周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

田所文書1 その5

    一 安藝国衙領注進状 その5

 

    崇道天皇免二百卅歩

    一御社免四十二町

     御供田二丁八反

      福永七反          八月中朔幣田

      松丸七反          九月中朔幣田

      國正七反          十一月一日田

      爲則七反          十一月中朔幣田

     御洗米免一丁         倉光 元祝師

     御鏡田一丁七反        愛淂内侍

     戎社免三丁          竹林内侍

                    (爲ヵ)

     御散米田五反         ⬜︎則

     同御供田一丁         爲則

     御神楽免七丁四反

      爲則一丁          行金三丁九反

      則末二丁五反

     造酒免九反大         福永 若松

     粥座酒免五反         守行

     神力寺佛供田五反       有慶

            (反)

     御戸開免三丁五⬜︎

      友久二丁          光包一丁五反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

     外宮免三丁五反

      御供田一丁 二季分       守行

      御油免一丁         爲則

      御粥免五反         景宗

       (肴)

      酒希免一丁 二季分      守行

     御讀經免十二丁六反小

       (珎)

      承⬜︎⬜︎丁          行重一丁

      弁覺一丁 今者願力      貞雲一丁一反

      直性一丁          宗海一丁

      應兼一丁          俊兼一丁五反小

      仁増七反          良弁五反

      幸尊一反小

      承仕一丁

       正珎五反         東福五反

     [    ]         道西一丁(割書)「今者道善」

     最勝講免三丁

      南内侍五反         爲則五反

      若狭尼七反         有慶三反

      弥陀内侍一丁

    惣社仁王講免四反        際海

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

    五ヶ寺免四丁九反斗((半))

         (一反斗)       (例)

     下地二丁⬜︎⬜︎⬜︎        ⬜︎免二丁八反

    吉祥御願免六反         貞包

    舞人免五丁五反

     信家五反           久道二丁

     友久二丁           正員一丁

    公廨田一丁四反

     久武一反           淂重六反

     孝清七反(『己斐六郎左衛門入道』)

       (官恪勤免四丁ヵ)

    一宮神⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎

     久重一丁           宗高一丁

                           (弘ヵ)

     頼景一丁           助成一丁 元助⬜︎ 

    代官免六反

     包友三反           光助三反

    國役人給免四反大

     國掌免二反          包友

     梶取免二反大         清眞

    逓送田二[

           

   應輸田十二丁

    別結解(八丁五反)        九丁五反六十歩

         三反

     利松二丁o小         官米五斗代

        一丁六反

・・・・・松丸(八反三百歩)・・・・・・・ 六斗二升七合代・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

崇道天皇」─早良親王崇道天皇)を祀った神社の免田か。疫神。

「朔幣田」─昔、毎月の朔日(ついたち)に神に幣帛(へいはく)を奉ること。国司

      郡内の神社に奉幣するもの、神社自身が行うもの、また春日神社のように

      氏人たる国家が行うものがあった(『日本国語大辞典』)。

「御洗米」─水で洗って清めた白米。神の供物などにする。かしよね。せんまい(『日

      本国語大辞典』)。

「戎社」─未詳。

「神力寺」─未詳。

「承仕」─①寺院で、法事などの雑事に従う者。②仙洞・摂家・寺院で雑役をつとめる

     僧形の者(『古文書古記録語辞典』)。

「恪勤」─「かくごん」「こうごん」とも読む。格勤、挌勤とも書く。精勤、奉公、つ

     つしみ勤めるの意であるが、親王や石棺に近侍して、宿直・警固、雑役をつ

     とめる下級武士をいう。精勤武勇の士(『古文書古記録語辞典』)。

田所文書1 その4

    一 安藝国衙領注進状 その4

 

    宗門四反            安遠四反

    宗員三反            宗包四反

    琴持二反 有福         清重一反小

   代官免六反

    助延三反            助光三反

   税所勘料田一丁七反

           (五反)

    遠清官物勘料田⬜︎⬜︎

    清家納所勘料田八反

    清遠雑物勘料田四反

        『四』

   公廨田五丁反大

       (朱筆抹消)

                    (朱筆抹消)

    久武二丁五反          兼弘五反

 

    兼弘一丁 今[ ]        清家二反大(『自照』)

                     (清ヵ)    (六郎左衛門入道)

    高宗五反           (孝⬜︎三反『己斐[      ]』)

    有光六十歩           例代

            (押領)

    有冨一丁小 守護⬜︎⬜︎       同

    近冨二反小 守護押領       官米五斗代

    今冨三反大 地頭押領       同

        (半)

    弥吉七反斗           官米三斗代

    氏吉一反            官米二斗代

    久恒二反三百歩 地頭押領    [

    時成一反           [

    若松二反            例代

    千与延斗            官米五斗代

    法師丸一丁三反大        例代

                        (合代)

    細工所佃一反 貞弘         六斗五升⬜︎⬜︎

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

入广輸 諸社御幣紙免七反

   逓送田四丁五反

       (驛家)(二丁ヵ)

    [ ]⬜︎⬜︎[  ]

    佐西驛家二丁五反

   新勅旨田一丁九反小

     十(丁)五

  應輸田⬜︎⬜︎⬜︎反大

  [      ]

