周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

室町時代の都市伝説 (Urban legends in the Muromachi period)

  応永二十三年(1416)七月二十六日条

          (『看聞日記』1─55頁)

 

 廿六日、晴、

  (中略)

      (録)

  抑伝説記禄雖比興、風聞巷説記之、去比京下方辺米有沽却者、件家男一人来

             マス

  米買ヘシトテ、器物升云物預置、取来ランマテ、此升ヲ持上ヘカラスト

  云テ、ウツフケ置男帰了、其後待トモ不来、翌日不来、不審之間升持上

  見之処、小蛇蟠リテアリ、奇異成之処、此小蛇即時、サテ家主

  娘十六七許ナル容顔好カリケル蛇巻取、家内ウチ失、父母仰天叫喚

  スレトモ行方不知云々、

  又或説、京下方住男、宇治今伊勢参詣シケル、社頭辺白蛇アリ、此男扇

  開テ宇伽ナラハ此扇ヘ来ルヘシト云ケル、此蛇扇ノ上ヘハイノホリケレハ、

  悦裹以下向シケリ、サテ家安置シケリ、而不慮物出来テ、人

  物賜ナトシテ心安成ケレハ、宇伽神ナリトテ仏供貴敬シケリ、

                         (マヽ)

  去程此白蛇追日大成ケリ、次第成長シケレハ、隈恐此蛇取捨ント男シ

  ケルヲ、妻云様、宇伽神ニテアラハ、取捨ヘキヤウヤアルト云ケレハ、ケニモ

  ト思テ置タリケルニ、男他所出行シタヒニ此妻ネフタク成テ昼寝ヲシケリ、

  或時隣人ノソキテ見レハ、大ナル蛇、此女蟠テアリ、男ニ此様ヲ告タリ

  ケレハ、男我モナトヤラン、此程ムクツケキ心アリ、サテハ不思儀哉ト云テ、

              〔覗〕

  外ヘ罷マネヲシテ、隣ヨリ除ケレハ、此妻如聞昼寝シケリ、大蛇来リテ女ノ

  上ヘハイカ丶リケルヲ見テ、男走出テ太刀抜テ切ラントシケレハ、蛇女

  ヤカテヒシヽヽト巻テ、イツチカ行ツランウチ失、男尋求ケレトモ行方不知、

  其後ヨリ又スカヽヽト貧窮ニ成ケリ、不思儀之由聞之、

  又去五月之比、河原院聖天ヘ女房一人参詣シケリ、七日満々ケル日、御前ニ

  所作シテ居タリケルカ、ツヰ立テ出ケリ、良久見ヘサリケレハ、寺僧アヤシミテ

  見ケル、藪向テ小便ヲシケルカ、ヨリステル風情ヲシケレハ、アヤシクテ

  暫見ケルニ、此女タ丶ナラス悩乱シケレハ、人々ツケテ寄見タリケルニ、

  大ナル蛇小便穴ヘ入テケリ、法師トモ寄合テ、女ヲアヲノケテ、蛇ノ尾ヲ取テ

  引ケレトモ出ス、四五人力ヲ出シテ引ケル時、蛇ノスキサシノ辺ヨリ切頭ノ

  方ハ腹ヘ入ヌ、女房死セルカ如ニ成タリケリ、イツクノ人ソト問ケレハ、息ノ

  下ニシカヽヽノ所ト云ケレハ、人ヲツカハシテ告ケリ、輿中間ナトアマタ来テ、

  女房取テ帰ケリ、ヤカテ死タリトキコユ、容顔モヨニ尋常ナル女ニテソ有

  ケル、何事ヲ祈精申ケルヤラン、聖天ノ罰カトソ沙汰シケル、カ丶ル不思儀トモ

  満耳、

 

 「書き下し文」

  抑も伝説の記録比興なりと雖も、風聞・巷説之を記す、去んぬる比京の下方辺り米沽却する者有り、件の家に男一人来て「買ふべし」とて、器物升〈マス〉と云ふ物を預け置く、「取りに来らんまで、此の升を持ち上ぐべからず」と云ひて、うつふけ置きて男帰り了んぬ、其の後待つとも来たらず、翌日も来たらず、不審の間升を持ち上げて見るの処、小蛇蟠りてあり、奇異の思ひを成すの処、此の小蛇即時に大に成りぬ、さて家主の娘十六七ばかりなる容顔好ましかりける女を蛇巻き取りて、家内を通りてうち失せぬ、父母仰天・叫喚すれども行方知らずと云々、

  又或る説、京の下方に住む男、宇治の今伊勢へ参詣しけるに、社頭辺りに白蛇あり、此の男扇を開きて「宇伽ならば此の扇へ来たるべし」と云ひけるに、此の蛇扇の上へはいのぼりければ、悦びて裹み以て下向しけり、さて家の乾の角に安置しけり、而して不慮の外に物出で来て、人も物を借し賜ふなどして心安く成りければ、宇伽神なりとて仏供を備へて貴敬しけり、去んぬる程に此の白蛇日を追ひて大に成りけり、次第に成長しければ、畏み恐れて此の蛇を取り捨てんと男しけるを、妻が云ふ様、「宇伽神にてあらば、取り捨つべきやうやある」と云ひければ、げにもと思ひて置きたりけるに、男他所へ出行したびに此の妻ねぶたく成りて昼寝をしけり、或る時隣人のぞきて見れば、大なる蛇、此の女の上に蟠りてあり、男に此の様を告げたりければ、「男我もなどやらん此の程むくつけき心あり、さては不思儀かな」と云ひて、外へ罷るまねをして、隣より覗きければ、此の妻聞くごとく昼寝をしけり、大蛇来たりて女の上へはいかかりけるを見て、男走り出でて太刀を抜きて切らんとしければ、蛇女をやがてひしひしと巻きて、いづちか行きつらんうち失せぬ、男尋ね求めけれども行方知らず、其の後より又すかすかと貧窮に成りけり、不思儀の由之を聞く、

