周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

己斐文書1

解題

 南北朝時代十三通、戦国時代二通からなる。前者は厳島社領であった高田郡三田新庄下村の在地の状況を示す文書で、譲状三通、寄進状七通を含んでいる。後者は毛利氏からの宛行状と仮名書出である。

 本文書は三田村(広島市白木町)の正覚寺に伝来した文書とこれを現在所蔵する己斐氏自身の文書からなる。己斐氏は戦国時代には己斐の茶臼山城に拠った豪族である。正覚寺は現在小堂を残すのみであるが、堂内には永和・至徳書写の大般若経が蔵されている。

  

   一 道専譲状

 ゆつりわたすにうたうさこのハやしはたけこたの事

(しヵ)(慈雲)(房)たうせん殿      (今生後生)

 ⬜︎うんの御ハうに心さしふかくて、こんしやうこしやう、たうせんにありかたくあた

 られ候ニよて、一こふんゆつりたてまつる也、一このゝちわくら人のこまこのなかに

                             (違乱)

 心さしふかくあたられたふへきなり、いちふんたりといふともいらんせんものわ

 (罪科)

 さいくたるへし、のちのためにしやうくたんのことし、

    (暦応)  (元年)

    りやくをうくわんねん八月三日

                      たうせん(花押)

 

 

 「書き下し文」(必要に応じて漢字を当てました)

 譲り渡す入道迫の林・畠・古田の事

 慈雲の御房に志深くして、今生後生、道専にありがたく当たられ候ふによて、一期分

 譲り奉るなり、一期の後は蔵人の子孫の中に志深く当たられ給ふべきなり、一分たり

 と雖も違乱せん者は罪科たるべし、後のために状件のごとし、

     (1338)

     暦応元年八月三日

                   たうせん(花押)

 

 「解釈」

 譲り渡す入道迫の林・畠・古田のこと。

 私道専は慈雲御房への情愛が深く、慈雲は今生も後生も、私に尊く接してくだいますことによって、私は一期分として慈雲に譲り申し上げるのである。一期の後は、蔵人の子孫のなかで情愛深く接するものに、右の所領をお与えになるべきである。ほんの少しでも違乱するようなものは、罪科に処すべきである。後日のため、譲状の内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「入道迫」─未詳。三田新庄の地名か。

「三田新庄」─高田郡。現在の広島市安佐北区白木町三田・秋山付近を領域とした厳島

       社領。高田郡藤原氏の没落を契機に、『和名抄』の高田郡三田郷が三

       田郷(再編後のもの)・三田小越村・三田久武村などの国衙領諸単位に

       分解を遂げた際、厳島社領として定着をみたもので、承安三年(一一七

       三)二月の伊都岐島社神主佐伯景弘(「厳島神主御判物帖」)に見える

       祈荘がその前身をなすと思われる。荘名は正治元年(一一九九)十二月

       の伊都岐島社政所解(「新出厳島文書」)に同年分厳島社朔幣田七反・

       六節供田二町の指定在所として現れるのを初見とし、降って応永四年

       (一三九七)六月の厳島社領注進状にも見える(「巻子本厳島

       書」)。永仁六年(一二九八)五月の三田新荘藤原氏代源光氏・藤原親

       教和与状によれば、三田新荘は上村(秋山)・下村(三田)に分かれ、

       それぞれに藤原姓を名乗り厳島社神主の諱「親」を用いる領主の存在し

       ていたことが知られる(「永井操六氏所蔵文書」)。南北朝期の下村領

       主一族の譲状や菩提所正覚寺への位牌料所の寄進状などにも掃部頭

       貞・前能登守親冬・宮内少輔親房の名が見え、彼らと厳島社神主家との

       深い交渉の様子をうかがわせている(「己斐文書」)。三田新荘は、比

       較的早期に預所職を梃子とする神主一族の在地領主化が図られた厳島

       一円社領であったと考えられる(『講座日本荘園史9 中国地方の荘

       園』)。

「蔵人」─蔵人二郎。二号文書によると、道専(故入道殿)と慈雲・蔵人は叔父(伯

     父)と甥の関係にあったと考えられます。

「たうせん(道専)」─二号文書の故入道殿か。

 

*これは、叔父(伯父)である道専が、正覚寺の僧侶で甥である慈雲に、一期分として

 入道迫の地を譲った文書です。慈雲が亡くなった後は、同じ甥である蔵人二郎の子孫

 に譲ることも指示していますが、二号文書によると、慈雲は援助を受けていることを

 理由に、生前にこの地を蔵人二郎本人に譲ってしまいます。

横山林左衛門氏旧蔵文書(完)

