周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

銀の花

  弘安三年(一二八〇)八月三日・四日・七日・二十一日条

    (「弘安三年中臣祐賢記」『増補續史料大成 春日社記録』3─60〜67)

 

 三日、申剋、五所の御寶殿等、銀花開之由、神人令申之間、令實檢之處、數十本

                            (安倍)(土御門)

  之間、銀實否依難治定、先以三方神人件花小土器、晴氏・資朝等令見

  之處、晴氏ハ花之由申之、資朝ハ非花之由申之、依之猶依難散不審、

  次日四日、朝、神主之代官兼時・祐賢代官祐春、参上 寺家、此次第令申入之

  處、被仰出云、花歟非花事ハ、件花ヲ鏡ノ上、以刀切之、件花ハ不切之由

  被仰出之間、歸参社頭、致此沙汰之處、則切畢、仍不能言上殿下也、且爲後代

  不審、今度花員数在所注之、

 

  注進 御寶殿銀花開事(割書)「但於今度者、非花之由事切了、」

   (後略1)

 

  又四日見出銀花、

   (中略1)

  雖然非花之由治定之間、不及言上、向後爲存知注置也、

   (後略2)

 

          (舊記)

 同四日、注進 寺家先例

   (中略2)

           〔大中臣經世〕

  鏡面ニ天切レ候之由、神主申入 寺家之處、御返事如此、

  銀花否事、以此旨申入候了、鏡面ニも生事候歟、被伐歟否事、御不審許候、於事

  之次第者、早可被注進歟之由、被仰下候、仍執達如件、

      八月四日             有舜

    追申

     已然両三度之例、同可被注進歟之由同候也、

  依之神主同四日、言上 殿下云々、仍祐賢も同五日言上了、銀花咲在所ハ若宮

  御方分ハカリ書抜テ注進了、

   (後略3)

 

 七日、銀花事、弁殿御返事到来、

  銀花事申入候了、御不審之處被注進候、目出候之由所候也、恐々

       八月六日           左衛門尉康長

 一廿一日、あこ雑士夫ノ神人景時之父神殿守景末死去、西向テヒタタレヲキテ往生了、

   (中略3)

 一今日披露御占方

   春日社司言上恠異吉凶若宮寶殿并小社等銀花開、今月三日申時見付、   

  占、今月三日壬申、時加七月節、太一臨申爲用、将天一

  中功曹、六合、終徴明、天空、御行年午上大衝朱雀、

  卦遇、元首玄胎四牝、

    推之、依神事違例不浄致之上、可─二食口舌闘諍事歟、期、

    彼日以後四十日内、及明年四月・七月節中、并戌巳日也、至期被忌誡

    無其咎乎、

       弘安三年八月十六日       大監物安倍泰統

                       主税助賀茂在有

                       大舎人頭安倍朝臣有光

   (後略4)

 

 「書き下し文」

 三日、申の剋、五所の御宝殿等に、銀の花開くの由、神人申さしむるの間、実検せしむるの処、数十本の間、銀の実否治定し難きにより、先ず以て三方神人件の花を小さき土器に入れて、晴氏・資朝らに見しむるの処、晴氏は花の由之を申し、資朝は花に非ざるの由之を申す、之により猶ほ不審を散らし難きにより、次の日の四日朝、神主の代官兼時・祐賢の代官祐春寺家に参上す、此の次第を申し入れしむるの処、仰せ出せられて云く、花か花に非ざるかの事は、件の花を鏡の上に置きて、刀を以て之を切るに、件の花は切れざるの由仰せ出ださるるの間、社頭に帰参し、此の沙汰を致すの処、則ち切れ畢んぬ、仍て殿下に言上する能はざるなり、且つがつ後代の不審のため、今度の花の員数・在所之を注す、注進す 御宝殿銀の花開く事、但し今度に於いては、花に非ざるの由事切れ了んぬ、

   (後略1)

 

  又四日銀の花を見出す、

   (中略1)

  然りと雖も花に非ざるの由治定の間、言上に及ばず、向後存知として注し置くなり、

   (後略2)

 

 同四日、注進す 寺家旧記の事

   (中略2)

  鏡の面にて切れ候ふの由、神主寺家に申し入るるの処、御返事此くのごとし、銀の花や否やの事、此の旨を申し入れ候ひ了んぬ、鏡の面にも生ふる事候ふか、伐らるや否やの事、御不審ばかりに候ふ、事の次第に於いては、早く注進せらるべきかの由、仰せ下され候ふ、仍て執達件のごとし、

      八月四日             有舜

    追つて申す

     已然両三度の例、同じく注進せらるべきかの由同じく候ふなり、

  之により神主同四日、殿下に言上すと云々、仍て祐賢も同五日に言上し了んぬ、銀の花咲く在所は若宮御方分ばかり書き抜きて注進し了んぬ、

   (後略3)

 

 七日、銀の花の事、弁殿の御返事到来す、

  銀の花の事申し入れ了んぬ、御不審の処注進せられ候はば、目出候ふの由候ふ所なり、恐々、

       八月六日           左衛門尉康長

 一つ、廿一日、あこ雑士夫の神人景時の父神殿守景末死去、西に向ひて直垂を着て往生し了んぬ、

   (中略3)

 一つ、今日披露す御占方

   春日社司言上する恠異吉凶(割書)「若宮宝殿并に小社等銀の花開く、今月三日申の時見付く、」

  占ふ、今月三日壬申、時に申を加ふ、七月節、太一申に臨みて用と為す、将天一

  中功曹、六合、終徴明、天空、御行年、午上大衝朱雀、

  卦遇、元首玄胎四牝、

    之を推すに、神事違例不浄により致す所の上、口舌闘諍を聞こし食すべき事か、期す、彼の日以後四十日内、及び明年四月、七月節中、并に戌巳なり、期に至り忌み誡むれば、其の咎無きか、

 

 「解釈」

 三日、申の刻、本社四殿と若宮社の御宝殿等で、銀色の花が咲いたという出来事を、神人が申し上げたので、実検させたところ、数十本の花が咲いていた。銀の花の真偽を決定することができなかったので、まず三方神人がその花を小さな土器に入れて、安倍晴氏と土御門資朝らに見せたところ、晴氏は本物の花であると申し、資朝は花ではないと申した。これにより、さらに不審を晴らすことができなくなったので、翌四日の朝に、神主の代官兼時と私祐賢の代官祐春が興福寺に参上した。この事情を申し入れさせたところ、興福寺別当信昭がおっしゃるには、「本物の花かそうではないかということは(本物の花であれば)、その花を鏡の上に置いて、刀でそれを切ると、その花は切れない」とおっしゃるので、春日社に帰参し、その指示を実行したところ、すぐに切れてしまった。だから、関白鷹司兼平に言上するまでもなくなったのである。とりあえず、将来の不審のために、今回の花の数と場所を注進しておく。

