周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

千葉文書2

    二 神保房胤合戦手負注文

 

 (證判)  大内義隆

 「一見候了、(花押)」

 神保彦三郎房胤謹言上

  欲早賜 御證判、備後代龜鑑軍忠状事

                            賀茂郡

 右去年天文五十一月七日以来、於藝州平賀蔵人大夫興貞要害頭崎詰口、郎徒

 僕従被疵人数備左、

   郎徒

    神保次郎左衛門尉 〈矢疵二ヶ所背中左肩〉

    天野三郎兵衛尉 〈矢疵一ヶ所右肩〉

    渡邊藤次郎 〈矢疵二ヶ所左肩右腹〉

    蔵田弥太郎 〈矢疵二ヶ所右膝同脇〉

    菅弥七郎 〈矢疵一ヶ所右腕〉

   僕従

     三郎左衛門 〈矢疵一ヶ所口ノ脇〉

     助七 〈矢疵一ヶ所右膝〉

     小三郎 〈矢疵一ヶ所右肩〉

     次郎四郎 〈矢疵一ヶ所右足〉

    以上

     (1537)

     天文六年五月三日       房胤(花押)

         (隆兼)

       弘中々務丞殿

 

*割書は〈 〉で記載しました。

 

 「書き下し文」

 

 (證判)

 「一見候ひ了んぬ、(花押)」

 神保彦三郎房胤謹んで言上す、

  早く御証判を賜り、後代亀鑑に備へんと欲する軍忠状の事、

 右、去年天文五十一月七日以来、芸州平賀蔵人大夫興貞の要害頭崎詰口に於いて、

 郎徒・僕従疵を被る人数左に備ふ、

   (後略)

 

 「解釈」

 「承認しました。」

 神保彦三郎房胤が謹んで申し上げます。

  早くご証判をいただき、のちの証拠として役立てようとする軍忠状のこと。

 右、去年天文五年(1537)十一月七日以来、安芸国賀茂郡にある平賀蔵人大夫興貞の要害頭崎城の詰丸の入り口で、傷を被った郎等や下部の人数を左に書き備える。

   (後略)

 

 「注釈」

「一見状」─中世、軍忠状・着到状において、大将や奉行が内容を承認したしるしとし

      て、文書の奥や袖に「一見了」と記し花押を加えたもの(『古文書古記録

      語辞典』)。

「亀鑑」─きかん。判断の基準となるもの。手本、見本、模範、証拠、証文。亀鏡(き

     けい)とも。「永代の亀鑑となす」とか「亀鏡に備う」などと用いる(『古

     文書古記録語辞典』)。

「弘中隆兼」─?〜一五五五(?〜弘治元)。(中務丞・三河守)。大内氏家臣。父は

       興兼。天文十二年(一五四三)、大内義隆の命により安芸国西条槌山城

       にあって備後の情勢を探る。大永五年(一五二五)、天文五年、同十年

       安芸に出陣。安芸守護代。天文二十年、陶晴賢に属して大内義長に仕え

       る。同二十三年、玖珂郡岩国に出陣。弘治元年(一五五五)、晴賢の指

       示により江良房栄を誅殺。また厳島古城山麓に出陣して毛利軍と戦い敗

       死した(『戦国人名事典』新人物往来社)。

千葉文書1

解題

 千葉氏は同氏の系図によると上総介忠常の後胤で代々下野国真壁に住んでいた。忠恒から十七代の胤季の子経胤の時に信州伊那へ移り、その地名から神保を称するようになったという。

 永正のころ、信胤は安芸国へ移り、大内氏に、ついで毛利氏に属し、直接には小早川隆景の命を受けた。信胤の子神保五郎は広島県山口町に住んだ。その子の新四郎は海田(安芸郡海田町)に来住し、百姓となったが、以後代々上瀬野(広島市瀬野川町)から広島までの天下送り・宿送役をつとめた。

 

 

    一 大内義興下文

 

    (義興)

     (花押)

 下     神保新右衛門尉信胤

               賀茂郡

   可早領知、 安藝國西條寺家村内國松名肆貫文足〈完戸四郎次郎先知

   行分〉 同三永方田口村内佛師名拾貫文足〈松橋与三郎先知行分〉 同黒瀬村

   内岩屋名参貫七拾文足〈黒瀬彦三郎重實先知行分〉 同助實方内女子畑行武國

   重分貮貫陸百文足〈黒瀬三郎氏清先知行分〉 地等事、

 右、以人所充行也、爰件所々事雖淂之、准給恩地公役

 之由、任申請之旨裁許畢者、早守先例全領知之状如件、

    (1509)

    永正六年八月十三日

 

*割書は〈 〉で記載しました。

 

 「書き下し文」

 下す 神保新右衛門尉信胤

   早く領知せしむべき、安芸国西条寺家村の内国松名四貫文足〈完戸四郎次郎先の

   知行分〉 同三永方田口村の内仏師名十貫文足〈松橋与三郎先の知行分〉 同黒

   瀬村の内岩屋名三貫七十文足〈黒瀬彦三郎重実先の知行分〉 同助実方の内女子

   畑行武国重分二貫六百文足〈黒瀬三郎氏清知行分〉 地等の事、

 右、人を以て充て行ふ所なり、爰に件の所々の事之を買得せしむと雖も、給恩地に准

 じ、公役を遂ぐべきの由、申請の旨に任せ裁許せしめ畢んぬてへれば、早く先例を守

 り全く領知すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 下知する、神保新右衛門尉信胤

   早く領有させるべき、安芸国西条寺家村の内国松名四貫文足〈完戸四郎次郎先の知行分〉、同三永方田口村の内仏師名十貫文足〈松橋与三郎先の知行分〉、同黒瀬村の内岩屋名三貫七十文足〈黒瀬彦三郎重実先の知行分〉、同助実方の内女子畑行武国重分二貫六百文足〈黒瀬三郎氏清知行分〉の地等のこと。

 右の地は、神保信胤に給与するところである。この時点で信胤は右の所々の地を買得していたが、給恩地に准じて、公役を勤めるつもりであるという申請の内容のとおりに裁許した。というわけで、早く先例を守り、領有を全うするべきである。

 

 

 「注釈」

「西条寺家村」─東広島市西条町寺家。西条盆地北部、米満村の南に位置する。北東に

        竜王山(五七五・一メートル)、西に団子山(三二九・一メートル)

        があり、米満村から南下した黒瀬川が村内平地部を流れ、途中で東に

        向きを変えて御園宇村に至る。

        地名は建武三年(一三三六)三月八日の桃井義盛下文(熊谷家文書)