    重[              六斗二升七合代

    久延六十歩           同

    利松六十歩           同

    吉次五反大           同

                    (官ヵ)

   [    ]           ⬜︎米三斗代

    光清一反小           同

         (半)

   別符七丁八反斗

    國作所七丁六反斗

     御瓦一丁三反小

    [   ]代一丁        六斗代三反小

                    (六)

    [   ]五反         ⬜︎斗五升七合代

     成元五丁八反六十歩      例代

    郡分八反大

     官米四斗代大

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

      ]八反

     ]丁一反大

       (一ヵ)

      ]⬜︎反

        ]

    一御社免九反

     御供田七反          壽命丸

     二季御祭田二反        若松

                          (反)

      造酒免一反         屋津代酒免一⬜︎

    撰社免一丁

    久武公廨田二反

      (御幣)

    御社⬜︎⬜︎紙免四反

       (丁)

   應輸田五⬜︎大

    別符

     國作所四丁八反

      御瓦田二丁七反       八斗代

     (松方佃) (反)

     [  ]七⬜︎           六斗五升七合代

      成元一丁四反        例代

     久武二反大          例代

  (佐)   

  ⬜︎西郡七十町(一反六十歩)

   除不輸免六十二丁四反大

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

 「注釈」

「税所勘料田」─「税所」=正税・官物の収納・勘定を行う国衙の所(部署)。重要な

        職であったから、税所を統括する在庁官人には有力者が多かった。

        「勘料」=中世、荘園・公領において、調査の結果免税地とされたと

        きに支払うもの(『古文書古記録語辞典』)。ここでは、以下に続く

        「官物」「納所(年貢か)」「雑物」が、勘料を支払うことで免除さ

        れた土地と考えておきます。

「官物」─令制下の租・庸・調・雑物など貢納物の総称。⑴平安中期以降の公領におけ

     る貢納は官物と雑役であるが、田租と地子米を合わせて官物といい、また貢

     納物を官物と田率雑事に分ける。⑵平安後期には、官物と臨時雑役の体系に

     かわって国ごとに公田官物率法が定められた。保安三年(1122)伊賀国

     では、別符〜段別見米三斗・准米一斗七升二合・油一合・見稲一束・穎二

     束、院御荘出作田〜見米三斗・准米一斗七升二合・穎三束であった。⑶荘園

     における年貢所当のこと(『古文書古記録語辞典』)。

「納所」─国衙の租を納める倉庫、収納所。年貢収納に伴う納所の得分があった。①封

     戸からの収納物の輸送のために港湾に設けられた倉庫。②郡・郷・荘園の倉

     庫。③寺院や貴族の邸宅に設けられた倉庫。④国衙領・荘園内の徴税単位

     (=農民的納所)(『古文書古記録語辞典』)。

「雑物」─「雑役」=律令租税体系が崩れたあと、10〜11世紀の公領では、官物と

     雑役からなる租税体系にうつる。雑役は夫役と雑物を内容とし、臨時雑役と

     も称される。荘園の負担体系も、年貢・雑公事・夫役に変わる(『古文書古

     記録語辞典』)。

「佐西駅家」─佐西郡の駅家、すなわち種篦駅(廿日市市下平良)、濃唹駅(大野町高

       畑)、遠管駅(大竹市小方町)のことか(『広島県史』原始古代)。

田所文書1 その3

    一 安藝国衙領注進状 その3

 

      [            [

       有富三百歩        爲光一反大

       友重三反小        近道一反大

       有福七反六十歩      弥冨一反大

       清重小          清末一反大

       貞安一反小        爲員六十歩

       近光大

     往生院免一丁

    八幡宮免四丁四反

         (一反斗ヵ)

     御供田二丁⬜︎⬜︎⬜︎

      久武一丁          宗門三反

      重門一反          慶淂三反

      末宗半           末員一反

      若松二反

     上分田二反          慶淂

     新宮免五反

    [              [

    諸社免四丁五反三百歩

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

                        (光)

    惣社免一丁五反         神主 兼⬜︎

     御神楽免一丁         弥冨

     仁王講免二反         明円 今上福

     御鏡田三反          一樂

    熊野山御油田六反小

          (半)

    角振社免三反斗         兼守

          (斗ヵ)

     御供田一反⬜︎         ⬜︎⬜︎

          (反)

     仁王講免二⬜︎         慶眞

    安木都彦社免一丁

    椙樌社免二反

    日吉大宮免一反

    男長社免二反

         (三反)

    府山王免⬜︎⬜︎

     道祖神ヵ)

    辻⬜︎⬜︎⬜︎免二反

    戸坂道祖神免一反

   府諸寺大般若經一丁五反      有光

   諸寺免五丁四反

    五ヶ寺免二丁一反

     下地一丁二反

      光永小           末延二反

      國守六十歩         國元小

      今冨一反          中太六十歩

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

      有冨五反          乃力一反小

      有福一反小         内侍小

     例免九反

      久武六反          包里三反

    三昧堂一丁一反

        (反ヵ)

     覺源四⬜︎          [  ]四反

      (三ヵ)

