周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

幽霊の正体・日本妖怪変化史・日本の幽霊・幽霊の歴史文化学・もののけの日本史

  『別冊太陽 日本のこころ98 幽霊の正体』(平凡社、1997)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

P34 諏訪春雄「日本の幽霊」

 幽霊は死人が生前の姿でこの世に出現したものである。人間であること、死者であること、生前の姿であること、の三つが、幽霊が幽霊であるために必要な条件であって、このなかの一つが欠けていても幽霊とは言わない。

 (中略)

 幽霊の三条件を外した霊的存在が妖怪である。人間に限られない、死者に限られない、生前の姿に限られない、という三つの条件で説明されるのが妖怪である。

 

P35

 私がこの文の冒頭に掲げたような幽霊と妖怪の区別の仕方を主張するのは、根底に、次のような人間観、信仰観、生死観があるからである。幽霊と妖怪を区別するための三つの視点と言ってよい。

 

P36

 妖怪も広い意味でのカミである。しかも自在に動きまわることができるのであるから、普通にアニミズムと呼ばれることのある、精霊信仰の段階のカミである。ただそのカミは信仰の対象から外されて人間に悪意をもっているカミである。信仰の対象から外れた妖怪が誕生するにはいくつかのケースが考えられる。

  ①信仰集団が変わる。ある集団のカミがその集団が他の集団によって滅ぼされたり、追放されたりしたために、信仰の対象から外される。

  ②人間や動植物がカミの段階を経ないで直接に妖怪になる。

  ③人間が自分の力に自信をもつようになって、信仰の対象としていた動物や自然物の神性を剥奪していく。

 いずれにしても、妖怪は、人間のまわりの自然環境から生まれてきたカミである。私が、はじめに人間に限られない動物や山川草木こそが妖怪の正統である述べたのはそのためである。

 そして、実は人間も、人類の信仰のごとく初期の段階では、その能力の一部分が肥大化されて自然環境と同類にみなされ、信仰の対象になっていた。男女の生殖能力に対する信仰が生み出した陽物信仰や原始ヴィーナス(大地母神)信仰などがその代表例である。これらの信仰の対象である人間のカミガミが、先ほど見たような各種のケースで信仰の対象から外れると妖怪に変わることになる。しかしこのアニミズムが生み出した人間の悪神はあくまでも妖怪であって幽霊ではない。この種の人間の妖怪は、人間の身体の一部が誇張されて、崩れた形であらわれることが多い。先に私が、崩れた形の持ち主こそ妖怪にふさわしいと言ったのはこのためである。

 

P37

 人類の神観念の変化のなかで最大のものは、完全な人格としての人間神が誕生したことである。自然の一部としての人間に対する信仰に対し、人間の総体に対する信仰である。日本に限った場合、弥生時代から古墳時代にかけて、母系氏族社会や父系氏族社会が到来して、選ばれた特殊な男女が、文化の形成者として、まわりの自然環境から区別されて人格神、祖先神として信仰される時代がきた。妖怪と区別される幽霊が誕生したのは、この人格神の段階を迎えてからである。

 死者としての人格神が何らかの事情で正当に祀られず、現世に悪意をもったり、執念を残したりしたときに幽霊が誕生した。したがって、人間の妖怪が崩れた形で現れるのに対し、幽霊は完全な人間の形をとってこの世に出現してくる。はじめに、幽霊は人間であり、生前の姿をして現れると言ったのはこのためである。

 

 (中略)

 幽霊と妖怪を区別するための三つの視点のうち、残された死生観について考える。

 死と生は同じではない。死と生が異なる以上は、妖怪から幽霊は区別されなければならない。幽霊は必ず死者である。死が幽霊にとって絶対に欠くことのできない条件であるが、妖怪は概ね生者である。死者としての妖怪も存在しないわけではないが、後に見るように妖怪と幽霊の交錯現象であった、妖怪であるための必要条件ではない。

 (中略)

 他界は他の場所、死者の世界という二つの意味をもち、後者の意味では中国に出典がもとめられず、日本の鎌倉時代に初めて用例のある語である。これに対し、異界は異人という概念と結びついて新しく作られた述語で通常の辞典類には登録されていない。この二つの言葉を使って、死生観と結びつけてさらに幽霊と妖怪の区別を明らかにする。

 異界は、空間的な概念である。人間が日常生活を営む空間と重なり、あるいはその周辺に広がる非日常空間をいう。この異界は、内に対する外の語で表される関係概念であって、その位置は相対的に移り変わっていく。たとえば、昨日まで村の外に広がる未開の地として異界を形成していた場所が、今日は開発されて内に取り込まれ、異界はさらにそのそとに広がっていく。

 これに対し、他界は空間概念の他に時間概念をもつ。人間が日常生活を営む空間と近接し、あるいはその周辺に広がる非日常空間であるとともに、人間が誕生前および死後の時間をおくる世界である。他界もまた、この世に対するあの世、此岸に対する彼岸などの語で表される関係概念であるが、しかし、その関係は異界のように可変的なものではなく、絶対的に固定されている。死者の赴く先である他界が現世に隣接する近いところにあると意識されることはあっても、現世が他界と同一と意識されることはけっしてあり得ない。異界とこの世界との関係が可塑的な同心円で表されるとすれば、他界と現世との関係は隣接する二つの縁を固定して示すことができる。

 このように異界と他界を定義したとき、妖怪は異界の存在であり、幽霊は他界の存在といえる。妖怪は広い意味で異人の範疇に加えることができ、異界が変化して、この世界に取り込まれると、異人としての妖怪も、土地の守護神に変わったり、隣人となることも珍しいことではない。これに対し、他界の存在である幽霊は、他界が現世に変わることがないのとまったく同様に、他界性を失って現世の秩序に組み込まれてしまうことはない。これまで生者こそが妖怪の中心であり、幽霊は死者であると強調してきたのはこの意味である。

 

P40

 先に「幽霊と妖怪」の項で、私は日本の幽霊は弥生時代から古墳時代にかけて氏族社会が到来し、人格神に対する信仰が形成されてから出現するようになったと述べた。日本の場合は、その時期になって中国種の幽霊を受け入れる基盤ができたと言い換えた方が厳密かもしれない。氏族社会の人格神とは祖先神である。共同体の成員の先頭に立っていた指導者たちが、凶悪な精霊を制圧し、文化を創造する霊能者とみなされ、生きながらに人神として崇拝され、死後も墳墓に霊が留められて死者崇拝の対象とされた。これがそれ以前から形成されていた神の去来の信仰の基盤のうえに、形ある人間としての祖先神の来訪という観念を生んだ。

 現世の人に好意的な幽霊が出現するのは、この祖先神=祖霊の信仰基盤のうえに乗っているからである。

 

P41

 地獄の恐ろしさが、そこから訪ねてきた害意のない幽霊の存在を恐ろしいものに変えている。仏教の地獄の観念の浸透が幽霊を怨霊化していった。日本人はすでに奈良時代に中国経由で仏教の地獄観を受け入れている。そして、日本人の地獄のイメージが一段と膨らんだのは、平安時代の寛和元(985)年に源信が『往生要集』を著してからである。

 

P42

 御霊信仰は異常な死に方をした者の霊を恐れ、これを宥め祟りを逃れようとする信仰である。類似の信仰は韓国や中国にも認められ、日本に固有のものではないが、日本の場合、平安時代のはじめの京でかなり明確なかたちをとった御霊信仰の存在が認められる。

 (中略)

 祖霊信仰の基盤に発した幽霊が好意的であり、限られた範囲の同族の追憶のなかだけに生きるのに対し、御霊は怨霊であり、血族のつながりを超えた社会的、公的な存在である。日本の幽霊は御霊信仰の先例を受けることによって大きく性格を変えていった。

 

 「幽霊と妖怪の混交」

 仏教の浸透に伴う幽霊観への影響はまだある。もともと別のものであった幽霊と妖怪が混同されていく。その現象は中世に始まっていた。『太平記』巻第二十五では、仁和寺で雨宿りした禅僧が、後醍醐天皇に仕えていた僧正たちの、「古へ見奉リシ形」のままでありながら、眼は日月のように光り、くちばしは鳶のように長く、左右の脇の下から翼を生じて天狗となっているのに出会う。

 仏教の輪廻観によれば、一切の生あるものは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道の六道を、胎生・卵生・湿生・化生の四種の生まれ方をしながらめぐって、一所に止まることがない。人間もまた他のものに形を変えて輪廻する。幽霊も妖怪も一つのものの変化の姿となる。幽霊と妖怪の混同や合体はこのような考えの普及に伴う現象であった。

 

 

P44 田中貴子「女性の幽霊が多いのはなぜか」

 「怒りゃふくれる、叩きゃ泣く、殺せば化ける」─近世の俗言にこんな言葉がある。これは女性のことを言ったもので、とかく女は度しがたいと言った意を表している。ここで重要なのは「殺せば化ける」であり、女性は死ねば化けて出ると言った意識が強かったことがうかがわれる。つまり、女は幽霊になりやすいと信じられてきたのである。

 円山応挙描く幽霊画を見ても、幽霊は女性ばかりのように思える。幽霊と聞けばすぐに累(かさね)やお岩、お菊といった近世の三大幽霊が思い出されるごとくである。しかし、果たして本当に幽霊は女性が多いのかということになると、そんな疑問をもつことすら意識しなかったという人が大半なのではないだろうか。なぜ幽霊に女性が多いと言われるのか、改めて考えてみる必要があろう。

 妖怪研究で有名な江馬務は、『日本妖怪変化史』(中公文庫)で幽霊と女性との関わりについて次のように言及している。

 (田中注・幽霊が)人の姿として出現したときにおいては、室町時代以前には男の姿が多い。が、応仁の乱後からは女の姿が多くなって、男の姿の約2倍半に及んでいる。(中略)これ近世には愛恨のため出る幽霊が主として女であるからである。これ、女性が男性よりも執着心が深いからであろう。

 

P45

 (菅原道真源氏物語六条御息所、『太平記』の楠木正成謡曲など)こうしてみると、幽霊に女性が多い、というのは近世以前には当てはまらないようである。では、なぜ近世になると急に女性の幽霊が目立って増加するように見えるのだろうか。

  (中略)

 謡曲の例などをみると、この世に未練を遺すことは男女いずれも同じであり、とくに女性が強い執着心をもつとは考えにくにいが、これは仏教の教えからきたものである。女性の悪をまとめて示している『浄心誠観方』(唐・道宣)には、女性が十の悪業をもつと記されている。それを受容した日本の仏教では、女性は嫉妬深く、物を偽り、身体が不浄で、欲心が盛んである、などと説かれることになったのである。この十悪業のうち、何に対しても欲心が盛んである、という点が敷衍されて、執着心が強いということになったと想像される。平安時代からこういった仏教の教えは喧伝されており、女性はこの世に未練を遺すことが強い、という俗信を生み出したのであろう。女性の社会的地位の低下に伴って、この俗信は強く女性を縛り始める。それが近世という時代であった。

  (中略)

 さて、現世への恨みが遺るのはその死に方にあるというのは先述したとおりである。そうすると、男女は性によってその死に方にいささか違いがあることに気づかされる。たとえば、戦乱の世であれば出陣してゆく男性の方がより死にやすく、したがって妄執も残りやすいだろう。だが、近世という一見平和な時代にはそういったことはない。しかし、そんな平穏な時代において、男性と比べると女性は死に方が異なっていることが指摘できるのである。女性という性でなければ体験できない死に方とは、つまり出産に関わる死である。医学が今ほど発達していなかった時代、女性にとって出産は命がけの行為であったことは言うまでもない。出産で命を落とす女性の数は、現代からすると比較にできないほど多かっただろう。したがって、近世においては、女性は男性より死に方が一つ多かったと言うことになる。

 出産による死は、特にこの世に未練を残しやすい死に方であると考えられる。自分の身が失われる悔しさもさることながら、我が子の行く末は女にとって多大な関心事だったろう。死んだ母親は、生んだ子が無事に育ってくれるかという心配事を抱えることになるのである。不幸にも子供も同時に死んだ場合であれば、恨みは2倍になったことだろう。こうした出産にまつわる死の恨みは、女性特有の、しかも当時では避けられないものであったのだ。また、出産で死んだ女性は必ず血の池地獄に落ちるとも言われていた。女性に幽霊が多いと言われる理由の一つは、この出産という問題が深く関わっているのではないだろうか。そういえば三大幽霊のお岩も、出産で死んだわけではないが初産の肥立ちが悪いという設定であった。これもまったく関係ないとはいえないだろう。

  (中略)

 このように、幽霊に女性が多いと言われる理由としては、女性という性が「産む性」であるということとつながりがあると思われる。当時としてみれば、女性と生まれたからには避けて通れなかったのが出産である。出産死という、女ゆえに経験する特異な死に方があったからこそ、女性が化けて出るという認識が近世において広まったと考えられるのではなかろうか。

 

 

P55 諏訪春雄「幽霊の衣装と住みか」

 日本の幽霊は水や樹木と縁がある。沼、川、井戸、海などの水辺、柳に代表される樹木が幽霊出現の背景によく選ばれる。これは日本人の他界観と関わりがある。幽霊は異界の住人である妖怪とは異なって普段は他界に住んでいる。幽霊が水と樹木を背景に現れるのは水や樹木が他界の象徴であるからである。

