周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

須佐神社文書 その2

 一 須佐神社縁起 その2

 

*本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

   崇神天皇   (戊子)      (疫癘)

 一しゆぢんてんのふつちのへね、天下ニゑきれいはやる、しする物過分、

  欽明天皇    (丙寅)             (民)

 一きんめいてんのふひのへとら七ねん、ゑきれいはやる、たみ多く死る、癸酉十四

    ゑきれいはやる (物部)        (祭儀)

  年正月疫癘葉流、もののへのをきら、神國のさいきにそむけり、とうんぬん、

  (用明)   (午の誤ヵ)(元年) しちどう              (備)

 一やふめい天皇丙寅ぐわんねん、五畿七道をめくり給へ共、可然處もなし、び州

  (疫隅)                    (巨旦將來)

  江ずみとゆう處着き給、四月八日の事成るに、こたんしやうらいと申

   (長者)                   なさけ をいいたす  (同州)

  ちやうじやあり、一夜の宿をかり玉ふ、思ひもよらず情無く追出、其時どうしう

             蘇民

  賀屋とゆう處越玉ふ、そみん將來と申貧者あり、是者慈悲ふかき物成、たちよ

  り宿を借りたまふ、御宿可参わ安けれ共、御調物米なしと申ける、てんのふ宣

  ふわ、くるしからず、只かせよとの玉ふ、其時女房もんぜんの木、りやうめこ

   (粟三把)          (踏殼)      (敷)    (實)

  のあわさんばもちたるをおろし、ふみからおてんのふしかせ奉り、みおは

  (飯)    (柏) (葉)   (栃) (皮)   黄檗 (箸)

  はんにして、かしわのはにもり、とちのかわすへ、きはだのはしおこしらへ

                     (眷属)

  そなへ奉る、其時てんのふ大悦び玉ふ、けんそく達にくばり、しはらくあつて

  じやどく鬼神なふおめされ而宣ふわ、さらば、こたん將來が一やの宿をおしみ

    (憎)               のたもふ

  たるにくさに、是を七日之内ニはつすへしと宣ふ、おのゝゝけんぞくたち、

             (打立)

  いろゝゝに出立給いて、うちたち玉ふ、其時そみん奉申上者、何事ニ而候ぞと、

      (驚)

  おふけにをとろき申せは、てんのふ宣ふわ、このうしろにこたん將來が、

                  (貸)

  われゝゝがつかれ及處、一や宿かさす間、八万四せんのけんぞくを入、七日

    (滅)                            (某)

  七やほろほすへしとの玉ふ、其時そみん夫婦申けるは、難有御事成り、それが

          こたん

  し娘壹人持て候、古旦將來が太郎娵になし候、御助候へと、かんるいながし

              (汝等)  (今宵) (情)

  申ける、てんのふ宣ふわ、なんじらがこよいのなさけ嬉敷故免すとの玉ふ、女房

  (御前)     (斯)    おそれをゝく

  おんまへまいりて、か様申せば、恐れ多事候へ共、とてもの御慈悲に、

      (遊)       (有難)   (偕老同穴)    (契)

  ふう婦御助あそはされ候ハゝ、ありかたく、かいろうとうけつのちぎりにて候

      (婿)  (助)                    (子孫)

  ほとに、むこをもたすけ候へと申、其時てんのふの玉ふわ、こたんがしそんと

        (根)   (葉)              (汝)(夫婦)

  いわん物をば、ねをきり、はおからし、たへすへしと思へ共、なんじふうふの

   (志)         (許) のたま   (符守)

  こゝろざしふかきによつて、ゆるすと宣いて、ふまむりを給わりける、

  (南無)(獅子)    (蘇婆訶)

  なむやしゝをうまかはりやそわか、此ふと申わむねちより、こずてんのふ

  (修験)  (秘密) (守)

  しゆけんのひみつのまむりなり、

                 (符)  蘇民夫婦)

  なむやそきろかつはかやそわか、此ふわ、そみんふうふの心ぞしまかきひみつの

    そみんふうふ (薬師如)        (粟)       (菩薩)

