周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

須佐神社文書 その5(完)

 一 須佐神社縁起 その5

 

*本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

 一ひごのくにせらごおりひち村、むとうざんきおんしやふじやこずてんのふちん

  ざしだいき

  座次第記

        さんじや

                          おうミやうちこさつす

  ひかしにじやどくきちんてんのふ、なかにこずてんのふ大宮内座、

  西しやふしよいてんのふ

        まつしや

  ほんみやよりひがしにいざなぎいさなみ、わがきんたち八王子、

  ほんミやにしにりやふぐうじやふにてのきさきはりさいによ、御しんかうの時、

  をふ

  大ごせんとゆふ、

    さんはんのおどり、しるすおよばず、

  どうてんに、いつくしまさん所、みたらしみつはめの明神、りふおうやしろ、

  おふやまづみのめうぢん、さんのふ七社の別宮、

    さいれいしんかふのしだい、おんさきはらいわ、ひゑの治郎左衛門、

  いちのみこし、ゆきざね、ゆきもり、むねかね、おんとも、こんのいち、ねき、

  はなみこいつきん、ありやふみこにきん、くろふ十町いつきん、この際、をふつゞ

  みかき二人わ、よりとうのけんご、ゆきざねのけんごなり、いかみのいろぶし、

  やす國の色ぶしはなみこ九らとまちいつきん、

          さき

    さんのふの御先はらいねき

                              みこざ

  二のみこし、な羅びなし、きわゝ、物申かすがい、物申の座わ、神子座になおり

                                 

  申し、きわに、たわのなんしたなもり、きわに、いかみの神子さたひ路、みここぎ

                         がわ

  ふたちのさんまいそふのいち、こんのいち、壹ねん替り、

    のりじり、おんさきはらい、たかやま、

  さんのみこし、そふのいち、こくそふさしずしだい、かふぎやくかんぬし

  まとわり、をんともにて候、きわに、くぞうふ六人やぶさめにとしゝゝ壹人つゝ

                     かへ     しゆじふ

  かわるゝゝゝ出て申候、さんだいのみこし歸り、ちやふの衆中のりむね、

                

  みなんばら、しながい、こいずみ、すいちの、かきのたいまつ、まるぎりまつ、

           いて

  みうちかくれず、出可申候、つゞミかきわ、しものミやじ、をふつずみなり、

                    ごぢんでん

 一もりすへミやふのうちより、いちもつの御神田、

              くニやす だいひやく いだ

 一りやふおふめんの御神田、國安のうち代百もん出し可申候、

 一みゆ之しだい、ふたかまゆのときわ、ものもふし、こくそふつかふまへなり、よそ

  よりいらんわづらい不可有者也、

   (1469)    つちのとの  ふもとじや⬜︎しゆ

   ぶんめいくわんねん五月十五日      つなとき

          うし

   おわり

 

 「書き下し文」

 一つ、備後国世羅郡小童村、武塔山祇園精舎牛頭天王鎮座次第記

       三社

  東に蛇毒鬼神天王、中に牛頭天王大宮内座、西にしやふしよい天王、

       末社

  本宮より東に伊弉諾・伊弉冊、我が公達八王子、

  本宮西に龍宮城にての后頗梨采女、御神幸の時、大御前といふ、

    三番の踊り、記すに及ばず、

  同殿に、厳島三所、御手洗弥都波能売の明神、龍王社、大山祇の明神、山王七社の

  別宮、

    祭礼神幸の次第、御先払ひは、ひゑの次郎左衛門、

  一の神輿、ゆきざね、ゆきもり、むねかね、御供、こんのいち、禰宜、はなみこい

  つきん、ありやふみこにきん、くろうふ十町いつきん、この際、大鼓舁き二人は、

  よりとうの健児、ゆきざねの健児なり、いかみのいろぶし、やす國の色ぶしはなみ

  こ九うらとまちいつきん、

    山王の御先払ひ

  二の神輿、並び無し、際は、物申春日井、物申の座は、神子座に直り申し、際に、

  たわのなんし棚守、際に、いかみの神子さだひろ、神子こぎふたちの三昧僧のい

  ち、こんのいち、壹ねん替わり、

    乗り尻、御先払ひ、高山

  三の神輿、そふのいち、国造指図次第、こうぎゃく神主まとわり、御供にて候ふ、

  際に、供僧六人流鏑馬に年々一人ずつかわるがわる出でて申し候ふ、三台の神輿帰

  り、ちょうの衆中のりむね、南原、塩貝、小泉、すいちの、かきのたいまつ、まる

  ぎりまつ、みうち隠れずに、出で申すべく候ふ、鼓舁きは、下の宮仕、上の宮仕、

  大鼓なり、

 一つ、もりすへみやふのうちより、いちもつの御神田、

 一つ、りょうおうめんの御神田、国安のうち代百文出だし申すべく候ふ、

 一つ、御湯の次第、ふたかまゆの時は、物申し、国造仕う奉るなり、他所より違乱・

  煩有るべからざる者なり、

   文明元年己丑五月十五日   麓城主綱時

   おわり

 

