周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

神のお使い その2 ─北野天満宮とイタチ─ (Parivara of God Part2)

  永享五年(1433)二月九日条

       (『図書寮叢刊 看聞日記』4─145頁)

 

 九日、晴、室町殿八幡社参、自今夕北野七ヶ日可有参籠云々、明後日一万句連歌御法

    二条持基

  楽也、執柄以下廿頭也、諸方連歌経営無他事云々、

 (裏書)

 「聞、室町殿八幡社参御下向之時、馬場辺歩行、御前へ梢より箭一筋落、又猪鼻辺ニ

  箭一拾給、吉事之間御悦喜云々、若公出生之瑞歟、珍重也、又北野参籠之時、イタ

  チヲ被御覧、是天神仕者也、吉瑞共御祝着云々、」

 

 「書き下し文」

 九日、晴る、室町殿八幡に社参す、今夕より北野七ヶ日参籠有るべしと云々、明後日一万句連歌御法楽なり、執柄以下二十頭なり、諸方連歌の経営他事無しと云々、

 (裏書)「聞く、室町殿八幡社参御下向の時、馬場辺りを歩行す、御前へ梢より箭一筋落つ、又猪鼻辺りに箭一つ拾ひ給ふ、吉事の間御悦喜と云々、若公出生の瑞か、珍重なり、又北野参籠の時、いたちを御覧ぜらる、是れ天神に仕ふる者なり、吉瑞ともに御祝着と云々、」

 

 「解釈」

 九日、晴れ。室町殿足利義教石清水八幡宮に参拝した。今夕から七日間北野社に参籠するはずだという。明後日は一万句連歌のご奉納日である。摂政二条持基以下二十人が参加者である。あちこちで連歌会の準備に余念なく奔走しているそうだ。

 (裏書)「聞くところによると、室町殿足利義教石清水八幡宮にご下向になったとき、馬場あたりを歩いていると、義教の御前に梢から矢が一本落ちた。また猪鼻あたりで矢一本をお拾いになった。吉兆なのでお喜びになったそうだ。若君がご誕生になる奇瑞だろうか。また北野社にご参籠のとき、鼬をご覧になった。これは天神様に仕えている動物である。この吉兆はどちらも喜ばしいことだという。」

 

 General Ashikaga Yoshinori visited to worship Iwashimizu Hachimangu shrine. When he was walking around the horse farm, an arrow fell from the treetop in front of him. He also picked up an arrow around Inohana slope. He was pleased because it is a good sign. Is it a good omen for him to have a boy? Then when he visited to worship the Kitano-tenmangu shrine, he saw Weasel. This is an animal that serves Kitanotenjin (deity). Both of these auspicious signs are wonderful.

 (I used Google Translate.)

 

 

 「注釈」

「馬場」

 ─三ノ鳥居から本殿へと続く「馬場先」と呼ばれる参道のことか。

 

「猪鼻」

 ─猪鼻坂のことか。二の鳥居と神幸橋の間にある上り坂。現在は存在しないようです(谷村勉「安居頭諸事覚を読む」『会報』五五、八幡の歴史を探究する会http://yrekitan.exblog.jp/iv/detail/?s=23217675&i=201411%2F02%2F25%2Ff0300125_10595954.jpg)。

 

*天神様のお使いといえば、なんといっても牛ですが(北野天満宮HP、http://kitanotenmangu.or.jp/info/blog/第1話%E3%80%80天神様と牛.html)、この記事によると、イタチがお使いとして登場しています。おそらく、牛のほうが古くから天神様と縁が深かったのでしょうが、それにしても、いつからイタチは天神様の使いになったのでしょうか。

ウツワの小さな小便坊主 (Monniken Pis)

  永享四年(1432)五月二十四日条  (『図書寮叢刊 看聞日記』4─56頁)

 

 廿四日、晴、聞、去廿日北野社僧七八人児一両人相伴、下京辺勧進くせ舞見物、面々

  酔気之間、北山鹿苑寺未見之由申、帰路彼寺へ罷向、寺門ニ僧一人小便ス、児見之

      (抛ヵ)

