周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

堂舎と鳥居と参道と…(未完)

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広島県福山市「阿伏兎観音(磐台寺観音堂)」

 

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兵庫県豊岡市出石町総持寺

 

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京都府宮津市「籠神社」

 

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奈良県桜井市大神神社

 

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京都市下鴨神社」御蔭祭の神輿

 

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御霊の依代が神馬に移された後の神輿

 

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御霊が移された依代と神馬

 

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福井県勝山市「白山平泉寺」

 

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長野市戸隠神社奥社」

 

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新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦神社

 

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山形県鶴岡市田麦俣六十里山湯殿山神社」 その1

 

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湯殿山神社」 その2

 

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山形県鶴岡市羽黒町手向「出羽神社

 

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滋賀県東近江市百済寺町「百済寺

 

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滋賀県東近江市永源寺高野町永源寺

 

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三重県伊勢市「伊勢内宮」

 

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和歌山県田辺市本宮町本宮「熊野本宮大社大斎原」 その1

 

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熊野本宮大社大斎原」 その2

 

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和歌山県紀の川市粉河粉河寺」

 

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和歌山県伊都郡かつらぎ町「丹生都比売神社」 その1

 

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「丹生都比売神社」 その2

 

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福岡県田川郡添田町英彦山神宮

 

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大分県宇佐市宇佐神宮

 

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広島県福山市山野町「岩屋権現」

 

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厳島神社 その1

 

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厳島 弥山山頂

 

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厳島神社 その2

 

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島根県出雲市出雲大社」の大鳥居(弥山山頂より)

 

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岡山県真庭市木山「木山寺」

 

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尾道水道浄土寺奥の院より)

 

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京都市東山区泉涌寺山内町泉涌寺雲龍院」 その1

 

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泉涌寺雲龍院」 その2

 

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京都市東山区祇園町北側「八坂神社」

 

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京都市東山区高台寺下河原町高台寺」 その1

 

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高台寺」 その2

 

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高台寺」 その3

 

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祇園花見小路」

 

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山口県下関市中之町「亀山八幡宮

 

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京都市東山区清水「清水寺

 

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清水寺」断層のチャート

 

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京都市左京区南禅寺福地町「南禅寺」三門(青蓮院将軍塚より)

 

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京都市東山区粟田口三条坊町「青蓮院門跡」 その1

 

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「青蓮院門跡」 その2

 

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「青蓮院門跡」 その3

 

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「青蓮院門跡」 その4

 

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「青蓮院門跡」 その5

 

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京都市左京区銀閣寺町「銀閣」 その1

 

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銀閣」 その2

 

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銀閣」 その3

切り裂き女房 ─Nyobo the Ripper─

  永享十年(一四三八)二月六日条  (『図書寮叢刊 看聞日記』6─121頁)

 

 六日、晴、暁風吹、(中略)聞、此間公方御所中変化之物〈女房云々〉、女中切髪、

  或切小袖、其人目見、他人不見云々、不思議事歟、御祈無退転云々、

 

 「書き下し文」

 六日、晴る、暁に風吹く、(中略)聞く、此の間公方御所中に変化の物〈女房と云々〉、女中の髪を切り、或ひは小袖を切る、其の人の目に見え、他人には見えずと云々、不思議の事か、御祈り退転無しと云々、

 

 「解釈」

 六日、晴れ。夜明け方に風が吹いた。(中略)聞くところによると、先日、将軍足利義教の御所のなかで、化け物〈女房の姿という〉が女中の髪を切ったり、小袖を切ったりした。被害者の目には見え、その他の人には見えないという。不思議なことだろう。御祈祷を中断することなく続けたそうだ。

 

  「注釈」

*怪談話やホラー映画のメインキャクターには、古今東西で何らかの違いがあるのでしょうか。試しに、「ホラー映画」「キャラクター」で検索してみると、洋画の場合は男性らしき主人公が多いのですが、邦画の場合は女性らしき主人公が多いようです。個人的には、リングの「貞子」がすぐに思い浮かびます。こうした単純な比較に意味があるのかわかりませんが、それにしても日本の場合は、男性のキャラクターは少ないように思います。いったいなぜなのでしょうか。

 今回紹介した、切り裂きジャックならぬ、切り裂き女房も、女性のバケモノでした。以前に、「イカれた女」「厠の尼子さんとその眷属」「壬生閻魔堂のかぐや姫」という記事を書きましたが、このバケモノたちはみな女性の姿であって、男性ではないのです。怪談話のメインキャラクターは女性(らしき存在)がよいという考え方が、中世にはすでにできあがっていたのかもしれません。

自殺の中世史2─8

 寛元二年(一二四四)四月日付ヵ奈良坂非人等陳状『春日大社文書』

  (『部落史史料選集』第1巻、古代・中世篇、部落問題研究所、1988年、

   127〜139頁、『鎌倉遺文』6316号文書)

 

   (前略)

 一法仏法師令教訓申兄近江法師大田様、豆山一乗院僧正御房之御領也、又真土

  宿御領也、背本寺籠居豆山之張本者、始終不可答令申之処、近江法師以

  法仏法師之教訓之詞清水坂之長吏尓申合須留尓清水坂之長吏聞此由、為令討

  法仏法師紀伊国山口宿打手之使下遣甲斐、摂津法師二人之処、真立宿近江

  法師為誘出、法仏法師申様、山口宿之二﨟蓮向法師之所労、今者万死一生也、

  訪行也、同相具志可訪誘出法仏法師之刻、去仁治二年七月九日酉剋罷付

  山口宿之処、清水坂之長吏之所下遣打手之使甲斐・摂津法師、待請法仏法師、

  弟子大和法師二人討之畢、於法仏之妻子二人者、同日申時近江法師太郎子

  淡路法師申置、於真土宿妻子二人殺害了、如此乍殺害四人之輩、於法仏法師

  者自害之由申之、自法仏以前尓被被殺害妻子二人之意、察之、於置妻子者、法仏

  殺害之後可為敵人也、以殺害妻子者法仏之殺害勿論也、自害之由申造意顕然也、

           (云脱)