 日本人の他界観は、地下他界、海上(中)他界、天上他界、山中(上)他界、の四つにまとめることができる。地下他界は地の底に他界を想定するものであり、海上(中)他界は海の向こうまたは中、天上他界は天の彼方、山中(上)他界は高い山の中また上に、それぞれ他界を想定する。したがって、幽霊はこの四つの他界のいずれからも出現することになる。幽霊画の背景に描かれた水辺、井戸、樹木などは、その幽霊がこの四つの他界のどこから出現したのかをあらわしているのである。

 地下は日本人に最も馴染みの深い他界である。死者を土中に埋葬する葬送や正月に便所にお供物を飾る民俗などは地下他界観と結びついており、したがって幽霊は墓地や便所によく出現することになる。便所は厠という呼び方からも明らかなように、古くは流水のうえに建てられた。したがって本来は地下他界というよりも海上(中)他界や山中(上)他界と結びついていたのであろうが、後には地下をより強くイメージさせるようになった。この点は井戸も同じである。井戸から出現する皿屋敷のお菊には地下他界観と海、山の他界観が結合している。

 「精霊ながし」という民俗行事がある。盆に家々に迎えた先祖の霊を送り返す行事である。今の新暦では八月十五日か十六日、辻、村境、川、海などで、盆棚に供えてあった仏への供物を蓮の葉やマコモなどで包み、麦藁の舟などに載せて流してやる。この舟には、帆に「西方丸」「浄土丸」などと文字を書きつける。日本では年々廃れていく行事であるが、中国や台湾ではまだ盛んに行われている。

 海や川の水で体を洗い清め、罪や穢を洗い流す「みそぎ」という民俗行事がある。海水は特に浄化力に富むと信じられていて、九州や中部の海岸地方にこの習俗が根強く残っている。

 この二つの民俗行事の根底には、海中・海上と山中・山上に先祖の霊が住むという水平他界観がある。川や海はその他界へ通じる通路である。先祖の霊はその通路を通って他界へと戻り、罪や穢は川水や海水によって他界へ運ばれ、先祖の霊によって消滅させられる。他界の住人の亡霊もまた水を通路としてこの世に現れる。

 樹木は天上他界と山中(上)他界の二つを象徴している。日本には古く南の島々に遺骨や死体を樹上にかける樹上葬と言われる弔い方があった。樹木が天上他界へ通じる通路と考えられていたのである。また樹木は他方で山の生命力を示す神とも考えられている。初山入り、若木むかえ、門松などの行事は樹木を神と考え、その生気に肖ろうとする観念が働いており、その背後には樹木で山を象徴させる信仰がある。幽霊が樹木の下に出現するのは、天上や山がその住処であることを示しいている。

 一枚の幽霊画には日本人の古くからの信仰や民俗が集約されているのである。

 

 

 

 江馬務「日本妖怪変化史」

       (『江馬務著作集』第6巻、中央公論社、1977、初出1923年)

P442

 妖怪変化の性とは、ここではその出現時の姿となった場合を指すのである。人の姿として出現したときにおいては、室町時代以前には男の姿が多い。が、応仁の乱後からは女の姿が多くなって、男の姿の約2倍半に及んでいる。もっともこれは個人として出たときのことを言うので、戦士の将士などが一段となって出たような場合は別とする。これ、近世には愛恨のため出る幽霊が主として女であるからである。これ、女性が男性よりも執着心が深いからであろう。単に変化ばかりでない。妖怪においても近世は女性的なのが非常に多い。「産女」などは以前からあるが、近世では「毛女郎」「雨女」「雷女」「骨女」「青女房」「濡女」「影女」「片輪車」「柳女」「高女」「屏風のぞき」などは女性である。加うるに、動植物、器物が化けても、たいてい近世は女に化けて出る。誑かすには、畢竟、女性が男子を籠絡するに便利なゆえでもあろう。そしてその反対に男子に化けて女を籠絡した例は極めて稀である。

 

 

 

 諏訪春雄「近世の幽霊」(『日本の幽霊』岩波新書、1988)

「幽霊の足」P167〜183

P197

 近世は封建制度の時代で、男性に比較して女性に自由がなく、男性の横暴に苦しんだ。そのために、近世に登場する幽霊には女性が多かったとよくいわれる。近世の女性に自由が乏しく、抑圧に苦しむ者が多かったことは事実であるが、それだけが、女性の幽霊が多い理由ではない。女性の本来持っている自然の性が、男性以上に幽界との交流を自在とし、亡霊として出現する機会を多くしたことも考え必要がある。そういう意味で、近世を代表する大幽霊譚がすべて女性で占められ、男性が脇役に廻っているのはおもしろい。

 

 

 

 小山聡子・松本健太郎編『幽霊の歴史文化学』(二松学舎大学学術叢書、思文閣出版、2019)

 

 山田雄司「生と死の間─霊魂の観点から」

P5

 日本では「クシャミ」のことを元は「鼻ひる」と言っていたが、鎌倉時代以降京都から次第に「クサメ」と言われるようになり、室町時代以降に全国的に広まったとされている。平安時代後期の歌人藤原資隆が著した『簾中抄』には、「はなをひたるおりの誦 休息万命(くそくまんみょう) 急々如律令 くさめなといふハこれにや」とあり、クシャミをしたときに魂も外に出てしまうので、「休息万命」という呪文を唱えて防いだが、それが縮まって「クサメ」となったとしている。

 

P7

   玉は見つ主は誰とも知らねども結びとどめよ下がひの褄

  三辺誦之。男は左、女は右褄を結びて三日を経て解之云々。

 歌を三回唱え、男は左、女は右の褄を結んで三日経ってから解くようにしとしている。人魂を見ることは不吉なことであり、自らの魂も遊離していってしまうことを恐れ、着物の前を合わせたときに内側になった方の端に玉の尾を結んでおけばよいとされている。石上神宮の鎮魂祭からもわかるように、結ぶ行為は魂が離れていかないようにしっかりととどめておくのに効果があると考えられていた。

 

P8

 「魂」の左側の部分は「雲」の下の部分と同じく、宙にフワフワと浮かぶことからつけられており、そうしたあり方は日本でも継承されている。

 

P14 (3)霊魂を呼び戻す儀式 日本の招魂儀礼

 霊魂が体から離れてしまうことによって死が確定してしまうので、遊離していく魂を呼び寄せようと、「魂呼(たまよばい)」が行われることがあった。民俗事例としては、死者の家族が屋根の上に登って、死者の名前を大声で読んだり、杓子で手桶を叩きながら名前を呼ぶことが報告されている。また、山・海・古井戸の底に向かって名前を呼ぶといこともあった。

 古代の記録にも魂呼を見出すことができる。藤原道長の女嬉子は、万寿二年(1025)八月三日に皇子親仁(のちの後冷泉天皇)を出産し、そのわずか二日後の八月五日に赤斑瘡(せきはんそう)により十九歳で亡くなった。道長はひどく嘆き悲しみ、六日の夜には風雨にもかかわらず、陰陽師中原恒盛と右衛門尉三善惟孝を、太皇太后彰子の御座所であるからという批難にもかかわらず、嬉子の部屋であった寝殿の東対屋の屋根に登らせて魂呼させたと、平安中期の貴族藤原実資の日記『小右記』万寿二年(1025)八月七日条に記されている。(中略)

 なおこの魂呼は、「近代聞かざることなり」と記されていることから、平安中期には行われていない儀礼のようである。それにもかかわらず道長が行なわせたということは、娘になんとかして甦ってほしいとの思いが強かったからであろう。このときの記事は『左経記』や『栄花物語』26「楚王の夢」にも乗せられている。それらを総合すると、嬉子は物の気が取り憑いたため、僧たちが加持や読経をしたのにもかかわらず臨終を迎えたので、陰陽師は作法に則って、嬉子の着ていた着物を持って東対屋に東側から登り、北方に向いて三度、嬉子の魂よ戻れと唱えたのち、西北の角から降りている。

 

P16

 (中国の招魂儀礼)こうしたあり方は嬉子の場合の招魂と非常によく似ており、単純に結論づけることはできないが、平安貴族は中国古代の書をよく読んで勉強していたことから、こうした招魂の儀礼についても学んでいたのではないだろうか。(中略)

 魂呼は臨終のときだけでなく、病気のときにも行なわれていおり、『小右記』万寿四年(1027)十一月三十日条では、「或云、禅室(道長)招魂祭、去夕守道朝臣奉仕、人魂飛来、仍給禄」のように、陰陽師賀茂守道が道長のために招魂祭を行ない、人魂が飛来したので禄を給わったと記されている。体から抜け出して飛んでいきそうな魂を再び道長の体に戻したということで褒美が与えられた。しかし、こうしたことを甲斐なく、道長は同年十二月四日についに亡くなってしまった。このような陰陽師による招魂祭は陰陽道祭として、鎌倉時代になるとしばしば行われたことが『吾妻鏡』などからうかがわれる。

 

P17

 (『続日本紀』や『日本後記』の記事)こうしたことから、先祖の霊魂は墓所にとどまっているのではなく、樹木を目印に墓所に憑依する存在として捉えられていたようである。天武天皇の頃に成立したと考えられていて、永長二年(1097)の奥書をもつ『葬喪記』にも以下の記述がある。(中略)

 墓には土を盛り、松の木を一本植え、二年経ったらまた一本、三年経ったらさらに一本植え、これによって人の気が去って神となるのだという。木を植えるというのは、それを目印として霊魂が降臨するためであろう。

 

P19

 現代ではお盆として夏の彼岸に死者の霊魂を迎えて供養し、再び他界へ送ることが行なわれているが、仏教の盆行事が定着する前は、「魂祭」の儀式が大晦日に行なわれていた。(中略)

 しかし、『徒然草』(1300年代)十九段になると、大晦日に魂を祭ることは関東では行なわれているものの、近頃京都では行なわれなくなったと述べられている。鎌倉時代には次第に行なわれなくなり、盆行事へと移行して行くようである。

 

P20

 鎌倉時代には、子は親の墓に対し、7月半ばの盂蘭盆に花を手折り、年来にも墓を訪ねる習わしがあったことがわかる。そして、先祖の霊は墓地にとどまると考えられるようになり、神となって子孫を見守るようになっていく。(中略)

 「草葉の陰」すなわち草に隠れた墓の下に死者の霊魂がとどまり、子孫を見守る神となっている。そのため墓参りも行なわれるようになった。

 

 

 小山聡子「幽霊ではなかった幽霊─古代・中世における実像」

P34

 このように、死霊は生者には持ち得ない強力な力を持ち、生者の願いを叶えることができると考えられたのである。これは、そもそも死霊と「カミ」が等質なものであることによるのだろう。前述したように、古代の幽霊は死霊であり、神と近い性質をもつと考えられていた。とすると、幽霊も、聖者の祈願に応えることができる力を持つと考えられていた可能性は高い。

 

P36

 さて、幽霊は多くの場合、追善供養の対象であった。つまり、いまだ成仏できていないものであるということになる。

 

P39

 要するに、幽霊という語は、少なくとも十三世紀前期には、成仏できていない史料のみではなく、成仏したと確信されている死者をも指すと言える。

 

P42 おわりに

 以上、本稿では古代・中世の幽霊について、古文書と古記録を中心に検討した。これにより、先行研究では幽霊という語が世阿弥以前はほとんど用いられてこなかったとされてきたが、そうではないことが明らかとなった。幽霊という後の早い事例は八世紀中頃であり、それ以降も古文書や古記録に非常に多く出てくるのである。その中でも、特に願文や寄進状に幽霊という語が出てくる。これは幽霊が多くの場合死霊を指し、追善供養の対象であったことによるのだろう。また十一世紀初頭の史料をもとに、幽霊が神に近いものとして捉えられていたことを指摘した。これは、死霊それ自体が神と等質性をもっているからだろう。

 さらに十二世紀以降には、幽霊という語が死霊という意味だけではなく、死者、さらには死体という意味ももったことを明らかにした。死体に関しては一例しか確認できなかったものの、死者を指す事例は中世を通じて多く確認することができる。(中略)

 幽霊というと、成仏できずにさまよう霊だと解釈されがちである。この点についても、本稿では疑問を呈した。なぜならば、極楽往生が確信されていた法然や、臨終正念をした藤原俊成が「幽霊」と呼ばれているからである。(中略)

 現在、幽霊というと、この世に姿をあらわすものと認識される傾向にある。『例文 仏教語大辞典』でも、近世の事例をもとにそのように記されている。しかし、古代から中世前期では、幽霊は姿をあらわさない。そのうえ、怨みをもってもいない。この時代では、怨みをもって生者に害を及ぼす霊は、主に怨霊やモノノケ(邪気)であった。