  咲之間僧尤之、仍申合之間忽喧嘩及刃傷、北野法師二人死、僧一人死、自鹿苑寺

  野へ欲押寄、室町殿被聞食、北野へ寄事不可然之由被止之、両方之儀被尋聞食、北

                         〔議〕

  野法師僻事之由被仰、彼輩被召捕被籠舎云々、不思儀天魔之所為歟、

 

 「書き下し文」

 二十四日、晴る、聞く、去んぬる二十日北野社僧七、八人、児一両人を相伴し、下京辺りに勧進くせ舞を見物す、面々酔気の間、北山鹿苑寺を未だ見ざるの由申し、帰路彼の寺へ罷り向かふ、寺門に僧一人小便す、児之を見て咲ふの間僧之を抛つ、仍て申し合はすの間忽ち喧嘩刃傷に及び、北野法師二人死し、僧一人死す、鹿苑寺より北野へ押し寄せんと欲す、室町殿聞こし食され、北野へ寄する事然るべからざるの由之を止めらる、両方の儀尋ね聞こし食され、北野法師僻事の由仰せられ、彼の輩を召し捕られ籠舎せらると云々、不思議天魔の所為か、

 

 「解釈」

 二十四日、晴れ。聞くところによると、去る五月二十日、北野社の社僧七、八人が稚児二人ほどを連れて、下京あたりで勧進曲舞を見物した。各々酔っ払っているようで、北山の鹿苑寺をまだ見物したことがないと申し、帰りに鹿苑寺へ下向した。鹿苑寺の寺門で僧が一人小便をしていた。稚児はこれを見て笑ったので、小便をしていた僧はこの稚児を投げ飛ばした。そこで言い合いとなって、あっという間に喧嘩・刃傷沙汰へと展開し、北野法師が二人死亡し、鹿苑寺僧一人が死亡した。鹿苑寺から北野社へ攻め寄せようとした。(この件を)室町殿足利義教がお聞きになり、北野へ攻め寄せることは不適切なことである、とお止めになった。鹿苑寺と北野社の両方の主張を尋ねてお聞きになり、北野法師側が道理に反していると仰せになって、彼らを召し捕って拘禁なさったそうだ。けしからぬことで、天魔のしわざであろうか。

 

 May 24th, sunny. On May 20, seven or eight monks in Kitano Tenmangu shrine watched dance in the Shimokyo area with two boys,. They were drunk. They went there on the way back because they had not yet seen the Rokuonji temple(Kinkaku) in Kitayama. A monk was pissing in front of the gate of Rokuonji temple. The boy looked at him and laughed, and the monk threw this child away. Immediately the monks of Kitano Tenmangu fought with the monks of Rokuonji. Two monks of Kitano Tenmangu was dead, and a monk of Rokuonji was dead.After that, the Rokuonji monks tried to attack Kitano Tenmangu.General Ashikaga Yoshinori heard this incident and said that he should not attack Kitano Tenmangu. And he stopped the attack. The general heard both the claims of Rokuonji and Kitano Tenmangu, and ruled that the Kitano monks were illegal. The general captured and detained them. This is a terrible affair, and maybe a devil's work.

 (I used Google Translate.)

 

 

 「注釈」

勧進くせ舞」

 ─寺社の建造費を集めるのを目的とした臨時の舞踊興行(清水克行「室町人の面目」『喧嘩両成敗の誕生』講談社、2006、12〜115頁)。「曲舞・久世舞」は、①(正式ではない舞の意で、正舞に対する語)南北朝時代から室町初期にかけて流行した芸能。また、それを演ずる人。簡単な舞を伴い、鼓に合わせて歌う叙事的な歌謡。白拍子舞から派生したという。少年や美女が立烏帽子、水干、大口の男姿で演じるのが喜ばれ、また、直垂、大口姿の男や声聞師も演じた。観阿弥はこれを猿楽に取り入れてクセを成立させた。②幸若舞の別称。③能楽の喜多・金剛流で、蘭曲の別称(『日本国語大辞典』)。

 