  誤者為誤是正也云云、殺害云謀略争可遁罪科哉、

 一法仏法師、妻子等令殺害之事者、七月九日也、若狭法師呼取事者、法仏殺害之後

  十一日後事也、而若狭法師之白状尋問之処、法仏巻舌自害畢云云、此条前後

  相違也、然者自害之由申顕然之謀略也、

   (中略)

 一打入清水坂非人等之住屋、付火、不如思者入炎之中可亡身命之由、奈良坂

  之非人等結構之由令申之状、濫吸之訴訟、奏事不実罪科責而有余者乎、彼等之

  申状、無実虚誕之企、以之可有御𨗈迹、放火当波、依何不当可思寄哉、増申哉

  亡身命思切良牟程之事者、何事之意趣、何事之不審有之哉、自清水坂志天奈良坂

  之為、佐程懸火企自害程之遺恨無之、依何事如然之猛悪於波可思立哉、就中

  公私門々家々神社仏事堂舎塔廟便宜之炎上、縦雖為非人争又不顧逆罪哉、但、

     (存)

  非人之不亡一事申事候欤、其依時折節、昔事気留欤、四海之静謐者所仰

  也、諸方之哀憐者所慕也、依之無為無事尓志天、於彼等猛悪者仰 上裁之処、罷負

  放火結構之訴訟之条、非人等恐怖之思寤寐不穏、凡当代正直憲法狼藉禁罸、

   (後略)

 

 「書き下し文」

 一、法仏法師、兄の近江法師大田に教訓申せしむるの様、豆山と申すに一乗院僧正御房の御領なり。また、真土の宿と申すに同じき御領なり。本寺に背いて、豆山の籠居の張本は、始終、答うべからずと申せしむるの処、近江法師は法仏法師の教訓の詞をもって、清水坂の長吏に申し合わするに、清水坂の長吏この由を聞き、法仏法師を打たしめんが為に、紀伊の国の山口の宿え打手の使いに、甲斐・摂津法師二人を下し遣わすの処に、真土の宿の近江法師は誘いださんが為に、法仏法師に申す様、「山口の宿の二﨟蓮向法師の所労、今は万死に一生なり。訪いに行くなり。同じく相具して訪うべし」と申して、法仏法師を誘い出すの刻、去る仁治二年七月九日酉剋山口の宿に罷り付くの処、清水坂の長吏の下し遣わす所の打手の使甲斐・摂津法師、法仏法師・弟子大和法師二人を待ち請けて、これを討ち畢んぬ。法仏の妻子二人においては、同じき日申の時に近江法師太郎の子淡路法師に申し置きて、真土の宿のおいて妻子二人を殺害し了んぬ、かくの如く、四人の輩を殺害しながら、法仏法師においては自害の由、これを申す。法仏より以前に妻子二人を殺害せらるるの意、これを察するに、妻子を置くにおいては、法仏殺害の後、敵人たるべきなり。妻子を殺害するをもってすれば、法仏の殺害は勿論なり、自害の由申すは、造意、顕然なり。誤りは誤りとなす。これ正しきなり、と云々。殺害(と云い)、謀略と云い、いかでか罪科を遁るべけんや。

   (紙継ぎ目 この間文章接続)

 一、法仏法師、妻子等を殺害せしむるの事は、七月九日なり。若狭法師を呼び取るの事が法仏殺害の後十一日の事なり。しかるに若狭法師の白状尋ね問うの処、「法仏は舌を巻き自害し畢んぬ」と云々。この条、前後相違なり。しかれば自害の由申すは顕然の謀略なり。

   (中略)

 一、清水坂に打ち入りて、非人等の住屋に火を付けて、不如思の者、炎の中に入れて身命を亡ぼすべきの由、奈良坂の非人等、結構の由、申せしむるの条、濫吹の訴訟、奏事不実の罪科、責めて余りあるものか。彼等の申し状、無実虚誕の企て、これをもって、御𨗈迹あるべし。放火とは、何により、不当に思い寄るべけんや。増して申さんや、身命を亡ぼさんと思い切らむ程の事は。何事の意趣、何事の不審、これあらんや。清水坂よりして、奈良坂の為にさほどに火を懸けて、自害を企てる程の遺恨、これなし。何事によりて、しかる如きの猛悪おば思い立つべけんや。就中、公私の門々、家々、神社、仏事、堂舎、塔廟、便宜の炎上、たとえ非人たりと雖も、いかでかまた、逆罪を顧みざらんや。但し、非人の存亡の一事と申す事も候か。それも時の折節により、昔の事に候いけるか。四海の静謐は仰ぐ所なり。諸方の哀憐は慕う所なり。これにより無為無事にして、彼等の猛悪においては、上裁を仰ぐの処、放火結構の訴訟を罷負の条、非人等、恐怖の思い、寤寐、隠れず。凡そ、当代正直の憲法、狼藉禁罰。

   (後略)

 

*原文・書き下し文は、前掲『部落史史料選集』を引用しました。

 

