周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

須佐神社文書 参考史料1の7(完)

  小童祗園社由来拾遺伝 その7

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたところがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した箇所があります。

 

   貧道生質愚昧にして」目睫さへ見ること不叶、」いはんや遠き昔しを」察する

   事有んや、抑」当社ハ古世の伝る所ハ」大古にして、亦異地なり」惜や正記、宝

   物灰烬して」昔を汁に由なし、于茲」俗伝拾ひ集るに真偽分り」がたし、予不敏

   なりといへ共、」正を取り疑を省、繁を」さり、足さるを助け、要を」拾ひ集め

   て、漸く次第して」当社拾遺伝と名付て、粗」昔を察するの一助に備ふ、」独り

   下愚を下愚とし」不知を不知とせハ、知者の名を得て聖人の談」たらばいさきよ

   しとは」おもへども、若此伝をも」後世に伝へずんはまずく」後世は常やみのご

   とく」にて信心の発るべき」便りなからん、もし仮」そめにも信心あらば、」人

   は神の恵ミを得、神ハ」威光を加へ玉はゞ、天下泰平、」国家安穏、御武運長

   久、」快楽の功しあらん、此故に」僭踰の罪をかへりみす、拙く」も俚語を記

   し、兼て永」く後世に貽者也」

 

 

 備後世羅郡小童祇園牛頭天王

 別当社司神主亀甲山感神院

      本願坊神宮密寺

 (1757)

 宝暦七丁丑四月吉辰

   おわり

 

 「書き下し文」

   貧道生質愚昧にして目睫さへ見ること叶はず、況んや遠き昔を察すること有らん

   や、抑も当社は古世の伝ふる所は太古にして、亦異地なり、惜しむや、正記・宝

   物灰燼して昔を知るに由なし、茲に俗伝拾ひ集むるに真偽分かりがたし、予不敏

   なりと雖も、正を取り疑を省み、繁を去り、足さるを助け、要を拾ひ集めて、漸

   く次第して当社拾遺伝と名付けて、粗々昔を察するの一助に備ふ、独り下愚を下

   愚とし、不知を不知とせば、知者の名を得て聖人の談たらば潔しとは思へども、

   若し此の伝をも後世に伝へずんば、まずまず後世は常闇のごとくにて信心の発る

   べき便りなからん、もし仮りそめにも信心あらば、人は神の恵みを得、神は威光

   を加へ給はば、天下泰平、国家安穏、御武運長久、快楽の功しあらん、此の故に

   僭踰の罪を省みず、拙くも俚語を記し、兼ねて永く後世に貽す者なり、

    (以下略)

 

   おわり

 

 「解釈」

 私貧道は、生まれつき愚かで道理にくらく、目の前のものでさえ正確に見ることはできない。まして遠い昔を考察することができようか、いやできない。そもそも当社の伝承は大昔からのものであり、また格別の霊地でもある。惜しいことであるなあ、公的な記録や宝物が灰燼に帰して昔を知るすべはない。そこで世間の伝承を拾い集めてみたが真偽は分からない。私の頭は鈍いけれども、正しいことを取り、疑わしいことを検証し、煩雑なものを取り除き、付け加えることを助け、要点を拾い集めて、ようやく順序よく並べて当社拾遺伝と名付け、おおざっぱに昔を考察するための一助とした。ただ、伝承の中のはなはだ愚かなことを愚かと見なし、知らないものは知らないとして、拾遺伝に書き残さないなら、私は真理を知っているものとしての名声を得て、この拾遺伝を優れた人物の作成した所伝とすることができるので、潔いとは思うけれども、もしこの拾遺伝を後世に伝えないなら、まず後世は常に闇のようで信心を起こすはずの機縁がなくなるだろう。もし一時でも信心があるなら、人は神の恵みを得るし、神がその威光を増しなさるなら、天下泰平、国家安穏、ご武運長久、快楽の霊験があるだろう。こういうわけで、僭越の罪を反省せず、未熟なまま民間伝承を記し、併せて永久に後世に残すものである。

   おわり

須佐神社文書 参考史料1の6

  小童祗園社由来拾遺伝 その6

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたところがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した箇所があります。

 