  又去んぬる五月の比、河原院聖天へ女房一人参詣しけり、七日に満ち満ちける日、御前に所作して居たりけるが、つゐ立ちて出でけり、良久しくして見へざりければ、寺僧あやしみて見けるに、藪に向ひて小便をしけるが、よりすてる風情をしければ、あやしくて暫く見けるに、此の女ただならず悩乱しければ、人々につげて寄りて見たりけるに、大なる蛇小便の穴へ入りてけり、法師ども寄り合ひて、女をあをのけて、蛇の尾を取りて引けレドモ出でず、四、五人力を出だして引ける時、蛇のすきさしの辺りより切れて頭の方は腹へ入りぬ、女房は死せるがごときに成りたりけり、意づくの人ぞと問ひければ、息の下にしかじかの所と云ひければ、人をつかはして告げけり、輿の中間などあまた来たりて、女房を取りて帰りけり、やがて死にたりときこゆ、容顔もよに尋常なる女にてぞ有りける、何事を祈精申しけるやらん、聖天の罰かとぞ沙汰しける、かかる不思儀ども耳に満つ、

 

 「解釈」

 さて伝説などというものは、記録してもつまらないものだが、耳にした話を書き止めておこう。少し前のことだが、下京あたりで米を売る者がいた。その米屋に男が一人やって来て「お米を買いましょう」と言って、枡を置いた。「今度取りに来るまで、この枡を持ち上げてはいけません」と言い、枡を伏せて置いたまま、その男は出ていった。その後、いくら待っても男は戻ってこない。その翌日も男は来なかった。あまりにも変だと思ったので、その枡を持ち上げてみたら、枡の下には小さな蛇がとぐろを巻いていた。不思議に思って見ていたところ、この小蛇はたちまち大蛇になってしまった。この米屋には、十六〜七歳ぐらいの顔のかわいらしい娘がいた。大蛇はその娘にぐるぐると巻き付いて、家から出て行き、姿を消した。両親は驚き、大声をあげて泣き叫んだが、娘の行方はとうとう分からなくなってしまったという。

 また別の話。下京に住んでいる男が宇治の今伊勢神社へお参りしたら、社頭あたりに白蛇がいた。この男が扇を開いて「もしあなたが宇賀神ならば、この扇に乗って下さい」と言った。そうしたら、この蛇が扇の上に這い上ったので、喜んで布に包んで連れ帰った。そして自分の家の北西の角に社を作って、そこに蛇をお祭りした。そうしたら、思いがけず物が手に入ったり、他人も物を貸してくれたりして、生活が安定してきた。それでやはりこの蛇は宇賀神だと思い、お供えをして大切にしていた。そうしているうちに、この白蛇は次第に大きく成長していった。それで恐ろしくなって、男はこの蛇をどこかに捨てようとした。それに対して、妻は「宇賀神であるならば、捨てるべきではありません」と反対したので、その通りだと思い直して、捨てるのをやめた。その後、この男が他所に外出する度に、この妻は眠たくなって昼寝をしていた。ある時、隣人が男の家を覗いて見たら、大きな蛇がこの女の上で、とぐろを巻いて、うずくまっていた。隣人がこの事を男に知らせたら、男は「俺もなぜかしらこの頃、気味悪く胸騒ぎがしていた。さては信じられないようなことが起こっているのかもしれない」と言った。それで男は外出する振りをして、隣の家から自分の家を覗いて見ていたら、聞いたとおり、妻は昼寝をしはじめた。そこへ大蛇がやって来て妻の上へ這い上がろうとした。男はそれを見て、走り出し、太刀を抜いて蛇を切ろうとした。そうしたら蛇は男の妻をきつく巻き取って、外へ出ていってしまい、どこかに行方をくらました。男はあちこち尋ね歩いたけれども、一向に行方は分からない。それから、男はまた、たちまち貧乏になってしまった。これは本当に不思議なことだという話を聞いた。

 またこの五月のころ、河原院聖天へ一人の女が参詣した。お籠もり七日目の最終日、本尊の歓喜天の前でお祈りをしていたが、急に立ち上がって女は外へ出ていった。その後、しばらくしても姿が見えないので、心配した僧が外へ探しにでた。そうすると、女は薮に向かって小便をしているようだった。しかし、身体をよじる様子なので不審に思ってしばらく見ていると、女はとても苦しみ始めた。それで周囲の人々に事態を知らせて、近づいてみると、大きな蛇が女の小便の穴に入っていた。僧たちが集まって、女を仰向けにして、蛇の尾を引いてみたが、引き出せない。さらに四〜五人が力を合わせて引いたら、頭のえらの部分から蛇の身体がちぎれて、頭の方は女の腹の中に入ってしまった。それで女は死んだようになってしまった。どこに住んでいる人か尋ねると、女は絶え絶えの息の下で、どこどこの者ですと言った。そこで、その所へ人をつかわして事情を説明させた。輿舁ぎ中間の者など大勢がやって来て、女を連れて帰った。その後すぐに女は死んだとうわさに聞いた。顔かたちがとても美しい女であったが、いったい何を祈願したのであろうか。歓喜天の罰があたったんじゃないかと推測する者もいた。このような不思議な話をたくさん聞いた。

 

 Well, although the legend is meaningless to record, let's write down the story I heard. A little while ago, there was a man selling rice in the Shimogyo area. A man came to the rice shop and said, "Please give me some rice," and put masu (the measuring vessel). He said, "Don't lift this masu until I come to recieve it next time," and the man came out, leaving the masu. After that, the owner of the rice shop waited for him, but he did not return. The next day he did not come. The owner thought that it was too strange, so when I lifted up that masu, a small snake was coiling itself up in the masu. The owner was wondering and looking at it, but this small snake quickly turned into a large snake. The owner had a lovely girl who was 16 to 17 years old. The serpent coiled around the girl and went out of the house and disappeared. Her parents were surprised and cried out crying, but their daughter was missing.

 Another story. When a man living in the Shimogyo area visited Imaise jinja shrine in Uji, he saw a white snake in the site. This man held out the fan and said, "If you are the Ugajin (the god that bring happiness), please ride this fan". Then, this snake went up on the fan, so he was glad to wrap it in the cloth and brought it home. And he made a shrine in the northwest corner of his house and worshiped the snake. Then he unexpectedly got essential items and another person lent me them, and he could lead a stable life. So he still thought that this snake was the Ugajin and took care of it by placing the offerings. In the meantime, this white snake grew gradually. He got scared and tried to throw this snake somewhere. His wife, on the other hand, objected, "If the snake is the Ugajin, you should not throw it away", so he reconsidered it and stopped throwing it away. After that, every time this man went out, his wife became sleepy and took a nap. One time, when his neighbor looked into his house, a big snake was coiling itself up on his wife. When the neighbor informed him of this happening, he said, "I'm also weird and felt uneasy lately. Something unbelievable may be happening." So he pretended to go out and when he looked into his house from the next house, as he heard, his wife began to take a nap. A large snake came over and tried to crawl over my wife. The man saw it and ran out, holding the sword and trying to cut the snake. Then the snake coiled around his wife tight and went out. He looked everywhere for her, but he did not know at all where they went. Then he quickly became poor again. I heard that this is really strange.