 「解釈」

 一つ。法仏法師(北山宿派)が、兄の近江法師(真土宿の長吏・清水坂派)の大田に戒めて申し上げるには、豆山(奈良坂の末宿)と申す宿は、一乗院僧正御房の所領である。また、真土宿と申すところも、同じ一乗院領である。興福寺北山宿に背いて、豆山宿に立て籠もった張本人の浄徳法師(清水坂派)は、終始、返答するつもりはないと申し上げた。そうしたところ、近江法師は弟の法仏法師の戒めの言葉を聞き、清水坂の長吏に相談し申し上げたところ、清水坂の長吏はこの事情を聞き、法仏法師を討伐したいがために、紀伊国の山口宿へ打手の使者として、甲斐法師・摂津法師の二人を派遣した。すると、真土宿の近江法師は法仏法師を誘い出したいがために、法仏法師に申すには、「山口宿の二﨟蓮向法師は病気で、今のところかろうじて生き延びている。見舞いに行くのである。一緒に見舞おう」と申して、法仏法師を誘い出した。去る仁治二年(1241)七月九日酉の刻に、法仏法師と弟子の大和法師が山口宿に到着したところ、清水坂の長吏が派遣した打手の使者甲斐法師と摂津法師は、彼ら二人を待ち受けて、これを討ち取った。法仏の妻子二人については、近江法師は同じ日の申の刻に長男淡路法師に申し残して、真土宿で妻子二人を殺害した。このように、四人の仲間を殺害しながら、法仏については自害した、と清水坂方は申し上げた。法仏よりも前に妻子二人を殺害した意図を推察すると、妻子を生かしておいては、法仏殺害の後に、清水坂方の敵となるはずである。妻子を殺害したのだから、法仏を殺害したことは言うまでもないことである。自害したと申すのは、清水坂派のつくりごとであることは明らかである。間違いは間違いとする。これこそが正しい判断である、という。殺害も謀略も、どうして罪を逃れることができようか、いやできるはずはない。

 一つ。法仏法師やその妻子らを殺害したのは、七月九日のことである。若狭法師を呼び寄せたのは、法仏殺害後の七月十一日のことである。ところが、若狭法師を尋問したところ、「法仏は何も言わずに自害した」という。このことは、順序が逆である。だから、法仏が自害したというのは、明らかな謀略である。

   (中略)

 一つ。清水坂に討ち入って、非人たちの住居に火を付け、思いどおりにならない者を炎の中に入れて、その身命を亡ぼうそうとしたことは、奈良坂の非人らが企てたことだ、と清水坂方が申したことは、不当な訴訟で、虚偽を奏上する罪であり、どんなに糾弾しても十分ではないだろう。彼ら清水坂の申状は、事実無根の虚偽の企てであり、(幕府は)これによって事件の真相をご推察ください。放火とは、どういう理由で、道理に背いて考えつくだろうか、いや考えつくはずがない。まして、清水坂の非人らの身命を滅ぼそうと決意するほどのことを申しましょうか、いや申しはしない。どのような恨みや嫌疑があろうか、いやない。清水坂から訴えられるように、奈良坂として火を付けて自殺を企てるほどの遺恨はない。どういう理由で、このような乱暴な悪事を決心するだろうか、いやするはずはない。とりわけ、公的な建物や私的な家、門、寺社、堂舎、塔頭、霊廟、手紙などの炎上について、たとえ非人だとしても、どうしてこのような大罪を気に掛けないだろうか、いや気にかけるだろう。もしかしたら、我ら非人の存亡も、とるにたりない一つの出来事と申すにすぎないのでしょうか。それも問題にするまでもない過去の出来事にだというのでしょうか。天下の静謐は願うところである。あちこちからの憐れみは望んでいるところである。これによって無為無事で、清水坂の乱暴な悪事については、幕府の裁決を求めているが、放火謀略の訴訟を引き受けてしまったことについて、非人らの恐怖の思いは、寝ても覚めても消えることはない。そもそも現代の嘘やごまかしのない掟は、狼藉を禁止し罰している。

   (後略)

 

*解釈は、前掲『部落史史料選集』の頭注や、服部英雄「大和国北山非人宿をめぐる東大寺興福寺─奈良坂と般若坂」(『河原ノ者・非人・秀吉』山川出版社、2012年、156頁〜170頁)を参照しながら作成しました。

 

 

 「注釈」(以下、断らないかぎり、『部落史史料選集』の頭注を引用)

「大田」─近江法師と大田の関係、未勘(129頁、頭注26)。

「一乗院僧正」─興福寺の一乗院僧正。当時の一乗院門跡発心院御房実信(近衛基通

        息)をさすか。

「真土の宿」─大和と紀伊の国境、待乳山の付近にあった非人の宿(現在、和歌山県

       本市)(119頁、頭注30)。

「浄徳法師」─真土宿の長吏近江法師の聟。近江法師は浄徳法師に助成するために、興

       福寺北山宿に背いて、清水坂の末宿であると主張した(128頁)。

「山口の宿」─紀伊国那賀郡山崎荘にあった宿。現在の和歌山県那賀町清水坂の末宿

       (129頁、頭注29)。

「若狭法師」─摂津河辺郡。河尻小浜の宿の長吏。清水坂先の長吏の惣後見(130

       頁、頭注38)。

「舌を巻く」─①相手に言いこめられたり、威圧されたりして沈黙するさまをいう。②

       驚き、恐れ、また、感嘆してことばも出ないさまをいう。舌をまろが

       す。③巻き舌でいう(『精選版 日本国語大辞典』)。

「但、非人〜候気留欤」─この部分の解釈がまったくわかりませんでした。

 

 

*前掲服部英雄著書(160〜165頁)によると、今回の史料は、「賤視された人々が自ら執筆した世界最古の相論(争論)文書」として、非常に有名なものだそうです。相論の経緯については煩雑になるので詳しい説明は避けますが、この研究を参考にしながら、まずは史料の位置づけを説明しておきます。この史料が作成された当時、京都・清水坂(末宿)と奈良・奈良坂(本宿)の非人は、利権をめぐって争っていました。訴人は清水坂で、論人は奈良坂でした。残念ながら清水坂の訴状は残っていませんが、奈良坂側の主張がわかる陳状は都合4通残っており、3番目に認められた陳状がこの史料です。

