏數多之朝敵、奉任世務於君之忠、何忽變反逆、非指叡慮被下 院宣哉、云行家、云義經、不召取之間、諸國衰弊、人民滅亡歟、仍日本第一大天狗者、更非他者歟云々、

 

 「書き下し文」

 (十月)十三日壬戌、去んぬる十一日并びに今日、伊予大夫判官義経潛かに仙洞に参り、奏聞して云く、前備前守行家関東に向背し謀叛を企つ、其の故は、其の身を誅すべきの趣、鎌倉二位卿命ずる所、行家の後聞に達するの間、何の過怠を以て罪無き叔父を誅すべきやの由、欝陶を含むに依るなり、義経頻りに制止を加ふと雖も、敢えて拘はらず、而るに義経も亦平氏の凶悪を退け、世を静謐に属せしむ、是れ盍ぞ大功ならざる、然れども二品曾て其の酬いを存ぜず、適々計らひ宛つる所の所領等悉く以て改変し、剰え誅滅すべきの由結構の聞こえ有り、其の難を遁れんがため已に行家に同意す、此の上は頼朝追討の官符を賜ふべし、勅許無くんば、両人共自殺せんと欲すと云々、能く行家の鬱憤を宥むべきの旨勅答有りと云々、

 

 (十一月)十五日甲午、大蔵卿泰経朝臣の使者参着す、刑を怖るるによりてか、直に営中に参らず、先ず左典厩の御亭に到り、状を鎌倉殿に献ぜらるるの由を告ぐ、又の一通を典厩に献ず、義経等の事、全く微臣の結構に非ず、只だ武威を怖れ伝奏するばかりなり、何様の遠聞に及ぶや、世上の浮説に就き、左右無く鑽らざるの様、宥め申さるべしと云々、典厩使者を相具し、子細を達し給ふ、府卿の状を披覧し、俊兼之を読み申す、其の趣、行家・義経謀叛の事偏に天魔の所為たるか、宣下無くんば宮中に参り自殺すべきの由、言上するの間、当時の難を避けんがため、一旦勅許有るに似たりと雖も、曾て叡慮の與ふる所に非ずと云々、是れ偏に天気を伝ふるか。二品返報を投げられて云く、行家・義経謀叛の事、天魔の所為たるの由仰せ下さるるは、甚だ謂はれ無き事にて候ふ、天魔は仏法のため妨げを成し、人倫に於いて煩ひを致す者なり、頼朝数多の朝敵を降伏し、世務を君に任せ奉るの忠、何ぞ忽ち反逆に変はらん、指せる叡慮に非ずして院宣を下さるるか。行家と云ひ義経と云ひ、召し取らざるの間、諸国衰弊し、人民滅亡するか、仍つて日本国第一の大天狗は、更に他者に非ざるかと云々、

 

 「解釈」(『現代語訳 吾妻鏡』2、吉川弘文館、2008)

 (十月)十三日、壬戌。去る十一日および今日、伊予大夫判官(源)義経が密かに仙洞(後白河)に参り、奏聞して言った。「前備前守(源)行家が関東に背き謀反を企てました。その理由は、行家の身を誅せよとの鎌倉に二位卿(源頼朝)の命令が、行家の耳に届いたので、何の過ちがあって無実の叔父を誅するのかと憤ったものです。義経は頻りに制止しましたが、一向に聞き入れられません。それに、義経もまた平氏の凶悪を退けて、世の中に静けさを取り戻しました。これがどうして大功でないことがありましょうか(なんと大きな功績ではありませんか)。それなのに二品(頼朝)はまったくそれに報いようとせず、たまたま義経に計らい宛てられていた所領などもすべて改変したばかりか、義経を誅滅せよと企てているとの噂もあります。義経はこの難を逃れるためにすでに行家と手を結びました。この上は頼朝追討の官符を賜りたい。勅許が無ければ両人ともに自殺するつもりです」。これに対し、「よくよく行家の鬱憤をなだめるように。」と(後白河院の)のお答えがあったという。

 

