周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

福王寺文書1

  解題

 この寺は縁起によると弘法大師の開創という。当時の本尊不動明王が藤原時代あるいは鎌倉時代とみられる立木仏であったこと、大治二年(1127)鳥羽院が可部庄百八石を高野山へ寄進していることからして、平安末期までには開創されたとみてよかろう。

 その後、一たん荒廃する。正和四年(1315)、河内の人禅智上人が来て、中興をはかるが、それは安芸国守護武田氏信の援助によって実現した。天文十年(1541)の武田氏没落まで、同氏と福王寺の関係は深かった。福王寺文書の内容は、この時期のものである。当寺は再三の火災にあっており、原本はその際に焼失した。現在は二組の写本が残っている。一は天明甲辰(4)年に寛盛が浅野甲州文庫で書写したものであり、他は江戸初期のものであろう。このほかに内閣文庫本があるが、表題に「正徳五年(1715)当寺旧記什物之写 福王寺寺務学範」とあり、公儀へ写し差し出したものの控である。

 戦国時代までは旧安北郡地域における真言宗の拠点であったが、江戸時代になると、郡内にあった寺は全て真宗となり、末寺を失った。しかし当寺は今なお山上で真言の法灯を守りつづけている。

 

  『広島県の地名』より

 福王寺山(496・2メートル)の頂にある真言宗御室派の古刹。金亀山事真院と号す。縁起によれば、弘法大師が来山し、立木に不動明王立像を刻んで本尊としたのに始まるという。しかし、本尊の不動明王像(昭和五二年焼失)は藤原時代から鎌倉時代の作とされており、また大治二年(1127)鳥羽院が可部庄一〇八石を高野山に寄進している(高野山文書)ことなどもあり、初伝からやや下った平安時代後期ごろの開創と考えられよう。

 長禄四年(1460)の年号を記す安芸国金亀山福王寺縁起写(当寺文書)によれば、皇室から綾谷・九品寺・大毛寺の地を寄進され、一時は四八宇の坊舎があったがやがて衰退、正和年間(1312〜17)に河内国の人禅智が来住し中興したしたが、これを援助したのが安芸国守護武田氏信で、堂の再建、本尊脇士や寺領の寄進をしたという。この寺伝は武田氏の可部方面進出を契機に当寺との関係を持ってきた事情を反映しているとみられる。その後武田氏は当時に対し所領安堵・寺規制定・僧任免などを行った(当寺文書)。天文年間(1532〜55)武田氏は没落し、変わって可部庄一帯には熊谷氏の支配が及び、当時との関係が生じた。

 福王寺は中世以来郡内真言寺院の総元締の立場にあったが、中世末から近世初めにかけて付近寺院の真宗への転宗が進むなかで、本寺のみは密教の法灯を守った。古くから何度も火災に遭って古文書なども原本は失われたが、その写本や県指定重要文化財の金銅五鈷杵などが伝わる。昭和五二年(1977)の火災では、本尊のほかに寺宝の「さざれ石」という奇石を焼失した。同五六年再建。山上にある金亀池には奇瑞の伝承が伝わる。

 

 

   一 福王寺扁額銘文記寫

     事眞院

     (1460)(六月)

     長禄四年 林鐘朔日書之、

     此院号事眞院

     爲後代存知、乍憚記之、

    長禄四年庚辰六月一日鬼宿

        (山城) (隆快)

        安祥寺権大僧都

               判

 

 「書き下し文」

     事眞院

     長禄四年 林鐘朔日之を書く、

     此の院号事眞院

     後代存知の為、憚かりながら之を記す、

 

 「解釈」

     事眞院

     長禄四年 六月朔日に扁額の銘文を書いた。

     この院号は事眞院

     後世に知らせるため、不躾ながらこれを記した。

 

 「注釈」

「事眞院」

 ─福王寺の院号。「安藝国金龜山福王寺縁起寫」(22号文書)によると、後花園院の勅命によってこの院号が決まり、扁額が下された。

 