 さて、今回示した1・2条目によると、仁治二年(1241)、真土宿が清水坂の働きかけによってその末宿とされたことがわかります。真土宿の長吏近江法師は、清水坂の新しい長吏と連携してこの動きを推進したのですが、弟の法仏法師は奈良坂宿に加担していたため、紀伊国山口宿(那賀郡)に誘き出されて、清水坂長吏の使者である甲斐法師と摂津法師によって、法仏法師と弟子の大和法師は殺害されました。また、法仏の妻子は近江法師によって殺害されたようです。このように、奈良坂側は清水坂側が法仏らを殺害したと訴えているのですが、清水坂側は法仏が自殺したと主張しています。

 また、3条目によると、寛元二年(1244)ごろに奈良坂非人が清水に討ち入り、再度の攻撃により清水坂非人在家は放火され、延焼により清水周辺の寺家堂塔が焼けたということがわかります。

 さて、今回の史料では、自殺の記事が3箇所出てきています。1つ目は、法仏法師の「自害」論争です。前述のように、1・2条目の清水坂側の主張によると、法仏は自殺したことになっていますが、奈良坂側の主張では、清水坂側に殺害されてことになっています。清水坂側の訴状が残っていないのではっきりしませんが、奈良坂側の陳状から判断すると、今回の事件で殺害されたのは、法仏法師・その妻子二人・法仏の弟子、以上4人です。ところが、清水坂側は法仏法師の殺害だけを認めず、自殺したと主張しているのです。かりに、清水坂側が殺害の罪を逃れたいのであれば、4人全員が自殺したと主張すればよいはずです。どうして法仏以外の3人については、自殺したと主張しなかったのでしょうか。ひょっとすると、本当に法仏だけは自殺したのかもしれません。これ以上の情報は読み取れないので、法仏の自害の当否については、疑問のまま残しておくことにします。

 2つ目は、3条目の「自清水坂志天奈良坂之為、佐程懸火企自害程之遺恨無之」という主張です。よくわからないところもありますが、「清水坂から訴えられるように、奈良坂として火を付けて自殺を企てるほどの遺恨はない」という解釈になると思います。この自殺は、「法仏の自害」を指すのか、今回の放火事件と連動した別人の自殺なのか、よくわかりません。ですが、この表現から、中世では「遺恨」があれば、「敵対者の家に火を付け」、そのまま「自殺する」ことがあると考えられていたようです。「遺恨」を引き金にして(原因動機として)、自殺に至る。これが自殺パターンの1つとして、人々に認識されていたことだけは間違いなさそうです。

竹林寺文書 その3

    一 安芸国豊田郡入野郷篁山竹林寺縁起 その3

 

*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字常用漢字で記載し、割書は〈 〉で記載しました。本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。なお、森下要治監修・解説『篁山竹林寺縁起』(広島大学デジタルミュージアム・デジタル郷土図書館、http://opac.lib.hiroshima-u.ac.jp/portal/dc/kyodo/chikurinji/top.html)に、竹林寺や縁起絵巻の情報が詳細に紹介されています。書き下し文や解釈はこれを参照しながら作成してみましたが、わからないところが多いです。

 

   ノ ロ    ノ        ヨシスケト     ヨキヒメキミヲ   チ  マシマシ リ

 其比西三条之関白小野大臣良相  申公卿、好姫君    持  御座 鳬、

  カン レイ    シ[ ]  □[ ]   モ ラント     ニ モ モト  モ

 容顔美麗天下無双、尓者月卿雲客等 奉  嫁、我々  雖

  スト ヲ  ク     ス       ル  ニハ □   ニ  モ エ  ヘリ

 為望  無左右領掌給、或 説 奉女御共申聞 侍、

  ノ ハ ハラハヘノ  リニ ル  ヲ ニ   ノ ルヤ ニハ ト シ リ       ハ

 此比者京童    嘲不成事云、 関白成聟耶   申鳬、抑篁雖才芸

  ル  ニ  ハ           ラ テ ク   ハ タ チ  ヲ  ニカリキヌ

 勝一レ他貧道天下第一也、或時学徒嘲云、 御辺未妻女故狩衣々装

   ル キサマ   ノ  コソ  リ ヒ    フ  ヲ テ  シ    ヘト  ヒヽ レハ

 見苦敷様也、関白姫君社成齢十六給、是望  為女房給  謂鳬、

    シ    ト  タ ヲ  キコトハヲ テ   テ  ヲ シ リ   シ ラニ

 光陰可惜時不云古詞  引、 而作詩 通鳬、人無更少時

  ラク     シ ス   ル ヲ   レト     フコヽロハ  ノ ニ キ スキ  ヲ

 須ヘシ レ惜、年不常春酒  莫空云々、言  無益言葉 易過時

  リ ラン  チラカ  ト イトナム  ヲ       ラ ヲ ヲ   ス    キ テ

 自送、 汝等  為営   事云也、学徒等猶此語  不聞重而

  ヒ レハ  ラ ク イテサラハ      ノ  ニ フ      ニ テ     コソ

 咲鳬、  篁言、出 左 者 成彼聟云、其時同音笑而聟入之時

  レラ  ノ ラン□物ヲ   ク  ニ ラ  シ ハ        ヲ  ラント  シ  ヲ

 我等御辺取履云々、篁曰、誠汝等諍論給、  其時御辺達奉仕深為約束

      ノ         ヲ ラ テ    ノ  ニ キ ヒ

 生年十八歳之時、即作申文自持之、良相御所行給鳬、

     (絵8)