        にみえ、「西条郷内寺家分地頭職」が熊谷直経に預け置かれた。室

        町・戦国時代は大内氏の治下にあり、応仁の乱鏡山城の攻防に功の

        あった毛利豊元が寺家などを与えられ(文明七年十一月二十四日付

        「毛利豊元譲状」毛利家文書)、永正六年(一五〇九)には神保信胤

        が宍戸四郎次郎から買得した「寺家村内国松名四貫文」を大内氏から

        安堵されている(千葉文書)。東村南西部にあって近世吉川村の飛郷

        となった国松が国松名の遺称であろう。大永三年(一五二三)八月十

        日付安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)には「寺家村 三百貫 

        諸給人知行」で、うち三五貫が阿曾沼氏の知行とある。阿曾沼氏のほ

        かに鏡山城城番蔵田房信の知行分も三十貫あったが、同城落城後は尼

        子氏方に寝返った毛利氏に与えられ、毛利氏から粟屋元秀に宛行われ

        た(「閥閲録」所収粟屋縫殿家文書)。また同年同じく元秀に与えら

        れた「黒瀬右京亮給ともひろ名・もりとう名」(同文書)は当村内に

        小字友広・森藤として残る。大内氏滅亡後、毛利氏は出羽氏や児玉

        氏、石井氏らに寺家内の地を与えた(「閥閲録」所収出羽源八家文

        書・児玉弥兵衛家文書・石井文書)(『広島県の地名』平凡社)。

「三永方田口村」─「上三永(みなが)村」。東広島市西条町上三永。西条盆地の東端

         に位置する。東西に長く北向きにゆるく傾斜する谷を三永川が西

         流。南北とも標高四〇〇メートル(比高二〇〇メートル)の山が連

         なるが、北部谷あいをを山陽道西国街道)が走る。北と東は豊田

         郡田万里村(現竹原市)。

         中世は西の下三永村とともに三永村と称され、元弘三年(一三三

         三)十二月八日付後醍醐天皇綸旨(福成寺文書)に福成寺領三永の

         ことが見え、正平十三年(一三五八)十二月八日付後村上天皇綸旨

         (同文書)には「東条郷之内三永村」を福成寺に寄進するとある。

         文明七年(一四七五)以前に三永の地は大内政弘から毛利豊元に与

         えられたが(毛利家文書)、大永三年(一五二三)頃には三永村三

         百貫のうち半分が福成寺領、半分が大内方諸給人の知行となってい

         る(同年八月十日付「安芸東西条所々知行注文」平賀家文書)。な

         お、このほか「三永方」として四十貫の「小郡代領」があり(同

         知行注文)、「三永方田口村」の用例もあるので(永正六年八月十

         三日付「大内義興下文」千葉文書)、より広義の地域呼称もしくは

         所領単位として「三永方」があったことも考えられる(『広島県

         地名』平凡社)。

 「田口村」─東広島市西条町田口。下見村の南に位置する。黒瀬川が北の御園宇村か

       ら吾妻子滝を下って西流、西の吉川村から東流する古河川と字落合で合

       流して南の小比曽大河内村へ流れる。下見村との間には標高三三〇メー

       トルの山があるが、その西の丘陵は低く道が通じていた。永正六年(一

       五〇九)八月十三日付大内義興下文(千葉文書)によると、松橋与三郎

       知行分の「三永方田口村内仏師名拾貫文足」が神保信胤に宛行われてい

       る。「仏師名」は現在の字武士に当たると思われ、田口村は三永(みな

       が)方とされている。大永三年(一五二三)八月十日付安芸東西条所々

       知行注文(平賀家文書)では田口村七十五貫のうち、三十五貫が阿曾沼

       氏、残りが大内方諸給人の知行であった。天文六年(一五三七)阿曾沼

       氏と思われる興郷は、当村内吉近名下作職を蔵田九郎兵衛尉に預け置い

       ている(同年正月二十六日付「興郷判物」今川家文書)(「田口村」

       『広島県の地名』平凡社)。

「黒瀬村」─黒瀬郷。「芸藩通志」によると、現黒瀬町に含まれる十六ヶ村と、北東に

      続く現東広島市域の馬木村、西南に続く現呉市域の郷原村を含めた十八ヶ

      村を黒瀬郷としている。正応二年(一二八九)正月二十三日付の沙弥某譲

      状(田所文書)に「惣社二季御神楽料田畠栗⬜︎⬜︎事」として「栗林二丁内

      黒瀬村五反 杣村一丁五反」とみえる。大永三年(一五二三)八月十日付

      の安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)には「黒瀬 三百貫 大内方諸

      給人」「黒瀬乃美尾 百貫金蔵寺領とあり、黒瀬が東西条に含まれてお

      り、のちの乃美尾村を含む広域の地名であったらしことがわかる(『広島

      県の地名』平凡社)。

 

 

*この文書の発給された事情はよくわかりませんが、おそらく、神保信胤が買得地の安堵を申請し、それ認可した下文ということになると思います。ただし、この文書の場合、単なる買得安堵ではなく、①買得地を「給恩地」と同じ扱いにすること、②公役(大内氏に対して勤める税や労役か)を勤めることを、神保氏自らが申請しているのです。大内氏が、この二点を受け入れなければ、安堵の下文を発給しない、と神保氏に詰め寄った可能性もありますが、史料をみるかぎり、自主的に「給恩地扱い」と「公役勤仕」を申請しているようにしか読めません。そうすると、神保氏にはこの申請の仕方のほうが得だったということになりそうです。

 解題によれば、神保氏はこの永正頃に信州から移住してきた新参者ということになります。当然、本領など持ち合わせていなわけですから、買得によって土地の権益を集積するしかありません。しかし、いくら権益を集積しても、当知行(実際にその地を支配すること)にはなりません。そこで、大内氏に臣従することで、自己の基盤を安定させようとしたのではないでしょうか。単なる買得安堵ではなく、「給恩地」化することで、大内氏の被官となり、大内氏の権力を背景に所領を支配する名目を得ることができたと考えられます。

 大内氏領国内の知行体制についてはよくわからないのですが、戦国大名の朝倉氏・今川氏・六角氏の場合、給恩地の売買は原則として認められていなかったようです(松浦義則戦国大名朝倉氏知行制の展開」『福井県文書館研究紀要』4、2007・3、http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/2006bulletin/bindex.html)、大内氏の場合も同じであったなら、神保氏は買得地を「給恩地」化することで、かりにこの所領を売却しても、売買を無効化し、取り戻しやすくしようとする意図があったのかもしれません。一方で、大内氏にしても、神保氏に公役を勤めさせることができるわけなので、双方にとって、この「給恩地切替型安堵」はメリットがあったのではないでしょうか。

藤田精一氏旧蔵文書3(完)

    三 常陸親王令旨

 

 安藝國河戸村國衙分〈一分二分〉、任先例全知行者、

 常陸親王令旨如此、悉之、以状、

     (1352)

     正平七年二月一日       右兵衛佐(花押)

     田所新左衛門尉舘

 

 「書き下し文」

 安芸国河戸村国衙分〈一分二分〉、先例に任せ全く知行せしむべし、てへれば、常陸

 親王の令旨此くのごとし、之を悉せ、以て状す、

 

 「解釈」

 安芸国河戸村国衙分〈一分・二分〉は、先例のとおりに知行を全うするべきである。というわけで、常陸親王の令旨はこのとおりである。命令を執行せよ。以上の内容を下達する。

 

 「注釈」

常陸親王」─満良(みつなが)親王。生没年不詳。後醍醐天皇皇子。母は典侍藤原親

       子。事績については伝えられるところは少ないが、暦応元・延元三年

       (一三三八)九月、四国に渡り、暦応三・興国元年(一三四〇)正月、

       新田綿打入道とともに土佐大高坂城を攻めた花園宮は、満良親王ではな

       いかとされる(『関城書考』など)。また、観応二・正平六年(一三五

       一)のころ周防にあって、令旨を発して諸将を招き、兵糧料所を宛行っ

       ている常陸親王も、満良親王である可能性がある。さらに、臨済宗の僧

       として著名な無文元選は、満良親王の出家後の姿であるとの説もある

       (『系図纂要』)(『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社)。

藤田精一氏旧蔵文書2

    二 六波羅御教書

 

  (端裏書)

  「乾元二          下知  資賢」

(造ヵ)                     (間ヵ)

 ⬜︎東寺安藝國田所資賢⬜︎抑留公廨田并雑免所當米⬜︎事、重訴状〈副具書

               (不ヵ)

 如此、先度加下知之處、被承引旨太無謂、早任先下知状、可

 致⬜︎御沙汰也、仍執達如件、

    (1303)   (六ヵ)      (北條基時)

    乾元二年七月廿⬜︎日       左馬助(花押)

                    (金澤貞顕)

                    中務大輔(花押)

     河戸村一部地頭殿

 

 「書き下し文」

 造東寺安芸国田所資賢⬜︎公廨田并に雑免所当米を抑留する間の事、重訴状〈具書を副

 ふ〉此くのごとし、先度下知を加ふるの処、承引せざる旨太だ謂れ無し、早く先の下

 知状に任せ、⬜︎御沙汰を致さるべきなり、仍つて執達件のごとし、

 

 「解釈」

 田所資賢が訴え申す、造東寺役を賦課された安芸国の公廨田や雑免所当米を押領すること。重訴状〈具書を副える〉はこのとおりである。以前、押領をやめるように命令を下したが、聞き入れなかったことはひどく根拠のないことである。早く以前の下知状のとおりに、命令を遂行しなければならないのである。そこで、以上の内容を下達する。

 

