周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

銀の花

  弘安三年(一二八〇)八月三日・四日・七日・二十一日条

    (「弘安三年中臣祐賢記」『増補續史料大成 春日社記録』3─60〜67)

 

 三日、申剋、五所の御寶殿等、銀花開之由、神人令申之間、令實檢之處、數十本

                            (安倍)(土御門)

  之間、銀實否依難治定、先以三方神人件花小土器、晴氏・資朝等令見

  之處、晴氏ハ花之由申之、資朝ハ非花之由申之、依之猶依難散不審、

  次日四日、朝、神主之代官兼時・祐賢代官祐春、参上 寺家、此次第令申入之

  處、被仰出云、花歟非花事ハ、件花ヲ鏡ノ上、以刀切之、件花ハ不切之由

  被仰出之間、歸参社頭、致此沙汰之處、則切畢、仍不能言上殿下也、且爲後代

  不審、今度花員数在所注之、

 

  注進 御寶殿銀花開事(割書)「但於今度者、非花之由事切了、」

   (後略1)

 

  又四日見出銀花、

   (中略1)

  雖然非花之由治定之間、不及言上、向後爲存知注置也、

   (後略2)

 

          (舊記)

 同四日、注進 寺家先例

   (中略2)

           〔大中臣經世〕

  鏡面ニ天切レ候之由、神主申入 寺家之處、御返事如此、

  銀花否事、以此旨申入候了、鏡面ニも生事候歟、被伐歟否事、御不審許候、於事

  之次第者、早可被注進歟之由、被仰下候、仍執達如件、

      八月四日             有舜

    追申

     已然両三度之例、同可被注進歟之由同候也、

  依之神主同四日、言上 殿下云々、仍祐賢も同五日言上了、銀花咲在所ハ若宮

  御方分ハカリ書抜テ注進了、

   (後略3)

 

 七日、銀花事、弁殿御返事到来、

  銀花事申入候了、御不審之處被注進候、目出候之由所候也、恐々

       八月六日           左衛門尉康長

 一廿一日、あこ雑士夫ノ神人景時之父神殿守景末死去、西向テヒタタレヲキテ往生了、

   (中略3)

 一今日披露御占方

   春日社司言上恠異吉凶若宮寶殿并小社等銀花開、今月三日申時見付、   

  占、今月三日壬申、時加七月節、太一臨申爲用、将天一

  中功曹、六合、終徴明、天空、御行年午上大衝朱雀、

  卦遇、元首玄胎四牝、

    推之、依神事違例不浄致之上、可─二食口舌闘諍事歟、期、

    彼日以後四十日内、及明年四月・七月節中、并戌巳日也、至期被忌誡

    無其咎乎、

       弘安三年八月十六日       大監物安倍泰統

                       主税助賀茂在有

                       大舎人頭安倍朝臣有光

   (後略4)

 

 「書き下し文」

 三日、申の剋、五所の御宝殿等に、銀の花開くの由、神人申さしむるの間、実検せしむるの処、数十本の間、銀の実否治定し難きにより、先ず以て三方神人件の花を小さき土器に入れて、晴氏・資朝らに見しむるの処、晴氏は花の由之を申し、資朝は花に非ざるの由之を申す、之により猶ほ不審を散らし難きにより、次の日の四日朝、神主の代官兼時・祐賢の代官祐春寺家に参上す、此の次第を申し入れしむるの処、仰せ出せられて云く、花か花に非ざるかの事は、件の花を鏡の上に置きて、刀を以て之を切るに、件の花は切れざるの由仰せ出ださるるの間、社頭に帰参し、此の沙汰を致すの処、則ち切れ畢んぬ、仍て殿下に言上する能はざるなり、且つがつ後代の不審のため、今度の花の員数・在所之を注す、注進す 御宝殿銀の花開く事、但し今度に於いては、花に非ざるの由事切れ了んぬ、

   (後略1)

 

  又四日銀の花を見出す、

   (中略1)

  然りと雖も花に非ざるの由治定の間、言上に及ばず、向後存知として注し置くなり、

   (後略2)

 

 同四日、注進す 寺家旧記の事

   (中略2)