 幽霊が姿をあらわすようになるのは、能の登場まで待たなくてはならない。世阿弥の夢幻能(幽霊能)では、多くの場合、死者は「幽霊」と呼ばれて登場する。たとえば『頼政』や『実盛』『江口』などでは、シテが自分のことを「幽霊」だと名乗る。これらの「幽霊」は、いずれも生前の行ないを悔いる傾向にあり、怨念をもっておらず、まったく恐ろしくはない。これは、それ以前の幽霊の性質を受け継ぐかたちで作られたからであろう。

 幽霊が恐れられるようになるのは、近世に入ってからである。近世になると、それぞれ別の意味をもっていたはずの幽霊、怨霊、モノノケが混同されていくようになる。そもそも怨霊とは、生前に強い恨みを抱いた人間の死霊であり、社会に大きな影響を及ぼす特質をもち、調伏ではなく鎮魂の対象であった。また、モノノケは漢字で表記すると「物気」であり、多くの場合、死霊であった。「気」は気配の意味である。古代では、まだ何の「気」なのか分からない段階で使われる語であり、社会に大きな影響は及ぼさず、個人に祟り、病や死をもたらすことが多い。モノノケは、主に調伏の対象であった。その後怨霊は、遅くとも中世後期には謡曲『葵上』で六条御息所が「怨霊」とされるように、社会に大きな影響を及ぼさない史料をも指す語へと変化していく。(中略)

 「物の怪」(物怪)は、古代や中世では「もっけ」もしくは「もののさとし」と読まれ、異常なことが起こる予兆を指す語であり物気とは区別されていたが、ここでは同じ意味で使われている。さらに、「物の怪」と幽霊が区別されていない。(中略)

 これらのことから、幽霊が怨念をもって復讐する死霊とされるようになった理由は、怨霊やモノノケと混同して捉えられるようになったからだと考えられる。

 現在、しばしば怪談などで語られる幽霊は、もとは中国思想からきており、少なくとも八世紀の日本では死霊という意味で認識され、さらにのちには死者その人や死体を指すという認識も加えられた。そもそも幽霊は姿をあらわすものではなかったが、能の登場により現れるものとして捉えられるようになる。近世に入り、幽霊には怨霊やモノノケの性質も加えられて、現在に通じるような、怨念をもって復讐をし、または気味が悪く恐怖を抱かせるものとして語られるようになったのであった。

 

 

 松井健人「死霊表象の胚胎─記紀万葉集を中心に」

P69

今、青い笠と書いた。この青というのは現代人が思い描くような鮮やかなブルーではない。古代におけるアオ(アヲ)とは、黒と白の中間の範囲を示す広い色名で、主に青、緑、藍などを指す。各地の地名の分析によって、青の語が墓地・葬地を指す言葉であったと論じた筒井功氏は、アオの原義は「どちらにも属さない中間の位置または状態」を意味していた可能性が強く、ひいては「あの世とこの世の間、境、中間」を指していたという卓抜した理解を示している。

 →青鬼の理解に通じるか。

 

P70

 このことから古代人は、死霊とは「青」の衣服を着ていると認識することがあったことがわかる。また、鳥たちを殯の執行役に任じたのは、鳥が史料を天に運ぶ存在、または死霊そのものの表象であるという古代人の考えが反映されたためである。このことは、和歌の世界でも重要になる。

 

 

 小山聡子『もののけの日本史 ─死霊、幽霊、妖怪の1000年』(中公新書、2020年)

序章

P6〜7

 そもそも古代中国では、霊に関して魂と魄という二元的な把握がなされていた。たとえば、中国の現存最古の字書『説文解字』では魂は「陽気」であり魄は「陰神」であるとされ、儒教の教典『礼記』「効特性」では魂は天に帰り魄は地に帰るものだとされている。さらに孔子編集とされる『春秋』の注釈書『春秋左氏伝』「昭公七年」では、人が生まれる時に「魄」ができ、「陽」の「魂」がその中に入るとされており、「魄」は体を指す。つまり、魂は精神を、魄は肉体をそれぞれつかさどる霊なのである。(中略)

 その一方で、魂と魄を分けない用例もある。(中略)ここでは、「魂魄」について必ずしも二元的な把握はなされていない。このように、魂魄の解釈には揺らぎがあった。

 

P22〜23

 モノノケは、近世になると、怨霊や妖怪、幽霊などと混同して捉えられるようになる。ただし、これらは、古代の段階では別のものであった。たとえば、前述したように「怨霊」という語は、九世紀初頭の史料に確認することができる。古代に怨霊とされた代表的な人物としては、早良親王菅原道真平将門などがあげられる。非業の死を遂げたと社会で広く認識された人物は、仇となった人物やその近親者に祟って病や死をもたらすのみならず、社会に疫病や天災といった大きな悪影響を及ぼすと考えられた(山田雄二『崇徳院怨霊の研究』)。そのような霊を怨霊という。

 一方、モノノケは、正体が何かがわからない段階で用いる語であった。また、怨霊が社会に大きな影響を及ぼすのに対し、モノノケは個人やその近親者に病や死をもたらすにとどまる傾向にある。

 また、怨霊への対処が鎮撫であったのに対し、モノノケへの対処は調伏であった。後述するように、調伏した結果、もののけの正体が崇めるべき霊や神である場合には、多くの場合、要求に従ったり祀ったりすることになる。崇めるべき霊でない場合には、さらに調伏をし続け屈伏させる。怨霊とモノノケは、ともに怨念を持つ霊であるものの、その対処に関しては大きな差がある。

 

第一章 震撼する貴族たち ─古代

P68〜69

 モノノケは、本来「気」なので、姿かたちを持たない。ところが、実際には、鬼の姿で表現されることが多かった。そもそも、中国では死者は鬼になると考えられていた。その思想が日本の鬼観念に大きな影響を及ぼしたために、モノノケはしばしば鬼の姿だと考えられたのだろう。(中略)

 ただし、モノノケや霊の姿は、鬼の姿のみで捉えられていたわけではなかった。たとえば、三条天皇に眼病をもたらした賀静の霊は、天狗の姿をしていると考えられていた(『小右記』長和四年〔一〇一五〕五月七日条)。(中略)このように、しばしば、モノノケや霊は天狗の姿をしているとも考えられていた。

 

P74〜75

 このように、現存最古と考えられる『白描絵料紙墨書金光明経』のモノノケの図像には、三本指や逆立つ髪、ふんどしといった鬼の要素も見受けられるものの、それのみではなく、異様に足が長かったり短かったりするなど、典型的な鬼とは異なる要素も含まれている。その上、長い足のモノノケの尻には、何やらふさふさとした尾のようなものが付いている。この点も鬼とは異なると言えよう。結局のところ、モノノケの姿は、鬼の図像をもとにして想像され、平安貴族が畏怖していたものも組み合わされた上で構築されていたと考えられる。

 

第三章 祟らない幽霊 ─中世

P153

 能における幽霊や魄霊の姿は、死後の時間の経過を示すため、老人や老女で表現されたほか、しばしば鬼の姿でも表現された。(中略)魄霊や幽霊は、古代から中世にかけて恐れられたモノノケと似通ったイメージ姿でイメージされていたと言えるだろう。

 能に幽霊が多く登場するようになった理由としては、十四世紀からの霊魂観の転換を挙げることができる。十四世紀後半からは、死後の世界のイメージが一変する。この頃になると、浄土に対するリアリティが徐々に減退し、他界への往生をかつてほどには欣求しなくなっていった。それによって、死後には墓地に安らかに眠り、子孫と交流することが願われるようになるのである(佐藤弘夫『死者のゆくえ』)。このような状況の中、能の曲中で、墓などに出てくる幽霊が演じられるようになったのだろう。

 

P156

 このように、十六世紀には、怨念を持って現れ出てくる恐ろしい霊としての幽霊と、怨念を持たずあくまでも供養の対象である霊としての幽霊、さらには死者そのものを指す後である幽霊が、並存していた。この時期は、近世における恐ろしい幽霊の登場の、まさしく前夜であると言えよう。近世になると、次章で見ていくように恐ろしい幽霊とモノノケが混同されるようになっていくのである。

特集 変女・奇女! 〜ホラーとジェンダー〜

 *変女? 変なる女? 奇女? 奇しき女? いったいどのような読み方をしていいのかもわかりませんが、とにかく奇妙な女が現れました。

 

 

【史料1】

 応永二十二年(1415)七月二十三・二十六日条

                        (『満済准后日記』上─72頁)

 

 廿三日。〈己丑。天晴。〉相国寺山門上変女徘徊。或乗馬体ニテモ見輩在云々。

 白昼事也。仍寺家祈祷三ケ日可始行云々。

 

 廿六日。〈壬辰。天晴。〉禁中ニ変女又出現。八人徘徊庭上。御所様被御覧云々。

 (後略)

 

 「書き下し文」

 二十三日。〈己丑。天晴る。〉相国寺山門の上に変なる女徘徊す。或ひは乗馬の体にても見る輩在りと云々。白昼の事なり、仍て寺家祈祷三ケ日を始め行なふべしと云々。

 

 二十六日。〈壬辰。天晴る。〉禁中に変なる女又出現す。八人庭上を徘徊す。御所様御覧ぜらると云々。(後略)

 

 「解釈」

 二十三日。〈己丑。晴れ。〉相国寺山門の上で変な女が徘徊していた。あるいは、馬に乗っている姿でも見た人がいるという。白昼の出来事である。そこで、相国寺は三日間の祈祷を始めたそうだ。

 

 二十六日。〈壬辰。晴れ。〉宮中に変な女がまた現れた。八人の女が庭先を徘徊した。称光天皇はそれをご覧になったという。

 

 

 *その翌年、今度は鹿苑寺に現れて、重要な政治的・宗教的シンボルである北山大塔を焼き払ってしまいます。

 

【史料2】

  応永二十三年(1416)正月九日条  (『図書寮叢刊 看聞日記』1─5頁)

 

 九日、雨降、戌剋雷電暴風以外也、此時分赤気耀蒼天、若焼亡歟之由不審之処、

  北山大塔七重為雷火災上云雷三度落懸、僧俗番匠等捨身命雖打消遂以焼失、併

  天魔所為勿論也、

   (中略)

                          〔挺〕

  又聞九日大塔上喝食二三人女房等徘徊、入夜蝋燭二卅廷ハカリトホシテ見ヘ

  ケリ、不経幾程炎上云々、天狗所行歟云々、

 

 「書き下し文」

 九日、雨降る、戌の剋雷電暴風以ての外なり、此の時分に赤気蒼天に耀く、若しや焼亡かの由不審の処、北山大塔(七重)雷火の為炎上し雷三度落ち懸かると云ふ、僧俗・番匠ら身命を捨て打ち消すと雖も遂に以て焼失す、併しながら天魔の所為勿論なり、

  又聞く、九日大塔の上に喝食二、三人、女房ら徘徊す、夜に入りて蝋燭二、三十挺ばかり灯して見へけり、幾程も経ず炎上すと云々、天狗の所行かと云々、

 

 「解釈」

 九日、雨が降った。戌の刻ごろ、思いがけずひどい雷と暴風に襲われた。ちょうどこのとき、赤い雲気が大空に輝いた。もしや火事ではないかと疑っていたところ、北山の七重塔が落雷による火事のせいで炎上し、雷が三度落ちたという。僧侶や俗人、大工らは命がけで火を消したが、結局のところ焼失してしまった。当然、すべて天魔の仕業である。

  また聞くところによると、九日に大塔の上に喝食二、三人と女房らが徘徊していた。夜になって蝋燭を二、三十挺ほどを灯しているのが見えた。どれぐらいも経たないうちに炎上したそうだ。天狗の仕業だろうか、という。

 

 「注釈」

「北山大塔」

 ─鹿苑寺にあったとされる大塔で、足利義満が建設をはじめ、完成直前に焼失したと考えられている(冨島義幸「まぼろし相国寺七重塔を復元する ─金閣寺における九輪断片の発見によせて─」『リーフレット京都』公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所、336、2016・12、https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet.html)。

 

 

 *さらに、その二年後、今度は伏見にも現れました。

 

【史料3】

  応永二十五年(1418)二月十六日条

                   (『図書寮叢刊 看聞日記』1─191頁)

 

 十六日、晴、時正結願也、(中略)聞、石井薮中〈新堂前、〉奇女一人両三日晩景

  出現、或見之或不見云々、若狐狸所為歟、不審、

 

 「書き下し文」

 十六日、晴る、時正結願なり、(中略)聞く、石井の薮の中〈新堂前、〉に、奇女一人両三日晩景に出現す、或いは之見え或いは見えずと云々、若しや狐・狸の所為か、不審、

 

 「解釈」

 十六日、晴れ。春の彼岸会の最終日であった。聞くところによると、伏見庄石井の薮の中〈新堂前〉に、奇妙な一人の女が、二、三日の間、夕暮れに現れた。ある者にはこの女が見え、ある者には見えなかったという。もしや狐や狸の仕業だろうか。疑わしいことだ。

 

 

 「注釈」

 以前、「切り裂き女房」という記事でも書いたことですが、日本の場合、幽霊や妖怪などの性別は、女性が多いように思えてなりません。今回も女性でした。この感覚、気のせいでしょうか?