     ⬜︎⬜︎⬜︎反

     実相寺免一丁

     常行三昧免二反        長円 今上福

     願福寺免一丁

      堂免七反          塔免三反

                (半)

    御館長日御讀經免一丁四反斗

     嘉憲六反           鏡眞六反

         (半) (者)

     覺源二反斗 今⬜︎⬜︎円

    内侍免一丁一反百八十歩

     正内侍免五反         凡子二反

         (半)

     有光一反斗          今子三反

    舞人免一丁二反

     兼弘五反           高宗二反

     員家五反

     (従免ヵ)

    倍⬜︎⬜︎[    ]

    清[   ]子四反       宗國二反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「往生院」─未詳。

「上分田」─「上分」=もとは神仏に上納する貢進物のこと。上分を「ハツオ(初

      穂)」と称することがある。土地からの貢納物は地利上分と称し、商業・

      交易に伴う収益の一部を上納するときは交易上分、津之上分などといっ

      た。中世末期には年貢を意味する言葉となる(『古文書古記録語辞

      典』)。

「新宮」─熊野神社か。以下、「安木都彦社」の注釈参照。

「御神楽免」─神楽の費用を捻出する免田か。

「御鏡田」─鏡餅を作るための米を納める田地か。

「安木都彦社」─安佐南区祇園町南下安。安芸津彦神社はもと官幣社といい、「芸藩通

        志」に「厳島兼帯七社の一つなり、祭神十六座ありといふ、官幣の号

        を按ずるに、昔朝廷より毎歳厳島社に奉幣あり、その幣帛を当社より

        仕出し、又其旧幣を当社に納るよりかく称るならんか、今も厳島社、

        二月・十一月の祭に当社より弊紙・散米・敷布を供す」と記される。

        鎌倉中期と推定される安芸国衙領注進状(田所文書)に見える「一宮

        二季御祭御弊紙免」は、官幣社に宛行われたものと考えられる。のち

        に安芸津彦神社(安芸国衙領注進状には「安木都彦社とある)を合

        し、村内青原から現在地へ移り、明治五年(一八七二)安芸津彦神社

        と改称。熊野神社は新宮社とも称し、武田家が火防神として勧請した

        という(「南下安村」『広島県の地名』)。

「椙樌社」─現山田二丁目付近に「杉ヶ森」の地名が残っている(「芸藩通志」所載絵

      図)(「府中町」『広島県の地名』)。

「男長社」─「尾長社」と漢字をあてるか。「尾長村」は東区尾長町広島城下の村

      で、新開組に属した。古川村の北に位置する。東は安芸郡矢賀村。標高1

      80メートル前後の東西に長い尾長山(東部と高丸山、西部を二葉山とい

      う)の南麓に開けた低地で、南を江戸時代初期まで古川(太田川の分流)

      が流れていた(『広島県の地名』)。

「辻道祖神」─辻道祖神は「安芸国神名帳」の道通(みちとおり)明神で現本町三丁目

       にある導神社(通称「辻のいぼ落し」であろう(「府中町」『広島県

       地名』)。

「戸坂道祖神」─東区戸坂町。鎌倉中期と推定される安芸国衙領注進状(田所文書)に

        は「戸坂道祖神免一反」と見え、かつて大上字中の畑(現戸坂大上

        丁目)にあった幸之神社(現在三宅神社に合祀)は「戸坂道祖神」の

        後進と考えられる(「戸坂村」『広島県の地名』)。

実相寺」─安佐北区白木町小越村。市川村の三篠川を境に東対岸に位置し、南はその

      支流を挟んで秋山村に接する。高田郡に属し、古くは秋山村と一村であっ

      たともいう。「芸藩通志」に「広三十町、表十五町、東北は山高く、西南

      は平田にて、川を界す、民産、工商あり」とある。承安三年(1173)

      二月日付の安芸国司庁宣(厳島文書御判物帖)に「三田郷内尾越村為伊都

      岐島御領、知行民部大夫景弘事」とあり、続けて「右件三田郷内尾越村

      者、任文書相伝之理、為神主景弘朝臣地頭寄進伊都岐島御領、於官物者、

      弁済国庫、以万雑公事代、可令勤仕神役之状、所宣如件」とあり、他の三

      田郷内の村々と同様、平安時代末期には厳島神社領として万雑公事代を神

      社に納めることになっている。一方で、鎌倉時代中期のものと思われる安

      芸国衙領注進状(田所文書)には「小越村二丁一反斗」とあり、「除不輸

      免二丁一反斗」として「実相寺馬上免一反斗、同例免五反、鎌倉寺免五

      反、総社仁王講免一丁」と記される。なおこの頃小越村の地は厳島神社

      三田新庄にも属したらしく、同庄の上村と下村の村境の和与を記した永仁

      六年(1298)五月日付の藤原氏代使源光氏藤原親教和与状(永井文

      書)に「小押越狩倉内目籠大丸小丸可被付上村」とある。この「小押越」

      が小越村のことかと思われるが、この和与状に記される地名を現在地に比

      定すると、三田新庄上村はおおよそ現白木町秋山地区、下村が原三田地区

      と考えられる。(中略)居拝見にある中山神社は、「国郡志下調書出帳」

      に中山八幡社と記され、勧請年月は不詳であるが、寛永七年(1630)

