周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

田所文書1 その9

    一 安藝国衙領注進状 その9

 

   應輸田二丁七反         例代

  (高宮郡

  佐々井村七丁二百卅歩

   除不輸免丁五反) 六丁五反

    即新宮免一丁

    一宮免二丁七反

     八月一日御供田一丁一反

     山王社免一丁

     御神楽免六反

     惣社仁王講免一反      行西

     瀧蔵寺免三反        弥冨

     舞人免二反         有光

     調所勘料田         朝資跡

     左方税所勘料田二反     遠宗 今者淂重

        

   (入广輸 在廳屋敷一丁)      (王一丸)

      一丁                 

    應輸田五反大         官米三斗代反大

     三斗代七反

  (石)(高宮郡

   ⬜︎浦村四丁五反三百八十歩

    除不輸免三丁二反

     即新宮免一丁

     一御社免二丁二反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

      御供田一丁二反

      御神楽免一丁

           (半)

    應輸田一丁三反斗       三斗代

  高宮郡

   苅田郷四丁一反二百卅歩

    除不輸免二丁一反六十歩

     崇道天皇免六十歩

     八幡宮御神楽免一丁

     五ヶ寺免一丁一反

    應輸田二丁百八十歩      例代

   同久武村五丁六反

    除不輸免二丁六反卅歩

               廿歩

     八幡宮免一丁五反小四十歩

      御神楽免九反

      無量壽院免六反百四十歩

     五ヶ寺下地大

     久武公廨田一丁

           三百廿歩

    應輸田二丁九反斗卅歩

     官米五斗代七反

           三百廿歩

     例代二丁二反斗卅歩

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   𣃥次村五丁百廿歩

    除不輸免四反

     税所勘料田二反大      清遠

     御厩案主免一反小      有福

    應輸田四丁六反小     官米五斗代

   高田郡

   粟屋郷十八丁一反三百歩

    除不輸免二丁七反大

     五ヶ寺例免五反

     倍従免二反大        今富

     久武公廨田二丁

    應輸田十五丁四反六十歩

     葉本村二丁四反小      官米五斗代

     郷分十二丁九反三百歩    例代

   高田郡

   長田久武六反三百歩

    除不輸免六反三百歩

     五ヶ寺例免一反三百歩

     久武公廨田五反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「佐々井村」─現八千代町佐々井。文明二年(一四七〇)六月三日付の室町幕府奉行衆