 

 「女性の幽霊が多いのはなぜか?」

 このような疑問に答えた論稿に、やっと出会えました。それは、田中貴子氏の研究です(『別冊太陽 日本のこころ98 幽霊の正体』平凡社、1997、44〜47頁)。この研究によると、近世以前に女性の幽霊が多いとは言えず、近世以降になると急に女性の幽霊が目立って増加するように見えるそうです(45頁)。したがって、中世史料を見て抱いた私の感覚は、どうやら間違いだったようです。

 それはさておき、田中氏は女性の幽霊が多い理由を、次のように説明されています。まず1つ目は、仏教の影響です。女性の悪をまとめて示した『浄心誠観方』(唐・道宣)という書物には、女性が十の悪業もつと記されているのですが、日本の仏教がそれを受容したことによって、女性は嫉妬深く、物を偽り、身体が不浄で、欲心が盛んである、などと説かれることになったのです。このうち、何に対しても欲心が盛んである、という点が敷衍され、平安時代以降、女性はこの世に未練を遺すことが強い、という俗信が生み出されたそうです。また、女性の社会的地位の低下も、この俗信が女性を強く縛る要因になったと考えられています。

 2つ目は、女性特有の死に方、つまり出産による死の影響です。医学が発達していなかった時代、女性にとって出産は命がけの行為で、出産によって命を落とす女性の数は、現代からすると比較にならないほど多かったはずです。こうした状況を踏まえて田中氏は、次のように説明されています。

 「出産による死は、特にこの世に未練を残しやすい死に方であると考えられる。自分の身が失われる悔しさもさることながら、我が子の行く末は女にとって多大な関心事だったろう。死んだ母親は、生んだ子が無事に育ってくれるかという心配事を抱えることになるのである。不幸にも子供も同時に死んだ場合であれば、恨みは2倍になったことだろう。こうした出産にまつわる死の恨みは、女性特有の、しかも当時では避けられないものであったのだ。また、出産で死んだ女性は必ず血の池地獄に落ちるとも言われていた。女性に幽霊が多いと言われる理由の一つは、この出産という問題が深く関わっているのではないだろうか。そういえば三大幽霊のお岩も、出産で死んだわけではないが初産の肥立ちが悪いという設定であった。これもまったく関係ないとはいえないだろう。(中略)幽霊に女性が多いと言われる理由としては、女性という性が『産む性』であるということとつながりがあると思われる。当時としてみれば、女性と生まれたからには避けて通れなかったのが出産である。出産死という、女ゆえに経験する特異な死に方があったからこそ、女性が化けて出るという認識が近世において広まったと考えられるのではなかろうか」。

 女性の幽霊が多いのはなぜか? この疑問は妖怪・幽霊研究だけではなく、ジェンダー史の課題でもあるようです。女性の幽霊や妖怪の研究が進めば、今までとは異なる、中世の女性観が明らかになるのかもしれません。なかなかおもしろいテーマです。

 ちなみに、私が紹介してきた女性の妖怪変化の記事は、以下の5つです。「イカれた女」「厠の尼子さんとその眷属 ─足のない幽霊の初見について─」「壬生閻魔堂のかぐや姫」「切り裂き女房」、そして今回の「特集 変女・奇女!」です。興味があれば、以前の記事もご覧になってください。このような記事は、まだまだ増えていきそうな気配がありますので、見つけ次第、掲載していこうと思います。

 さて、江戸時代以来の幽霊観の影響か、現代人一般の嗜好性なのか、私個人の好みなのかわかりませんが、やはりホラーの主人公は女性がよいように思います。ひょっとすると、探せば「変男・奇男」という史料用語が見つかるのかもしれませんが、男の場合だと、単なる粗野でガサツな不審者・変質者という感じがしておもしろみがありません。やはり、日本的な怪談に特有の、じわじわと忍び寄るような、背筋も凍る恐怖感は、女性でなくては醸し出せないような気がします。

楽音寺文書23

    二三 小早川盛景寄進状

 

 (端裏書)

 「結縁灌頂免寄進状 竹原殿」

 奉寄進

  楽音寺領畠之事

 右志者、於 薬師如来御宝前、毎年」不闕可結縁灌頂、依

                        (郎)

 所願」彼灯油并塩噌、梨子羽郷〈南方〉太良丸名之内」山田畠伍段、除

 公事永代令彼寺」寄附畢、於行事者頼春僧都」置文、尽未来際不

 可退転者也、」子々孫々守此掟、弥可貴敬、仍寄」進状如件、

   (1439)

   永享十一年〈己未〉七月八日 平盛景(花押)

 

 「書き下し文」

 寄進し奉る 楽音寺領畠の事

 右の志は、薬師如来の御宝前に於いて、毎年闕かず結縁灌頂を修せしむべし、所願有るにより彼の灯油并びに塩味噌の為、梨子羽郷南方太郎丸名の内山田畠五段を、諸公事を除き永代彼の寺に寄附せしめ畢んぬ、行事に於いては頼春僧都の置文に任せ、尽未来際退転有るべからざる者なり、子々孫々此の掟を守り、いよいよ貴敬せしむべし、仍て寄進状件のごとし、

 

 「解釈」

 寄進し申し上げる楽音寺領の畠のこと。

 右の私の意向は、本尊薬師如来の御宝前において、毎年怠ることなく結縁灌頂を執行させなければならないというものである。こうした願いがあるので、法会の灯油や塩味噌代を賄うために、梨子羽郷南方の太郎丸名のうち山田の畠五段を、諸公事を免除して永久にこの楽音寺に寄附した。寺の行事については、頼春僧都の置文のとおりに、永久に中断してはならないものである。子々孫々に至るまでこの掟を守り、ますます貴び敬わなければならない。よって、寄進状は以上のとおりである。

楽音寺文書22

    二二 小早川陽満弘景寄進状

 

 奉寄進

  楽音寺領田事

 右彼下地者、梨子羽郷南方」分作内壹段六十歩、除諸役永代」令寄附所也、

               (灌頂)

 願念志趣者、毎年」不結縁汀領、而信心大施主平氏女、」現当二世諸願円満

 而已、

  (1442)

  嘉吉貮年壬戌二月廿八日

        沙弥陽満(花押)

 

 「書き下し文」

 寄進し奉る 楽音寺領田の事

 右彼の下地は、梨子羽郷南方分作の内一段六十歩、諸役を除き永代寄附せしむる所なり、願念志趣は、毎年結縁灌頂を闕かずして、信心大施主平氏女の現当二世諸願円満のみ、

 

 「解釈」

 寄進し申し上げる楽音寺領田のこと。

 右、この下地は梨子羽郷南方小作地のうち一段六十歩を、諸役を免除して寄進するところである。願意は、毎年結縁灌頂を怠ることなく執行し、信心大施主平氏女の現世・来世の諸願が成就することだけである。

 

 「注釈」

「分作」─「作分」のことか。「小作地、また、小作をしている者(『日本国語大辞

     典』)。

ロジェ・カイヨワ Part1

  西谷修『100分で名著 ロジェ・カイヨワ 戦争論』(2019年8月)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

 

第1回 近代的戦争の誕生

P13

 そして再び戦争の危機が近づいてきた1937年、カイヨワはバタイユや詩人・民族学者のミシェル・レスリらと共に「社会学研究会」を創設します。そこでバタイユが中心になって唱導していたのは、合理主義的かつ生産主義的な近代の文明がものをつくり蓄積し、社会を発展させているつもりで、結局は戦争という暴力的な消費の中に闇雲に崩れ落ちていく、その愚かしさを人間は自覚し、社会を再提訴しようという主張でした。

 あえて簡単にまとめると、このようになります。─有用なもの、つまり役に立つものだけが善いとされ、無用のもの、無益なものは無駄だ、ひいては悪だとされる功利主義的な考えが、じつは人間に自分自身を見誤らせている。人間社会を貫いているのは最終的には無目的な消費であって、生産は結局、蓄積された富をいっそう華々しく消費するためにしか役立っていない。

 ところが、有用性を金科玉条とする人間にはそれが理解できない。合理的な人間は消費を非合理として斥け、身を守り力をつけるつもりで、結局は我知らず破滅に引きずり込まれてしまう。じつは人間の生命活動そのものも、太陽エネルギーを源泉とする、非合理で無目的な消費にほかならない。人間はそれに気づかず、ただ闇雲に生産と蓄積の競争に明け暮れる。しかしその中にも「遊び」や「祭り」が欠かせない。それは生産プロセスの中の消費の露頭なのだ。じつはそのような露頭こそが宗教や社会の根源にあり、人間同士を結びつけている最も肝心なものである…。

 

P20

  戦争そのものの研究ではなく、戦争が人間の心と精神とを如何にひきつけ恍惚とさせるかを研究したものであった。(序)

 

 つまり戦争が「恐るべき圧倒的な現実」として私たちにのしかかり、「個人個人の意識のなかにその目くるめくばかりの反響が現れていていること」に目を向ける。そして、そのような戦争のあり方を規定するものとして国家に焦点をあて、国家が戦争と密接に結びつきながらどういう発達を遂げ、両者がどのような関係を持っていたのかに、とりわけ力点を置いてみていく。この本の狙いがそこにあることを、ふまえておいてください。

 また、「戦争」という言葉は、幅広く曖昧に使われます。それが人間の集団全体を巻き込んで、さまざまな限界を壊す出来事であるために、これを一義的に定義することはできないし、一面からの規定は戦争の現実を見誤らせることになります。しかし、核心だけは指定して、共有しておかないと議論が成り立ちません。

 

  戦争の本質は、そのもろもろの性格は、戦争のもたらすいろいろな結果は、またその歴史上の役割は、戦争というものが単なる武力闘争ではなく、破壊のための組織的企てであるということを、心に留めておいてこそ、はじめて理解することができる。(第1部・第1章)

 

 カイヨワはまず、戦争は人間集団の「破壊のための組織的企て」であると定義します。いわゆる政治的行為や単なる武器による闘争ではなく、敵の集団を破壊するための、集団による組織的な暴力が、戦争行為であるというのです。

 近代になると、戦争は主権国家同士の抗争であるという約束事ができるのですが、もともとは国家と国家の抗争に限らず、いろいろな形があったわけです。しかし犬のケンカは戦争ではなく、個々の人間同士の殴り合いも違います。人間により構成された集団が、組織的に兵器という道具を用いて、敵の人間の命や所有物を破壊する。これはサルを含めた動物にはできないことです。

 ですから、まさに「戦争は文明を表出している」と言えます。そして道具と組織かという戦争の要件は、それぞれの時代や地域における文明の状態と密接に関係していると、カイヨワは強調します。

 

  戦争は文明とは逆のものだともいわれるが、道徳的見地あるいはその語源からいうのでなければ、これは正確な言い方ではない。戦争は、影のように文明につきまとい、文明と共に成長する。多くの人々が言うように、戦争は文明そのものであり、戦争が何らかの形で文明を生むのだと言うのも、これまた真実ではない。文明は平和の産物であるからだ。とはいえ、戦争は文明を表出している。(同前)

 

 それは、「戦争は野蛮だ」とか「文明国はそんなことをしない」といった考え、戦争を文明とは相容れないものとする一般的な考え方の否定です。むしろ逆で、戦争の発展と文明の発展とは、切っても切れない関係にあるものだと言うのです。ただし、戦争が文明をつくり出すのではなく、平和のうちに開花する文明を戦争は使い尽くす、と言うことでしょうか。

 

P23

 それでは、カイヨワが記している戦争の形態の発展段階を、社会形態の変化とともに概観しておきましょう。

 最初は、①身分差のないいわゆる未開の段階における部族同士の抗争としての「原始的戦争」です。次に、②異民族を征服するための「帝国戦争」、これはエジプトやアッシリアなど大帝国が出現した時代の戦争を想定しているのでしょうが、その特徴は異質な文化を持つ集団同士の衝突だとします。次いで、③身分が階層化された封建社会における、専門化された貴族階級の機能としての戦争、すなわち「貴族戦争」。それから④国家同士がそれぞれの国力をぶつけ合う「国民戦争」です。ただし、カイヨワの論の中でとりわけ重視されているのは、③から④への転換です。

 まず①の「原始的戦争」は、部族という小集団の争いで、これは狩猟に近いものでした。待ち伏せや不意縁といったアナーキーなやり方ですが、規模や目的は限られています。

 ②は大きな権力によって組織化された戦争ですが、敵が「異文明」なため共通の価値がなく、征服戦争になります。

 中世の封建社会になると、戦争を役割とする特権的な身分ができます。日本で言えば武士のような、騎士階級の貴族同士が、王家や領土のために戦う。それが③の「貴族戦争」です。一般の民衆は農地や家を荒らされたり、税と称して歩兵の頭数を揃えるために連れて行かれたりはしますが、戦争の目的にはまったく関係がありません。また、金で雇われた傭兵も登場しますが、彼らには敵に対する憎悪も戦意もないでしょう。

 一方、甲冑をつけた騎士たちによる実際の戦闘は、スポーツやゲームのように儀礼化し、様式化しています。それは決闘の形態がベースとなり、誇り高く一騎討ちをすることで勝負を決めました。その目的は殺戮ではなく相手を降伏させることであり、何よりも名誉が重んじられたのです。そのことによって、破壊や殺戮の度合いは緩和されていたと言えるでしょう。