解題

 前記、伊藤信久への下文と同じ性質のものである。横山真高は鈴張(現広島市安佐町)の関山城に拠っていた豪族である。文政のころの鈴張村庄屋幸右衛門その子孫であるという。

 

   一 大内義隆下文     ○東大影寫本ニヨル

   (義隆)

    (花押)

 下           横山右馬助眞高

   可早領知安藝国安北郡鈴張内貳拾三石余地事

  右以件人宛行也者、早可領知之状如件、

      (1542)

      天文十一年十一月十二日

 

 「書き下し文」

 下す          横山右馬助眞高

   早く領知せしむべき安芸国安北郡鈴張の内二十三石余りの地の事、

  右件の人を以つて充て行ふ所なり、てへれば早く領知を全うすべきの状件のごと

  し、

 

 「解釈」

 下す          横山右馬助眞高

   早く領有するべき安芸国安北郡鈴張のうち、二十三石余りの地のこと。

  右の土地は、この横山眞高に給与するものである。よって、早く領有を全うするべきである。下文の内容は、以上のとおりである。

 

 「注釈」

「鈴張」─広島市安佐北区安佐町大字鈴張。中世の支配関係は不明であるが、北の壬生

     庄(現山県郡千代田町)が厳島神社領、南の飯室村が国衙領で、厳島神社

     安芸国衙は深く結びついており、両者のいずれかの影響下にあったと考えら

     れる。享禄四年(一五三一)閏五月九日毛利元就証状(吉川家文書)では、

     鈴張は「阿那・小河内・飯室・山中・今田」とともに吉川興経に安堵されて

     いた。天文十一年(一五四二)十一月十二日の大内義隆下文(横山林左衛門

     氏旧蔵文書)によれば、鈴張内二十三石余りの地がこの地の豪族横山右馬助

     へ宛行われている。同二十一年二月二日の毛利元就同隆元連署知行注文(毛

     利家文書)になると「鈴張 熊谷知行」と見え、毛利氏に従った熊谷氏の支

     配が及んできている(『広島県の地名』)。

伊藤文書(完)

解題

 天文十年(一五四一)、金山城を落とした大内義隆が天文十四年(一五四五))に伊藤信久に下したものである。

 伊藤氏はその後の戦乱などで所領や判物の大半を失い、沼田郡伴村(広島市沼田町)へ蟄居し医者などをつとめた。享保六年(一七二一)の沼田郡伴村利介の書出によると、右の文書は「馬之飼所為御加増」という。

 

   一 大内義隆下文

   (義隆)

    (花押)

 下           伊藤若狭守信久

   可早領知安藝国佐東郡上安内参貫四百地事

  右以件人宛行也者、早可全領知之状如件、

      (1542)

      天文十一年十一月十二日

 

 「書き下し文」

 下す          伊藤若狭守信久

   早く領知せしむべき安芸国佐東郡上安の内三貫四百地の事、

  右件の人を以つて充て行ふ所なり、てへれば早く全く領知すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 下す          伊藤若狭守信久

   早く領有するべき安芸国佐東郡上安のうち、三貫四百文の地のこと。

  右の領地は、この伊藤信久に給与するものである。よって、早く領有を全うするべきである。下文の内容は、以上のとおりである。

 

 「注釈」

「上安」─広島市安佐南区上安。上安の地名は天文一〇年(一五四一)八月八日付の大

     内義隆安堵状(「芸備郡中筋者書出」所収)に見え、感神院別当に上安下

     安両村のうち一〇貫文の地の知行を認め、寺務と国家安全祈禱を命じてい

     る。また下安は同年六月二十五日の大内氏奉行人連署奉書(厳島野坂文書)

     に見え、「安」という地が上下に分離したと思われるが、その時期やそれ以

     前の「安」については不明。ただし「和名抄」の佐伯郡「養我郷」を「養須

     郷」の誤りとし(大日本地名辞書)、上安(上安・高取・相田・大町)・下

     安(北下安・南下安)をあてる説もある。天文十四年十月五日の大内義隆

     文(伊藤文書)は、上安内三貫四百文の地を伊藤信久に宛行っている。同二

     十一年二月二日の毛利元就同隆元連署知行注文(毛利家文書)には「安上

     下」と記される。同二十三年になると仏護寺領打渡坪付(「知新集」所収)