  注進する、御宝殿で銀の花が開いたこと。ただし、今回については、本物の花ではないと決着した。

   (後略1)

 

  さらに四日、銀の花を発見した。

   (中略1)

  そうではあるが、本物の花ではないと決定したので、言上するまでもない。今後の先例として記し残すものである。

   (後略2)

 

 同四日、注進する、興福寺の古い記録のこと。

   (中略2)

  鏡の表面で切れましたことを、神主が興福寺に申し入れたところ、ご返事は以下のようなものであった。

  本物の銀の花であるかそうではないかのこと。この件を別当に申し入れました。鏡の表面にも生えることがあるのか、切れるか切れないかのことについて、疑いをお持ちでした。この出来事の事情については、早く注進なさるべきであると、ご命令になりました。そこで、以上の内容を下達します。

      八月四日             有舜

    さらに申し上げる

     以前の二、三度の事例は、同じように注進するべきかという件ですが、同じように注進するべきです。

  これにより、神主は同四日に、殿下鷹司兼平に言上したそうだ。そこで私祐賢も同五日に言上した。銀の花が咲いた場所は、若宮社の分だけ書き抜いて注進した。

   (後略3)

 

 七日、銀の花のこと。弁殿のご返事が到来した。

  銀の花のことを申し入れました。御不審のところを注進なさるならば、喜ばしく結構なことであります。

       八月六日           左衛門尉康長

 一つ、二十一日。あこ雑士女の夫の神人景時の父神殿守景末が死去した。西に向かい、直垂を着て往生した。

   (中略3)

 一つ、今日披露した占いの結果。

   春日社司が言上する怪異吉凶。「若宮の御宝殿や小社等で銀の花が咲いた。今月三日、申の時に見つけた。」

  占う。今月八月三日壬申。時は申。節月では七月。占いの式盤の天盤を回転させ、十二月将のうち七月将・太一を地盤の申に合わせる。十二天将のうちの貴人が太一(巳)に当たる。中の功曹(寅)は、十二天将のうち六合に配当される。終の徴明(亥)は、十二天将のうち天空に配当される。御行年は地盤の午の上の大衝(卯)で、これに乗ずる天将は朱雀である。

  占った怪異の性格は、元首玄胎四牝(主君に何か変化が起こる)である。

    これを推測するに、神事違例不浄が原因でこの怪異が起きたうえに、大きな争乱につながる争論をお聞きになるではないだろうか。期日を定める。銀の花が咲いたあの八月三日以後四十日以内、および翌年四月、七月節中、以上の戌巳の日。期間中に忌み戒めるならば、その神罰はないだろう。

 

 「注釈」

「五所の御宝殿」

 ─春日社の祭神四座を祀った四殿と若宮社の宝殿のことか(永島福太郎「解説」『増補續史料大成 春日社記録』1、参照)。

 

「三方神人」

 ─本社正預方の南郷神人、本社神主方の北郷神人、若宮社の若宮神人(永島福太郎「解説」『増補續史料大成 春日社記録』1、参照)。

 

「寺家」

 ─興福寺。当時の別当は信昭(「興福寺別当次第表」『大乗院寺社雑事記研究論集』第五巻、和泉書院、2016)。

 

「殿下」─関白鷹司兼平か。

 

「雑士」

 ─「雑士女」。①後宮などで走り使い、雑役に従う最下級の女官。②貴族の家に仕える下級職員。③幕府に仕えた下級女子職員。こ

 

*(後略3)には、先例が記されています。長承二年には金の花が三御殿で開き、安元二年には若宮の御簾に銀の花が五本開き、天福二年には若宮の橋に金の花が五本開き、正嘉元年には四御殿の庇の西の柱に銀の花が出現しました。

 

*(中略3)以降の占文の書き下し文や解釈は、細井浩志「六壬占法の一手順に関する覚書─『本朝世紀』仁平元年(一一五一)六月二七日条の伊勢神宮怪異占文について」『活水論文集』四六、二〇〇三・三、https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180320043420.pdf?id=ART0001138434)を参考にしました。ただ、この論文自体を理解するのがかなり難しかったので、書き下し文や解釈にきちんと反映できませんでした。

 

 

*中世の春日社では、銀色の花が咲くことがあったようです。いったい誰のいたずらだったのか、どんなトリックを使ったのか、単なる自然現象なのか。特殊なカビが生えた花でも見て、銀色と認識したのでしょうか。こんな考え方をするから、いつまで経っても中世史料が読み込めないのかもしれません…。

 さて、今回出現した銀の花ですが、当初は偽物であると判断していました。ですが、興福寺別当はこの件に不審ありと考え、結局のところ関白に事件を報告することになりました。そして、陰陽師に占いをさせてみたところ、残念ながら悪い結果が出てしまったのです。

 銀の花が咲くなんて、なんと素敵な現象かと思いきや、どうやら争乱の前兆だったようです。ただ、物忌みをすれば、その神罰を避けることができたこともわかります。中世の人々は、奇怪な現象に遭遇しても、それを占断し、物忌みすることで神罰を避けるという手続きを、きちんと確立できていたようです。人智を超えた不可思議な現象は、恐るべき神仏の意志の結果ではあるが、それを統御する術も身につけていたということになります。この一件から、陰陽道という最先端の科学知識によって、合理的に対処しようとする中世人のたくましい姿が浮かんできます。

 それにしても、どんな色を見て、銀色だと判断したのでしょうか。色の感知・表現には、歴史・文化・言語が深く関わります。虹の色の数が国によって違うことは有名ですが、現代人とは異なる社会に生きる中世人は、いったいどんなものを見て、銀の花と感じていたのでしょうか。とても気になります。

田所文書1 その10

    一 安藝国衙領注進状 その10

 

  (東)

  『⬜︎寺勸學院管領

   三田郷九町 被庄号之間、除今度文書了、

            (半)

    除不輸免五丁五反斗

     崇道天皇免百八十歩

     八幡宮御神楽免一丁五反

     角振社御供田        有福

     鎌倉寺免五反

     倍従免二反         弘眞

     公廨田三丁

      久武一丁         助包一丁

      貞助一丁

           (半)

    應輸田三丁四反斗

     乃米五斗代六反

              (半)

     乃米三斗代二丁八反斗

   三田(高田郡   (半)