      再建の棟札があると記される。同書出帳は他に吉井権現社・山根荒神社を

      記し、実相寺という地名が残り、観音堂一宇があると記すが、これは前記

      国衙領注進状に見える実相寺の跡地と思われる(「小越村」『広島県の地

      名』)。

「常行三昧」─仏語。摩訶止観の四種三昧の一つ。天台宗で、90日間を一期として、

       その間、飲食、大小便、乞食などのほかは堂内にあって、常に阿彌陀仏

       の像のまわりを歩きつつ、その名を唱え心に彌陀を念ずる三昧。常行

       (『日本国語大辞典』)。

「願福寺」─未詳。以下の「堂免七反」と「塔免三反」の地積の合計は「一丁」なの

      で、堂と塔は願福寺の所属だと考えられます。

田所文書1 その2

    一 安藝国衙領注進状 その2

 

      助門一反小

     人長免一丁           助俊

     主典免四反           宗俊

      (官)

     代⬜︎免六段

      (助)

      ⬜︎次三反           末弘三反

     勅使税所勘料田一丁       員家

     公廨田六丁七反六十歩

      弥富一反六十歩        貞重一反

      兼氏二丁           員家一丁

                     (利)

     [    ]          ⬜︎兼[

      高宗五反           保員⬜︎反

      (兼)

      ⬜︎重四反(割書)「今者 道祖房丸」

     府木屋免六反小

     御厩舎人近守免五反

     國役人給免七丁五反

      紙免一丁 守護押領       有富

      温屋免一丁

       氏吉三反小          爲冨三反小

       光正三反小

      馬木炭免二丁五反

                    (半)

      例代段⬜︎    二丁三反斗

  安南郡

   温科村六十三町八反小

    除不輸免五十四丁七反六十歩

     馬上免四丁九反

      村八幡宮免三反

      府守免二反

      石屋寺免一丁四反

       本免一丁三反     下符代佛供田一反大畠二反

      中山寺免二丁

      熊野御油免一丁

     一御社免十一町八段

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)

      國作所三丁二反 地頭押領

            (半)

       御瓦田九反斗

             (半)

        八斗代四反斗      四斗代四反

        六斗代一反

       松方佃三反

              (半)

       成元一丁九反斗      例代

            (半)

      恒武二反斗         例代

      迩保嶋四丁八反小 地頭押領  同

      弥冨二反三百歩 地頭押領   官米五斗代

      爲冨七反[  ]       例代

     [              [

       延行一丁七反        爲守七反

                (歩)

      御讀經免八丁一反三百⬜︎

       西入二丁三反       弁西大

       幸印一丁         嚴印一丁九反小

       覺源三反三百歩      有暹一丁

       明重一丁         修正大餠田五反

           (肴ヵ)

      沼田郡代酒希田一丁

・・・・・・・造酒免二反六十歩・・・・・有福・・(紙継目裏花押)

     八幡宮免三丁七反

      御供田一丁七反

           (半)

       包恒三反斗        武宗三反

       光利一反         宗時二反

       重門[  ]

      大般若經免一丁八反

                    (弁)

       幸舜五反         ⬜︎⬜︎三反

       爲光一丁

      仁王講免二反        幸舜

     諸社免五丁七反六十歩

      惣社免二丁七反

      法花經免九反

       幸印二反         幸舜七反

      仁王講免一丁八反

       榮西一反         明円五反

       幸印二反         信覺一丁

             (半)

     角振社免一丁三反斗

     [ 

      宮丸五反 元黒丸        末友三反 鶴王内侍

      安弘三反          有光二反

 

 

     御読經免五丁八反三百歩

      慶暹一丁          定円五反

      仁増三反          嚴印

      忠兼一丁          覺源六反六十歩

      幸印二反          良慶一丁

      朝覺二反          良賢二反

       (仕八ヵ)

      承⬜︎⬜︎反          (經)

       良[           ⬜︎法五反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)

   つづく

 

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「人長」

 ─宮中の御神楽儀、石清水など大社での神楽の儀式で株を演奏する神楽人の長。地下楽人では多家、堂上人では源雅信藤原頼宗・山科実教の家筋の者が担当した(『古文書古記録語辞典』)。

 

「主典」

 ─令制四等官の最下位。上に長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)がある。文案を奏し、公文書の抄録・読申をつかさどる。官司によって字が異なる。そうかん。しゅてん(『日本国語大辞典』)。

 

「勅使税所勘料田」

 ─ここでの「勅使」の意味はわかりません。「税所」は正税・官物の収納・勘定を行う国衙の所(部署)。重要な職であったから、税所を統括する在庁官人には有力者が多かった(『古文書古記録語辞典』)。「勘料」は、中世、荘園・公領において、調査の結果免税地とされたときに支払うもの(『古文書古記録語辞典』)。ここでは、勘料を支払うことで免田となった土地と考えておきます。

 