*今回は「小便小僧」ならぬ、「小便坊主」のお話。ウィキペディアによると、小便小僧の由来の1つに、「爆弾の導火線に小便をかけて消し、町を救った少年がいた」という武勇伝があるそうですが、室町時代の「小便坊主」は、むしろ争いのきっかけをつくってしまったようです。この事件については、前掲清水著書で詳細に分析されています。

 それにしても、立小便を笑った、笑われたなどという、本当に些細な出来事で殺し合いになるなんて、なんと器の小さい話でしょうか。ちょうど、車で煽った、煽られたで、ブチギレて暴行・殺人事件にまで展開する現代人と同じぐらいの器の小ささです。まるでお猪口…。自分自身にも思い当たる節があるだけに、情けなくて笑えます。

 さて、こんな考え方をするようになったのは、東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』(講談社、2010)を読んだからです。おもしろい箇所なので、そのまま引用しておきます。

 

 

 ⑫ヨーロッパでは嬰児が生まれてから殺されるということは滅多に、というよりほとんど全くない。日本の女性は、育てていくことができないと思うと、みんな喉の上に足をのせて殺してしまう。

 ⑬ヨーロッパでは、生まれる児を堕胎することはあるにはあるが、滅多にない。日本ではきわめて普通のことで、二十回もおろした女性があるほどである。(以上、フロイス『日欧文化比較』)

 

 まだ近代と現代の連続性が意識されていた二十世紀までであれば、これらはなお「信じられない」という光景であったはずである。それはまさに〈アリエナイ〉中世の一齣である。一九七〇年代のコインロッカー・ベイビーの衝撃は、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』(一九八〇年)が、いまだ作品として成り立つ余地のあった時代であることを示していよう。しかし二〇一〇年の現在、親が自分の子供を虐待したり、車に放置して死なせたり、という話は、残念ながら、われわれの感覚を麻痺させるほどによく聞かれるニュースになりつつあるのである。それはもはや、〈アリエナイ〉異質的社会の出来事ではなくなってきている。

   (中略)

 しかし二十一世紀に入ってはっきり言えることは、現代もまた近代と異質である、そういう認識が広く共有されるようになった、ということである。むしろ現代は、〈異質な近代〉を越えて、中世に近いかもしれない、そう言えるところまで来ているのである。

 なお、十六世紀末のフロイスが見た光景には、前の嬰児虐待の話以外にも、近代と現代の価値観の落差に気づかされる事例が少なくない。特に女性観にかかわるものがそうである。

 

 ⑭ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことは極めて大事なことで、厳格におこなわれる。日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、ひとりで好きなところへ出かける。

 ⑮ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず、好きな所に行く自由をもっている(以上、フロイス『日欧文化比較』)。

 

 「主婦(housewife)」という言葉が産業革命とともに誕生したことに象徴されるように、近代こそ女性の自由がもっとも抑圧された時代であったとする、今日の常識から見るならば、フロイスのまなざしはまさに〈近代人〉のそれである。これら戦国時代の女性の行動をフロイスのように「アリエナイ」光景と見るか否か、それはあなた自身の拠って立つ価値観を映し出す試験紙となりうるだろう(29〜31頁)。

 

 この本を読むまで、中世と現代が似ているなどという見方をしたことはありませんでした。中世の自由な感じが似ているのはよしとして、殺伐とした感じまで似ているのは残念です。中世人のキレやすさと現代人のキレやすさ。どこが同じで、どこが違うのか。両者の特徴や背景などが明確になるとおもしろいのですが。

 そういえば、児童虐待って、年々件数が増加しているそうですが、まるでそんな事実はないかのように、メディアで扱われる頻度が少なくなってきたような気がします。たいして珍しくもない、価値のないニュースは取り上げても仕方ない、という資本主義下のメディアの鉄則が透けて見えます。(*2019.2.4追記:1月24日の事件のように、死者が出なければ、取り上げられないようです。結局のところ、同類のニュースを垂れ流されることに、消費者が飽きてしまうのが、一番の原因なのでしょうが…。)