     のなかに小地名が見え、正月二十八日付と六月十七日付の坪付は、ともに上

     安仏護寺領として「車田・ひくらし・大町・ひかん田・丸町・片山」の一町

     三段六十歩、分米四石六斗をあげる。この場合の上安は、のちの大町村など

     を含んだ範囲である。なお、嘉応三年(一一七一)正月十五日付の安芸国

     守所下文(新出厳島文書)に、「桑原郷内萩原村」を厳島社領壬生庄(現山

     県郡千代田町)の倉敷地にすると見える。桑原郷は上安村南方の長束や東西

     の両山本の地とされ、倉敷地もこの一帯に設けられたとするのが通説である

     が、萩原は上安村内にある地名で、同郷をこの地まで広げることも可能では

     あるまいか(『広島県の地名』)。

長生きは百文の徳

  文安六年(一四四九)五月二十六日条 (『康富記』3─12頁)

 

 廿六日乙巳 晴、或云、此廿日比、自若狭國、白比丘尼トテ、二百餘歳ノ比丘尼令上

 洛、諸人成奇異之思、仍守護召上歟、於二條東洞院北頬大地蔵堂、結鼠戸、人別取料

 足被一見云々、古老云、往年所聞之白比丘尼也云々、白髪之間白比丘尼ト號歟云々、

 官務行向見之云々、而不可然之由有巷説之間、今日下向若狭國云々、

 

 「書き下し文」

 二十六日乙巳 晴れ、或るひと云く、此の二十日ごろ、若狭国より白比丘尼とて、二

 百余歳の比丘尼上洛せしむ、諸人奇異の思ひを成す、仍つて守護召し上ぐるか、二条

 東洞院北頬大地蔵堂、鼠戸を結び、人別に料足を取り一見せらると云々、古老云く、

 往年聞く所の白比丘尼なりと云々、白髪の間白比丘尼と号すかと云々、官務行き向か

 ひ之を見ると云々、而れども然るべからざるの由巷説有るの間、今日若狭国に下向す

 と云々、

 

 「解釈」

 二十六日乙巳、晴れ。ある人が言うには、この二十日ごろ、若狭国から白比丘尼といって、二百余歳の比丘尼が上洛した。さまざまな人々が不思議に思っていた。そこで、守護がお呼び寄せになったのか。二条東洞院北頬の大地蔵堂で、鼠木戸を造り、人別に料金を取り、見物させたそうだ。古老が言うには、昔に聞いた白比丘尼であるという。白髪であるから、白比丘尼と称しているのかという。官務大宮長興はそこに行き、この白比丘尼を見たそうだ。しかし、二百余歳を超えているはずはないという世間の噂があるので、今日白比丘尼若狭国へ下向したそうだ。

 

 「注釈」

「守護」─若狭守護武田信賢。

「大地蔵堂」─瓦之町(中京区東洞院通二条下ル)付近にあったものと考えられます

       (『京都市の地名』)。

「官務」─大宮(小槻)長興。

 

 

*参考史料 宝徳元年(一四四九)七月二十六日条『臥雲日件録抜尤』(http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=096-0984&IMG_SIZE=1000%2C800&PROC_TYPE=ON&SHOMEI=臥雲日件録抜尤&REQUEST_MARK=&OWNER=&IMG_NO=47大喜直彦「寿命と死」(『中世びとの信仰社会史』法蔵館、二〇一一)を参照しました。

 

 廿六日、赴清水定水庵点心、(中略)庵主曰、近時八百歳老尼、自若州入洛、々中争

 覩、堅閉所居門戸、不使者容易看、故貴者出百銭、賤者出十銭、不然則不得入門也、

  (後略)

 

 「書き下し文」

 二十六日、清水定水庵に赴き点心あり、(中略)庵主曰く、近時八百歳の老尼、若州

 より入洛、洛中争ひ覩る、堅く居る所の門戸を閉ざし、使者容易に看ず、故に貴者百

 銭を出だし、賤者十銭を出だす、然らずんば則ち門に入るを得ざるなり、

 

 「解釈」

 二十六日、清水に向かい、定水庵で昼食をとった。

  (中略)