 「注釈」

「造東寺」─東寺の造寺造営役のことか。国家的大寺院や伊勢神宮以下地方の大社(一

      宮など)を再建・修造する際、造営費として諸国の荘園・公領に課された

      臨時課税の総称(『日本荘園史大辞典』吉川弘文館)。

「公廨田」─くげでん・くがいでん。①太宰府官人および国司に支給された職田、不輸

      租田。②天平宝字元年(七五七)以後、諸司公廨田が設置され、これが各

      官衙の独自の財源となり官衙領化した(『古文書古記録語辞典』)。

「雑免」─雑事免田のこと。公事・雑事を免除された田地。荘園の荘官に与えられた給

     名はふつう雑免である(『古文書古記録語辞典』)。

「所当米」─その土地からの所出物として領主に上納されたもの。所当官物、所当地

      子、所当年貢、所当公事などと用いられたが、平安末期から所当、所当米

      などと用いられ、室町期には年貢を意味する語となる(『古文書古記録語

      辞典』)。この場合、雑事免田の所当年貢を指すと考えられます。

「抑留」─年貢・公事などを地頭・代官などが押え取ること。また資材・雑物・文書な

     どを押領すること。「妻子を抑留する」との用法もある(『文書古記録語辞

     典』)。

「具書」─申状や訴状、陳状にそえて出す副状。証拠書類、関係書類のこと。添付され

     る重要書類はふつう案文で、具書案と称される(『古文書古記録語辞

     典』)。

「左馬助」─北条基時。六波羅探題北方。正安3年(1301)6月〜嘉元1年(13

      03)10月(『角川新版日本史辞典』)。

「中務大輔」─金沢貞顕六波羅探題南方。乾元1年(1302)7月〜延慶1年(1

       308)11月(『角川新版日本史辞典』)。

「河戸村」─山県郡千代田町江の川の支流可愛川流域に位置する。平安末期〜戦国期

      に見える村名。安芸国山県郡のうち。嘉応3年正月日伊都岐島社領安芸国

      壬生荘立券文に記された壬生荘四至の北限は「春木谷并志野坂川戸村訓覔

      郷堺」とあり、牓示の1つは壬生荘の艮方猪子坂峰并川戸村西堺にうたれ

      ていた(新出厳島文書)。乾元2年7月26日の六波羅御教書によれば、

      田所資賢の訴えを受けて、公廨田と雑免所当米の抑留停止が、「河戸村一

      分地頭」に命ぜられている(藤田精一氏旧蔵文書)。鎌倉期の安芸国衙領

      注進状には、「河戸村二分方八丁七反大卅分」「同村一分方四丁二反半廿

      歩」とあり、ともに「平田押領」と記され、平田氏が地頭であったと思わ

      れる。また、公廨田に田所氏の仮名今富・弥富が見られることから田所氏

      と関係深かったものと思われる(田所文書)。正平6年10月3日の常陸

      親王令旨には、「河戸村国衙分〈一分、二分〉」とあり、兵粮料所とし

      て、田所信高に宛行われている(芸備郡中筋者書出)。享徳2年12月

      30日、管領細川勝元は、河戸村を吉川経信と争っていた綿貫光資に与え

      るよう武田信賢に命じ、翌正月11日に沙汰付られた(閥閲録126)。

      康正2年6月1日の武田信賢書状に「河戸村之内国衙分」翌日付の氏名未

      詳書状に「河戸村国衙事」とあり、吉川元経に預け置かれている(吉川家

      文書)。一方、綿貫左京亮は、文明8年9月19日、河戸総領職を嫡孫長

      松丸に譲った(同前)。大永4年3月5日の吉川氏奉行人連署宛行状が、

      「北方内阿(河)戸」を給分として3丁1反を石七郎兵衛尉に、その死後

      享禄4年4月28日吉川興経は遺領を石七郎三郎に宛行っている(藩中諸

      家古文書纂)。天文19年2月16日、吉川元春は河戸の内生田9反半等

      を井上春勝に、河戸内石クロ9反大等を黒杭与次に(同前)、柏村士郎兵

      衛尉に河戸之内六呂原内いちふ田1町、同年3月13日に河戸之内実正田

      1町を宛行った(吉川家文書別集)。翌天文20年3月3日には武永四郎

      兵衛尉に河戸の内田1町が宛行われている(同前)。永禄4年と思われる

      3月11日の吉川元春自筆書状に「大朝新庄河戸之衆」と見え(二宮家旧

      蔵文書)、永禄12年と見られる閏5月28日の筑前国立花城合戦敵射伏

      人数注文に、河戸の彦四郎らが見え、元和3年4月23日の吉川広家功臣

      人数帳にも「川戸ノ彦十郎」らの名がある(吉川家文書)。天正19年3

      月のものと思われる吉川広家領地付立に、「参百貫 河戸」と見え(同

      前)、同年11月19日、河戸村の田2丁5反330歩、畠5反小、屋敷

      4か所合わせて14石5斗7升2合が増原元之に打渡された(譜録)。翌

      日付の河戸村打渡坪付には、すな原・三反田・つい地・はい谷・奥はい

      谷・めうと岩・むねひろ・大倉・猿岩・かきだ畠の地名が見える(閥閲録

      遺漏1─2)(『角川日本地名大辞典 広島県』)。

 

      山県郡山県郡千代田町川戸に比定される国衙領安芸国衙領注進状では

      二分方と一分方に分かれている(「田所文書」)。乾元二年(一三〇三)

      七月二十六日の六波羅御教書によれば、田所資賢の訴えをうけて公廨田と

      雑免所当米の抑留停止が河戸村一分地頭に命ぜられている(「藤田精一氏

      旧蔵文書」)。国衙領注進状には二分方・一分方ともに「平田押領分」の

      記載があり、この平田氏が当村の地頭と目される。公廨田の中に田所氏の

      仮名今富・弥富が見えるように、当村はもともと同氏との関係が深く、南

      北朝期には常陸親王令旨によって田所新左衛門尉(信高)に兵粮料所とし

      て充行われている(同上、「芸備郡中筋者書出所収文書」)。一五世紀

      半ばごろには、河戸村の領知をめぐって綿貫光資と吉川経信との間に係争

      が起きている(『萩藩閥閲録』、『吉川家文書』)(『中国地方の荘園』

      吉川弘文館)。

藤田精一氏旧蔵文書1

解題

 大正四年当時、広島陸軍幼年学校の教官であった同氏が所蔵していた文書である。

 

 

    一 六波羅御教書    ○以下三通、東大影寫本ニヨル

 

          (端裏書) (1275)

           「惣社 建治元年

                 九月十日」

 安藝國在廳上西清經并惣社三昧同一和尚承兼申、當國温科村地頭代能秀令

 名田屋敷取作毛由事、重訴状等如此、擬尋決之處、令難渋之間、且

 置論所於中、且以日参着到問注之由、先度加下知畢、而不

 用度々歸國之間、就召文上洛、或号地頭代淂替、或稱

                       (非ヵ)

 和与之由、不催促迯⬜︎之状、⬜︎普通之法、所詮任先下知状

 相副両方使者置作毛於中、来月十日以前可上洛、能秀若過

 期日者、殊可其沙汰候、仍執達如件、

                      (北條義宗)

    建治元年九月十日         左近将監(花押)

   美作三郎殿

   下妻孫次郎殿

 

 「書き下し文」

 安芸国在庁上西清経并に惣社三昧同一の和尚承兼申す、当国温科村地頭代能秀名田屋

 敷を押領し作毛を苅り取らしむる由の事、重訴状此くのごとし、尋ね決せんと擬する

 の処、難渋せしむるの間、且つうは論所を中に置き、且つうは日参着到を以て問注を

 遂ぐべきの由、先度下知を加へ畢んぬ、而るに叙用せず度々帰国するの間、召文に就

 き上洛せしめながら、或うは地頭代得替と号し、或うは和与せしむべきの由を称し、

 催促に従はず逃⬜︎の状、普通の法に非ず、所詮先の下知状に任せ、両方の使者を相副

 へ作毛を中に苅り置き、来月十日以前に上洛を催さるべし、能秀若し期日を過ぐれ

 ば、殊に其の沙汰有るべく候ふ、仍つて執達件のごとし、

 

 「解釈」

 安芸国の在庁官人上西清経と、惣社三昧堂の僧で一の和尚でもある承兼が訴え申す、当国温科村の地頭代能秀が名田・屋敷を押領し、作毛を刈り取らせたこと。重訴状はこのとおりである。尋問し裁決しようとしたところ、論人が召喚に応じず裁判を遅らせるので、一方では論所を訴訟当事者の手に触れないように管理し、その一方で論人を裁判所に毎日参着させることで尋問して、主張を記録するべきであると、以前に命令を下した。しかし、論人はその命令を受け入れず度々帰国するので、召喚状によって上洛させようとするのだが、地頭代が交替したと主張したり、和解するつもりだと詐称したりして、召喚命令に従わず逃亡することは、普通のやり方ではない。結局のところ、以前の下知状のとおりに、両使が立ち会って作毛を刈り取り、来月十日以前に上洛することを催促するべきである。能秀がもし期日を過ぎるなら、厳しい処分が下されるはずです。そこで、以上の内容を下達する。

 