  鏡の面にて切れ候ふの由、神主寺家に申し入るるの処、御返事此くのごとし、銀の花や否やの事、此の旨を申し入れ候ひ了んぬ、鏡の面にも生ふる事候ふか、伐らるや否やの事、御不審ばかりに候ふ、事の次第に於いては、早く注進せらるべきかの由、仰せ下され候ふ、仍て執達件のごとし、

      八月四日             有舜

    追つて申す

     已然両三度の例、同じく注進せらるべきかの由同じく候ふなり、

  之により神主同四日、殿下に言上すと云々、仍て祐賢も同五日に言上し了んぬ、銀の花咲く在所は若宮御方分ばかり書き抜きて注進し了んぬ、

   (後略3)

 

 七日、銀の花の事、弁殿の御返事到来す、

  銀の花の事申し入れ了んぬ、御不審の処注進せられ候はば、目出候ふの由候ふ所なり、恐々、

       八月六日           左衛門尉康長

 一つ、廿一日、あこ雑士夫の神人景時の父神殿守景末死去、西に向ひて直垂を着て往生し了んぬ、

   (中略3)

 一つ、今日披露す御占方

   春日社司言上する恠異吉凶(割書)「若宮宝殿并に小社等銀の花開く、今月三日申の時見付く、」

  占ふ、今月三日壬申、時に申を加ふ、七月節、太一申に臨みて用と為す、将天一

  中功曹、六合、終徴明、天空、御行年、午上大衝朱雀、

  卦遇、元首玄胎四牝、

    之を推すに、神事違例不浄により致す所の上、口舌闘諍を聞こし食すべき事か、期す、彼の日以後四十日内、及び明年四月、七月節中、并に戌巳なり、期に至り忌み誡むれば、其の咎無きか、

 

 「解釈」

 三日、申の刻、本社四殿と若宮社の御宝殿等で、銀色の花が咲いたという出来事を、神人が申し上げたので、実検させたところ、数十本の花が咲いていた。銀の花の真偽を決定することができなかったので、まず三方神人がその花を小さな土器に入れて、安倍晴氏と土御門資朝らに見せたところ、晴氏は本物の花であると申し、資朝は花ではないと申した。これにより、さらに不審を晴らすことができなくなったので、翌四日の朝に、神主の代官兼時と私祐賢の代官祐春が興福寺に参上した。この事情を申し入れさせたところ、興福寺別当信昭がおっしゃるには、「本物の花かそうではないかということは(本物の花であれば)、その花を鏡の上に置いて、刀でそれを切ると、その花は切れない」とおっしゃるので、春日社に帰参し、その指示を実行したところ、すぐに切れてしまった。だから、関白鷹司兼平に言上するまでもなくなったのである。とりあえず、将来の不審のために、今回の花の数と場所を注進しておく。

  注進する、御宝殿で銀の花が開いたこと。ただし、今回については、本物の花ではないと決着した。

   (後略1)

 

  さらに四日、銀の花を発見した。

   (中略1)

  そうではあるが、本物の花ではないと決定したので、言上するまでもない。今後の先例として記し残すものである。

   (後略2)

 

 同四日、注進する、興福寺の古い記録のこと。

   (中略2)

  鏡の表面で切れましたことを、神主が興福寺に申し入れたところ、ご返事は以下のようなものであった。

  本物の銀の花であるかそうではないかのこと。この件を別当に申し入れました。鏡の表面にも生えることがあるのか、切れるか切れないかのことについて、疑いをお持ちでした。この出来事の事情については、早く注進なさるべきであると、ご命令になりました。そこで、以上の内容を下達します。

      八月四日             有舜

    さらに申し上げる

     以前の二、三度の事例は、同じように注進するべきかという件ですが、同じように注進するべきです。

  これにより、神主は同四日に、殿下鷹司兼平に言上したそうだ。そこで私祐賢も同五日に言上した。銀の花が咲いた場所は、若宮社の分だけ書き抜いて注進した。

   (後略3)

 

 七日、銀の花のこと。弁殿のご返事が到来した。

  銀の花のことを申し入れました。御不審のところを注進なさるならば、喜ばしく結構なことであります。

       八月六日           左衛門尉康長

 一つ、二十一日。あこ雑士女の夫の神人景時の父神殿守景末が死去した。西に向かい、直垂を着て往生した。

   (中略3)