   ル タ テ ノ  ノ ニ      ヲ ヒ レ レ モ   シ   ク      ルマテ

 然間至彼関白御所、 而子細云 入 鳬共、無申次人、時剋移迄而

   ニ   フシ     チ テ ミ ヒ レハ タテフミ   チケル  ル ニテ ノ    

 庭上立、折節大臣良相立出 見 給 鳬、立文  持童子、去躰地上三尺斗

 アカリテ ニ ニケリ   スト タヽ ニ   ヒ  フニ ヲ   ル  ノ ヲ   チ キ ミ

 挙レ  空居鳬、  非啻人一  思問玉子細、奉彼状、即披見

  フニ ノ ニ ク  ハ テ カノシヒヲ ツトメ□   ハ テ レイ□ ニ ヒ シ

 給  其詞云、 冬払霄蛾燈一   勤切、 夏向藜藿儀一 思深、

  ニ               レハ テ       ツトメ キコト   ニ リ

 並而右七左七横山逆出云々、是篁明蛍雪鑚仰之勤 深、  而次造

 ヨメト   ヲ ヘリ

 婦 云文宇侍、

     (絵9)

    ヒ玉フ ハ  カ  ヲ     ト  ト エ  チ ヲ リ シ   ニ 玉ヘリ

 大臣思  様  吾姫君於ヨメニ給曰儀覚、 則扇取 直  虚空書

  ト フ  ヲ  ラ モフ ハ  レハ テ  トノミノ レト  玉フ  ト    チ ニ

 龍云文宇、篁念様   是  立月己巳日来 言返答得意、即学所

  ヘリ  ノ トラニ テ ク   ノ ツチノトノ    キ ス          タチ

 帰而以前学徒等 語曰、 来月之己   巳日可聟入也、御辺達者

   ノ   シ        ノ  シ 玉エト リ レハ    シケル ラ   シ

 約束之間可相伴、其用意仕給  在 鳬、嘲哢鳬学徒等後悔申鳬

  

 無其甲斐

     (絵10)

   つづく

 

 「書き下し文」

 其の比西三条の関白小野大臣良相と申す公卿、好き姫君を持ち御座しけり、容顔美麗天下に双無し、尓れは月卿雲客らも嫁に取り奉らんと、我も我もと望み為すと雖も、左右無く領掌し給はず、或る説には女御に奉るとも申し聞こえ侍り、此の比は京童の嘲りに成らざる事を云ふに、関白の聟には成るやと申しけり、そもそも篁才芸は他に勝ると雖も貧道は天下第一なり、或る時学徒ら嘲りて云く、御辺は未だ妻女を持たざる故に、狩衣衣装見苦しき様なり、関白の姫君こそ齢十六に成り給ふ、是れを望みて女房に為し給へと謂ひければ、光陰惜しむべし、時人を待たずと云ふ古き詞を引きて、詩を作りて通しけり、人更に少き時無し、須く惜しむべし、年常には春ならず、酒空しくすること莫かれと云々、言ふこころは無益の言葉に過ぎ易き時を送らんより、汝らか営む事を為すと云ふなり、学徒ら猶ほ此の語を聞き得ず重ねて咲ひければ、篁言く、いでさらば彼の聟に成ると云ふ、其の時同音に笑ひて聟入りの時こそ我ら御辺の履物を取らんと云々、篁曰く、誠に汝ら諍論し給はば、其の時御辺達を仕り奉らんと深く約束を為し、生年十八歳の時、即ち申文を作り自ら之を持ちて、良相の御所に行き給ひけり、

     (絵8)

 然る間彼の関白の御所に至りて子細を云ひ入れけれども、申し次ぐ人無し、時剋移るまで庭上に立つ、折節大臣良相立ち出でて見給ひければ、立て文を持ちける童子、去る躰にて地の上三尺ばかり空に挙がりて居にけり、啻だ人に非ずと思ひ子細を問ひ玉ふに、彼の状を奉る、即ち披き見給ふに其の詞に云く、冬は霄蛾の燈を払ひて勤め切り、夏は藜藿儀に向かひて思ひ深し、並びに「右七左七横山逆出」と云々、是れは篁蛍雪鑚仰の勤め深きことを明らめて、次に婦と云ふ文字を造り侍り、

     (絵9)

 大臣思ひ玉ふ様は吾が姫君を嫁に給へと曰ふ儀と覚え、則ち扇を取り直し虚空に龍と云ふ文字を書き玉へり、篁念ふ様は是れは月を立て己の巳の日に来たれと言ひ玉ふ返答と意得、則ち学ぶ所に帰り以前の学徒らに語りて曰く、来月の己の巳の日に婿入りを為すべきなり、御辺達は約束の間相伴し奉るべし、その用意し仕り給へと在りければ、嘲弄しける学徒ら後悔し申しけるも其の甲斐無し、

     (絵10)

   つづく 

 

 「解釈」

 そのころ、西三条の関白小野大臣藤原良相と申す公卿は、すぐれた姫君をお持ちになっていた。お顔立ちは美しく、天下に並ぶものはない。この娘を公卿や殿上人らも嫁にいただこうと、我も我もと望むが、ためらうことなくご承知にならなかった。ある説では、女御として差し上げるという噂がありました。このごろは、京の無法者たちが、物事が成し遂げられないことを嘲笑して、「関白の聟にでもなるのか」と申した。さて、篁の技芸や才能は他者よりも優れていたが、天下第一の貧乏人であった。あるとき学徒たちが嘲笑して言うには、「あなたはまだ妻を持っていないがゆえに、狩衣などの衣装が見苦しいのである。関白の姫君は十六歳におなりになった。この姫を望んで妻になされ」と言ったので、「一瞬を大切にしなさい。時間は人を待ってはくれない。」という古い表現を引用し、漢詩を作って送った。少年時代は二度と来ないものです。だから、わずかな時を惜しみ、むだにしてはなりません。季節は、一年を通していつも春というわけではありません。だから、春を惜しみながら酌む酒の楽しみを、今尽くそうではありませんか」という詩だった。この漢詩の意味は、「つまらない言葉に左右されて過ごすよりは、あなたたちの為すべきことを為せ」というのである。学徒らは依然としてこの漢詩の意味を理解することができず、再び笑ったので、篁が言うには、「さあ、それならば関白の聟になろう」と言った。その言葉を発すると同時に学徒らは笑って、「聟入りのときにはあなたの履物を取ろう」と言った。篁が言うには、「本当にあなたたちがこの言い争いに勝ちなさるなら、その時はあなたたちにお仕えしましょう」とかたく約束し、生年十八歳のとき、申文を作成し、自らこれを持って、良相の御所にお出かけになった。

