周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

天狗のイタズラ その1 (Tengu's mischief ─part1)

  応永二十七年(1420)六月二十七日条

         (『看聞日記』2─59頁)

 

               〔釈〕

 廿七日、晴、酉時有大地震、帝尺動也、又有焼亡、〈申時歟、〉北小路油小路辺

  云々、天狗洛中荒云々、先日中京辺在家四五間菖蒲葺云々、天狗所為歟、

  炎旱非只事、御祈禱雖被行無其験、春日大明神御祟云々、(後略)

 

 「書き下し文」

 二十七日、晴る、酉の時大地震有り、帝釈動くなり、又焼亡有り〈申の時か〉、北小

  路油小路辺りと云々、天狗洛中を荒らすと云々、先日中京辺りの在家四、五間の菖

  蒲を逆さに葺くと云々、天狗の所為か、炎旱只事に非ず、御祈祷行はると雖も、其

  の験無し、春日大明神の御祟りと云々、

 

 「解釈」

 二十七日、晴れ。酉の刻に大地震が起こった。帝釈天堂が動いたのである。また火事があった。〈申の刻か〉。北小路油小路あたりという。天狗が洛中を荒らしているそうだ。先日、中京あたりの民家四、五軒の菖蒲を逆に挿したという。天狗の仕業だろうか。日照りは只事ではない。ご祈祷が行われたが、そのご利益はなかった。春日大明神の祟りだそうだ。

 

 June 27th, sunny. A major earthquake occurred around 6 pm. The Taishakutendo temple trembled. Also, at around 4 pm, a fire broke out in the Kitanokouji Aburanokouji area. I heard that Tengu was ruining the whole capital.
 The other day, someone reversely inserted the iris which adorned the eaves of four or five houses in the Nakagyo area. Did Tengu have done it? The recent drought is unusual. The monks and priests prayed, but the prayer had no effect. I heard that it was the indignation of Kasuga Daimyojin.

 (I used Google Translate.)

 

 「注釈」

「帝釈」

 ─帝釈天堂。南丹市八木町字船枝。船枝集落の北部山中にある。庚申さんと称して崇敬者が多い。船枝の福寿寺(曹洞宗)所蔵の慶長七年(一六〇二)正月一六日付の紫雲山小倉寺縁起によると、宝亀一一年(七八〇)和気清麻呂神護寺(現京都市右京区)を草創した際霊感を受け、丹波の国船井郡吉富庄舟枝村東北の山上に至って小倉の中に帝釈天像を発見、一寺を建立して紫雲山小倉寺と号した、その後帝釈天弘法大師に寄進し、大師は千谷山を開き伽藍を構えた。応仁年間(一四六七─六九)に焼亡したが本尊のみ災いを免れて、中世末期に同山千谷口の上に草堂を再興し帝釈天を安置したという。旧跡地を寺床と呼び現在も地名が残る。その後、寛永三年(一六二六)にも火災に遭い、貞享年間(一六八四─八八)園部藩主ほかより寄進を受けて完成したのが現存の堂宇である(『京都府の地名』平凡社)。

 

 

*さまざまな災害が起こっているなかで、一つだけ、信じられないほど些細な災いが起こっています。邪気払いのためでしょうか、民家の軒先に挿していた菖蒲を、ひっくり返したものがいたようです。それがなんと、天狗の仕業だと噂されているのです。子どものいたずらとしか思えないのですが、天狗はこんなしょうもないことをすると考えられていたようです。大騒ぎするほどのことでもないように思いますが、中世人にとっては、これも無視できない災いだったのでしょう。天狗は神通力を使って菖蒲をひっくり返したのか、菖蒲を一本ずつ逆さまに挿し込んだのかわかりませんが、そんな姿を想像すると、ちょっと笑えます。

 

*2018.9.26追記

 「菖蒲を逆さに葺く」というのは、この時期に民間で行われていた風習なのだそうです。清水克行『大飢饉、室町社会を襲う!』(吉川弘文館、2008、152〜155頁)によると、地方によっては、5月5日に家の軒先に菖蒲の葉を逆に葺いて、家内に邪気が入らないようにするという風習が、現在でも残っているそうです。また、5月5日に行われるはずの菖蒲葺きが、6月末になって再度行われていることから、次のような評価をされています。

 

 「五月五日の菖蒲葺きの後も一向に災厄が収まらずに『天狗』が跋扈していることから、当時の一般庶民はもう一度菖蒲の節供をやりなおすことで、こんどこそ『天狗』を追い払おうと考えたのだろう。」

 

 こうしたやり直し慣行は、正月やひな祭りでも見られるそうです。そもそも、この史料の記された応永27年(1420)は、応永の大飢饉の起きた年でした。炎旱という異常気象が続く状況をなんとか変えたくて、民衆は民衆なりの知恵を絞り出したのでしょう。端午節供で菖蒲を正しく挿しても効果がなかったから、6月末の段階でやり直しとして、逆さまに挿したのかもしれません。