 それに対して、④の近代以降の「国民戦争」では、敵を降伏させるために、それぞれの国家が人的・物的資源を投入します。ただし、兵力をなるべく無駄にしないために、初期にはまだ、さまざまな駆け引きによって、過度な殺戮は抑えられていました。

 しかし社会が平等になると、万人が平等に武器を持つようになる。つまり番人の敵対戦争になります。戦争は儀礼を重んじる遊戯ではなく、真剣なつぶし合いになるのです。すると、もはや名誉も何もなく、凄惨な破壊と殺戮が起こります。

 

  この4つの区別から、ひとつの一般的な原則を、苦もなく引き出すことができる。すなわち、戦争を苛烈なものにするのは、勇猛さでも、敢闘精神でも、残酷さでもないということだ。それは国家というものの、機械化の度合いである。(第1部・第1章)

 

 カイヨワは、ここから国家と機械化という文明の要素を取り出す一方で、儀礼といった「文化的」要素の抹消に目を向けます。

 

  華麗な軍服やファンファーレ、かつての厳格でまた貴族的な試合ぶり巧妙な用兵術、危険なものとは知りながら、なお規則正しく行なわれた礼儀の交換、これらはみな姿を消してしまった。(略)このような教えを実行する士官は、ただ射ち殺されるだけである。

 

 ここにあるのは貴族戦争の時代へのノスタルジーなのでしょうか。いや、そうではないでしょう。一人ひとりが権利を持って、社会が民主的になり、より人間的になったにもかかわらず、戦争そのものは非人間的になっていくというパラドクスが生じたというのです。

 近代を出発点にして、現代の戦争にまでつながるこのパラドクスをどう理解するのか、あるいは、どうやってそれを解消することができるのか、そのことがカイヨワによる本書最大のモチーフになっています。

 

P30

 戦争の武器が刀剣から銃に変わり、それによって、剣術の技を磨いた一階級の戦争から、平民の誰もが武器を使える状況なったということです。それまでは騎士の従僕に過ぎなかった歩兵たちが、銃を持つことで主役に躍り出るのです。「歩兵が騎兵にとってかわり、平等が特権にとってかわった」(第1部・第5章)のです。

 

P31

  平民はみじめな生活をし、黙ってたえ忍ぶことに慣れてきた。けれども、一旦その手に銃を与えられ、国民を防衛するために呼び寄せられたとき、はじめて彼らは自分の価値の重要さを意識した。数々の危険に立ち向かい、敵を殺すことにより、自分も貴族や特権階級とまったく同じ人間なのだということを、いやというほどはっきり悟ったとき、はじめて彼らは自分の価値の重要さを意識したのである。(同前)

 

 これが近代の民主制国家の内実で、武装した市民たちがそのまま軍隊になっていく。身分制社会から、平等社会に近づけば近づくほど戦争が激化していくパラドクスは、このような理由から生じているのです。

 ところで、日本で「戦争」という言葉が使われるようになるのは、明治以降のことです。それ以前は一般に「戦」で、さらに区別する場合は、「役」とか「乱」とか「変」とかの言葉が使われていました。中央権力がそれに従わない勢力を征伐したり、平定したりする場合は「役」で、中央の権力抗争に絡んだ国内の乱れが「乱」、クーデターや政変を狙った事件などが「変」というわけですね。「戦」がなぜ「戦争」という言葉に取って代わられたのかといえば、これが西洋のwar(英)やguerre(仏)やkrieg(独)の翻訳語だからです。

 

P32

 17世紀前半に「三十年戦争」(1618〜48)と呼ばれる、ヨーロッパ全土を戦乱に巻き込んだ戦争が起こりました。これはカトリックプロテスタントの対立を軸に百年にわたった抗争の最後の波で、最初のヨーロッパ大戦とも言われます。その大規模な混乱を収拾するために開かれたのがウェストファリア講和会議(1648)で、以後、戦争をするのに信仰を口実にしないこと、そして戦争をすることができるのは主権国家のみとされ、戦争は誰もが勝手に起こすことができるものではなくなったのです。主権国家とは、相互に承認し合うことで初めて成立するものですから、勝手に名乗りを上げてもダメで、もし勝手に戦いを始めたとしても、それは「戦争」ではなく「内乱」「反乱」として「主権」のもとに制圧されます。

 ヨーロッパ中の権力が参加して結ばれたこの「ウェストファリア条約」によってつくられた新たな秩序が「ウェストファリア体制」と呼ばれるものです。それは主権国家間秩序ということができますが、このときから、相互承認システムによる主権国家が、「宣戦布告」によって戦争を始め、第三国つまり非当事国が設定する「講和会議」によって戦争を終えるというルールができました。

 

P34

  戦争遂行のため、国家は市民に対し、その金と血を差し出すよう求めた。(略)中央集権的な行政機構が置かれ、多くの新しい部署が設けられ、権力に情報を伝え、権力の決定事項を執行する全国的な官僚制度ができたのは、何よりもまず、戦争を行なうために必要な、いろいろな要求を満足させるためであった。この官僚組織は、たくさんの兵士を募集し、集結し、教育し、部隊に編成し、これを輸送し、各所に配置し、これに糧食を補給し、衣服を支給するため置かれたものであった。(同前)

 

P37

 「ナポレオンこのかた、戦争はまずフランスの側において、ついでフランスに対抗する同盟軍の側で、再び国民の本分となり、これまでとはまったく異なる性質を帯びるにいたった、─と言うよりは、むしろ戦争の本性、即ち戦争の絶対的形態に著しく近づいた、という方がいっそ適切である」(クラウゼヴィッツ戦争論』篠田英雄訳、岩波文庫、下巻)

 ここで「戦争の本性」とか「戦争の絶対的形態」といっているのは、「敵の完全な打倒という理念のことです。しかしクラウゼヴィッツはそのような「絶対的戦争」もしくは「純粋戦争」というものを、あくまでも「現実の戦争」とは区別して考えました。

 「戦争は政治的手段とは異なる手段をもって継続される政治にほかならない」(同、上巻)というのが、クラウゼヴィッツの有名な定式です。それが「現実の戦争」だというのです。国家間の政治が外交でうまくいかないときに、非常手段に訴えて「我が方の意志を強要する」ことが戦争であると定義して、そのための合理的な条件や方法を考えたのです。

 ところが、いかに政治に従属するとはいっても、戦争には戦争独自の内在的な論理がある、とクラウゼヴィッツは考えました。戦争行為は政治的な配慮を超えて、双方の威力の競り上げに走るという傾向を持っているというのです。すなわち、敵の強力発揮に対して、自国はそれ以上の破壊力を示す、敵がそれを上回れば、自国もまたさらに倍加した破壊力を求める、という構想そのものの内在論理です。

 もし戦争が政治的目的の枠を超えて自己目的化し、その「本性」つまり「純粋な形態」をさらけ出したら、破壊的な威力だけが闇雲にエスカレートして留まるところを知らない、というわけです。

 カイヨワは、クラウゼヴィッツの論をめぐって、以下のように書いています。

 

  いまや戦争はある原理によって動かされるようになってしまったのであって、その原理は何か無制限なものを含んでおり、そのために戦争の大きさと激しさは、休むことなく無限に増大してゆくしかない、というのである。法の上での平等は、徴兵により召集された兵士に対して、士気を与える結果となった。こうしてはじめて兵士たちは、祖国の呼びかけに答えて祖国防衛のためあるいは他国攻撃のために戦うのは、とりもなおさず自分自身のものを守り、自分自身のものを増大させるために戦うことなのだ、という考えを持つようになった。(略)クラウゼヴィッツにとって、19世紀に起こった大きな変化とはこのようなものであった。〈いまから少し前、戦争がそれまであった慣習的な枠を破りはじめた時以来〉国家の運命を方向づけてきたのはこの変化であった。(略)戦争がその本性にもどった、といってもよい。戦争はその変態的形態を脱して、純粋な形態に到達したのである。(第2部・第1章)

 

 ここでカイヨワは、19世紀初めの「国民戦争」の始まりの中で、クラウゼヴィッツが危機感を持ってその予兆を見た、戦争の「純粋な形態」に着目しています。クラウゼヴィッツはあくまでも、「現実の戦争」は政治的理性によってコントロールされるべき手段であるとみなしていました。しかし実際にカイヨワの時代が経験したのは、まさに政治を飲み込んでしまう戦争の「純粋な形態」の現れであり、苛烈な「絶対的戦争」だったのです。

 

 

P40

第2回 戦争の新たな次元「全体戦争」

 前回述べたように、19世紀以後、近代の「国民戦争」というものの枠組みができあがります。それはまず、ウェストファリア条約による国際法秩序の成立と、その下で戦争が主権国家の権限に結び付けられたことと関係しています。

 それ以前のヨーロッパの戦争は、多くの場合、「神」によって正当化されてきました。神のための「聖戦」というわけです。ところがこの新しい体制のもとでは、「神」は戦争の口実にはならず、国際法のルールにさえ従えば、国家は戦争をしてもよいことになります。つまり、戦争には善も悪もない。その意味では、戦争当事国はみな法的に同等になります。これを「無差別戦争観」と言います。主権国家には戦争をする権利があるのであって、良い戦争も悪い戦争もなく、規制されるのはやり方だけです。

 それによって、戦争は「国家」と切り離せないものとなりました。その国家が国民を統合することになる。政治形態が王制であれ、共和制であれ、そこでは人々の運命が、帰属する国家の命運に結びつけられるのです。国民の義務として戦争に駆り出されることがある一方、進んで国家のために尽くすという意識もつくられる。あるいは国家のために死ぬことが美徳とされるようになる。それが「ナショナリズム」です。この場合のナショナリズムは、ある社会のひとつの風潮ということではなく、近代の「国民国家」が形成されるときに、国家と人民とを関係づけ、特徴づける意識傾向のことです。

 「ナショナリズム」は死を媒介にしています。死の意味づけといってもいいでしょう。近代社会で一人ひとりバラバラになった個人は、「なぜ生きるのか」の指針を失い、現世的な欲望に駆られて目先の利害にのめり込みがちですが、そこに国家が意味を与えてくれるというのです。「国家のために死ぬ」。すると「わたし」の死は多くの人に悼まれ、生きていたことにも意味があるというわけです。

 カイヨワは国家の統制のほうを強調していますが、「国民国家」はこうした人々の意識によっても支えられています。

 

P42

 西洋の伝統的な考え方と比較してみると、こんな風にも言えるでしょう。キリスト教は、ばらばらな個人を「愛」によって結びつけます。人々は相互に結びつくのではなく、神への愛、神の我々に対する愛によって結びつくのです。そしてその愛は時として、「死を超えた愛」となることで成就する。なかでも神秘家たちは、死に近似した恍惚境に入って、神との合一を果たします。そんなキリスト教の神あるいは「教会」の場所に、近代において「国家」が取って代わるわけです。ばらばらの個人を、今度は国家という全体性が結びつける。だから死を超えて、国家に身を捧げるのです。

 

P44

 かつては教会が「キリストの身体」とされ、人びとの「愛」つまり信仰がその身体を生かすと考えられました。「国家」は、国家のために死ぬ、あるいはそう見なされる人々の犠牲によって、その活力と凝集力を得るのです。「この人たちが国のために死んだ。お前も国のために死ね」という形で、国家は自らを強化していく。そのことを私は「死の貯金箱」と呼びます。国家のために死んだ人間が多くなるほど、国家の力は強くなっていくのです。

 

  国家は徴兵制度により、死を伴うある特定の目的に向けて、全市民を完全に掌握するようになった。ここで国家は、支配者として登場することになる。それは、衣食住の心配こそなけれ、国家によって完全に支配されたところの、新しい生活様式を個人に課してくる。(略)一箱の支配者からすべてを受け取ることができるが、一方、いつかはこの支配者に対してすべてを差し出さねばならないのだ。(同前)

 

 つまりはこれが「国民国家」ということです。そして国家の人々に対する権利は、戦争との関係において、というよりまさに戦争によって全幅のものになります。

 

  国家がおのれの権利を、市民の生命財産により上位のものとして主張することができるのは、戦争の際においてであった。戦争は、社会集団の在り方を極度に社会化するための契機となる。戦争が聖なる力となるに至ったのは、このようにして、一人びとりの人間に対し最高度の犠牲を要求するためであった。(同前)

 

P47

 「国民国家」は、戦争の質を大きく変えました。改めて確認しておくと、戦争は封建社会の身分制に基づく、騎士階級主体の、限定された儀礼的な戦いではなくなった。カイヨワはこのことを重視しています。

   (中略)

 もちろん、同様の統治体制や習慣を持ち、共通の価値観を持ったキリスト教社会の中では、王家同士がそれぞれの地位と名誉をかけて、平民の生活とは別次元の(ただし平民を巻き込んでの)戦争を展開しました。そのやり方にはしきたりがあり、それを守らないと名誉を失います。戦争はそのルールによって限定され、抑制されていたのです。

 ところが、近代国家の戦争は、この構造を根本的に変えてしまいます。どう変わるかというと、それは「全体戦争」(トータル・ウォー)になるのだとカイヨワは言います。

 