 Also in May, a woman went to worship Kawaharain Seiten. On the final day of the 7th day of worship, she prayed in front of the principal idol of worship, Kangiten, but she suddenly got up and went out. After that, she did not come back after a while, so the monk went out looking for her. Then she was pissing in the forest. However, because she was twisting her body, she began to suffer very much when the monk was suspiciously looking at her for a while. So when the monk informed people and approached her, a large snake was in the urethra of the woman. The monks gathered, turned her face up, and pulled the serpent's tail, but couldn't pull it out. Furthermore, when four or five persons joined forces and pulled it, the body of the snake was torn up and the head got into the belly of the woman. So the woman became moribund. They asked where she lived, and said that she lived in a certain place. They sent a messenger there to explain the situation. A lot of people came and took her home. Soon after, I heard that she was dead. She was a very beautiful woman, but what exactly did she pray for? It may have been Kangiten's punishment. I heard a lot of such strange stories.

 (I used Google Translate. )

 

*解釈、注釈の一部は、薗部寿樹「史料紹介『看聞日記』現代語訳(二)」(『山形県

 米沢女子短期大学紀要』50、2014・12、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=203&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。

 

 「注釈」

「今伊勢」

 ─現宇治市神明宮西の神明神社。宇治郷の西南端、旧奈良街道が宇治丘陵を通過する所の路傍に鎮座。唯一神明造の社殿二棟があり、伊勢内宮・外宮を勧請している。境内は古木の多い自然林で、付近一帯の丘陵を栗隈山(栗駒山)と汎称するため栗隈(子)(くりこ)神明とよばれ、宇治神明・今神明・今伊勢などの別称もある。祭神天照大神豊受大神。旧村社。

 社伝によれば、平安遷都後まもなく勧請されたというが、文献上は「康富記」嘉吉二年(一四四二)九月二七日条に「参詣宇治神明」、翌二八日条「自宇治上洛之処、於木幡庭田少将等、神明参詣也、可 伴之由被申之間、又路次取返参神明了」とみえるものが早い。

 しかし「看聞御記」応永二三年(一四一六)七月二六日条には「京下方ニ住男、宇治今伊勢へ参詣シケルニ、社頭辺白蛇アリ」とある。おそらく一五世紀初頭以前に伊勢の御師により神明信仰が伝播して創祀され、にわかに盛んになったものであろう。また神明の西方に伊勢田の地名があり、式内伊勢田神社などがあるところから、付近が伊勢神宮の御厨であったとする考えもあるが、証する史料は見いだせない。

 文明一一年(一四七九)四月、日野富子の参詣があり、それに端を発した宇治郷と三室戸の民衆の争論によって騒動が起こっている(「晴富宿禰記」同月二六日条)。その参詣の日は四月一七日(後法興院記、大乗院寺社雑事記)とされるが、「晴富宿禰記」には四月二二日条に「室町殿御台、今日御参詣宇治神明八幡宮寺也」と記される(『京都府の地名』平凡社)。

 

「宇賀神(うがじん)」

 ─福の神。以下、『日本の神様読み解き事典』「宇賀神」(柏書房、1997)より部分引用。仏教で、すべての衆生に福徳を授け、菩提に導くと信じられた福神で「うかじん」ともいう。宇賀神の宇賀は梵語の「宇賀耶(うがや)」がもとになっており、それを訳した「財施」からきて福神とされたものだという人もいる。財施というのは仏教用語でいう三施の一つで、仏や僧侶、または貧窮している人などに物品や金銭を施すことをいう。

 また、日本神話のうち、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)や保食神(うけもちのかみ)と音が似ているところから、これと同一神ともされている。また、宇賀神は白蛇を祀った神ともいわれ、七福神のなかの弁財天の別称ともいう。

 そして、宇は天で、虚空蔵菩薩・父・金剛界と考え、賀は地で、地蔵菩薩・母・胎蔵界と考え、神は観世音菩薩と考え、総じて弁才天だと説いている。

 

「河原院聖天(しょうでん)」─京都・祗陀林寺の歓喜天のことか。

 

「中間(ちゅうげん)」─公家や武家に仕える、侍と小者の中間の位にある従者。

 

 

口裂け女トイレの花子さん、コックリさん、人面犬…。私が幼かったころには、こんな都市伝説が流行っていましたが、最近の若い人たちのあいだでは、どんなものが流行っているのでしょうか。

 大学時代、民俗学の授業で現代の都市伝説を勉強しました。教科書は『ピアスの白い糸』(白水社、1994)。自分の知らなかった都市伝説が満載で、楽しく授業を受けたことを思い出します。

 この史料に限らず、これまでも怪しげな伝説や噂をブログで紹介してきましたが、今回は「蛇特集」です。エピソード1の元ネタはわかりませんが、エピソード2の元ネタは、『沙石集』巻第七の四「蛇ノ人ノ妻ヲ犯シタル事」、エピソード3の元ネタは、『今昔物語集』巻二九第三九「蛇女陰を見て欲を発し穴より出でて刀に当たりて死ぬる語」だと思います。いずれも、少しずつ元ネタの内容とは変わっているので、室町時代特有のアレンジが加えられているのかもしれません。

 さて、今回の内容とはまったく関係ないのですが、記事の冒頭にこんな表現がありました。「器物升と云ふ物を預け置く」、つまり「物を入れる器具、枡という物を預け置いた」とわざわざ書いているのです。これには驚きました。

 考えられることは二つです。一つは、記主伏見宮貞成親王は、これまで「枡」という器具の存在を知らなかったということ。もう一つは、この日記の読者(おそらく貞成親王の身内)が「枡」の存在を知らないと考え、わざわざ「枡は物を入れる器具」という説明を加えたということ。どちらか確定はできませんが、皇族のような身分の高い人々は、庶民にとって馴染み深い「枡」の存在を知らなかったようです。皇族たちの私生活や国家財政を支える租税。それを計量する最も大事な道具が「枡」なんですけど…。