 定水庵の庵主が言うには、近頃八百歳の老尼が若狭国から都にやってきた。洛中の人々は争って老尼を見ようとした。老尼の居るところの門戸を堅く閉ざし、使者は簡単に見ることができなかった。こういうわけで、身分の高い裕福なものは銭百文、身分の低い貧しいものは銭十文を出した。そうでなければ門内に入ることができないのである。

 

 「注釈」

「定水庵」─清水寺門前二町目にあったと考えられる寺院(「清水寺門前」『京都市

      地名』)。

 

*今回の康富記の記事では二百歳、参考史料では八百歳と、老尼の年齢は異なりますが、二つの記事の時間差は二ヶ月です。常識を超えた年齢の人物が、同じ若狭国に二人いるとも思えないので、おそらく同一人物ついて記したものだと思います。噂に尾ひれがついて、年齢がいい加減に伝わったものと考えておきます。

 さて、この超人的な老尼を一目見ようと人々が押し寄せたのですが、簡単には会うことはできず、お金を払わなければ見物させてもらえませんでした。金持ちは一〇〇文(一万円ぐらいか)、貧乏人は一〇文(千円ぐらいか)と金額に差はありますが、当時は長寿で金が取れたようです。まるで、アイドルのライブに群がる現代人のようです。ただ超人的とはいえ、年老いたバアさんに会うためだけに払うには、ちと金額が高いような気もします。ですが、前掲大喜論文で指摘されているように、「長寿は神仏の加護の証であり、その人物に会って神仏の加護に触れようとした」のであれば、高くないのかもしれません。

 寿命や延命を神仏の計らいと考えなくなってしまった現代人である私は、たとえ一〇〇円であっても、長寿のバアさんをわざわざ見に行こうとは思いません。ここに中世人との大きな隔絶を感じてしまいます。現代人と比べて、命を軽んじていると評価されることもある中世人ですが、彼らも長生きはしたいようです。

久都内文書2(完)

   二 安藝國安北郡深川打渡坪付

 

         (割書)

  藝州安北郡深川「打渡坪付」事

    合 龜崎八幡領

 三反田                  物申

  田貳反九畝廿歩 米五石貳斗壹升     左近大夫

 御供田

  田壹段五畝   米貳石六斗四升     同 人

 かめ崎

  屋敷五畝    代五百文        同 人

 同所家のまへ

  畠貳畝     代八拾八文       同 人

 同所たくせん免              はゝの

  畠二畝十歩   代百九十八文      弥太郎

 ミやこや         (黒印、以下同ジ)神主内者

  畠二畝     代三拾三文  ■    四郎五郎

 馬場道ノ上                物申

  田七畝廿歩   米壹石三斗五升     左近大夫

 神田

  田壹反六畝十歩 米貳石六斗九升     同 人

 岩田

  田九畝     米壹石三斗八升     同 人

 たきた                 國貞ノ

  田壹段三畝   米壹石四斗三升     新五郎

    以上田數九段貳拾歩 ■

      米拾四石七斗

      畠數六畝拾歩

      代三百貳拾八文目銭共

    屋敷壹ヶ所 五畝

     代五百五拾五文

  并而拾五石五斗四升三合 ■

    同郡尾和八幡領    ■

 おわ                   岡ノ

  畠六畝     代百九拾八文      又左衛門

                     おわの

  田壹反一畝   米壹石七斗貳升     惣右衛門

    以上田數壹段壹畝  ■

      米壹石七斗貳升

      畠數六畝

      代貳百四文目銭共

  并而壹石九斗貳升四合 ■

    同郡福田八幡領

 牛王田                  馬場ノ

  田壹反二畝   米壹石七斗貳升     弥太郎

 馬場道ノ下                物申

  田二畝     米二斗六升       左近大夫

 堂迫                  たなもり

  田五畝     米二斗七升       四郎五郎

 しゝまい神田八月十五日おりい免        馬場ノ

  田六畝     米壹石六升       弥太郎

    以上田貳段五畝 ■

      米三石六斗壹升 ■

    同郡隠地八幡領

                     すくも塚ノ

  田九畝     米九斗九升       三郎左衛門

    同郡新宮神田

 まん所田                馬場ノ

  田九畝拾歩   米壹石四斗九升     新五郎

 宮前                  神主

  田貳反五畝   米貳石九斗三升     平左衛門

 同所

  畠二畝     代三拾三文       同 人

 新宮ノわき

  田四畝     米四斗         同 人

 物申屋敷宮わき畠加之

  屋敷三畝    代貳百文        同 人

 新宮神田道捽               物申

  田三反廿歩   米四石         左近大夫

 御供免                  物申

  田壹反壹畝   米壹石六升       平左衛門

 新宮神田

  田廿歩     米五升 ■       同 人

    以上田數八段二畝

      米九石九斗三升 ■

      畠數貳畝

      代三拾三文目銭共

    屋敷壹ヶ所  三畝

      代貳百拾六文目銭共

  并而拾石壹斗八升 ■

  惣以上三拾貳石二斗四舛七合代方共

   (1599)          佐竹 (元眞) 