   同小越村二丁一反斗

            (半)

    除不輸免二丁一反斗

             (半)

     實相寺馬上免一反斗

     同例免五反

     鎌倉寺免五反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

     惣社仁王講免一丁      観念跡

   三田(高田郡

   同久武二丁二百歩

    除八幡宮無量壽院免一丁六反三百歩

    應輸田四反

     五斗代二反

     例代二反

   高田郡

   志道村六丁六反大

    除不輸免二丁四反三百歩

             (半)

     八幡宮免一丁一反斗     智保

     府守社免一反小       今冨

     瀧蔵寺免三反        弥冨

     吉祥御願六反

      友宗三反         宗重三反

     代官免三反         包恒

    應輸田四丁一反三百歩

     五斗代一丁      四斗代一丁一反小

         (半)

     例代二丁斗      加畑七反定

   (山縣郡)

   河戸村二分方八丁七反大卅歩

    平田押領二丁一反小

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

    除不輸免(三丁反) 三丁七反

     公廨田二反) 三丁二反

            今者

     今冨一丁五反 𣃥⬜︎     遠繼七反

     信覺五反          (孫一丸五反入广輸)孫一丸五反

    清書免四反          良高

    國掌免一反          貞末

   應輸田反小卅歩

    官米五斗代七反        同三斗代九反

    三斗代(一丁反小卅歩)     一丁三反小卅歩

 『中分以後依不治定丸以本丸令備進之』

           (半)

  同村一分方四丁二反斗廿歩

   平田押領一丁大

   除不輸免一丁一反

    公廨田九反

     今冨五反 今者弥冨      遠繼三反

     信覺一反

    清書免一反          良高

    國掌免一反          重近跡

          (廿ヵ)

   應輸田二丁三百⬜︎歩

 

    官米五斗代三反小       同三斗代

           (半)

    三斗代一丁三反斗

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

 『[ ]管領

  高田郡

  井原村十六町三反大 一宮御領之間、於今度者除上覧文書了、

   除不輸免三丁四反

    即新宮免一丁七反

    一宮神官恪勤免一丁      友宗

    角振社御祭田七反

   應輸田十二丁九反大       三斗代

 

  右、太畧注進如件、

     三月  日           大判官代(花押)

       ○以上、一巻

 

   おわり

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「鎌倉寺」

 ─小越村(現広島市安佐北区)との境、鎌倉寺山山上には鎌倉寺があって、「高田郡村々覚書」に「鎌倉寺一宇、堂八尺四面、本尊文殊、宗旨者禅宗之由、毛利御時代は大寺之由、開起之由来知れ不申」とあるが、現在は小堂のみ。鎌倉中期と考えられる安芸国衙領注進状(田所文書)の「三田郷九町」のなかに「鎌倉寺免五反」とある寺と思われる。村内の拝みと呼ぶ地の水田八反が鎌倉寺領であったが、福島氏時代に没収されたと伝える(「有留村」『広島県の地名』)。

 

「小越村」

 ─安佐北区白木町小越村。市川村の三篠川を境に東対岸に位置し、南はその支流を挟んで秋山村に接する。高田郡に属し、古くは秋山村と一村であったともいう。「芸藩通志」に「広三十町、表十五町、東北は山高く、西南は平田にて、川を界す、民産、工商あり」とある。承安三年(1173)二月日付の安芸国司庁宣(厳島文書御判物帖)に「三田郷内尾越村為伊都岐島御領、知行民部大夫景弘事」とあり、続けて「右件三田郷内尾越村者、任文書相伝之理、為神主景弘朝臣地頭寄進伊都岐島御領、於官物者、弁済国庫、以万雑公事代、可令勤仕神役之状、所宣如件」とあり、他の三田郷内の村々と同様、平安時代末期には厳島神社領として万雑公事代を神社に納めることになっている。一方で、鎌倉時代中期のものと思われる安芸国衙領注進状(田所文書)には「小越村二丁一反斗」とあり、「除不輸免二丁一反斗」として「実相寺馬上免一反斗、同例免五反、鎌倉寺免五反、惣社仁王講免一丁」と記される。なおこの頃小越村の地は厳島神社領三田新庄にも属したらしく、同庄の上村と下村の村境の和与を記した永仁六年(1298)五月日付の藤原氏代使源光氏藤原親教和与状(永井文書)に「小押越狩倉内目籠大丸小丸可被付上村」とある。この「小押越」が小越村のことかと思われるが、この和与状に記される地名を現在地に比定すると、三田新庄上村はおおよそ現白木町秋山地区、下村が原三田地区と考えられる。(中略)居拝見にある中山神社は、「国郡志下調書出帳」に中山八幡社と記され、感情年月は不詳であるが、寛永七年(1630)再建の棟札があると記される。同書出帳は他に吉井権現社・山根荒神社を記し、実相寺という地名が残り、観音堂一宇があると記すが、これは前記国衙領注進状に見える実相寺の跡地と思われる(「小越村」『広島県の地名』)。

 

「志道村」

 ─安佐北区白木町志路。永承七年(一〇五二)三月二十日付田口代武田畠売券(新出厳島文書)に「三田郷内志道村」とあるのがのちの志路村で、応徳二年(一〇八五)三月十六日付の高田郡司藤原頼方所領畠立券文(同文書)に三田郷のうちとして「志道村」が記され。字名として「とゝろ木・太木田・段冶原・仁恵谷・かたと田」などが見える。すなわち「和名抄」記載の古代の三田郷に含まれるが、鎌倉中期ごろとされる安芸国衙注進状(田所文書)には「志道村六丁六反大」とあり、「不輸免二丁四反三百歩」のうちには「八幡宮免一丁一反斗・府守社免一反小・瀧蔵寺免三反」などが記されている。中世末期には毛利氏の一族坂氏より出た志道氏が居住しており、「閥閲録」所収の志道太郎衛門家書上には「芸州高田郡志道村ニ致在居候付、以邑名改志道申候」とある。また同書所収同家文書には天正年間(一五七三─九二)の志道村知行安堵の判物が載る。(中略)前記国衙領注進状に「瀧蔵寺」と記される寺は古く竜蔵寺山にあり、「高田郡村々覚書」に「先年ハ坊数拾弐坊、下寺御座候由、何年以前より退転仕候も知レ不申候」とある(『広島県の地名』。

 