 「注釈」

惣社」─安芸国惣社のことか。安芸郡府中町本町3丁目に総社跡とある。明治七年

     に創設された多家神社への合祀を機に廃社となった(「安芸国」『中世諸国

     一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000)。

「三昧同一和尚承兼」─どう読んでよいかわかりません。おそらく、惣社に設置された

           三昧堂の僧侶で、第一位の僧である、という意味ではないでし

           ょうか。

「温科村」─東区安芸町温品。広島から東北方の高宮郡小河原村(現安佐北区)に至る

      谷の入口にあたる。安芸郡に属し、南は矢賀村、府中村(現安芸郡府中

      町)、西は稜線を境にして戸坂村・中山村にそれぞれ接する。北は蝦蟇ヶ

      峠を越えて細長い谷が矢口村(現安佐北区)に通じ、峠以北の谷も当村域

      に属した。村内を東北から西南へ温品川が貫流し、東には高尾山(42

      4・5メートル)がそびえる。「芸藩通志」に「昔は此辺まで入海なりし

      よし、金碇とよぶ地、往年鉄錨を掘出せしといふ、其地一段許は、今に深

      泥幾丈を知らず、耕種牛を入ことを得ずといふ、また舟隠とよぶ地もあ

      り、古の舟入なりしにや」とあり、府中村に近い字長伝寺には、金碇神社

      が鎮座する。

      建久九年(1198)正月日付平兼資解(「芸藩通志」所収田所文書)に

      「一所温品科方冬原」とあり、この土地の四至は「東限温科河 西依請

      浜 北限弥吉開発田 南限温科川依請」と記す。平安・鎌倉時代の温科村

      には六三町八反一二〇歩の国衙領があり、うち五四町七反余が不輸免で

      (年欠「安芸国衙領注進状」田所文書)、厳島社以下諸社寺の免田や、在

      庁官人田所氏の私領(一〇町余)などがあった(正応二年正月二十三日付

      「沙弥某譲状」同文書)。また平安末期に後三条天皇が設定した安芸国

      勅使田に含まれる部分もあったらしく、弘長三年(1263)安芸国新勅

      使田損得検注馬上帳案(東寺百合文書)などにある。「久曾田三反小」は

      寛永十五年(1638)温品村地詰帳(広島市公文書館蔵)に見える字名

      「くそた」にあたる。

      承久三年(1221)関東武士平(金子)慈蓮が温科村地頭職に任じられ

      た(同年十一月三日付「平盛忠譲状写」)以上毛利家文書)。金子氏は鎌

      倉時代は地頭代を派遣していたらしいが、(建治元年九月十日付「六波羅

      御教書」藤田精一氏旧蔵)、南北朝時代になると自ら温科村で押領を続け

      (嘉慶元年十月十一日付「室町将軍家御教書」東寺百合文書)、室町時代

      には温科氏を名乗るようになった。村の中央部温品川左岸の独立丘にある

      永町山城が温科氏の拠城といわれる(芸藩通志)。同氏は明応八年(14

      99)主君武田氏に背いて敗れた(同年八月六日付「室町幕府奉行人奉

      書」毛利家文書)。大永五年(1525)毛利元就は尼子・武田方から大

      内方に復帰、武田氏の治下にあった「温科三百貫」などを大内氏から与え

      られたが(年月日欠「毛利元就知行注文案」同文書)、武田氏滅亡後は大

      内氏領になったらしい(天文十年七月二十三日付「大内義隆預ヶ状写」同

      文書)。しかし天文二十一年(1552)元就は大内義隆を倒した陶晴賢

      から温科などの知行を認められた(同年二月二日付「毛利元就同隆元連署

      知行注文」同文書)。以後毛利氏は熊谷信直に温科半分を与えているのを

      はじめ(年未詳九月二十八日付「熊谷信直書状案」熊谷毛文書)、家臣に

      給地を分与し、村役人として散使を置いた(「毛利氏八箇国時代分限帳」

      山口県文書館蔵)(『広島県の地名』)。

「重訴状」─中世の裁判で提出される訴状で、二回目の訴状を二問状、三回目の訴状を

      三問状といい、二問状・三問状を総じて重訴状という(佐藤進一『新版 

      古文書学入門』法政大学出版局)。

「難渋」─①訴訟当事者が裁判所の召喚に応じないなど、手続きをおくらせること。②

     年貢の納入をおくらせること(『古文書古記録語辞典』)。

「論所」─訴訟、相論の対象となった土地のこと(『古文書古記録語辞典』)。

「置〜於中」─〜をなかにおく。中世、幕府・朝廷の訴訟法で裁判所が係争中の目的物

       について訴訟当事者(訴人・論人)が手を触れないように命じること。

       たとえば稲は当事者双方が立ち会って刈り取り、倉庫に納めて封をし、

       所領は訴訟に無関係の第三者あるいは沙汰人百姓などに訴訟が落着する

       まで保管させた(『日本国語大辞典』)。

「殊可有其沙汰候」─おそらく、「来たる十月十日以前に上洛しなければ、訴人の訴え

          のとおりに裁決する」ことを明記していると考えられます(石井

          良助「第一篇・第二章・第三款 召喚」『中世武家不動産訴訟法

          の研究』弘文堂書房、1938)。

「両方使者」─両使のことか。訴訟に関する諸々の使命を執行するために任命・派遣さ

       れた使節のこと。二人一組での行動が顕著であることから、研究史上

       「両使」・「両使制」と呼ばれてきた。使節の担う任務は、①出頭命令

       等訴訟進行に関わる使節(召文催促・召文違背の実否尋問)、②絵図注

       進・論人尋問等の現地調査に関わる使節、③判決後の任務に関わる使節

       (判決結果の伝達・沙汰付などの裁決(強制)執行・悪党召進等の警察

       行動)に大別できる。今回の場合、充所の「美作三郎殿・下妻孫次郎

       殿」が「両方使者」に当たると考えられます。「美作三郎」は小早河一

       族。「下妻孫次郎」は、常陸平氏の一流で、嫡流多家直幹の次男で常陸

       国下妻庄下司職を有した四郎広(弘)幹を祖とする一族であると思わ

       れ、西遷したものと考えられています。いずれも派遣対象国内に本拠・

       所領を有するなど、何らかの影響力をもった人物と考えられます(本間

       志奈「鎌倉幕府派遣使節について─六波羅探題使節を中心に─」『法政

       史学』69、2008・3、

       http://repo.lib.hosei.ac.jp/handle/10114/10872)。

「左近将監」─北条義宗六波羅探題北方。文永8年(1271)11月〜建治2年

       (1276)12月(『角川新版日本史辞典』)。

原田篤郎氏所蔵文書(完)

解題

 安芸郡府中村(府中町)松崎に鎮座した八幡別宮関係の文書である。原田氏は同氏の系図によると、安芸守護武田氏の一族で、玖地域(広島市安佐町)に滅んだ武田信栄の弟に信久がおり、信久の第二子家久の系統が原田を号し、その長子家元は佐東郡中須村(広島市安古市町)に住んだが、七子正順の四代後の了安が府中龍仙寺住職として住むことになり、合わせて医を業としたという。この文書と原田氏の関係は不明である。

 

 

    一 左衛門尉惟宗堂宇譲状

 

 譲与

  (一ヵ)

  ⬜︎間四面堂一宇

   (安)

    ]藝国松崎八幡宮敷地内

 右件堂、依殊宿願、去正治二年冬雖建立、棟上之後在京之間、自然不

 遂造畢、送年月之處、自去年明年、依當王相方造営有

 憚、定令朽損歟、罪業之至不勝計、仍件堂所与政所五郎大夫助

 清也、早爲助清之沙汰造畢也、但於材木釘等沙汰也、

 至于番匠食物者、久武得分米貳拾石所免給也、助清可募立用也、云

 木番匠[   ]足事者、助清令合力沙汰、其故者助清適彼社

 之年来惣官也、何無其依怙哉、然者令合力造営也、雖神官内侍等

 ⬜︎与力之由可下知也、令造畢之後、於供養者⬜︎秋之時可久武之

                   (至)

 沙汰、其後者以助清俗別當職、⬜︎于子々孫々可護此堂、且又

 供養以後募佛聖燈油料、以久武得分内、相計便冝之所、可

 田也、雖末代何可牢籠哉、仍譲与助清之状如件、

     (1204)           (宗孝親)

     建仁四年正月卅日      左衛門尉惟宗(花押)

 

 「書き下し文」

 譲与す

  一間四面堂一宇の事

   安芸国松崎八幡宮敷地内

 右件の堂、殊なる宿願により、去んぬる正治二年冬建立せしむと雖も、棟上の後在京

 の間、自然造畢を遂げず、年月を送るの処、去年より明年まで、王相方に相当つるに

 より造営に其の憚り有り、定めて朽損せしむるか、罪業の至り勝げて計るべからず、

 仍つて件の堂政所五郎大夫助清に譲与する所なり、早く助清の沙汰として造畢を遂ぐ

 べきなり、但し材木・釘等に於いて沙汰致すべきなり、番匠の食物に至りては、久武

 得分米二十石免給する所なり、助清募り立用すべきなり、材木と云ひ番匠と云ひ

 [  ]足事は、助清に合力せしめ沙汰致すべし、其の故は助清適々彼の社の年来の

 惣官なり、何の其れ依怙無し、然れば合力せしめ造営すべきなり、神官・内侍等と雖

 も与力せしむるの由下知すべきなり、造畢を遂げしむるの後、供養に於いては来秋の

 時久武の沙汰と為すべし、其の後は助清を以て俗別当職と為し、子々孫々に至り此の

 堂を守護し奉るべし、且つ又供養以後仏聖燈油料を募り、久武得分の内を以て、便宜

 の所を相計らひ、料田を置かるべきなり、末代と雖も何ぞ牢籠有るべけんや、仍つて

 助清に譲与するの状件のごとし、

 

