周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

中世のファフロツキーズ ─空から鮒が降ってきた─ ("Rain of animals" in Medieval Japan)

「空より鮒の降る図」

 


  応永二十七年(1420)六月二十九日条

          (『看聞日記』2─59頁)

 

 廿九日、晴、晡夕立降、

  (中略)

  抑室町殿仕女局鮒自天降下云々、不思儀事也、陰陽師火事之由占申云々、此局

  洞院娘西御方也、其後此女房室町殿背御意、被成尼云々、所詮此女房恠異也、

 

 「書き下し文」

 二十九日、晴る、晡に夕立降る、

  (中略)

  抑も室町殿の仕女の局に鮒天より降り下ると云々、不思儀の事なり、陰陽師火事の

  由占ひ申すと云々、此の局洞院の娘西の御方なり、其の後此の女房室町殿の御意に

  背き、尼に成らると云々、所詮此の女房の怪異なり、

 

 「解釈」

 さて、室町殿足利義持の女房の部屋に鮒が空から降ってきたという。不思議なことである。陰陽師が火事の前兆だと占い申し上げたそうだ。この部屋は洞院氏の娘で西の御方の部屋である。その後この女房は室町殿足利義持のご意向に背き、尼にお成りになったという。要するに、この女房の怪異である。

 

 Well, I heard that the crucian carps came down from the sky in the room of the female officer of General Ashikaga Yoshimochi. It is strange. The Yin-yang master told us that it was a sign of fire. This room is the room of Nishi no Onkata (the name of the woman officer). After that, she turned against the general's intention, and I heard that she became a nun. In short, it was the mysterious incident she caused.

 (I used Google Translate.) 

 

 

 「注釈」

「仕女」

 ─この場合、室町幕府の女房を指します(羽田聡「室町幕府女房の基礎的考察─足利義晴期を中心として─」『学叢』26、京都国立博物館、2004・5、https://dl.ndl.go.jp/pid/10962704/1/1)。

 

ファフロツキーズ(英語: Fafrotskies)もしくは怪雨(かいう)は、一定範囲に多数の物体が落下する現象のうち、雨・雪・黄砂・隕石のようなよく知られた原因によるものを除く「その場にあるはずのないもの」が空から降ってくる現象を指す。ファフロツキーズ現象、ファフロッキー現象ともいう(ウィキペディアより引用)。

 こんな事件が室町時代にも起きていたようです。まさか、古記録にこのような記事が残されているとは思ってもいませんでした。これが日本の最古の事例だったらもっと興奮したのですが、残念ながら、仁和元年(885)六月二十一日の事例(『日本三代実録』巻四十八、十一月二十一日条)が最も古いそうです。

 『日本三代実録』の記事によると、出羽国秋田城中と飽海郡神宮寺(遊佐町吹浦にあったと想定される大物忌神社の神宮寺『中世諸国一宮制の基礎的研究』)の西浜に石鏃が降ったそうです。陰陽師はこの怪異を凶秋(凶作)・陰謀・兵乱の予兆だと占い、神祇官は神々への不敬による祟りだと進言しています。

 今回の場合は火事の予兆で、しかも将軍の意に背いて出家した女房の行為が原因とされています。少しずつ違いはありますが、いずれにせよ、古代・中世では、ファフロツキーズは怪異と認識されていたようです。中世でこうした現象が他にあったのかどうかわかりませんが、事例の1つとして紹介しておきました。ちなみに、古代の朝鮮でもファフロツキーズ現象は起きていたそうです(小林健彦三国史記に見る災害情報の言語文化―倭国に於ける災害対処の文化論との対比に於いて―」『新潟産業大学経済学部紀要』50、2018・2、http://nirr.lib.niigata-u.ac.jp/handle/10623/75349)。

尾崎八幡宮文書2

    二 野間興勝補任状

 

 (安藝郡安南郡                        (得)

 屋能郷祝師役之事、親國重大夫任幣次助六ニ申付所也、社領存知徳分儀者有

 別紙ニ、仍爲後證状如件、

     (1530)