芸藩通志所収田所文書2

    二 安藝国司廳宣

 

 廳宣  田所

   大帳所惣大判官代三善兼信

 右人、任祖父信軄譲状、補任田所執事件、冝承知、依件用之、

 以宣、

     (1091)

     寛治五年四月十日

    (有俊)

 大介藤原朝臣(花押)

        ◯本文書ニ「安藝國印」四アリ

 

 「書き下し文」

 庁宣す 田所大帳所惣大判官代三善兼信

 右人、祖父信職譲状に任せ、田所執事に補任するところ件のごとし、宜しく承知し、

 件によりて之を用ゐよ、以て宣す、

 

 「解釈」

 国司が田所大帳所惣大判官代三善兼信に下達する。

 右の人は、祖父信職の譲状のとおりに、田所執事に補任するところである。よく承知し、この庁宣のとおりに兼信を田所執事に用いよ。以上、下達する。

芸藩通志所収田所文書1

解題

 前記田所文書と一体であったと思われるが、現在その所在を失っている。寛治から元弘までの十通の文書は、各時代の田所氏の動向を示している。(同書刊本から採録

 

 

    一 三善信軄譲状

 

 譲渡

   田所執事

           (帯)

 件軄、依數代之所滞、爲次譜第、即男大帳所惣大判官代三善兼信所

  (渡)                     (宣ヵ)

 譲⬜︎件、縦雖譲状副申文国定之、仍勒事状譲状

  (如件)

 [  ]、

     (1091)

     寛治五年四月八日

                        (信軄)

                  田所惣大判官代三善(花押)

 

 「書き下し」

 譲り渡す

   田所執事

 件の職、数代の所帯たるにより、次の譜第として、即ち男大帳所惣大判官代三善兼信

 に譲り渡す所件のごとし、縦ひ譲状有りと雖も、申文を相副へ国宣之を蒙るべし、仍

 つて事状を勒す、譲状件のごとし、

 

 「解釈」

 譲り渡す 田所執事。

 この執事職は、数代所持してきたことにより、次の継承者として、子息の大帳所惣大判官代三善兼信に譲り渡すものである。たとえ譲状があったとしても、申請書を添えて上申し、安堵の庁宣をいただくべきである。そこで事情を書き上げた。譲状は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「田所」─①国衙在庁の所の一つ。田積の調査を主要任務とする。②一二世紀半ばか

     ら、国衙の田所に倣って荘園にも荘官としての田所が置かれた(『古文書古

     記録語辞典』)。

「執事職」─国衙の職務を統括する機能と職責を有する職名。「執事兄部職」「田所文

      書執行職」とも表現される(関幸彦「『在国司』に関する一考察」『学習

      院大学文学部研究年報』25、1978、https://glim-re.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=819&item_no=1&page_id=13&block_id=21)。

「譜第」─家の継承について、親─子─孫と同一血縁の中で代々相承すること、またそ

     の系譜のこと。古代の律令制下では、一方で個人の才能を重んずる立場をと

     るが、他方譜第性を尊重する考え方をも示している。郡司については明確に

     譜第性を重んずることが明記されている(『古文書古記録語辞典』)。

「即男」─「即ち男」と読みましたが、ひょっとすると「息男」の誤字かもしれませ

     ん。

「大帳所」─大帳(計帳)を作成する部署(古尾谷知浩「日本古代の籍帳類にみる死亡

      人」『HERSETEC』2─2、2008、https://www.gcoe.lit.nagoya-u.ac.jp/result/result02/hersetec-vo2-no2-2008.html、https://www.gcoe.lit.nagoya-u.ac.jp/result/pdf/2-2-03古尾谷.pdf)。「計帳」は、令制において戸籍とならぶ基本帳

      簿。一国の戸数・口数・課口数・調庸物数を書きあげた統計的帳簿。四度

      使がもたらす四度公文の一つで、調庸賦課の基本台帳として毎年作られ、

      大帳使が京進した。京職や国司は、各戸主からの戸口の姓名・年齢などを

      書いた手実(実情報告書)を提出させ、それを基礎資料として計帳を作っ

      た。朝廷は計帳によって課口数の推移や調庸物の数量を知った『新版 角

      川日本史辞典』)。

「国宣」─二号文書のこと。国司庁宣の略か。「庁宣」は「庁宣」と書き出す文書の総

     称であるが、ふつうは国司庁宣をいう。十一世紀〜十四世紀、受領の発する

     下文様文書で、在庁官人に対して出す指令文書を指していう(『古文書古記

     録語辞典』)。

田所文書2 その6(完)

    二 沙弥某譲状 その6

 

  ■■■   同舎弟藤五郎男

  ■■   同子一人 逆犬丸

                安南郡

      清次郎男 〈父清三郎男、牛田村弥冨名内崩田七反半下作人、是包父光包所當米代仁

               弁之畢、〉

      石王丸 〈母者石井入道殿下人乙女也、仍自襁褓中二十余歳仕之

             也、〉

      山田中五男 〈助清大政所殿下人武内源八包則引之者也、祖父者近清父者近道

                也、〉

      弥中次男 父者澤行、祖父者行包也、

                高宮郡

      北庄福田入道 〈子細見内部庄地頭代東条三津小三⬜︎爲方状等、彼奴父惣追

                 入道本者令居住濱邊末屋敷多年召仕之畢、〉

      同子二郎男

      又同子童

      宗大郎入道

      同大郎子宗源次男

      同次郎子又大郎男 人勾引守護取之云々、

                         (珂)

      秦三郎男 〈子細見父則包引文并本主人周防⬜︎玖河庄一方公文石崎大郎入道蓮聖⬜︎

               人状等、〉

                            (被ヵ)

  ■   同子勢至丸 〈開田兵衛尉与渡与畢、o但件奴任自由不⬜︎召仕云々、然者可[  〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

      同増田腹男子四人在之[

  二人■■■

              (召仕之ヵ)

      松王冠者 於童[

            (見ヵ)

      禰宜男 子細具父矢次郎掾重近引文

                         (依ヵ)

      西条o五郎子 〈死去畢、子者見存也、源太郎男⬜︎腹子也、〉

      同舎弟

      温科平六入道 子細見即引文

      濱久祖法師丸 〈子細見父伴大夫助武引文、祖父者武宗也、〉

                         (頭)

