周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

野村文書1

解題

 野村氏は承久三年(一二二一)阿曾沼親綱が甲斐国より安芸国世能庄に移った際に、その三男信綱・四男貞綱が従って来たのにはじまるという。

 

 

    一 毛利輝元書状(切紙)

 

  (捻封ウハ書)   (元勝)

   「     國司右京亮殿

           (就秀)

         粟屋宗兵衛殿       輝元

        [    ]殿         」

 

 爰元陣替之儀、来廿六日儀定候之間、路中宿所々之儀堅可申付候、対郡司

 能々可申遣候、自然於緩者一廉可申付候、此由従各可申聞候、謹言、

     (永禄十二年)(1569)

       卯月十九日          輝元(花押)

 

 「書き下し文」

 爰元陣替の儀、来たる二十六日の儀に定まり候ふの間、路中の宿所々の儀堅く申し付

 くべく候ふ、郡司に対し能く能く申し遣はすべく候ふ、自然緩びに於いては一廉申し

 付くべく候ふ、此の由各々より申し聞かすべく候ふ、謹言、

 

 「解釈」

 こちらの陣替の件について、来たる四月二十六日に決まりましたので、道中所々の宿所に厳密に申し付けなければなりません。郡司に対しても念を入れて申し伝えなければなりません。もし務めを怠ることがあるなら、いっそう厳密に申し付けなければなりません。この内容をあなたたちから申し聞かせるべきです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「郡司」─「郡奉行」のことか。室町時代、守護領国内で郡単位に置かれた奉行(郡

     代)。守護役の徴収実務に従った。守護役の中から礼物(銭)や役夫銭を所

     得とした(『古文書古記録語辞典』)。

三戸文書(完)

解題

 三戸源十郎は有次の二男で、元就の代に新規に召し出され、別家を建てたという。永禄五年(一五六二)元就から就の一字を賜り、就安を称することになる。元亀二年(一五七一)西市助、同三年輝元から一郎右衛門に任じられている。

 

 

    一 毛利輝元書状(切紙)

 

 急度令申候、尼子諸窂人一揆相催之由候、其表之儀、無御油御心遣可

 本望候、猶委細此者可申候、恐々謹言、

     (永禄十二年ヵ)(1569)

       六月十三日         輝元(花押)

       山中治部少輔殿

         (就安)

       三戸源十郎殿 御旅所

 

 「書き下し文」

 急度申さしめ候ふ、尼子諸窂人一揆相催すの由に候ふ、其の表の儀、御油断無き御心遣ひ本望たるべく候ふ、猶ほ委細此の者申すべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 取り急ぎ申し上げます。尼子の牢人どもが一揆を起こしたということです。その事柄について、ご油断のないお心遣いに満足しております。なお詳細についてはこの者が申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。

 

尾崎八幡宮文書5(完)

    五 矢野八幡宮御供注文

 

 一 御くう上せんの事

  もちかす 大宮十六

    十一せん

   小せん

  もちかす 十

    十一せん  合廿二前

 一しゝこまいぬのもち二ツつゝ

  門まろうと二ツつゝまり

 一ゑひすのもち一ツ

  まいさん米一升三合

   (1554)

   天文廿三年八月

 

 「書き下し文」

 一つ、 御供上膳の事、

  餅数 大宮十六

    十一膳

   小膳

  餅数 十

    十一膳  合はせて二十二膳

 一つ、獅子狛犬の餅二つづつ

  門客二つづつ椀

 一つ、夷の餅一つ

  舞散米一升三合

   (1554)

   天文廿三年八月

 

 「注釈」

 屋能八幡宮(尾崎八幡宮)にお供えする御膳の数を記した注文だと思われます。大宮(本殿か)にお供えする餅の数は十六個で、御膳は十一、摂社・末社にお供えする餅は十個で、小膳(大宮よりもランクの下がった御膳か)は十一だったと考えられます。その他に、獅子・狛犬には餅を二つずつ、随神門の客神には器に入れた餅を二つずつ、夷神には餅一つ、舞人には散米を一升三合与えたということではないでしょうか。よくわかりません。

尾崎八幡宮文書4

    四 元勝名字状(折紙)

 

        實名

         勝重

      永禄拾(1567)

        十一月十八日        元勝(花押)

     矢野祝部

       香川神六殿

        ○以上、四通ヲ一巻ニ収ム

 

*書き下し文、解釈、注釈は省略しました。

尾崎八幡宮文書3

    三 神田勝乗寄進状

 

          (営)

 屋能八幡宮江爲御造榮、屋能郷内壹貫貳百目、岡入宮之脇在之、

 右御神田、當年天文拾年之従上毛引進上候、彼田年々之土貢を以可

 御造立之由候、

     (1541)           神田三河

     天文十年十月三日          勝乗(花押)

         物申源左衛門殿

 

 「書き下し文」

 屋能八幡宮江御造営のため、屋能郷内一貫二百目、岡入宮の脇に之在り、

 右の御神田、当年天文十年の上毛より引き進らせ上げ候ふ、彼の田年々の土貢を以て御造立有るべきの由に候ふ、

 

 「解釈」

 屋能八幡宮の造営のため、屋能郷内一貫二百目の田地を寄進する。岡入宮の脇にある。

 右の御神田は、当年天文十年の収穫物から引いて進上します。この田の毎年の年貢を使って、御造立なさるべきです。

 

 「注釈」

「岡入宮」─未詳。

「上毛」─未詳。作毛のことか。