 「解釈」

 譲与する、安芸国松崎八幡宮敷地内の一間四面堂一宇のこと。

 右のお堂は、特別な宿願によって、去る正治二年(一二〇〇)冬に建立したけれども、棟上げの後に在京したので、そのまま竣工しなかった。年月は過ぎたが、去年から来年まで王相方に当たっているので、造営するのに支障がある。きっと腐って痛ませてしまうだろう。この上ない罪業ははかりつくすことができない。そこで、このお堂を政所五郎大夫助清に譲与するのである。早く助清の指図で造りおえるべきである。ただし、材木や釘などについては、助清自身で負担するべきである。番匠の食費に至っては、久武名の得分米二十石を給免するものである。助清が得分米を徴収し、費用に当てるべきである。材木も番匠も、その費用のことについて、助清は(関係者に)協力させて、取り計らうべきである。その理由は、助清がちょうど数年来、松崎八幡宮の惣官であったからだ。そもそも、何の不公平もない。だから、(関係者に)協力させ、お堂を造営するべきである。神官や内侍であっても、合力させるように命令するべきである。竣工後の供養においては、来秋の久武名の得分を当てるのがよい。その後は助清を俗別当職にして、子々孫々に至るまでこのお堂を守護し申し上げるべきである。さらにまた、竣工祭以後は、仏前に供える燈油料を集め、久武名の得分のうちから、都合のよい田地を計算し、燈油料田に設定するのがよい。たとえ未来であっても、どうして困窮してよいだろうか、いや困窮してはならない。だから、助清に譲与するのである。

 

 「注釈」

「松崎八幡宮」─安芸郡府中町宮の町5丁目。国府の東方に存在した石清水八幡宮

        社。鎌倉時代中期の「安芸国衙領注進状」(田所文書)によれば、国

        内各所に総計25町余の八幡宮免田が存在していた。これは一宮免田

        に次ぐもので、国内における当社の卓越した地位を物語っている。ま

        た、松崎八幡宮下司職は在庁兄部職・祇園神人兄部職とともに守護職

        に付随する固有の所職とされており、建仁4年(1204)には守護

        宗孝親が松崎八幡宮敷地内の堂宇の造畢とその後の経営を神社惣官を

        勤める在庁助清に託し、その経費には守護領の久武名の得分米を充て

        ることとしている(原田宏氏所蔵文書)。当社は中世を通じてその地

        位を保ち、江戸時代には府中南部氏神となったが、式内社多家神社

        の所在地などをめぐる惣社との積年の争いに終止符を打つため、明治

        7年両社とも廃社となった(『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書

        院、2000)。

「王相方」─陰陽道で、王相神のいる方角。月ごとにその所在の方角は変わる。その方

      角は移転・建築の際に避けた。

「適」─「たまたま」と読んでみました。

「惣官」─①平安末期〜鎌倉期、御厨、御薗などの供御人・神人を統括する者。②養和

     元年(一一八一)平氏によって、五畿内および伊賀、近江、丹波など諸国を

     対象に設置された官。追捕・検断権を行使して国内武士を把握しようとした

     もの。ここでは、松崎八幡宮の神官の長のことか。

「何無其依怙哉」─読み方がわかりません。

「内侍」─内侍司の女官の総称。内侍司天皇の日常生活に供奉し、奏請・宣伝のこと

     を掌る官司。尚侍(二人)、典侍(四人)、掌侍(四人)、女孺(一〇〇

     人)よりなる(『古文書古記録語辞典』)。ここでは、松崎八幡宮に奉仕す

     る女性神職と考えておきます。

「⬜︎与力」─⬜︎には「令」を当てるのがよいかもしれません。

「⬜︎秋」─⬜︎には「来」を当てるのがよいかもしれません。

「宗孝親」─そうたかちか。生没年不詳。鎌倉時代前期の武将。宗は惟宗氏の略。『吾

      妻鏡』では建久六年(一一九五)三月十日条将軍随兵交名に「宗左衛門

      尉」とあるのが初見だが、孝親が実際に左衛門尉に任官したのは建仁三年

      (一二〇三)正月(『明月記』)。建久七年以前安芸国守護となり在国司

      (在庁兄部職)を兼任、在京御家人としても活躍した。承久の乱には京方

      の武将として木曽川に会戦したが、乱の敗北により守護職を失い、没落し

      たと思われる(『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館)。

厠の尼子さんとその眷属

【史料1】

  応永二十五年(一四一八)十月二日条 (『看聞日記』1─234頁)

 

 二日、晴、

  (中略)

                        称光天皇

  去比禁中はけ物あり、女房腰より下は不見半人也、主上大便所ニて被御覧云々、

      〔違〕       (白川)

  其以後御遣例、此化人主上、資雅朝臣有御物語云々、非虚説事也、

 

 「書き下し文」

  去んぬる比、禁中にばけ物あり、女房腰より下は半ば見えざる人なり、主上大便所

  にて御覧ぜらると云々、其れ以後御違例、此の化人のこと主上、資雅朝臣に御物語

  有りと云々、虚説に非ざる事なり、

 

 「解釈」

 さきごろ、内裏に化け物が出たという。腰から下の身体は消えていて目に見えない。女房姿の化け物だそうだ。称光天皇陛下が大便所で目撃なさった。その時からご病気になったという。この化け物のことを、天皇陛下は白川資雅朝臣にお話ししたそうだ。だから単なるうわさ話ではない。

 

*解釈は、薗部俊樹「資料紹介『看聞日記』現代語訳(九)」『山形県立米沢女子短期

 大学附属生活文化研究所報告』44、2017・3、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=283&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。

 

 「注釈」

トイレの花子さんではないのでしょうが、宮中の大便所には女房姿の化け物が出現したようです。しかも下半身が消えている。足がない幽霊?化け物?の描写は、室町時代まで遡れることがわかります。いったい、いつ誰が言い始めたのでしょうか。これが、足のない幽霊について記載された最古の文献史料であれば、かなり興味深いのですが…。

 それにしても、便所で用を足しているときに化け物が現れるというのは、簡単には逃げ出せない状況だけに、相当に怖いです。

 さて、この室町時代の「トイレの花子さん」ですが、姿を変えてまた出現します。しかも、恐ろしい部下を引き連れて…。

 

 

【史料2】

  応永三十二年(一四二五)七月二十七日条

                   (『図書寮叢刊 看聞日記』3─147頁)

 

 廿七日、晴、

  (中略)

 称光天皇

  御悩之様風聞之説、廿五日夕方大便所御座之時、変化尼一人参則失、其後亀一

  出来、主上奉食付之間、亀甲乗御云々、亀もて返して食付、御腹之内入と

  思食て御絶入あり云々、良久無還御之間、女房参て奉見、絶入して御座あり、

  面々仰天、舁出し奉て御蘇生あり、此次第有御物語云々、御前水紫野寺之名石

  被召寄被立之、彼霊石祟申之由陰陽師占申之間、昨日彼石共雨中紫野寺

  返遣云々、(後略)

 

 「書き下し文」

  御悩みの様風聞の説、廿五日夕方大便所に御座の時、変化の尼一人参り則ち失す、

  其の後亀一つ出で来り、主上に食い付き奉るの間、亀の甲に乗り御ふと云々、亀も

  返して食い付き、御腹の内に入ると思し食して御絶入ありと云々、良久しくして還

  御無きの間、女房参りて見奉るに、絶入して御座あり、面々仰天し、舁き出だし奉

  りて御蘇生あり、此の次第御物語ありと云々、御前水に紫野寺の名石召し寄せられ

  之を立てらる、彼の霊石祟り申すの由陰陽師占ひ申すの間、昨日彼の石ども雨中に

  紫野寺へ返し遣はすと云々、

 

