周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

山野井文書9

   九 大内義興下文

 

         (義興)

          (花押)

 下            能美縫殿允仲次

   可早領知安藝國能美嶋中村内拾六石地(割書)「能美左近将監先知行」

   事

 右、今度藝州忩劇、㝡前以来別而奔走神妙之条、爲勧賞充行也者、早守

              (節)

 先例領知、弥可忠切之状如件、

     (1525)

     大永五年六月十三日

 

 「書き下し文」

 下す   能美縫殿允仲次

   早く領知せしむべき安藝国能美嶋中村中村の内拾六石の地(割書)「能美左近将

   監先に知行」事、

 右、今度藝州の忩劇、最前以来別して奔走神妙の条、勧賞のため充て行う所なり、て

 へれば早く先例を守り領知を全うし、弥忠節を励むべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 下す 能美縫殿允仲次

   早く領有するべき安芸国能美島中村内十六石の地(割書)「能美左近将監が先に

   領有していた」のこと。

 右、今度の安芸国の争いごとで、当初より格別に奔走したことは感心なことであるので、その功労を賞して給与するところである。というわけで、早く先例のとおり知行を全うし、ますます忠節を尽くすべきである。

 

 「注釈」

「能美縫殿允仲次」─七代仲次(秀依)。

「藝州忩劇」─大内氏厳島神主職を望む友田興藤との争いのことか。

不当な出世で大喧嘩! 出世間なのに…

  文安四年(一四四七)七月十四日条 (『建内記』9─18)

 

 十四日、甲辰、天霽、

  (中略)

 後聞、                     (雪心等柏)

 今日相國寺有物忩事、沙弥・喝食等頻悪行有閇籠之企、住持加制止、以行者・力者

 等警固之、沙弥不承引及刃傷墜命云々、禅家繁昌之餘、動如此事連續及自滅、可

       

 憐々々、此事、喝食一両人就強縁望得度、直沙門不経沙弥許容了、仍上首沙弥愁

 超越望比丘、不承引、仍催沙喝等閇籠輪蔵有喧嘩、是訴住持・都聞等云々、住持退

 院之時、沙喝以飛礫打破輿後、長老打損腰云々、

 

 「書き下し文」

 後に聞く、今日相国寺に物忩の事有り、沙弥・喝食等頻りに悪行し閉籠の企て有り、住持制止を加へ、行者・力者等を以て之を警固す、沙弥承引せず刃傷に及び命を墜とすと云々、禅家繁昌の余り、動もすれば此くのごとき事連続し自滅に及ぶ、憐れむべし憐れむべし、此の事或いは喝食一両人強縁に就き得度を望む、直に沙門(割書)「沙弥を経ず」許容し了んぬ、仍て上首の沙弥超越を愁ひ比丘を望むも、承引せず、仍て沙喝等を催し輪蔵に閉籠し喧嘩有り、是れ住持・都聞等を訴ふと云々、住持退院の時、沙喝飛礫を以て輿を打ち破る後、長老腰を打ち損なふと云々、

 

 「解釈」

 後で聞いた。今日相国寺で物騒なことがあった。沙弥と喝食たちがたびたび悪事を行い、閉籠を企てた。住持の雪心等柏は閉籠を止めようとして、行者と力者たちを使って警固した。沙弥は制止を聞かず刃傷沙汰に及び命を落としたそうだ。禅寺は賑い栄えるあまり、場合によってはこのような事件が続き、自滅する状態にまでなる。気の毒なことである。なかでもこの件は、喝食の一人か二人が強力な縁故者について出家を望み、沙弥を経ずにすぐに比丘になることを、相国寺が認めてしまったことによる。そこで、首座の沙弥が超越されたことを嘆き訴え、正式な僧侶になることを望んだが、住持は承諾しなかった。そこで、他の沙弥や喝食たちを呼び集め、転輪蔵に閉籠して喧嘩した。首座の沙弥は住持と都聞を訴えたそうだ。住持がその職を退いたとき、沙弥や喝食たちは小石を投げて、住持の乗っている腰を壊した後、住持は腰を怪我したそうだ。

 

 「注釈」

「住持」

 ─相国寺住持四九世、雪心等柏。一四四六年九月二二日〜一四五九年一月二二日(相国寺寺住持位次、http://www.shokoku-ji.jp/s_rekidai.html)。

 

「沙弥」

 ─①剃髪して十戒を受けた未熟な僧。②剃髪しているが妻子があり在家の生活をしているもの(『古文書古記録語辞典』)。

 

「喝食」

 ─禅宗で、大衆に食事を知らせ、食事について湯、飯などの名を唱えること。また、その役をつとめる僧(『日本国語大辞典』)。

 

「行者」

 ─あんじゃ。禅宗で、未だ得度せず、寺にあって諸役に給仕する者(『古文書古記録語辞典』)。

 

「力者」

 ─①公家・寺社・武家に仕えた力役奉仕者。剃髪しているが僧侶ではない。駕輿・馬の口取り、警固・使者などをつとめる。荘園領主の使者として荘園現地へ下向し、年貢・公事の催促を行うこともあった。②青色の衣を着る者を青法師、白色の衣を着る者を白法師と称した(『古文書古記録語辞典』)。

 

「都聞」─禅宗寺院の経済面を担当した東班衆の最高位の役職。

 