  符也、蘇民夫婦、やくしによ來、ひやうめこのあわゝ、やくじやうぼさつと申、

  そみん將來しそんなりとうんぬん、

   つづく 

 

 「書き下し文」(可能な限り漢字仮名交じりにしました)

 一つ、崇神天皇戊子、天下に疫癘はやる、死する物過分、

 一つ、欽明天皇丙寅七年、疫癘はやる、民多く死ぬる、癸酉十四年正月疫癘はやる、

  物部のをきら、神国の祭儀に叛けり、と云々、

 一つ、用明天皇丙午元年、五畿七道を廻り給へども、然るべき処も無し、備州疫隅と

  云ふ處へ着き給ひて、四月八日の事なるに、古旦將來と申す長者有り、一夜の宿を

  借り玉ふ、思ひも寄らず情無く追い出だす、其の時同州賀屋と云う処へ越し玉ふ、

  蘇民將來と申す貧者有り、是の者慈悲深き者なり、立ち寄り宿を借り給ふ、御宿参

  るべきは安けれども、御調物に米無しと申しける、天王宣ふは、苦しからず、只貸

  せよと宣ふ、其の時女房門前の木に、りやうめこの粟三把持ちたるを下ろし、踏み

  殼を天王に敷かせ奉り、実をば飯にして、柏の葉に盛り、栃の皮に据ゑ、黄檗の箸

  を拵へて備へ奉る、其の時天王大いに悦び玉ふ、眷属達に配り、しばらくあって、

  蛇毒鬼神王を召されて宣ふは、さらば古旦將來が一夜の宿を惜しみたる憎さに、是

  れを七日の内に外すべしと宣ふ、各々眷属たち、色々に出で立ち給いて、打ち立ち

  玉ふ、其の時蘇民申し上げ奉るは、何事にて候ふぞと、大きに驚き申せば、天王宣

  ふは、この後ろに古旦將來が、我々が疲れに及ぶ処に、一夜の宿を貸さず間、八万

  四千の眷属を入れ、七日七夜に滅すべしと宣ふ、其の時蘇民夫婦申しけるは、有り

  難き御事なり、某の娘一人持て候ふ、古旦將來が太郎の嫁になして候ふ、御助け候

  へと、感涙流し申しける、天王宣ふは、汝等が今宵の情嬉しき故免すと宣ふ、女房

  御前へ参りて、斯様に申せば、恐れ多く事に候へども、とてもの御慈悲に、夫婦御

  助け遊ばされ候はば、有り難く、偕老同穴の契りにて候ふほどに、婿をも助け候へ

  と申す、其時てんのふ宣ふは、古旦が子孫といわん物をば、根を切り、葉を枯ら

  し、絶へすべしと思へども、汝夫婦の志深きに依つて、許すと宣いて、符守を給わ

  りける、

  南無や獅子をうまかはりや蘇婆訶、此の符と申すは無熱より、牛頭天の符修験の秘

  密の守なり、

  南無やそきろかつはかやそわか、此の符は、蘇民夫婦の心ぞしまかき秘密の符な

  り、蘇民夫婦、薬師如来、ひやうめこの粟は、薬上菩薩と申す、蘇民將來子孫なり

  と云々、

   つづく

 