 又伝ふ素盞嗚尊の御童児の御時は」御名を牛頭天王と申奉る。此御神御」鎮座の所な

 るを以、当村の名に小」童の文字を用い来る歟、外所以」を聞かず、如何定がたし、

 後知識を」希ふ、就中此神を洛東に祝ひ」玉ひし時初而精舎造りに建立」し給ふ、旧

 く天笠の祇園精舎の結構になぞらへて、京童祇園くと云習ひしより、終に此

 里ニ而ハ」小童の祇園と唱来れり、中古宥」弁法印といふ者有、社内に木像残れり」

 数十年を経て、宇賀の城主矢田殿」建立、其若宮社頭に現在せり、」此おかたハ足利

 将軍の御末ニ而当国」安那郡中条村の城より将軍の厳命」にて宇賀の城へ移転せら

 れしと聞、」其後文禄三甲午、毛利輝元公同」元継公御願に仍而御建立、」今の宮は

 是なり、降たり享禄三」庚寅御玉殿修理、天文十年辛丑」四月鳥居建立、又元和六年

 庚申」同断、又其後寛永十癸酉年同断、」且又当社之鐘ハ伯州相見八幡宮へ」奉納の

 ため出来の鐘と見へたり、」然るに天文九年中に上方より此所を」通り掛り、人夫の

 者社頭を軽しめ」あしさまに囀りけれハ忽重くなりて、」いかに動かせども動かす事

 あたハず、」神威に驚感して竟に無拠奉」納しつると申伝ふ、誠にや其銘」明か也、

 又頗梨采女稲田姫とも」ならふ、今は大御前と申奉る。」寛文八戊申のとし当寺の

 時住宥俊」世羅・三谷・三上・甲怒・神石五郡之内」人別壱銭の助力を以、初而車に

 乗せ」奉る。昔し王子数多生出ましませる」縁に元付て、種々囃口を申し、凶

 去ル、妖去れ、大こレや等と、其囃し振言語道断にて、甚草早ニ」似たり、然れ

 とも御神慮にや叶ひ」けん、自然御忌中とも指合穏便ニ」打過る事とも有之年にハ必

 ず」世間物騒なりと申、又当山より」十三丁南に森木有、飢神といふ、」此神は蘇民

 将来の娘にて巨旦」将来のためにはよめ也、天王当村」御来光の跡を慕ふて、

 蘇民」将来きたり給ふ、又其跡を追て」娘御来り給ふ折節、其頃産後にて」いまた御

 身も冷やかならす、仍而六月十四日、十五日には必来るべか」らす、十六日午を過未

 に来るべしと」の御言にて途中に扣へ待玉ふ、」其時俄に飢苦しみて十六日末を」得

 待おふせ給ハす、終に其所ニ而」身まかり玉ふと、其旧跡と申伝ふ、」此縁にて今世

 に至、女人月ある」ものハ六月の御祭には必他所へ外シ、」十六日未の刻大御前当社

 の鳥居」へ御入之処を、後より拝ミ奉るは」此いわれなり、又拝まざれハ却而」御咎

 めありと申す、又正月七日当社」の的神事にあへバ、其年の厄を遁る」と云ハ、天王

 昔し巨旦といふ悪」鬼神を降伏し給ふ、其儀に」則り悪鬼神の目を射る心とぞ」申伝

 るゆへなり」

   つづく

 

 「書き下し文」

 又伝ふ、素盞嗚尊の御童児の御時は、御名を牛頭天王と申し奉る。此の御神御鎮座の所なるを以て、当村の名に小童の文字を用い来たるか、外に所以を聞かず、如何にも定めがたし、後の知識を希ふ、就中此の神を洛東に祝ひ給ひし時、初めて精舎造りに建立し給ふ、旧く天竺の祇園精舎の結構に準へて、京童祇園祇園と云ひ習ひしより、終に此の里にては小童の祇園と唱へ来たれり、中古宥弁法印といふ者有り、社内に木像残れり、数十年を経て、宇賀の城主矢田殿建立す、其の若宮社頭に現在せり、此の御方は足利将軍の御末にて当国安那郡中条村の城より将軍の厳命にて宇賀の城へ移転せられしと聞く、其の後文禄三甲午(一五九四)、毛利輝元公同元継公御願に仍て御建立す、今の宮は是れなり、降だり享禄三庚寅(一五三〇)御玉殿修理す、天文十年辛丑(一五四一)四月鳥居建立、又元和六年庚申(一六二〇)同断、又其の後寛永十癸酉(一六三三)同断、且つ又当社の鐘は伯州相見八幡宮へ奉納のため出来の鐘と見えたり、然るに天文九年中(一五四〇)に上方より此の所を通り掛かり、人夫の者社頭を軽んぜしめ悪し様に囀りければ、忽ち重くなりて、いかに動かせども動かす事能はず、神威に驚き感じて竟によんどころなく奉納しつると申し伝ふ、誠にや其の銘明らかなり、又頗梨采女稲田姫とも並ぶ、今は大御前と申し奉る。寛文八戊申(一六六八)の年当寺の時住宥俊、世羅・三谷・三上・甲奴・神石五郡の内人別一銭の助力を以て、初めて車に乗せ奉る。「昔王子数多生み出だしましませる縁に基づきて、種々囃口を申し、凶も去る、妖も去れ、大これや」等と、其の囃し振り言語道断にて、甚だ野早に似たり、然れどもご神慮に叶ひけん、自然御忌中とも指し合ひ穏便に打ち過ぐる事ども有るの年には必ず世間物騒なりと申す、又当山より十三丁南に森木有り、飢神といふ、此の神は蘇民将来の娘にて、巨旦将来のためには嫁なり、天王当村へ御来光の跡を慕ふて、蘇民将来来たり給ふ折節、其の頃産後にて未だ御身も冷ややかならず、仍て六月十四日、十五日には必ず来るべからず、十六日午を過ぎ未に来るべしとの御言にて途中に扣へ待ち給ふ、其の時俄に飢ゑ苦しみて十六日未をえ待ちおおせ給はず、終に其の所にて身罷り給ふと、其の旧跡と申し伝ふ、此の縁にて今世に至り、女人月あるものは六月の御祭には必ず他所へ外し、十六日未の刻大御前当社の鳥居へ御入るの処を、後より拝み奉るは此の謂れなり、又拝まざれば却つて御咎めありと申す、又正月七日当社の的神事に遭へば、其の年の厄を遁ると云ふは、天王昔巨旦といふ悪鬼神を降伏し給ふ、其の儀に則ち悪鬼神の目を射る心とぞ申し伝へる故なり、

   つづく

 