「河戸村」

 ─山県郡千代田町江の川の支流可愛川流域に位置する。平安末期〜戦国期に見える村名。安芸国山県郡のうち。嘉応3年正月日伊都岐島社領安芸国壬生荘立券文に記された壬生荘四至の北限は「春木谷并志野坂川戸村訓覔郷堺」とあり、牓示の1つは壬生荘の艮方猪子坂峰并川戸村西堺にうたれていた(新出厳島文書)。乾元2年7月26日の六波羅御教書によれば、田所資賢の訴えを受けて、公廨田と雑免所当米の抑留停止が、「河戸村一分地頭」に命ぜられている(藤田精一氏旧蔵文書)。鎌倉期の安芸国衙領注進状には、「河戸村二分方八丁七反大卅分」「同村一分方四丁二反半廿歩」とあり、ともに「平田押領」と記され、平田氏が地頭であったと思われる。また、公廨田に田所氏の仮名今富・弥富が見られることから田所氏と関係深かったものと思われる(田所文書)。正平6年10月3日の常陸親王令旨には、「河戸村国衙分〈一分、二分〉」とあり、兵粮料所として、田所信高に宛行われている(芸備郡中筋者書出)。享徳2年12月30日、管領細川勝元は、河戸村を吉川経信と争っていた綿貫光資に与えるよう武田信賢に命じ、翌正月11日に沙汰付られた(閥閲録126)。康正2年6月1日の武田信賢書状に「河戸村之内国衙分」翌日付の氏名未詳書状に「河戸村国衙事」とあり、吉川元経に預け置かれている(吉川家文書)。一方、綿貫左京亮は、文明8年9月19日、河戸総領職を嫡孫長松丸に譲った(同前)。大永4年3月5日の吉川氏奉行人連署宛行状が、「北方内阿(河)戸」を給分として3丁1反を石七郎兵衛尉に、その死後享禄4年4月28日吉川興経は遺領を石七郎三郎に宛行っている(藩中諸家古文書纂)。天文19年2月16日、吉川元春は河戸の内生田9反半等を井上春勝に、河戸内石クロ9反大等を黒杭与次に(同前)、柏村士郎兵衛尉に河戸之内六呂原内いちふ田1町、同年3月13日に河戸之内実正田1町を宛行った(吉川家文書別集)。よく天文20年3月3日には武永四郎兵衛尉に河戸の内田1町が宛行われている(同前)。永禄4年と思われる3月11日の吉川元春自筆書状に「大朝新庄河戸之衆」と見え(二宮家旧蔵文書)、永禄12年と見られる閏5月28日の筑前国立花城合戦敵射伏人数注文に、河戸の彦四郎らが見え、元和3年4月23日の吉川広家功臣人数帳にも「川戸ノ彦十郎」らの名がある(吉川家文書)。天正19年3月のものと思われる吉川広家領地付立に、「参百貫 河戸」と見え(同前)、同年11月19日、河戸村の田2丁5反330歩、畠5反小、屋敷4か所合わせて14石5斗7升2合が増原元之に打渡された(譜録)。翌日付の河戸村打渡坪付には、すな原・三反田・つい地・はい谷・奥はい谷・めうと岩・むねひろ・大倉・猿岩・かきだ畠の地名が見える(閥閲録遺漏1─2)(『角川日本地名大辞典 広島県』)。山県郡山県郡千代田町川戸に比定される国衙領安芸国衙領注進状では二分方と一分方に分かれている(「田所文書」)。乾元二年(一三〇三)七月二十六日の六波羅御教書によれば、田所資賢の訴えをうけて公廨田と雑免所当米の抑留停止が河戸村一分地頭に命ぜられている(「藤田精一氏旧蔵文書」)。国衙領注進状には二分方・一分方ともに「平田押領分」の記載があり、この平田氏が当村の地頭と目される。公廨田の中に田所氏の仮名今富・弥富が見えるように、当村はもともと同氏との関係が深く、南北朝期には常陸親王令旨によって田所新左衛門尉(信高)に兵粮料所として充行われている(同上、「芸備郡中筋者書出所収文書」)。一五世紀半ばごろには、河戸村の領知をめぐって綿貫光資と吉川経信との間に係争が起きている(『萩藩閥閲録』、『吉川家文書』)(『中国地方の荘園』吉川弘文館)。

 

「井原村」

 ─安佐北区白木町井原。「和名抄」に記す高田郡三田郷のうちで、寛治三年(一〇八九)十月九日の散位佐伯忠国田地売券(野坂文書)に「合肆段 在三田郷井原村字斗前坪 四至東限公田 南限友垣田 北限山道 南限斗前」とある。またこれより四年前の応徳二年(一〇八五)三月十六日付の高田郡司藤原頼方所領畠立券文」(新出厳島文書)に「先祖相伝所領畠」と記されている三田郷内の「熊埼村・小田村・佐々井村・高山村・大寺村」は、いずれも井原村内に小字として地名が残る。なかでも佐々井村は古く治暦二年(一〇六六)三月二日付中原実安田地売券(酒井清太郎氏所蔵厳島文書)に「三田郷佐々井村字桑田」と見え、散位中原実安が佐々井村内の田を郷司藤原朝臣(守遠か)に売り渡している。また寛治三年四月五日の橘頼時が、佐々井村の相伝所領田を売却している。他の三田郷内の地と同様、井原村の地は十一世紀中期ごろには在庁官人の藤原氏が自己の所領として相続・譲与する地に含まれ、平安末期から中世初期にかけては藤原氏から源頼信、さらに厳島神社神領・佐伯氏という経緯をたどるが、寛元元年(一二四三)十一月日付の安芸国司庁宣案(新出厳島文書)には「可令早以一宮半不輸地井原村、限永代為一円当社領、造営未造舎屋等事」とあり、井原村はとくに厳島神社の未造舎屋の造営料地とされている。鎌倉時代中期とされる安芸国衙領注進状(田所文書)にも「井原村十六町三反大 爲一宮御領之間、於今度者除上覧文書了」と記される。一宮は厳島神社である。しかし厳島社領としての実際の領知はなかなか困難であったらしく、正応五年(一二九二)五月九日の厳島社神官等申状(新出厳島文書)では、井原村を「如元為一円神領、令営未造舎屋」ことを願い出ている。

 一方、「閥閲録」所収の内藤二郎左衛門家文書によれば、嘉暦二年(一三二七)「井原村地頭職内名田」が、内藤為綱より甥の泰廉に譲られており、暦応四年(一三四一)には内藤教泰が「安芸国長田郷地頭職并井原村一分地頭職」を安堵されている。なお同書所収井原孫左衛門家書上には「御当家越後国佐橋より芸州吉田え御移被成候時致随身、同国井原村え令下向、号井原高四郎師久」とあり、毛利氏の時代には在地名を負う井原氏のいたことが知られる。(中略)高瀬にある顕本法華宗高源寺は銀明山といい、承元三年(一二〇九)天台僧道正が有留村に開基したが、永禄三年(一五六〇)法華宗の僧日殷と宗意問答をし、ついに門とともに法華宗に帰し、末寺鎌倉寺を有留村に残しこの地に高源寺を創始したという(『広島県の地名』)。

