周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

須佐神社文書 参考史料2の4

   五〇 小童祇園社祭式歳中行事定書 その4

 

 一十五日

  於御旅所献上(割書)「御 供三舛三合御神酒三舛三合」実光ヨリ出ス

   此御下リ仮殿ニテ社人不残戴居候処出雲儀故有テ天保元未年ヨリ此席ニ不面

  御神楽献惣社人ヨリ、勤方三太夫前ニ同

    但此散物社人銘々ヨリ上ル舛物之分御神事入用御供草履警固ゟ出シ申ニ付其料

    トシテ遣ス、并御神酒戴セ申事

   年中諸入用算用致割賦候事

    但神宮寺ヨリ三人分実光ヨリ二人分出シ申事

 一十六日  (割書)「於御旅所神宮寺ヨリ振舞有大祢宜 三太夫 薦敷」

  御神事吹囃シ春日井広石塩貝 (割書)「三谷ヨリ打入之事」

    但広石塩貝両谷先後争論出来御約之上(天保六年)隔番仁相定御書

    双方エ御下ヶ有同年広石谷(乙未正月)先江立候事

  御子舞 鉢音楽神宮寺 太鼓刑部

    但仮殿之外三遍巡ル

   金御幣周兵衛(春日井) 金御幣吟蔵 金御幣 (塩貝)長七

   御先鉾保蔵 御太刀伴次郎 御子頭加賀 神子増蔵

   神子伴次郎 神子千吉

   右巡終テ直ニ仮殿ニ入ル

  御還幸御行列并御供

   御幸之節ニ同断 但宇買村石見出張ハ無之

  諸願成就御神酒頂戴(割書)「神前両人 三太夫 婆利賽祢宜 輿番四人」

    但此神酒神前両人ヨリ弁備

 一十七日散物勘定 三太夫立会

   但十三日ヨリ十六日迄之分集メ

    拾匁 正月六月両度油代神前両人隔年相勤分

    三匁 六月十八日散銭開キ御神酒代

    五匁 右諸願成就御神酒代

    四匁 御祭礼中警固番賃遣ス

    弐匁 同祝儀

    〆拾九匁五分 引残リ神前両人二ツ割

   舛物之内

    三舛 陸奥

    三舛 加賀

    弐舛 薦敷

    〆八舛 三人江配分残リ同断

     但白米之分者十八日散銭開ニ用

 

   つづく

 

*書き下し文は省略します。

 

 「解釈」

 一つ、十五日。

  御旅所で、御供三升三合、御神酒三升三合を献上する。本社禰宜の実光から出す。

   この下ろし物は、仮殿で神職が残らず頂戴するが、武塔社神主近藤出雲は、理由

   があって天保元未年(一八三〇)からこの座に着かない。

  御神楽の際に献上する供物。すべての神職から。神楽の演者は三太夫(広田陸奥

  田中刑部・陶山加賀)で、前に同じ。

    ただし、この供物は神職らがそれぞれ進上する。枡で計量する供物について

    は、御神事用の供物や草履を警固役から出し申すに付けて、その経費として警

    固役に遣わす。併せて、御神酒も警固役に頂戴させ申し上げること。

   年中行事の諸費用を計算し、割り当てますこと。

    ただし、神宮寺から三人分、禰宜の実光から二人分を出し申すこと。

 一つ、十六日。  御旅所で、神宮寺から大禰宜伊達紀伊守・三太夫(広田陸奥・田

          中刑部・陶山加賀)・薦敷千吉へ饗応があった。

  御神事の吹囃子は、春日井谷・広石谷・塩貝谷の三つの谷からやってくること。

    ただし、広石谷・塩貝谷の両谷が、先か後かの順番争いを起こし、天保六年

    (一八三五)取り決めがなされた。隔年で前後を決めるという御定書を両谷へ

    お下しになった。同年乙未正月は広石谷が先に立ちますこと。

  神子舞。銅拍子役は神宮寺。太鼓は田中刑部。

    ただし、仮殿の外を三度廻る。

   金の御幣持ちは春日井谷の周兵衛。同じく金の御幣持ちは竜王禰宜の吟蔵。同じ

   く金の御幣持ちは塩貝八王子禰宜長七。

   御先鉾役は比叡禰宜保蔵。御太刀持ちは伴次郎。神子頭は陶山加賀。神子役は公

   達禰宜の増蔵。同じく神子役は伴次郎。同じく神子役は荒神禰宜千吉。

   右の人々は廻り終わってそのまま仮殿に入る。

  御還幸の行列ならびに御供。

   神幸の時と同じ。 ただし、宇賀村の信野石見が出向くことはない。

  諸願成就のためにお供えした御神酒は、神宮寺別当と大禰宜伊達紀伊守の二人、三

  太夫(広田陸奥・田中刑部・陶山加賀)頗梨采禰宜、御輿番四人が頂戴する。

    ただしこの御神酒は、神宮寺別当と大禰宜伊達紀伊守の二人がお供えする。

 一つ、十七日賽銭や供物の勘定。三太夫(広田陸奥・田中刑部・陶山加賀)が立ち会

 う。

  ただし、十三日から十六日までの分を集める。

   十匁 正月と六月の二度の油代は、神宮寺別当と大禰宜伊達紀伊守の二人が隔年

      で支払う分。

   三匁 六月十八日賽銭開きのときに供える御神酒の費用。

   五匁 十六日の諸願成就の御祈願のときの御神酒の費用。

   四匁 御祭礼中の警固番の賃料として遣わす。

   二匁 同じく警固番への祝儀。

   合計十九匁五分を引いて、残りを神宮寺別当と大禰宜伊達紀伊守の二人で割り、

   いただく。

  枡で計量した供物のうち、

   三升は広田陸奥が受け取る。

   三升は陶山加賀が受け取る。

   二升は薦敷千吉が受け取る。

   合計八升はこの三人に配分し、残ったものも三人に配分する。

    ただし、白米の分は、十八日の賽銭開きのときに使う。

 

   つづく

 

 「注釈」

「舛物」─枡物。枡で計量した物。米や小麦のような穀物のことだと思います。

 

「吹囃子」─楽器の演奏などによるお囃子か。

 

「鉢」─銅拍子のことか。シンバルのような楽器。

 

「伴次郎」

 ─御太刀持ちと神子役に同名の人物が現れます。前者は御輿番の伴次郎かもしれません(「小童祇園社祭式歳中行事定書 その2」五月十日条参照)。

 

「千吉」

 ─これも荒神禰宜千吉と八幡禰宜千吉(仙吉)がいて、同一人物か、異なる人物かわかりません。

 

「神前両人」─神宮寺別当と大禰宜伊達紀伊守の二人。

 

「〆拾九匁五分」

 ─右の五項目を合計すると二十四匁になるのですが、実際は「十九匁五分」と記載されています。ひょっとすると、「三匁」と「二匁」、あるいは「五匁」の単位が、「分」なのかもしれません。

須佐神社文書 参考史料2の3

   五〇 小童祇園社祭式歳中行事定書 その3

 