 それにしても、「菖蒲を逆さに葺く」というのは、ただの子どものいたずらだと思っていたのですが、まさかこんな呪術的な意味があったとは思いもよりませんでした。記主の貞成親王は、これを天狗の仕業と考えているようなので、身分の高い人たちは「菖蒲を逆さに葺く」という慣習を知らなかったようです。おそらく、菖蒲を正しく挿す方法しか知らなかったから、怪異の1つと考えたのでしょう。洛中と洛外という場所の違いか、身分の違いかわかりませんが、貞成親王と民衆の間には、いくぶん文化的な断絶があるようです。

 

 

*2022.1.17追記

 「菖蒲葺」の簡潔な説明を見つけたので、紹介しておきます。横井清『室町時代の一皇族の生涯』(講談社学術文庫、2002年、250頁)。

 

 前者(菖蒲葺)は端午の節句。軒に菖蒲を葺くのは、それの強い臭いに頼って魔除けとし、消厄除災字を念じてのことだったが、「ショウブ」の音が「昌武」に通じるというので、男子の健やかな成長を祈念する気持ちにも通っていた。軒に菖蒲を葺くだけではない。菖蒲湯に入ることも、子らが菖蒲鉢巻(かぶと)を冠り菖蒲刀を手に合戦ごっこに興じることも、編んだ菖蒲を地面に叩きつけては丈夫さを競う菖蒲打ちが流行していたことも重要視されていた。石合戦の印地(印地打・いんじうち)というのも主としてこの日の遊びであった。後者の続命縷(しょくめいる)、すなわち「薬玉(くすだま)」のことは、すでに触れておいた(一六四頁参照)。

木村文書1

解題

 木村氏は戸坂村(広島市戸坂町)狐爪木(くるめぎ)神社の神主職を勤めた家である。

 

 

    一 大内義隆下文

 

         (木村)

  補下  大宮司藤原正廉

       (マ丶)

    安藝國佐東郡狐爪木八幡社神料田畠壹町玖段余地事

 右件料田事、全知行、不夷礼奠、可國家安全萬民快楽、故以下、

        (1542)

       天文十一年八月廿三日

  大宰大貳多々良朝臣(花押)

 

 「書き下し文」

  補し下す 大宮司藤原正廉

    安芸国佐東郡狐爪木八幡社神料田畠壹町玖段余りの地の事

 右件の料田の事、知行を全うし、礼奠を陵夷せず、国家安全万民快楽を祈り奉るべし、故に以て下す、

 

 「解釈」

  補任し下知する。大宮司藤原正廉。

    安芸国佐東郡狐爪木八幡神社の神料田畠一町九段余りの事。

 右の料田のこと。支配を全うし、神へのお供えを廃れさせず、国家安全・万民快楽を祈り申し上げよ。特に下知する。

 

 

 「注釈」

「狐爪木神社」─狐瓜木神社。現東区戸坂くるめ木一丁目。古代山陽道太田川を渡る

        千足のすぐ南の地にある標高二〇メートルほどの独立丘上に鎮座。祭

        神は仲哀天皇神功皇后応神天皇。相殿に風伯神・言代主神を祀

        る。旧村社。もと「狐爪木神社」と書いた。祭神の一つ風伯神は、

        「三代実録」元慶七年(八八三)十二月二十八日条に「安芸国正六位

        上風伯神」が従五位下を授けられたことがみえ、「安芸国神名帳」に

        も、安南郡に「風伯明神」があげられている。当社がいつ頃から狐爪

        木神社と称されるようになったかは不明であるが、最も古い史料は天

        文十一年(一五四二)八月二十八日付の大内義隆下文(木村文書)で

        「安芸国佐東郡狐爪木八幡社神料田畠壱町玖段余地事」とある。当時

        安南郡に属したこの地を佐東郡としているのは、牛田・矢賀などが佐

        東郡とされていることがあったのと同様、戦国期における佐東・安南

        両郡界が明確でなかったことを物語る(『広島県の地名』平凡社)。

千葉文書9(完)

    九 毛利輝元書状(折紙)

 

 爲御音信ねり酒両樽并蚫一折被送越候、懇志之段祝着候、則令賞翫

 恐入候、いつれも可申候、謹言、

                (輝元)

       正月廿九日    (花押)

         神保源右衛門尉殿

 

 「書き下し文」

 御音信としてねり酒両樽并に蚫一折を送り越され候ふ、懇志の段祝着に候ふ、則ち

 賞翫せしめ候ひ恐れ入り候ふ、いづれも申すべく候ふ、謹言、

 

 「解釈」

 ご進物として練酒二樽と鮑一箱を送ってくださいました。親切なお気持ちに満足しております。すぐに味わいまして、恐縮しております。いずれの者かがお礼を申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「ねり酒」─練酒・煉酒。①白酒の一種。蒸した餅米を酒とかきまぜ、石臼でひいて漉

      したもの。製法は現在とほとんど同じであるが、当時はみりんが一般にな

      かったため酒を用いたので現在のように甘口のものではない。その色が練

      絹のようだというのでこの名がつけられ、博多の練酒は特に有名であっ

      た。練貫酒(ねりぬきざけ)。練貫(『日本国語大辞典』)。

剣舞はいつから?