 

*2019.1.17追記

 この史料を読むうえで参考になるのが、井原今朝男「中世の国衙寺社体制と民衆統合儀礼」(『中世の国家と天皇儀礼校倉書房、2012)です。

 安芸国で重要な寺社と考えられるのが、一宮(厳島神社)・松崎八幡宮惣社・天台五ヶ寺などです。一宮が約36町、松崎八幡宮が23町(無量寿院領を含む)、惣社が約6町、天台五ヶ寺が約10町と、それぞれの給田や免田が国衙領の中から設定されています。在庁官人田所氏は、国内寺社の神官や僧侶、国衙楽所の音楽集団・国衙工房の職人たちに経済的基盤を与えることで、最勝講・仁王講・大般若会・法華講などの護国法会を執行していたことがわかります。反対に言えば、国内寺社の神官や僧侶、楽人・舞人・職人らは、護国法会や年中行事に奉仕することで、給免田を得ていたことになります。

 安芸国の場合、一宮(宮島)・国分僧尼寺(西条)は国府から離れているため、在庁官人田所氏は、国府近辺、あるいは国府と交通の便のよい寺社(松崎八幡宮惣社・天台五ヶ寺など)を年中行事(地方行政)の拠点に設定したのかもしれません。一方で、松崎八幡宮惣社・天台五ヶ寺の神官や僧侶たちは、積極的に年中行事に奉仕することで国衙から給免田の指定を受けようとしたのではないでしょうか。

 それにしても気になるのが、松崎八幡宮の存在です。惣社よりも圧倒的に給免田数が多いことがわかります。惣社は、国司が巡拝の煩いをなくすために、国内の神社を合祀したもの、と説明されてきました(265頁)。したがって、護国法会や国衙祭祀を執行するにあたって重視しなければならないのは、惣社であるはずです。ところが、給免田数は松崎八幡宮のほうが多いのです。ひょっとすると、国内の神社を合祀した惣社で国内の安穏を祈るよりも、皇統の守護神石清水八幡宮の分社である松崎八幡宮で、玉体安穏を祈る方が大切だったのかもしれません。

 この史料や、次回から紹介する「沙弥某譲状」(『田所文書』2)によると、松崎八幡宮の年中行事には、「二季御祭(4・9月)」「臨時御祭」「四季御神楽」「大般若会」「仁王講」があります。一方で惣社の年中行事には、「二季御神楽(春・夏)」「四季仁王講」「法華講」があります。行事のすべてを記載しているとは限らないので、これだけではなんとも言えませんが、両者の共通点や相違点が明確になると、松崎八幡宮の歴史的特質がみえてくるのかもしれません。

田所文書1 その9

    一 安藝国衙領注進状 その9

 

   應輸田二丁七反         例代

  (高宮郡

  佐々井村七丁二百卅歩

   除不輸免丁五反) 六丁五反

    即新宮免一丁

    一宮免二丁七反

     八月一日御供田一丁一反

     山王社免一丁

     御神楽免六反

     惣社仁王講免一反      行西

     瀧蔵寺免三反        弥冨

     舞人免二反         有光

     調所勘料田         朝資跡

     左方税所勘料田二反     遠宗 今者淂重

        

   (入广輸 在廳屋敷一丁)      (王一丸)

      一丁                 

    應輸田五反大         官米三斗代反大

     三斗代七反

  (石)(高宮郡

   ⬜︎浦村四丁五反三百八十歩

    除不輸免三丁二反

     即新宮免一丁

     一御社免二丁二反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

      御供田一丁二反

      御神楽免一丁

           (半)

    應輸田一丁三反斗       三斗代

  高宮郡

   苅田郷四丁一反二百卅歩

    除不輸免二丁一反六十歩

     崇道天皇免六十歩

     八幡宮御神楽免一丁

     五ヶ寺免一丁一反

    應輸田二丁百八十歩      例代

   同久武村五丁六反

    除不輸免二丁六反卅歩

               廿歩

     八幡宮免一丁五反小四十歩

      御神楽免九反

      無量壽院免六反百四十歩

     五ヶ寺下地大

     久武公廨田一丁

           三百廿歩

    應輸田二丁九反斗卅歩

     官米五斗代七反

           三百廿歩

     例代二丁二反斗卅歩

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   𣃥次村五丁百廿歩

    除不輸免四反

     税所勘料田二反大      清遠

     御厩案主免一反小      有福

    應輸田四丁六反小     官米五斗代

   高田郡

   粟屋郷十八丁一反三百歩

    除不輸免二丁七反大

     五ヶ寺例免五反

     倍従免二反大        今富

     久武公廨田二丁

    應輸田十五丁四反六十歩

     葉本村二丁四反小      官米五斗代

     郷分十二丁九反三百歩    例代

   高田郡

   長田久武六反三百歩

    除不輸免六反三百歩

     五ヶ寺例免一反三百歩

     久武公廨田五反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「佐々井村」

 ─現八千代町佐々井。文明二年(一四七〇)六月三日付の室町幕府奉行衆下知状(毛利家文書)をもって毛利豊元は将軍義政より「宍戸駿河守跡但除秋野粟屋等」の領地を預けられたが、同七年十一月二十四日付の毛利豊元譲状(同文書)によると、このうちに「佐々井」の地が含まれている。なお永正四年(一五〇七)のものと思われる毛利興元上洛浮役日記(同文書)に「七十五貫 佐々井」とある。「閥閲録」所収の天文十九年(一五五〇)十二月二十日付の兼重五郎兵衛家文書によれば「佐々井之内常定名」の田二町、同じく同二十三年九月二十五日付文書には「佐々井村七拾五貫」の地が毛利隆元によって兼重弥三郎に給せられている。また同書所収の永禄十年(一五六七)十二月五日付の重見与三左衛門家文書には「佐々井村之内森兼名」が木原元次に渡されている(『広島県の地名』)。

 

「瀧蔵寺」

 ─前記国衙領注進状に「瀧蔵寺」と記される寺は古く竜蔵寺山にあり、「高田郡村々覚書」に「先年ハ坊数拾弐坊、下寺御座候由、何年以前より退転仕候も知レ不申候」とある(「志道村」『広島県の地名』)。

 