 「解釈」

 さらに伝えるところでは、素盞嗚尊の幼いときは、名前を牛頭天王と申し上げた。この神がご鎮座になっているところであるから、当村の名前に小童の文字を使用してきたのだろうか。他に理由を聞いていない。どうにも決められない。後世の学識の高い人が明らかにするのを願う。なかでもこの神を洛東の八坂郷にお祭りしたとき、初めて寺院様式で堂舎を建立しなさった。古のインドの祇園精舎の様式に準えて、京童が「祇園祇園」と言い習わしたから、結局この里では小童の祇園と呼んできた。少し昔に宥弁法印というものがいた。社内にその木像が残っている。数十年後に宇賀の城主矢田殿が建立したその若宮の社殿に現存している。この矢田殿は足利将軍のご子孫で、当備後国安那郡中条村の城から移転させられたと聞いている。その後文禄三年(一五九四)、毛利輝元公と元継公の御願によって御建立になった。今の社殿はこれである。時は遡り享禄三年(一五三〇)に社殿を修理した。天文十年(一五四一)四月に鳥居を建立した。また元和六年(一六二〇)にも鳥居を建立した。またその後、寛永十年(一六三三)にも鳥居を建立した。さらにまた、当社の鐘は伯耆国相見八幡宮へ奉納するために鋳造された鐘と見えている。しかし、天文九年(一五四〇)中に上方からこの場所を通り掛かり、人夫が社殿の前で神を侮り悪口を言ったので、たちまち鐘が重くなり、どのように動かそうとも動かすことができなくなった。神の威光に驚嘆して、とうとうやむをえず奉納したと申し伝えている。本当のことだろうか、その鐘の銘に明らかである。また頗梨采女神は奇稲田姫と同じである。今は大御前と申し上げる。寛文八年(一六六八)、当神宮寺のその当時の住職宥俊は、世羅・三谷・三上・甲奴・神石五郡のうちから人別一文ずつの寄付金を集め、それで初めて車を作り、それに神輿を乗せて差し上げた。むかし王子をたくさんお生みになった縁に基づいて、様々なお囃子を申し上げ、「凶も去る、妖も去れ、大御前や」などと、その囃し方はとんでもないことで、たいそう「野早」に似ている。しかし、ご神慮に叶っていたのだろうか。万一、ご忌中や生理がひどくなく過ぎることなどがある年には、必ず世間が物騒になると申す。また当山より十三町南に森がある。飢神という。この神は蘇民将来の娘で、巨旦将来の嫁である。牛頭天王が当村へお出でになったあとを慕って、蘇民将来がお出でになった。またその後を追って娘がお出でになったとき、その頃産後でまだその体も落ち着いていなかった。そこで、「六月十四日、十五日には決して来てはならない。十六日午の刻を過ぎて未の刻に来い」という神のお言葉によって、途中に控えてお待ちになった。その時、突如飢え苦しみはじめて、十六日の未の刻になるのを待ち続けることがおできにならなかった。とうとうそこでお亡くなりになった、その旧跡と申し伝えている。こうした理由によって現代に至っても、女性で生理になっているものは、六月のお祭りの時には必ず他所へ離れ、十六日の未の刻に、大御前が当社の鳥居へお入りになるところを、後ろから拝み申し上げるのは、こういうわけである。一方で拝まなければ、逆にお咎めがあると申す。また、正月七日当社の的神事に来合わせると、その年の厄を逃れるというのは、「牛頭天王がむかし巨旦将来という悪鬼神を降伏しなさった。その経緯のとおりに、悪鬼神の目を射るという意味だ」と申し伝えるからである。

   つづく

 

 「注釈」

「安那郡中条村」─現広島県福山市神辺町東中条・西中条。

 

「相見八幡宮」─現鳥取県米子市東八幡の八幡神社

 

「ならふ」

 ─「並ぶ」なら「等しい」、「慣らふ」なら「言い慣わしている」という解釈になると思います。一応、「並ぶ」の意味にしておきます。

須佐神社文書 参考史料1の5

  小童祗園社由来拾遺伝 その5

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたところがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した箇所があります。

 