  戦争は、遊戯としての性格を捨て、規則通りに行われる儀式としての性格を失った。むかしの戦争は、一人びとりの戦いの総和にすぎなかった。そこには勇気と品位とがからみ合い、侮辱的な挑戦と立派な作法とが生まれ、傲慢と礼儀とが隣り合っていた。しかし、これらのものはすべて消滅してしまったのである。(第2部・第3章)

 

  全体戦争という言葉は、まず第一に、戦闘員の数が動員可能な成年男子の数に接近する、ということを意味する。第二にそれは、そこに使用される軍需品の量が、その交戦国の工業力を最大限に働かせたときの生産量と等しい、ということを意味する。(同前)

 

 そこでは、人も物も生産力もすべてを挙げての戦いになります。古典的な戦争では王家が主体ですから、傭兵を雇うにしても。王家の財政に制約されていました。ところが国民国家が主体になると、戦闘可能なすべての国民と、国家財政の枠いっぱいまでの資金を使うことができます。

 傭兵が主力の軍隊では、傭兵は雇われているのですから、生きて帰り報酬を得なければ意味がありません。そうすると、ナポレオン戦争のときなど、命を賭けて戦うフランス軍に敵うわけがないのです。

   (中略)

 その頃、産業革命が起こります。(中略)

 自然は工業資源の貯蔵庫に変わり、人間は土地に縛られず、生まれた場所から離れて、都会に集まって暮らすようになる。人間も原料と同じように、工場のあるところに集まるのです。それは自然や土地からの解放でもあり、個人の自由の実現とも見なされました。個人はそれぞれの欲望に従って動くようになる。そうしてばらばらになった要素を工場と市場が結びつけ、配置していく。そのように組織化された社会に人々は生きるようになります。それが近代の産業社会です。

 多くの人は労働者として雇われ、賃金を得ないと生きていけない。そこで「失業」というものが、歴史上初めて大きな問題になります。言い換えれば「雇用」が人々の社会への統合に欠かせない入口になるのです。ただし、そこには雇用する側とされる側があります。こうして、かつての身分制に代わって階級関係が現れる。産業革命以降に起こった社会の変化とは、そのようなものです。

 ばらばらになった個人を結びつけるのは、新聞やうわさ話などのメディアです。コミュニティという共生の場がなくなり、共有される情報が人々のコミュニケーションの場になり素材になる。ただしその場はナショナルなものです。たとえばフランスのメディアはフランス語で、フランス人に情報や娯楽を提供します。だからそれは必然的にドメスティックな、国内的なものになります。それがフランス人という同質性の意識をつくるのです。ばらばらになった個人には、それがアイデンティティの拠り所になって、「国民」という共通意識の、言い換えればナショナリズムの温床となるのです。

 そんな社会構造の変化をベースとして、物が大量に生産されるようになる。また技術革新によって、産業経済は拡張していきます。それはみんなが物を欲しがり、儲けたがるという個人の欲望を動因としつつ、同時にそれを煽りもします。新しいものをつくり、それを売って、消費してもらわないといけない。そのための技術革新を通して、武警の性能と破壊力も向上していきます。

 

P52

 さて、産業社会における絶えざる技術革新によって、兵器の進化は加速します。大砲も大型になり、自動車が開発されると、すぐに装甲車や戦車ができます。20世紀にはそれに飛行機が加わり、毒ガスのような化学兵器、また細菌やウイルスによる生物兵器も開発されます。科学技術の進歩が、こうして破壊力・殺傷力を天井知らずに増していき、大量殺戮の可能性が拡がっていく。

 この科学技術の進歩は、近代国家の主導のもとに推進されるようになりました。この面でも、カイヨワが強調するように、国家こそが戦争の「全体化」を可能にしたということができるでしょう。

 

P59

 そして、第一次世界大戦が「やってみて分かった世界戦争」だったとすれば、第二次世界大戦は各国が「それと分かって準備した世界戦争」だったのです。

 

P60

 とりわけ本書におけるカイヨワの意図は、戦争が人間の心と精神を以下に変えたかという点にありました。ですから、考察の重点は、戦争の「全体化」の内にある人々の、心理的・精神的状況に置かれています。

 カイヨワが着目するのは、「全体戦争」において、古典的な戦争との完全な逆転が起きている点です。もはやいかなる意味においても、戦争における英雄譚や誰かの勲功(いさおし)といったことが語り得なくなり、むしろ無名のまま、国家の礎として虫けらのように死ぬことこそが人々の栄光になったという点です。

 

  このような諸条件の中で英雄とされるのは、もはや武勇をもってその名を轟かせたもののことではない。それは無名の兵士、言い換えれば、自分を無にすることをよく為し得た者、彼がどこにいたのか探し求めてもその痕跡さえないような者、をいうのである。(第2部・第3章)

   (中略)

  何の目立つところもなく、生きては長蛇の列のなかにあって、見分けることもできない一兵士にとどまり、死しては死肉の山の中に見分けもつかぬ肉片となったこれらの無名兵士の栄光は、武功に対して与えられたあらゆる名誉や、世にも稀なる諸徳に与えられたあらゆる名誉にもまして、光り輝くものであった。(同前)

 

 「全体戦争」において兵士は、大量に消費される砲弾と同じように使い捨てられ、大量に死んでいきます。どんなに勇気や技術を持ち、肉体が屈強であっても、銃弾を受け、砲弾の炸裂に遭えば、何の抵抗もできずに肉片と化してしまう。その意味では、産業技術時代の戦闘はきわめて無慈悲なものです。

 軍の組織かという点でも同じで、第二次世界大戦時に日本軍が行なったインパール作戦などでは、無茶な作戦の遂行に対して兵士は反抗もできず、犯行などしようものなら規律違反で処刑されてしまう。であれば、それを自分の運命として受け入れ、泥の中を這い、虫のように死んでいかざるを得ないわけです。そこでは国家の勝利だけが目的になるのです。

 それでも、兵員を戦わせるためには誇りを与えなければなりません。そこで戦争は、個々の人間の武勲や功績を称えることから、国家のために名もなく死ぬことを栄光とする方向へ舵を切ります。その転換について、カイヨワはこう表現します。

 

  戦争がこのような洗礼的意義をもつようになったのは、戦争が非人間的なものとなったときであった。(第2部・第1章)

 

 「洗礼的」という言葉に注目してください。ヨーロッパのキリスト教的伝統においては、「洗礼」と言えば神の世界に迎え入れられることです。ですから、これは宗教的な変身の儀礼なわけですが、カイヨワは戦争がそういう意義をもつという。つまり、「戦争が非人間的なものとなったとき」、人間は通常のダメな人間の境地から抜け出て、別の世界に入るというのです。これは倒錯した言い方ですが、先ほど述べたような逆転が起こり、人間と戦争との関係が根本的に変質したということです。

 →よくわからん。「非人間的行為」、つまり「超人間=神や悪魔」のレベルに到達したことを意味するのか?

 

 この状況は、第一次世界大戦で「総力戦」すなわち「全体戦争」を経験して初めて分かったことです。次にあらゆる国が「総力戦」体制で再び戦争に向かうときに、特に後発の国々は、いわゆる「全体主義」の国家としてそれに臨みました。全体主義においては、国民がただ受け身で動員されるのではなく、進んで国家に同一化し、戦争に身を挺していく状況がつくられます。日本の例でいえば、「死んで靖国へ行く」という精神の状況です。そのことをカイヨワは、こう述べます。

 →全体戦争の責任は、民主主義や社会主義帝国主義や独裁政治といった政治体制に問題があるわけではなく、どんな体制であろうと「国民国家」という形態になっていることが問題だったということか。

 

  全体主義体制が生まれるに至って、戦争は現実に国民の宿命となってしまった。ひとたびこうなってしまうと、戦争は国民のために行なわれるのではなく、国民が戦争に奉仕するのだ、というような言葉は、もはや単なる哲学的なテーゼではありえない。(略)国家は、批判や反対をする余地を少しも与えず、身を引くことはおろか、消極的な態度をとることさえも許さない。(略)このような体制の力となっているのは狂信と時計仕掛けのような組織とであって、これこそが、近代戦にその固有の性格を与えているところのもの、すなわち、熱情と組織である。(第2部・第5章)

 

P67

 カイヨワの論点の肝となる部分を整理しておきましょう。近代の社会では、人間が個々ばらばらに「俺は」「わたしは」というふうに存在している。しかしそのようにしながら、実はまとまった集団を形成しているのです。そのつながりを何が支えているのかというと、基本的には言葉です。そしてその言葉がどのように作用し、どのようにつながりを構成するかという、それぞれの想像世界を介して人々は生きている。そうした言語と想像世界の全体が国家に統合されていくと、あらゆる人間が「国民」という共通項で結ばれ、国家によって逆に造形されていく。その統合の力が剥き出しになり、最強の形で現れるのが、「全体戦争」なのです。

 そこでは戦争は個々の人間の意志を超え、あたかも「聖なるもの」のように、恐怖と魅惑の中に人間を飲み込んでしまう。そのように、個々の人間にとっての戦争の現れ方が、「世界戦争」の時代にまったく変わってきたということを、カイヨワは強調しているのだと思います。

 

 

P69

第3回 内的体験としての戦争 「聖なるもの」とは何か

 「聖なるもの」という概念自体は、ドイツの宗教哲学者ルドルフ・オットーの著作『聖なるもの』(1917)で有名になりました。それはキリスト教の「聖人」や「聖家族」というときのような「神聖さ」とは違って、もっとプリミティヴで混沌とした、恐れを誘うようなもの、それゆえにまた魅惑するようなものです。いや、「もの」というより、客観的に捉えられる物ではなく、むしろ感覚的な経験です。とりわけそこには、功利主義や合理主義につながるような善悪の倫理的判断はありません。オットーはそれがあらゆる宗教現象の中核にある経験だと考えました。

 フランスの社会学者のエミール・デュルケームも『宗教生活の原初形態』の中で、この用語を用いて宗教現象一般を理解しようとしました。デュルケームは人間の活動を「聖」の領域と「俗」の領域に二分し、前者を「禁止」によって後者から隔離された領域だとしました。その領域は信念や儀礼によって編成され、個人を超えた力を崇拝の対象とし、そこから生まれる道徳や倫理を通じて成員相互のつながりを支える社会的統合的な機能を果たしていると考えました。いわばデュルケームは「聖」を「俗」と対置してそれを機能的に考えようとしたのです。

   (中略)

 カイヨワはすでに述べたように、バタイユの影響下で『人間と聖なるもの』を書きました。そこでは、「聖なるもの」の経験としての側面が何より強調されています。「聖なるもの」はフランス語では le sacre と言われます。元は「分けられた」「別にとり置かれた」といった意味で、形容詞をそのまま名詞化した言葉です。「分けられた」というのは、とんでもないから、ただ事ではないから、通常から分けられ、別格に扱われるということでしょう。そういうものは怖くもあるが、また惹きつけもする。危険かもしれないけれども、抗いがたく魅惑的でもある。だから善悪の判断以前の混沌に人を巻き込んでしまいます。また、それを前にすると、合理的・客観的な判断が成り立たない。だから、直接的・非合理的な崇拝や畏怖の対象にもなります。それが「聖なるもの」なのです。先ほど、形容詞をそのまま名詞にしたものだと言いましたが、「もの」として捕らえられるというより「こと」として経験されるといってもいいでしょう。

 すると自分がもはや自分でなくなるかもしれない。でもひょっとするとそれこそが生命の、あるいは世界の源泉なのではないか? 「ならば体験してみたい」と惹きつけられつつ、やはり恐ろしくなり抵抗する。逡巡するうちに、ブラックホールのようなその引力に飲み込まれてしまったら、もう終わり。そこには善悪も好悪もない。全てが混濁し沸騰している一種の狂騒状態なのです。しかしそれは、人間が人間であることから「解放」されているとも言えるのではないか。

 覚めてみると、「ああ、すごかった。何だったんだ、あれは…でも、すごかった」と、あとから初めて捉えられる。そんな次元の出来事です。それは、未開社会の習俗や特殊で極端な体験にも限らずとも、私たちの日常にもある「祭り」や「遊び」や「陶酔」ともつながっているのです。

 しかし、「聖なるもの」は神聖だというわけではありません。むしろ暴力的、破壊的な様相さえ帯びています。カイヨワは、そのことを忘れません。

 

 →これは「芸術」も同じ。飼いならされた「美」だけを芸術だと勘違いしていると、これは理解できないし、ナチズムのような洗脳に引っかかる。裸体像を「セクハラ」と見なし、慰安婦少女像を「政治問題」と見なして、人々が大騒ぎをすればするほど、その芸術的価値は高いことになる。それに、ほとんどの人が気づいていない。「あいちトリエンナーレ2019」問題や「京都造形芸術大学公開講座」セクハラ問題が象徴的。キレイなだけの絵や、聴き心地がよいだけの演奏、喜怒哀楽のようなわかりやすい感情の発生だけで留まってしまう演劇などは、芸術ではなく、娯楽にすぎない。人間を人間のままでいさせる芸術は、芸術もどき。芸術は怖いもので、教養として簡単に触れるべきものではない。芸術に触れることで、自分の価値観や人間性など、すべてを破壊されてもかまわない覚悟を持つべきだし、その覚悟がないなら芸術に触れるべきではない。芸術は教養ではない。芸術をナメるのも大概にしたほうがよい。理性ではコントロールできないものを表現しているのに、それを理性で理解しようとしていることがそもそもの間違い。だから、私は刺激的な芸術には触れないようにしている。

