周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

山野井文書19

   一九 来島通康安堵状

 

 能美嶋本地之内、除三吉浦分、残七拾貫貳百目之事、所申合也、坪付別紙

 在之、

 右、早任先例之旨、進退領掌不相違之状如件、

    (1563)

    永禄六年七月五日         通康(花押)

         (景秀)

       能美民部卿丸殿

 

 「書き下し文」

 能美嶋本地のうち、三吉浦分を除く、残り七拾貫二百目の事、申し合はする所なり、

 坪付別紙之在り、

 右、早く先例の旨に任せ、進退領掌相違有るべからざるの状件のごとし、

 

 「解釈」

 能美嶋でもともと知行していた所領のうち、三吉浦を除いた、残り七十貫二百文の得分のこと。話し合いをして取り決めたところである。坪付注文は別紙にしたためた。

 右の件については、早く、先例の内容のとおり所領を支配することに間違いがあるはずもない。

 

 「注釈」

「三吉浦」─江田島市沖美町三吉。

「目」─未詳。18号文書では、同じような表記のところで「足」という表現を使って

    いました。これも「残七拾貫貳百文足」と同じ意味なのでしょうか。もしそう

    なら、「目」も「足」も得分ぐらいの意味になるのでしょうが、よくわかりま

    せん。18号文書「注釈」参照。

来島通康」─伊予河野氏の家臣で、来島水軍を率いた武将。

「能美民部卿丸殿」─九代能美景秀。

山野井文書18

   一八 来島通康安堵状

 

 (安芸佐西郡

 一能美嶋之内、本地屋敷分三拾六貫百六十文足之事

 一同嶋豊後守先知行之内、九貫四百五十文足之事

  所申合也、坪付別紙在之、

  右、早任先例之旨、進退領掌不相違之状如件、

     (1563)

     永禄六年六月十日        通康(花押)

         (景秀)

        能美四郎殿

 

 「書き下し文」

 一、能美嶋の内、本地屋敷分三拾六貫百六十文足の事、

 一、同嶋豊後守先に知行するの内、九貫四百五十文足の事、

  申し合はする所なり、坪付別紙之在り、

  右、早く先例の旨に任せ、進退領掌相違有るべからざるの状件のごとし、

 

 「解釈」

 一、安芸佐西郡能美島の内、もともと知行していた土地・屋敷分三十六貫百六十文の得分のこと。

 一、同島で豊後守が以前に知行していた所領のうち、九貫四百五十文の得分のこと。

  以上、話し合いをして取り決めたところである。坪付注文は別紙にしたためた。

  右の件については、早く、先例の内容のとおり所領を支配することに間違いがあるはずもない。

 

 「注釈」

「足」─課役などの負担、また負担する人、および費用、経費、収入などの意に広く用

    いられる。料足、公事足、無足のように他の語の下につけて用いられることが

    多い。銭のことを「おあし」という(『古文書古記録語辞典』)。ここでは安

    堵された土地の得分ぐらいの意味でしょうか。

「豊後守」─未詳。

「坪付」─田地の所在地と面積を条里制の坪にしたがって帳簿上に記載するもの(『古

     文書古記録語辞典』)。

来島通康」─伊予河野氏の家臣で、来島水軍を率いた武将。

「能美四郎」─九代能美景秀。

山野井文書17

   一七 来島通康假名書出(折紙)

 

   假名

         四郎

    永禄元年(1558)

      八月六日           通康(花押)

         (千ヵ)

        能美⬜︎壽丸殿

          (景秀)

 

 *書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

来島通康」─伊予河野氏の家臣で、来島水軍を率いた武将。

 

「仮名書出」

 ─「仮名(けみょう)」は、武士が実名の他につけた名前(『日本国語大辞典』)で、主君に当たる人物がその名を授けた文書のことと考えられます。

 

来島通康が能美千壽丸に四郎という名乗りを授けたのだと考えられます。

山野井文書16

   一六 大内氏奉行人連署奉書

 

 (景頼)

 父世次一跡事、今日(割書)「弘治貳十ノ廿一」任御判旨続之、弥

 可奉公之忠義之由、依 仰執達如件、

 

    (1556)            (小原隆言)

    弘治貳年十月廿一日        安芸守(花押)

                    内藤隆世)

                     弾正忠(花押)

        (景秀)

       能美万菊殿

 

 「書き下し文」

 父世次一跡の事、今日(割書)「弘治貳十ノ廿一」御判の旨に任せ之を相続せしむ、

 弥奉公の忠義を抽でらるべきの由、仰せに依り執達件のごとし、

 

 「解釈」

 父世次の跡目のこと。今日弘治二年十月二十一日の安堵状の内容のとおりに、跡目を相続させる。ますます奉公の忠節を人一倍あらわすべきであるとの仰せである。

 

 「注釈」

「世次」─八代能美景頼。

「弘治貳十ノ廿一御判」─15号文書。大内義長安堵状。

「能美万菊」─九代能美景秀。

山野井文書15

   一五 大内義長安堵状

 

          (義長)

          (花押)

 (景頼)              大内義隆

 父世次一跡事、任天文十四年五月六日龍福寺殿裁許同廿二年二月廿二日證判等之

     (景秀)

 旨、能美満菊相続不相違之状如件、

    (1556)

    弘治貳年十月廿一日

 

 「書き下し文」

 父世次一跡の事、天文十四年(一五四五)五月六日龍福寺殿裁許同廿二年(一五五

 三)二月廿二日證判等の旨に任せ、能美満菊相続相違有るべからざるの状件のごと

 し、

 

 「解釈」

 父世次の跡目のこと。天文十四年五月六日龍福寺殿大内義隆の裁許、同二十二年二月二十二日の證判等の内容のとおりに、能美満菊景秀の相続に間違いのあるはずもない。

 

 「注釈」

「世次」─八代能美景頼。

「龍福寺殿裁許」─未詳。大内氏奉行人奉書か。残存していません。

「同廿二年二月廿二日證判等」─未詳。陶晴賢の安堵状か。残存していません。

「能美満菊」─九代能美景秀。