     (絵8)

 そうしているうちに、小野篁はあの関白藤原良相の御所にやってきて、事情を申し入れたけれども、取り次ぐ人がいなかった。時刻が移るまで庭先に立っていた。ちょうどそのとき、大臣良相が現れて篁をご覧になったところ、立文を持った青年が、そのような姿で地上から三尺ほど宙に浮いていた。普通の人々ではないと思い、事情をお尋ねになると、この書状を差し上げた。すぐにそれを開いてご覧になると、そこに書かれた言葉には、冬は夜の虫が明るい燭に飛び込むような迷いを払い除けて全力で勉学につとめ、夏は朝の葵(ひまわり)が太陽に向かうように誠心を致した。そして、「右七左七横山逆出」とあった。これは篁が苦労して勉学に励んだことを表明しており、次に「嫁」という字を作っているのです。

     (絵9)

 大臣の良相がお考えになるには、「あなたの姫君を嫁にくださいと篁が申し上げている」と思われ、すぐに扇を持ち直し、宙に龍という文字をお書きになった。篁が考えるには、「これは月を立て己の巳の日に来いと良相がおしゃっている」と了解し、すぐに学問所帰り、先ほど言い争った学徒らに語って言うには、「来月の己の巳の日に婿入りをするつもりである。あなた達は約束したので、婿入りに従い申し上げよ。その準備をし申し上げてください」と言うので、ばかにしていた学徒らは後悔し申したがどうにもならない。

     (絵10)

   つづく

 

 「注釈」

「良相」─藤原良相。813─67 平安時代前期の官人。弘仁四年(813)生まれ

     る。藤原冬嗣の第五子。母は藤原美都子。良房および文徳天皇母順子と同

     母。またその女多可幾子、多美子はそれぞれ文徳・清和両天皇の女御となっ

     た。良相は若くして大学に学び、承和元年(834)蔵人となり、同五年叙

     爵。左近衛少将を拝し、「承和の変」の際には近衛を率いて皇太子直曹を包

     囲した。その後左近衛中将を経て嘉祥元年(848)に参議に昇進した。つ

     いで中将・右大弁を兼ね、文徳朝に入ると春宮大夫をも兼ね、権中納言、大

     納言、右大将などの要職を経て天安元年(857)に右大臣に就いた。出

     自、学歴に恵まれ「曲量開曠」「有才弁」(『三代実録』貞観九年(86

     7)十月十日条)と評された実力者で、特に貞観初年には「機務に専心」し

     たといわれ、良房政権下で大きな力を持った。また貞観元年には延命院・崇

     親院などを設け藤原氏の貧窮者救済にあたった。同八年、応天門が炎上する

     と、伴善男と良相は左大臣源信に放火の罪を着せようとしたらしいが、藤原

     良房が信を弁護したため大事には至らなかった。これは源氏の進出に対する

     良相の危機感をあらわす事件としてよいが、良相と良房の間にも食い違いが

     生じてきていたことを表すものといえる。貞観九年十月十日没。五十五歳。

     贈正一位(『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館)。

「冬払霄〜儀思深」─『新日本古典文学大系 本朝文粋』(「野相公 奉右大臣書」巻

          七、書状・186)では、「不堪宵蛾払燭之迷、敢切朝藿向曦之

          務」(宵蛾燭を払ふ迷ひに堪へず、敢て朝藿曦に向ふ務を切に

          す)とあり、「夜の虫が明るい燭に飛び込むような迷いに堪えら

          れず、朝の葵(ひまわり)が太陽に向かうように誠心を致した

          い」と解釈している。

「右七左七横山逆出」─何らかの謎かけなのでしょうが、どのように解釈すればよいか

           わかりません。

「人無更〜酒莫空」─この部分の書き下し文と解釈は、『和漢朗詠集』(新編日本古典

          文学全集、小学館)を引用しました。

竹林寺文書 その2

    一 安芸国豊田郡入野郷篁山竹林寺縁起 その2

 

*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字常用漢字で記載し、割書は〈 〉で記載しました。本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。なお、森下要治監修・解説『篁山竹林寺縁起』(広島大学デジタルミュージアム・デジタル郷土図書館、http://opac.lib.hiroshima-u.ac.jp/portal/dc/kyodo/chikurinji/top.html)に、竹林寺や縁起絵巻の情報が詳細に紹介されています。書き下し文や解釈はこれを参照しながら作成してみましたが、わからないところが多いです。

 

 

  ノ ノフモトニ   ヘノヒテサトト   ノ   リ     ノモノ  ツネニ ノ  ヲ

 彼山之麓  竹野辺之秀識 云 人之下女有一生不犯者、恒当寺御本尊

 テ シ            リ  カ ロ   ノ ニ   ノ タ ノトキノ シ

奉信敬延暦十九年〈庚辰〉自中夏之比、彼寺一千日之間丑剋参詣無怠、

サル    ニ  ノ ハカリニ     ニネフリ イ ケレハ   セフキ  テ ミトチヤウヲ

去程千日已満夜半斗、   御宝前眠  居 鳬、  風吹来 而  御戸帳

 チ ルト ヲホヘテ     リ  トヒラキリヽヽト   テ ケ リ    ニ モヒ テ   ヲ

打 上  覚、    自内扉切々     鳴而披鳬、不思儀念 奉之、

イツクシキ        テ テ       ヲ シ テ  カラカ フトコロニ   シ レ ヒ

厳   童子一人立出給、  五色玉持来侍、自 之  懐中   押 入 給鳬、

 ク  トモ  タニ   ヘテ イヨヽヽ   コウ ニシテ     ノ ニ キ リ

夢幻一 新   覚而 弥   信力強盛、  而下向道 趣 鳬、

     (絵3)