      弥中三重氏 〈子細o即状并母藤四郎内侍寺町地⬜︎⬜︎右衛門尉清義代郡戸治部

                入道〈于時俗名光成〉光眞状、〉

      北濱二郎冠者 〈子細見于父梶取宗四郎大夫末吉引文、〉

      濱橋本又王丸 子細父梶取夜叉太郎引文具者也、

      伴太国守孫 〈件祖父伴二郎男者父国守引文也、而云祖父父死去之間、件童

                付母迩保嶋令居住者也、仍弘安十一年改正應春之比、遣国造

                子男参勤之由、令下知之間、雖幼少参勤

                之旨、母等令申云々、〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

      南濱中小追清六末門子息等二人 〈云二人事屋敷子細、末門引文具

                           者也、〉

      腸權三郎男 〈云其身、云居住屋敷、父利恒〈本名清包〉引文明白也、〉

      同子二人 〈弥法師丸甲法師丸〉

        資俊分

      南濱乙若丸 〈件奴祖父宗門引進己身於銭五貫文代畢、其上者召仕彼子孫之条

                勿論也、而宗門死去之後、宗遠今俄爲地頭仕部之由令申之間、

                所詮可返宗門身直銭十貫〈本五貫〉文之由令下知之間、

                引進件乙若丸者也、子息等依其數、任傍例一人子

                於地頭方之上者、非沙汰之限之由、令問答畢、〉

      大崎中五郎 〈子細見父中三郎大夫安高引文、安高者中大夫安遠子也、〉

                       安南郡

      佐乃々江法師 〈今者江二郎云々、令住荒山庄者也、子細見于守護在國司

                 兼松崎下司代内藤左衛門入道盛仏〈俗名保廉〉同代官源三郎入道

                 状、〉

      同男子在之、

     安北郡

      田門庄矢口重員 〈於童召仕之、其名靏王丸、父者貞員、祖父者佐西大檢校

                  貞包貞延子也、而地頭代馬入道阿仏押召仕之間、訴申事由於

                  六波羅殿賜之畢、〉

    ■■■■同大郎子 〈於童召仕之畢、義王丸云々、今者又五郎是也、〉

    ■■■■同男子二人在之云々、

      同重員次男童 〈地頭代譲渡押仕之間、依申子細於六波羅殿去状之間、

                 下預御下知畢、〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

     佐東郡

      中洲別符友末 〈父者紀五郎大夫友道也、重代相傳下人也、子細友末起請文并日吉

                 大宮預所周防律師状次第沙汰證文具者也、〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目半裏花押)

 (後筆)

 「此間不知」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目半裏花押)

 (後筆)

 「人々に譲分といゝ、漏于此注文物等といゝ、可資賢分之状如件、

    (1289)

    正應貳年正月廿三日

                      沙弥(花押)」

       ○以上、一巻

   おわり

 

