周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

福王寺文書22 その6

   二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その6

 

*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま記しています。ただし、一部の旧字・異体字正字で記載しています。また、本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

 應–永元–年征–夷将–軍義滿公下御–教–書毎年四季修セシム天下安–全

 護–摩–供、以永–準

 同六–年良–海入京–師、奉 東–寺佛–舎–利及大–師

 眞–影、乃其眞安之奥院、且奈原村行大–師

 影–前之燈–分–料、後–花–園–院 叡當–像及碝石

 太–守シム殿–陛、叡–覧儀備感不止、準シテ先–烈

 返–納シ玉焉、且シテ尊–像之因–縁即–事而–眞之義、勅シテ

 (長禄四)

 事–眞–院之額

 夫一–明一–暗者時之常一–榮一–襄者世之數也、當–寺中–世以–徃

 數–百–年之間陵–替正–和スルコトヲ焉、剰爲郡–中寺–社

 門首、亦今幸清–世、太–守公–命シテ當–寺當–国

 聖–道–門惣–別–當、苟僥–倖之遇雖毀–嫌弊–寺之

 盛–事也、故シテ後–葉

     (1460)           (マ丶)

     長祿四年正月日        僧正寛雅

   つづく

 

 「書き下し文」

 応永元年征夷大将軍義満公御教書を下し毎年四季天下安全の護摩供を修せしむ、以て永準と為す、

 同六年良海京師に入り、勅を奉じ東寺の仏舎利及び大師の真影を得、乃ち其の真今の奥の院に安んず、且つ奈原村を以て永く大師影前の燈分料に充て行はる、後花園院当像及び碝石を叡聞し州の太守に詔し石を殿陛に進らしむ、叡覧の儀備はり感止まらず、先烈に準じて早く返納し玉ふ、且つ尊像の因縁即事而真の義を信服して勅して事真院の額を賜ふ、

 夫れ一明一暗は時の常一栄一襄は世の数なり、当寺中世以往数百年の間陵替し正和に至り復することを得、剰え郡中寺社の門首と為す、亦た今幸ひに清世に逢ひ、太守公命じて当寺を以て当国聖道門の惣別当と為す、苟に僥倖の遇毀嫌を免るべからずと雖も弊寺之盛事なり、故に聊か録して以て後葉に貽す、

     長禄四年正月日       僧正寛雅

   つづく

 

 「解釈」

 応永元年(一三九四)、征夷大将軍足利義満公が御教書を下し、毎年四季ごとに天下安全の護摩供を行わせた。これをもって永久に継続する規範とした。

 応永六年(一三九九)、良海は都に入り、勅命を承って東寺の仏舎利弘法大師肖像画を手に入れた。つまり、その肖像画が今の奥の院に安置されている。そのうえ、南原村を永久に大師御影の燈明料として給与した。後花園院は不動明王像と美しい石のことをお聞きになって、守護に命じて石を宮中に進上させた。ご覧になるための儀式が整い、帝のご感慨はおさまらない。先帝に準じて早々にご返納になった。その上、尊像の由来や、現実世界の事物がそのまま真理であるという意に敬服して、ご命令になって事真院の額をお与えになった。

 そもそも明るいと暗いは時の常であり、栄えることと移り変わることはこの世に多くある。福王寺は中世以来数百年のあいだ衰退し、正和年間になって復興することができた。そのうえ安北郡中の寺社の首席となった。また今幸いに清らかな世に逢い、守護が命令して当寺を安芸国真言宗の惣別当とした。本当に思いがけない幸運に逢い、(一時は)衰退を免れることができなかったが、その廃れた寺が栄えたのである。だから、いくらか記録してそれを後代に残す。

   つづく

 

 「注釈」

「奈原村」─南原村。安佐北区可部長南原(『広島県の地名』)のこと。

 

「碝石」

 ─美しい石。昭和五二年(1977)の火災で消失した寺宝「さざれ石」のことか。1号文書注釈(『広島県の地名』)参照。