*寺院の世界でも、「超越」が大きな問題になっていたようです。公家の世界では、家格・正嫡庶流の違い・臨時の功績・強力な後ろ楯などによって、上位者を超越して昇進することがあったそうです。超越されて不満をもった公家は、不出仕・籠居といった抵抗の姿勢を見せる場合もあれば、出家してしまう場合もありました。道理のない超越であれば、こうした抵抗はやむなし、と社会的に容認されていたようです(百瀬今朝雄「超越について」『弘安書札礼の研究』東京大学出版会、2000年)。

 今回の沙弥の閉籠事件も、公家と同様に、超越に対する抵抗の手段だったのでしょう。ただし、暴行殺人事件にまで展開しているので、公家に比べると随分乱暴な事態になっています。当時の寺院関係者はかなり気が荒いようです。

 詳しくはわかりませんが、禅宗寺院(相国寺)では、喝食から沙弥、そして比丘へというように、だんだんと出世?していくようです。喝食から比丘へという一足飛びの出世は、道理に反した人事だったのでしょう。出世間であるはずの寺院社会にも、俗世間にあるような強力な縁故が、しっかりと反映されているようです。

 公家の世界では、抵抗が実を結んで、超越の人事が取り消されたり、被超越者が超越者をさらに超越して出世していったりすることもあったそうです(前掲百瀬論文)。今回の沙弥の比丘昇進の嘆願は認められませんでした。おそらく定員も固定されているでしょうから、比丘への昇進は見送られたのでしょうが、それにもまして喝食の後ろ楯が強力だったのでしょう。公私混淆は、公家や武家の世界だけではないようです。

山野井文書8

   八 大内氏奉行人連署書状(切紙)

 

   (能美)                     (弘中)(被)

 就御同名与三言上之儀、爲御尋之⬜︎正長披官候、於

 (儀)                     (謹言)

 旨⬜︎者見申状候之条、[   ]被遣候、恐々⬜︎⬜︎、

      八月廿八日        正長(花押)

                   景忠(花押)

 

 「書き下し文」

 御同名与三言上の儀に就き、御尋ねを成さるべきの⬜︎のため正長被官を遣はし候ふ、

 旨儀に於いては、申状に見え候ふの条、[  ]遣はされ候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 御同名の能美与三が訴え申した件について、大内義興様がお尋ねになろうとしたため、弘中正長の被官を遣わします。与三の所存については、申状に見えておりますので、そちらにお遣わしになりました。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「御同名与三」─未詳。

「正長」─弘中正長。大内氏奉行人。

「景忠」─未詳。

山野井文書7

   七 大内氏奉行人連署奉書(切紙)

 

 去三日、至厳島敵船相懸之處、警固船衆懸合即時追散、殊僕従二人被矢疵

       (越後)     (興房) (遂披露)           (之由)

 次第、弘中[  ]守書状等陶尾張守[  ]慥被知食畢、尤神妙[  ]、

          (執達)

 所仰出也、仍⬜︎⬜︎如件、

    (大永三ヵ)(1523)      (杉興重)

    [   ]年十月十三日     兵庫助(花押)

                    散 位(花押)

 

 「書き下し文」

 去んぬる三日、厳島に至る敵船相懸かるの處、警固船懸け合ひ即時追ひ散らす、殊に僕従二人矢疵を被るの次第、弘中越後守の書状等を陶尾張守披露を遂げられ、慥かに知ろし食され畢んぬ、尤も神妙の由、仰せ出ださるる所なり、仍て執達件のごとし、

 

 「解釈」

 去る十月三日、厳島にやってきた敵船が攻め掛かったところ、能美方の警固船が敵船に激しく攻め掛かり、すぐに追い散らした。とくに能美方の配下二人が矢傷を被った事情については、それを知らせた弘中越後守武長の書状等を、陶尾張守興房が大内義興様に披露し、たしかにご存知になった。いかにも感心なことであるとの仰せである。そこで、以上の内容を通達する。

 

 「注釈」

「弘中越後守」─大内氏家臣。永正五年(一五〇八)、大内義興に従って上洛。山城守

        護代(『戦国人名事典』)。

山野井文書6

   六 大内氏奉行人連署奉書(切紙)

 

                  (安芸佐西郡)(安南郡

 就海上搦之儀、警固船去月十七日夜至廿日市并能美江田嶋押懸、敵船壹艘引取之

     (武長)

 次第、弘中越後守注進之趣、慥被知召訖、弥忠節可肝要之由所

 出也、仍執達如件、

 

        (1523)          (杉興重)

        大永三年十月四日       兵庫助(花押)

                       散 位(花押)

          (仲次)

        能美縫殿允殿

 

 「書き下し文」

 海上搦めの儀に就き、警固船去月十七日夜廿日市并に能美・江田島に至り押し懸かり、敵船壹艘を引き取るの次第、弘中越後守注進の趣、慥かに知ろし召され訖んぬ、弥忠節肝要たるべきの由仰せ出さるる所なり、仍て執達件のごとし、

 

 「解釈」

 海上捕縛作戦の件について、能美方の警固船が先月の九月十七日の夜に廿日市や能美・江田島に向かって攻めかかり、敵船一艘を奪い取った事情を、弘中越後守武長が注進し、大内義興様はたしかにご存知になりました。ますます忠節を尽くすことが大切である、と義興様が仰せである。そこで、以上の内容を通達する。

 

 「注釈」

海上搦」─海上で敵船を捕縛する作戦か。

「警固船」─中世の水軍、海賊や敵水軍から輸送船を守る軍船。

「弘中越後守」─大内氏家臣。永正五年(一五〇八)、大内義興に従って上洛。山城守

        護代(『戦国人名事典』)。

「能美縫殿允殿」─七代仲次(秀依)。