周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

福王寺文書1

  解題

 この寺は縁起によると弘法大師の開創という。当時の本尊不動明王が藤原時代あるいは鎌倉時代とみられる立木仏であったこと、大治二年(1127)鳥羽院が可部庄百八石を高野山へ寄進していることからして、平安末期までには開創されたとみてよかろう。

 その後、一たん荒廃する。正和四年(1315)、河内の人禅智上人が来て、中興をはかるが、それは安芸国守護武田氏信の援助によって実現した。天文十年(1541)の武田氏没落まで、同氏と福王寺の関係は深かった。福王寺文書の内容は、この時期のものである。当寺は再三の火災にあっており、原本はその際に焼失した。現在は二組の写本が残っている。一は天明甲辰(4)年に寛盛が浅野甲州文庫で書写したものであり、他は江戸初期のものであろう。このほかに内閣文庫本があるが、表題に「正徳五年(1715)当寺旧記什物之写 福王寺寺務学範」とあり、公儀へ写し差し出したものの控である。

 戦国時代までは旧安北郡地域における真言宗の拠点であったが、江戸時代になると、郡内にあった寺は全て真宗となり、末寺を失った。しかし当寺は今なお山上で真言の法灯を守りつづけている。

 

  『広島県の地名』より

 福王寺山(496・2メートル)の頂にある真言宗御室派の古刹。金亀山事真院と号す。縁起によれば、弘法大師が来山し、立木に不動明王立像を刻んで本尊としたのに始まるという。しかし、本尊の不動明王像(昭和五二年焼失)は藤原時代から鎌倉時代の作とされており、また大治二年(1127)鳥羽院が可部庄一〇八石を高野山に寄進している(高野山文書)ことなどもあり、初伝からやや下った平安時代後期ごろの開創と考えられよう。

 長禄四年(1460)の年号を記す安芸国金亀山福王寺縁起写(当寺文書)によれば、皇室から綾谷・九品寺・大毛寺の地を寄進され、一時は四八宇の坊舎があったがやがて衰退、正和年間(1312〜17)に河内国の人禅智が来住し中興したしたが、これを援助したのが安芸国守護武田氏信で、堂の再建、本尊脇士や寺領の寄進をしたという。この寺伝は武田氏の可部方面進出を契機に当寺との関係を持ってきた事情を反映しているとみられる。その後武田氏は当時に対し所領安堵・寺規制定・僧任免などを行った(当寺文書)。天文年間(1532〜55)武田氏は没落し、変わって可部庄一帯には熊谷氏の支配が及び、当時との関係が生じた。

 福王寺は中世以来郡内真言寺院の総元締の立場にあったが、中世末から近世初めにかけて付近寺院の真宗への転宗が進むなかで、本寺のみは密教の法灯を守った。古くから何度も火災に遭って古文書なども原本は失われたが、その写本や県指定重要文化財の金銅五鈷杵などが伝わる。昭和五二年(1977)の火災では、本尊のほかに寺宝の「さざれ石」という奇石を焼失した。同五六年再建。山上にある金亀池には奇瑞の伝承が伝わる。

 

 

   一 福王寺扁額銘文記寫

     事眞院

     (1460)(六月)

     長禄四年 林鐘朔日書之、

     此院号事眞院

     爲後代存知、乍憚記之、

    長禄四年庚辰六月一日鬼宿

        (山城) (隆快)

        安祥寺権大僧都

               判

 

 「書き下し文」

     事眞院

     長禄四年 林鐘朔日之を書く、

     此の院号事眞院

     後代存知の為、憚かりながら之を記す、

 

 「解釈」

     事眞院

     長禄四年 六月朔日に扁額の銘文を書いた。

     この院号は事眞院

     後世に知らせるため、不躾ながらこれを記した。

 

 「注釈」

「事眞院」

 ─福王寺の院号。「安藝国金龜山福王寺縁起寫」(22号文書)によると、後花園院の勅命によってこの院号が決まり、扁額が下された。

 

「安祥寺」

 ─京都市山科区御陵平林町。安祥寺山東南麓にある。吉祥山と号し、高野山真言宗仁明天皇の女御藤原順子が建立、開基は恵運。開創は嘉祥元年(848)(一代要記ほか)、仁寿元年(851)(安祥寺伽藍縁起資材帳)、仁寿二年(濫觴記)、仁寿年中(貞観元年四月十八日太政官符)などの諸説がある。『延喜式』には、安祥寺で階業を終えた僧は諸国の購読師に任命されること(巻二一)、土佐国正税・公廨稲計二〇万束のうち五千束が修理安祥寺宝塔料に充てられること(巻二六)などがみえる。『山科安祥寺誌』によると、平安時代中期には勧修寺(現山科区)が勢力を強め、勧修寺五世深覚は安祥寺座主職を兼ねた。南北朝時代の永和三年(1377)三月、安祥寺二一世興雅が高野山宝性院の宥快に安祥寺を継がしめ、以後高野山の兼務するところとなった(『京都市の地名』)。

 

 安祥寺の法流は安祥寺正嫡が相続したが、寺領・寺務等は勧修寺が相続することになり、法流と堂宇・所領の相承が全く異なることになった。安祥寺正嫡の法流は、太元帥法別当職を代々相伝してきたが、永和三年(1377)に醍醐寺理性院宗助が補任されて以降、安祥寺がそれを取り戻すことはなかった。嫡系安祥寺流は寺領からの収入を勧修寺に抑えられていたため、太元帥法別当職に付帯した権益に頼らざるを得なかった。そのため同職を喪失した嫡系安祥寺流は、西安祥寺における自立経営が困難となり、やむを得ず高野山に移ることになった(鏑木紀彦「中世後期の安祥寺流について─隆快・光意の事跡を中心に─」『ヒストリア』257、2016・8)。

 

「隆快」

 ─出自の詳細は不明。幼少より高野山に居住して、同山宝性院に相承された安祥寺流(真言宗小野流の一つ)を、宝性院成雄から伝授された僧侶。長禄四年(1460)までには、高野山を離れ、拠点を西安祥寺(上安祥寺・大勝金剛院・山科区上野)に戻した。隆快が拠点を西安祥寺に移して以後、嫡系安祥寺流の活動が活発化する。以前の伝法・教学等の門弟養成を中心とした活動から、失地回復の訴訟等、法流復興のための積極的な活動が現れ始める。隆快はその活動を支えるための収入を得るために、積極的な法流伝播活動を開始する。隆快の関する一連の福王寺文書(1・5・6号文書)は、この結果と考えられています(前掲鏑木論文)。

 

*この時の福王寺の住持は寛雅と考えられますが、隆快との関係がよくわかりません。福王寺は真言宗寺院で、所在地の可部庄も高野山領(ただし室町時代は不知行、『講座日本荘園史9 中国地方の荘園』)でしたから、隆快が高野山にいたときに、知り合っていたのかもしれません。