 「解釈」

 一つ、備後国世羅郡小童村、武塔山祇園精舎牛頭天王鎮座次第記

       三社

  本殿の東に蛇毒鬼神天王、本殿中央に牛頭天王が鎮座している。本殿西には邪不しよい天王。

       末社

  本殿より東の末社には、伊弉諾尊伊弉冊尊、その御子である八王子が鎮座している。

  本殿より西には、龍宮城で后となった頗梨采女が鎮座している。御神幸のときには大御前と言う。

    三番の踊りは、記す必要はない。

  西殿には、厳島三所(三女神)、御手洗弥都波能売明神、龍王社、大山祇明神、山王上七社の別宮が鎮座している。

    祭礼神幸の次第、御先払いは、ひえの次郎左衛門。

  一の神輿は、行実、ゆきもり、むねかね、お供として、ごんのいち、禰宜。はなみこ一きん、ありやふみこ二きん、くろふ十町一きん。このそばにいる大鼓舁き二人は、頼藤の若者、行実の若者である。いかみの色ぶし、安国の色ぶし、はなみこ、くろうまち一きん。

    山王の御先払いは禰宜

  二の神輿には、お供がいない。このそばにいる祝詞を奏上する人は春日井の住人である。祝詞を奏上する座は神子の座に直し申し上げ、そのそばに、たわのなんし棚守がいる。そのそばにいる、いかみの神子さだひろ、神子こぎふたちの三昧僧の一人、こんのいちが、一年交代で務める。

    行列後尾の供奉者、御先払いは、高山の住人。

  三の神輿は、そうのいち、国造が指図するとすぐに、かふぎゃく神主がお供として神輿に付き従うのです。そのそばにいる供僧六人は、流鏑馬に年ごとに一人ずつ代わる代わる出場し申し上げます。三台の神輿が戻り、長氏の輩下の則宗、南原、塩貝、小泉、すいちの、かきのたいまつ、丸切松の住人らは内に隠れずに、出で申し上げるべきです。鼓舁きは下の宮仕と上の宮仕である。大鼓である。

 一つ、森末名のうちから、いちもつの御神田。

 一つ、りやふおふ免の御神田。国安のうちから代百文を出さなければならない。

 一つ、御湯献上の手順。二釜湯のとき、祝詞奏上は国造が申し上げるのである。他所からの違乱や妨害があってはならないものである。

   おわり

 

 「注釈」

「九らとまち」

 ─原本を見ていないのでよくわかりませんが、これは直前の「くろうふ

十町」のことで、「くらふまち」と翻刻するべきかもしれません。

 

「山王七社」

 ─比叡山の鎮守、日吉大社の上七社(大宮・二宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮)を勧請したものか。江戸時代、神宮寺の別当は今高野山安楽院(世羅郡世羅町甲山)の僧が兼帯していたので、真言宗であったと考えられますが、もとは天台宗であったのではないでしょうか。そもそも本社である祇園社(八坂神社)は天台別院でもあったので、中世では天台宗だったと考えられます。

 

*「神輿」の説明箇所は、ほとんど意味がわかりませんでした。強引に解釈したものもありますが、わからない箇所は本文の表記のままにしてあります。また、『甲奴町誌』(1994)の解説も参照しています。

須佐神社文書 その4

 一 須佐神社縁起 その4

 

*本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

                (讃岐)

  太郎王子、そふかふてんのふ、さぬきの國たきのやしろ、こすてんのふ、

  (本) (日光菩薩    (大歳神)          (魔王天王)

  ほん地につかふぼさつ、だいさいぢんなり、二郎王子、まをふてんのふ、

       (廣峯)            勢至菩薩   (陰神)

  はりまの國ひろみね、こずてんのふ、ほんぢせいしぼさつ、大おんぢんなり、

               因幡

  三郎王子、ぐまらてんのふ、いなばの国たかをか、こずてんのふ、ほん地ぢぞう

      だいじやう                   (安芸) (佐東)

  ぼさつ、大将ぐんちんなり、四郎王子、とくだつてんのふ、あきの國さとう、

                       とく

  こずてんのふ、本地くわんせおんぼさつ、とし徳神也、五郎王子、りやふじ

       (越)                   月光菩薩

  てんのふ、ゑつ中の國しよふび、こずてんのふ、ほん地ぐわつこふぼさつ、

 

  さいはちん也、六郎王子、たつびさてんのふ、やまとの國吉野、こずてんのふ、

     (釋迦如)

  ほんちしやかによ來さいぎやふ神なり、七郎王子、地神藏天王、しもをさの國

  そたつ、こすてんのふ、ほん地薬師如來、ひやふびちんなり、八郎王子、

  としやうそふてんのふ、やましろの國二鳥谷、こすてんのふ、本地こくう地蔵

      ばん

  菩薩、大番神也、じやどくきぢんてんのふと申奉るわ、五条の天王是なり、

  しやれいでんき、ふときに而、かんかへ見るときんば、此こずてんのふ八王子

  じやとく鬼神、とうむ天神、やく而、ぎやふぢん、はりさいによ、まかだいこく

                

  てん神、八まん四せん六百五拾除神、ろくづろくめんろつひろくそくのけんぞく

  ぶんしんなりとうんぬん、じひふかき物をは、しゆこし、しやけんの物をは、

                                  (寶龜)

  ばつせんとの御せいくわんなり、あるせつにいわく、にんのふ四十九代ほうき

            光仁天皇   (御)      ゑきれい

  五ねんきのへとら、かうにんてんのふのぎよ宇四月、天下疫癘はやる、びしう

  (世羅)さと(童武塔)

  せらの郷わらんへむとうにおいて、たくしていわく、あつかれわ、これじやどく

  鬼神成り、本地めうけんぼさつなり、此さと、こずてんのふをまつるへし、

  此ちのさしもぐさ、ゑきれいみそきばらいせよとかんさりましぬ、ごんてん所を

  たて、どうねん六月十四日、はた、つゞみ、ふへ、かねをうち、きやうむ

      しんかう ぎやふ

  さりゝゝと神幸しゆ行、おたび處ニ而ひじたるちんぎ、をなじく十六日ひつじさる

                                   ひゝ

  のこく、もとのごんてん所はいのふすとうんぬん、それよりれいじやふ目目に

  はんゑい、むらさと、こをりくより、あかめうやまいたてまつりおわん、

   つづく

 