 一つ、今日披露した占いの結果。

   春日社司が言上する怪異吉凶。「若宮の御宝殿や小社等で銀の花が咲いた。今月三日、申の時に見つけた。」

  占う。今月八月三日壬申。時は申。節月では七月。占いの式盤の天盤を回転させ、十二月将のうち七月将・太一を地盤の申に合わせる。十二天将のうちの貴人が太一(巳)に当たる。中の功曹(寅)は、十二天将のうち六合に配当される。終の徴明(亥)は、十二天将のうち天空に配当される。御行年は地盤の午の上の大衝(卯)で、これに乗ずる天将は朱雀である。

  占った怪異の性格は、元首玄胎四牝(主君に何か変化が起こる)である。

    これを推測するに、神事違例不浄が原因でこの怪異が起きたうえに、大きな争乱につながる争論をお聞きになるではないだろうか。期日を定める。銀の花が咲いたあの八月三日以後四十日以内、および翌年四月、七月節中、以上の戌巳の日。期間中に忌み戒めるならば、その神罰はないだろう。

 

 「注釈」

「五所の御宝殿」

 ─春日社の祭神四座を祀った四殿と若宮社の宝殿のことか(永島福太郎「解説」『増補續史料大成 春日社記録』1、参照)。

 

「三方神人」

 ─本社正預方の南郷神人、本社神主方の北郷神人、若宮社の若宮神人(永島福太郎「解説」『増補續史料大成 春日社記録』1、参照)。

 

「寺家」

 ─興福寺。当時の別当は信昭(「興福寺別当次第表」『大乗院寺社雑事記研究論集』第五巻、和泉書院、2016)。

 

「殿下」─関白鷹司兼平か。

 

「雑士」

 ─「雑士女」。①後宮などで走り使い、雑役に従う最下級の女官。②貴族の家に仕える下級職員。③幕府に仕えた下級女子職員。こ

 

*(後略3)には、先例が記されています。長承二年には金の花が三御殿で開き、安元二年には若宮の御簾に銀の花が五本開き、天福二年には若宮の橋に金の花が五本開き、正嘉元年には四御殿の庇の西の柱に銀の花が出現しました。

 

*(中略3)以降の占文の書き下し文や解釈は、細井浩志「六壬占法の一手順に関する覚書─『本朝世紀』仁平元年(一一五一)六月二七日条の伊勢神宮怪異占文について」『活水論文集』四六、二〇〇三・三、https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180320043420.pdf?id=ART0001138434)を参考にしました。ただ、この論文自体を理解するのがかなり難しかったので、書き下し文や解釈にきちんと反映できませんでした。

 

 

*中世の春日社では、銀色の花が咲くことがあったようです。いったい誰のいたずらだったのか、どんなトリックを使ったのか、単なる自然現象なのか。特殊なカビが生えた花でも見て、銀色と認識したのでしょうか。こんな考え方をするから、いつまで経っても中世史料が読み込めないのかもしれません…。

 さて、今回出現した銀の花ですが、当初は偽物であると判断していました。ですが、興福寺別当はこの件に不審ありと考え、結局のところ関白に事件を報告することになりました。そして、陰陽師に占いをさせてみたところ、残念ながら悪い結果が出てしまったのです。

 銀の花が咲くなんて、なんと素敵な現象かと思いきや、どうやら争乱の前兆だったようです。ただ、物忌みをすれば、その神罰を避けることができたこともわかります。中世の人々は、奇怪な現象に遭遇しても、それを占断し、物忌みすることで神罰を避けるという手続きを、きちんと確立できていたようです。人智を超えた不可思議な現象は、恐るべき神仏の意志の結果ではあるが、それを統御する術も身につけていたということになります。この一件から、陰陽道という最先端の科学知識によって、合理的に対処しようとする中世人のたくましい姿が浮かんできます。

 それにしても、どんな色を見て、銀色だと判断したのでしょうか。色の感知・表現には、歴史・文化・言語が深く関わります。虹の色の数が国によって違うことは有名ですが、現代人とは異なる社会に生きる中世人は、いったいどんなものを見て、銀の花と感じていたのでしょうか。とても気になります。