       下知状(毛利家文書)をもって毛利豊元は将軍義政より「宍戸駿河守跡

       但除秋野粟屋等」の領地を預けられたが、同七年十一月二十四日付の毛

       利豊元譲状(同文書)によると、このうちに「佐々井」の地が含まれて

       いる。なお永正四年(一五〇七)のものと思われる毛利興元上洛浮役日

       記(同文書)に「七十五貫 佐々井」とある。「閥閲録」所収の天文十

       九年(一五五〇)十二月二十日付の兼重五郎兵衛家文書によれば「佐々

       井之内常定名」の田二町、同じく同二十三年九月二十五日付文書には

       「佐々井村七拾五貫」の地が毛利隆元によって兼重弥三郎に給せられて

       いる。また同書所収の永禄十年(一五六七)十二月五日付の重見与三左

       衛門家文書には「佐々井村之内森兼名」が木原元次に渡されている

       (『広島県の地名』)。

「瀧蔵寺」─前記国衙領注進状に「瀧蔵寺」と記される寺は古く竜蔵寺山にあり、「高

      田郡村々覚書」に「先年ハ坊数拾弐坊、下寺御座候由、何年以前より退転

      仕候も知レ不申候」とある(「志道村」『広島県の地名』)。

「調所」─「ちょうしよ」とも。もとは調の収納を掌る役所であったが、平安末期には

     軽物(繊維類)の収納、度量衡の管理、納入製品の価格決定、返抄の発給を

     掌った(『古文書古記録語辞典』)。

石浦村」─吉田町西浦。嘉禎四年(一二三八)四月十七日の伊都岐島社廻廊員数注進

      状案(新出厳島文書)に「石浦」とあるのがこの地と思われ、古くは厳島

      神社社領であった。村内の平家ヶ丸城跡南麓に厳島神社跡があり、「安芸

      国神名帳」に記される四位石占明神がそれと言われる。のち毛利氏の領有

      となり、文明七年(一四七五)十一月二十四日付の毛利豊元の千代寿丸

      (弘元)宛譲状(毛利家文書)に「西浦」の地名が見える。また明応四年

      (一四九五)三月十二日付の棟別銭支配帳(同文書)に「石浦分壱貫五百

      十もん」が見える。天文十九年(一五五〇)八月十五日、毛利隆元厳島

      神社に寿命長遠・武運長久などの祈願料として「安芸国高田郡吉田庄之内

      小山七十五貫 西浦七十五貫」を寄進している(「芸藩通志」所収厳島

      書)。他にも西浦・小山のうち別に百五十貫目を棚師房顕の庶路用として

      いる(野坂文書)。天正十九年(一五九一)ごろには厳島神社内宮外宮の

      毎月二十五日の月次連歌入用料として西浦村から一二九石三斗四升が送ら

      れている(同文書)。

「一御社」─一宮のことか。厳島神社

苅田郷」─「勝田村」現八千代町勝田。「和名抄」に記される高宮郡苅田郷の地とさ

      れ、苅田郷は嘉応三年(一一七一)正月日付の伊都岐島社領安芸国壬生庄

      立券文(新出厳島文書)に、壬生庄(現山県郡千代田町)の四至のうちに

      「限東多治比苅田簗原堺」と記される。また文暦二年(一二三五)六月五

      日付で幕府が安芸国守護藤原親実に「原郷」以下の所領を領知された関東

      下知状案(同文書)に散在名田四ヵ所の一つとして「苅田郷内」とある。

      下って応永十五年(一四〇八)四月九日付の毛利光房に宛てた山名時凞書

      状(毛利家文書)にも「苅田、佐々井」の名が見える。享徳三年(一四五

      四)四月二十八日の内宮役夫工米段銭請取状案(同文書)に毛利凞元知行

      関係のうち「苅田郷内弥次村三段分」が記されている。また文明二年(一

      四七〇)六月三日には、毛利豊元が宍戸持朝を撃破してその旧領を将軍義

      政から授けられたが、そのなかに苅田の地もあり、同七年十一月二十四日

      に嫡子弘元に宛てた譲状(同文書)にも苅田が明記されている(『広島県

      の地名』)。

「案主」─「あんず」とも。①荘園の下級荘官。公文・下司の指揮下で文書の作成・保

      管の仕事を行った。②造寺司・六衛府検非違使庁や公家政所、勧学院

      所の職員。多くは清原・中原・紀氏などの六、七位の官人であった(『古

      文書古記録語辞典』)。ここでは厩の役人の給免田を指していると考えら

      れます。

「長田」─現向原町長田。「和名抄」所載の高田郡風速郷に含まれる地で、大治二年

     (一一二七)三月日付の安芸国高田郡風早郷田畠等立券文(新出厳島文書)

     に「長田村」と見え、三十余の名と段数および「本垣村」を含む長田村の桑

     の本数が千五百五本と記される。風早郷内の他の村々と同じく平安時代末期

     には厳島社領となり、健保四年(一二一六)にはその神主職で鎌倉御家人

     もなっていた佐伯(内藤)為弘が地頭職を得、以後この一族よって地頭職が

     伝領される(「閥閲録」所収内藤次郎左衛門家文書)。厳島神社領としては

     中世後期にまで存続し、応永四年(一三九七)六月日付の厳島社領注進状

     (巻子本厳島文書)にも「諸免田等」の一つに「長田郷」が記される(『広

     島県の地名』)。