  応永二十七年(一四二〇)二月十日条 (『看聞日記』2─24頁)

 

 十日、晴、早旦御堂巡礼、

  (中略)

  抑便路之間桂地蔵堂参詣、御堂造営奇麗也、暫念誦之間門前有放歌、以太刀刀跳

  狂、男共見物、其風情奇得之由申、立輿見之、誠奇異振舞、不可説也、賜扇則帰、

  (後略)

 

 「書き下し文」

  抑も便路の間桂地蔵堂に参詣す、御堂造営奇麗なり、暫く念誦の間門前にて放歌有り、太刀・刀を以て跳び狂ひ、男ども見物す、其の風情奇得の由申す、輿を立て之を見る、誠に奇異の振る舞ひ、不可説なり、扇を賜ひ、則ち帰る、

 

 「解釈」

  さて都合のよい道だったので、桂の地蔵堂に参詣した。御堂は綺麗に造営してあった。しばらく念誦していると、門前で放下が行われた。太刀や刀を持って跳び狂っていて、男どもがそれを見物した。その様子は非常に珍しいと申していた。輿を立ててこれを見た。本当に珍しい所作は、言葉では説明できないのである。扇を与えて、すぐに帰った。

 

 「注釈」

地蔵堂

 ─西京区春日町桂離宮の西南、山陰道沿いにある。俗に桂地蔵といい、浄土宗。洛陽六地蔵第五番札所。本尊は地蔵菩薩立像(江戸期)(『京都市の地名』)。このブログの「ドラマチックな地蔵譚」参照。

 

「放歌」

 ─放下。中世・近世に行われた芸能の一つ。小切子(こきりこ)を打ちながら行う歌舞・手品・曲芸などの芸。また、それを専門に行う者。多くは僧形であったが、中には頭巾の上に烏帽子をかぶり、笹を背負った姿などで演ずるものもあった。放下師。放下僧。放家。放歌(『日本国語大辞典』)。なお、放下はインドから中国を回って日本へ入ってきた芸能と考えられています(野間宏沖浦和光『アジアの聖と賤』人文書院、1983年、93頁)。

 

*太刀や刀を持って、跳び狂う。こうした芸能は歌舞伎や神楽に近いので、現代人にしてみれば見慣れた光景と言えるかもしれませんが、記主貞成親王にとっては、かなり珍しい所作だったようです。

 いつどこで聞いたのか、まったく覚えてないのですが、昔、日本の文化を「摺り足の文化」、西洋の文化を「跳躍の文化」と聞いたような気がします。そしてその違いは、それぞれの舞踊に顕著にあらわれている、と。

 今回の「放下」の詳細はわかりませんし、どれほどの激しい動きなら「跳狂」と言えるのか、その区別をつけることはできません。また、見物人たちや貞成親王が当時のすべての舞踊を見ていたとも思えないので、今回の放下の珍しさが一般化できるのかわかりませんが、ひとまず中世に刀剣を用いた跳躍型の歌舞があったことはわかります。少しだけ、日本の舞踊のイメージが変わりました。こうした舞踊がいつから始まったのか、中世では一般的だったのかを知りたいものです。

千葉文書8

    八 小早川隆景書状(折紙)

 

 追而鶴一羽差上せ候、一段新敷候、獵味之薬食別而祝着候、

 (神保源右衛門尉)               (包久景相)

 神源右肝煎候由、神妙候、弥其心懸干要候、猶従包次兵所申候、謹言、

       十二月十六日         隆景(花押)

 

          高又兵

          神源右

 

 「書き下し文」

 神源右肝煎し候ふ由、神妙に候ふ、弥其の心掛け干要に候ふ、猶ほ包次兵の所より申

 すべく候ふ、

 追つて鶴一羽差し上らせ候ふ、一段と新たらしく候ふ、獵味の薬食別して祝着に候

 ふ、謹言、

 

 「解釈」

 神保源右衛門尉があれこれと世話をしておりますことは、感心なことです。ますますその心掛けが大切です。さらに包久景相のところから申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。

 追伸。鶴一羽を進上してくれました。格別に新しいものでした。鳥獣の肉を食べることは、とりわけ喜ばしいことです。

 

 「注釈」

「薬食」─くすりぐい。①冬に、保温や滋養のために猪、鹿などの肉を食べること。普

     通、獣肉は穢があると忌んで食べなかったが、病人などは薬と称して食べ

     た。②からだにとって栄養になるものを食べること(『日本国語大辞

     典』)。