周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

ファミリーヒストリー その1

 某NHKの番組ではないですが、今回、ちょっとした発見がありました。

 私が古文書を読む勉強を再開したご褒美か、試練かわかりませんが、つい最近一族に関する古文書を1点発見しました。発見というと大げさで、親族はその存在をずっと前から知っていました。ただ、誰も興味を示さず継承してきたようで、両親もその存在を知りませんでした。

 私の住んでいる田舎には、通称「御子神様」と呼ばれる氏神祭祀の講があります。地元に住んでいる同じ苗字の親族筋が集まり、交代で当番を務め、毎年12月の第1日曜日にお祭りを行っています。大げさな祭祀ではなく、お社に各家の代表者が集まり、般若心経を唱えるぐらいのことです。その後、当番家の家に集まって酒・食事をとり、当番の引き継ぎをして解散する。これが、一連の流れです。

 私は何年も実家を離れていたので、どんなものかよくわからなかったのですが、今年はその当番に当たっていて、いろいろと準備をしなければなりませんでした。これまでは両親がその準備に当たっていたのですが、父親の体調が優れないので、代わりに私がその祭に初めて参加したというわけです。その年の当番になった家には、前年の当番家から参加者の名簿などが引き渡されるのですが、そのファイルの中に江戸時代の書付があったのです。

 古文書を読むよい練習になると思って読んでみたのですが、これがさっぱりわかりません。言い訳になるのですが、くずし字を読むのがそもそも久しぶりですし、江戸時代の古文書を読んだ経験がほとんどないので、困り果てています。ひょっとすると、地元の『市史』にでも翻刻されているのではないかと思って確認してみたのですが、残念ながら掲載されていませんでした。よって、新出史料ということになります。

 とある田舎の氏神祭祀の掟書なので、「新出史料発見!」なんて言うのはかなりおこがましいですが、これも何かの縁だと思い、掲載してみます。何かの機会があれば、古文書に詳しい方に読んでいただこうかと思っています。このブログをご覧になられている方のご意見もお聞きしたいです。

 

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実際寺文書4(完)

   四 實際寺領與一野年貢帳寫

 

  (表題)

   「實際寺領与一野年貢帳」

    實際寺領与一野年貢帳

     上名

 一所  参貫五百五十文目   名主道珎分

 一々  貳貫七百五十文目   岡分

 一々  五百五十文目     下垣内

 一々  貳貫七百五十文目   大原道孝

 一所  貳貫七百五十文目   中屋分

     已上

 一所  五百目        神田原

     已上

 

     圓原名

 一所  貳貫文目       名主近助分

 一々  壹貫文目       東垣内

 一々  壹貫八百十六文目   長 原

 一々  七百文目       下垣内宗近大夫分

 一々  百文目        白井谷

 一所  壹貫五百文目     西垣内与三五郎

 一々  貳貫七百五十文目   本垣内同人

     已上

 一々  参百文目       猿屋敷

 一々  四百目        堀 田

     已上

 

     神田名

 一所  貳貫文目       名主道民分

 一々  貳貫文目       白 谷

 一々  壹貫八百十六文目   程 原

     一貫ハ炭焼分、八百六十文ハ寺納分也、

 一々  参貫文目(割書)「内参百文ハ 三郎四郎様分」   鵰道與分

 一所  貳貫九百五十文目   削 山

 一々  五百文目       柳

 一々  五百目        金 口

 一々  壹貫五百文目     勢十郎

 一々  五百文目       神田平

 一々  八百文目       臺

 一々  五百文目       濱子田

     已上

 

     治田原

                  (ヵ)

 一所  参貫文目       名主道春分

 一々  五百文目       三郎衛門

 一々  三百文目       源大夫

 一々  三百文目       惣兵衛

 一々  三百文目       左近五郎

     已上

 一所  壹貫文目       壇助大夫

     已上

 一所  壹貫五百文目     大歳神田

 一々  壹貫貳百文目     諏訪神田

 一々  六百文目土居ニ在之    天神田

     已上

     (1366)

     貞治五年丙午八月三日   二郎大夫(略押)

                 いや二郎(略押)

                 孫 三 郎(略押)

                 願  行(略押)

                 法  善(略押)

                黒  田(花押)

     御寺納所様 御同宿御中

 

*書き下し文・解釈は省略します。

 

*「戸河内村」(『広島県の地名』より)

 貞治五年(一三六六)八月三日の実際寺領与一野年貢帳写(実際寺文書)によると、この与一野(よいちの)は上名・円原(えんばら)名・神田名・治田原(じたわら)の四つの名からなり、それぞれに名主がいて、道珎は三貫五五〇文、近助は二貫文、道民は二貫文、道春は三貫文の名主給を得ている。しかし年貢帳を実際寺の納所に宛てて差し出しているのは以上の名主ではなく、二郎大夫・いや二郎・孫三郎・願行・法善・黒田で、彼らが現地の管理と年貢の収納に当たっていた。また応永元年十二月十七日の大内義弘安堵状(同文書)に「安藝国太田郷實際寺領事、任(白ヘン+反)源寄附状之旨、停止萬雑公事、寺家領掌不可有相違之状如件」とあって、大内氏の勢力が及んでおり、実際寺領の課役が免ぜられている。

 

*なおこの史料は、東皓傳「中世における開発と環境」(『修道商学』41−2、2001・2、https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180223110029.pdf?id=ART0007287112)で、詳細に分析されています。

実際寺文書3

   三 祖綱外四名連署寄進状

 