「調所」

 ─「ちょうしよ」とも。もとは調の収納を掌る役所であったが、平安末期には軽物(繊維類)の収納、度量衡の管理、納入製品の価格決定、返抄の発給を掌った(『古文書古記録語辞典』)。

 

石浦村」

 ─吉田町西浦。嘉禎四年(一二三八)四月十七日の伊都岐島社廻廊員数注進状案(新出厳島文書)に「石浦」とあるのがこの地と思われ、古くは厳島神社社領であった。村内の平家ヶ丸城跡南麓に厳島神社跡があり、「安芸国神名帳」に記される四位石占明神がそれと言われる。のち毛利氏の領有となり、文明七年(一四七五)十一月二十四日付の毛利豊元の千代寿丸(弘元)宛譲状(毛利家文書)に「西浦」の地名が見える。また明応四年(一四九五)三月十二日付の棟別銭支配帳(同文書)に「石浦分壱貫五百十もん」が見える。天文十九年(一五五〇)八月十五日、毛利隆元厳島神社に寿命長遠・武運長久などの祈願料として「安芸国高田郡吉田庄之内小山七十五貫 西浦七十五貫」を寄進している(「芸藩通志」所収厳島文書)。他にも西浦・小山のうち別に百五十貫目を棚師房顕の庶路用としている(野坂文書)。天正十九年(一五九一)ごろには厳島神社内宮外宮の毎月二十五日の月次連歌入用料として西浦村から一二九石三斗四升が送られている(同文書)。

 

「一御社」─一宮のことか。厳島神社

 

苅田郷」

 ─「勝田村」現八千代町勝田。「和名抄」に記される高宮郡苅田郷の地とされ、苅田郷は嘉応三年(一一七一)正月日付の伊都岐島社領安芸国壬生庄立券文(新出厳島文書)に、壬生庄(現山県郡千代田町)の四至のうちに「限東多治比苅田簗原堺」と記される。また文暦二年(一二三五)六月五日付で幕府が安芸国守護藤原親実に「原郷」以下の所領を領知された関東下知状案(同文書)に散在名田四ヵ所の一つとして「苅田郷内」とある。下って応永十五年(一四〇八)四月九日付の毛利光房に宛てた山名時凞書状(毛利家文書)にも「苅田、佐々井」の名が見える。享徳三年(一四五四)四月二十八日の内宮役夫工米段銭請取状案(同文書)に毛利凞元知行関係のうち「苅田郷内弥次村三段分」が記されている。また文明二年(一四七〇)六月三日には、毛利豊元が宍戸持朝を撃破してその旧領を将軍義政から授けられたが、そのなかに苅田の地もあり、同七年十一月二十四日に嫡子弘元に宛てた譲状(同文書)にも苅田が明記されている(『広島県の地名』)。

 

「案主」

 ─「あんず」とも。①荘園の下級荘官。公文・下司の指揮下で文書の作成・保管の仕事を行った。②造寺司・六衛府検非違使庁や公家政所、勧学院政所の職員。多くは清原・中原・紀氏などの六、七位の官人であった(『古文書古記録語辞典』)。ここでは厩の役人の給免田を指していると考えられます。

 

「長田」

 ─現向原町長田。「和名抄」所載の高田郡風速郷に含まれる地で、大治二年(一一二七)三月日付の安芸国高田郡風早郷田畠等立券文(新出厳島文書)に「長田村」と見え、三十余の名と段数および「本垣村」を含む長田村の桑の本数が千五百五本と記される。風早郷内の他の村々と同じく平安時代末期には厳島社領となり、健保四年(一二一六)にはその神主職で鎌倉御家人ともなっていた佐伯(内藤)為弘が地頭職を得、以後この一族よって地頭職が伝領される(「閥閲録」所収内藤次郎左衛門家文書)。厳島神社領としては中世後期にまで存続し、応永四年(一三九七)六月日付の厳島社領注進状(巻子本厳島文書)にも「諸免田等」の一つに「長田郷」が記される(『広島県の地名』)。

周梨槃特の絵札コレクション(追加継続中)

 最近は御朱印を集める人が増えているようですが、私は偶像崇拝者なので、御影や絵札、牛玉宝印を少しずつ集めています。ただ集めるだけ集めて、ほったらかしにしていたので、このブログを使って整理しておこうと思います。すべてではないですが、思い出深いもの、絵柄が素敵なものを、年次で紹介していきます。

 

2009.5.13 奈良県長谷寺(十一面観音御影)

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2009.5.13 奈良県談山神社藤原鎌足公神像)

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2009.5.14 奈良県金峯山寺蔵王堂(左は役行者と前鬼・後鬼、右は金剛蔵王権現

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2009.6.6 山形県羽黒神社(大黒天と牛の図像)

 出羽三山は丑年が御縁年です。開山が丑年丑日だったからだそうです。

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2009.6.11 和歌山県熊野速玉大社(牛王宝印)

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2009.6.11 和歌山県熊野那智大社青岸渡寺(牛王宝印・如意輪観音御影)

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2009.6.12 熊野本宮大社(牛王宝印)

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2009.9 鳥取県三徳山三仏寺文殊菩薩金剛蔵王権現・角大師)

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2010 徳島県焼山寺虚空蔵菩薩弘法大師・三面大黒天)

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2011 どこで購入したのか…? 四国八十八ヶ所のどこかのお寺だったと思います。

   (馬頭観音像)

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2012 徳島県劔神社

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2014.11 岡山県木山寺(牛王宝印)

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2015.5 鳥取県清水寺(角大師)

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2015.10 鳥取県長谷寺(客仏薬師如来御影。元現光寺の御本尊だったそうです。)

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2018.3.20 京都市今熊野観音寺(本尊十一面観音・脇仏左毘沙門天・右不動明王

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2018.3.21 京都市東寺観智院(五大虚空蔵菩薩

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2019.3.16 京都市六波羅蜜寺

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2019.3.16 京都市清水寺

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2019.3.17 京都市六角堂

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2019.6.16 兵庫県書写山円教寺

 

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2020.9.22 山口県龍蔵寺(茶店でいただく)

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2021.5.4 佐賀県大興禅寺

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2022.5.5 福岡県御井

 

2023.5.4 高知県竹林寺竹林寺開創1300年記念)

 

2023.6.11 香川県善通寺弘法大師御誕生1250年記念事業 秘仏瞬目大師御開帳)

 

2023.9.16 大分県富貴寺

 

2023.9.17 大分願成就寺

 

2023.9.18 大分県両子寺

 

2023.9.18 大分県文殊仙寺

 