   慶長四年九月六日   ■   三郎右衛門(花押)

                 三輪 (元徳

                  加 賀 守

                 藏田 (就貞)

                  東 市 介

                 兼重 (元續)

                  五郎兵衛尉

       祝師

        左近大夫殿

       新宮祝師

        平左衛門尉殿

 

*書き下し文・解釈は省略しました。

 

 「注釈」

亀崎八幡」─亀崎八幡神社安佐北区高陽町中深川。三篠(みささ)川の南岸堂ヶ迫

       (どうがさこ)に鎮座する。八幡三神を祭神とした旧村社。永正二年

       (一五〇五)十二月十三日付の毛利弘元下知状(久都内文書)によれ

       ば、久都内民部大夫が深河(ふかわ)上分大小社頭奉幣ならびに注連役

       を、先例に任せ勤仕することを認められており、さらにこの文書には天

       文一〇年(一五四一)の元就の証判もある。久都内氏は亀崎八幡宮の祠

       官で、弘元の時代にはすでに二十七代を経ていたと伝える(芸藩通

       史)。

       毛利氏支配下にあった慶長四年(一五九九)の安北郡深川打渡坪付(久

       都内文書)には、亀崎八幡宮とその注連下(配下)にあった各社の社領

       が書き上げられ、それによると亀崎八幡宮領十五石五斗四升三合・尾和

       (おわ)八幡(現高陽町下深川)領一石九斗二升四合・福田八幡(現東

       区安芸町福田)領三石六斗一升・隠地(おんじ)八幡(現高陽町中深

       川)領九斗九升・新宮神田(同)十石一斗八升、総計三十二石二斗四升

       七合であった。またこの坪付には「たくせん免」「馬場」「しゝまい神

       田」など、当社の神事や芸能の内容をうかがわせる字名が記されている

       (『広島県の地名』)。

 

  亀崎八幡領

「目銭」─「めせん」。「もくせん」「めぜに」とも読む。①一〇〇文未満の銭を束ね

     て一〇〇文として通用させる慣行(省陌法)において、省かれる銭。「五百

     文めせん十五文」といえば一〇〇文について三文の目銭となる(『古文書古

     記録語辞典』)。代銭の名目上の合計は「三二八文」で、畠の各項目を合計

     した実際の額は「三一九文」です。したがって、差し引き「九文」、つまり

     一〇〇文につき三文が目銭となります。

「并而拾五石五斗四升三合」─「并」は「併」のことで「あわせて」と読むものと考え

              られます。また、米の合計は「十四石七斗」ですから、

              差し引き「八斗四升三合」と代銭の合計「八八三文」が

              等価となります。したがって、この時の和市(米と銭の

              交換比率)は、およそ一石=一貫文となります。

 

  尾和八幡領

「代貳百四文」─畠六畝の代銭は一九八文ですので、目銭は六文になります。

「并而壹石九斗貳升四合」─米の合計は一石七斗二升なので、差し引き二斗四合が代銭

             二〇四文と等価になります。

 

  福田八幡領

「牛王田」─牛王宝印作成費用を捻出する田か。

「おりい免」─未詳。八月十五日放生会で演じられる獅子舞の費用を捻出する田か。

 

「祝師」─「はふりし」。「祝(はふり)」のこと。神社に属して神に仕える職。ま

     た、その人。しばしば神主・禰宜と混同され、三者の総称としても用いられ

     るが、区別する場合は、神主の指揮を受け、禰宜よりもより直接に神事の執

     行に当たる職をさすことが多い。その場合、神主よりは下位であるが、禰宜

     との上下関係は一定しない(『日本国語大辞典』)。

久都内文書1

解題

 亀崎神社は、戦国時代には高陽町(広島市)の東半分にあたる落合・深川・狩小川の地域と安芸町広島市)の東半分を占める福木地区を注連下(しめした)とする大社であったと推察される。現在は旧深川村の鎮守社になっている。