 一十四日

  御精進供  神宮寺ヨリ献

   早朝ヨリ諸方参詣之人々ヨリ御神楽献上ノ分三太夫引受之事

    但料物三ツ割ニシテ三人頂戴其内三分薦敷江遣事

           御鬮受 陸奥

  御幸御機嫌窺   太 鼓 形部

           舞   加賀

    宇賀村石見於拝殿ニ御祓献上

  御幸御行列左之通 先払警固人数

        神宮寺エ二人

        実 光エ二人

        陸 奥エ一人

        刑 部エ一人

        加 賀エ一人

        出 雲エ一人

        石 見エ一人

  於当社為祠官者長柄相用事天保六年乙未八月相定

  武塔社ヨリ御迎トシテ本社エ近藤出雲参(割書)「馬役長柄」

    但東方広椽ニテ拝礼之事、其時参詣之人々不作法無之様神前ヨリ手附エ申付取

    計候事

   此ヶ条故有て嘉永五壬子正月和談之上改而別ニ規定書有之仁附致割印置候事

  御神事吹囃シ甲奴郡矢野村ヨリ昼九ツ時打来

  御先鉾 比叡権現祢宜保蔵馬役

   但鉾附トシテ往古ハ木綿八尺苧三ツ十二枚ノ下リ致頂戴候由之処、当時木綿寄進

   無之ニ付近来ハ銭六分神前ゟ其代ニ相渡ス、木綿寄進有之者、相渡事

  御先掃   (割書)「厳島祢宜留十郎山王祢宜与兵衛」 馬役

   但両人共弓箭ヲ負並ヒ行

   御輿御旅所ニ着給時右両人左右ニ随入ル

  八幡宮金御幣 春日井八幡宮祢宜 馬役

   但禰宜役当時断絶ニ付長百姓周兵衛相勤申事

  同 御輿  春日井谷中氏子御供申

    御供  陶山加賀相勤 当時親子相勤居申ニ付差閊無之

               候得共若壱人ニ相成候得者此御

               供ハ雇社人致候事

  天王社金御幣  竜王祢宜 吟蔵 馬役

  同 御 輿   自他之氏子供奉

  御 太 刀   神子役伴次郎 馬役

  金 之 鉾   高山天神宮 祢宜新五郎 馬役

    御供 御当役周兵衛 馬役

    御供 妙見禰宜貞平 馬役

    御供 大祢宜伊達紀伊

      長柄長刀挟箱沓持牽馬

    御供 神主馬役神宮寺勤之

          但 馬計り

    御供 宇賀村信野石見正 馬役

            長柄挟箱

    御供 幣取広田陸奥正 馬役

            長柄挟箱

    御供 行列馬指役兼帯

       国宗田中形部 馬役

               挟箱

    御供 舞神子陶山加賀正

            長柄挟箱

  八王子金御幣 塩貝八王子 禰宜長七 馬役

  同  御 輿 塩見谷中氏子供奉

  御神事御旅所江甲奴郡矢野村渡拍子打入

    大御輿  自他之氏子供奉

      出御之時鉢之音楽於本社神宮寺行之

    金之鉾  婆利賽禰宜神宮寺ゟ出

     御供  別当神宮寺

           長柄 挟箱 牽馬 乗物

    的馬壱疋  庄屋ヨリ出ス

    的 受   高山谷中

      但的折敷三枚天神祢宜新五郎江下遣ス

   的馬清メ先年者陸奥相勤候由之処当時中絶

  御輿仮殿江鎮座以後御子舞

    大鼓  国宗形部

    神子    加賀

        御 受 陸奥

  御当神楽  大 鼓 形部

        舞   加賀

    此御当先年者宇賀村、戸張村、安田村、寺町村、青近村、本郷村、西野村等右

    村々ヨリ替々相勤居候処当時者宇賀青近当村此三ヶ村替々相勤当村エ当リ申時

    御神酒其外諸入用二ツ割ニシテ一ト分神前両人ヨリ一ト分三太夫ヨリ

 

                      南

                      ウカ

                       大和

                  加賀  青近

                  形部   実入

 当時御当座図       祢宜  陸奥  幣  ウカ

  先年之当座別ニ有  東 紀伊守    幣 幣  石見 西

  当時御幣計立置也            幣  青近

                          対馬

 

                      北

 

   つづく

 

*書き下し文は省略します。

 