 「解釈」

 称光天皇がご病気であるという噂があった。二十五日夕方、帝が大便所にいらっしゃったとき、尼姿の化け物が一人現れて、すぐに消えた。その後、亀が一匹現れて、帝に食い付き申し上げたので、帝は(身をかわそうと)亀の甲羅にお乗りになったという。亀もひっくり返ってさらに食い付き、帝は亀がご自分のお腹に食い入るとお思いになって気絶なさったという。しばらくしても帝がお戻りにならなかったので、女房がやってきて拝見すると、気絶してお座りになっていた。女房たちはおのおの驚き、帝を担ぎ出し申し上げたところ、意識を取り戻しなさった。帝はこの事情をお話しになったという。宮中の庭先の流水に、大徳寺のすぐれた石をお取り寄せになり、それをお立てになっていた。この霊石が祟り申し上げている、と陰陽師が占い申し上げたので、昨日その石を雨の中、大徳寺へお返しになったという。

 

 「注釈」

「御前水」─未詳。庭の流水か。

「紫野寺」─大徳寺のことか。京都市北区紫野大徳寺町。船岡山の北にある臨済宗大徳

      寺派の大本山。竜宝山と号し、本尊釈迦如来。正和四年(一三一五)、宗

      峰妙超(大燈国師)が、赤松則村の帰依をうけ、雲林院の故地に一宇を建

      立したのが始まりと伝える(『京都市の地名』平凡社)。

 

*今回の化け物も同じく女性なのですが、尼の姿で便所に現れました。前回同様、女性の化け物自身は、姿を現してすぐに消えるのですが、今回の「厠の尼子さん」には、強力な助っ人がいました。なんと、新たに亀が出現して、称光天皇に襲いかかったのです。

 しかもこの亀、結構しつこいんです。帝は亀の攻撃を避けようと、甲羅の上に乗るのですが、亀は身を翻してまたお腹に食い付こうとする。当時の宮中の大便所がどれほどの広さかわかりませんが、狭い場所で大立ち回りが繰り広げられていたわけです。そりゃ、気絶の一つもするはずです。

 さて、この怪異の原因ですが、大徳寺から持ってきた霊石の祟りだということになりました。幼い頃のことですが、旅行先できれいな石を見つけて持って帰ろうとした私に、母親が「悪いものが付いてくるから、持って帰ってはだめだ」と言ったことがありました。パワーストーン然り、古代の磐座然り。石には不思議な力が宿っているのかもしれません。

自死の中世史 21 ─自死紹介の悩み5─

【その5】

 

 ここまで、だらだらと個人的な悩みを書いてきましたが、悩みは独白するだけでもある程度スッキリするものです。当たり前のことかもしれませんが、私は今後、自死を「行為」とみなし、①自死の原因・理由動機、②自死の目的動機、③目的遂行のために自死を選択した理由、といった3つの視角を大切にしながら、史料を紹介していこうと思います。自死未遂・既遂者は、何らかの原因・理由を引き金に、ある目的意識が生じ、その目的遂行のために自死を選択し、遂行する。こうした動態的なモデルを、私は典型的なパターンと考えています。なお、原因・理由と目的を合わせて表現したいときには、「動機」という言葉を使おうと思います(11)

 

 ただし、前近代の史料を利用してこうした問題を明らかにしていくには、次の2点が足枷となります。1つ目は、現代の警察機構や官公庁が公表するような公式統計が、前近代には存在しないということです(12)。前近代の自死を分析するためには、古文書・古記録・古典籍などを利用するしかありません。そして、これまで紹介してきた史料の多くは、何らかの事件の一環として自死を記録したものにすぎず、自死の記述を主な目的とした史料はほとんどありませんでした。したがって、定量分析の効果はそれほど期待できない、定性分析に頼らざるをえないということになります。

 

 2つ目は、自殺既遂・未遂者の遺書や、彼らに対する調査記録などが残されていないということです(探せてないだけかもしれませんが)。残念ながら、前近代の史料を分析するかぎり、自殺既遂・未遂者が直接語った動機を聞き出すことはできません。また、かりに自死を見聞きした第三者の推定する動機が妥当だったとしても、それを検証することもできません。したがって明らかにできるのは、第三者が見聞し推定した自殺の動機ということになります。この第三者の推定した動機はその人自身のなかで留まることはなく、その関係者にも情報として伝わっていくことになります。これが一定の社会集団で共有され、自殺の常識的知識(社会的意味)が形成されると考えられます。新たな動機が認識されれば、それが新たな知識として共有される。これが繰り返されて、自死動機の類型が増えていくのではないでしょうか。そして、この類型が個人の意識に還元され、自殺の個人的な動機(主体的意味)に影響を与えると考えられます(13)

 

 最後に、この史料紹介の目的を、明確化しておきます。中世の自死史料を提示することで、まずは、自死を見聞し書き残した、第三者の推定する動機を浮き彫りにしたいと思います。そして、それらが当該期の社会常識になっていることを、なるべく証明していこうと思います。さらに、目的遂行のために自死を選択した理由をできるだけ推測し、人間を自死へと誘う「しがらみ」を明らかにしたいと思います。

 

 ひとまず、このような視角と方法で史料紹介を続けてみようと思いますが、またいろいろな本や論文を読みながら、少しずつ考えを改善していこうと思います。

 

   おわり

 

【注】

(11)

 「原因」と「理由」の違いについては、論争があるようです(「原因/理由」『岩波哲学・思想事典』岩波書店、1998。一ノ瀬正樹「序章 不確実性の認識論」5頁『原因と理由の迷宮』勁草書房、2006)。どのような場合にどちらの表現を使うべきか、いまのところ明確に判断できていないので、しばらくは区別を曖昧にしたまま使っていきます。明確に区分できるようになれば、書き直したいと思います。

(12)

 実は、公式統計にまったく問題がないわけでもありません。ダグラスは、公式統計に含まれるエラーが系統的である可能性を強く示唆しています。以下、前掲注(4)杉尾論文(156頁)をそのまま引用します。「例えば、公式統計作成者が、個別の自殺認定の際に、自殺についての常識的知識を参照している可能性である。その場合、自殺の公式統計作成プロセスは、客観的基準に従った自殺認定プロセスではなく、そのプロセスに関与する人々が共有する自殺についての常識的知識に大きく影響され方向付けられた(つまり系統的に偏った)人為的基準に支配されている記録化のプロセスとなる。また、これとは別のバイアスの系統性の源泉は、公式統計作成者による自殺認定作業が自殺者の属する(対人関係から文化まで様々な)集団からの自殺を隠蔽する力にさらされている可能性である」。

 つまり、本当は他殺や事故であるのに、自殺とみなしてしまうことがありえるのです。また、自殺の認定に当たって、関係者の証言を聞くことになるのでしょうが、その関係者は自殺の本当の原因が暴かれることを嫌い、隠蔽する可能性もあるのです。したがって、自殺であるかどうかの認定(自殺数値への影響)だけではなく、その原因の認定にも、常識的知識や隠蔽というバイアスがかかっていることを考慮に入れておかなければならないのです。これは、現代の日本の公式統計にも言えることかもしれませんし、同じことは前近代の史料分析にも言えます。前近代には自殺の原因を認定する公的・客観的基準が存在しない以上、史料の記主や情報の伝達主体が推定した原因を、そのままバイアスがかかったものとして抽出し、そのバイアスがなぜ生じているのかを明らかにすることも、前近代の自死分析には必要だと考えられます。

(13)

 前掲注(4)杉尾論文、158頁参照。

自死の中世史 20 ─自死紹介の悩み4─

【その4】

 

 そうすると、「自殺念慮」という欲求は、いったいどこから生まれてきたのでしょうか。なぜ、人間は成長とともに死を望むようになるのでしょうか。こうした問題について1つの答えを与えてくれるのが、坂田登氏の論文(8)です。これは、生やセックス、死の問題を、「フェティシズム」の観点から論じた研究なのですが、「希死念慮」について、次のような重要な指摘をしています。

 

 人間のみが自らの死に方を選択したり、死を望んだりすることができるのは、そこに「フェティシズム」があるからに他ならない。他の動物は「死ぬ」のではなく、ただ動かなくなり、冷たくなり、そして腐敗してゆくのみである(坂田論文2頁)。

 

 では、「フェティシズム」とは何か。坂田氏によれば、「記号化されることによって始めて価値あるいは意味を持つようになったものに欲望が向けられること」(2頁)であり、「私たちはこの世界の中にあるすべてのものを、『理性』によって記号に置き換え、フェティッシュとしての意味付けを与え、それらを崇拝したり、欲望の対象にしたり、あるいはまた禁忌の対象にしたりしている」(2頁)と説明しています。つまり、「フェティシズム」の成立にとって、本質的な役割を果たしているのは、記号(言葉・言語)なのです。坂田氏はさらに、言語能力や言葉について説明を続けます。

 