*割書は〈 〉で記しました。

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「江田村」─現安芸郡江田島町のことか。

「牛田村」─現東区牛田。奈良時代から鎌倉時代の初頭にかけては奈良西大寺領の牛田

      庄で、宝亀十一年(780)十二月二十五日の西大寺資財流記帳(西大寺

      文書)に「安芸国安芸郡牛田庄図二巻」とみえ、建久二年(一一九一)五

      月十九日付西大寺所領庄園注進状案(同文書)に「安芸郡牛田庄 墾田七

      十九町」とある。近世牛田村の田畠が約八十町であるから、右の墾田は未

      開原野を含むものであろう。正応二年(一二八九)正月二十三日付沙弥某

      譲状(田所文書)によれば、在庁官人田所氏は牛田村に私領田をもち、

      「牛田村弥富名内崩田七反半」と所従清次郎に下作させていたことがわか

      る。

      室町時代は守護武田氏の治下にあった。文亀三年(一五〇三)に武田氏の

      氏神を神田八幡宮として勧請したといわれ(国郡志下調書出帳)、天文二

      年(一五三三)には武田氏家臣豊島氏が真宗道場(現安楽寺)を開いたと

      いう(芸藩通志)。武田氏滅亡後は大内氏が領したが、のちの大内義隆

      毛利隆元に「大牛田」「小牛田」それぞれ一五〇貫の地を預けた(年未詳

      七月十五日付「内藤隆時書状」毛利家文書)弘治三年(一五五七)十一月

      十三日の毛利隆元宛行状(「閥閲録」所収宍戸藤兵衛家文書)に「牛田舟

      方給之内拾貫文地之事、為給地遣置候、全可知行候、水夫用之時者、涯分

      申付可調之由肝要候」とあるように、毛利氏は牛田に「舟方給」を設け、

      飯田・宍戸・羽仁・福井ら水軍勢力の諸氏に給地を与えた。毛利氏が牛田

      を水軍の拠点の一つに選んだのは、ここが広島湾頭を扼する戦略的要衝で

      あったことのほかに、当地にあった真宗寺院東林坊(現中区の光円寺)が

      川の内水軍の有力な一員であったように水軍勢力の拠点としての伝統があ

      ったからでもあろう。なお戦国期の牛田は矢賀・戸坂などと同様、佐東郡

      とされることがあった(大永七年四月二十四日付大内義興宛行状「閥閲

      録」所収白井友之進家文書)(『広島県の地名』)。

「荒山庄」─世能荒山庄か。現安芸区瀬野川町上瀬野・同下瀬野・同中野のほぼ全域に

      わたる荘園。

      承久三年(一二二一)承久の乱の功で浅沼次郎(阿曾沼親綱か)が地頭職

      に任じられたが、これ以前の地頭は安芸国守護宗孝親だったようである。

      阿曾沼氏は家臣野村氏を代官として派遣したが、同年十月には早くもその

      野村氏が非法を働いたとして官使から訴えられている(承久三年十月八日

      付「清原宣景申状」清原家文書)。ところで、この時地頭の権限の及ぶ範

      囲は「荒山村・阿土村・下世能村」の三ヵ村と地頭名の久武名とされてお

      り、阿土村(のちの熊野跡村)が荘域に入ったこと、世能村が上下に分か

      れたことなどが知られる。ただし、建久七年阿土熊野保が成立しているの

      で(建治三年のものと思われる「小槻有家申状」壬生家文書)、阿土村の

      一部が当庄に属したのかもしれない。

      地頭代野村氏の押妨は鎌倉時代を通じてやまず(嘉禎四年九月日付「伊都

      岐島社神官等重解」新出厳島文書、文永十年八月二十日付「関東御教書」

      壬生家文書など)、建武四年(一三三七)三月三日付の光厳上皇院宣并壬

      生官務家知行書立(壬生家文書)を最後に、小槻隆職の子孫壬生家の史料

      から世能荒山庄の名は消える。折しも南北朝の争乱を機に、阿曾沼氏は下

      野国から当庄に本拠を移して安芸有数の国人領主へ成長、その過程で当庄

      は阿曾沼氏の実質的所領となっていったものと思われる(『広島県の地

      名』)。

「中洲」─現安佐南区安古市町中須高宮郡中筋古市村の北に位置し、村の中央を安

     川、東端を古川がともに南流する。古く川中洲の地で、小瀬・来船・蔦島・

     黒川などの地名は往時の地勢を示す(安佐郡志)。沼田郡に属し、安川の上

     流が大町村、古川の上流が緑井村、西隣は北下安村、東は古川を越えて温井

     村に接する。雲石道が古川沿いに南北に通る。地勢上水害に見舞われること

     が多かったが、安川を古川へ直結する小瀬放水路が昭和三十年(一九五五)

     に完成、安川の中洲より下流は廃川敷となった。

     嘉禎四年(一二三八)四月十七日付の伊都岐島社回廊員数注進状案(新出厳

     島文書)の「自大宮御方南脇至于御供屋三十間」のうち「未被立分」に「中

     洲別府」とみえる。正応二年(一二八九)正月二十三日付の沙弥某譲状(田

     所文書)は、安芸国の在庁官人田所氏の譲状で、前半は得分や所領を、後半

     は所従などを書き上げているが、そのなかに「一所田畠一反大内田大畠一

     反 中洲作人不定即進止也」「中洲別符友末 父者紀五郎大夫友道也、重代

     相傳下人也、子細友末起請文并日吉大宮預所周防律師状次第沙汰證文具者

     也」とみえ、中洲別符の在地名を関する友末は、田所氏の譲与財産へ所従と

     して記されるような存在であった。応永四年(一三九七)六月日付の厳島

     領注進状(巻子本厳島文書)では、佐東郡神領などのなかに中洲別符がみ

     えるが、宝徳二年(一四五〇)四月日付の厳島社神主藤原教親申状案(同文

     書)には、武田伊豆守(信繁)押領分のなかに記されている。

     天文十年(一五四一)八月十一日付で大内氏が吉原弥七へ宛てた中洲内打渡

     坪付(「譜録」所収吉原市兵衛家文書)には、田畠二十一筆の分銭二十貫五

     十文目が記され、そのなかに「こせ」「トキ」を冠する人名が三人みられ

     る。この所領の知行を認められることは、銀山城番を勤める責任を伴うもの

     であった(閥閲録)。吉原弥七と同様に銀山城番を任じられた大谷善左衛門

     尉は、同年九月十一日に中洲のうち十八貫目品河左馬允先知行の跡を宛行わ

     れた(防長風土注進案)。同二十一年二月二日の毛利元就同隆元連署知行注

     文(毛利家文書)のなかには「中洲」とあり、大内氏の下とはいえ、毛利氏

     の支配が及んできたことを示している。永禄十三年(一五七〇)九月八日の

     毛利元就宛行状(「藩中諸家古文書纂」岩国徴古館蔵)では「中須」と記さ

     れ、その後中洲と混用される時期が続く(『広島県の地名』)。

ドラマチックな地蔵譚!?

  応永二十三年(1416)七月十六日条 (『看聞日記』1─45頁)

 

 十六日、晴、伝聞、山城国桂里辻堂之石地蔵、去四日有奇得不思儀事、其子細

  者、阿波国有賤男、或時小法師一人来云様、我住所草庵破壊雨露もたまらす、

  仍可造作之由思也、来て仕るへし、可憑之由申、此男云様、身貧して渡世

  難治也、妻子を捨て他所罷事不可叶之由申、小法師重申様、可致扶持也、只可

  来之由申、則同道して行、阿波国より山城ヘハ三日路也、然片時之間行着

  破損辻堂石地蔵アリ、造作スル人モナシ、小法師打失、近辺之人

  相尋ヌレハ、山城桂里答、此男思様、サテハ地蔵是マテ同道シテオハシ

  ケルト、貴覚ヘテ居タリケレトモ、智人モナシ、加様ニテハ如何カト思テ京ヘ

  上ラントシケルニ、アリツル小法師来云様、何方ヘモ不可行、只爰可居住之由

  申又失、サテ堂居タリケル程、西岡スル男、〈竹商人云々、〉日来此堂

  破壊シヌル事心中痛敷思ケリ、件堂休息之間、彼阿波男寄合雑談スル

  程、此事最初ヨリ次第、地蔵奇得不思儀語、サテ御堂造営諸共

  テチタヘモシ給ヘト云ケレハ、西岡男スチナキ事云イタカ也トテ散々云合

  程、イサカヒアカリテ刀阿波男突ントス、彼男逃ノキヌ、去程西岡男心

  狂乱シテ、彼石地蔵ヲ切突ケルホトニ、忽腰居テ物狂成ケリ、近辺物共集

  見之、地蔵之御罰ナル事ヲ貴ケリ、サテ狂気男、暫シテ心神を取直シテ地蔵

  オコタリ申、此御堂造営シテ宮仕申ヘキ由祈念シケルホトニ、則腰モ起、狂気モ

  醒ケリ、サテ入道セントシケルニ、地蔵夢見ヘテ法師成ルヘカラストノ給

  ケレハ、男ニテ浄衣ヲ着テ宮仕ケリ、地蔵奉斬突腰刀散々ニユカミチ丶ミタリ

  ケリ、御堂懸テ参詣人拝セケリ、サテ阿波男ヲハ、法師ナルヘキ由、地蔵被

  示ケレハ、入道シテ彼男ト二人御堂造営奉行シケリ、此事世披露アリテ、貴賤

  参詣群集シケル程、銭以下種々物共奉加如山積、造営無程功成ケリ、祈精

  成就、殊病者盲目ナト忽眼開ケレハ、利生掲焉ナル事、都鄙聞ヘテ、貴賤

  参詣幾千万云事ナシ、種々風流之拍物シテ参ス、都鄙経営近日只此事也、

  伝説雖難信用、多聞之説記之、且比興也、

 