 「解釈」

 一つ、十四日。

  御精進供を神宮寺から献上する。

   早朝よりあちこちから参詣した人々が、御神楽奉納の際に献上した精進供は、三

   太夫(広田陸奥・田中刑部・陶山加賀)が引き取ること。

    ただし、精進供は三分割にして、三人が頂戴する。そのうち三分(三%)は薦

    敷千吉へ遣わすこと。

  神幸の様子伺い。御神籤受け取りは広田陸奥。太鼓は田中刑部。舞は陶山加賀。

    宇賀村の信野石見が拝殿で御幣を献上する。

  神幸の御行列は左の通りである。先払い・警固の人数。

       神宮寺へ二人遣わす。本社禰宜実光へ二人遣わす。広田陸奥へ一人遣わ

       す。田中刑部へ一人遣わす。陶山加賀へ一人遣わす。武塔社神主近藤出

       雲へ一人遣わす。信野石見へ一人遣わす。

  当社の神職である者は長柄刀を用いることを、天保六年乙未(一八三五)八月に互

  いに決定した。

  武塔社からのお迎えとして、本社へ武塔社神主近藤出雲が参る。馬役と長柄刀を伴

  う。

    ただし東の広い縁側で拝礼すること。その時参詣の人々に無作法がないよう

    に、神前から下級の神職へ申し付け、取り計らいますこと。

   この条文は理由があって、嘉永五壬子(一八五二)正月に話し合ったうえで、改

   めて別に規定書を作成したので、割印を据えましたこと。

  御神事の吹囃子は、甲奴郡矢野村から昼九つ時に演奏しながらやってくる。

  御先鉾。比叡権現の禰宜保蔵が馬役である。

   ただし、鉾に付けるものとして、木綿八尺・苧麻三つ十二枚の下行分を頂戴する

   のですが、現在は木綿の寄進がないことにより、最近は銭六分を神前で木綿の代

   わりに渡す。木綿の寄進があれば、それを渡すこと。

  御先払い   厳島禰宜大前留十郎と山王禰宜与兵衛が馬役である。

   ただし、二人とも弓矢を背負い並んで行く。

   御輿が御旅所にお着きになったとき、二人は左右に別れて入る。

  八幡宮の金の御幣。春日井八幡宮禰宜が馬役である。

    ただし、禰宜役は現在断絶しているので、村役人の百姓周兵衛が勤め申し上げ

    ること。

  同八幡宮の御輿。春日井谷中の氏子がお供する。

    お供は陶山加賀が勤める。現在は親子でお供を勤めているので差し障りはない

    が、もし一人になるならば、このお供には本社の神職を雇うことになります。

  天王社の金の御幣。竜王禰宜吟蔵が馬役である。

  同天王社の御輿は、天王社やその他の氏子が供奉する。

  御太刀。神子役伴次郎が馬役である。

  金の鉾。高山天神宮の禰宜新五郎が馬役である。

    御供。御頭役周兵衛が馬役である。

    御供。妙見社禰宜貞平が馬役である。

    御供。本社大禰宜伊達紀伊守。長柄槍・長刀・挟箱・沓持・引馬を連れてい

       る。

    御供。神主の馬役は、神宮寺が勤める。ただし、馬だけ用意する。

    御供。宇賀村の信野石見正が馬役である。長柄槍と挟箱を持った御供を連れて

       いる。

    御供。幣取広田陸奥正が馬役である。長柄槍と挟箱を持った御供を連れてい

       る。

    御供。行列の馬指役を兼帯している国宗の田中刑部が馬役である。挟箱を御供

       に持たせている。

    御供。舞神子の陶山加賀正。長柄槍と挟箱を御供に持たせている。

  八王子の金の御幣。塩貝八王子社の禰宜長七が馬役である。

  同八王子の御輿は、塩貝谷中の氏子たちが御供する。

  御神事の御旅所へ、甲奴郡矢野村の村人が拍子を打ちながら入村する。

   大御輿は、自他の氏子たちがお供する。

    出御のとき、銅拍子による音楽を本社と神宮寺で演奏する。

   金の鉾は、頗梨采社の禰宜と神宮寺から出す。

    お供は神宮寺別当。長柄槍・挟箱・引馬・乗物を連れている。

    的馬一疋は庄屋から出す。

    的受けは高山谷中から出す。ただし、的を置く折敷三枚は高山天神禰宜新五郎

    へ下し遣わす。

   的馬の清め役は、何年か前は広田陸奥正が勤めていましたが、現在は中絶してい

   る。

  御輿を仮殿に鎮座させたのちに神子が舞を奉納する。

    大鼓は国宗田中刑部。神子は陶山加賀。

  御頭役による神楽奉納。御籤受は広田陸奥、大鼓は田中刑部、舞は陶山加賀。

    この頭役は、先年は宇賀村、戸張村、安田村、寺町村、青近村、本郷村、西野

    村等、右の村々が持ち回りで勤めておりましたが、現在は宇賀村・青近村・当

    村(宮部)の三村が持ち回りで勤めている。当村に当たり申したときは、御神

    酒その他の必要経費を二つに割って、一つ分を神宮寺別当と大禰宜伊達紀伊

    の二人が、もう一つ分を三太夫が支払う。

   (以下、御当座図は省略)

 

   つづく

 

 「注釈」

三太夫

 ─広田陸奥・田中刑部・陶山加賀の三名を指す。おそらく、本社の神主(大禰宜)伊達紀伊守・禰宜実光の次にランクづけられる神職か、あるいは神楽の舞手や楽器の演奏者だと思われます。

 

「椽」─未詳。縁側のことか。

 

「手附」─未詳。下級の神職か。

 

「吹囃子」

 ─現在の矢野神儀のことか。府中市上下町矢野の住人が奉仕する祭礼。素盞嗚尊が矢野村を通過し、祇園水を飲んで小童村へ入村した故事に由来する(須佐神社パンフレット「須佐神社文書紹介」の記事を参照)。

 

「馬役」─馬に乗って先導する役か。

 

「長柄」─長柄の槍か。

 

「挟箱」

 ─近世の武家の公用の外出に際して必要な調度装身具を納めて従者に背負わせた箱。挟竹にかわって用いられるようになった長方形の浅い箱で、ふたに棒を通してかつぐようにしたもの(『日本国語大辞典』)。

 

「沓持」

 ─沓取・履取のこと。主人のくつを持ってその供をすること。また、その人。くつもち。ぞうりとり(『日本国語大辞典』)。

 

「牽馬」

 ─引馬。貴人または大名などの外出の行列で、鞍覆(くらおおい)をかけて美しく飾り装飾として連れて行く馬(『日本国語大辞典』)。

 

「幣取」

 ─未詳。「ぬさとり」か「へいとり」と読むのでしょうか。供え物を進上する役か。

 

「馬指」

 ─江戸時代、宿駅で問屋、年寄などの下で人馬の用立て、指図をする役人。問屋と年季奉公雇用契約を結び、運輸業務の実際にたずさわって助郷馬士などに権勢をふるった。

 

「塩見谷」─塩貝谷の誤記か。

 

「鉢」─銅拍子のことか。シンバルのような楽器。

 

「的馬」

 ─未詳。六月一四日の祇園祭では、流鏑馬のような行事が行われていたのかもしれません。

 

「御受」─御鬮受のことか。籤の受け取り役。

 

「神前両人」─神宮寺別当と大禰宜伊達紀伊守の二人。

 

 

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今年2017年は、頗梨采女の鎮座する大御輿が作られてちょうど500年目の、メモリアルイヤーだそうです。

 

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還幸時の写真。武塔神社で出御を待つ大御輿。

 

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大御輿近影。キレイに塗り直されています。

 

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須佐神社の回廊も修繕されていました。

 

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須佐神社に戻ってきた大御輿。

 

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本社に鎮座する大御輿の近影。

須佐神社文書 参考史料2の2

   五〇 小童祇園社祭式歳中行事定書 その2

 