 簡単に言えば、言葉とは本物(実体)の代わりとなる記号、シンボルあるいはその代替物である。例えば、「イヌ」という言葉は本物の犬の代わりをする記号、シンボルなのである。そして、われわれが理性によって何かを認識するというときに、行っている作業が本物(実体)を記号に置き換えるという作業であり、理性によって何かを認識するということは本物(実体)を失って、記号を獲得するということである。そのような理性のはたらきによって、われわれによって生きられている世界の全体が、われわれ自身の身体をも含めて、記号に置き換えられ、記号化されていくのである。そして記号はもはやその指示対象としての実体からは分離され、浮遊する記号、シンボルとなり、われわれにとっての世界および身体は記号あるいはシンボルによって虚構されたものとなる。そして、超越論的理性と呼ばれるものそのものもまた理性によって虚構された記号あるいはシンボルにすぎないのである。

 そのような虚構の世界および身体においては、生もセックスも死もまたその実体性を離れ虚構されたものとなってゆく。人間にとって、その生もセックスも死も、記号化されたシンボリックな虚構としてのみ成立するのである。人間のみが生きる意味を問い、それに悩む。そもそも「生きる意味」などどこにも存在しない。われわれはもはや真の意味で「生きる」ことなどできず、「生きる」という記号の中にさらに「生きる意味」という記号を探し求めているだけなのである(坂田論文8頁)。

 

 私たち人間を雁字搦めにしている「しがらみ」の正体が見えてきたように思います。それは「言葉」。絶対不変の価値に基づく「生きる意味」など、どこにもありません。「言葉」によって創り出された、相対可変の価値に基づく「生きる意味」しか存在しないのに、それを喪失したという理由で、人間は「死」に意味をもたせ、死を望むのです。人間は、「ただ動かなくなり、冷たくなり、そして腐敗してゆくのみ」の状態を「死」と名付け、そこに特別な意味や価値をもたせ、欲望の対象とすることができるのです。人間は、自らが生み出した「言葉」によって、実体から分離した記号である「言葉」によって、その「言葉」が創り上げた虚構によって、自死に追い込まれるのです。

 

 たとえば、365日、24時間続く身体的責め苦を、何年にもわたって受け続けることが確定していて、100%逃避が叶わない場合(これも言葉による認識にはなるのですが)、私には自死を選択しないという自信はありません。ですが、このような身体的苦痛の継続以外は、心理的な苦痛なのではないでしょうか。その心理的苦痛の源は「言葉」による認識でした。本当に苦しいときには、「言葉」を捨てればよい。「言葉」によって創出された「虚構」としての社会的価値観や関係性を捨てればよい。可能であれば、身体ごと逃避して、それらとは無縁のところで生きてもよい。虚構としての社会的価値観や関係性は、いったい誰のためのものなのでしょうか。そのなかで生きるのが本当に苦しいのなら、それはその人のためのものではない、あるいはすでになくなってしまったことだけは明らかです。「三十六計逃げるに如かず」。逃げることは恥ではありません(9)

 

 「そんなこと、できるわけがない。逃げられるくらいなら、自殺などしない」。だから、私の考えは甘いでしょうか。単なる詭弁でしょうか。無責任な発言でしょうか。それとも、弱い私の自己弁護でしょうか…。

 

 人間は他の生命と同様に、死に向かって生きています。したがって、最終的な帰結としての死からは逃れることはできません。だからといって、死ぬために生きているわけではありません。生きているうちは、生きるために生きているだけではないでしょうか。これも違う。ただ、生きているだけ。「生」に意味などなければ、「死」にも意味などない。ましてや「死」に、「復讐」「救済の求め」「同情」「逃避」「後悔」「罪滅ぼし」「自己処罰」「真剣さ」などの意味を求めることも意味がないのです。意味は人間が付与したもの。つまり、付与される前には、何もなかったのです。

 

 そもそも、どうして「生」や「死」に意味など求めなければならないのでしょうか。意味がなければ生きていけないのでしょうか、生きていてはいけないのでしょうか。こんな問いかけ、大きなお世話でしょうか…。

 

 人間はどんな状況にあろうと、身体(しがらみの根源である言葉を扱う脳を含めて)はその生命を維持するための仕事を粛々とこなしています。しかも、何も言わずに…。ウイルスが侵入すれば免疫細胞がそれを撃退する。身体のバランスが崩れれば各臓器がホルモン物質を分泌し、体調を整える。新陳代謝のために栄養分を欲するから、精神的に追い込まれていても、大なり小なり腹が減る。命の継続・停止の判断を、心や精神にだけ任せてよいものなのでしょうか。「維摩一黙」(10)。一度、言葉から離れてみるのもよいかもしれません。

 

 あぁ、なんと薄くて浅い私の言葉でしょうか。オブラートのようなペラペラ感です。先学の意見をつぎはぎして、自分の主張であるかのように表現する。この胡散臭い態度に、乾いた笑いが止まりません。「カエサルのものはカエサルに」。こんな基本的なことさえ、私はできなくなったようです。

 

   つづく

 

【注】

(8)

 坂田登「セクシュアリティのエチカ(2)」(『福井大学教育地域科学部紀要』Ⅴ(哲学編)、47、2007、https://karin21.flib.u-fukui.ac.jp/repo/BD00001818_001_cover._?key=WMYQRY)。これほどおもしろい哲学の論文を読んだのは初めてでした。あまりにもおもしろかったので、自死のテーマとは関係ありませんが、少しばかり内容を紹介していきます。

 

 「ところで、性行動、生殖行動といったものは人間以外のすべての有性生殖を行う生物にも見いだされるが、人間における性行動の第一の特徴は、それが常に生殖(子作り)をその目的として行われるものではないということである。人間の性行動だけが、生物学的意味でのその本来の目的からは逸脱しており、むしろ形而上学的な対象、目的にさえ向かいうるのである。その意味において、人間の性は倒錯的であることをその特徴とする。そして、その性倒錯の人間における多様さは驚くほどである。その性的対象および性的目的は、人間個々人において皆異なるといって良い。たとえ同じ異性愛者であっても、どのような異性をその性的対象とするか、その異性の持つどのような特徴、どのような部分に魅せられるか、皆一人ひとりにおいて異なるといってよい。即ち、人間は皆性倒錯者であるといえるのである。

 しかし、実際のところ『性倒錯』と見なされてきたのは、その結果が生殖(子作り)に結びつくような異性愛ではない限りでの性愛の在り方である。そして、それが真摯な学問的研究の対象とされるようになったのは、19世紀末になってからのことである」(坂田登「セクシュアリティのエチカ(1)」2頁、(『福井大学教育地域科学部紀要』Ⅰ(哲学編)、46、2002、http://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8743920)。

 

 人間はすべて性倒錯者だ。このようなことは、今まで考えたこともありませんでした。人間は「常識?」から逸脱した性的嗜好を異常・変態であると分類し、偏見や差別の対象としたり、精神疾患とみなして研究・治療したりしてきたわけです。しかし、本論でも述べるように、この倒錯は「性」に限ったことではありません。人間が言葉を使うかぎり、あらゆる場面でその倒錯から逃れることはできないようです。神仏を敬うのもフェティシズム。悪魔を毛嫌いするのもフェティシズム。民主主義、共産主義ナショナリズムグローバリズム…を信奉するのもフェティシズム。積極的に生きることを賞賛し、消極的な姿勢を非難するのもフェティシズム。流行に乗るのも、我が道を貫くのもフェティシズム…。

 人間の社会がよくわかってきました。こんなことを言うと怒られそうですが、たとえば、民主主義に共感する変態が寄り集まって「正常」を名乗り、マジョリティとなっているのが、現代の日本ということになりそうです。これに賛同できないマイノリティの変態集団は「異常」と名付けられ、肩身の狭い思いで生きていくか、闘争するしかありません。このような視点で与党と野党の論戦を見ると、ちょっと笑えてきます。お互いがどちらの変態性が優れているのか、どちらの変態性が劣っているのかを、真剣に議論し、罵倒しあっているわけですから。どちらも同じ、「異常な変態」なのですけど…。当然、私も「異常な変態」です。

(9)

 『南斉書』(列伝第七王敬則)にある、「檀公三十六策、走是上計」が語源です。また、兵家の孫子も、「少則能逃之、不若則能避之(少なければ則ち能く之を逃れ、若かざれば則ち能く之を避く)」(自軍の兵力が敵よりも少なければ、兵力を保全していかに退却するかを画策する。まったくかなわないほどの力差であれば、ただちに戦場からの離脱をはかる)と述べています(『孫子』三、謀攻篇)。孫子には、逃げることについての「恥」の意識はないのです(蜂屋邦夫・湯浅邦弘『老子×孫子 「水」のように生きる』別冊NHK100分de名著、2015)。

(10)