 記録に残る(報道される)のは、その出来事が珍しいから、もしくは政治的・経済的・社会的に価値があるから…。記録に残らない(報道されない)のは、その出来事がなくなったからではなく、遍在化してしまったから、もしくは政治的・経済的・社会的な価値(金銭的な価値)がなくなったから…。資料分析とは難しいものです。

 

 

*2021.6.24追記

 この事件を記したもう1つの史料を紹介します。

 

    永享四年(1432)五月二十日条(『満済准后日記』下─389頁)

 

 廿日。晴。(中略)

  北野社僧三人。於北山鹿苑寺喧嘩事在之。一人ハ於当座死去了。一人ハ蒙疵

  遁去。今一人ハ鹿苑寺ニ召取置之云々。此喧嘩題目ハ。只今社僧三人。

  北野馬場松原ニ立栖遊処ヲ。鹿苑寺一人其前ヲ過時。彼社僧牛ヵ罷透由申懸間。

  此僧正帰及過言云々。仍此社僧三人追懸間。此僧ハ鹿苑院へ逃籠閇門了。而此

                               (刃傷ヵ)

  社僧等酔狂余。門ヲ打破トスル間。老僧為制禁罷出処、太刀ヲ抜欲傷刃間。又

  逃籠寺中。鐘ヲ鳴間。地下者共馳集。如此致其沙汰云々。為公方両奉行

  飯尾肥前守・松田八郎左衛門ヲ以テ御尋処。自寺如此答申云々。酔狂條ハ勿論

          (状ヵ)

  云々。搦置社僧白浄之儀同前云々。

 

 「書き下し文」

 二十日、晴る、(中略)

  北野社僧三人、北山鹿苑寺に於いて喧嘩の事之在り、一人は当座に於いて死去し了んぬ、一人は疵を蒙り遁げ去る、今一人は鹿苑寺に之を召し取り置くと云々、此の喧嘩の題目は、只今の社僧三人、北野馬場松原に栖を立て遊ぶ処を、鹿苑寺一人其の前を過ぐる時、彼の社僧牛が罷り透る由申し懸くるの間、此の僧正帰り過言に及ぶと云々、仍て此の社僧三人追い懸くるの間、此の僧は鹿苑院へ逃げ籠もり閇門し了んぬ、而れども此の社僧ら酔狂の余り、門を打ち破らんとする間、老僧制禁せんがため罷り出づる処、太刀を抜き刃傷せんと欲する間、又寺中に逃げ籠もり、鐘を鳴らす間、地下の者ども馳せ集ひ、此くのごとく其の沙汰を致すと云々、公方として両奉行飯尾肥前守・松田八郎左衛門を以て御尋ねの処、寺より此くのごとく答え申すと云々、酔狂の條は勿論と云々、社僧を搦め置き白状するの儀同前と云々、

 

 「解釈」

 二十日、晴れ。(中略)

  北野社の社僧三人が、北山の鹿苑寺で喧嘩をすることがあった。一人はその場で死んだ。一人は傷を負って逃げ去った。もう一人は鹿苑寺で召し捕り置いたという。この喧嘩の経緯は次のようなことだった。先程の社僧三人が、北野馬場の松原で宴の場所を確保し酒宴を開いていたところ、鹿苑寺の僧正一人がその前を通り過ぎたとき、北野の社僧らが「牛が通り行くぞ」と言いがかりをつけたので、鹿苑寺の僧正はその場に戻って度を越した悪口を言ったそうだ。すると、北野社僧三人が追い掛けてきたので、この僧正は鹿苑寺へ逃げ隠れ門を閉じた。しかし北野の社僧らは、ひどく酒に酔い心を乱していたため、門を打ち破ろうとしたので、老僧(僧正)がその行為を止めようと出て参ったところ、社僧らはたちを抜いて斬り付けようとしたので、もう一度寺中に逃げ隠れ、鐘を鳴らしたので、地下人ら(下級の僧侶や町人ら)が大急ぎで集まり、このように(一人殺害、一人負傷、一人捕縛)始末したという。足利義教は、将軍として飯尾為種と松田秀藤の二人の奉行を遣わしてお尋ねになったところ、鹿苑寺からこのように返答し申し上げたそうだ。酔ったうえでの乱暴であるという件は、いうまでもないことであるという。社僧を捕縛し、その社僧が白状した内容も、鹿苑寺からの返答と同じであるそうだ。