 「書き下し文」

 十六日、晴る、伝へ聞く、山城国桂の里に辻堂の石地蔵、去んぬる四日奇得不思儀の事有り、其の子細は、阿波国に賤男有り、或る時小法師一人来たり云ふ様、我が住所の草庵破れ壊たれ、雨露もたまらず、仍て造作すべきの由思ふなり、来て仕るべし、憑むべきの由申す、此の男云ふ様、身貧にして渡世難治なり、妻子を捨て他所へ罷る事叶ふべからざるの由申す、小法師重ねて申す様、扶持致すべきなり、只来るべきの由申す、則ち同道して行く、阿波国より山城へは三日の路なり、然るに片時の間行き着きぬ、破損の辻堂に石地蔵あり、造作する人もなし、小法師も打ち失せぬ、近辺の人に相尋ぬれば、山城桂の里と答ふ、此の男思ふ様、さては地蔵是れまで同道しておはしけると、貴く覚へて居たりけれども、智人もなし、加様にては如何がと思ひて京へ上らんとしけるに、ありつる小法師来たりて云ふ様、何方へも行くべからず、只爰に居住すべきの由申し又失せぬ、さて堂に居たりける程に、西岡に住する男、〈竹商人云々、〉日来此の堂破壊しぬる事を心中に痛ましく思ひけり、件の堂に休息の間、彼の阿波男と寄り合ひて雑談する程に、此の事最初より次第を語りて、地蔵の奇得不思儀を語る、さて御堂造営諸共にてちたへもし給へと云ひければ、西岡男すちなき事云いたか也とて、散々に云ひ合ふ程にいさかひあかりて刀を抜きて阿波男突かんとす、彼男逃げのきぬ、去んぬる程に西岡男心狂乱して、彼の石地蔵を切り突けるほどに、忽ち腰居きて物狂に成りけり、近辺の物共集まりて之を見る、地蔵の御罰なる事を貴みけり、さて狂気の男、暫くして心神取り直して地蔵におこたりを申す、此の御堂造営して宮仕へ申すべき由祈念しけるほどに、則ち腰も起き、狂気も醒めけり、さて入道せんとしけるに、地蔵夢に見へて法師に成るべからずとの給ひければ、男にて浄衣を着て宮仕へけり、地蔵斬り突き奉る腰刀散々にゆがみちぢみたりけり、御堂に懸けて参詣人に拝せけり、さて阿波男をば、法師になるべき由、地蔵に示されければ、入道して彼の男と二人御堂造営奉行しけり、此の事世に披露ありて、貴賤参詣群集しける程に、銭以下種々の物共奉加すること山のごとく積みて、造営程無く功成りけり、祈精も則ち成就し、殊に病者盲目など忽ち眼も開ければ、利生掲焉なる事、都鄙に聞こへて、貴賤参詣幾千万と云ふ事なし、種々の風流の拍物をして参ず、都鄙経営近日只此の事なり、伝説信用し難しと雖も、多聞の説之を記す、且つがつ比興なり、

 

 「解釈」

 十六日、晴。伝え聞くところによると、山城国桂里にある辻堂の石地蔵で、去る四日、とても珍しく不思議なことがあったという。その詳細は、次の通りだ。阿波国に身分の賤しい男がいた。ある時、小柄な法師が一人来て、「私が住んでいる草庵は壊れて、雨露にも耐えられません。それで建て替えようと思っています。あなたが来て建てて下さい。頼みます」と言った。男は「私は貧しくて、食べていくことさえもままなりません。ましてや妻や子を捨てて、他所へ出かけることなど、できるわけがありません」と断った。小柄な法師は重ねて「そのことはお助けしましょう。ただ来て下さい」と言った。それですぐに男はその法師と出かけた。阿波国から山城国へ行くのに三日はかかる。ところが、ほんのわずかな時間で、山城国へ到着した。

 壊れた辻堂には石地蔵が安置してあった。辻堂を建て直そうとする人もいない。小柄な法師も姿を消してしまった。近くにいた人にここはどこかと男が尋ねると、山城国桂里だと答えた。それでこの男は、「さてはこのお地蔵様がここまで俺を連れてきて下さったのだな」とありがたく思った。しかし、桂里には知り合いもいないし、このままではどうしようもない。そう思ってとりあえず京へ上ろうとしていたところ、さきほどの小さな法師が現れて、「どこへも行ってはいけません。ただここに住んでいて下さい」と言って、また姿を消した。それでしかたなく辻堂に佇んでいた。

 一方、西岡に住んでいる竹商人の男がいて、日頃、この辻堂が壊れていることに心を痛めていた。その竹商人がこの辻堂に来て休んでいると、あの阿波国の男と出会い、二人で雑談をした。阿波国の男が、今回のことを最初から話して、地蔵の優れた法力は不思議であると語った。そして「辻堂の再建を一緒に手伝ってください」と言ったら、西岡の男は、筋違いの事を言う傲慢な奴だと散々に悪口を言い合った。そのいさかいが白熱して、とうとう西岡の男は刀を抜いて阿波の男を突き刺そうとした。それで阿波の男は逃げ出した。さらに西岡の男は頭に血が上って、その石地蔵を切りつけた。そうしたら、男の腰が抜けて気が狂ってしまった。

 近所の者たちが集まり、この騒動を見ていて、お地蔵様の罰はやはりてきめんだと言って、皆で石地蔵を拝んだ。さて気が違った男はしばらくすると正気に戻り、お地蔵様にお詫びした。そして「この御堂を建て直してお地蔵様にお仕えします」とお祈りしたところ、すぐに腰も立ち、頭もスッキリした。それで出家しようとしたら、夢に地蔵が出てきて、「法師になってはいけません」と仰るので、男は白い狩衣姿で、地蔵に奉仕した。地蔵を突き刺した腰刀は散々にゆがんでいた。その腰刀を御堂に懸けて、参詣者に拝ませた。一方、阿波の男は法師になるように地蔵が命じていたので出家して、西岡の男と二人で御堂再建の準備をした。やがてこの事件が世に知れ渡り、大勢の者たちが参拝に来たので、銭などいろいろなお供え物が山のように貯まり、御堂の再建はすぐに竣工した。