 一五月四日

   菖蒲蓬備候事 舛取之役也

 一同 廿九日 忌指榊青近村円満寺山ト高山天神山ニテ隔年ニ御当四人之内ゟ申合伐

  ニ参、此料米壱舛九月御当米ノ内ヨリ出候事

  紙手切役 陸奥

   弐本 本社鳥居エ立 舛取万吉

        注連共

   弐本 武塔社同   棚守貞平

   弐本 西野村境   御先払保蔵

   弐本 宇賀村境(割書)「八幡祢宜仙吉山王祢宜与兵衛」隔年番

   弐本 戸張村境(割書)「神宮寺周兵衛」 右同断

   弐本 青近村境(割書)「武塔神主出雲御子役伴次」 右同断

   〆六ヶ所

  御神酒献上  惣宮方参詣頂戴

    壱舛 但代銀宮方惣割大ノ月ナレバ晦日執行之事

 一六月朔日氏子忌指調 陸奥

  御神酒献上

     五合 但代銀二ツ割、一ト分神前両人弁備、一ト分三太夫

  氷餅献上 但神前両人弁備

 一七日 道造之事

   但本社ヨリ御旅所迄修造惣宮方不残出会、酒三舛求、代銀惣割合、尤神宮寺ヨリ

   者先年ヨリ人出不申、酒代割合ハ相弁来仁附酒初穂贈申事

 一十日 御輿清シ役 (割書)「御輿番伴次 千吉 新五 万吉」

   右清シ水甲奴郡矢野村祇園井エ酌ニ参旧例 役伴次郎

  御祭礼中勤方警固呼出申渡シ酒ヲ呑セ候事

  大御輿綱打 神宮寺ニテ調

    但村内氏子ヨリ縄一チホンツ丶寄進ス酒五舛神宮寺ゟ出

 一月次祭当此月者十日ニ執行之事

 一十三日ヨリ十六日マテ 御法会

   当日早朝ヨリ十六日御帰殿迄神宮寺并神前禰宜神殿ニ相勤候事

  御神酒  神前両人ヨリ献

  御精進供 神宮寺ヨリ献

  三十三灯明

    御輿角御幣

    厳島御幣   此四品切替役陸奥

    御当座御幣   但紙七帖神宮寺ゟ出

    鉾乃下り

  御神酒献上

              壱ト分神前両人

    五合 但代銀三ツ割 壱ト分三太夫

              壱ト分神楽番四人

   武塔社御幣    切替役陸奥

     但此度計之事

   御輿出シ餝方       輿番四人

     但手足リ不申時者神宮寺ヨリ手伝出候事

 一武塔山エ警固番屋村方ヨリ掛十六日マテ詰番

    但十三日夜ヨリ十五日夜マテ三夜分灯油弐合遣村方弁事

 

   つづく

 

*書き下し文は省略します。

 

 「解釈」

 一つ、五月四日。

   菖蒲と蓬を供えますことは、枡取万吉の役目である。

 一つ、同二十九日。忌指の榊は、青近村の円満寺山と高山の天神山で、一年おきに頭

  役四人が相談し、榊を切って進上する。この給与米一升は、九月に頭役へ支払われ

  る給与米から支払います。

  紙垂を作る役目は広田陸奥である。

   二本 本社の鳥居に立てる。枡取万吉の役。

   二本 注連縄とともに武塔社の鳥居に立てる。棚守貞平の役。

   二本 西野村境。御先払い保蔵の役。

   二本 宇賀村境。八幡祢宜千吉と山王祢宜与兵衛が隔年で勤める。

   二本 戸張村境。神宮寺と頭役の周兵衛が隔年で勤める。

   二本 青近村境。武塔社神主近藤出雲と神子役伴次郎が隔年で勤める。

   合計六ヶ所。

  御神酒を献上する。すべての神職が参詣し頂戴する。

    一升 ただし、代銭の銀は神職が全員で割る。大の月であれば晦日に支払うこ

       と。

 一つ、六月朔日に氏子が忌指の榊を調進する。広田陸奥の役目である。

  御神酒を献上する。

     五合 ただし、代銭の銀は二つに割る。一つ分は神宮寺別当と大禰宜伊達紀

        伊守の二人が支払い供え、もう一つ分は三太夫が同じく支払い供え

        る。

  氷餅を献上する。ただし、神宮寺別当と大禰宜伊達紀伊守の二人が用意し供える。

 一つ、七日道造のこと。

  ただし本社から御旅所までの道の修繕は、すべての神職が残らず出仕する。酒三升

  を求める。代銭の銀は全員で割る。ただし神宮寺からは先年より人を出し申さな

  い。酒代の配分は、互いに支払ってきた分に応じて、酒・初穂を贈り申すこと。

 一つ、十日御輿清め役。御輿番伴次郎・八幡禰宜千吉・天神禰宜新五郎・八将神禰宜

            万吉。

   右の清め用の水は甲奴郡矢野村の祇園井へ汲みに参るのが旧例である。御輿番の

   伴次郎の役目である。

  御祭礼中に参勤したものや警固のものを呼び出し申し伝えて、酒を飲ませますこ

  と。

    ただし、村内の氏子から縄を一本ずつ寄進する。酒五升を神宮寺から出す。

 一つ、月次祭の頭役は、この六月は十日に執行すること。

 一つ、十三日から十六日までは御法会。

   当日十三日の早朝から十六日の神輿御帰殿まで、神宮寺別当と本社禰宜伊達紀伊

   守の二人は神殿に参勤しますこと。

  御神酒は神宮寺別当と大禰宜伊達紀伊守の二人が献上する。

  御精進供は神宮寺が献上する。

  三十三の灯明を用意する。

    御輿の角に御幣を付ける。

    厳島社に御幣を付ける。この四つの御幣の切替役は広田陸奥である。

    頭役の座に御幣を付ける。ただし紙七帖分は神宮寺が出す。

    鉾が下る。

  御神酒を献上する。

    五合 ただし代銭の銀は三つで割る。一つ分は神宮寺別当と大禰宜伊達紀伊

       の二人、一つ分は三太夫、一つ分は神楽番の四人が支払う。

   武塔社に御幣を付ける。切替役は広田陸奥である。

     ただし今度だけのこと。

   御輿を出すときの飾り。御輿番四人の役目である。

     ただし手が足り申さないときは、神宮寺から手伝いを出しますこと。

 一つ、武塔山の警固番屋は村人が設営し、十六日まで当番として詰める。

    ただし、十三日の夜から十五日の夜まで三夜分の灯油二合を遣わす。村人たち

    が調進すること。

 

  つづく

 

 「注釈」

「忌指榊」

 ─現在の七月一日忌串刺祭(いつみくしざし)に使用する榊。「忌を串で刺す」意の祭。口伝や「祇園社由来拾遺伝」に、「素盞嗚尊当村に入村の節、矢野村祇園水にて潔斎されたのが始まり」と述べている。「本日より例祭の終わるまで一切の忌・穢が無いように」との祈願の後、榊に御幣を付けた串を宮部部落に配布する。昔はこの串に使う榊は青近岩立山世羅郡甲山町)で採取するならわしで、祈願を込めた榊を左記の場所にうやうやしく建てる定になっていた。○本社鳥居前 ○武塔社鳥居前 ○西野村村境 ○宇賀村村境 ○戸張村村境 ○青近村村境 ただし、矢野村(上下町矢野)村境高足峠にはスサノオノミコト入来の道だから立てなかったと伝える。村境に忌の木を立て外部からの穢れを遮り、内部の不浄も慎んだ(『甲奴町誌』)。

 

「紙手切役」─榊に付ける紙垂を作る役目か。

 

「神前両人」─神宮寺別当と大禰宜伊達紀伊守の二人。

 

祇園井」

 ─祇園水という湧き水。(「須佐神社文書 参考史料1の2・5」の写真・地図参照)。

須佐神社文書 参考史料2の1

   五〇 小童祇園社祭式歳中行事定書 その1  天保七年(一八三六) 小童村

 

 「解説」

 祇園社(現在の小童須佐神社)の神事祭礼等の年間行事の詳細を記録したものである。当時は神仏習合の時代で、神宮寺別当は甲山町今高野山安楽院の僧が兼帯し、祢宜伊達紀伊守以下祇園社並びに摂社・末社の社人の名前が列記されている。

 

 