 

 「注釈」

「北野馬場松原」

 ─北野天満宮一ノ鳥居辺りにあった松原のことか(「右近馬場跡」『京都市の地名』平凡社)。

 

「立栖」

 ─読みと意味がわかりません。文脈からすると、「酒宴のための場所を確保した」のではないかと推測できるので、ここでは「栖を立て」と読み、「宴の場所を確保し」と訳しておきます。

 

「飯尾肥前守」─飯尾為種(『角川新版日本史辞典』)。

 

「松田八郎左衛門」─松田秀藤(『角川新版日本史辞典』)。

 

 

*同じ出来事を記したとは思えないほど、【史料1】と今回の史料に記された経緯は異なりますが、同日に起きた事件なので、同じ事件を指すのでしょう。【史料2】についても、前掲清水著書(12〜15頁)で詳細に検討されています。解釈についてはこの研究を参考にしましたが、一部、私自身の解釈を優先したところがあります。

石井文書(石井英三氏所蔵)19

    一九 安藝国賀茂郡寺家村石堂村篠村打渡坪付寫

 

 一藝州賀茂郡〈寺家村・石堂村・篠村〉

  御再檢打渡坪付

  田数〈四町五反三畝廿歩米・米三拾壹石壹斗六升〉

  畠数〈壹町三反九畝十歩・代貳貫七百三十八文目銭共ニ〉

  屋敷七ヶ所〈壹反七畝廿歩・代壹貫三百八十六文目共〉

  并三拾五石貳斗八升四合代方共

       八月慶長四十一日

                     内藤弥左衛門『在判』

                       (就貞)

                     藏田東市介『同』

                       元徳

                     三輪加賀守『同』

                       (元續)

                     兼重五郎兵衛『同』

        (勝家)

      石井孫兵衛尉殿

 

*割書は〈 〉、その改行は ・ で記しました。

*書き下し文・解釈は省略しました。

 