 (十一月)十五日、甲午。大蔵卿(高階)泰経朝臣の使者が(鎌倉に)到着した。処罰を恐れたのだろうか、直接に御所には参らず、まず左典厩(一条能保)の御亭に着き、書状を鎌倉殿(源頼朝)に献上すると告げた。また別の一通を能保に献じた。書状の内容は「(源)義経らのことは、まったく私の企みではありません。ただ武威を恐れて院に伝奏しただけです。どのようにお耳に達しているでしょうか。世間の流言によって、軽率に処罰されないよう、お宥めください。」とのことだった。能保は使者を連れて、事情を(頼朝に)申し上げた。(頼朝は)泰経の書状を披き見て、俊兼が読みあげた。その内容は以下の通りであった。「(源)行家・義経の謀反のことはただただ天魔のなすところです。追討の院宣が出されなければ、宮中に参って自殺すると申してきました。そのためさしあたっての難を避けるために、一旦は勅許があったからのようにしたものであり、けっして(後白河院の)お考えにより与えたものではありません」。この申状はそのまま院のお考えを伝えたものかと、二品(源頼朝)は返事を(使者に)投げられておっしゃった。「行家・義経の謀反のことは、天魔の所為であると仰せられたとは、はなはだ謂われのないことである。天魔は仏法に対して妨げを成し、人に対して煩いをするものである。頼朝が多数の朝敵を降伏させ、世の政務を君に任せ奉った忠節を、どうしてたちまち反逆に変えてしまうのか。特別な院のご意思によらずに、院宣が下されたのか。行家にせよ、義経にせよ、召し捕らえなかったために、諸国は疲弊し、人民は滅亡することになった。よって(天魔どころか)日本第一の大天狗は、けっして他の者ではない」。

 

 

 「注釈」 

「中世社会においては、自害した者や自害を試みようとする者に対しては、公権力も周囲の社会も理非を超えて一定の配慮をもっていたことが明らかであろう。これらの配慮を期待して、ときに中世の人々は起死回生の一策として、自害を口にしたり、現実に実行したのだと考えられる。」(清水克行「中世社会の復習手段としての自害」『室町社会の騒擾と秩序』吉川弘文館、2004、38頁、「復讐の正当性」『喧嘩両成敗の誕生』講談社、2006)。

 

 今回の記事を説明するのに、上の主張は最も適切だと思います。源頼朝の討伐命令によって、源行家義経は窮地に陥るのですが、その劣勢をひっくり返すために、義経は頼朝追討の官符を賜るよう後白河上皇に訴え出ました。その交渉の道具が自殺だったのです。自殺するという脅しによって、官符下賜という配慮を期待したのでしょう。この記事が史実かどうかははっきりしませんが、鎌倉時代の初期には、こうした「究極の請願の形態としての自害」(前掲清水著書、36頁)が普及していたのかもしれません。

周梨槃特の巨木コレクション(未完)

少しばかり思い入れのある巨木の写真を紹介します。

 

庄原市高野町新市「乳下りイチョウ

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鳥取県湯梨浜町松崎「松崎神社のスダジイ

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鳥取県琴浦町伯耆の大シイ」

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尾道市「艮神社のクスノキ

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三原市「糸崎神社のクスノキ

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岡山県奈義町高円「菩提寺の大イチョウ

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福山市金江町大字金見「金江の大ムロノキ」

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岡山県高梁市巨瀬町「祇園寺の天狗杉」

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岡山県真庭市別所「醍醐桜

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島根県出雲市「弥山のエノキ」

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福山市新市町「素盞嗚神社イチョウ

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石井文書(石井昭氏所蔵)9(完)

    九 周防國都濃郡検知打渡坪付

 

   防州都濃郡検地〈打渡坪付〉事

 (追筆ヵ)