「公廨田」

 ─くげでん・くがいでん。①太宰府官人および国司に支給された職田、不輸租田。②天平宝字元年(七五七)以後、諸司公廨田が設置され、これが各官衙の独自の財源となり官衙領化した(『古文書古記録語辞典』)。

 

「木屋」

 ─貯木場。中世山城国木津の木屋は有名である。管理者として木屋預がおり、木守・寄人が田畠地子と雑公事を免除されて木屋役をつとめ、材木の搬出入・保管業務を行った(『古文書古記録語辞典』)。

 

「温科村」

 ─東区安芸町温品。広島から東北方の高宮郡小河原村(現安佐北区)に至る谷の入口にあたる。安芸郡に属し、南は矢賀村、府中村(現安芸郡府中町)、西は稜線を境にして戸坂村・中山村にそれぞれ接する。北は蝦蟇ヶ峠を越えて細長い谷が矢口村(現安佐北区)に通じ、峠以北の谷も当村域に属した。村内を東北から西南へ温品川が貫流し、東には高尾山(424・5メートル)がそびえる。「芸藩通志」に「昔は此辺まで入海なりしよし、金碇とよぶ地、往年鉄錨を掘出せしといふ、其地一段許は、今に深泥幾丈を知らず、耕種牛を入ことを得ずといふ、また舟隠とよぶ地もあり、古の舟入なりしにや」とあり、府中村に近い字長伝寺には、金碇神社が鎮座する。

 建久九年(1198)正月日付平兼資解(「芸藩通志」所収田所文書)に「一所温品科方冬原」とあり、この土地の四至は「東限温科河 西依請浜 北限弥吉開発田 南限温科川依請」と記す。平安・鎌倉時代の温科村には六三町八反一二〇歩の国衙領があり、うち五四町七反余が不輸免で(年欠「安芸国衙領注進状」田所文書)、厳島社以下諸社寺の免田や、在庁官人田所氏の私領(一〇町余)などがあった(正応二年正月二十三日付「沙弥某譲状」同文書)。また平安末期に後三条天皇が設定した安芸国新勅使田に含まれる部分もあったらしく、弘長三年(1263)安芸国新勅使田損得検注馬上帳案(東寺百合文書)などにある。「久曾田三反小」は寛永十五年(1638)温品村地詰帳(広島市公文書館蔵)に見える字名「くそた」にあたる。

 承久三年(1221)関東武士平(金子)慈蓮が温科村地頭職に任じられた(同年十一月三日付「平盛忠譲状写」)以上毛利家文書)。金子氏は鎌倉時代は地頭代を派遣していたらしいが、(建治元年九月十日付「六波羅御教書」藤田精一氏旧蔵)、南北朝時代になると自ら温科村で押領を続け(嘉慶元年十月十一日付「室町将軍家御教書」東寺百合文書)、室町時代には温科氏を名乗るようになった。村の中央部温品川左岸の独立丘にある永町山城が温科氏の拠城といわれる(芸藩通志)。同氏は明応八年(1499)主君武田氏に背いて敗れた(同年八月六日付「室町幕府奉行人奉書」毛利家文書)。大永五年(1525)毛利元就は尼子・武田方から大内方に復帰、武田氏の治下にあった「温科三百貫」などを大内氏から与えられたが(年月日欠「毛利元就知行注文案」同文書)、武田氏滅亡後は大内氏領になったらしい(天文十年七月二十三日付「大内義隆預ヶ状写」同文書)。しかし天文二十一年(1552)元就は大内義隆を倒した陶晴賢から温科などの知行を認められた(同年二月二日付「毛利元就同隆元連署知行注文」同文書)。以後毛利氏は熊谷信直に温科半分を与えているのをはじめ(年未詳九月二十八日付「熊谷信直書状案」熊谷家文書)、家臣に給地を分与し、村役人として散使を置いた(「毛利氏八箇国時代分限帳」山口県文書館蔵)(『広島県の地名』)。

 

「不輸免」

 ─「不輸・不入」。不輸とは、国から賦課される税目の一部が太政官あるいは国衙によって免除されること、不入とは国使・国検田使等の立入りを拒否すること。一般に、不輸・不入の特権を獲得することによって荘園の成立とする見解があったが、正確ではない(『古文書古記録語辞典』)。

 

「馬上免」

 ─馬上検田免除の特権の認められた土地。屋敷・堀ノ内・新開発地・仏神田・荘官給田・佃などが免除の対象となる(『古文書古記録語辞典』)。

 

「本免」

 ─本免田とも。荘園成立時の免田部分。以後に課役免除となった部分は新免田である。

 

「下符」

 ─徴符。徴下符、下符ともいう。国衙領・荘園で、百姓に官物・公事の納入を命ずるために徴収額を記載した文書。国衙から発行された徴符には国司の印を捺した赤符と、印のない白符の二種類があった。徴符を以て郡司・荘官は官物・公事を徴収した。百姓が納入・弁済すると返抄(請取状)が交付された(『古文書古記録語辞典』)。

 

中山寺」─未詳。

 

「熊野御油」─国衙領に勧請された熊野社で使用される油代の費用を捻出する土地か。

 

「國作所」

 ─未詳。国の山作所のことか。山作所は、奈良時代寺院に属して造営のための木材をきりだし、製材する作業事務所のこと(『日本国語大辞典』)。

 

