二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その2
*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま記しています。ただし、一部の旧字・異体字は正字で記載しています。また、本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。
夫レ物ノ爲ルヤレ物也法–界無シレ外、法–然本–有シ故ニ無シレ有コト下一–事ノ之
假–法トシテ而非ル二當–躰卽–眞ニ一者上焉、是ヲ曰二卽–事而–眞ト一、凡ソ此ノ
法–門ハ顕–密衍–門ノ之行–者爲二栖–心ノ之所ト一、然レトモ尚ヲ隨ヒレ宗ニ異ニス二
其ノ旨ヲ一、如キハ二顕–教ノ一則約スルカ二攝–相–性–門ニ一、故ニ卽–事而–眞ノ之
義ハ者古–賢論シテ爲二密–家ノ不–共ト者也、今不スレ可レ悉ス焉、既ニ今非–情ノ
之樹–木直ニ當–躰以テ爲二不–動ノ眞ト一、是レ乃チ所二以我カ卽–事ノ之爲ル一レ
カ
卽也、大師釋シテ二卽ノ義ヲ一曰ク如二常ノ卽–事卽–日ノ一豈ニ其レ當ノ義乎、是ヲ
以今ノ院–号取テ二事–眞ノ之二–字ヲ一畧ル二卽–而ノ字ヲ一而已ミ矣、
つづく
「書き下し文」
夫れ物の物たるや法界外無し、法然本有りし故に事の仮法として当体即真に非ざる者有ること無し、是れを即事而真と曰ふ、凡そ此の法門は顕密衍門の行者栖心の所と為す、然れども尚ほ宗に隨ひ其の旨を異にす、顕教のごときは則ち摂相性門に約するか、故に即事而真の義は古賢論じて密家の不共と為す者なり、今悉くすべからず、既に今非情の樹木直に当体以て不動の真と為す、是れ乃ち我が即事の即たる所以なり、大師即の義を釈して曰く、常の即事即日のごとし、豈に其れ当の義か、是を以て今の院号事真の二字を取りて即而の字を略するのみ、
つづく
「解釈」
そもそも意識の対象のなかでしか、物が物であることはできない。本来のあるがままの姿が本来固有の存在であるから、どんな実体のない仮の存在でも、あるがままの本性が真理でないことはない。これを、現実世界の事物がそのまま真理である、という。そもそもこの寺院は、顕教・密教を広く学ぶ行者が暮らす場所である。しかし、依然として宗派に従い、その目的を別にしている。顕教のようなものは、現象と本体を捉える考え方をまとめたものだろうか。だから、現実世界の事物がそのまま真理である、という意味は、昔の賢人たちが論じて、密教者は考えを同じにしないものである。今極め尽くすことはできない。すでに今現前している、感情を持たない樹木のあるがままの本性を、そのまま不動の真理と見なす。これはつまり、自分の目の前の現実世界の事物が、現実そのものである理由である。弘法大師が即の意味を解き明かして言うには、いつもの現実世界の事物と、ある事柄のあったその日のようなものだ。どうして「当」(あるがまま)の意味であろうか。こういうわけで、今の院号は「即事而真」のうち「事真」の二文字を採用して、「即而」の字を省略しただけだ。
つづく
*注釈は数が多すぎるので省略しました。解釈はしてみましたが、難しくてよくわかり
ません。