    祇園社祭式歳中行事定書

 一正月元日 別当神宮寺、禰宜伊達紀伊

       右両人三日朝マテ詰御番

  御神前江供物之事

   御蓬莱 (割書)「志らけよね・かち栗・たいゝゝ・きはさ

            こん婦・みかん・もろむけ・鬼豆」

   右蓬莱者祢宜より新敷三宝相調指上申例也

  御 神 酒 御 飯 御 鏡  たいゝゝ・こんふ・みかん・かき

  三舛三合  三舛三合  三重赤白  きはさ・かち栗

   右永代赤はね神田ヲ以祢宜より奉備、其御神酒御飯下リ者惣社人中於拝殿致頂戴

   候事

  御精進供御神酒御鏡餅(割書)「三重赤白」前仁同

   三朝日々備替御洗米

    右別当神宮寺ヨリ奉弁備

  三十三灯 大晦日ヨリ 三日朝マテ 常夜灯明之事

    右油之儀者神宮寺与祢宜隔年仁出申例也

     但六月祭礼散銭之内ニテ拾匁其当番江相渡候常例也

      是ハ正月三朝之間六月十三日ヨリ十六日マデ

      両度三十三灯之料也

  太鼓口明ケ  国宗田中形部

    於拝殿申上 幣取広田陸奥正役

 一七日

  的御神事   伊達紀伊守勤

          裾ヲ取事舛取之役也

     御神酒壱舛献 代物社人惣割

     右的神事場所之儀者神宮寺前之畑仁天日ノ出ニ勤之、的掛松弐本舛取之者建

     之、惣社人者神事之間舞殿ニ相詰的之箭音ニ合セテ国宗太鼓ヲ打候事

  舞初神

   太鼓役田中形部 舞神子役陶山加賀正

 一十四日 月次祭当之事

  御神酒 当番弐人ヨリ奉備

  御飯  正月ト極月計備、社人不残頂戴

      但入用方宮方惣割

  散米  当番両人ヨリ出シ正極月若宮方不残配分其余十ヶ

  三合  月者八ツ割弐ツ神前両人壱ツ鼠喰一ツ陸奥一ツ加

      賀一ツ形部一ツ舛取一ツ薦敷合八ツ也

  祭当申上御鬮受陸奥 太鼓形部 舞役加賀

    右御神酒頂戴方者三銚子ニ入一ツ神前エ上頂戴相済矢張三銚子揃、中東西三座

    一時ニ始メ中ヨリ左エ廻ス東モ左ヱ西者右ヱ廻ス古例也

                 ホトギ  トウフ

              膳図 ニマメ  吸 物

                 コウモノ ヤサイ

  祭当月番人頭

   三役 別当神宮寺   二役 祢宜実光      壱役 幣取広田陸奥

   壱役 国原田中形部  壱役 舞神子陶山加賀   壱役 厳島祢宜留十郎

   壱役 竜王祢宜吟蔵  壱役 神子役増蔵     壱役 妙見祢宜貞平

   壱役 比エ祢宜保蔵  壱役 武塔神主近藤出雲  壱役 荒神祢宜千吉

   壱役 神子役伴次郎  壱役 八将神祢宜万吉   壱役 山王祢宜与兵衛

   壱役 天神祢宜    壱役 御当役周兵衛    壱役 御加役自然

   壱役 御加役文三郎  壱役 御加役熊五郎    壱役 薦敷

                      (割書)「此分当時千吉預相勤祭当者不致事」

   壱役 十王堂祢宜此分当時中絶祭当無之

  合弐拾五役 但内弐役中絶

 

            東

           保 蔵

           与兵衛

           千 吉 吟 蔵

           新五郎 貞 平

       熊五郎  中  周兵衛

  拝殿席北 文三郎   中 出 雲 南

       自 然  中  陸 奥

           万 吉 形 部

           伴次郎 留十郎

           増 蔵

           加 賀

            西

 

   右祭当惣社家中於神前鬮取ヲ以其月々当番ヲ定弐人組シテ相勤旧例也

 

   つづく

 

*書き下し文は省略します。「祭当月番人頭」以下、「壱役・二役・三役」下の原文表

 記は、すべて割書になっています。また、「拝殿席」の図も、原文表記を変更してい

 ます。

 

 「解釈」

    祇園社の祭式・年中行事の儀式書

 一つ、正月元日の祭は、神宮寺別当祇園社禰宜伊達紀伊守の両人が三日の朝まで当

    番として詰める。

  御神前へのお供え物のこと。

   蓬莱の飾りは、白米・勝栗・橙・海藻・昆布・蜜柑・諸向・鬼豆。

   右の蓬莱の飾りは、禰宜が新しい台を調進して差し上げ申すのが慣例である。

  御神酒は三升三合、御飯は三升三合、御鏡餅は三重の紅白。それに、橙・昆布・蜜

  柑・柿・海藻を飾る。

   右のお供えは、永久に赤はね神田のお米を使って、禰宜がお供えする。この御神

   酒と御飯の下ろし物は、すべての神職が拝殿で頂戴する。

  精進のお供え物と御神酒と御鏡餅三重の紅白は前と同じ。

   三日間毎朝洗った米を交換して供える。

    右のものは、別当神宮寺からお供えする。

  三十三の灯明。大晦日から三日の朝まで常に灯明をつけておく。

    右の油のことは、神宮寺と禰宜が隔年で出し申すのが慣例である。

     但し、六月の祭礼の散銭の内、十匁をその当番へ渡しますのが慣例である。

      これは正月三ヶ日の朝の間と、六月十三日から十六日までの、二度の三十

      三灯明料として渡すのである。

  太鼓の皮切りは、国宗田中刑部。

    拝殿で申し上げる。 幣取は広田陸奥が正規の役である。

 一つ、七日。

  的御神事   伊達紀伊守が勤める。

          裾を取ることは、枡取万吉の役である。

     御神酒は一升を献上する。その費用は神職が皆で割る。

     右の的神事の場所の件は、神宮寺前の畑で日の出とともに勤める。的を掛け

     る松二本は、枡取万吉がこれを立てる。すべての神職は神事のあいだ舞殿に

     詰めて、的の矢の音に合わせて国宗太鼓を打ちます。

  舞初神

   太鼓役は田中刑部で、舞神子役は陶山加賀正である。

 一つ、十四日。 月次祭の頭役のこと。

  御神酒は、当番の二人がお供えする。

  御飯は、正月と十二月だけお供えし、神職が残らず頂戴する。

      但し、費用は宮方全員で割る。

  散米は各月三合ずつ。

      当番の二人が出し、正月と十二月は若宮方に残らず配分する。その他十ヶ

      月分は、八つに割り、二つを神宮寺別当と大禰宜伊達紀伊守の二人、一つ

      を鼠喰、一つを陸奥、一つを加賀、一つを刑部、一つを枡取万吉、一つを

      薦敷千吉に配分する。合計八つである。

  祭の頭役が御籤の内容を申し上げ、広田陸奥が受け取る。太鼓役は田中刑部で、舞

  役は陶山加賀である。

    右の御神酒を頂戴するものは、三つの銚子に入れて、一つは神前へ差し上げて

    それを頂戴し、それが済んだらそのまま三つの銚子を揃える。本宮の中・東・

    西の三座へ供えるが、その時、はじめは中の座から左へ銚子を廻す。東の座も

    左へ、西の座は右へ廻すのが古くからの慣例である。

   (中略)