「御瓦田」

 ─未詳。瓦生産の費用を捻出するため、あるいは瓦職人の給田として設定された田か。

 

「佃」

 ─荘園・公領における領主・預所・地頭・下司・郡司・郷司の直営地。正作、用作、手作、門田などともいう。わずかな種子・営料を支給するが、農民の無償労働によって形成され、殆ど全収穫を領主が取る。平安末期に、名にほぼ均等に佃を割りつけ、妙手の責任で経営させることが起こり、時代が下るとともに佃の平田化が進み、通常の名田と同様に斗代を付し、佃としての特質は失われる(『古文書古記録語辞典』)。

 

「迩保嶋」

 ─仁保島。南区仁保。広島湾奥東部、府中村(現安芸郡府中町)の西南に浮かぶ仁保島を中心とし、猿猴川を隔てて東の向灘浦と、南方海上金輪島宇品島似島・峠島・珈玖摩島(弁天島)・小珈玖摩島(小弁天島)を村域とするが、各島とも平地は乏しい。このうち仁保島と向灘は近世に、宇品島は明治二十二年(1889)の宇品築港でそれぞれ陸続きとなった。安芸郡に属した。「芸藩通志」は、「にほ」を鳰の義とするが、おそらく当島の鎮守神邇保姫社に由来する地名であろう。鎌倉中期ごろの安芸国衙領注進状(田所文書)に「迩保嶋四丁八反小地頭押領」とみえる。室町時代には出張城(跡地は現府中町)に拠った武田氏家臣白石の一族が仁保島に進出し、黄金山(212・2メートル)頂に築いた仁保城を拠点にして周辺海域を地下においた。その後、天正十九年(1591)に三浦元忠が仁保島の領主となっていて、検地の結果、当島は一三三石八斗六升とされた(天正十九年十一月九日付「毛利氏年寄連署知行注文」三浦家文書)(『広島県の地名』)。

 

「修正大餅田」

 ─「修正会」。仏語。毎年正月諸宗の寺院で修する年始の法会。その年の天下平安、玉体安穏などを祈って読経する(『日本国語大辞典』)。中世では修正会を営むための経費は、在地から公事として壇供餅が寺院に納入され、それが法会に供えられた。法会が終了すると、壇供餅は花餅として参列した僧侶や承仕や猿楽・寺人に配分された(井原今朝男『中世寺院と民衆』臨川書店、2004)。これは壇供餅の進上を公事として賦課された田地と考えられます。

 

沼田郡代酒肴田」

 ─未詳。「郡代」は、室町・戦国時代、もと守護代といわれた、一郡・二郡を支配した役職。警備・租税のことを掌る。郡奉行、大代官などとも称した。江戸時代には勘定奉行配下似合って、幕府直轄地の支配に当たった職。「酒肴(料)」は、室町時代、荘園の年貢算用状の「国下用」の項目に見える費目。荘園領主から守護・守護代官・守護使に与えた一種の賄賂。一献料、秘計、礼物も同性質のもの(『古文書古記録語辞典』)。この史料は鎌倉時代中期のものと考えられています。鎌倉時代に「郡代」という役職があったのかどうかわかりません。

 

「造酒免」

 ─未詳。酒造りの費用を捻出するために免田として設定した田地か。あるいは、造酒司の便補保として設定された田地か。

 

八幡宮免」

 ─松崎八幡宮安芸郡府中町宮の町5丁目。石清水八幡宮末社(「安芸国」『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000)。

 

「大般若經免田」─大般若経を読誦する法会の費用を捻出するために設定された免田。

 

「仁王講免」

 ─仁王経を読誦・講讃する法会を仁王会・仁王講といい、天武五年(676)十一月には諸国で営まれていた。仁王経は、仁王護国般若波羅蜜多経のことで御斎会や最勝講の金光明最勝王経、法華経と並んで護国三部経と言われる。天皇が主催し国家の命令によって実施した仁王会・仁王講には三つの種類があった。第一は天皇の即位に際して一大一度の大仁王会(践祚仁王会)。第二は、季仁王会といわれて春・秋に行われる年中行事の仁王会。第三が天変地異や兵乱、外寇、虫害除去、地震旱魃・疫病などの国家的危機に際して宣旨などで執行が命じられた臨時仁王会(井原今朝男『中世寺院と民衆』臨川書店、2004)。

 

惣社免」

 ─安芸郡府中町本町3丁目に総社跡とある。明治七年に創設された多家神社への合祀を機に廃社となった(「安芸国」『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000)。

 

「法華經免」─法華経を読誦する法会の費用を捻出するために設定された免田。

 

「角振社免」

 ─安芸国神名帳に角振隼総(つのふりはやぶさ)明神とみえ、天文年中に破壊され、前記注進状にみえる末社の山王社(現本町三丁目の三翁社)に合祀したという(芸藩通志)(「府中町」『広島県の地名』)。