 「五千石之内」

       合     戸田郷

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏印)・・・

  センホウ道捽               井口ノ

   田四反小     米三石貳斗五升    新二郎

  ヤチウタ                  スカハラノ

   田貳反      米九斗        道 久

  貞國                   中河原ノ

   田壹反      米四斗八升      次郎四郎

  西か迫                  コケ谷ノ

   田壹段六拾歩   米貳斗八升      新三郎

  同所アマキ                 こけ谷ノ

   田壹段小     米三斗貳升      源二郎

  ぬたの本                  同所ノ

   田六拾歩     米四升        赤 法

  同所迫                  刀禰源太郎拘

   田半卅歩     米壹斗貳升      新三郎

  鳥越二所合                 こけ谷ノ

   田貳十歩     米壹升        のこる

  五郎太郎ヤシキ              源太郎拘

   田三十歩     米三升        新衛門

  同所                  刀禰ノ

   田拾歩      米壹升        源太郎

  井手口                  井口ノ

   田貳段      米八斗        源五郎

  同所

   田壹段半     米四斗五升      同 人

                     同所ノ

   田壹段      米六斗        孫 六

  八王子ノ前                 にケ谷ノ

   田八拾歩     米八升        道 開

  上ケウ尾                  同所ノ

   田壹段      米四斗五升      源太郎

  土居ノ上                  同所ノ

   田四拾歩     米四升        市 若

  やなか迫                  同所ノ

   田半       米貳斗        太郎次郎

                       下戸田ノ

   田壹段      米五斗        六郎衛門

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏印)・・・

  すキサキ                 貞本ノ

   田四段      米壹石六斗      神兵衛

  十メウ                 サハ田ノ

   田貳反      米四斗        千五サハ田ノ郎

  フクライ                 同所ノ

   田小       米壹斗五升      弥 三

  河原                  小柳ノ

   田貳拾歩     米貳升        新九郎

  サバタノヱキ                下サバタノ

   田小       米壹斗        六郎左衛門

  向河原                 サバタノ

   田反       米壹斗五升      源二郎

  同所                  井口ノ

   田小       米壹斗        孫三郎

  同所                  中河原ノ

   田同所拾歩      米壹升        孫四郎

  同所                  サバタ

   田三十歩     米三升        彦 松

  同所                  同所ノ

   田三十歩     米三升        六郎丸

  河原                  同所ノ

   田貳拾歩     米貳升        二郎四郎

  向河原                  井口ノ

   田小       米七升        十朗左衛門

  同所                  サバタノ

   田大       米貳斗        源三郎

  ミ山カサコ                 散使拘

   田大       米貳斗        千五郎

  河内神                  下戸田ノ

   田一反小     米四斗三升      二郎衛門

  貴舟ノヱキ                 同所

   田拾歩      米壹升        宮 法

  高橋田                 津田ノ

   田六拾歩     米六升        千五郎

  實廣

   田九拾歩     米六升        源十郎

  同所                  下戸田ノ

   田拾歩      米壹升        清十郎

  同所

   田拾歩      米壹升        源十郎

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏印)・・・

  河原                  サコノ

   田三十歩     米三升        つ ち

  同所                  クラカツホ

   田四十歩     米五升        善左衛門

  風呂ノヱキ

   田三拾歩     米三升        同 人

  ヲハノ垣内                 サコノ

   田壹段六十歩   米三斗五升      六郎衛門

  中山                  中河原

   田貳反小     米七斗        善四郎

  ミ山カサコ                 下戸田ノ散使拘

   田三百歩     米貳斗五升      千五郎

  山王迫河原開               散使

   田貳拾歩     米貳升        弥 六

        田三町四段貳拾歩

     以上

        米拾三石六斗五升

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏印)・・・

  北垣内                  小河内源左衛門拘へ

   屋敷小      家アリ        藤次郎

  平度波ノ本                 中河原

   屋敷半      家アリ        小四郎

  中河原二所合               同所ノ

   屋敷小      家アリ        与三郎

  トウカン垣内               ヲシ田ノ

   畠卅歩      代十六文       弥 六

  山王迫                  井口ノ

   山畠六十歩    代廿文        新二郎

  同所                  同所ノ

   山畠六十歩    代十六文       新衛門

  五葉庵                 ナカレ田ノ

   山畠十歩     代貳文        藤二郎

  ヲカ田                 戸田山ノ

   山畠廿歩     代五文        新四郎

  小燈明領                 迫ノ

   畠三十歩     代六文        六郎衛門

        畠半三拾歩

      以上

        代六十五文       貫別六斗宛

           米ニシテ三升九合

        屋敷三ヶ所

                畠米加

 并米拾三石六斗八升九合

      七斗一升五合

     (1589)         兒玉 (元言)

     天正十七年五月十五日   四郎右衛門尉(花押)

                内藤 (就藤)

                  新右衛門尉(花押)

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏印)・・・

                長井 (元親)

                  右衛門大夫(花押)

                内藤 (元榮)

                  与三右衛門尉(花押)

        (勝家ヵ)

      石井孫兵衛尉殿

 

 「今度御究相澄畢、

    (慶長)(1597)          (元武)

     慶貳八月九日        國司備後守(花押)

                     (元宗)

                   山田吉兵衛尉(花押)

石井文書(石井昭氏所蔵)8

    八 大内氏奉行人連署書状(切紙)

 

       (深津郡)                (弘中)

 去四日備後外郡五ヶ庄動之時、人数等令馳走出張之由、隆兼注進之趣遂

 披露候、尤神妙之由、得其心申之旨候、恐々謹言、

      (天文十六年)(1547)    (小原)

       六月十二日         隆言(花押)

                   (青景)

                     隆著(花押)

                    (陶)

                     隆満(花押)

          (宣家)

       石井九郎三郎殿

        ○以上、八通ヲ一巻ニ収ム

 

 「書き下し文」

 去んぬる四日備後外郡五ヶ庄の動きの時、人数等馳走せしめ出張するの由、隆兼注進の趣披露を遂げ候ふ、尤も神妙の由、其の心を得申すべきの旨に候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 去る六月四日、備後外郡五ヶ庄での戦のとき、人員を集め出陣したことについては、弘中隆兼の注進した内容を、大内義隆様に披露しました。いかにも殊勝なことであるという義隆様のお気持ちを理解し申し上げるべきです。以上、謹んで申し上げます。