2024.3.17 京都市北区紫野今宮町今宮神社

 

2024.4.30 愛媛県四国中央市新宮町馬立「四国別格二十霊場 第13番札所仙龍寺

 

田所文書1 その8

    一 安藝国衙領注進状 その8

 

    角振社仁王講免三反      弥冨 今者今冨資遠

    諸寺勘料田一丁小       弥冨

    公廨田三丁九反大四丁四反大)   四丁四反大

     久武八反          弥冨四反大(割書)「今者今冨 資遠(ヵ)」

     盛貞跡一丁         宗繼三反

     信覺四反

                     

 (入广輸)(王一丸一丁)王一丸一丁   乙一丸五反)

    一宮神官恪勤免一丁

    梶取免四反六十歩       安弘跡

    政所敷一反

        

   應輸田十二丁八反三百歩      十二丁三反三百歩

    別府六丁七反三百歩

     久知村一丁四反六十歩

      小乃原一丁三反      官米三斗代

      即村一反六十歩      乃米三斗代

     中伴四丁          官米五斗代

     大墓村一丁三反大      同

    本村六丁一反 五丁六反

     官米五斗代 一丁五反    三斗o代二反

         一反

     例代四丁四反

  佐東郡

  阿土毛木村三丁四反大

   除不輸免三丁二反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

    一宮御讀經免三反       弁海 今者弥冨

    無量壽院免一丁五反

    公廨田一丁二反

     久武二反          信家一丁

    倍従免二反          遠繼

   應輸田二反大          三斗代

  安北郡

  飯室村三丁二反三百歩

   除不輸免一丁三反

    五ヶ寺免五反

    公廨田五反          高義 (高俊跡)

    主典免三反          宗俊

   應輸田一丁九反三百歩      例代

  同久武三丁五反百八十歩

   除不輸免三丁百廿歩

    五ヶ寺免二反

    八幡無量寿院免一丁三反百廿歩

    久武公廨田一丁五反

   應輸田五反六十歩        例代

  佐東郡

  東原村七反小           例代

  佐東郡

  細野村三反小           例代

  安北郡

  久村六丁百八十歩

   除不輸免三丁七反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

    即新宮馬上免六反

    一宮御讀經免八反       幸印

    惣社免一反

     幸印仁王講免三反

    角振社仁王講免三反      秦覺跡

    公廨田一丁四反

     弥冨一丁          淂重四反

    在廳屋敷五反         歓喜

         三反斗

   應輸田二丁百八十歩       例代

  高宮郡

  禰村七丁七反

   除不輸免五丁七反

    一宮御讀経免五反       定賢

    八幡宮大般若經免一丁九反

     詮円一丁 今者寂円        恵性五反 今者浄円

     行海一反          榮親三反

    日吉大宮免七反        智光

    正内侍免五反

  入广輸(代官免二反)              (利包跡)

         

    公廨田一丁

   同 (兼弘五反)         遠宗一丁四反 今者淂重

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「久知村」─現安佐北区安佐町久地。正治元年(一一九九)十二月日付の伊都岐島社政