田所文書1 その1

解題

 田所氏は、本姓佐伯氏で平安時代後期から安芸国衙在庁官人として田所文書執行職を世襲した家である。一号文書は鎌倉中期ころの安芸国衙領の状態をしめしている。府中を中心とする郡・郷・村・名がいずれも並列的に記載され、おのおのの田積をあげ、応輸田と不輸田に分け、後者は各免田ごとに記している。

 二号文書はその前半には船所惣税所得分以下田所氏の相伝する得分、府中・船越村・原郷・三田郷その他所々に散在する数十町の田畠が書き上げられ、後半には同氏の所従が列挙されたものであり、在庁官人田所氏の財産を知ることができる。異筆ながら正応二年(一二八九)の年紀があるが、その内容は数十年さかのぼった時期の事情をも示している。

 なお、『楓軒文書纂』五十四(国立公文書館内閣文庫蔵)に、天明五年(一七八五)における田所氏所蔵の文書目録が収められているので、以下その全文を掲げる。(以下に目録が続きますが、省略しました)

 

 

 

    一 安藝国衙領注進状 その1

 

 「                  ⬜︎乗五反 今者良賢

                    (暹ヵ)

 「                  ⬜︎⬜︎五反 今者寛乗

        ]           宗海一丁

      ⬜︎立免           信家

     [  ]三反六十歩

     村十丁一反六十歩

                      (抹消)

                      六反大

        時宗三反[  ]    祝師二反

        中内三反        宗迫一反大

    (最勝講ヵ)

    [   ]免五反         道寂

     感神院社免三反

                    久家一反

     石屋寺免一丁

     ⬜︎人給免二丁一反

         ]          ⬜︎利

      ]免五反          如願跡 今者覺源

          ]        [   ]

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)

      員恒二反 今助員       友重二反

      宗員二反 今有⬜︎       貞安一反

     此物免一丁小

      末延七反          貞弘三反小

     上世乃正木[  ]小

     [              貞弘三反小

      仁王講免一丁[       羕兼

      修理免三反

     日吉大宮免五反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

      氏吉三反          末弘二反

     水別社仁王講免三段      有冨

     熊野上分田三反大       公俊

     府白山免五反         氏吉

    諸寺免一丁三反

     三昧堂免二反

     安養寺七反

     五ヶ寺[    ]

     梶取免一丁二反六十歩

      時宗四反三百歩       恒員四反

      眞安二反          安弘一反小

    (造府)

     ⬜︎⬜︎所免二丁三反

      武宗一丁八反        守弘五反

     鍛冶免八反          清眞

      (末國ヵ)

     狩飼⬜︎⬜︎免一丁一反

     水守四反

    逓送田五反三百歩

    新勅旨田七丁八反大

    本勅旨田二十丁

        六 『八』(半 以下同ジ)

   應輸田二十反斗

                         (代)

    別結解宮吉一丁八反三百歩     六斗二升七合⬜︎

    (諸別符二十)

    ⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎[

     (清ヵ)   (佐西ヵ)

     高⬜︎   『⬜︎⬜︎孫三郎』      遠清二反

     在廳屋敷一丁          有光

     御厩案主免三反大        有福

     國役人給免十丁五反三百歩

     紙免一丁三反

      有冨一丁 守護押領        爲光三反 諸社

     温屋免八反

      得重三反小 地頭押領       弥吉三反小

      今冨一反小 同

     國掌免七反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)

      法師丸一反          有光三反

   (諸)

    ⬜︎寺社大般若経免[         有冨

    御舘長日講経免一丁二反

     ⬜︎慶六反            有暹六反

    内侍免一丁四反斗

     木子二反            凡子三反斗

     石子三反            三子三反

     光子三反

     舞人免一丁

      爲光五反 元助行        清正五反

     倍従免一丁百⬜︎⬜︎((廿歩))

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)

   つづく

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「感神院社」─祇園感神院(京都市の八坂神社)から勧請されたものか。