「安祥寺」

 ─京都市山科区御陵平林町。安祥寺山東南麓にある。吉祥山と号し、高野山真言宗仁明天皇の女御藤原順子が建立、開基は恵運。開創は嘉祥元年(848)(一代要記ほか)、仁寿元年(851)(安祥寺伽藍縁起資材帳)、仁寿二年(濫觴記)、仁寿年中(貞観元年四月十八日太政官符)などの諸説がある。『延喜式』には、安祥寺で階業を終えた僧は諸国の購読師に任命されること(巻二一)、土佐国正税・公廨稲計二〇万束のうち五千束が修理安祥寺宝塔料に充てられること(巻二六)などがみえる。『山科安祥寺誌』によると、平安時代中期には勧修寺(現山科区)が勢力を強め、勧修寺五世深覚は安祥寺座主職を兼ねた。南北朝時代の永和三年(1377)三月、安祥寺二一世興雅が高野山宝性院の宥快に安祥寺を継がしめ、以後高野山の兼務するところとなった(『京都市の地名』)。

 

 安祥寺の法流は安祥寺正嫡が相続したが、寺領・寺務等は勧修寺が相続することになり、法流と堂宇・所領の相承が全く異なることになった。安祥寺正嫡の法流は、太元帥法別当職を代々相伝してきたが、永和三年(1377)に醍醐寺理性院宗助が補任されて以降、安祥寺がそれを取り戻すことはなかった。嫡系安祥寺流は寺領からの収入を勧修寺に抑えられていたため、太元帥法別当職に付帯した権益に頼らざるを得なかった。そのため同職を喪失した嫡系安祥寺流は、西安祥寺における自立経営が困難となり、やむを得ず高野山に移ることになった(鏑木紀彦「中世後期の安祥寺流について─隆快・光意の事跡を中心に─」『ヒストリア』257、2016・8)。

 

「隆快」

 ─出自の詳細は不明。幼少より高野山に居住して、同山宝性院に相承された安祥寺流(真言宗小野流の一つ)を、宝性院成雄から伝授された僧侶。長禄四年(1460)までには、高野山を離れ、拠点を西安祥寺(上安祥寺・大勝金剛院・山科区上野)に戻した。隆快が拠点を西安祥寺に移して以後、嫡系安祥寺流の活動が活発化する。以前の伝法・教学等の門弟養成を中心とした活動から、失地回復の訴訟等、法流復興のための積極的な活動が現れ始める。隆快はその活動を支えるための収入を得るために、積極的な法流伝播活動を開始する。隆快の関する一連の福王寺文書(1・5・6号文書)は、この結果と考えられています(前掲鏑木論文)。

 

*この時の福王寺の住持は寛雅と考えられますが、隆快との関係がよくわかりません。福王寺は真言宗寺院で、所在地の可部庄も高野山領(ただし室町時代は不知行、『講座日本荘園史9 中国地方の荘園』)でしたから、隆快が高野山にいたときに、知り合っていたのかもしれません。

憧れのお伊勢参り ─室町時代の官僚の場合─

  応永二十九年(一四二二)四月十三日〜二十日条

                     (『康富記』1─167・168頁)

 

 十三日己亥 晴、明日吉田祭必定云々、

 自今夕勘解由小路猪熊式部亭面々行向夜宿、明日可参宮之故、爲精進屋者也、李部講

 親也、面々取分銭一貫文許在之、但予借銭一貫文也、是ヲハ宗左衛門ニ一結借リテ返

          (者ヵ)