  于茲当山に金牛正銀と云者あり」十方勤化して宝殿を修理し」奉り、正中に牛頭て

  ん王、東に君達」八幡比叡権現と祝り奉る中に」一丁若の御眷属を合せ祭奉る。」

  毎年九月九日御供献上之時ハ先ツかミ」米と名付て清し、初ニ正米ニ而備、又」其

  次ニ未飯に調ハぬ内に、すくいまん」まと名付て粥のことくなるを備ふ、」其後能

  調て後諸神一列に備へ奉る」古実あり、御幼君故歟如何其訳」今ハ知る人無し、又

  人魚と名付て」ちかやに少しの幣を付て惣社人」頂戴して注連に結籠祝ることあ

  り、」蘇民将来に伝へ玉ふ遺風歟分り」がたし、又ハ明神伊勢稲荷の合殿」壱社其

  外御手洗水神後に山田」さまの祠あり山の神と云、其奥ニ」閼伽の池あり、又愛宕

  権現并に」御山天狗の祠あり、夫より山の」絶頂に竜王の祠あり、又広く村」内に

  七座別末社有、太歳・稲荷・」大明神・武答天神即蘇民将来を」祝流、天満天神・

  高山天神・妙見」大菩薩・春日谷八幡・広石山王権現、」潮谷八王子とて本地千手

  観音、」国狭槌尊水の祖神也、右のごとく」牛頭天王御所縁の御神かずく」有らせ

  玉ふ、此人を当山本願神宮寺」開基と申伝ふ、是又時代知れず」時の人牛頭天王

  再来といふ、」今疫之神の社といふは是なり、」此旧き宮跡は竹林行実の間に」あ

  り、古来より御除地にて今に」当寺の抱所なり、十方勤化の時之」笈并に身正躰の

  木像社内に」残れり、人王四拾九代」光仁天皇の御宇宝亀五甲寅四月」大いに疫病

  はやり殃亡にあるもの」勝て数へかたし、時に小童の姿に」現し馬に乗りて託して

                                    おぐ

  の玉ハく、」吾ハ是蛇毒気神本地妙見菩薩也」此里ハ牛頭天王の霊地なり、仰もの

  ハ」ゑやみ速に⬜︎⬜︎すへしと諭して」此亀甲山に入り給ふて後、其小童」去り玉

  ふ方を知る人なし、同年六月」十四日本矢野より幡・笛・大鼓・鉦等」打囃し、神

  を諌めしよりして、名遠」近に聞え駈疫月々に験あり、夫より」追々十方崇敬し国

  家鎮護と」奉仰、古きを尋、彼のとうの宮」神幸を成し奉る、然れとも余り」遠

  く便りあしくとて、今ハ武答山へ」神幸為成奉る、往昔妙見大菩薩」出現の美地に

  て、殊に牛頭天王の」御幸の宮井なれハ、武答天神山と」いふ、本名ハ亀山と云、

  また馬の」出し所馬出しといふ、其名今ニ」残れり、また其馬の餝と申伝へて」鈴

  弐つ社内に残れり、且又御託宣」の内のすかた拝み奉るに、小サひちご」なりと時

  の人思へり、依而上下略して」ひちくと唱しとなん、

   つづく

 

 「書き下し文」

  茲に当山に金牛正銀と云ふ者あり、十方勤化して宝殿を修理し奉り、正中に牛頭天王、東に公達・八幡・比叡権現と祭り奉る中に、一丁若の御眷属を合わせ祭り奉る。毎年九月九日御供献上の時は先づ神米と名付けて清し、初めに正米にて備へ、又其の次に未だ飯に調はぬ内に、すくいまんまと名付けて粥のごとくなるを備ふ、其の後能く調へて後、諸神一列に備へ奉る故実あり、御幼君たる故か如何、其の訳今は知る人無し、又人魚と名付けて茅萱に少しの幣を付けて惣社人頂戴して注連に結ひ籠め祭ることあり、蘇民将来に伝へ給ふ遺風か分かり難し、又は明神・伊勢・稲荷の相殿一社、其の外御手洗水神の後ろに山田様の祠あり、山の神と云ふ、其の奥に閼伽の池あり、又愛宕権現并に御山天狗の祠あり、夫れより山の絶頂に竜王の祠あり、又広く村内に七座の別の末社有り、太歳・稲荷・大明神・武塔天神即ち蘇民将来を祭る、天満天神・高山天神・妙見大菩薩・春日谷八幡、広石山王権現、潮谷八王子とて本地千手観音、国狭槌尊は水の祖神なり、右のごとく牛頭天王御所縁の御神数々有らせ給ふ、此の人を当山本願神宮寺開基と申し伝ふ、是れ又時代知れず、時の人牛頭天王の再来と云ふ、今疫の神の社といふは是れなり、此の旧き宮跡は竹森行実の間に有り、古来より御除地にて今に当寺の抱所なり、十方勤化の時の笈并に身正躰の木像は社内に残れり、人王四十九代光仁天皇の御宇宝亀五甲寅(七七四)四月大いに疫病流行り、殃亡にあるもの勝げて数へ難し、時に小童の姿に現じ馬に乗りて託して宣はく、吾は是れ邪毒気神、本地妙見菩薩なり、此の里は牛頭天王の霊地なり、仰ぐものは疫病速やかに⬜︎⬜︎すべしと諭して、此の亀甲山に入り給ふて後、其の小童去り給ふ方を知る人無し、同年六月十四日本矢野より幡・笛・大鼓・鉦等を打ち囃し、神を諌めしよりして、名遠近に聞こえ駈け、疫月々に験あり、夫れより追々十方崇敬し国家鎮護と仰せ奉る、古きを尋ぬるに、彼の塔の宮へ神幸を成し奉る、然れども余りに遠く便り悪しくとて、今は武塔山へ神幸を成し奉る、往昔妙見大菩薩出現の美地にて、殊に牛頭天王の御幸の宮居なれば、武塔天神山と云ふ、本名は亀山と云ふ、また馬の出だし所を馬出しと云ふ、其の名今に残れり、又其の馬の飾りと申し伝へて、鈴二つ社内に残れり、且つ又御託宣の内の姿拝み奉るに、小さひ稚児なりと時の人思へり、依りて、上下略してひちひちと唱えしとなん、

   つづく

 