   右の祭りの頭役は、すべての社家が神前で籤を引き、それによってその月の当番

   を決め、二人組で勤めるのが古くからの慣例である。

 

   つづく 

 

 「注釈」

「蓬莱」

 ─主として関西で、新年の祝儀に、三方(さんぼう)の上に白紙、羊歯(しだ)、昆布などを敷き、その上に熨斗鮑(のしあわび)・勝栗・野老(ところ)・馬尾藻(ほんだわら)・橙(だいだい)・蜜柑などを飾ったもの。蓬莱の飾り。蓬莱山。蓬莱台(『日本国語大辞典』)。

 

「きはさ」─「ぎばさ」・「きばさ」のことか。海藻「ほんだわら」の異名。

 

「もろむけ」

 ─「諸向(もろむき)」のことか。植物「うらじろ(裏白)の異名。「裏白」はシダ類ウラジロ科の常緑草本。葉は新年の飾りに、また葉柄は箸、籠などにする(『日本国語大辞典』)。

 

「鬼豆」─未詳。

 

「新敷三宝」─「新しき三方」。新しい儀式用の台。

 

「赤はね」

 ─未詳。似たような地名として、甲奴町小童と世羅町別迫との境に「赤根」という字はあります。

 

国宗」─未詳。

 

「幣取」

 ─未詳。「ぬさとり」か「へいとり」と読むのでしょうか。供え物を進上する役か。

 

「枡取」─枡を使ってはかること。また、その人(『日本国語大辞典』)。

 

「宮方」─未詳。社人(神職)のことか。

 

「散米」

 ─「うちまき」。打撒とも書く。①米をまく作法で、神に神饌として供える、邪気をはらうためにまく。陰陽師が行った祓いの方法である。②米の女房詞(『古文書古記録語辞典』)。

 

「若宮方」─未詳。牛頭天王の八王子を祀った社を管理している神職か。

 

「神前両人」─神宮寺別当と大禰宜伊達紀伊守の二人。

 

「鼠喰」─未詳。

 

「薦敷」

 ─未詳。神事で薦を用意する役目のものか。名前は千吉(「小童祇園社祭式歳中行事定書 その4」参照)。

弓矢の道と同性愛

  文安五年(1448)七月二十五日条 (『康富記』2─315)

 

 廿五日己酉 晴、於三福寺講述而篇了、

 傳承分、今朝飯尾四郎右衛門尉遁世云々、加賀入道次男也、此間與細河讃州被官人、

 有公事之子細、一昨日屬無為分也、尚有其憤之故歟如何、其謂聞及分ハ、今月廿一日

 黄昏ニ細川讃州の内者ニ七條と云物あり、七條がめし使こもの、十六七の物なり、優

 美の物なり、これが私宅へ歸る時、二條西洞院にて、辻切ニきられ候を、そのものゝ

                                

 母が、主の七條が許へ走入て、これはもともと飯尾加賀殿のめしつかわれたる物に

 候、今夜切殺され候、もとの主加賀殿よりさせられ候よし申て、のゝしりなきさけぶ

 と云々、仍七條怒て眞と思て、其夜加賀が許へ寄せんと申之間、屋形讃州先とゞめ

 て、使を加賀と肥前とが許へ遣して、此事誠候やらん、無勿體候、七條可發向之由申

 をばとめ候、無為之沙汰あるべきよし、讃州申さるゝ間、其夜肥前と四郎右衛門と両

 人、讃州へ参て、此事更不存知候、先御使畏入之由申處ニ、讃州不被出逢、大酒を飲

 て、無返事にて両人を返さるゝ云々、下手人を出され候へと、讃州より催促ありとい

 へ共、我が沙汰せぬ上は不可進候、支證あらば、給て治定時、下手人を可進歟之由、

 四郎右衛門返事云々、仍讃州より管領京兆へ此由訴申さるゝ間、管領より又加賀肥前

 が許へ御使ありて、下手人を出して無為にせられ候へ、存知せぬとてつかへてあれ

 ば、公事未落居也、たとひ存知せずとも、下手人を出して、無為ならばくるしからぬ

 よし、口入の分也、本人の方より取時も不出候、御口入ニ依て下手人を出し候へば、

 はや我が小物沙汰したるに治定候之間、仰なれ共下手人をば難進之由申切云々、其後

     室町殿

 管領より公方様へ申されて、下手人を出させられよと申さるゝ間、御所へ肥前と四郎

 左衛とをめしつけられて、下手人を出して無為にし候へ、はや我が過さぬ事は申上之

 間被聞食披了、下は管領より堅被憤申、上は不詳ニ只下手人を出候へと被仰候時、尚

 不可叶候、弓矢の義理其分にあらず候、一向存知せぬ事ニ如此責られ候とて、下手人

 を出し候へば、已前の題目落居歟、不然といへ共下手人を出たると候はゞ、向後天下

 引懸と成て、弓矢の道欠候之由堅申、退出了、其後自室町殿、此子細を管領へ被申

        

 間、管領讃州なをやみ得ずして、只下手人を出させられ候へと、重管領より申さるゝ

 間、重又御使をもて肥前加賀に仰付らるゝ間、肥前などが意見にて、此上は私所存之

 分ハ、具に上聞に達し畢、さりながら、管領其意を不得して強て申さるゝ上は、別儀

 をもて下手人を出し候へと、上意たる間、只理を枉て出し候へと教訓之間、廿三日夜

 に入て、無力加賀四郎〔右〕衛門方よりして、下手人を室町殿へ進了、室町殿より、

 伊勢備後伊勢六郎両使にて管領へ被遣、管領より下手人を讃州へ被遣之間、讃州下手

 人を見て、例に任て返されぬ、七條ハ下手人を不見之間、尚自身可見之由申て憤故

 に、讃州状を出して、七條に、下手人をば我見て返したるよし状を七條に遣了云々、

 希代事也、此分にて件公事は、廿六日夜無為に落居也、しかるに今朝四郎〔右〕衛門

 拂暁ニもとゞりを切て、行方知ず遁世云々、我か過さぬ事に、下手人を公方より御口

 入ありて召進之間、若其事を口惜く存故歟、又父加賀此事切勘するに依て彌物くさく

 存て遁世歟云々、只不肖に依て大名の無理を御口入之條、弓矢之道欠歟、若憤不休

 歟、何様不便々々、末世不相應之義士者乎、

 室町殿寶生殿猿楽舞也、山名殿被申沙汰也云々、

 