 之畢、今日返之間利平不加之也、

 十四日庚子 雨下、今朝人々奉同道令参詣神宮、於草津有晝飯、於水口有夕飯、則夜

 宿、講衆面々見左、

       内名宿禰      内豎      頼賢 範景  良空    宗種

  清給事中、新太都事、篤蔵主、宰相律師御房、中書、侍中、上林蔵氷、度支外史、

  親⬜︎                  葦屋    角田   講親

  國子外史、予、左一史員職、弾正史職豊、清四郎貞範、彌次郎、式部季國、

                    内豎

  原弾正佐富、主殿大夫職藤、弾正氏郷、兵庫職久、官掌助包、等也、

 蔵氷ハ乗輿(割書)「立烏帽子」也、筭儒馬也、給事中馬也、高倉馬、自岩蔵将監入

 道許出之傳馬也、此間連々加問答之處、雖及難渋堅令加問答責伏了、但馬ハカリ出

 之、無食物口付、此外人々皆歩行也、

  (以下略)

 十五日辛丑 晴、於坂下有晝物、窪田夜宿、

 十六日壬寅 晴、於飛兩(割書)「今之肥留歟」有晝物、今夕山田三日市場大夫太郎

 宿著之、於宿連歌張行、予執筆、則懐紙内宮[

 十七日癸卯 晴、夕方雨下、今日両宮々廻也、天岩戸一見、

 今日自山田還向、於飛両夜宿、

 十八日甲辰 晴、於窪田有晝飯、坂下夜宿、

 十九日乙巳 晴、於水口有晝物、草津夜宿、當國之順光此宿来臨、有駄餉、及大飲、

 高倉知人也、

 廿日丙午 晴、自草津立、於濱有酒、於上大路又有一献、晝程李部亭面々還向有一献

 祝著、退散了、

 今度参宮無為無事、就惣別珍重々々、大慶何事如之哉、

 

 

 「書き下し文」

 十三日己亥 晴れ、明日吉田祭必定と云々。

 今夕より勘解由小路猪熊式部亭に面々行き向かひ夜宿す、明日参宮すべきの故、精進

 屋に為る者なり、李部講親なり、面々の取り分銭一貫文ばかり之在り、但し予銭一貫

 文を借るなり、是れをば宗左衛門に一結借りて之を返し畢んぬ、今日返すの間利平

 (利は)之を加へざるなり、

 十四日庚子 雨下る、今朝人々に同道し奉り神宮に参詣せしむ、草津に於いて晝飯有

 り、水口に於いて夕飯有り、則ち夜宿す、講衆の面々左に見ゆ、

  (人名省略・注釈参照)

 蔵氷は輿に乗る(割書)「立烏帽子」なり、筭儒馬なり、給事中馬なり、高倉馬、岩

 蔵将監入道の許より出だすの傳馬なり、此の間連々問答を加ふるの處、難渋に及ぶと

 雖も堅く問答を加へ責め伏さしめ了んぬ、但し馬ばかり之を出だす、食物口付無し、

 此の外の人々皆歩行なり、

  (以下略)

 十五日辛丑 晴れ、坂下に於いて晝物有り、窪田にて夜宿す、

 十六日壬寅 晴れ、飛兩(割書)「今の肥留か」に於いて晝物有り、今夕山田三日市

 場の大夫太郎の宿之に著す、宿に於いて連歌を張行す、予執筆す、則ち懐紙内宮[

 十七日癸卯 晴れ、夕方雨下る、今日両宮々廻りなり、天岩戸を一見す、

 今日山田より還向、飛兩に於いて夜宿す、

 十八日甲辰 晴れ、窪田に於いて晝飯有り、坂下にて夜宿す、

 十九日乙巳 晴れ、水口に於いて晝物有り、草津にて夜宿す、當國之順光此宿に来臨

 す、駄餉有り、大飲に及ぶ、高倉の知人なり、

 廿日丙午 晴れ、草津より立つ、濱に於いて酒有り、上大路に於いて又一献有り、晝

 程李部亭面々還向し一献有り、祝著、退散し了んぬ、

 今度の参宮無為無事、惣別に就き珍重々々、大慶何事か之に如かんや、

 