 「注釈」

「寺家村」─現東広島市西条町寺家。西条盆地北部、米満村の南に位置する。北東に竜

      王山(575・1メートル)、西に団子山(329・1メートル)があ

      り、米満村から南下した黒瀬川村内平地部を流れ、途中で東に向きを変え

      て御園宇村に至る。

      地名は建武三年(1336)三月八日の桃井義盛下文(熊谷家文書)に見

      え、「西条郷内寺家分地頭職」が熊谷直経に預け置かれた。室町・戦国時

      代は大内氏の治下にあり、応仁の乱鏡山城の攻防に功のあった毛利豊元

      が寺家などを与えられ(文明七年十一月二十四日付「毛利豊元譲状」毛利

      家文書)、永正六年(1509)には神保信胤が宍戸四郎次郎から買得し

      た「寺家村内国松名四貫文」を大内氏から安堵されている(千葉文書)。

      当村南西部にあって近世吉川村の飛郷となった国松が国松名の遺称であろ

      う。大永三年(1523)八月十日付安芸東西条所々知行注文(平賀家文

      書)には「寺家村 三百貫 諸給人知行」で、うち三十五貫が阿曾沼氏知

      行とある。阿曾沼氏のほかに鏡山城城番蔵田房信の知行分も三十貫あった

      が、同城落城後は尼子氏方に寝返った毛利氏に与えられ、毛利氏から粟屋

      元秀に宛行われた(「閥閲録」所収粟屋縫殿家文書)。また同年同じく元

      秀に与えられた「黒瀬右京亮給ともひろ名・もりとう名」(同文書)は当

      村内に小字友広・森藤として残る。大内氏滅亡後、毛利氏は出羽氏や児玉

      氏、石井氏らに寺家内の地を与えた(「閥閲録」所収出羽源八家文書・児

      玉弥兵衛家文書、石井文書)。

      団子山南麓に鎮座する新宮神社(旧村社)は大同二年(807)の勧請と

      伝え、伊邪那美命など十四神を祀る。毛利元就・隆元父子が永禄三年(1

      560)願文を捧げ二〇貫の地を寄進している(磯部文書)。六日市付近

      にあった賀茂社が消失したので合祀したと伝え、「芸藩通志」は「熊野新

      宮賀茂社」と記す。元就が賀茂社に奉納したという鏡が現存。村北部の郡

      八幡神社(旧村社)は伊邪那岐命など十六神を祀る。もと福原神社と称し

      たが、明治四二年(1909)村内の郡八幡神社・雨乞神社を合併し、翌

      年改称したという。もとの郡八幡神社賀茂郡総鎮守社だったのでこの称

      があると伝える(『広島県の地名』平凡社)。

「石堂村」─現東広島市八本松町正力。黒瀬川の河谷に位置し、北は篠村、南は米満

      村、西は飯田村に接する。天正十四年(1586)正月十一日付蔵田秀信

      下地売券写(石井文書)に「正力財満孫右衛門尉殿」とある。慶長四年

      (1599)八月十一日付安芸国賀茂郡寺家村石堂村篠村打渡坪付写(同

      文書)に石堂村の名がみえるが、当村西端に石堂の地名があり、飯田村北

      東部にも石堂谷・石堂山があるので、戦国末期に当村の西部から飯田村東

      部にかけて石堂村と称する村があったことが知られる。その頃当村は志芳

      庄内村から来住した石井氏や賀茂郡に蟠踞した財満氏の勢力下に入った。

      村の木部にある城福寺は石井氏の菩提寺で、天正十三年石井勝家の弟の僧

      住道が再興したと伝える(広島県川上村史)(「正力村」『広島県の地

      名』平凡社)。

石井文書(石井英三氏所蔵)18

    一八 安藝国高田郡中馬村打渡坪付寫

 

 一藝州高田郡中馬村打渡坪付之事

     田数貳町八反七畝廿歩

  以上

     畑三反七畝

      代五百廿六文め銭四十一文

     屋敷壹反三畝

      代九百八拾文

  并米三拾四石四斗四升三合

      六月十四日

                  小方

                    太郎左衛門『在判』

                  三輪 元徳

                    加 賀 守『同』

                  藏田 (就貞)

                    東 市 介『同』

                  兼重 (元續)

                    和 泉 守『同』

 

*書き下し文・解釈は省略しました。

 