 「解釈」

 ここに当亀甲山に金牛正銀というものがいた。あらゆる場所で勧進して社殿を修理し申し上げた。中央に牛頭天王、東に公達・八幡・比叡権現を祭り申し上げる中に、多くの御眷属を合わせ祭り申し上げている。毎年九月九日にお供えを献上するとき、まず噛み米と名付けてそれを清め、最初は生米のままで供え、またその次に飯として炊き上がらないうちに、「すくいまんま」と名付けて粥のようなものを供える。その後よく炊いた飯を諸神一列に供え申し上げる故実がある。お粥をお供えするのは、幼い神であるからだろうか。その訳を今は知る人がいない。また人魚と名付けられた、茅萱に少しの幣を付けたものをすべての社人が頂戴して、注連縄に結び籠めて祭ることがある。蘇民将来にお伝えになった慣習かはわからない。または明神・伊勢・稲荷の相殿一社、その他に弥都波能売明神の社の後ろに山田様の祠がある。山の神という。その奥に仏様に水を供えるための池がある。また愛宕権現と御山の天狗の祠がある。そこから山の頂上に龍王の祠がある。また広く村内に七座の別の末社がある。大歳神・稲荷・大明神・武塔天神つまり蘇民将来を祭っている。天満天神・高山天神・妙見大菩薩・春日井谷八幡・広石山王権現、塩貝谷八王子といって本地千手観音、国狭槌尊は水神である。牛頭天王とご縁のある神々が数々いらっしゃる。この金牛正銀という人を当山の本願神宮寺開基と申し伝えている。このことはまた時代がわからない。その当時の人は牛頭天王の再来という。いま疫神の社というのはこのことである。この古い社の跡は、竹林のあいだにある。昔から税の免除地で、今は当神宮寺の所有地である。あらゆる場所で勧進をしたときの笈や御神体の木像は、社内に残っている。人王四十九代光仁天皇の御代、宝亀五年甲寅(七七四)四月、大いに疫病が流行り、祟りによって亡くなったものは数えきれなかった。その時に幼い子どもの姿で出現し、馬に乗って託宣するには、「私は邪毒気神、本地は妙見菩薩である。この里は牛頭天王の霊地である。崇敬するものは、疫病が速やかに治癒するはずだ」と諭して、この亀甲山にお入りになった後、その幼子が立ち去りなさった方向を知る人はいない。同年六月十四日、本矢野から幡・笛・大鼓・鉦等を打ち囃し、神を諌めたことから、その評判はあちこちに聞こえ駈けめぐり、疫病に対して毎月ご利益があった。それから次第にあらゆる場所で崇敬され、国家鎮護の神として仰がれた。古い言い伝えを調べてみるとと、この塔の宮へ渡御をなし申し上げていた。しかしあまりに遠く不便であるといって、今は武塔山へ渡御をなし申し上げている。遠い昔に妙見大菩薩が出現した霊地で、とくに牛頭天王の渡御の御旅所であるので武塔天神山という。本当の名は亀山という。また馬の出しどころを馬出しという。その名は今に残っている。またその馬の飾りと申し伝える鈴二つが社内に残っている。さらにまたご託宣に記されたお姿を拝み申し上げるので、神の姿を「小さサひちご」(小さい子ども)である、と当時の人々は思った。だから、この「小さサひちご」という言葉の上下を略して、「ひちひち」と唱えたそうだ。

   つづく

 

 「注釈」

「かみ米」─「小童祇園社祭式歳中行事定書 その7」に「噛米」とある。

 

「御手洗水神」─弥都波能売明神のことか。

 

「為成奉」─「為成」で「なす」と読ませていると考えられます。

 

「一丁若」─未詳。「たくさん・多く」という意味か。

 

「高山天神」

 ─菅原神社。甲奴町小童字高山(『甲奴町誌』1994)。推定地は下記の地図を記しておきましたが、現地を訪ねてみても発見することはできませんでした。現地の方にお話を聞くと、以前にはたしかにこの小高い山にあったそうですが、現在は荒れ果てて登ることができません。

 

「春日谷八幡」─春日井八幡神社。甲奴町小童四一九八。

 

「広石山王権現」─山王神社。甲奴町小童四五八。

 

「潮谷八王子」─塩貝谷八王子神社。甲奴町小童四七二三。

 

「本願」

 ─社寺の造営管理に関わる機関(宮家準「熊野修験と比丘尼─本願所を中心に」『修験道─その伝播と定着─』法蔵館、二〇一二)。

 

「竹森行実」

 ─「竹森」は小童保の「武守・武森名」、「行実」も「行実名」に由来する地名。位置は「武守」が北で、「行実」がすぐ南。いずれも、須佐神社そばの「宮部」と「桂正寺」集落にある(『甲奴町誌』1994、参照)。

 

 

末社の地図

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山王神社

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春日井八幡神社

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塩貝八王子神社

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*今回の記事には、小童の由来が書いてあります。宝亀五年(七七四)四月、疫病が流行したときに、蛇毒鬼神、本地妙見菩薩と名乗る尊い存在が、小さな子どもの姿で現れたのです。そして、幼子では口にするはずもない神仏の名を口走り、疫病を治すと託宣し、そのまま姿を消してしまいます。神仏の姿を見たことのない民衆は、このあり得ない出来事を信じたわけです。昔の人々は、きっと現代人以上に音声情報を重視していたのでしょう。この点、状況判断をするうえで視覚に囚われすぎ、聴覚を軽んじる現代人との違いを感じます。

 「小さひちご」。前後を略して「ひち」。近世人の考えそうな安易な発想で、笑い飛ばして終わりそうな話ですが、一方でこの「小童」信仰は、現在まで脈々と続いています。小童には「わらべ」という有名なお蕎麦屋さんがあります。『ミシュラン広島』の掲載店なので、たしかにお蕎麦は美味しいのですが、特筆すべきはこちらのお店、「座敷わらし」がお住まいなのだそうです。ネット上でも有名で、遠方から来店(お参り?)する方も多いそうです。私はそんなことも知らずに立ち寄り、女将のご好意でお参りもさせていただきました。これもフィールドワークの賜物です。かつて、「小童」(幼子)の姿で顕現した蛇毒鬼神・妙見菩薩は、現在「座敷わらし」として信仰され続けているということになりそうです。「座敷わらし」と言えば、岩手県遠野の専売特許かと思っていたのですが、広島の山間村落にもいらっしゃったのです。小童というのは、なんとも興味深い場所です。

 

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須佐神社文書 参考史料1の4

  小童祗園社由来拾遺伝 その4

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたところがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した箇所があります。

 