 「書き下し文」(可能な限り漢字仮名交じりにしました)

  太郎王子、相光天王、讃岐の国滝の社、牛頭天王、本地日光菩薩、大歳神なり、二

  郎王子、魔王天王、播磨国廣峯、牛頭天王、本地勢至菩薩大陰神なり、三郎王

  子、倶摩羅天王、因幡の国高岡、牛頭天王、本地地蔵菩薩、大将軍神なり、四郎王

  子、得逹天王、安芸の国佐東、牛頭天王、本地観世音菩薩、歳徳神なり、五郎王

  子、良持天王、越中国しよふび、牛頭天王、本地月光菩薩歳破神なり、六郎王

  子、逹尼漢天王、大和の国吉野、牛頭天王、本地釈迦如来歳刑神なり、七郎王子、

  地神蔵(侍神相)天王、下総の国そたつ、牛頭天王、本地薬師如来、山城の国二鳥

  谷、牛頭天王、本地虚空蔵菩薩、大番神黄幡神)なり、蛇毒鬼神天王と申し奉る

  は、五条の天王是れなり、社例伝記、風土記にて、勘へ見る時んば、此の牛頭天

  王、八王子蛇毒鬼神、武塔天王、やく而、ぎやふじん、頗梨采女、摩訶大黒天神、

  八万四千六百五十四神、六頭六面六臂六足の眷属分身なりと云々、慈悲深き物を

  ば、守護し、邪険の物をば、罰せんとの御誓願なり、或る説に曰く、人皇四十九代

  宝亀五年甲寅、光仁天皇御宇四月、天下に疫癘はやる、備州世羅の郷童武塔に於い

  て、託して曰く、あつかれは、これ蛇毒鬼神成り、本地妙見菩薩なり、此の郷に、

  牛頭天王を祭るべし、此の地のさしも草、疫癘禊祓せよと神去りましぬ、御殿所を

  建て、同年六月十四日に、幡、鼓、笛、鉦を打ち、凶夢去り去りと神幸執行、御旅

  所にて秘事たる神儀、同じく十六日未申の刻、元の御殿所へ拝納すと云々、それよ

  り霊場日々に繁栄、村里、郡々より、崇め敬い奉り了ん、

   つづく

 

 「解釈」

 太郎王子は相光天王で、讃岐国滝宮社でお祭りされている。牛頭天王の本地は日光菩薩で、大歳神でもある。二郎王子は魔王天王で、播磨国広峯社でお祭りされている。牛頭天王の本地は勢至菩薩で、大陰神でもある。三郎王子は倶摩羅天王で、因幡国高岡社でお祭りされている。牛頭天王の本地は地蔵菩薩で、大将軍神でもある。四郎王子は得逹天王で、安芸国祇園社でお祭りされている。牛頭天王の本地は観世音菩薩で、歳徳神でもある。五郎王子は良持天王で、越中国少尾でお祭りされている。牛頭天王の本地月光菩薩で、歳破神でもある。六郎王子は逹尼漢天王で、大和国吉野でお祭りされている。牛頭天王の本地は釈迦如来で、歳刑神でもある。七郎王子は侍神相天王で、下総国蘇達でお祭りされている。牛頭天王の本地は薬師如来で、山城の国二つ鳥居でお祭りされている。牛頭天王の本地は虚空蔵菩薩で、黄幡神でもある。蛇毒鬼神天王と申し奉るのは、五条の天王である。神社のしきたりや伝記、風土記で調べてみると、八王子・蛇毒鬼神・武塔天王・行疫神・頗梨采女・大黒天以下、八万四千六百五十四柱の神々は、この牛頭天王の六頭六面六臂六足が分身した眷属であるという。慈悲深いものを守護し、邪険のものを罰しようとの御誓願である。ある説に言うには、人皇四十九代宝亀五年甲寅(七七四)、光仁天皇の御代四月に、国中で疫病が流行った。備後国世羅郷小童武塔で、お告げになって言うには、「我は蛇毒鬼神である。本地は妙見菩薩である。この里に牛頭天王を祭るべきである。この地の蓬を燃やして、疫病を禊ぎ祓え」と仰って、神通力で消え去った。御殿を建て、同年六月十四日に、幡を用意し、鼓を打ち、笛を吹き、鉦を打って、「悪夢よ去れ」と唱えながら、神輿渡御を行った。御旅所で秘密の祭儀を行った。同月十六日未申の刻に、もとの御殿へ神輿を納め申し上げたそうだ。それ以来、霊場として日々繁栄し、近隣の村々や郡からの参拝者が崇め敬い申し上げた。

   つづく

 

 「注釈」

「たきのやしろ」─滝宮天満宮のことか。香川県綾歌郡綾川町滝宮。

 

「たかをか」─高岡神社。鳥取市国府町高岡。

 

「安芸の国佐東」─安神社。広島市安佐南区祇園

 

越中の国しよふび」

 ─未詳。「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編一、一九八八)には「少尾」と記されている。

 

「大和の国吉野」─奈良県吉野郡吉野町吉野山牛頭天王社跡。

 

「下総の国そたつ」

 ─未詳。「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編一、一九八八)には「蘇達」と記されている。

 