 「書き下し文」

 廿五日己酉 晴れ、三福寺に於いて述而篇を講じ了んぬ、

 伝え承る分、今朝飯尾四郎右衛門尉遁世と云々、加賀入道次男なり、此の間細川讃州被官人と公事の子細有り、一昨日無為に属する分なり、尚ほ其の憤り有るの故か如何、其の謂れを聞き及ぶ分は、今月二十一日黄昏に細川讃州の内者に七條と云ふ物あり、七條がめし使ふこもの、十六、七の物なり、優美の物なり、これが私宅へ帰る時、二条西洞院にて辻切りにきられ候ふを、そのものの母が、主の七條の許へ走り入りて、これはもともと飯尾加賀殿のめしつかはれたる物に候ふ、今夜切り殺され候ふ、もとの主加賀殿よりさせられ候ふよし申して、ののしりなけきさけぶと云々、仍て七條怒りて真と思ひて、其の夜加賀のもとへ寄せん申すの間、屋形讃州先づとどめて、使ひを加賀と肥前とが許へ遣はして、此の事誠に候やらん、勿体無く候ふ、七條発向すべきの由をばとめ候ふ、無為の沙汰あるべきよし、讃州申さるる間、其の夜肥前と四郎右衛門と両人、讃州へ参りて、此の事更に存知せず候ふ、先づ御使ひ畏れ入るの由申す処に、讃州出で逢はれず、大酒を飲みて、無返事にて両人を返さるると云々、下手人を出だされ候へと、讃州より催促ありといへ共、我が沙汰せぬ上は進らすべからず候ふ、支証あらば、給はりて治定の時、下手人を進らすべきかの由、四郎右衛門返事すと云々、仍て讃州より管領京兆へ此の由を訴え申さるる間、管領より又加賀・肥前が許へ御使ひありて、下手人を出して無為にせられ候へ、存知せぬとてつかへてあれば、公事未だ落居せざるなり、たとひ存知せずとも、下手人を出して、無為ならばくるしからぬよし、口入の分なり、本人の方より取る時も出ださず候ふ、御口入に依りて下手人を出だし候へば、はや我が小物沙汰したるに治定し候ふの間、仰せなれども下手人をば進らせ難きの由申し切ると云々、其の後管領より公方様(室町殿)へ申されて、下手人を出ださせられよと申さるる間、御所へ肥前と四郎左衛とめしつけられて、下手人を出して無為にし候へ、はや我が過ごさぬ事は申し上ぐるの間聞こし食し披かれ了んぬ、下は管領より堅く憤り申され、上は不詳に只下手人を出だし候へと仰せられ候ふ時、尚ほ叶ふべからず候ふ、弓矢の義理其の分にあらず候ふ、一向存知せぬ事に此くのごとく責められ候ふとて、下手人を出だし候へば、已前の題目落居か、然らずといへども下手人を出だしたると候はば、向後天下の引懸と成りて、弓矢の道欠け候ふの由堅く申し、退出し了んぬ、其の後室町殿より、この子細を管領へ申さるる間、管領讃州なほやみ得ずして、只下手人を出ださせられ候へと、重ねて管領より申さるる間、重ねて又御使ひをもて肥前加賀に仰せ付けらるる間、肥前などが意見にて、此の上は私の所存の分は、具に上聞に達し畢んぬ、さりながら管領其の意を得ずして強ひて申さるる上は、別儀をもて下手人を出だし候へと、上意たる間、只理を枉げて出だし候へと教訓の間、二十三日夜に入りて、力無く加賀四郎右衛門方よりして、下手人を室町殿へ進らせ了んぬ、室町殿より、伊勢備後伊勢六郎を両使にて管領へ遣はせらる、管領より下手人を讃州へ遣はせらるるの間、讃州下手人を見て例に任せて返されぬ、七條は下手人を見ざるの間、尚ほ自身見るべきの由申して憤る故に、讃州状を出して、七條に、下手人をば我見て返したるよし状を七條に遣はし了んぬと云々、希代の事なり、此の分にて件の公事は、二十六日夜無為に落居なり、しかるに今朝四郎右衛門払暁にもとどりを切りて、行方知れず遁世すと云々、我が過ごさぬ事に、下手人を公方より御口入ありて召し進らするの間、若し其の事を口惜しく存ずる故か、又父加賀此の事切勘するに依りて弥物くさく存じて遁世かと云々、只不肖に依りて大名の無理を御口入の條、弓矢の道を欠くか、若し憤り休まらざるか、何様不便不便、末世相応ぜざるの義士なる者か、

 室町殿宝生殿猿楽舞なり、山名殿申し沙汰せらるるなりと云々、

 