 公権力やパトロンによって支援を受ける芸術(家)はたくさんあるが、公権力やパトロンは支援した芸術(家)から反旗を翻されることを覚悟しておくべきだろう。飼い犬に手を噛まれる? 支援した当の芸術家から批判される覚悟がないなら、支援などするべきではない。芸術(自由)と権力(管理)は、蜜月の時期があったとしても、いずれ必ず衝突する。千利休豊臣秀吉。こんな話は、日本人にも馴染みが深いはず。

 

P71

 人間世界のすべてを巻き込み、破壊と狂乱の坩堝に投げ込んだ戦争の全体化とはそういうことなのではないか、カイヨワはそう見定め、「聖なるもの」という概念によって全体戦争を捉えようとしました。そこには、人類の知恵などまったく無力だった、というより、合理的な文明世界そのものが、その到達点でこの戦争の全体化にまっしぐらになだれ込んでいった、そのことの深刻さに向き合おうとする、強い意志があるように思えます。戦争と「聖なるもの」について、第二部の序文にはこう書かれています。

 

  戦争は、聖なるものの基本的性格を、高度に備えたものである。そして、人が客観性をもってそれを考察することを禁じているかにみえる。それは検証しようとする精神を麻痺させてしまう。それは恐ろしいものであり、また感動的なものでもある。人はそれを呪い、また称揚する。しかしそれは、ほとんど研究されていない。(略)

  聖なるものは、まず、魅惑と恐怖の源であった。戦争は、それが人びとをひきつけ、人びとに恐怖を抱かせる時にのみ、聖なるものとして受けとられる。(略)戦争が聖なるものの引き起こすいろいろな反射行動をひき起こしうるためには、一国の国民全体にとっての全体的危険となることが必要であった。(第2部・序)

 

 しかし「全体戦争」といっても、実際にその状況を生きるのは一人ひとりの人間です。「社会が沸騰する」といっても、一人ひとりの人間が泡つぶになって沸き立つのです。その沸騰を、自分が呑み込まれる、あるいははじけ飛ぶ体験として、生きる側から見たときに、ひとは「内的体験」を語るのです。

 

P80

  彼(エルンスト・ユンガー)は1920年、精鋭部隊の将校として自ら経験したところの体験を物語った。『鋼の嵐のなかで』という本がそれである。その後の二作『火と血』(1926年)と『労働者』(1932年)のなか、とくに後者のなかでユンガーは、近代的戦争が〈人間にとって、技術的な、抽象的な、無人格な、如何ともし難い〉ものであることを、少しも隠そうとはしなかった。それどころか、彼自身がこの戦争の無慈悲な法則を甘んじて受け入れている以上、戦争は彼にさからうものではまったくない、と彼は考えた。戦争が一つの巨大な死の工業として現れる時、戦争が人間に対して要求するのは、人間自身が〈一種の武器となり、一種の精密機械となって、壮大にしてしかも残酷な秩序の支配するいとも複雑な全体のなかで、その決められた地位を占めることである〉。(第2部・第4章)

 

 ユンガーにとって、これこそが新しい時代の人間の栄光だというのです。衝撃的な考え方ですが、戦争を運命的に引き受けなければならないと受け止める人々にとっては、強烈なカンフル剤になります。前にも述べたように、第一次世界大戦後は世界に不安な空気が澱んでいたわけですが、それに逆らうようにして、あるいはそれにもう一度火をつけるような、こういう考え方も登場したのです。

 同じく塹壕戦の中から、ヒトラーの台頭を支えたナチスの突撃隊のような集団も生まれました。彼らは自分たちの経験した塗炭の苦しみを、既存の世界に対する怨みや憎悪に転化し、その「元凶」(ユダヤ人)を作り出して攻撃しました。

 しかしユンガーは凄惨な体験にひるむことなく、無慈悲な破壊という試練を生き抜くこと、それこそが人間の崇高さであると見なしました。だから、彼は、最後までナチスの誘いにのりませんでした。

 

  このような秩序をそっくり受け入れることのできる人間は、偉大なものとなり、その真の自由を見出す。人間にとってこの真の自由というのは、ある崇高な行動に全面的におのれを捧げることにほかならない。

 

 すべてを受け入れ、全面的におのれを捧げる、それが真の自由だという。何という逆説でしょう。

 近代文明のもたらした物量機械戦の中で、それに裸の肉体を融合させ、肉体の無化を引き受けて、壮大な悲劇の魂となること、そこにこそ人間の偉大さがあると謳いあげる。それは、運命に打ちひしがれることを人間の栄光としたギリシア悲劇の神話性を、機械文明の世界に復活させる試みだったともいえるでしょう。ユンガーは、感情に溺れることなく、冷徹に現実を見つめながら、同時にそれを劇的な高揚に転化するのです。

 それをユンガーは「内的体験」と見なしました。その「体験」は、戦争の凄惨さの強度を、逆に文明の精華として謳歌するという、異形のものでした。彼の作品は、「戦争の恐怖そのものが引き起こしたこの眩暈を、極端な形で表したものであった」とカイヨワは述べます。ユンガーは、まさに「戦争の眩暈」を体現した作家だったといえるでしょう。

   (中略)

 そのようなユンガーの作品は、マルティン・ハイデガーの哲学とも親和性を持ちました。「不安」を人間の基本的な情緒であり、それこそが人間の「本来的あり方」への「覚醒」の入り口である、とする存在の論理で若者たちを新刊させ、一世を風靡したハイデガーが登場するのも、第一次世界大戦後のこの時期です。

 それまでの近代哲学では、デカルト以来の「明晰判明」な自我が中軸にあり、それと世界との関係を論じることが主流でした。「不安」などの不分明な要素はネガティヴにしか論じられませんでした。「不安」を初めて哲学のテーマとして取り上げたのはキルケゴールですが、それを人間のあり方の入り口に置いて、「死に向き合う」ことを人間の根本的な規定性とみなす哲学を展開したのがハイデガーです。その意味では、ハイデガーも全体戦争の時代の雰囲気を色濃く引き受けた人なのです。

 

P83

 20世紀に入り、戦争が「全体戦争」となってその惨禍が深刻化すると、初めて戦争が「罪悪」であるという考えが顕在化してきました。それまでは、戦争をすること自体に善悪はありませんでした。だからこその「無差別戦争観」だったし、勇ましく戦うことは美徳として称えられることはあっても、非難されることはありませんでした。

 古代ギリシアにおけるアリストファネスの喜劇『女の平和』のように、反戦的なテーマを持った作品はそれまでにもありましたが、ウェストファリア体制以降の国家間秩序の中では、事の善悪にかかわらず戦争をすることは国家の権利だったのです。

 戦争が避けるべき「災い」あるいは端的に「悪」だと考えられるようになった、その転換を象徴するのは、アインシュタインフロイトの往復書簡です。

 国際連盟は、戦争再発を避けるために人類の叡智を集めようと、アインシュタインに著名な知識人との意見交換を委託します。そのとき選ばれた対話相手の中に精神分析創始者フロイトがいました。

 「人間を戦争というくびきから解き放つために、いま何ができるのか?」というアインシュタインの問いに対してフロイトは、自分は政治家ではないからその問いに答えることはできないが、心理学的な観点から現在の人間についてコメントすることはできると言います。

   (中略)

  ここにおいて戦争の聖なる力は、その十全な輝きをもって現れる。(略)このような感情は、文明がその基礎としている諸々の価値、戦争の前夜まで最高のものと思われていた諸々の価値を、粗暴な瀆聖的な仕方で否定するところにおいて、その最高の強みを見せる。平和が必要と偽善にかられて聖なるものとしてきたもの、すなわち節度、真実、正義、生命といったものを誇らかにあざ笑うこと、これこそが、戦争のもつ聖なる威光の最高の明証である。(略)祭りのなかに現れる〈聖なる違犯〉というものの役割を、戦争が果たしているのである。(第2部・第6章)

 

P86

 ユンガーは、戦争は個々の人間を、有無を言わさず呑み込む巨大な何かだとしたのですが、人々はそれを「災厄」とみなすか、人間の新たな展開として引き受けるかという、分かれ道に立たされます。一方は戦争を罪悪視する構えになりますが、もう一方は「神話化」するという姿勢になる。その「神話的思考」、あるいは逃れがたい運命を自らの意志へと転化するという「悲劇的思考」が、ユンガーに代表される戦争礼賛者や戦争信奉者の思考だったと言えます。

 神話はもともと、人間を超えた諸力を手なずけようとする、人間による工夫だと言えます。また、それをもって人々を畏れさせ、従わせることもできる。だから戦争の神話化は、現代の戦争の神話化は、現代の戦争が人間の領域を超えてしまい、非人間化した、人間にはもはや制御できない超越的な現象となったことを示してもいるのです。カイヨワはこう述べています。

 

  戦争のもつこのような性格は、つねに戦争礼讃の理由とされてきた。戦争が人間と同水準にあったあいだは、戦争を神格化しようとするものは一人もいなかった。けれども戦争は、人間を訓練し、人間を押しつぶすようになり、人間は巨大な機械に対して何の手出しもできず、この機械はその量と理解不能なまでの複雑性によって、人間を呆然とさせるまでになった、この時に至って、鋭い宗教感覚をもつ人びとは戦争を、一種の形而上学的な高みにあるものと考えるようになった。戦争は時のはじめ以来この世界全体を、この高みから司ってきたのだ、というのである。(第2部・第4章)

 

 西洋文明においては、神話は社会が自らのアイデンティティの原型をつくる措置でしたが、第一次世界大戦後、神話的思考の推進力も与って、再び第二次世界大戦が起こったとき、その圧倒的な破壊と殺戮の後で、もう一度人間というものを根本的に問い直さざるを得なくなります。そのときカイヨワを捉えたのが、西洋文明を支えた神話ではなく、「聖なるもの」を戦争と結びつけるという発想でした。この「人間を呑み込む巨大な何か」は、もはや神話のように栄光を満ちたものではなく、むしろ人間が溶解して獣に戻るような、というより機械武装した獣が解けるような、近代ヨーロッパ文明にとっての異質な他者だったのです。それは、神話も通用しない混沌の中に人間を呑み込みます。それを制御することが「全体戦争」後の課題だということでしょう。

 神話について付言すれば、日本は明治期に近代国家をつくるとき、「万世一系」の天皇を統治者としました。天皇は「神国日本」の軍隊を統帥する存在となり、やがては歴史学も否定されて神話が事実としての通用力を持つようになりました。それは神話が活用されたというより、制度形成のベースに組み込まれ、それによって国の形が定められたということです。しかし、第二次世界大戦での敗戦で破綻したはずのその枠組みは、いつの間にか息を吹き返してわたしたちの日常を規定しようとしています。天皇が存在するというそのことではありません。その存在に社会的な時間を結びつけるという制度、明治維新とともに定められた一世一元制のことです。天皇が代わると世が改まるという摩訶不思議なことを、21世紀の現在でも日本の社会が受け入れているらしいことは、つい先頃のメディアを挙げての改元ムードの中で明らかになりました。

 

P89

 「聖なるもの」は、私たちに馴染みのある「祭り」とも深く関わっています。

 

  戦争の実態は、祭りの実態にあい通ずる。(略)戦争と祭りとは二つとも、騒乱と動揺の時期であり、多数の群衆が集まって、蓄積経済の代わりに浪費経済を行なう時期である。(略)さらにまた近代の戦争と原始的祭りとは、強烈な感情の生まれるときである。このある間隔をおいて生ずる熱狂的な危機は、色あせて、静かで、単調な日々の生活を打破するものであった。集団の関心事は、個人のあるいは家族の関心事に優先する。この独立性は一時棚上げされる。個人は画一的に組織された大衆のなかに溶け込んでしまい、肉体的、感情的また知的自律性は消え去ってしまう。(第2部・第7章)

 

  国家は自己を肯定し、自己を正当化し、自己を高揚し強化する。その故にこそ、戦争は祭りに類似し、祭りと同じような興奮の絶頂を出現させるのである。そして祭りと同じように一つの絶対として現れ、ついには祭りと同じ眩暈と神話とを生むのである。(同前)

 

 「祭り」は、「遊び」や「無意味な蕩尽」ともつながります。「遊び」とは子どもがすることで、生産性のない無駄なこと、無意味なこととされ、生産や蓄積が優先される近代社会では否定的に扱われます。「まじめな大人」のすることではないというわけです。しかし、遊ばせないと子どもは育たないし、「楽しみ」は「遊び」につきものです。だから、大人の労働にも遊びが必要だと言われるし、精密に作られた機械でさえ、「遊び」がないとうまく作動しないことがあります。