 「解釈」

 十三日己亥 晴れ。明日吉田祭が必ず行われるそうだ。

 今日の夕方から勘解由小路猪熊の式部卿季国の邸宅に伊勢講のメンバーが行き向かい、夜は宿泊した。明日伊勢にお参りする予定なので、季国の邸宅が精進屋になっているのである。季国が伊勢講の世話役である。講のメンバーの取り分は銭一貫文ほどあった。ただし、私は積立金の中から一貫文を借りていたのである。この分を宗左衛門から一貫文を借りて、講中に返済した。今日返済したので利子は加えられていない。

 十四日庚子 雨が降った。今朝人々と同道し申し上げ伊勢神宮に参詣した。近江国草津で昼飯を食べた。近江国水口で夕飯を食べた。夜はそこで宿泊した。伊勢講のメンバーは左に見える。

  (人名省略・注釈参照)

 清原良宣(業忠)は立烏帽子で輿に乗ったのである。小槻内名は馬である。清原宗業も馬である。清原頼賢の馬は岩蔵将監入道のもとから出した伝馬である。この間、伝馬を出すことについてたえず言い合いになっていたところ、岩蔵将監入道は伝馬を出し渋ってきたが、問答の末説き伏せた。飼い葉と馬丁は出してくれなかった。この他の人々はみな徒歩で向かった。

  (以下略)

 十五日辛丑 晴れ。伊勢国坂下(亀山市関町坂下)で昼飯を食べた。夜は伊勢国窪田(津市大里窪田町)で宿泊した。

 十六日壬寅 晴れ。伊勢国飛兩(割書)「今の肥留か」(松阪市肥留)に於いて昼飯を食べた。今日の夕方に、伊勢国山田三日市場の大夫太郎の宿に到着した。宿で連歌会を催した。私が執筆した。そして、懐紙は内宮[に奉納した。]

 十七日癸卯 晴れ。夕方雨が降った。今日内宮と外宮を巡拝したのである。天の岩戸を一見した。

 今日参拝を終え山田から下向した。夜は飛両で宿泊した。

 十八日甲辰 晴れ。窪田で昼飯を食べた。夜は坂下で宿泊した。

 十九日乙巳 晴れ。水口で昼飯を食べた。夜は草津で宿泊した。近江国の順光がこの宿にお出でになった。食事を持ってきてくれた。大いに酒を飲んだ。清原頼賢の知人である。

 廿日丙午 晴れ。草津を出発した。湖岸の浜で酒を飲んだ。上大路(左京区吉田上大路)でまた一献あった。昼頃に季国の邸宅にメンバーが下向し、一献があった。喜ばしいことだ。その後、それぞれ退出した。

 今度の参宮は何事もなく無事に終わった。すべてにおいてめでたいことであった。非常にめでたいことは、このことに及ばない。

 

 「注釈」

「式部亭・李部」─式部卿季国。

 

「精進屋」

 ─精進潔斎のためにこもる所。神仏に参る前に体を清めるためにこもる舎屋(『日本国語大辞典』)。

 

「講親」─伊勢講などの講中の世話役(『日本国語大辞典』)。

 

「面々取分銭一貫文」

 ─講に預けていた旅行の積立金の分配金でしょうか。今回の旅費として一貫文ずつ支給されたものと考えられます。ただし、記主の康富は以前に講から一貫文を借りていたようで、宗左衛門から一貫文を借りて講に返済し、改めて支給してもらうという手続きを採ったものと考えられます。このことから、康富たちの伊勢講も単なる参宮を目的とした旅行資金積立集団ではなく、頼母子講や無尽講のような金銭融通集団であったことがわかります。また、金銭の融通には、利子が発生していたようです。

 

「宗左衛門」

 ─時期は下りますが、享禄四年(一四五五)三月二十九日条(『康富記』4ー150)に「召使文殿宗左衛門」という人物が現れます。この人物でしょうか。

 

「清給事中」

 ─少納言清原宗業。以下、人名については、東京大学史料編纂所のデータベース検索を利用しました。

 

「新太都事」─左大史小槻内名。筭儒(算博士カ)と同一人物。

 