「山城の国二鳥谷」

 ─未詳。「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編一、一九八八)には「二ツ鳥居」と記されている。

 

「五条の天王」─五条天神社か。下京区天神前町。

須佐神社文書 その3

 一 須佐神社縁起 その3

 

*本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

            いそ もちゆき          (疑)

 一ふてあそばし給はゝ、急ぎ持行娘と娵とにかけけれバ、うたがいなくたすかり、

  のかる

  遁るものなり、

                (札守)       (立)    (弓)

  こたん將來處にわくしやう神のふだまむりを四方八方にたてければ、ゆみや、

  つるぎ (鉾)     やう                  (符)

  劔、ほこ、入ルへき様もそらになし、其時に、じやどくぎぢんのふ、

  (懇)      まと した (塞)     (切入)     (千)

  ねん比見玉へは、窓の下をふさがず、是よりきりいり、八万四せんの

           よ(神)(部類)     (上)

  けんぞく、六百五拾除ぢんぶるいおしいり、かみ八拾人中八十人下八十人貳百

              や (滅)

  四十人のけんぞく、七日七夜ニほろぼし給いて、ゑいさゝゝ、ゑいをふ、

  よきかな      (龍宮城)

  善哉々々、それよりりうぐうじやうめぐり、にしやまがけぼろん國

  (住)        まつ (木)  (鳩)ひとつかい(羽)やすめ

  すみたまふ、おんまへの松のきに、はと一番はを休、さえどりけるやふ、

        りうくうじやう(宮)   きさき        なく  はと

  これよりなん瀧宮城姫ミやまします、后ニしやくし給へと鳴、その鳩

  とびゆく(連)                 (契)

  飛行つらねて見給ふに、はりさいによと申后御ちぎりあつて、八人の王子を

             (我朝) 人皇     文武天皇   (御宇)

  もふけ玉ふ、それより、わかてふにんのふ四十二代もんむてんのふのぎよう

   慶雲元年    (甲辰)     (江)しう(栗太郡        (夜)

  けいうんくわんねんきのへたつ四月、がう州くり許こうりへ着き給ふ、一やに

   (千本)  (杉苗)          (都)    (捧)

  貳せんぼんのすぎなへをうへ玉ふ、そんしミやこへ一紙おさゝけ奉る、時の

   (関白)  (奏聞)    (献上)   (宣旨)(蒙)   (崇敬)

  くわんばく、そうもん、御湯けんじやふのせんじをかふむり、そふきやふ奉る、

          (波羅奈) 東王父天王)          ちゝ

  あつかれわ、是、はらない國とうをふふてんのふの王子なり、父のまかふお

        (天竺震旦)         秋津島       (神託)

  こふむり、てんじくしんたんをめぐり、このあきつしまわたるとのぢんたく

  なり                人皇  (三代)(和銅  (年)

  也、こずてんのふおあがめたてまつるにんのふ四十さんだいわどふ六ねん癸丑、

   元明天皇   (御)  (日本)  ふとき しむ つくら

  げんめふてんのふのぎよ宇、につほんの風土記お令作、にんのふ四十五代

  ぢん(亀)(年)(乙亥)       (播磨)   ひろみねこずてんのふ(出現)

  神き七ねんきのとのい三月十八日に、はりまの國廣峯牛頭天王しゆつけんし

       播州風土記              (寶龜)

  給ふと、ばんしふふときにあり、にんなふ四十九だいほふき二年辛亥

  光仁 (皇)(御)う       もつて (国々)      まつらしむ

  かふにん天王のぎよ宇、みことのりを以、くにゝゝに牛頭天王を令祭、

   つづく

 

 「書き下し文」(可能な限り漢字仮名交じりにしました)

 一つ、筆を遊ばし給はば、急ぎ持ち行き娘と婿とにかけければ、疑いなく助かり、遁るるものなり、

  古旦將來処には倶生神の札守を、四方八方に立てければ、弓矢、劔、鉾、入るべき様もそらに無し、其の時に、蛇毒鬼神の符、懇ろに見玉へば、窓の下を塞がず、是れより切り入り、八万四千の眷属、六百五十余神・部類押し入り、上八十人、中八十人、下八十人、二百四十人の眷属、七日七夜に滅ぼし給いて、えいさえいさ、えいえいおう、善きかな善きかな、それより龍宮城へ廻り、にしやまがけぼろん国へ住み給ふ、御前の松の木に、鳩一番羽を休め、さえどりける様、これよりなん瀧宮城に姫宮まします、后にしやくし給へと鳴く、その鳩飛び行くに連ねて見給ふに、頗梨采女と申す后に御契りあつて、八人の王子を儲け玉ふ、それより我が朝人皇四十二代文武天皇の御宇慶雲元年甲辰四月に、江州栗許郡へ着き給ふ、一夜に貳千本の杉苗を植へ玉ふ、孫子都へ一紙を捧げ奉る、時の関白、奏聞す、御湯献上の宣旨を蒙り、崇敬奉る、あつかれは、是れ、波羅奈国東王父天王の王子なり、父のまかふを蒙り、天竺震旦を廻り、この秋津島へ渡るとの神託なり、牛頭天王を崇め奉る人皇四十三代和銅六年癸丑、元明天皇の御宇、日本の風土記を作らしむ、人皇四十五代神亀天平の誤か)七年乙亥三月十八日に、播磨の国廣峯牛頭天王出現し給ふと、播州風土記にあり、人皇四十九代寶龜二年辛亥光仁天皇の御宇、勅を以て、国々に牛頭天王を祭らしむ、

   つづく

 