  又山かつの昔語ニ素盞嗚尊ハ」伊弉議尊の第四の御子也、其御行」状甚無道、御父

                       あち  こち

  母太タ促徴して」遠く根之国へ適との御事ニ而西風」東風と経廻り給時、大山祇

  娘」磐長姫と云あり、其性質」甚醜、此故ニ余神愛し給はす」妹之木花開耶姫甚美

  神」余神の寵愛不浅候而、妹ならハ」好らんと思召て日夜怨念」積り玉ひて、終に

  は其面体悪鬼と」変して、初ハ女人を取り」後にハかうかけ山に住追々人を」害す

  る事夥し、時に素盞嗚尊」其由を聞給ひけれハ、素よ」り達徳するどき御神ゆ

  へ、」所帯の十握の剣を以壱刀」きり給へハ弐つとなり、弐刀」斬給へハ四つと

  成、又切玉へバ」八頭となり、虚空を凌安芸」国江の川といひて水無川へ」飛来ル

  と聞玉ひて追かけ来」り玉へハ、其所には見ず雲州」簸の川に居ると聞玉ひて」天

  より彼の処へ行玉ふて大雨」のふるに蓑笠着て当村」の布留屋に来り玉ふ、巨旦」

  蘇民とて兄弟あり、宿を巨旦」にかり給へともゆるさす、夫」のミならす勇士の三

  郎と」いふ者をしていた追はしむ」其時木瓜の垣に懸りこけ玉へり」仍而今時胡瓜

  を忌といへり」又蘇民にやどりて其夜を」明し玉へり、夫より雲州ひの」川へ進み

  玉ふて見玉へハ」老翁姥あり中に小童を居へて」なき居たり、其故を問ひ給へハ」

  我に小童八にんあり、皆蛇の」めにのまれき、又此小童も」呑れなんとすとてなき

  か」なしむ、さあらハ此小童を」我にくれよとの玉へハ、とにもかくにも従ひ奉ら

  んと」いへハ、其侭酒を造りて八所」に居へて蛇の来るを待玉ふ、」はたして蛇来

  り姫のすかたの酒の中ニうつるを」見て、其の姫かとおもひ」ことくく呑尽し、酔

  ひ」ひちて眠所を十握剣にて」きり給ふ、夫よりして其童」女と夫婦になり玉ふて

  住」給ふ、其後、根の国へ行西風」東風と漂泊して、終ニ天笠へ」渡り牛頭川原と

  いふ所ニ居」給ふ、仍而牛頭の名あり、又」祇遠精舎に居玉ふ、其時ハ」金毘羅神

  とも、又摩訶羅神」ともいふ、から国ニ而ハ青龍寺の」鎮守となり給ふ、其後又」

  吾が日の本へ帰り、蘇民将来の」元江来り玉へハ、巨旦将来も」蘇民将来もともに

  処をかへて」ゆゝしき長者たり、其時巨旦」をバ亡し、蘇民には茅の輪を」帯さ

  せ、秘文を授て助け給ふ、」また後世疫気流行せば」茅の輪を帯て汝が子孫と」い

  はゝ、其災必まぬかるへしと」懇に教玉ひて、我ハ是はや」すさのうの神との玉ふ

  て」此里来り給ふと申伝ふ、」疑ふらくハ此こともありし」事歟、今聞当村に

  布留屋」といふ所あり、又たん田と」いふ所あり、此辺に小たん田と」いふ所あ

  り、今ハ寺町分の安田」分なるべし、此ふるやハ巨旦」蘇民の旧居と申伝ふ、且

  又」品治郡に蘇民古旦の旧跡」ありと、また備中国かや郡」今市村にも蘇民の御

  跡」ありと聞伝ふ、何を是と」し、何れを非とせん、後の」君子をまつことはり玉

  へ」

   つづく

 

 「書き下し文」

  又山賤の昔語りに素盞嗚尊は伊弉諾尊の第四の御子なり、其の御行状甚だ無道、御父母太だ促徴して遠く根の国へ適くとの御事にてあちこちと経廻り給ふ時、大山祇の娘に磐長姫と云ふあり、其の性質甚だ醜し、此の故に余神愛し給はず、妹の木花咲耶姫は甚だ美神、余神の寵愛浅からず候ひて、妹ならば好むらんと思し召して日夜怨念積もり給ひて、終には其の面体悪鬼と変じて、初めは女人を取り、後にはかうかけ山に住み、追々人を害すること夥し、時に素盞嗚尊其の由を聞き給ひければ、素より達徳鋭き御神故、所帯の十握の剣を以て一刀に斬り給へば二つとなり、二刀に斬り給へば四つとなり、又切り給へば八頭となり、虚空を凌ぎ安芸国江の川と云ひて水無川へ飛び来ると聞き給ひて追ひかけ来たり給へば、其所には見ず、雲州簸の川に居ると聞き給ひて、天より彼の処へ行き給ふて、大雨の降るに蓑笠を着て当村の古屋に来たり給ふ、巨旦・蘇民とて兄弟あり、宿を巨旦に借り給へとも許さず、夫れのみならず勇士の三郎といふ者をしていた追はしむ、其の時木瓜の垣に罹り転け給へり、仍て今時胡瓜を忌むと云へり、又蘇民に宿りて其の夜を明かし給へり、夫れより雲州日野川へ進み給ふて見給へば、老翁姥あり中に小童を据へて泣き居たり、其の故を問ひ給へば、我に小童八人あり、皆蛇の目に呑まれき、又此の小童も呑まれなんとすとて泣き悲しむ、さあらば此の小童を我にくれよと宣へば、とにもかくにも従ひ奉らんと云へば、其の儘酒を造りて八所に据へて蛇の来るを待ち給ふ、果たして蛇来たり姫の姿の酒の中に映るを見て、其の姫かと思ひ悉く呑み尽くし、酔ひ漬ちて眠る所を十握剣にて切り給ふ、夫れよりして其の童女と夫婦になり給ふて住み給ふ、其の後、根の国へ行き西風東風と漂泊して、終に天竺へ渡り牛頭川原といふ所に居給ふ、仍て牛頭の名あり、又祇園精舎に居給ふ、其の時は金毘羅神とも、又摩訶羅神とも云ふ、唐国にては青龍寺の鎮守となり給ふ、其の後又吾が日の本へ帰り、蘇民将来の元へ来たり給へば、巨旦将来も蘇民将来も共に処を変えてゆゆしき長者たり、其の時巨旦をば亡ぼし、蘇民には茅の輪を帯びさせ、秘文を授けて助け給ふ、また後世疫気流行せば、茅の輪を帯びて汝が子孫と云はば、其の災ひ必ず免るべしと懇ろに教へ給ひて、我は是れは速須佐男の神と宣ふて此の里へ来たり給ふと申し伝ふ、疑ふらくは此の事もありし事か、今聞く当村に古屋といふ所あり、又たん田といふ所あり、此の辺りに小たん田といふ所あり、今は寺町分の安田分なるべし、此の古屋は巨旦・蘇民の旧居と申し伝ふ、且つ又品治郡に蘇民・古旦の宮跡ありと、また備中国賀陽郡今市村にも蘇民の御跡ありと聞き伝ふ、何を是とし、何れを非とせん、後の君子を待ち理り給へ、