「篤蔵主」

 ─乾篤。浄居庵(桃崎有一郎『康富記人名索引』日本史史料研究会、二〇〇八)。

 

「宰相律師御房」─未詳。

 

「中書」─中務大輔清原頼賢。「高倉」も頼賢のこと。

 

「侍中」─蔵人岡崎範景。

 

「上林蔵氷」

 ─主水正の別称。応永三〇年(一四二三)八月二七日条(『薩戒記』)に清原良宣(清原業忠)が直講と主水正を兼任している記事があるので、清原良宣のことかもしれません。もしそうならば、傍注の「良空」は「良宣」の誤記・誤読の可能性があります。

 

「度支外史」─度支(たくし)は主計寮、外史は外記。少外記清原宗種。

 

「国子外史」─国子(こくし)は大学寮、外史は外記。少外記清原親種。

 

「左一史員職」─左少史高橋員職。

 

「弾正史職豊」─右少史紀職豊。弾正台の役職を兼務していたものと考えられます。

 

「清四郎貞範」─葦屋四郎貞範。

 

「角田弥次郎」─未詳。

 

「原弾正佐富」─未詳。

 

「主殿大夫職藤」─主殿寮の役人。中原職藤。

 

「弾正氏郷」

 ─紀氏郷(桃崎有一郎『康富記人名索引』日本史史料研究会、二〇〇八)。

 

「兵庫職久」─兵庫寮の役人。紀(中原)職久。

 

「官掌助包」─未詳。「官掌」(かじょう)は、左右弁官局の史生の配下。

 

「伝馬」

 ─逓送用の馬(『日本国語大辞典』)。輸送用の馬ぐらいの意味でよいかと思います。小槻内名と清原宗業は自前で馬を用意し、清原頼賢は岩蔵将監入道から借りたと考えられます。

 

「岩蔵将監入道」

 ─未詳。伝馬(輸送用の馬)を出すか出さないかで揉めていることを踏まえると、岩蔵将監入道は馬借(運送業者)だったのではないでしょうか。運送業で使用する伝馬を渡してしまうと、仕事に支障をきたすから、出し渋っているのだと考えられます。当時の馬の値段は一貫文以上で(「古代・中世都市生活史(物価)」『データベースれきはく』https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/ktsb/db_param)、決して安くはありません。大事な商売道具を貸し出して何かあったら大損害になるので、貸したくなかったのではないでしょうか。

 ここで疑問が二つ湧いてきます。一つ目ですが、なぜ記主中原康富は、岩蔵将監入道が飼い葉と馬丁を出さなかったことを、わざわざ記載したのでしょうか。ケチだと言いたかったのでしょうか。それとも、いつもは出してくれるのに、今回は出してくれなかったから、つまり珍しいことだったからでしょうか。もし後者なら、馬と飼い葉と馬丁をセットにして貸し出すのが、当時の貸し馬の慣習であったことになります。

 二つ目ですが、なぜ馬の賃貸料が記載されていないのでしょうか。単に書かなかっただけなのか、無償のレンタルだったのか、どうもはっきりしません。もし後者なら、次のようなことが考えられます。岩蔵将監入道は、中原康富を含めた伊勢講の面々の誰か(あるいは全員)と知り合いで、メンバーからの私的な要望であったため、レンタル料を取らなかった(取れなかった)可能性があります。礼銭ぐらいは支払ったのかもしれませんが、縁故による無償サービスだったから、貸し渋ったのではないでしょうか。

 また、馬のレンタルは、本業とは異なった例外的な要望で、珍しいことだったのかもしれません。きっと、馬のレンタル業が商売として成立するほど、中世の人々は長距離を移動していなかったのでしょう。仕事(公務)で頻繁に長距離を移動する一部の人間(商人・運送業者・荘官など)は自前の馬を持つか、あるいは荘園に賦課された伝馬を利用すればよいのですから、彼らを除けば、私用のために馬を使って移動する人々は少なかったのではないでしょうか。