 「解釈」

 一つ、崇神天皇戊子の年、国中に疫病が流行った。死者は非常に多かった。

 一つ、欽明天皇丙寅七年(五四六)疫病が流行った。民衆が多く死んだ。癸酉十四年(五五三)正月疫病が流行った。物部尾輿が神国の祭儀に背いたそうだ。

 一つ、用明天皇丙午元年(五八六)、牛頭天王五畿七道をお廻りになったが、適切な場所もなかった。備後国深津郡疫隈という所にお着きになったのは、四月八日のことである。そこには、古旦(巨旦)将来というお金持ちがいた。一夜の宿をお借りになった。古旦将来は思いも寄らず冷淡にも追い出した。それから、同じ備後国の賀屋という所にお移りになった。そこには、蘇民将来という貧乏人がいた。この者は慈悲深い者であった。牛頭天王はここに立ち寄り宿をお借りになった。「お宿を貸して差し上げることは簡単なことですが、おもてなしする米がありません」と蘇民将来は申した。牛頭天王が仰るには、「さしつかえない。ただ貸してくれ」と仰った。その時女房が門前の木に、りょうめこ?の粟三把を掛けていたのを下ろし、踏んだ籾殻を牛頭天王の座に敷いてさしあげ、粟の実を飯にして、柏の葉に盛り、栃の皮の上に据え、黄檗の箸を拵えて供え申し上げた。その時牛頭天王は大いにお喜びになった。眷属たちにも食事を配り、しばらくして、蛇毒鬼神王をお呼びになって仰るには、「それなら、古旦将来が一夜の宿を惜しんだ憎さに、この者を七日以内に取り除くべきである」と仰った。それぞれの眷属たちが現れ、勢いよく立ちなさっている。その時蘇民将来が申し上げるには、「何事でしょうか」と、ひどく驚いて申し上げたところ、牛頭天王が仰るには、「この前、古旦將來は我々が疲れ果てていたところに、一夜の宿を貸さなかったので、八万四千の眷属を入れて、七日七夜のうちに滅ぼすべきである」と仰った。その時、蘇民夫婦が申し上げるには、「あってはならないことです。私どもは娘を一人持っております。古旦將來の長男の嫁にしております。お助けください」と悲嘆の涙を流しながら申し上げた。牛頭天王が仰るには、「お前たちの今宵の心遣いが嬉しかったので許す」と仰った。蘇民将来の妻が牛頭天王の御前に参上して、「このように申し上げると畏れ多いことでございますが、大いなるご慈悲をもって娘夫婦をお助けくだされば、めったにないほど素晴らしいことで、夫婦の絆が固く結ばれておりますうちに、婿をも助けてください」と申し上げた。その時牛頭天王が仰るには、「古旦将来の子孫というものを、根を切り葉を枯らして絶やすべきであると思うが、お前たち夫婦の心遣いが深いので許す」と仰って、呪符をお与えになった。

「なむやししをうまかはりやそわか」。この呪符は、無熱天からもたらした、牛頭天王の修験の秘密の呪符である。

「なむやそきろかつはかやそわか」。この呪符は、蘇民夫婦の気遣いの深さに対する秘密の呪符である。蘇民夫婦は薬師如来、ひょうめこ?の粟は薬上菩薩と申す。蘇民将来の子孫であると唱える。

   つづく

 

 「注釈」

「もののへのをきら」

 ─物部尾輿のことか。ここでは物部氏が神祇信仰をないがしろしたことになっていますが、本来物部氏は排仏派であるはずなので、誤った情報が伝わっているのかもしれません。

 

「疫隅」

 ─疫隈国社(えのくまのくにつやしろ)。現広島県福山市新市町戸手の素盞嗚神社

 

「心ぞしまかき」─「心ざし深き」のことか。

 

「りやうめこ・ひやうめこ」

 ─未詳。「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編一、一九八八)では、「両かんこ」という記載になっています。なお、『簠簋内傳』(国文学研究資料館

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-04207&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=【簠簋内伝金烏玉兎集】&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=7)の同様の箇所は、「粱(りょう)粟」という表記になっています。「りやう」は「粱」=「粟のこと」かもしれません。

 

「なむやししをうまかはりやそわか」・「なむやそきろかつはかやそわか」

 ─「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編一、一九八八)では、「南無耶獅子王摩訶破梨耶娑婆訶」・「南無耶蘇宜路掲破梨娑婆訶」という表記になっています。

 

 

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戸手の素盞嗚神社

 

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鳥居と随神門

 

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拝殿

 

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蘇民神社(相殿) 左が蘇民神社・右が疱瘡神

 

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本地堂(現・天満宮

本尊は聖観音菩薩(石橋健太郎「牛頭天王信仰と備後素盞嗚神社の一考察」『広島の考古学と文化財保護』2014.11)。