   つづく

 

 「解釈」

 また山で暮らしている村人の昔話によると、素盞嗚尊は伊弉諾尊の第四子である。そのお振る舞いはとてもひどいものであった。ご父母がひどく懲らしめたため、遠く根の国へと行くとのことで、あちこちを廻りなさったとき、大山祇の娘に磐長姫という姫がいた。その姿はとても醜い。このために、ある神は愛しなさらなかった。妹の木花咲耶姫はとても美しい神で、その神のご寵愛は浅くはありませんで、妹なら愛そうとお思いになって、日夜その思いがお積りになって、とうとうその容貌は悪鬼に変わった。初めは女性を奪い取り、その後はかうかけ山に住み、次第に人に害を及ぼすことが多くなった。その時に、素盞嗚尊はその事情をお聞きになったところ、もともと優れた能力をお持ちの神だから、持っていた十握の剣を使って、その神を一刀のもとにお切りになると、その神の頭が二つになった。二太刀目を当てると四つとなり、またお切りになると八つの頭となった。「その神は虚空を飛び越え、安芸国江の川という水無川へ飛んできた」と素盞嗚尊はお聞きになり、追いかけて来なさったところ、そこにはその神の姿は見えず、出雲国斐伊川に居るとお聞きになって、天空からそこへ行きなさろうとして、大雨の降る日に簑笠を着て当村の古屋にお出でになった。巨旦・蘇民という兄弟がいた。素盞嗚尊が宿を借りなさろうとしても、巨旦は許さず、そればかりか勇猛な奉公人の三郎というものにひどく追い払わせた。その時、素盞嗚尊は木瓜の垣に引っ掛かり転びなさった。だから、いま胡瓜を恐れ避けると言った。それから、蘇民の家に宿泊して、その夜を明かしなさった。それから出雲国斐伊川へお進みなってご覧になると、老夫婦がいてその中に幼い姫を置いて泣いていた。その訳をお尋ねになると、「私には幼い子どもが八人います。みな蛇の目に飲まれた。またこの子も飲み込まれようとしている」と言って泣き悲しんでいる。素盞嗚尊は「それならこの姫を私にくれよ」と仰るので、「とにかく従い申し上げよう」と言うと、素盞嗚尊はそのまま酒を作って八箇所に置き、蛇が来るのをお待ちになった。思ったとおり蛇がやって来た。姫の姿が酒の中に映っているのを見て、その姫かと思い、すべて飲み干し、酔い潰れて眠っていたところを十握の剣で切りなさった。それからその姫と夫婦になりなさってお住みになった。その後根の国に行き、あちこちに漂泊し、とうとうインドに渡り、牛頭川原というところにお住みなった。だから、牛頭の名をもっている。さらに祇園精舎にお住みになった。その時は金毘羅神とも、また摩訶羅神とも言った。中国では青龍寺の鎮守となりなさった。その後また我が日本に帰り、蘇民将来のもとへいらっしゃったところ、巨旦将来も蘇民将来もともに居所を変えて、たいそうなお金持ちになっていた。その時、巨旦を滅ぼし、蘇民には茅の輪を身に付けさせ、秘密の呪文を授けてお助けになった。また「今後疫病が流行した場合、茅の輪を身に付けてお前の子孫と言えば、その災いを必ず逃れることができる」と丁寧に教えなさって、「私は速須佐男の神である」と仰って、この里へお出でになったと申し伝えている。おそらく、このようなこともあったのだろうか。いま聞くところによると、当小童村に古屋というところがある。また反田というところがある。この辺りに小反田というところがある。今は寺町分の安田分であるはずだ。この古屋は巨旦と蘇民の旧居と申し伝えている。さらに品治郡に蘇民と古旦の旧跡があると。また備中国賀陽郡今市村にも蘇民の旧跡があると伝え聞いている。何を是とし、どれを非としようか。後世に学識の高い人が現れるのを待ち、判断してください。

   つづく

 

 「注釈」

「布留屋」─現広島県三次市甲奴町小童字古屋。

 