 その他に、動産(馬)の賃貸借といえば損害賠償が問題になると思いますが、中世ではどのような対処法があったのでしょうか。とくに規定はなかったのでしょうか。気になるところです。

 

「大夫太郎」─御師か。

 

「順光」─未詳。

 

外記局や弁官局の役人を中心に、総勢21名以上が伊勢講(神明講)のメンバーとして旅費を積み立て、満を持してお伊勢参りに出かけて行きました。きっと楽しみしていたのでしょう。無事にお参りできたことを心の底から喜んでいます。

 参拝日程はちょうど1週間でした。この間の仕事はどうしたのでしょうか。また、役人たちの休暇の取り方はどうなっていたのでしょうか。今まで一度も考えたことがなかったのですが、室町時代の官僚たちも長期休暇が取得できたようです。どんな時に休暇が認められたのか。年に何日取得できたのか。毎年取得できたのか。いろいろ気になってしまいます。

 さて、旅のルートですが、まず14日に京の季国邸を出発して東海道を東に向かい、滋賀県草津で昼飯を食べ、夜は滋賀県水口で宿泊しました。移動距離はだいたい50キロ弱ぐらいでしょうか。15日には水口を出発して東海道を東に向かい、三重県亀山市坂下で昼食をとりました。その後、おそらく関(三重県亀山市)へ向かい、そこから伊勢別街道を南下して三重県津市大里窪田にやってきたものと思われます。この日も移動距離は50キロ弱でしょうか。16日には窪田を出発し、伊勢街道を南下して三重県松阪市肥留で昼食をとりました。そして、夕方には外宮の門前町伊勢市山田の大夫太郎という御師の家にやってきました。到着まで3日、1日50キロ弱の移動が目安だったようです。室町時代の人にとって、この距離がきついのかどうかわかりませんが、歩かなくなった現代人にとっては、かなりハードな日程だと言えそうです。

 一方帰り道ですが、同じルートを元に戻るだけでした。別のルートを通るようなことはしていません。ただし、17日に両宮の巡拝後、肥留まで移動し、そこで宿泊しているので、以後、宿泊場所と昼食場所が往路とは反対になっています。

 最後に気になることを1つ。今回の参拝ツアーの費用総額はいくらだったのでしょうか。講から1貫文余り支給されていますが、それで足りたのでしょうか。それとも、お小遣いの足しぐらいにしかならなかったのでしょうか。こんなことがわかるとおもしろいのですが…。

中本誠四郎氏所蔵文書1

  解題

 俗神を列挙しており、当時の民間信仰の状態を示すものとして収録した。当家は江戸時代には森下を称し永原村(現佐伯郡佐伯町)の社倉十人組頭などをつとめていたと伝えている。

 

   一 宮法師丸修祓請文

 (前闕)

  「            」

 謹請   サケ⬜︎ノ        [   ]

 謹請   コノハカヱシノ      ミサキ

 謹請   シハヌシノ        ミサキ

 謹請   イ[ ]ノ        ミサ⬜︎

      

 謹請   ホマ[   ]      ミサキ

 謹請   ハヤハシ[ ]      ミサキ

      

 謹請   チカヌ[ ]       ミサキ

 謹請   トヲサノ         ミサキ

 謹請   キ[  ]ノ       ミサキ

 謹請  [      ]      ミサキ

 謹請  [  ]神⬜︎ノ       ミサキ

 謹請   ケン⬜︎ノ         ミサキ

 謹請   ヨリヱノ         ミサキ

      

 謹請   ヱヒスノ         ミサキ

 

      ミツ

 謹請   水神之          ミサキ

       くわう

 謹請   大荒神之         ミサキ

        

 謹請   小荒神ノ         ミサキ

 謹請   天神ノ          ミサキ

      