   安藝国山縣郡大田郷戸河内村内実際寺領理地庵屋敷事

 東 従開山塔佛殿之小庭ヲ限

 南 横路ヲ至西之谷

 西 従谷尾筋ヲ登大峰尾ヲ至瀧首

 北 従瀧首平ヲ下開山塔

  右付─二塔頭之事、以各評議─二定之、所寄附實也、至末代

  不相違之状如件、

     (1428)              住山

     応永卅五年戊申八月十九日       祖綱(花押)

               近江守     弾正忠

                清實(花押)  兼貫(花押)

              山祢       刑部少輔

               鬼大夫(花押)  經貞(花押)

 

 「書き下し文」

   安藝国山縣郡大田郷戸河内村内実際寺領理地庵屋敷の事

 東 開山塔より仏殿の小庭を限る

 南 横路を西の谷に至るを限る

 西 谷尾筋を登るより大峰尾を瀧首に至るを限る

 北 瀧首平を下るより開山塔に至るを限る

  右塔頭所に付け申すの事、各々の評議を以て之を相定め、寄附する所實なり、末代に至り相違有るべからざるの状件のごとし、

 

 「解釈」

   安芸国山県郡大田郷戸河内村内の実際寺領理地庵屋敷のこと。

 東 開山塔から仏殿の小庭まで限る。

 南 西の谷に至る横道を限る。

 西 谷尾筋を登り大峰尾から瀧首平までを限る。

 北 瀧首平を下り開山塔までを限る。

  右の屋敷地を塔頭所に付け申すこと。各々の評議によって四至を定め、寄付することは事実である。将来に至るまで間違いがあるはずもない。

実際寺文書2

   二 雪舟寄進状

 

 藝陽無爲山實際寺之事、紀氏栗栖歸源禅門之開基也、 奉─二愛宕山勝軍地蔵

 大薩埵之尊像、爲武運長久一門堅固也、上与一野并屋敷、至末代寄進

 之者也、當寺佛法繁栄之状如件、

    (1375)

    永和元年九月十日

                  (葉ヵ)

                東福末柴實際寺住持

                        雪舟(花押)

        ○本文書、研究ノ余地アリ

 

 「書き下し文」

 藝陽無為山実際寺の事、紀氏栗栖歸源禅門の開基なり、愛宕山勝軍地蔵大薩埵の尊像

 を勧請し奉る、武運長久・一門堅固の為なり、上与一野并に屋敷、末代に至るまで之

 を寄進せらるる者なり、当寺仏法繁栄の状件のごとし、

 

 「解釈」

 安芸国無為山実際寺のこと。紀氏栗栖帰源禅門の開基である。愛宕山の勝軍地蔵菩薩の尊像を勧請し申し上げた。武運長久と一門の結束を祈るためである。上与一野と屋敷は、将来に至るまで寄進されるものである。当寺の仏法は繁栄するはずである。

 

 「注釈」

「芸陽」─未詳。安芸国の意味か。

愛宕山」─京都市右京区嵯峨愛宕町愛宕神社本地仏は勝軍地蔵(『京都市の地

      名』)。

「上与一野」─広島県山県郡安芸太田町寺領。

 

*偽文書の可能性があるようです。

実際寺文書1

解題

 戸河内の発坂城主栗栖喜太郎が禅門に入り、帰源と称し、造立したのが当寺である。

 一号文書は義弘花押が周知のものと異なっており、与一野年貢帳その他と同一人の筆である点今後の研究をまちたい。四号文書の与一野は戸河内村内の地名に見られる。

 この寺は江戸時代、真宗への改宗が進むなかで禅宗を守り通したが、今では無住となり、檀徒が堂宇・文書を管理している。

 

 

 「実際寺」(戸河内町土居)『広島県の地名』(平凡社)より

 発坂城跡の西方に開けた土居のほぼ中央にある。臨済宗妙心寺派。無為山と号し、本尊は釈迦如来鎌倉時代末より、この地方を支配してきた土豪栗栖氏一族の喜太郎が出家して帰源と号し、当寺を創設したと伝える(永和元年九月一〇日付「雪舟寄進状」当寺文書)。

 貞治五年(一三六六)の実際寺領与一野年貢帳写が伝来し、当寺は少なくとも南北朝中期には存在した。応永元年(一三九四)の大内義弘安堵状があり、同三五年八月一九日付の祖綱外余命連署寄進状(当寺文書)は「安芸国山県郡大田郷戸河内村内実際寺領理地庵屋敷事」として、東は「従開山塔佛殿之小庭ヲ限」、南は「横路ヲ至西之谷限」、西は「従谷尾筋ヲ登大峰尾ヲ至瀧首限」、北は「従瀧首平ヲ下至開山塔限」と記す。その後、毛利元就は寺領与一野を没収し、代わりに土居原のうち四〇石を寄進したという(芸藩通志)。

 

 

   一 大内義弘安堵状

 

 (包紙)

 「大内殿御判物壹通、雪舟判物壹通并地割判形書物」 ○本文書以下三通ヲ包ム

 

   (山縣郡)

 安藝国太田郷實際寺領事、任皈源寄附状之旨、停止萬雑公事、寺家領掌

 不相違之状如件、

     (1394)

     應永元年十二月十七日

            従四位上行左京權大夫多々良朝臣(花押)

        ○本文書、研究ノ余地アリ

 

 「書き下し文」

 安藝国太田郷實際寺領の事、皈源寄附状の旨に任せ、萬雑公事を停止し、寺家領掌相

 違有るべからざるの状件のごとし、

 

 「解釈」

 安芸国山県郡太田郷実際寺領のこと。帰源の寄進状の内容のとおりに、様々な公事を停止し、寺家が領有することに間違いあるはずはない。

 

*偽文書の可能性があるようです。