 「解釈」

 一つ、牛頭天王が筆を走らせて呪符をお書きになり、急いでその呪符を持っていき娘と婿に掛けるなら、間違いなく助かり、災厄から逃れることができるものである。

  古旦将来の所には倶生神の呪符を、四方八方に立てていたので、弓矢、劔、鉾を入れるべきところはまったくない。その時に、蛇毒鬼神王が丁寧にご覧になると、窓の下を塞いでいなかった。ここから切り入り、八万四千の眷属や六百五十四神の部類が押し入り、上の八十人、中の八十人、下の八十人の眷属が七日七夜のうちに滅ぼしなさって、えいさえいさ、えいえいおう、善きかな善きかな、と勝ち鬨をあげた。それから龍宮城を廻り、にしやまがけぼろん国にお住みになった。御前の松の木に鳩一番が羽を休めて囀るには、「ここより南の龍宮城に姫宮がいらっしゃいます。后になさいませ」と鳴いた。その鳩が飛んでいくのに付いていきご覧になると、頗梨采女と申す后がいらっしゃって夫婦の契りを結びなさって、八人の皇子を儲けなさった。それから、本朝人皇四十二代文武天皇の御代慶雲元年甲辰(七〇四)四月に、近江国栗太郡へお着きになった。一夜で二千本の杉苗を植えなさった。住人たちの子孫が都へ書状を捧げ申し上げた。時の関白が帝に奏聞し、御湯献上の宣旨をいただき、崇敬し申し上げた。「あつかれわ」牛頭天王は波羅奈国東王父天王の王子である。父の「まかふ」を蒙って、天竺震旦を廻り、この日本へ移るとの神託であった。牛頭天王を崇め奉る人皇四十三代和銅六年癸丑(七一三)、元明天皇の御代に日本の風土記を作らせた。人皇四十五代天平七年乙亥(七三五)三月十八日に、播磨国広峯に牛頭天王が出現しなさったと、播磨国風土記に書いてある。人皇四十九代宝亀二年辛亥(七七一)光仁天皇の御代に勅命によって各国に牛頭天王を祭らせた。

   つづく

 

 「注釈」

「くり許こうり」─栗本郡(栗太郡)。現滋賀県栗東市綣に鎮座する大宝神社のこと

         か。

「娵」─婿の誤り。

 

「倶生神」

 ─インド神話を受けた仏教の神。人が生まれた時から、その左右の肩の上にあって、その人の善悪の所行を記録するという同名、同生の二神。また、これを男女の二神とし、男神は同名といい、左肩にあって善行を記録し、女神は同生といい、右肩にあって悪行を記し、死後、閻魔王による断罪の資料とするという。また、俗に、閻魔王の側で罪人を訊問し罪状を記録する神とする(『日本国語大辞典』)。

 

「あつかれわ」─未詳。

 

「まかふ」─「ふかう」(不幸・不孝)の誤記・誤読か。

 

「廣峯」─廣峯神社姫路市広嶺山。

 

 

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広峯神社随神門

 

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拝殿

 

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神輿

 

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拝殿(手前)・本殿(奥)

 

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本殿

 

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本殿裏

 

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地養社(祭神は蘇民将来

 

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掲示

 

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荒神

 

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吉備神社

須佐神社文書 その2

 一 須佐神社縁起 その2

 

*本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

   崇神天皇   (戊子)      (疫癘)

 一しゆぢんてんのふつちのへね、天下ニゑきれいはやる、しする物過分、

  欽明天皇    (丙寅)             (民)

 一きんめいてんのふひのへとら七ねん、ゑきれいはやる、たみ多く死る、癸酉十四

    ゑきれいはやる (物部)        (祭儀)

  年正月疫癘葉流、もののへのをきら、神國のさいきにそむけり、とうんぬん、

  (用明)   (午の誤ヵ)(元年) しちどう              (備)

 一やふめい天皇丙寅ぐわんねん、五畿七道をめくり給へ共、可然處もなし、び州

  (疫隅)                    (巨旦將來)

  江ずみとゆう處着き給、四月八日の事成るに、こたんしやうらいと申

   (長者)                   なさけ をいいたす  (同州)

  ちやうじやあり、一夜の宿をかり玉ふ、思ひもよらず情無く追出、其時どうしう

             蘇民

  賀屋とゆう處越玉ふ、そみん將來と申貧者あり、是者慈悲ふかき物成、たちよ

  り宿を借りたまふ、御宿可参わ安けれ共、御調物米なしと申ける、てんのふ宣

  ふわ、くるしからず、只かせよとの玉ふ、其時女房もんぜんの木、りやうめこ

   (粟三把)          (踏殼)      (敷)    (實)

  のあわさんばもちたるをおろし、ふみからおてんのふしかせ奉り、みおは

  (飯)    (柏) (葉)   (栃) (皮)   黄檗 (箸)

  はんにして、かしわのはにもり、とちのかわすへ、きはだのはしおこしらへ

                     (眷属)

  そなへ奉る、其時てんのふ大悦び玉ふ、けんそく達にくばり、しはらくあつて

  じやどく鬼神なふおめされ而宣ふわ、さらば、こたん將來が一やの宿をおしみ

    (憎)               のたもふ

  たるにくさに、是を七日之内ニはつすへしと宣ふ、おのゝゝけんぞくたち、

             (打立)

  いろゝゝに出立給いて、うちたち玉ふ、其時そみん奉申上者、何事ニ而候ぞと、

      (驚)

  おふけにをとろき申せは、てんのふ宣ふわ、このうしろにこたん將來が、

                  (貸)