 謹請   地神ノ          ミサキ

      とくう

 謹請   土公神ノ         ミサキ

      しゆそ

 謹請   呪詛神ノ         ミサキ

      タウロ

 謹請   道路神ノ         ミサキ

 謹請   ホリラノ         ミサキ

 謹請   サハラノ         ミサキ

 謹請   リャウシンノ       ミサキ

 謹請   アルキノ         ミサキ

 謹請   ア[ ]シキ       ミサキ

 謹請  [  ]ロヲノ       ミサキ

 謹請   ⬜︎ヤヲノ         ミサキ

 謹請   ナカヲノ         ミサキ

 謹請   ミシカヲノ        ミサキ

                          そう

 カクノコトク日ニシタカツテアルミサキタチノカスハ、惣テ八万四千六百五十四神

 とう        しやうかく しようしゆ せし  おのおのほんりほんくわう

 等、今ノハライニヨツテ正覺ヲ 成就  令給ヘテ、各々本里本郷ヱカヱリ給フ

 ヘシ、急々如律令

     (1495)

     明應四年乙卯三月廿七日

                  宮法師丸

 

*書き下し文は省略。

 

 「解釈」

  (前闕)

 謹んで勧請する サケ⬜︎ノ[   ]

 謹んで勧請する コノハカヱシノミサキ

  (中略)

 このように、日につれて勧請したミサキたちの数は、都合八万四千六百五十四柱である。今このお祓いにより、迷いを去って完全な悟りを開きなさり、それぞれもといた場所へお戻りください。速やかに立ち去れ。

 

 「注釈」

「修祓」

 ─しゅうふつ・しゅうばつ。神道で、みそぎはらいを行うこと。おはらいをすること(『日本国語大辞典』)。

 

「請文」

 ─①上司からの文書を受け取ったときに差し出す返書(請書ともいう)。②一般に、上位者に対してあることを確言・約束する文言(請とか、承など)を持った上申書。荘園書式または代官職の補任状が出されると、それに対して怠りなく義務を履行する旨の請文を出すのが例である(『古文書古記録語辞典』)。ただし、この文書の「カクノコトク」以降を解釈すると、何かを確約するというよりも、「ミサキ」に対し、この場からいなくなるようにお願いしている内容になっています。したがって、この文書は「請文」というよりも、「祭文」に近いのではないでしょうか。「謹請」も「謹んで請ふ」(お願いする)、あるいは「謹んで請ず」(勧請する)と読むのだと思います。今回は、後者の読み方と意味にしておきます。

 

「ミサキ」

 ─民族的信仰生活の中で、ある時には神のように敬われ、ある地域では悪霊として恐れられ、ある場合には神の使者として畏れられる存在。異常な死に方を遂げた者をミサキと呼ぶ場合もあり、また時にはある特定の地点をミサキと呼ぶ。より抽象的に言えば、ミサキとは、空間的な境界・時間的境界・生と死の境界・人と神との境界を指す言葉だそうです(間﨑和明「ミサキをめぐる考察」(『社学研論集』8、2006・9、

https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=15967&item_no=1&page_id=13&block_id=21)。

 この史料を見ると、たとえば「呪詛神ノ」ミサキ・「道路神ノ」ミサキという「神ノ」ミサキ型と、「ホリラノ」ミサキ・「サハラノ」ミサキというカタカナのみで表記されている型に分けられます。前者の「ミサキ」だけなら神の使者や眷属と考えられそうですが、後者のカタカナが何を表しているのかよくわかりません。したがって、すべて使者や眷属であるとは断言できませんが、カタカナ表記の部分が人名や地名を表しているなら、その人(死者)自身の霊か、その場所にいる霊のようなものかもしれません。

 いずれにせよ、お祓いされているのですから、どの「ミサキ」もあまり好ましくないもの、魔物や悪霊のようなものなのでしょう。ただし、成仏してもとの居場所に帰るように祈願しているのですから、ただ単に祓ってしまおうとしているのではないようです。

 