「品治郡」

 ─福山市北西部、新市町にあたる。おそらく、現広島県福山市新市町戸手の素盞嗚神社のことと考えられます。

 

「かや郡今市村」

賀陽郡は現岡山県加賀郡吉備中央町・総社市に当たりますが、『岡山県の地名』(平凡社)を見るかぎり、「今市村」という地名は存在しません。したがって、郡の名前を間違えている可能性もあります。『岡山県の地名』で立項されている「今市」は、新見市井原市西江原町(今市宿)の二箇所で、後者の近隣には武塔神社(小田郡矢掛町小田)があります。推測にすぎませんが、この「今市村」は井原市西江原町のことかもしれません。

 

 

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矢掛町 武塔神社鳥居

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神門

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拝殿

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本殿

「かうかけ山」─未詳。

須佐神社文書 参考史料1の3

  小童祗園社由来拾遺伝 その3

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたところがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した箇所があります。

 

 人王四十九代」光仁天皇御宇宝亀二年辛亥」詔を以、国々に牛頭天王を祭らしめ」給

                  (園)

 ふ、当社ハをや御の御神にて、本朝」祇遠の本元也、八王子を産み玉ふ、」太郎王子

 は讃岐国瀧の社、本地」日光菩薩大歳神也、二郎王子は」播州広峯天王、本地勢至菩

 薩」大陰神也、三郎王子倶摩羅天王」因幡国高岡天王、本地地蔵菩薩」大将軍神也、

 四郎王子ハ得達天王」安芸国佐東天王、本地観世音菩薩」歳刑神也、五郎王子ハ即侍

 天王越中国」少尾天王、本地月光菩薩歳破神なり」六郎王子ハ侍神相天王、大和国

 野天王」本地釈迦如来歳殺神なり」七郎王子ハ亀神相天王下総国蘇達」天王、本地薬

 師如来黄幡神也、」八郎王子ハ山城国二ツ鳥居之天王、」本地虚空蔵菩薩、豿尾神

 也、」蛇毒気神と申ハ五條之天神是也云云」古記に江の熊の国之神社と云ハ」当社の

 事歟、伝を失ふのみならず」剰昔尽焼して有も無か如く」たえくニ而年久しき事と見

 へたり、」

   つづく

 

 「書き下し文」

 人王四十九代光仁天皇御宇宝亀二年辛亥(七七一)詔を以て、国々に牛頭天王を祭らしめ給ふ、当社は親御の御神にて、本朝祇園の本元なり、八王子を産み給ふ、太郎王子は讃岐国瀧の社、本地日光菩薩・大歳神なり、二郎王子は播州広峯天王、本地勢至菩薩大陰神なり、三郎王子は倶摩羅天王、因幡国高岡天王、本地地蔵菩薩・大将軍神なり、四郎王子は得達天王、安芸国佐東天王、本地観世音菩薩・歳刑神なり、五郎王子は即侍天王、越中国少尾天王、本地月光菩薩歳破神なり、六郎王子は侍神相天王、大和国吉野天王、本地釈迦如来歳殺神なり、七郎王子は亀神相天王、下総国蘇達天王、本地薬師如来黄幡神なり、八郎王子は山城国二ツ鳥居の天王、本地虚空蔵菩薩豹尾神なり、邪毒気神と申すは五條の天神是れなりと云々、古記に江の熊の国の神社と云ふは当社の事か、伝を失ふのみならず、剰え昔尽焼して有も無がごとく、絶え絶えにて年久しき事と見えたり、

   つづく

 

 「解釈」

 人王四十九代光仁天皇御宇宝亀二年辛亥(七七一)、勅命によって各国に牛頭天王を祭らせなさった。当社は親御の神で、我が国の祇園の本社である。八王子を儲けなさった。太郎王子は讃岐国瀧の社に鎮座し、本地は日光菩薩・大歳神である。二郎王子は播州広峯天王のことで、本地は勢至菩薩大陰神である。三郎王子は倶摩羅天王で、因幡国の高岡天王のことである。本地は地蔵菩薩・大将軍神である。四郎王子は得達天王で、安芸国の佐東天王のことである。本地は観世音菩薩・歳刑神である。五郎王子は即侍天王で、越中国の少尾天王のことである。本地は月光菩薩歳破神である。六郎王子は侍神相天王で、大和国の吉野天王のことである。本地は釈迦如来歳殺神である。七郎王子は亀神相天王で、下総国の蘇達天王のことである。本地は薬師如来黄幡神である。八郎王子は山城国二ツ鳥居の天王である。本地は虚空蔵菩薩豹尾神である。邪毒気神と申すのは五條の天神のことであるという。古い記録に江の熊の国の神社というのは、当社のことか。所伝を失っただけでなく、あろうことか以前に悉く焼けてしまって、かつてあったものも、もともとなかったかのようで、途切れ途切れに年月が長く経過したように見えた。

   つづく

 

 「注釈」

「瀧の社」─滝宮天満宮のことか。香川県綾歌郡綾川町滝宮。

 

「広峯」─廣峯神社姫路市広嶺山。

 

「高岡」─高岡神社。鳥取市国府町高岡。

 

「佐東」─安神社。広島市安佐南区祇園

 

「少尾」─未詳。

 

「大和の国吉野」─奈良県吉野郡吉野町吉野山牛頭天王社跡。

 

「蘇達」─未詳。

 

「二ツ鳥居」─未詳。

 

「五条の天王」─五条天神社か。下京区天神前町。

 

「江の熊」

 ─現広島県福山市新市町戸手の素盞嗚神社。ここでは、小童の祇園社が江隈国社ということになっています。