  われゝゝがつかれ及處、一や宿かさす間、八万四せんのけんぞくを入、七日

    (滅)                            (某)

  七やほろほすへしとの玉ふ、其時そみん夫婦申けるは、難有御事成り、それが

          こたん

  し娘壹人持て候、古旦將來が太郎娵になし候、御助候へと、かんるいながし

              (汝等)  (今宵) (情)

  申ける、てんのふ宣ふわ、なんじらがこよいのなさけ嬉敷故免すとの玉ふ、女房

  (御前)     (斯)    おそれをゝく

  おんまへまいりて、か様申せば、恐れ多事候へ共、とてもの御慈悲に、

      (遊)       (有難)   (偕老同穴)    (契)

  ふう婦御助あそはされ候ハゝ、ありかたく、かいろうとうけつのちぎりにて候

      (婿)  (助)                    (子孫)

  ほとに、むこをもたすけ候へと申、其時てんのふの玉ふわ、こたんがしそんと

        (根)   (葉)              (汝)(夫婦)

  いわん物をば、ねをきり、はおからし、たへすへしと思へ共、なんじふうふの

   (志)         (許) のたま   (符守)

  こゝろざしふかきによつて、ゆるすと宣いて、ふまむりを給わりける、

  (南無)(獅子)    (蘇婆訶)

  なむやしゝをうまかはりやそわか、此ふと申わむねちより、こずてんのふ

  (修験)  (秘密) (守)

  しゆけんのひみつのまむりなり、

                 (符)  蘇民夫婦)

  なむやそきろかつはかやそわか、此ふわ、そみんふうふの心ぞしまかきひみつの

    そみんふうふ (薬師如)        (粟)       (菩薩)

  符也、蘇民夫婦、やくしによ來、ひやうめこのあわゝ、やくじやうぼさつと申、

  そみん將來しそんなりとうんぬん、

   つづく 

 

 「書き下し文」(可能な限り漢字仮名交じりにしました)

 一つ、崇神天皇戊子、天下に疫癘はやる、死する物過分、

 一つ、欽明天皇丙寅七年、疫癘はやる、民多く死ぬる、癸酉十四年正月疫癘はやる、

  物部のをきら、神国の祭儀に叛けり、と云々、

 一つ、用明天皇丙午元年、五畿七道を廻り給へども、然るべき処も無し、備州疫隅と

  云ふ處へ着き給ひて、四月八日の事なるに、古旦將來と申す長者有り、一夜の宿を

  借り玉ふ、思ひも寄らず情無く追い出だす、其の時同州賀屋と云う処へ越し玉ふ、

  蘇民將來と申す貧者有り、是の者慈悲深き者なり、立ち寄り宿を借り給ふ、御宿参

  るべきは安けれども、御調物に米無しと申しける、天王宣ふは、苦しからず、只貸

  せよと宣ふ、其の時女房門前の木に、りやうめこの粟三把持ちたるを下ろし、踏み

  殼を天王に敷かせ奉り、実をば飯にして、柏の葉に盛り、栃の皮に据ゑ、黄檗の箸

  を拵へて備へ奉る、其の時天王大いに悦び玉ふ、眷属達に配り、しばらくあって、

  蛇毒鬼神王を召されて宣ふは、さらば古旦將來が一夜の宿を惜しみたる憎さに、是

  れを七日の内に外すべしと宣ふ、各々眷属たち、色々に出で立ち給いて、打ち立ち

  玉ふ、其の時蘇民申し上げ奉るは、何事にて候ふぞと、大きに驚き申せば、天王宣

  ふは、この後ろに古旦將來が、我々が疲れに及ぶ処に、一夜の宿を貸さず間、八万

  四千の眷属を入れ、七日七夜に滅すべしと宣ふ、其の時蘇民夫婦申しけるは、有り

  難き御事なり、某の娘一人持て候ふ、古旦將來が太郎の嫁になして候ふ、御助け候

  へと、感涙流し申しける、天王宣ふは、汝等が今宵の情嬉しき故免すと宣ふ、女房

  御前へ参りて、斯様に申せば、恐れ多く事に候へども、とてもの御慈悲に、夫婦御

  助け遊ばされ候はば、有り難く、偕老同穴の契りにて候ふほどに、婿をも助け候へ

  と申す、其時てんのふ宣ふは、古旦が子孫といわん物をば、根を切り、葉を枯ら

  し、絶へすべしと思へども、汝夫婦の志深きに依つて、許すと宣いて、符守を給わ

  りける、

  南無や獅子をうまかはりや蘇婆訶、此の符と申すは無熱より、牛頭天の符修験の秘

  密の守なり、

  南無やそきろかつはかやそわか、此の符は、蘇民夫婦の心ぞしまかき秘密の符な

  り、蘇民夫婦、薬師如来、ひやうめこの粟は、薬上菩薩と申す、蘇民將來子孫なり

  と云々、

   つづく

 