「石屋寺」─未詳。

「仁王講」─「仁王会」。仁王経を講讃し災難をはらう法会。七世紀後半に始まり、平

      安時代に年中行事化した。二、三月と七、八月に行われる春秋二季仁王会

      と臨時仁王会がある(『古文書古記録語辞典』)。

「日吉大宮」─現在の滋賀県大津市日吉大社西本宮(旧大宮・大己貴神)を勧請した

       ものか。

「水別社」─「水分社」のことか。「みくまりの神」は「流水の分配をつかさどる

      神」、「水分神社」は「旱天に雨を祈る農耕の神を祀った神社」(『日本

      国語大辞典』)。

「熊野上分田」─熊野三社への初穂米を納めるために年貢を免除された田か(網野善彦

        『日本中世の百姓と職能民』)。

「府白山」─国府に勧請された白山神社のことか。

三昧堂」─仏語。僧が籠もって法華三昧または念仏三昧を修する堂。多くは法華三昧

      堂をいう(『日本国語大辞典』)。

「安養寺」─未詳。

「梶取」─船の舵を取り操るもので、挟抄、柁師とも書く。水手を指揮し、国衙領・荘

     園の官物・年貢の輸送に当たった。給免田を給与されているものもあった

     (『古文書古記録語辞典』)。

「造府所」─国衙を造営・修造するための免田か。

「狩飼」─未詳。狩猟場のことか。

「水守」─未詳。用水路、あるいは川堤の管理者か。

「逓送田」─宿場から宿場へ順々に送ること。宿継で送ること。伝送。逓伝(『日本国

      語大辞典』)。伝馬や飛脚のような通信システムの運営費を捻出する田

      か。

「勅旨田」─勅旨によって設定された田地。開発・経営には正税・公水を用いた。寺社

      に施入されたり貴族に与えられた例が多い。八〜九世紀の水田開発政策の

      一環と見ることができるが、面積の広大さにもかかわらず、多くは空閑

      地・荒廃地であって、経済的意義は小さいとする見方もある(『古文書古

      記録語辞典』)。

「応輸田」─国衙の課役が賦課される田地。

「温屋」─温室・湯屋のことか。「温室」は「湯屋、湯殿。室町時代の字書には『温

     室 ウンシツ 風呂也』とある」。「湯屋」は「入浴施設のある建物。温室

     院ともいう。東大寺法華寺などに古い湯屋が現存している」(『古文書古

     記録語辞典』)。湯屋とは沸かした湯を浴びる場をさし、これと類似した言

     葉である風呂とは蒸気を浴びる蒸風呂を指すのが本来の語義である。しかし

     両者は早くに混用されるようになっており、温室・浴堂などの言葉も用いら

     れた(国立歴史民俗博物館『中世寺院の姿とくらし』)。

「国掌」─九世紀半ば頃から諸国に設置された中央の官掌、省掌と同様な官。その職掌

     は、「訴人を通伝し、使部を検校し、官府を守当し、庁の事を舗設する」。

     定員二人で把笏を許され給田が与えられた(『古文書古記録語辞典』)。

「御舘長日講経」─国府で催される数日にわたる法会か。

「内侍」─内侍司の女官の総称。内侍司天皇の日常生活に供奉し、奏請・宣伝のこと

     を掌る官司。尚侍(二人)、典侍(四人)、掌侍(四人)、女孺(一〇〇

     人)よりなる(『古文書古記録語辞典』)。ここでは、国衙に仕える女官の

     給免田と考えておきます。

「倍従」─①天皇行幸に付き従うこと、またその人。②賀茂社・石清水社・春日社な

     どの祭礼における神楽・東遊びに奉仕した楽人(『古文書古記録語辞

     典』)。ここでは、国衙の祭礼に奉仕した地方の楽人への給免田と考えてお

     きます。

 

*田所恒之助「地域の歴史と文化の学習」(『UEJジャーナル』14、2014・9、http://www.uejp.jp/pdf/journal/14/22_tadokoro1.pdf)参照。

 

 

*「安芸郡府中町」『広島県の地名』(中世のみの引用)

 平安時代後期当地に進出したとされる田所氏は、最有力在庁官人に成長し、周辺にも勢力を及ぼしていった。しかし、南北朝の内乱で南朝方に属したため衰退、代わって府中の支配者となるのは白井氏である。同氏は応永年間(1394〜1428)下総国から入部したと伝え、拠城は出張城。白井氏は終始守護武田氏と結び、天文十年(1541)大内氏に滅ぼされたといわれる。その後府中は大内氏家臣で銀山城(跡地は現広島市安佐南区)城番の麻生土佐守の知行地であったが(年欠八月十三日付「陶隆房書状」お茶の水図書館成簣堂文庫所蔵白井文書)、天文二十一年以降は毛利氏の領するところとなった(同年二月二日付「毛利元就同隆元連署知行注文」毛利家文書)。なお、中世の府中の所属は佐東郡(永禄十一年十一月二十五日付毛利元就宛行状「閥閲録」所収山県弥三左衛門家文書)とも安南郡(天文二十四年三月十四日付毛利元就宛行状「譜録」所収井上定之家文書)ともいわれた。

 鎌倉中期ごろの安芸国衙領注進状(田所文書)には府中所在の諸社として惣社八幡宮水分神社以外に角振(つのふり)社・椙樌(すぎもり)社・辻道祖神などがみえる。角振社は「安芸国神名帳」に角振隼総(つのふりはやぶさ)明神とみえ、天文年中に破壊され、前記注進状にみえる末社の山王社(現本町三丁目の三翁社)に合祀したという(芸藩通志)。椙樌社は現山田二丁目付近に「杉ヶ森」の地名が残っているようで(「芸藩通志」所載絵図)、辻道祖神は「安芸国神名帳」の道通(みちとおり)明神で現本町三丁目にある導神社(通称「辻のいぼ落し」)であろう。現山田一丁目の浄土真宗本願寺派竜仙寺は正徳二年(1712)府中村寺社堂古跡帳(宗像正臣氏蔵)では明応年中(1492〜1501)の開基とするが、もと真言宗で大永三年(1523)改宗したとも伝える。出張城跡東の吸江庵(現宮の町三丁目)は毛利氏八箇国時代分限帳(山口県文書館蔵)によると、毛利氏から六石余の寺領を認められ、このほかに花蔵寺や江本寺・海蔵寺などの名もみえるが、いずれも近世までに退転し、小堂のみとなったり地名に名を残すだけとなっていた(竜仙寺過去帳、国郡志下調書出帳)。