 近代社会は表面上、生産や蓄積が価値とされ、勤勉をモットーとしていますが、じつはそれは社会を統制する枠組みにすぎず、最終的な目的は消費や浪費や遊びなのではないか。一人ひとりの人間として見ても、ケチを通して働き、人からも搾り取って、物やお金をいくら貯め込んだところで、墓場まで持っていくことはできません。人のため、自分のために散在する。生産・蓄積に対する消費こそが人間の経済の目的で、人々の欲望の根元に結びつき、生きることの実相に適っているのではないか─。近代の功利主義に対する異論として、カイヨワの社会学は無意味だからこそ「遊び」を重視したのです。

 消費すること、もしくは使い尽くすことが人間社会の最終的な目的になる。生産された物も、すべては最終的にゴミになります。そのことは、19世紀に物理学の分野で提起されて以来、いまだに論破されていない「エントロピー増大の法則」(熱力学第二法則)の示すところです。秩序あるものはそれが劣化して無秩序のほうへ向かう、言い換えれば乱雑さが増すほうへ向かう、という法則です。

 

 *「エントロピー増大の法則」─熱力学第二法則は「熱は高温から低温に移動し、その逆は起こらないという法則」のこと。この変化は不可逆変化(物質系の変化のうち、その系も外界もそっくり元の状態に戻すことが不可能な変化)であり、「不可逆変化では必ずエントロピー(系の乱雑さ、無秩序さを表す量)が増大する」(エントロピー増大の法則)と表現することもできる。

 

P91

 カイヨワは、生産原理の社会が爆発的な消費に陥ってしまわないためには、ときに消費の原理の露頭を必要とすると考えたのでしょう。そのとき、「祭り」の熱狂が大きな意義を持ちます。ブラジルで行われるリオのカーニバルは典型的な例ですが、一年間働いて貯め込んだものを一度に使い踊って楽しむ。そうした「祭り」では、無意味さや浪費が当たり前になるのです。乱痴気騒ぎが嵩じると、大混乱になり、打ち壊しが起こったり、暴力沙汰が起きたりする。「祭り」が終わると、みんな疲れ果て、お金もなくなって、げんなりしながら日常に戻る。いつの時代のどんな社会でも、そんな発散がなければ「やっていられない」というわけです。

   (中略)

 身分制度から解放されて平等が社会の原則になっても、結局それが国民として一元的に国家の統制下に置かれると、この「消費」への傾きは国家によって締めつけられ、方向づけられることになるでしょう。それが戦争という形で、血わき肉おどる「祝祭」として爆発してしまうのです。

 カイヨワは近代社会の引き起こした壮大な破壊をそのように理解しました。戦争は国家によって「全体化」し、恐るべき「聖なるもの」として世界を呑み込んだのです。「やってみてわかった全体戦争」(第一次世界大戦)から「それとわかって準備した全体戦争」(第二次世界大戦)という戦争そのものの反転が、この「呑み込み」のダイナミズムを表していると言えるでしょう。

 →現在行なわれている韓国の集団的日本バッシング行動は、ちょうど「祭り」と「戦争」の間のような行動。容易にこうした行動に出るのは、国民性の問題だけでなく、日本よりも管理や統制が厳しいからかもしれない。韓国自体の不景気や政治不信も含め、「やってられない」という韓国民のフラストレーションのはけ口として、タイミングよく文在寅政権が日本バッシングを選択し、国民を誘導した。ところが、それを押さえつけることができなくなり、収拾をつけられず、引っ込みもつかなくなった、というところか。現代社会では、おそらく国民を完全にコントロールすることはできなくなると思われる。インターネットは、1つの価値観を世界中に拡げるが、逆にそれに対抗する価値観やそれらとは無関係な価値観も生み出し、広めていく。今よりも、ますます多様になるのではないか。日本人が反韓デモをしているという話を、あまり聞かないということは、日本経済はなんだかんだ順調で、国民は管理や統制をさほど「意識せず」、自由に暮らせている証拠なのかもしれない。こういう文章を読んで、中国やロシア、韓国や北朝鮮、トランプ政権のアメリカの考えていることは、古くてダサい気がする。軍事力の向上や領土争い…。こうしたことに執着している化石のような人間が、国家のトップに居続けるかぎり、それを指導者として選択するかぎり、状況は何も変わらないだろう。

 

 戦争と「祭り」には共通点があります。カイヨワは「戦争と祭りにはまた、道徳的規律の根源的逆転がともなう。戦時には人は人を殺すことができ、また殺さなければならないが、平和時には殺人は最大の罪とされる」とか、戦争と祭りは、平常の規範を一時中断することであり、真なる力の噴出であって、同時にまた、老朽化という不可避な現象を防ぐための唯一の手段である」などと述べています。

   (中略)

 カイヨワは、戦争と「祭り」の違いについても考えています。ただしその違いは、戦争において暴力による流血や多くの死者が出ることではないと言います。なぜなら、ときに「祭り」においてもそれは見られることだからです。

 

  とはいえ戦争と祭りとは、いくつかの基本的に異なった性格をもっている。(略)その違いはむしろ、祭りがその本質において、人々の集まり合体しようという意志であるのに反して、戦争はこわし傷つけようとする意志であるという点にある。祭りにおいて人は互いを高揚し興奮させるが、戦争においては人は相手を打ち負かしてこれを服従させようとする。そこでは、共同にかわって憎悪が現れ、二つの胞族の結合にかわって二つの国民の衝突が現れる。分かち難き結合を祝うものであったものが、容赦なき戦いを行なわせるものとなる。(第2部・第7章)

 

  祭りにおける暴力は付帯的なものであり、豊穣なる熱狂に付随するものであった。(略)ところが戦争において暴力は、機械化して適用すべきものとされ、執拗な戦いを行なうための目標として慎重に考慮されるものとなる。(同前)

 

 戦争はその集団性において、ことに近代では国家が強力に統制する全体性において、個々の人間の枠が取り払われたときに噴出するエネルギーを、すべて「敵」の破壊へと方向づけていきます。そのために集団の力は憎悪や排除の感情という形をとります。ですから「祭り」や「遊び」において個の制約を取り払うことの解放感や豊かさといったものが、すべて「敵」に対する攻撃性となって現れ、憎悪や破壊となり、またそれに対する恨みとなって残ることになるのです。

 集団が自足的にそこだけで機能していれば「祭り」で済むわけですが、他者である別の集団が「敵」として想定されたときには戦争になる。そこが「祭り」と戦争の、根本的な違いなのでしょう。

 戦争は常に「敵」を想定しますが、第二次世界大戦の末期において、人類はついに敵も味方もともに殲滅するような、核兵器という究極の兵器を手にします。最大の恐怖の対象でありながら、あるいはそれゆえに国家が皆その威力を手に入れたがる、アンタッチャブル(不可触)な「聖なるもの」を生み出してしまいます。最終回では、そんな核兵器登場以後の、現代の戦争について見ていくことにしましょう。

 

 

P101

第4回 戦争への傾きとストッパー

  核兵器という遠距離まで届く大量殺戮の道具は、抗争を全地球的規模に拡大する役を果たした。

  戦争が大量破壊的なものとなるのは、もう不可避なことであった。(略)

  このような条件においては、戦争は国民という枠をはみ出してしまう。英雄の時代が去って無名戦士の時代が到来し、個人的な闘争がいくつも行なわれるのではなく大量殺戮が行なわれるようになった時、この国民戦争のなかで、すべての戦闘員は自律的に行動し得ぬものとなった。これとまったく同じように、従来の国民国家はいまやその自律性を失う時期に立ち至ったのである。現代の戦争の規模は、個人というものの失墜の第二段階を示している。(略)極端に言えば、もはや戦闘は行なわれなくなってしまったのだ。人々は、生産し、運搬し、破壊するにすぎない。(略)原子爆弾を使用したいという誘惑がやがて支配的なものとなってしまうかというと、これはまだまだ疑わしい。これを使用する場合の戦闘員の役割は、標的を選び出し、これに向けてその場に適した兵器のねらいをつけ、引き金をひくだけのものとなる。このような仕事は、大部分計算機によって行なわれる。(略)そして間もなく、核爆弾を単走した宇宙船が絶えず鉛直圏を飛行していることとなろう。(略)

  このような条件における戦争は、一連の奇襲戦となるであろう。ここにおいて無防備な大衆は、遠くから発射された強力なロケットにより全滅させられるだけである。人間はもはやほとんど戦闘員ではない。彼は、機械の下僕となり被害者となる。(結び)

 

P115

 繰り返しなりますが、戦争とはウェストファリア体制以後、主権国家間でのものでした。しかし「テロリストの集団」には国家のような領土がありません。ですから9・11の場合は、事件の首謀者とされたオサマ・ビン・ラディンと彼が率いる武装集団アルカイダが潜伏していた、アフガニスタンという国を攻撃したのです。攻撃された国にとっては主権侵害であり、この戦争行為は普通なら国際法違反です。しかしアメリカは「テロ被害」を口実にこれを強行し、「ウェストファリア体制は古くなった」(ラムズフェルド国防長官)と攻撃を正当化しました。このときから、「テロリスト撲滅」を理由に他国を攻撃することが正当化されるようになったのです。メディアはそれを「21世紀の新しい戦争」と宣伝しました。

 

P120

 もう一つ、非対称的なものにメディア対策がありました。情報の伝達を一方向化する、つまり攻撃する側から発信して、攻撃される側は見せないということです。イラク戦争で有名になった「エンベデッド取材」というものがあります。これはメディアが軍隊に組み込まれた(embedded)いわゆる従軍取材のことです。ベトナム戦争のときには現場からのリアルな報道が世界中に流れ、反戦ムードを高めました。その「反省」を生かし、メディアを戦争遂行の側に取り込んだのです。

 エンベデッド取材では、戦闘機や戦争に記者を同行させます。臨場感はありますが、すべては攻撃する側の視点からしか見えません。戦闘機に乗っても、画面越しにミサイルが発射されて、標的あたりに白煙が上がるのは見えますが、そこが病院だったとか、がれきの中に肉片が散っていたとかは見えません。そんな視点からの報道は、最新鋭の兵器と勇気ある兵士たちが「恐ろしい敵」を痛快に退治してゆくと言った、「大本営発表」風のルポルタージュにしかならないでしょう。ゲームのような感覚と言ってもいいでしょう。

 これはまさに「ユニラテラル」(一方向的)な戦争です。戦争をする権利があるのは一方の国家だけで、相手にはない。権利がないとされた者だけが「敵」になる。あとは一方的に敵を叩き潰すだけです。そして、相手は国家でも公的な集団でもないから降伏も講和もありません。交渉相手とさえ認められません。実際、戦果の発表も、かつてなら「サイゴン陥落」とか「バグダッド制圧」などと言っていたものが、いまでは「テロリスト何人殺害」となります。それに、「テロリスト」とは「テロ」を起こした犯人の呼称です。つまり事前にはわからない。しかし攻撃で殺された「敵」は「テロリスト」だったということになるでしょう。ともかくそうして、この戦争では、「テロリスト」と名指しされた人間の「殺害」が戦果となったのです。たとえば2015年の初頭、アメリカ軍がIS(イスラーム国)の空爆を始めて数ヶ月で「6000人以上の戦闘員を殺害した」という発表があったように、アフガニスタン爆撃以来、戦争の目的が純然たる人殺しであることは公然化されています。

 また、この戦争にはそもそも国境がないので、「敵」と「味方」の区別がつきにくい。「テロリスト」は、9・11のときのようにたいてい国内にいるものです。だとすると、国内も潜在的な「戦場」です。ところが国内を爆撃することはできませんから、監視し、事前拘束し、予防するということになります。国内には監視体制が敷かれ、国民は潜在的な敵ということになります。テロリストが現れれば、もう戦争は始まっているのですから、この戦争は始まりが分からない。また、終わるときも、それまでの戦争のように講和会議があるわけでもない。交渉相手はいないのですから。「テロリストを撲滅した」と国家が言うまで、この戦争は終わらないのです。

 アメリカはこの体制を、9・11後の国家非常事態宣言下で法制化し、「愛国者法」(パトリオット・アクト)と名づけて恒常化しました。ですから国民すべてがその状態を受け入れなければならないのです。

 そうすると、「不断の警戒態勢」をとるといわれるように、「戦時(非常時)」と「平時」の区別はなくなり、国家は国民監視を最大の正当任務とする「セキュリティ国家」となります。日本語で言えば「安全保障」ですが、この安全保障体制そのものが「テロとの戦争」の別名として恒常化するわけです。

 

P125

 歴史的に見れば、「殺してもよい人間」というカテゴリーは、古代ローマの時代にも存在しました。ローマ法には、「罰されずに殺すことができる人間」というカテゴリーがあったのです。その人間を見つけたら、誰でも殺していい。しかしその不浄な死を犠牲として神に捧げることはできない。そのような人間を「ホモ・サケル」(聖なる人)と呼びました。「聖なる」の元の意味は「分離された、切り離された」と言うことですから、「別格」の、人間社会から切り離された存在だということです。

 現代イタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンは、「テロとの戦争」が始まる以前から現代世界の法秩序についての思索を重ね、この概念に注目して、『ホモ・サケル』(1995)を著し、それを一連の著述の総題にしました。