 「解釈」

 一つ、崇神天皇戊子の年、国中に疫病が流行った。死者は非常に多かった。

 一つ、欽明天皇丙寅七年(五四六)疫病が流行った。民衆が多く死んだ。癸酉十四年(五五三)正月疫病が流行った。物部尾輿が神国の祭儀に背いたそうだ。

 一つ、用明天皇丙午元年(五八六)、牛頭天王五畿七道をお廻りになったが、適切な場所もなかった。備後国深津郡疫隈という所にお着きになったのは、四月八日のことである。そこには、古旦(巨旦)将来というお金持ちがいた。一夜の宿をお借りになった。古旦将来は思いも寄らず冷淡にも追い出した。それから、同じ備後国の賀屋という所にお移りになった。そこには、蘇民将来という貧乏人がいた。この者は慈悲深い者であった。牛頭天王はここに立ち寄り宿をお借りになった。「お宿を貸して差し上げることは簡単なことですが、おもてなしする米がありません」と蘇民将来は申した。牛頭天王が仰るには、「さしつかえない。ただ貸してくれ」と仰った。その時女房が門前の木に、りょうめこ?の粟三把を掛けていたのを下ろし、踏んだ籾殻を牛頭天王の座に敷いてさしあげ、粟の実を飯にして、柏の葉に盛り、栃の皮の上に据え、黄檗の箸を拵えて供え申し上げた。その時牛頭天王は大いにお喜びになった。眷属たちにも食事を配り、しばらくして、蛇毒鬼神王をお呼びになって仰るには、「それなら、古旦将来が一夜の宿を惜しんだ憎さに、この者を七日以内に取り除くべきである」と仰った。それぞれの眷属たちが現れ、勢いよく立ちなさっている。その時蘇民将来が申し上げるには、「何事でしょうか」と、ひどく驚いて申し上げたところ、牛頭天王が仰るには、「この前、古旦將來は我々が疲れ果てていたところに、一夜の宿を貸さなかったので、八万四千の眷属を入れて、七日七夜のうちに滅ぼすべきである」と仰った。その時、蘇民夫婦が申し上げるには、「あってはならないことです。私どもは娘を一人持っております。古旦將來の長男の嫁にしております。お助けください」と悲嘆の涙を流しながら申し上げた。牛頭天王が仰るには、「お前たちの今宵の心遣いが嬉しかったので許す」と仰った。蘇民将来の妻が牛頭天王の御前に参上して、「このように申し上げると畏れ多いことでございますが、大いなるご慈悲をもって娘夫婦をお助けくだされば、めったにないほど素晴らしいことで、夫婦の絆が固く結ばれておりますうちに、婿をも助けてください」と申し上げた。その時牛頭天王が仰るには、「古旦将来の子孫というものを、根を切り葉を枯らして絶やすべきであると思うが、お前たち夫婦の心遣いが深いので許す」と仰って、呪符をお与えになった。

「なむやししをうまかはりやそわか」。この呪符は、無熱天からもたらした、牛頭天王の修験の秘密の呪符である。

「なむやそきろかつはかやそわか」。この呪符は、蘇民夫婦の気遣いの深さに対する秘密の呪符である。蘇民夫婦は薬師如来、ひょうめこ?の粟は薬上菩薩と申す。蘇民将来の子孫であると唱える。

   つづく

 

 「注釈」

「もののへのをきら」

 ─物部尾輿のことか。ここでは物部氏が神祇信仰をないがしろしたことになっていますが、本来物部氏は排仏派であるはずなので、誤った情報が伝わっているのかもしれません。

 

「疫隅」

 ─疫隈国社(えのくまのくにつやしろ)。現広島県福山市新市町戸手の素盞嗚神社

 

「心ぞしまかき」─「心ざし深き」のことか。

 

「りやうめこ・ひやうめこ」

 ─未詳。「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編一、一九八八)では、「両かんこ」という記載になっています。なお、『簠簋内傳』(国文学研究資料館

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-04207&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=【簠簋内伝金烏玉兎集】&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=7)の同様の箇所は、「粱(りょう)粟」という表記になっています。「りやう」は「粱」=「粟のこと」かもしれません。

 

「なむやししをうまかはりやそわか」・「なむやそきろかつはかやそわか」

 ─「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編一、一九八八)では、「南無耶獅子王摩訶破梨耶娑婆訶」・「南無耶蘇宜路掲破梨娑婆訶」という表記になっています。

 

 

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戸手の素盞嗚神社

 

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鳥居と随神門

 

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拝殿

 

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蘇民神社(相殿) 左が蘇民神社・右が疱瘡神

 

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本地堂(現・天満宮

本尊は聖観音菩薩(石橋健太郎「牛頭天王信仰と備後素盞嗚神社の一考察」『広島の考古学と文化財保護』2014.11)。

須佐神社文書 その1

 一 須佐神社縁起 その1

 

*本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

  (前闕)

 「                         」の中國

                牛頭天王

 [            ]國こずてんのふ[          ]にあまつ

                       伊弉諾) (さなみふたヵ)

 [              ]七代に當て、いさなきい[    ]はしらの

 尊を、中てん[      ]いこく、東王父天[          ]

 西王母天王)

 せいをうぼてんのふと奉申、男[ ]事をかなしみ、かうすさんの[    ]

 (無熱)             (牛)              (内)

 むねちとて、なん河のしろ[ ]のうしの口よりいずる水をむすびあげ、な伊外清

              祇園精舎

 流しよう[    ]なへ、ぎおんしやうじやゑ行、いろ[   ]七日七夜

 (滿)                (示現)

 まんずる夜、まんざ[   ]わると、じげんをかむり[  ]とまり王子一人も

                        (文字)   (頭)

 ふけ[ ]ちやうかう壹丈五尺、こしにとらといふもんじあり、かうへにいつつの

 (牛)     (面) (三)           (御手)

 うしをいたゝき、おもてみつ、御手わ六つ、左、第一おんてにわほこをもち、第二

           (三)   (瑠璃)(壺)     (第)

 の御手にわ弓を持、第⬜︎の手にわる利のつぼをもち、右、⬜︎一の御手にわ剣をもち、

       (矢)                      (天王)