 

 

   一 毛利弘元下知状并同元就証判(切紙)

 

                  (任先例可勤之)

 深河上分大小社頭奉幣等并注連役、[      ]者也、仍下知如件、

     (1505)

     永正貳年

       十二月十三日         弘元(花押)

   (異筆)(1541)

    「天文十年

       十二月廿三日         元就(花押)」

     民部大夫所へ

 

 「書き下し文」

 深河上分の大小社頭の奉幣等并に注連役、先例に任せ之を勤むべき者なり、仍つて下

 知件のごとし、

 

 「解釈」

 深川上分の大小の神社の奉幣や管轄する役は、先例のとおり努めるべきものである。よって、下知状の内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「深河上分」─深川郷は、現在の広島市安佐北区高陽町の東半分で、下深川・中深川・

       上深川・狩留家・小河原・福田(現東区)あたり。十六世紀になると、

       深川は上分と下分に分かれる(『広島県の地名』)。

「民部大夫」─未詳。亀崎神社の神主か。

土井泉神社文書4(完)

   四 毛利氏奉行人連署請取状

 

       請取銀子之事

 社領辻  壹石九斗七升打渡無之、

   右之銀合 貳分壹リン七毛

        内貳輪  筆功

 右之前爲御礼請取所如件、

    (文禄)              (元武)

     文五 三月十二日      國司備後守(花押)

                     (周澄)

                   少 林 寺(花押)

                     (元宗)

                   山田吉兵衛(花押)

       飯室祝師

          神右衛門尉殿

 

 「書き下し文」

       請け取る銀子のこと、

 社領の辻 一石九斗七升、打渡之無し、

   右の銀合わせて 二分一厘七毛、

           内二厘  筆功、

 右の前御礼として請け取る所件のごとし、

    (1596)

     文五 三月十二日      國司備後守(花押)

   (以下略)

 

 「解釈」

       受け取った銀子のこと。

 社領の合計は、一石九斗七升。まだ引き渡しはない。

   右の銀。合計二分一厘七毛。そのうち二厘は筆功である。

 右の銀子は、お礼として請け取るものである。

 

 「注釈」

「筆功」─習字に熟達すること。また、その人。「筆耕」のことであれば、写字によっ

     て報酬を受けること。また、その人(いずれも『日本国語大辞典』)。どち

     らにせよ、どのような「功」なのか、よくわかりません。社領に関する権利

     文書を書いてもらった礼銭のようなものかもしれません。

「打渡」─引き渡すことか(『日本国語大辞典』)。

土井泉神社文書3

   三 毛利氏奉行人連署知行付立

 

 飯室之内八幡領事、分米壹石九斗七升定、右之分前々任引付立之由

 候、社役等之儀被相調候事肝要候、仍一筆如件、

   (文禄)           山縣

    文三十月廿六日       宗兵衛(花押)

                 福井

                  太郎兵衛

                 錦織

                  太郎左衛門

                 日隈

                  神兵衛

     物申神右衛門尉殿

 

 「書き下し文」

 飯室の内八幡領の事、分米一石九斗七升定、右の分前々の引付に任せ立て置かるるの

 由に候ふ、社役等の儀相調へられ候ふ事肝要に候ふ、仍つて一筆件のごとし、

    (1594)          山縣

    文禄三年十月二十六日    宗兵衛(花押)

   (以下略)

 

 「解釈」

 飯室内の八幡領のこと。分米は一石九斗七升。この分は以前の訴訟文書のとおりに、はっきりと社領として確立させなければならない、とのことです。社役などの件は、不足のないように備えることが大切です。そこで、一筆認めた内容は、以上のとおりです。

 

 「注釈」

「飯室」─安北郡広島市安佐北区安佐町飯室を領域とする国衙領。当村は「安芸榑」

     で名高い国内有数の杣地域の一角を占めていた(『講座日本荘園史 中国地

     方の荘園』吉川弘文館、一九九九)。

「分米」─斗代に面積を乗じて算出された貢租の米の高。銭で納入すると分銭(『古文

     書古記録語辞典』)。

「引付」─後日に判例とするため、詳細に書き留めておく訴訟に関する記録や文書。ま

     た、これをもとに訴訟を審判すること(『日本国語大辞典』)。

「物申」─祝詞などを奏すること(『日本国語大辞典』)。祝詞の奏上を役目とする神

     職か。

土井泉神社文書2

    二 杉原次郎左衛門尉井尻又右衛門尉連署預ケ状

 