     享禄三年〈庚寅〉卯月一日        興勝(花押)

                   (異筆)

                   「香川

                祝師所へ  助六

 

*割書は〈 〉で記載しました。

 

 「書き下し文」

 屋能郷祝師役の事、親国重大夫幣次に任せ助六に申し付くる所なり、社領存知する得分の儀は別紙に有り、仍て後のため証状件のごとし、

 

 「解釈」

 屋能郷の祝師役のこと。親の国重大夫が神職の序列にしたがって、香川助六に申し付けるところである。社領において承知している得分の件については、別紙に書いてあります。よって、後日のため、証拠となる補任状は、以上のとおりである。

 

 「注釈」

「屋能郷」─現安芸区矢野町。海田市(現安芸郡海田町)を隔てて船越村の南に位置

      し、南端の絵下山(五九三メートル)から発した矢野川・宮下川が中央を

      ほぼ並行して北流。矢野川沿いに村を縦貫する黒瀬街道は、海田市から矢

      野峠を越え、熊野盆地を経て賀茂郡津江村(現黒瀬町)・郷原村(現呉

      市)に至り、また矢野峠から焼山村(現呉市)を経て暮れに至るルートも

      あった。

      「和名抄」の安芸郡養濃郷に比定され、平安末期に成立した安摩庄に属

      し、仁治三年(一二四二)当時の安摩庄矢野浦惣公文は中原惟道であった

      (同年三月十二日付「安芸国安摩庄内衣田島荘官百姓等解」巻子本厳島

      書)。同じ頃当地に梶取清昌なる者がいたことが知られる(延応元年十月

      二十八日付「安摩庄厳島社日御供米送文」厳島野坂文書)、文安二年(一

      四四五)尾張の野間庄(現愛知県知多郡美浜町南知多町)から野間氏が

      当地に入部するが、地元ではそれまで矢野氏という武士がいたと伝え、の

      ち没落して江田島(現安芸郡江田島町)に逃れたという。ちなみに江田島

      には矢之浦の地名が残る。野間氏は広島湾東岸域を治下に収め、矢野は野

      間氏領の中心地として商工業者・運輸業者の集住する初期城下町的様相を

      見せるようになる。野間隆実は弘治元年(一五五五)の厳島合戦を前に、

      陶氏方に属したため毛利氏に滅ぼされた。以後毛利氏は粟屋就信に「於野

      間領矢野弐拾貫文之地」を宛行ったのをはじめ(弘治二年九月二日付毛利

      隆元宛行状「閥閲録」所収粟屋弥二郎家文書)、矢野の地を家臣に給地と

      して分与した(『広島県の地名』平凡社)。

「幣次」─未詳。神職の臈次のようなものか。「臈」は、「年功による順序をいう。臈

     次といえば、①僧が出家授戒後、安居の功を積んだ年数による位次。安居と

     は四月十六日から三ヶ月、集団生活をし修学に専念すること。②物事の順

     序、次第」(『古文書古記録語辞典』)。今回の場合、「神職の序列にした

     がって」ぐらいの意味かもしれません。

尾崎八幡宮文書1

解題

 当社の社掌の香川氏は、同氏の系図によると鎌倉権大夫家正にはじまる。子経高は源義平の命によって相州高座郡香川庄に移ったことから香川氏を称したという。

 その後、香川氏は尾張国内海庄の宇津海八幡宮に奉祀した。文安二年(一四四五)領主野間重能が安芸国矢野(広島市矢野町)発喜(ほぎ)城に移るが、野間興勝時代の文明二年(一四七〇)香川勝重も来住し、同八幡を矢野の尾崎へ移したものである。

 

 

    一 野間興勝補任状

                  (香川)

 當祝師役事、任与一左衛門時旨、彼助六申付也、固仰付等事者、可

 別紙候、此旨懇可申聞候、仍爲後日状如件、

     (1501)

     明応十年〈辛酉〉卯月廿五日      興勝(花押)

               祝師所へ

 