 「維摩一黙」という熟語のもとになっているエピソードは、次のようなものでした。まず維摩は菩薩たちに向けて、「どのようにして〝不二の法門〟に入るのか」と問いかけます。「不二の法門」とは、「善と悪、美と醜、浄と不浄など相反するものが一つとなる世界」、つまり「悟りの世界」を指します。この問いに、さまざまな菩薩たちが答えていくのですが、最後に文殊菩薩が、「私の考えでは、すべての存在や現象において、言葉も思考も認識も問いも答えも、すべてから離れること、それが不二の法門に入ることだと思います」と答えます。そして、文殊菩薩維摩に向かって「私たちはそれぞれ自分の考えを述べました。維摩さん、あなたは不二の法門へどのようにして入るとお考えでしょうか」と逆に意見を求めます。ですが、維摩はただ押し黙ったままで何も語ろうとしません。その様子を見た文殊菩薩は、「すばらしい、一文字も一言もないとは! これこそすべての境界が解体された世界です」、と感嘆の声をあげます。以上の解説は、釈徹宗『100分de名著 維摩経』(NHK出版、2017)を参照しました。また、入不二基義ウィトゲンシュタイン─「私」は消去できるか』(シリーズ・哲学のエッセンス、NHK出版、2006)でも、維摩経について詳しく触れられています。

自死の中世史 19 ─自死紹介の悩み3─

【その3】

 

 さて私は、自死によって実現される事態・価値を自死の「目的」と表現しましたが、ダグラス(Jack D.Douglas)という社会学者は、同様のものを自殺の「社会的意味」として追究しています。本来はダグラスの原著に目を通すべきなのですが、英語の著作はさすがに読めないので、ダグラスの研究を詳細に検証された杉尾浩規氏の論文(4)に導かれながら、必要な箇所をまとめてみたいと思います。

 ダグラスは、自殺者が自殺行為に付与する「主体的意味」を、社会から隔絶した純粋に個人的なものとは考えず、自殺者本人やその関係者との相互作用によって構築される「社会的意味」であるとみなしています。そして、パターン化された自殺の社会的意味として、「復讐」、「救済の求め」、「同情」、「逃避」、「後悔」、「罪滅ぼし」、「自己処罰」、「真剣さ」などを挙げているのですが、この社会的意味が、自殺者による自殺行為の主体的意味の構築に影響を及ぼすと考えているのです(5)

 

 では、日本の場合、中世の場合、どのような原因と目的で自死を遂げるのでしょうか。ダグラスの意味(目的)類型と同じもので説明できるかもしれません。それならばそれでよいのですが、それでもさらに疑問が残ります。それは、目的を実現するために、なぜ自死という行為が選ばれたのか、という点です。私など想像もつかない苦痛や絶望のなかで、ふと死が頭をもたげ、いわば無意識のうちに自死を遂げるという場合があるかもしれません。もう、何も考えたくない、何も考えられない、正常な思考ができない、という状況です。しかし、それでも、そこで、なぜ自死がふと頭をもたげてくるのでしょうか。どうして無意識に自死が頭を過ぎるのでしょか。意識的か無意識的かはさておいて、自死が脳裏に浮かんでくる理由を問題にしなければならない、と私は考えています。実践的な解決にはならないかもしれませんが、理由を浮き彫りにして、客観視できる状態にしておく必要は十分にあると思います。目的実現のためならば、他の行為を選択してもよいはずなのに、それでも自死を選ぶ理由は何か。これも新たな理由の分析になるので、いずれ「因果連鎖の問題」に陥るのかもしれませんが、それでも問題にしなければならないと考えます。

 

 ここで再度、前述の架空事例に戻ります。ある人物が会社をクビになって、経済的に困窮し、妻子から見捨てられたことを苦に自殺した。かりに自死の目的を、苦痛からの逃避としておきます。経済的に困窮しただけなら、自己破産や生活保護を申請するという逃避行為を選ぶこともできます。なぜそうしなかったのか、そうできなかったのか。そんなことをしても、クビになった心理的苦痛と、妻子から見捨てられた孤独感から逃避することができなかったからか。こうした問いに答えることができれば、自殺のより深い原因、つまり自殺者を雁字搦めにしている「しがらみ」を突き止めることができるかもしれません。

 

 私は、いかなる状況にあろうと、自殺は自殺者本人が望んだ、選んだ行為だと考えています(6)。ただし、人間は生まれながらに「希死念慮」「自殺念慮(7)をもっているわけではありません。たとえば、生まれたばかりの赤ん坊は死にたいと考えることはできないはずです。なぜなら、赤ん坊には「死」の概念がないから、「死」という言葉が備わってないからです。あるとすれば、苦痛や恐怖の拒絶、あるいはそこからの逃避ではないでしょうか。人類最初の自殺は、自殺にみえた逃避だったのかもしれません。逃避の結果、死に至っただけの話で、死んだ人間は死を望んで死に至ったわけではない、と思われます。ある人間の逃避行動から死に至る過程を見た第三者が、それに「自ら死んだ」「自分を殺した」という言語的記号を付けたのではないでしょうか。もしこの想定が正しいなら、「自死」はそのスタートから、言葉によって意味づけをされた、極めて社会的な行為ということになりますし、自死を個人の問題に矮小化すること自体、大きな間違いだということにもなります。

 

   つづく

 

【注】

(4)

 杉尾浩規「資料としての自殺 ─フィジーの自殺研究と共に─」(『人類学研究所 研究論集』第3号、2016、158頁、http://rci.nanzan-u.ac.jp/jinruiken/publication/ronshu.html)。 

(5)

 ダグラスは、自殺者の個人的な自死原因・目的を「主体的意味」と表現し、一定の社会集団のなかで共有されパターン化された原因・目的を「社会的意味」と表現しているようです。私は、原因と目的を区別したほうがよいと考えているので、以後も「目的」という言葉を使います。そして、原因や目的を、個人的なものと社会的に類型化されたものに区別して論じなければならない場合にのみ、「主体的意味」と「社会的意味」という言葉を使います。

(6)

 これは自死の定義に関わる問題なので、本当は軽々しく言えません。自死に分類するかどうか判断に迷う事例の1つに、「命がけの行動の結果、死に至った」という場合があります。たとえば、「危険な冬山に登るのは自殺行為だ」などと表現される行為です。危険な登山を強行した当事者には自殺念慮はありません。ただ、生きて目標を果たすために、死に至るかもしれない危険な行為に及んだだけなのです。つまり、「死を覚悟した行為」「命を賭した行動」というのは、その目的が生きて実現されることを望んだものだと判断できます。したがって、これらの行動は「死を選ぶこと・望むこと」とは違います。ですが、不幸にもその登山者が亡くなってしまった場合、事情を知っていれば事故という判断になるのでしょうが、事情を知らなければ自死と判断される可能性があります。その反対に、事故だと判断したものが、本当は自死だったという場合も考えられます。後に注(11)でも述べますが、結局のところ、自死はそれを認定する人物の見方(バイアス)に左右されることになります。どこまで正確に判別できるかわかりませんが、定義上、死を覚悟した行為によって死に至った場合を、私は「自死」とは認めません。

 もう一つ判断に苦しむのが、「刑罰としての切腹」です。私は切腹を「自死」に分類するべきだと考えています。明らかに強制された自害ではあるのですが、本当にそれが嫌ならその場で暴れ、斬り殺されること(最後まで自らの手で死ぬことだけは避けたい)を選んでもよいはずです。そんな意志も力もない、つまり諦めたというのは、消極的ではあるのですが、それでも能動的に自死を選択した、望んだということになるのではないでしょうか。私は、この「能動的に自死を選ぶ」=「自殺念慮」のみを課題にしようと考えています。この他にも、分類しにくい事例が出てくると思いますが、その都度考えていきたいと思います。

(7)

 医学の分野では、「希死念慮」を「死を願う気持ちのことだが、自殺までは考えていない場合」、「自殺念慮」を「自殺という能動的な行為で人生を終わらせようという考え方」と分類・定義しています(『自殺未遂者への対応─救急外来(ER)・救急科・救命救急センターのスタッフのための手引き─』日本臨床救急医学会、2009・3、http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12200000-Shakaiengokyokushougaihokenfukushibu/07_2.pdf)。また、自殺念慮により自殺するための具体的な行動をとることを「自殺企図」と呼び、死に至った場合は「自殺(自殺既遂)」、生存している場合は「自殺未遂」と定義しています(『精神科救急医療ガイドライン(3)』日本精神科救急学会、2009・12、http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12200000-Shakaiengokyokushougaihokenfukushibu/11_2.pdf)。これらの調査研究報告は、厚生労働省のホームページ、「自殺対策」「5調査研究等」「報告書・ガイドライン」(http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000135234.html)で閲覧することができます。