「呪詛神」

 ─呪いの力、呪詛そのものを「呪詛神」という神として祭ったもの(斎藤英喜「いざなぎ流の神々─呪詛神と式王子をめぐって」『陰陽道の神々』思文閣出版、2007)。この研究で分析されている史料とこの文書は内容が似通っているので、解釈の参考にしました。

 

「本里本郷」

 ─神の眷属や悪霊、呪詛を送り返す場所と考えられます(前掲斎藤論文)。ミサキを送り返すべきもとの場所とは、「ミサキ」の修飾語になっている「呪詛神」「道路神」や「ホリラ」「サハラ」などのことでしょう。

 

「急急如律令

 ─中国の漢代の公文書に、本文を書いた後に、「この趣旨を心得て、急々に、律令のごとくに行え」という意で書き添えた語。後に転じて、道家陰陽家のまじないのことばとなり、また、悪魔はすみやかに立ち去れの意で祈祷僧がまじないことばの末に用いた。その後、武芸伝授書の文末にも書かれて、「教えに違うなかれ」意を表した(『日本国語大辞典』)。

「宮法師丸」─未詳。民間の宗教者(法師陰陽師)のような存在か。

 

*何を目的とした祭文なのか、いまいちはっきりしません。何らかの祭祀に先立って、場を清浄にするため、その場にいたミサキを勧請し(集め)それを祓って、もとの場所に戻そうとしたのかもしれません。

山野井文書28(完)

          (ヵ)

   二八 鞍彦右清任書状(切紙)

 

   先以外聞と申、我等迄目出度候く、

 其方被申分之儀具ニ申上候、然ハ西条にて浮米廿俵可遣之由被仰候間、早々

 被打渡候て、御奉書渡可申候、恐々謹言、

 

                  鞍彦右(ヵ)

      十月廿五日         清任(花押)

       (能美景重)

        源兵衛殿 まいる

 

 「書き下し文」

  先ず以て外聞と申す、我等まで目出度く候べく候ふ、

 其方申し分けらるるの儀具に申し上げ候ふ、然らば西条にて浮米廿俵遣わさるべきの

 由仰せられ候ふ間、早々に打ち渡され候ひて、御奉書渡し申すべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

  まず、体裁は整ったことを申し上げます。我々までめでたく存じます。

 そちら能美景重殿が弁明なさった件は、詳細に毛利輝元様に申し上げました。弁明のとおりならば、西条で備蓄米二十俵を遣わすべきであると仰せになりましたので、早々にそれを渡しまして、御奉書も渡し申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「鞍彦右清任」─未詳。毛利氏の奉行人か。

「源兵衛」─十代能美景重。

 

*難しくてよくわかりません。

 

山野井文書27

   二七 南湘院圓知書状(折紙)

 

  以上

 能美源兵衛殿預り之船、造作等可仕之由申候間、被見合談合候て、可

                   (佐世)

 調候、又彼手前之儀、此度不相済候、元嘉気分少快気被申候ハ丶、申聞調

 可遣候、恐々謹言、

                 南湘

      十月九日         圓知(花押)

      松田善進殿 まいる

 

 「書き下し文」

  以上

 能美源兵衛殿預りの船、造作等仕るべきの由申し候ふ間、見合・談合せられ候ひて、

 相調へらるべく候ふ、又彼の手前の儀、此の度相済まず候ふ、元嘉の気分少し快気申

 され候はば、申し聞き調へ遣はすべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 能美源兵衛景重殿が、預かっている船の修造等を致すべきことを申しましたので、その船を見て相談なさって、互いに調整なさるべきです。また、あちら能美氏の支配については、今回は決着がつきませんでした。佐世元嘉の気分が少し改善しましたなら、状況を聞き調整し書状を遣わすはずです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「能美源兵衛」─十代景重。

「佐世元嘉」─広島城留守居役(『広島県史』近世1)。

「南湘院圓知」─未詳。

「松田善進」─未詳。

 

*関連文書がないため、解釈がよくわかりません。