      所解(新出厳島文書)の「朔幣田八町四段」のなかに「久知村七反」と見

      え、鎌倉中期と推定される三月日付の安芸国衙領注進状(田所文書)では

      「杣村二十五町五段」のうちに含まれる村として「久知村一丁四反六十

      歩」があり、小乃原一丁三反 官米三斗代」「即村一反六十歩 乃米三斗

      代と記す。応永四年(一三九七)六月日付の厳島社領注進状(巻子本厳島

      文書)には、社家進止領家分として久知があげられる。同年八月十八日の

      室町将軍家御教書(厳島文書御判物帖)は、武田伴遠江五郎の妨げによっ

      て「杣村内大塚久知両村」の支配を侵害された厳島神社の訴えを将軍家が

      認めたものである。しかし宝徳二年(一四五〇)四月日付の厳島社神主藤

      原教親申状案(巻子本厳島文書)には、武田遠江入道押領分に大塚(現安

      佐南区)とともに久知が書き上げられていて応永四年の御教書の実効が疑

      われる。天文十七年(一五四八)十月二日、小早川隆景は「久地村之内兼

      吉名」を乃美備前入道に預けた(「閥閲録」所収児玉惣兵衛家文書)。同

      二十年三月二十八日には、隆景は「久地村弘末名之内六反」を末長久三郎

      に宛行い(同書所収礒兼求馬家文書)、天正十四年(一五八六)八月二十

      二日には、隆景が久地村を児玉就方へ預ける(同書所収児玉惣兵衛家文

      書)など、小早川の支配と深くかかわっていた(『広島県の地名』)。

「大墓村」─未詳。

「阿土毛木村」─現安佐南区沼田町阿戸。「芸藩通志」は「もと毛木村と一村なり」と

        記すが、この説に従えば鎌倉中期と推測される安芸国衙領注進状(田

        所文書)で、杣村と並立して「阿土木村三丁四反大」とある「阿土」

        がこの村のことかと考えられる。天文十九年(一五五〇)七月十五日

        の毛利元就同隆元連署状(吉川家文書)では、「阿土乙熊」の地が吉

        川元春に与えられ、同二十一年二月二日の毛利元就同隆元連署知行注

        文(毛利家文書)には「阿土村」とある。「閥閲録」所収文書には同

        二十三年元就が児玉就方へ「阿土村半分」を宛行い、文禄三年(一五

        九四)には毛利輝元が林元善へ「伴村・阿土村」のうち三十六石六斗

        の知行を許したことがみえる(『広島県の地名』)。

無量寿院」─未詳。

「飯室村」─現安佐北区安佐町飯室。鎌倉中期とされる三月日付の安芸国衙領注進状

      (田所文書)に「飯室村三丁二反三百歩」がみえ、不輸免一丁三反(五ヶ

      寺免・公廨田・主典免と應輸田一丁九反三百歩からなり、また「同久武三

      丁五反百八十歩」があり不輸免三丁百二十歩(五ヶ寺免・八幡無量寿

      免・久武公廨田一丁五反)・應輸田五反六十歩とある。正平十三年(一三

      五八)六月二十三日の前備中守某預ケ状(吉川家文書)によれば、「飯室

      郷内湯屋一分地頭職」と「東郷地頭職」が吉川左近将監に預けられてお

      り、同二十一年二月十八日の沙弥道善打渡状(同文書)では「飯室郷湯屋

      方地頭職」を同人に打ち渡した。享禄四年(一五三一)閏五月九日の毛利

      元就証状(同文書)では飯室は吉川興経に安堵されている。天文年間(一

      五三二〜五五)高松城熊谷信直は、銀山城(跡地は現安佐南区)の武田

      光和に離反し、大内義隆の下にあった毛利元就と結ぶようになる。年未詳

      七月七日付の大内義隆書状(熊谷家文書)は、義隆が元就の注進を受けて

      信直に可部・飯室両所の領地を認めたことを示すものである。天文二十一

      年二月二日付の毛利元就同隆元連署知行注進状(毛利家文書)に「三須・

      遠藤」の名がみえるが、両人ともに当地在城の武将で、熊谷氏に従ってい

      たから、その知行が認められたのであろう(『広島県の地名』)。

「東原村」─現安佐南区祇園町東原。正治元年(一一九九)十二月日付の伊都岐島社政

      所解(新出厳島文書)の同社日御供田十五町のなかに原郷九段百二十歩が

      見え、ついで文暦二年(一二三五)六月五日の関東下知状案(同文書)で

      は、安芸守護藤原親実に「原郷佐東郡安南郡地頭職」などを領知させて

      いる。同月十日の某書下案(厳島野坂文書)も、「守護并在国司分」とし

      て原郷を「佐東本郡・安南本郡・散在名田畠」と並列にあげる。弘長三年

      (一二六三)の安芸国新勅旨田損得検注馬上帳案(東寺百合文書)は原郷

      分二町八段百二十歩をあげ、「日下・上長田・小原」の地名を記し、弘安

      十年(一二八七)頃の同帳案(白河本東寺百合文書)もこれを踏襲してい

      る。

      鎌倉中期と推定される安芸国衙領注進状(田所文書)には、飯室村(現安

      佐北区)に次いで「東原村七反小」が記され、「細野村・久村」が続く。

      正応二年(一二八九)正月二十三日の沙弥某譲状(同文書)では、原郷田

      畠六町三反六十歩(名田四町二反三百歩・畠二町百二十歩)が見え、「萱

      原・西烏田・東烏田・大豆田・北庄堺・伴田・道末・伊与寺・今津・尾

      飡・今富」など地名とおぼしきものが記される。元徳三年(一三三一)四

      月二十六日の安芸国宣(「芸備郡中筋者書出」所収)にも「原郷」とあ

      るが、文和元年(一三五二)十二月二十七日の武田氏信預ケ状(熊谷家文

      書)は「東原」を熊谷直氏に預け置いている。康応元年(一三八九)十一

      月二十五日の室町将軍家御教書(東寺百合文書)は、武田・品河・香河・

      金子諸氏ら近隣の武士によって押領された所領の支配回復を求めた東寺雑

      掌の訴えを認めた内容であるが、このなかに「東原郷」が見える。

      天文十年(一五四一)七月二十三日の大内義隆預ケ状写(毛利家文書)で

      は「可部・温科」の代所として原郷内一九〇貫などが毛利元就へ預けられ

      た。同二十一年二月二日付の毛利元就同隆元連署知行注文(同文書)には

      「原五名・原郷三吉知行・原新庄熊谷知行」と併記されているが、これよ

      り先の同十七年四月一日には三吉致高が厳島神社大鳥居勧進のため「原郷

      之内田畠五貫文之地」を、同二十年七月二日熊谷信直は祈念のために「原

      新庄之内畠一所代八百文目」を、同二十三年五月二十四日には信直は「原

      新庄之内百疋目」をいずれも厳島神社へ寄進した(大願寺文書)。また文

      禄四年(一五九五)九月一日には毛利元就は「東原之郷」二二五石九斗三

      升を福井源右衛門尉へ宛行っている(「閥閲録」所収福井左伝次家文書)

      (『広島県の地名』)。

「細野村」─現安佐南区佐東町八木の上八木に地名として残っている(「八木村」『広

      島県の地名』)。

「久村」─「玖村」は現安佐北区高陽町(玖・金平・真亀・亀崎)。この地は大田川船

     運の要衝であり、鎌倉時代には国衙領であった。地名は年未詳三月日付の安

     芸国衙領注進状(田所文書)に「久村六丁百八十歩」があり、不輸免三丁七

     反(新宮馬上免・一宮御読経免・惣社免・角振社仁王講免・公廨田・在庁屋

     敷)と応輸田二丁三反半からなっている。応安六年(一三七三)今川了俊

     勾村地頭職内金子孫太郎入道跡」を三入庄の熊谷宗直に兵糧料所として預け

     置いた(熊谷家文書)。大永七年(一五二七)武田軍は大内氏とその支援の

     大友軍を相手に、久村城(地蔵堂山城)で攻防戦を展開(黄薇古簡集、佐土

     原文書)。その数年前、大内義興毛利元就に「久村七十貫」を与えている

     (毛利家文書)。天文二十一年(一五五二)二月二日の毛利氏から陶氏へ差

     し出した毛利元就同隆元連署知行注文(毛利家文書)には「久村」と記さ

     れ、元就は久村を家臣児玉就忠とその子元良に与えた(「閥閲録」所収児玉

     三郎右衛門家文書)。文禄四年(一五九五)九月一日、毛利輝元は直轄地と

     し、代官に馬屋原元詮をあてた(「譜録」所収馬屋原弥四郎家文書)(『広

     島県の地名』)。

「禰村」─現高田郡八千代町下根・上根・向山。近世の下根・上根・向山の三ヶ村の地

     を合わせて呼ばれた中世の村名で、永仁五年(一二九七)四月二十四日付の

     伏見天皇綸旨(東寺百合文書)に「安芸国禰村郷」と見え、安芸国が東寺造

     営料とされた際、禰村は前司知広によって八幡別宮に寄進されていたため、

     当時の要求に沿って国衙領に還付されている。東寺百合文書にはその後、正

     安(一二九九〜一三〇三)から延慶(一三〇八〜一一)にかけての領有文書

     が残る。南北朝期に入ると、貞治三年(一三六四)七月一日付で熊谷直経に

     宛てた武田氏信預ケ状(熊谷家文書)に「安芸国禰村地頭職事、依有軍忠、

     所置預也」とあり、三入庄の高松城(跡地は現広島市安佐北区)城主熊谷氏

     の所領であったことが知れる。しかし明応四年(一四九五)三月十二日付の

     棟別銭支配帳(毛利家文書)に「捌貫百卅文 禰分」とあるのをはじめ、永

     正四年(一五〇七)頃の毛利興元上洛浮役日記(同文書)にも禰分一〇〇貫

     が記されており、毛利元就の時代には、家臣の田中政重・飯田与一左衛門ら

     が知行地としていた(閥閲録)(『広島県の地名』)。