 コロ ハ   ナカハノ ナリ   ムラト ニ リ  ノ    ノホトリニ   リ ヤスラフニ

 比 者 五月半  事、竹田村云処 在竹林、其辺    立寄而徘徊、

      クノヲ  ク ハヘ  テ リ  ルヤ    ニ         ノ  ニ

笋子不幾数一 多 生 出 鳬、有八千代俄戯之心哉、此竹子

 シテ トツキヲ   ル   テ   ノ  ヲ  ノ ヲ  シテ ク

レ  嫁   立帰時、惜別離名残一首歌  詠 云、

 美之賀与能 奈古利曾於新幾 志乃乃免野 左歌那記古登遠 飛登仁賀多留南

  ヒ ステヽ   ヘリ

 云 捨而帰 侍、

     (絵4)

  ノ        シテ テ  ヲ              ノ

 其後彼八千代懐妊 経十月、而仁皇五十代桓武天皇御宇延暦廿一年〈壬午〉

  ノ  モウケ   ノ   ヲ ハナハタ テ  キ リ ウフ ヲ ル アヒセ  ノ    テ

中春之比、生玉体之一子、太  悦而懐取  宇浮湯奉レ 浴、 彼霊水成

     リ      ハ  ノ   カラ ナ  テ  レハ レ        シ   ノ ヲ

御池而在于今、然則此少兒 自 名 乗 而 吾是篁也云々、弥成奇異思

 ル シ          リ      ロ  テ    リ ヲ  テハ   ルコト ヲ 

養育、加之自二三歳之比始而覚終、汲流而知レ 源、

 ヘハ シ  ノ     テ    ス     ハ      ル

喩 如唐土顔回、以一而察十、子路一而知二云々、

     (絵5)

  ル  ニ ノ      ハ  トモ ト    ヤツ      ニ  ナヽメ   ニ    ノ

 去 程 彼 竹野辺殿者、雖下人之奴子、愛敬誠不斜、 然処竹野辺之

   ス   ノ      ル キ ノ ニ  モ ス セン  ヲ   リ    ノ ナレハ

女房為嫉妬之思乎、或時 彼 篁 雖毒害、自元再来人成者

ス    スルコト ニ ウラミ テ    ノトキ  ノ ヲ テ  テ  リ  ヒ  リ

、終此旨恨給玉而十二歳剋  彼郷立出、指東登 給 侍、

     (絵6)

  ル ニ テ    ヲ   ニ  ノ テ       ネ      ヲ   テ

 去程越国々関々、終山城国花洛、而尋槐市之跡、積蛍雪鑚仰之

    ニ    ノ  ハ  ヘテ ニ  キ     ハ スキ ニ     ノ ハ ニ

、故能芸才覚之業者越レ 他、手跡詩歌之道 過世、無陰其誉天下者也、

     (絵7)

   つづく

 

 「書き下し文」

 彼の山の麓に竹野辺の秀識と云ふ人の下女に一生不犯の者有り、恒に当寺の御本尊を信敬し奉りて、延暦十九年〈庚辰〉仲夏の比より、彼の寺に一千日の間丑の剋の参詣怠り無し、去る程千日已に満の夜半斗に、御宝前にて眠り居ければ、風吹き来たりて御戸の帳を打ち上ぐると覚へて、内より扉切々と鳴りて披けけり、不思儀に念もひ之を見奉りて、厳しき童子一人立ち出で給ひて、五色の玉を持来し侍りて、自らかの懐の中に押し入れ給ひけり、夢幻とも無く新たに覚へていよいよ信力強盛にして、下向の道に趣きけり、

     (絵3)

 比は五月半ばの事なり、竹田村と云ふ処に竹の林在り、其の辺りに立ち寄り徘徊ふに、笋子幾ばくの数を知らず多く生へ出でけり、八千代俄かに戯の心有るや、此の竹の子に嫁ぎを為て立ち帰る時、別離の名残を惜しみて一首の歌を詠じて云く、

 「ミシカヨノ ナコリソヲシキ シノノメノ サカナキコトヲ ヒトニカタルナ(短夜の 名残ぞ惜しき しののめの さがなきことを 人に語るな)」ト 云ひ捨てて帰り侍へり、

     (絵4)

 其の後彼の八千代懐妊して十月を経て、人皇五十代桓武天皇の御宇延暦二十一年〈壬午〉仲春の比、玉体の一子を生け、太だ悦びて懐き取り宇浮湯を浴びせ奉る、彼の霊水御池に成りて今に在り、然れば則ち此の少児自ら名乗りて吾れは是れ篁なりと云々、いよいよ奇異の思ひを成し養育を為(し)奉る、しかのみならず二、三歳の比より始めを聞きて終わりを覚り、流れを汲みては源を知ること、喩へば唐土顔回のごとし、一を以て十を察し、子路は一を聴きて二を知ると云々、

     (絵5)

 去る程に彼の竹野辺殿は、下人の奴子たりと雖も、愛敬誠に斜めならず、然り処に竹野辺の女房嫉妬の思ひを為(す)るか、或る時彼の篁に毒害を為(せ)んと欲すと雖も、元より再来の人なれば服すること能はず、終に此の旨恨み給ひて十二歳の剋彼の郷立ち出で、東を指して登り給ひ侍り、

     (絵6)

 

 去る程に国々関々を越えて、終に山城国の花洛に入りて、槐市の跡を尋ね、蛍雪鑚仰の功を積みて、故に能芸・才覚の業は他に越へて、手跡・詩歌の道は世に過ぎ、其の誉は天下に陰るる無き者なり、

     (絵7)