*割書は〈 〉で記載しました。

 

 「書き下し文」

 当祝師役の事、与一左衛門の時の旨に任せ、彼の助六に申し付くるなり、固く仰せ付くる等の事は、別紙に有るべく候ふ、此の旨懇ろに申し聞こえらるべく候ふ、仍て後日のため状件のごとし、

 

 「解釈」

 当祝師役のこと。与一左衛門のときの取り決めのとおりに、この香川助六に申し付けるのである。厳密に命じる内容は、別紙に記載してあるはずです。この内容は丁寧にお伝え申し上げられなければなりません。そこで、後日の証拠として、補任状は以上のとおりである。

 

 

 「注釈」

「祝師」─「はふりし」。「祝(はふり)」のこと。神社に属して神に仕える職。ま

     た、その人。しばしば神主・禰宜と混同され、三者の総称としても用いられ

     るが、区別する場合は、神主の指揮を受け、禰宜よりもより直接に神事の執

     行に当たる職をさすことが多い。その場合、神主よりは下位であるが、禰宜

     との上下関係は一定しない(『日本国語大辞典』)。その一方で、「ものも

     うし(物申)」と読んだ可能性もあります。意味は「祝詞などを奏するこ

     と」(『日本国語大辞典』)です。

「尾崎八幡宮」─現安芸区矢野町八幡。矢野谷入口の西を扼する標高一〇メートル余り

        の支丘上に鎮座。祭神は神功皇后応神天皇玉依姫・埴安姫。相殿

        に国之常立神ほか六柱を祀る。旧郷社。元は南南西に稜線を上った標

        高約五〇メートルの宮畝という所にあったが、不便なため慶長十九年

        (一六一四)火災に遭ったのを機に現在地に移したという(芸藩通

        志)。尾崎八幡宮ともいう。

        文安二年(一四四五)尾張から野間氏が矢野に入部してくるが、文明

        二年(一四七〇)三月十三日、野間興勝が尾張から勧請・造営したの

        が当社と伝える(棟札)。天文十年(一五四一)十月三日の神田勝乗

        寄進状(社蔵文書)に屋能(やの)八幡宮と記され、野間氏から岡入

        (場所不明)と宮脇(現社地の南)の田地が寄進されたことが知られ

        る。現社名は移転後の鎮座地の字名によるというが(芸藩通志)、現

        在字尾崎は矢野川河口北部をさす。神社の東南にある字神田は社領

        存在をうかがわせる(『広島県の地名』平凡社)。

木村文書4(完)

    四 狐爪木神社制札     ◯木札

 

     禁制    大宮司

 一甲乙人等亂入事

 一竹木伐取事

 一網張鳥類取事

     (1552)

     天文廿一年八月

 

 「書き下し文」

     禁制    大宮司

 一つ、甲乙人等乱入の事、

 一つ、竹木伐り取る事、

 一つ、網を張り鳥類を取る事、

 

 「解釈」

     禁止する。 大宮司

 一つ、庶民が神社に乱入すること。

 一つ、神社の竹木を伐採すること。

 一つ、網を張って鳥類を捕ること。

木村文書3

    三 狐爪木神社制札   ◯木札

 

     禁制

 一甲乙人等亂入事

   (竹木伐取之事ヵ)

 一[       ]

   (殺生之事ヵ)

 一[      ]

     (1542)

     天文十一年八月

 

 「書き下し文」

     禁制

 一つ、甲乙人等乱入の事、

 一つ、竹木伐り取るの事(ヵ)、

 一つ、殺生の事(ヵ)、

 

 「解釈」

     禁止する。

 一つ、庶民が神社に乱入すること。

 一つ、神社の竹木を伐採すること。

 一つ、神社で殺生すること。

 

 「注釈」

「甲乙人」─「甲の人乙の人」で特定の人以外の第三者を指し、転じて庶民をいう。

      「沙汰未練書」は「甲乙人等トハ凡下百姓等のことなり」と記す(『古文

      書古記録語辞典』)。