 「注釈」

「中馬村」─現高田郡吉田町中馬。山手村の西に位置し、西は土師村(現八千代町)、

      北は多治比村に接する。「芸藩通志」に「広十八町、□一里、四方、多く

      は山なり、南は僅に開く、谷川村中を流て南に出る」とある。本往還から

      は離れていたが、早くから開かれた地で、村内明官地には奈良時代とみら

      れる山田寺式単弁蓮華文の軒丸瓦が採集される寺跡がある。この寺跡には

      観音堂があり、現在、寺名が地名として残る。

      建武元年(1334)二月二十二日付源頼高契約状(熊谷家文書)に「安

      芸国内部庄中馬村地頭惣領庶子等契約条々事」とあり、中馬の地はこの頃

      内部庄に含まれていた。中世後期には毛利氏の領知する所で、毛利時親

      曽孫元春は康暦三年(1381)正月十三日付で、吉田庄地頭職半分を嫡

      子広房に譲り(「毛利元阿譲状案」毛利家文書)、同庄竹原郷を広房・広

      内・忠広・広世の四子に分与したが、この忠広は中馬を領したらしく、在

      名によって中馬氏を称した。忠広はその子忠親と二代にわたって中馬にあ

      ったが孫泰親のとき本領のほか長屋を領し、槇ヶ城を築いて移り、中馬を

      改めて長屋を姓とした。中馬氏は文安三年(一四四六)六月三日毛利氏一

      家中役夫工米段銭配賦帳(毛利家文書)にも、康正二年(一四五六)十月

      二十九日付の内宮役夫工米段銭請取状案(同文書)などにも毛利の一家文

      として名を連ね、その割り当てを受けている。なお毛利元就のときには山

      手村の二ツ山城主中村豊後守の知行地とされた(『広島県の地名』平凡

      社)。

「め銭」─「もくせん」ともいう。(1)省陌法によって省かれる銭。省陌は百文未満

     の銭を束ねて百文として通用させる銭貨通用上の慣行であり、中国では六世

     紀には行われていた。日本では、荘園年貢の代銭納が本格化する十三世紀後

     半以降の算用状・支配状にこの用法が見られる。『東寺百合文書』の文永十

     一年(1274)安芸新勅旨田年貢米支配状では「已上一貫九百九十五文加

     目銭五十七文定」、また『高野山文書』年未詳六月二十六日野田公文代公事

     銭皆納状に「五百文めせん十五文おさめ申候」とあり、目銭(めせん)三文

     すなわち、九十七文をもって百文とする省陌が行われていたことがわかる。

     算用状では、目銭を加えた場合「加目銭定」、除いた場合「目引定」と記さ

     れる。なお、室町時代後期には、九十六文を百文とする省陌が一般化し、近

     世では九六銭(くろくせん)として広く慣行化した。(2)鎌倉・室町時代

     の関銭・津料。『東大寺文書』元弘二年(1332)三月日付の文書に「爰

     摂津国三箇津商船目銭者、去正和年中之比、東塔雷火之時、被進彼

     修理料所」とあり、鎌倉時代に、兵庫・神崎・渡辺の三箇津で通過・

     寄港の商船に対して賦課された通行税が、商船目銭と呼ばれたことがわか

     る。(3)酒屋役。『蜷川親孝日記』永正十三年(1516)九月十日条に

     「酒屋方柳桶壱荷充代、目銭等事、違先規之条、太無謂、然者役銭

     減少基、不然」とあり、室町幕府が酒屋の酒壺に賦課した雑税の

     一種が目銭と呼ばれていたことがわかる。なお、室町時代後期には年貢銭納

     に際し、悪銭による減損を防ぐため口目銭と呼ばれる付加税が徴収された

     が、口目銭は江戸時代には口永(くちえい)として制度化されたものと考え

     られる(『国史大辞典』)。

石井文書(石井英三氏所蔵)17

    一七 安藝国賀茂郡東西條篠村打渡坪付寫

 

『竪紙書付』

 一藝州賀茂郡東西條佐々村領地打渡之坪付

  田数壹町九反半

   分米拾貳石九斗

  畑数三反大

   代方五百五十文

  以上合田畑共分米拾三石四斗五升

    (1590)

    天正十八           兒玉

       二月十一日         弥左衛門

                         『在判』

                   内藤 (元榮)

                     与三右衛門

                         『同』

         (勝家)

       石井孫兵衛殿

『裏書』

 今度御究相澄畢、

   (1597)                (元武)

    慶貳八月九日          國司備後守『在判』

                      (元宗)

                    山田吉兵衛丞『同』

 

*書き下し文・解釈は省略しました。

 

 「注釈」

「篠村」─現東広島市八本松篠。黒瀬川上流に位置し、北に虚空蔵山(666・1メー

     トル)がそびえ、東・西も400─600メートル級の山に囲まれる。南は

     正力村に接し、東の造賀村、西の志和東村、西北の内村へはそれぞれ峠越の

     道が通じていた。志和東村との間には波滝寺池があり、黒瀬川の水源となっ

     ている。

     文和三年(1354)三月十八日付源頼忠寄進状(磯部文書)によると、

     佐々村地頭三戸(源)頼忠が佐々村大明神に一反半の地を寄進しておりこの

     佐々村大明神は現岩蔵神社で、「安芸国神名帳」所載の佐々村明神にあたる

     とされる。このとき頼忠が寄進した手作地(正作)江四郎名・西念名はとも

     に文政五年(1822)の篠村水帳に小字名として残る(広島県川上村

     史)。戦国末期になると内村から転出した石井氏が東村に給地を得、天正

     八年(1590)二月十一日付安芸国賀茂郡東西条篠村打渡坪付写(石井文

     書)には田一町九反半・畑三反大とあり、慶長二年(1597)の再検地で

     も改めて認められた(同文書)(『広島県の地名』平凡社)。