   つづく

 

 「解釈」

 この桜山の麓に住んでいる竹野辺の秀識という人の下女に、一生不犯の誓いを立てた者がいた。いつも当寺の御本尊を信敬し申し上げて、延暦十九年〈庚辰〉(800)五月ごろから、この寺に千日間丑の刻参りを怠りなく続けた。そうしているうちに、千日詣が満願した夜中ごろに、御宝前で眠っていたところ、風が吹いてきて本堂の御戸の帳を吹き上げたと思い(目を覚まして見てみると)、内陣から扉がきりきりと鳴って開いた。不思議なことだと思ってこの様子を拝見していると、尊く気高い子どもが一人立ち現れなさって、五色の玉を持って来まして、童子自らが下女の懐の中に押し入れなさった。夢や幻でもなかったので、気持ちを新たにし、信心の力はますます強く盛んになり、帰途に就いた。

     (絵3)

 時期は五月半ばのことである。竹田村というところに竹林があった。(下女の八千代は)そのほとりに立ち寄って休息していたところ、竹の子が、どれほどの数かわからないが、たくさん生え出てきた。八千代は急に遊び心が生じたのだろうか、この竹の子に嫁ぎ、立ち帰るときに別離の名残を惜しんで、一首の歌を詠んで言うには、

 「この短い夜のようにあっけない、私たちの夫婦仲の名残惜しいことよ。夜明けの意地悪さを人に言わないでおくれ」と言い捨てて帰りました。

     (絵4)

 その後、この八千代は懐妊して十ヶ月を経て、人皇五十代桓武天皇延暦二十一年〈壬午〉(802)二月ごろ、玉のように美しい子どもを産んだ。たいそう喜んで抱き取り、産湯を浴びせてさしあげた。この産湯に使った霊水は池になって今でも残っている。そして、この幼子は自ら名乗って、私は篁であると言ったそうだ。ますます不思議だと思い、養育してさしあげた。それだけではなく、二、三歳のころから物事の最初を聞いて終わりまでを理解し、流れる水を汲み取ってその源の様子を知るように、末を見て本を知ることは、たとえば中国の顔回のようである。顔回は一を聞いて十を察し、子路は一を聞いて二を知るだけだという。

     (絵5)

 そうしているうちに、竹野辺殿は下人の子どもではあったが、並々ではなくかわいがった。しかし、竹野辺殿の女房は嫉妬したのだろうか、ある時この篁を毒殺しようと考えたのだが、もともと文殊菩薩行基菩薩の生まれ変わりの人であるので、毒を飲むことはなかった。篁は、結局この一件を恨みなさって、十二歳のときにこの里を出て、東を目指し上りなさいました。

     (絵6)

 そうしているうちに、諸国・諸関を越えて、とうとう山城国の洛中に入り、大学の場所を訪れ、苦労して勉学に励んだ。それゆえ、技芸や学問の才能は他者を超え、文字や詩歌の道も、たいそう優れており、その名声は天下に広く知られているものである。

     (絵7)

 

   つづく

 

 「注釈」

小野篁」─802─52 平安時代前期の公卿、文人。最高官位が参議であったた

      め、野相公あるいは野宰相と呼ばれた。延暦二十一年(802)生まれ

      る。父の小野岑守は勅撰漢詩集『凌雲集』の撰者。篁も優れた詩人として

      有名である。ただし『本朝書籍目録』は『野相公集』5巻の存在を伝える

      が、今はなく『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』にわずか

      な作品を伝えるだけである。『文徳実録』によれば、少年時代は乗馬にの

      み専心して学問を顧みなかったので、父に似ぬ子だと嵯峨天皇を嘆かせた

      が、それを聞いた篁は大いに慚愧し、以後学問に専心したという。その結

      果か、弘仁十三年(822)文章生、天長十年(833)東宮学士とな

      り、『令義解』の撰修に加わり、承和元年(834)は遣唐副使を命ぜら

      れた。しかし二度の出発はともに難船して失敗。同五年には藤原常嗣と仲

      違いをし病と称して乗船せず、嵯峨上皇の怒りを受けて隠岐へと流され

      た。七年帰郷を許され、嵯峨上皇の特別のお声がかりで本爵に復した。十

      四年参議になったが、仁寿二年(852)十二月二十二日に没した。五十

      一歳。和歌にも優れ、『古今和歌集』には六首とられている。『小野篁

      集』はその歌集であるが、叙述法は物語的で、『篁物語』とも呼ばれてい

      る。平安時代中期以降の成立か。『新古今和歌集』以後の勅撰集にみられ

      る篁の歌はこれからとったもので篁の真作ではあるまい。また『今昔物語

      集』『宇治拾遺物語』『十訓抄』『江談抄』などには、篁の優れた学才を

      示す説話が種々伝わっている(『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館)。

 

 

*この部分は、母親が筍と交わって生まれたのが小野篁である、という大変珍しい出生譚として有名で、数多くの研究が積み重ねられているそうです。神や妖怪、動物と交わって子をなすという話(異類婚姻譚)はよく聞きますが、筍のような植物と交わるというのは、かなり珍しいエピソードだと思います。

 斉藤研一「石女地獄について」(『子どもの中世史』吉川弘文館、2003年、初出2000年、207〜209頁および注釈参照)によると、竹の空洞の中には何かが宿り、そこでは何らかの変身(変生)が成し遂げられるという、普遍的な心性が存在したそうです。また、依代としての竹は神聖性を備え、繁栄・繁盛のシンボルでもありました。これには、竹の成長速度の速さとも関係があり、竹の成長と子どもの成長の様子が、ダブル・イメージされているそうです。さらに、「篁」と「竹林」は語彙のレベルでも結びついており(つまり、「たけかんむり」と「皇」(広い)の形声文字)、筍を男性器のメタファーとして捉えることも可能だと指摘しています。