 「解釈」

 廿五日己酉 晴れ、三福寺で『論語』の述而篇を講義した。

 伝え聞いた分だと、今朝飯尾四郎右衛門尉が失踪したという。飯尾加賀入道為行の次男である。この間、細川持常の被官人との間で揉め事があった。一昨日平穏に解決したのである。依然としてその件に対する怒りが残っていたからか、どうだろうか。その理由を聞き及んだ分によると、今月二十一日の夕暮れのことである。細川持常の被官人に七條というものがいる。その七條が召し使う小者は、十六、七歳のものである。上品で美しい男子である。この者が私宅へ帰るとき、二条西洞院で辻斬りに斬られましたが、その者の母親が主人の七條のもとへ走り入って、「この子はもともと飯尾加賀入道為行殿が召し使っていたものです。今夜斬り殺されました。もとの主人の加賀殿がそのように斬り殺しなさいました」と申し上げて、大声で嘆き叫んだという。そこで、七條は怒り真実だと思って、「その夜加賀入道飯尾為行のもとに押し寄せよう」と申したので、主人の細川持常はまず止めて、使者を加賀入道飯尾為行と肥前飯尾為種のもとに遣わして、「七条の主張は真実でしょうか。(そうであるなら)不届きであります。七條がそちらへ押し寄せようとしているのを止めました。平穏に処置するべきである」と細川持常は申したので、その夜に肥前守為種と四郎右衛門の両人は持常のもとへ参上して、「このことはまったく存じません。まず御使いを遣わされたことはありがたいことです」と取次に申したところ、細川持常は二人と対面せず、大酒を飲んで返答をせずに帰らせたそうだ。下手人を出しなされと、細川持常から催促があったが、「自分がしていないうえは差し出すことはできません。証拠があるなら、いただいてそれが間違いないときに、下手人を差し出すべきではないでしょうか」と四郎右衛門は返事をしたそうだ。そこで、細川持常から管領右京大夫細川勝元へこの事情を訴え申し上げなさったので、管領細川勝元から加賀入道為行と肥前守為種のもとへ御使いを遣わして、「下手人を差し出して平穏に決着をつけてください。知らないと言い張っていると、揉め事は落着しないのである。たとえ知らなくても、下手人を差し出して、平穏に落着するなら差し支えない」と口出ししたのである。加賀入道と肥前守は「相手の七條本人が下手人を取ろうとしたときも差し出しませんでした。それなのに、お口添えによって下手人を出しますと、すぐに自分の小者が犯行に及んだことに決まってしまいますので、ご命令ではあるけれども、下手人を差し出すことはできません」ときっぱり申し上げたそうだ。その後、管領細川勝元から室町殿足利義政へ申し上げなさって、「飯尾為種に下手人を出させてください」と申し上げなさったので、足利義政は室町御所へ肥前飯尾為種と飯尾四郎右衛門とを呼び付けなさって、「下手人を差し出して平穏に解決してください」と仰った。飯尾為種はすでに自分が辻斬りをしていないことを申し上げたので、室町殿はお聞き及びになっているはずだ。それなのに、下は管領から厳しく責められ、上は室町殿からはっきりしないまま「下手人を出してください」とご命令になりましたとき、「やはり私の思い通りにはならないのでしょう。弓矢の義理は、そのような事柄であってはなりません。まったく存じ上げないことでこのように責められましたからといって、下手人を出しますと、この揉め事は決着するのでしょうか。辻斬りの犯人ではないのに下手人を出したとなりましたなら、今後の国中の先例となって、弓矢の道がなくなります」ときっぱり申し上げて、室町御所から退出した。その後室町殿足利義政は、この事情を管領細川勝元へお伝えになったので、管領と細川持常は依然として収まりがつかず、ただ「下手人を差し出してください」と繰り返し申し上げなさり、再び御使いをもって肥前飯尾為種と加賀入道飯尾為行にご命令になった。だから、肥前守らの考えとして、「この上は、こちらの主張は、詳細に室町殿のお耳に入っている。それなのに、管領細川勝元は我らの主張を受け入れず、無理やり下手人を出すよう申され、さらに『格別の事情をもって下手人を差し出してください』という室町殿のご命令だから、ただ道理を曲げて下手人を差し出してください」と加賀四郎右衛門を説得したので、二十三日の夜になって、やむを得ず加賀四郎右衛門方から下手人を室町殿へ差し出した。室町殿は伊勢備後守と伊勢六郎を両使として、下手人を管領へお遣わしになった。管領から下手人を細川持常へお遣わしになったので、持常は下手人を見て、慣例どおりに飯尾のもとにお返しになった。七條は下手人を見なかったので、依然として自分自身も見なければならないと申して怒っているので、主人である細川持常は書状を遣わして、七條に、「下手人を私が見て返した」との書状を七條に遣わしたそうだ。世にも珍しいことである。このような経緯で、この揉め事は二十六日夜、平穏に落着した。しかし、今朝飯尾四郎右衛門が夜明け方に髻を切って、行方もつかめないまま失踪したそうだ。「自分たちのやっていないことで、公方様のご仲介があって、下手人を差し出したので、もしかすると、そのことを悔しく思ったからだろうか。また父の加賀入道飯尾為行がこの件で強く諌めたから、ますます面倒に思って失踪したのだろうか」と聞いた。足利義政が愚かであることによって、大名の無理強いをご仲介になったことは、弓矢の道理を欠いているのではないか。もしやその怒りが収まっていないのか。いかにも気の毒なことであるよ。末世にふさわしくない高節の士であろう。

 室町殿が宝生殿で猿楽舞を催した。山名持豊が執行したのであるという。

 

 「注釈」

「三福寺」─京都市左京区正往寺町四六三、仁王門通新高倉東入上る。浄土宗西山深草派の寺院。

 

「加賀入道」─室町幕府奉行人飯尾為行。法名真妙。

 

「細河讃州」─阿波細川家当主、細川持常。

 

肥前」─室町幕府奉行人飯尾肥前守為種。法名は永祥。

 

「四郎左衛」─加賀入道飯尾為行の次男、飯尾四郎右衛門の誤記か。

 

「弓矢の義理」─「弓矢の義」。弓矢をとる身としての道義。武士としての道義。武士の面目(『日本国語大辞典』)。

 

「弓矢の道」─弓矢に関する道義。武芸の道。武道(『日本国語大辞典』)。

 

「宝生殿」─未詳。

 

 

*この記事については、清水克行「喧嘩両成敗のルーツをさぐる」(『喧嘩両成敗の誕生』講談社選書メチエ、二〇〇六)で、詳細に分析されています。ここで書いた解釈の多くも、この研究を参照しました。

 さて、この記事、いろいろおもしろいことが書いてあります。まず一つ目。辻斬りの被害者である十六、七歳の小者ですが、わざわざ「優美の物なり」と記載されています。現代で言えば、美形の男子高校生といったところでしょうか。前掲清水論文によると、室町時代は同性愛(男色)が広まっていた時代で、自身の美貌を売りにしてさまざまな家々を渡り歩く児小姓(ちごこしょう)が存在していたそうです。この小者も同性愛の対象として、以前は加賀入道飯尾為行に仕え、その後は七條某に召し抱えられていたらしく、この小者の争奪がトラブルの原因になった、とその母親は考えたようです。飯尾側は真っ向から関与を否定しているので真相はわかりませんが、若い美男子をめぐるオッサン同士の嫉妬や争いが、このような殺人事件を引き起こしたと見なす社会的な認識が、確実に存在していたようです。現代でも、私が知らないだけで、同様の事件は起きているのでしょうか。こうした愛しい人をめぐる愛憎劇を見ると、室町人も現代人と同様、良くも悪くも、人間や人間の世の中が大好きなのだなと思います。執着心の強さに、感服するばかりです。

 次に気になったのは、「弓矢の道」「弓矢の義理」という言葉です。この記事で、その内容が鮮明になってきます。今回の事件では、「下手人(解死人)」を出すか出さないかで揉めていました。「下手人」制というのは、「加害者側の集団から被害者側の集団に対して、『解死人(下死人・下手人)』と呼ばれる謝罪の意を表す人間を差し出すという紛争解決慣行」です(前掲清水論文)。小者を切り殺された七條は、すぐにでも犯人と目された飯尾の邸宅に攻め入ろうとしましたが、それを主人の細川持常が止め、飯尾側に下手人の差出を要求してきたのです。しかし、飯尾側は「やってもないのに下手人は出せない。証拠が明らかとなって初めて下手人を出すべきではないか」と、その要求を突っぱねます。つまり、下手人を差し出せば、罪を認めたことになる。冤罪であるのに下手人は出すということは、「弓矢の道(武家の道理)」に反する、と飯尾は主張したのです。今回の事例もそうですが、下手人は被害者側に引き渡されても、必ずしも殺されるとは限らなかったそうです。それでも、罪が確定していないのに、下手人を出すことを嫌っています。この事件を預かることになった七條の主人細川持常・管領細川勝元足利義政は、解死人制を使って穏便に処理しようとしましたが、被疑者である飯尾は無実の罪を着せられることに我慢ならなかったようです。今回の場合「弓矢の道」とは、「武士としての正当な判断(基準)」を指すと言えそうです。

 

*2019.2.16追記

 佐伯真一氏の研究によると、軍記物語に現れる「弓矢の道」「弓箭の道」は本来、「弓射の能力」を意味していたが、15世紀中頃までに武士の精神性や倫理観を意味するものへと変化したそうです(「『兵の道』・『弓矢の道』考」『中世軍記の展望台』和泉書院、2006)。佐伯説は、今回の記事からも傍証できそうです。