 第二ノ手にわやを持、だいさんの手にハ四百四病をもち玉而、其時てんのふ御覧

              (似) (畜生)   (形)        (言葉)

 じて、大ニおとろき、人にわにず、ちくしやうのかたち成り、ふかうのことばをき

          (御門)                  (海神)

 かせよと宣ふ、さてみかとをたち出て、元のむねち江入給に依而、わたづみ⬜︎つの

     (素戔嗚)                     (千年)

 君共申、そさのをの尊共、こずてんのふ共申、それよりきゑ國にせんねん、それを

          兜率天            (三千年)   (東天)

 立出、大國に百年、とそつてんに八ねん、とせいてんにさんせんねん、とうてん、

 (西)  (北天)         (須弥山)    (埴安)      (現)

 さい天、ほくてん、中天のめぐり、しゆみせんに而、はにやすの尊地神とげんじて

 (三百年)

 さんびやくねん、みつばめの尊水神とけんじて五十年、れゐい國と申山に而、若君

                              (上天)   (天)

 をもうけ、世になき物とて許の天え帰り、十六ヶ国を廻り玉ふ、ちやうてん下てん

 唐土)(百済

 とうとはくさい國を廻り給て、大日本國江わたり玉ふ、

   つづく 

 

 「書き下し文」(可能な限り漢字仮名交じりにしました)

  (前闕)

 「                         」の中國[  ]牛頭天

 王[  ]にあまつ[  ]七代に当たりて、伊弉諾・伊奘冉二柱の尊を、中て

 ん[  ]いこく、東王父天王[  ]西王母天王と申し奉る、男[ ]事を悲

 しみ、かうすさんの[ ]無熱とて、なん河のしろ[ ]の牛の口より出づる水を

 結び上げ、内外清流しよう[ ]なへ、祇園精舎へ行き、いろ[ ]七日七夜満ず

 る夜、まんざ[ ]わると、示現を蒙り[ ]とまり王子一人儲け[ ]長高一丈

 五尺、腰に虎と言ふ文字あり、頭に五つの牛を戴き、面三つ、御手は六つ、左、第

 一の御手には鉾を持ち、第二の御手には弓を持ち、第三の手には瑠璃の壺を持ち。

 右、第一の御手には剣を持ち、第二の手には矢を持ち、第三の手には四百四病を持

 ち玉ひて、其の時天王御覧じて、大いに驚き、人には似ず、畜生の形成り、不孝の

 言葉を聞かせよと宣ふ、さて御門を立ち出でて、元のむねちへ入り給ふに依りて、

 海神⬜︎つの君とも申し、素盞嗚尊とも、牛頭天王とも申す、それよりきえ国に千年、

 それを立ち出で、大國に百年、兜率天に八年、とせいてんに三千年、東天、西天、

 北天、中天のめぐり、須弥山にて、埴安の尊地神と現じて三百年、弥都波能売の尊

 水神と現じて五十年、れえい國と申す山にて、若君を儲け、世に無き物とて許の天

 へ帰り、十六ケ国を廻り玉ふ、上天下天唐土百済国を廻り給て、大日本国へ渡り玉

 ふ、

   つづく

 

 「解釈」

  (前半部分は解釈できませんでした)

 王子を一人儲けた。背丈は一丈五尺(四・五メートル)、腰に虎という文字があった。頭に五つの牛をいただき、顔は三つ、御手は六つ、左の第一の御手には鉾を持ち、第二の御手には弓を持ち、第三の手には瑠璃の壺を持ち、右の第一の御手には剣を持ち、第二の手には矢を持ち、第三の手には四百四病をお持ちになっていた。その時に東王父天王・西王母天王は牛頭天王の姿をご覧になって、大いに驚き、「人には似ておらず、畜生の姿である。義絶の言葉を聞き入れてください」と仰った。王子はそのまま宮殿を出立して、もとの無熱天へお入りになったことによって、海神□つの君とも申し、素盞嗚尊とも、牛頭天王とも申した。それからきえ国に千年、そこを出立して、大国に百年、兜率天に八年、とせい天に三千年、東天、西天、北天、中天を巡り、須弥山で埴谷尊、土地の神として現れて三百年、弥都波能売尊、水神として現れて五十年、れえい国と申す山で若君を儲け、この世にないものとしてもとの天へ帰り、十六カ国を巡りなさった。上天・下天・中国・百済を廻りなさって、大日本国へお出でになった。

   つづく

 

 「注釈」

東王父

 ─陽の気の精とされる中国伝説上の仙人で、男の仙人を統べるもの。西王母と並び称され、詩題・画題として有名。東王公(『日本国語大辞典』)。

 

西王母

 ─中国、西方の崑崙山に住む神女の名。「山海経─西山経」によれば、人面・虎歯・豹尾・蓬髪とあるが、次第に美化されて「淮南子─覧冥訓」では不死の薬をもった仙女とされ、さらに周の穆王が西征してともに瑶池で遊んだといい(「列子─周穆王」「穆天子伝」)、長寿を願う漢の武帝が仙桃を与えられたという伝説ができ、寛大には西王母信仰が広く行われた(『日本国語大辞典』)。

 

「ふかうのことばをきかせよ」

 ─「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編一、一九八八)では、「不幸」と表記されていますが、「不孝」の可能性もあります。また「聞かす」には、「聞かせる」の意味だけでなく、「聞く」の尊敬語としての意味もあります(『古語大辞典』小学館)。断定はできませんが、ここでは「親子関係を断つという(義絶の)言葉を聞き入れてください」という意味で解釈しておきます。