 この石地蔵への願い事はすぐに叶った。特に病気の者にてきめんで、盲目の者がお祈りするとすぐに目が見えるようになった。その霊験あらたかなことは全国に知れ渡り、参詣者は何千万人ともなった。人々はこの地蔵堂へいろいろと風流な拍物でパレードしながら、お参りした。このところ、京都でも地方でも、この桂里の石地蔵のうわさでもちきりだ。伝え聞いた話で信用しがたいが、いろいろな人から耳に入ったので、記しておく。それにしても、道理に合わない話である。

 

*解釈は、薗部寿樹「史料紹介『看聞日記』現代語訳(二)」(『山形県立米沢女子短期

 大学紀要』50、2014・12、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=203&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。

 

 

*これには後日談があります。

  応永二十三年(一四一六)十月十四日条 (『看聞日記』1─69頁)

 

 十四日、晴、聞、桂地蔵奉仕阿波法師并与党七人、自公方被召捕被禁獄云々、彼法

  師非阿波国住人近郷者也、与党同心之者共数十人、種々回謀計、地蔵菩薩

  奉付顕奇得云々、或相語病人愈衆病、或非盲目者、令開眼目、種々事、彼法師等

  所行之由露顕之間、被召捕被糺問之間、令白状云々、西岡男非同心者云々、仍

  不相替奉仕云々、倩案之、不信輩如此申成歟、設雖相語病人、於万人利生、争

  可為謀略哉、地蔵霊験不可及人力者哉、尤不審事也、然而貴賤参詣不相替云々、

   (後略)

 

 「書き下し文」

 十四日、晴る、聞く、桂地蔵に奉仕する阿波法師并に与党七人、公方より召し捕らへられ禁獄せらると云々、彼の法師阿波国の住人に非ずして近郷の者なり、与党同心の者共数十人、種々謀計を回し、地蔵菩薩に狐を付け奉り奇得を顕すと云々、或うは病人を相語らひ衆病を愈し、或うは盲目に非ざる者に、眼目を開かしむ、種々の事、彼の法師らの所行の由露顕の間、召し捕らへられ糾問せらるるの間、白状せしむと云々、西岡男は同心する者に非ずと云々、仍て相替はらず奉仕すと云々、倩(つらつら)之を案ずるに、不信の輩此くのごとく申し成すか、設ひ病人を相語らふと雖も、万人の利生に於いては、争でか謀略たるべけんや、地蔵の霊験人力に及ぶべからざらんや、尤も不審の事なり、然れども貴賤の参詣は相替はらずと云々、

 

 「解釈」

 十四日、晴。聞くところによると、桂地蔵に奉仕していた阿波国の法師とその一味の者ども七人が室町幕府によって逮捕され収監されたそうだ。その法師は阿波国の住人ではなく、桂近郷の者だった。一味の者ども数十人は、いろいろと謀略をたくらみ、地蔵菩薩像にキツネを付けて、不思議なことをやらせたらしい。また病人と共謀して、多くの病が治ったように見せかけたり、あるいはもともと盲目ではない者に盲人の真似をさせ、治って目が見えるようになったと演じさせたらしい。以上のようなことがあの法師らの仕業だという情報が流れたので、逮捕して尋問したところ、自白したという。西岡の男は共謀者ではないそうだ。それで彼はこれまで通り、桂地蔵に奉仕しているという。

 いろいろと考えてみるに、地蔵を信仰しない一部の者がこのように言いなしたのではなかろうか。たとえ一部の病人と共謀したことがあったとしても、多くの人が地蔵菩薩の恵みを受けたことを、どうして謀略と言えようか。地蔵の霊験は人の力の及ぶところではないはずだ。それにしても、不可解な事件である。その一方で、多くの人が参詣していることは、以前と変わりがないそうだ。

 

*解釈は、薗部寿樹「史料紹介『看聞日記』現代語訳(二)」(『山形県立米沢女子短期

 大学紀要』50、2014・12、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=203&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。

 

 「注釈」

 「地蔵堂

 ─西京区春日町桂離宮の西南、山陰道沿いにある。俗に桂地蔵といい、浄土宗。洛陽六地蔵第五番札所。本尊は地蔵菩薩立像(江戸期)(『京都市の地名』)。

 

 

*なんとドラマチックな展開でしょうか。地蔵の化身である小坊主に導かれ、阿波出身の男が荒れ果てたお堂を再建する。その話が大ウソだった! これほど信仰心をないがしろにしたエピソードが、中世にあったとは思いもよりませんでした。現代人とは異なり、中世人はもう少し神仏を純粋に信仰しているものだと思っていました。悪い奴というのは、いつの時代にもいるものです。おそらく、お地蔵さんの評判を高めて、お供物や賽銭を掠め取ろうと考えたのでしょうが、この作為がバレて逮捕されてしまいます。

 ところで、この阿波出身と自称したウソつき男は、いったいどのような罪を犯したと見なされたのでしょうか。幕府の役人に捕らえられたということは、検断沙汰(刑事事件)ということになるのでしょうが、どこに問題があったのか、何を根拠に断罪したのか、いまいちよくわかりません。詐欺罪といえば詐欺罪に当たるような気もしますが、誰にとって、どのような被害があったというのでしょうか。たしかに、人々を欺いたことに違いはないのですが、騙されたとはいえ、人々はお供えや賽銭を自主的に寄付しているので、詐取されたといえるのか疑問です。

 また、中世に詐欺罪があったのかどうかもよくわかりません。法制史には詳しくないので何ともいえませんが、鎌倉幕府法や室町幕府法を眺めても、このようなケースに該当する法令を見つけることはできませんでした。当然のことかもしれませんが、こんな事件が頻発するとは思えませんので、成文化されるには至らなかったのかもしれません。そうすると、残る根拠は律令ということになりそうですが、古代の律には詐偽律があります。文書を偽作したり、偽りの契約を結んだりしたわけでもないので、詐偽律も決め手に欠けるのですが、いまのところ、これを援用したと考えておきます。これも「中世に生きる律令」ということになるのでしょうか。ひょっとすると、寺社法や在地法に、詐欺に関する規定が残っているのかもしれません。また、調べてみようと思います。

 神仏の霊験譚をウリにした寺社は、現在でもたくさんあります。役行者行基空海や円仁開創と称する寺社が、全国各地にあります。本当か…!? 史実は歴史の闇の中。バレなきゃ、罪にはならない。そんな罰当たりなことが頭をかすめながら、私は今日も、喜んでお賽銭を納めています。