 

 

 「注釈」

「備後外郡」─備後南部の諸郡すなわち深津・安那・品治・沼隈・御調・芦田・世羅の

       七郡をまとめて外郡と呼び、備後北部山手の諸郡すなわち甲奴・神石・

       奴可・恵蘇・三次・三谷・三上の七郡をまとめて内郡と呼ぶ呼称は戦国

       時代広く使われたが、応仁の乱初頭にすでにこの呼称があった(山内首

       藤家文書一二四号)。すなわち外郡の国人衆は東軍に、内郡のそれは西

       軍に属したことになる。世羅郡は外郡に入っているが時には内郡と呼ば

       れる場合もあった。ちょうどこのあたりが内・外両郡の境界であったの

       である。従って応仁の乱においても備後の東・西両軍の合戦は世羅郡

       中心に展開された(『福山市史』上、一九八三)。

石井文書(石井昭氏所蔵)7

    七 大内氏奉行人書状(切紙)

 

(安芸賀茂郡               (杉)

 造賀要害ニ長々令在城、毎事馳走之由、隆宣注進之趣遂披露候、尤神妙之

 通、以御書仰出候、面目之至候、弥可忠節之通、能々可申之

 旨候、恐々謹言、

     (天文七年ヵ)(1538)      (内藤)

       五月十三日         隆時(花押)

          (房家)

        石井和泉守殿

 

 「書き下し文」

 造賀要害に長々在城せしめ、毎事馳走の由、隆宣注進の趣遂披露を遂げ候ふ、尤も神妙の通り、御書を以て仰せ出だされ候ふ、面目の至りに候ふ、いよいよ忠節を遂げらるべきの通り、よくよく申すべきの旨にて候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 造賀要害に長々と在城し、すべてのことで奔走したことについては、杉隆宣が注進した内容を大内義隆様に披露しました。いかにも感心なことだと、ご書状によって仰せになられました。この上ない名誉です。ますます忠節を遂げなさるべきであると、念には念を入れて(石井房家殿に)申し上げるべきであるということです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「造賀要害」─現東広島市高屋町稲木。鷹巣山(五三四メートル)の東南に位置する。

       同山から流れる小河川が浅くて複雑な谷と低丘陵を形成。南は桧山村に

       接する。地名は、応永三十二年(一四二五)八月十八日付周賀契状(国

       郡志下調書出帳)に「高屋保内稲木長福寺」と見える。

       鷹巣山頂には大内氏家臣杉森下総守が築いたと伝える城跡があり、天文

       七年(一五三八)頃大内氏が石井氏らを在城させていた造賀要害(石井

       文書)はこれではないかと推定される。平賀弘保・興貞父子は大内方・

       尼子方に分かれて対立していたが、造賀要害は弘保と大内氏が築いたも

       のらしく、のち大内氏から弘保に返還されている(同文書)。山頂の本

       丸を中心に尾根上に一〇余の郭を配する(「稲木村」『広島県の地名』

       平凡社)。

石井文書(石井昭氏所蔵)6

    六 杉隆宣書状(切紙)

 

 内々かの平二郎申しさい候条、於此方よくゝゝ相きわめ、すてにしき相調候、

 城内之儀、右之人と申たんし、そのかくこ肝要にて候ふ、なを定兼可申候、恐々

 謹言、

       六月十六日          隆宣(花押)

         (房家)

       石井和泉守殿

             進之候

 

 「書き下し文」

 内々に彼の平二郎申す子細候ふ条、此方に於いてよくよく相究め、既に仕儀相調ひ候

 ふ、城内の儀、右の人と申し談じ、その恪勤肝要にて候ふ、猶ほ定兼申すべく候ふ、

 恐々謹言、

 

 「解釈」

 内々にあの平二郎の申し上げる事情がありました件について、こちらで十分に究明し、すでに調整しました。城内の件については、右の人と相談し申し上げ、奉公に励むことが大切です。さらに、定兼が申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。

石井文書(石井昭氏所蔵)5

    五 大内義隆安堵状

 

           (義隆)

          (花押)

 父元家所帯事、任去天文八年十二月廿日之譲状之旨、石井九郎三郎宣家、可

 全領知之状如件、

     (1543)

     天文十二年三月十七日

 

 「書き下し文」

 父元家所帯の事、去んぬる天文八年十二月二十日の譲状の旨に任せ、石井九郎三郎宣

 家、領知を全うすべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 父元家の所領・所職のこと。去る天文八年(一五三九)十二月二十日付の譲状の内容のとおりに、石井九郎三郎宣家が領有を全うするべきである。