 (安藝安北郡

 飯室之内

 預ケ申神田之事

   合米三石八斗八升

    畠半三十歩代七十貳文

    屋敷一つ

 

  右之内にて米貳石立申候、

           (放生會)

    但貳俵者八月之法しやう江同よころ二まつり使之、貳俵者九月九日

     流鏑馬        (修理)

    御やふさめ、用之、壹俵はしゆりあてかひおく候、

     (1591)

     天正十九年

      十二月十四日      杉原次郎左衛門尉(花押)

                  井尻又右衛門尉(花押)

      物申神右衛門尉殿

 

 「書き下し文」(漢字仮名交じりにしました)

 飯室の内

 預け申す神田の事

   合わせて米三石八斗八升

    畠半三十歩代七十二文

    屋敷一つ

 

  右の内にて米二石立て申し候ふ、

    但し二俵は八月の放生会、同じくよころ二まつりニ之を使ふ、二俵は九月九日

    御流鏑馬ニ之を用ゐる、一俵は修理ニ充て行ひ置く候ふ、

 

 「解釈」

 飯室のうち、預け申す神田のこと。

   都合米三石八斗八升。

    畠半と三十歩(二一〇歩)の代七十二文。

    屋敷一つ。

 

  右の中から、米二石を差し出し申し上げます。

    ただし、二俵は八月の放生会、同じくよころ二祭でこの米を使う。二俵は九月九日の流鏑馬でこれを使う。一俵は修理に給与します。

 

 「注釈」

「飯室」─安北郡広島市安佐北区安佐町飯室を領域とする国衙領。当村は「安芸榑」

     で名高い国内有数の杣地域の一角を占めていた(『講座日本荘園史 中国地

     方の荘園』吉川弘文館、一九九九)。

「杉原次郎左衛門尉」─未詳。毛利の家臣か。

「井尻又右衛門尉」─毛利の家臣か(村井良介「芸備国衆家臣団一覧表」、

          https://core.ac.uk/download/pdf/35266460.pdf)。

「よころ二まつり」─未詳。

「九月九日」─重陽節句か。流鏑馬神事を行っていたようです。

「修理」─未詳。

「一俵」─差し出した米は二石で、それを合計五俵に分けて祭祀や給与分として使用し

     ています。したがって、この地域の一俵は四斗俵であったと考えられます。

「物申」─祝詞などを奏すること(『日本国語大辞典』)。祝詞の奏上を役目とする神

     職か。

土井泉神社文書1

 解題

 この神社は天承元年(一一三一)甲斐国から勧請したものと伝える。江戸時代には飯室村八幡宮と呼ばれている。戦国時代には飯室にある土井城主三須氏と深い関係にあり、引地直種は「郡中国郡志」によると三須氏の家老である。社家河野氏は天文二十年(一五五一)、甚五左衛門が熊谷有直より神主を仰せつけられてからその職を相伝しているという。

 

 

   一 安芸国安北郡飯室八幡宮神田注文

 

     御神田

       安北郡

 一田三百目  宇津

 一田貳百目  市之奥

 一田貳百目  引地之前

 一田貳百目  たかとり

 したちより

 一田百目   こふけ

   合壹貫目之辻

     (1589)         引地宗左衛門尉

     天正十七年七月五日      直種(花押)

       河野弥太郎殿

 

*書き下し文・解釈は省略しました。

 

 「注釈」

「飯室八幡宮」─土井泉神社のこと。安佐北区安佐町飯室土居。鈴張川の東の山際、旧

        庄原街道の東側に鎮座し、品陀別尊を主神に祀る。旧村社。天承元年

        (一一三一)甲斐国から勧請したと伝え、中世には太田川沿いの宇津

        にあって飯室八幡宮と称したが、土居城主退転後に社殿を現在地へ移

        した。社蔵の天正一七年(一五八九)七月五日付の神田注文は、土居

        城主三須氏の家老引地直種が、神主河野弥太郎に宛てたもので、「宇

        津・市之奥・引地之前・たかとり・こふけ」などの地名がみえる。同

        一九年一二月一四日の杉原次郎左衛門尉井尻又右衛門尉連署預ケ状

        (社蔵)には、当社の神事として八月放生会・よころまつり・九月九

        日流鏑馬が記されている。

「辻」─合計(『日本国語大辞典』)。