周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

妖怪たちの乱痴気騒ぎ (Yokai parade)

  嘉吉元年(一四四一)二月二十七日条

                   (『図書寮叢刊 看聞日記』6─257頁)

 

 廿七日、晴、時正中日也、持斎如例、(中略)抑此間一条もとり橋東爪夜々有

           (細川持常)

  拍物、三ヶ夜め、細河讃州聞之、人して令見、忽然而失、妖物所行也、仍

  公方注進、拍詞凶事申云々、巷説不審、注進之上実事歟、(後略)

 

 「書き下し文」

 二十七日、晴る、時正中日なり、持斎例のごとし、(中略)抑も此の間一条戻橋東詰に夜々拍物有り、三ヶ夜目に、細川讃州之を聞く、人を出して見しむ、忽ち然るに失す、妖物の所行なり、仍て公方へ注進し、拍子凶事を申すと云々、巷説不審、注進の上は実事か、(後略)

 

 「解釈」

 二十七日、晴れ。春分の日である。持斎はいつものとおりだ。(中略)さて、ここ数日一条戻橋の東端で、毎夜囃子物が行なわれた。三夜目に細川讃岐守持常がこれを聞き、人を遣わして偵察させた。しかしすぐに消え失せた。妖怪の仕業である。そこで将軍足利義教へ報告し、囃子物は凶兆であると申したという。世間の噂ははっきりしないものばかりである。だが、将軍へ報告したうえは、事実だろうか。(後略)

 

 It was fine on February 27th. It was a day of vernal equinox. (Omitted) Well, recently, at the eastern end of the Ichijo modoribashi bridge, a uproar happened every night. On the third night Hosokawa Mochitsune heard the rumor and sent his vassals to investigate. But something that had made a fuss disappeared quickly. Yokai must have done this. So Mochitsune told General Ashikaga Yoshinori that this uproar was a sign of misery. The rumors of the world are unbelievable. But this may be true because it is information reported to the generals.

 (I used Google Translate.) 

 

*怪談話で有名な一条戻橋で、妖怪たちが夜毎、歌い踊っていたようです。ちょうど、こんな感じでしょうか!? 

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 こんな画像より、ハロウィンで盛り上がる渋谷をイメージしたほうがわかりやすいかもしれませんね。

 いずれにせよ、百鬼夜行が古記録に記されると、上記のような記事になるのでしょう。

竹林寺文書(小野篁伝説) その6

    一 安芸国豊田郡入野郷篁山竹林寺縁起 その6

 

*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字常用漢字で記載し、割書は〈 〉で記載しました。本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。なお、書き下し文や解釈については、森下要治監修・解説『篁山竹林寺縁起』(広島大学デジタルミュージアム・デジタル郷土図書館、http://opac.lib.hiroshima-u.ac.jp/portal/dc/kyodo/chikurinji/top.html)を参照しながら作成しました。ここに、竹林寺や縁起絵巻の情報が詳細に紹介されています。

 

 

   ラニ リ        ツハウ     ハ  レ メ   ニ    ツヽマテ シ

 又傍 在八寒地獄、先皰地獄之有情、被寒苦身肉巻縮而如

 ハタエカサノ□ル   ニ    クルシミハ   ハ ヲ ルヽ ウミチ レルコト シ

 膚 瘡 皰、 次烈地獄之 苦、  寒猶勝故膿血流出  無限、

  ニ セツコ  ノ  ハ  レテ   ニ サケフ  シ  ノ    ニクハツヽヽヽハ

 次歌折沽地獄之衆生、被苦痛叫音如歌折、 次 攉 々 婆 

      ハ  テ メ   ニ サケフ シ    カ   ニ ココ    ノ ハ

 地獄之有情、被寒苦一 哽声若攉々叫、 次虎𨔛婆地獄之罪人、

  テ     ニ  ヒヽキ テ   ニ リ コ ノ ル ニ   ニ     ノ  ハ

 被寒苦叫哽響 当天地虎之吠音、次青蓮地獄之有情、

  テ    ニ    サケツラナルコト   シ     ノ   キウミ テ  タリ[  ]

 被寒苦身分 割 烈  而 如八葉蓮花、青膿流而似青蓮花

 □      クルシミハ     ナルコト シ           ル   ク

 次紅蓮地獄之苦、  身分割烈而 如百葉蓮華、赤血流出故名紅蓮

          シミハ    ナルコト シ   ノ  ムラサキノ チ レ ルヽ ニ

 次大紅蓮地獄之ノ苦、身分割烈   如千葉蓮華、紫  血流注故

  ク    ト   テ    ノ  ノ  ノ テイタラク ス テ  モ  ムネモ テ  レニ 

 名大紅蓮、惣而八寒八熱十六地獄為躰  不目、 心 銷而哀

  レニ ヘケリ

 哀 覚鳬、

     (絵17)

   レハ    ノ  ヲ   ヲノヽヽ エ   ノ   ヲ  リ  ナルカナヤ   ノ

 又見大地獄之四門者、各  構四種之増地獄鳬、 哀 哉大地獄衆生

 タマヽヽ テ  ヲ  ヒ ヒニ  ニ ゲ ル キ      ス  ノ        ヲ ルニ

 適  得其隙而思々四門逃出時、  重而堕彼近辺地獄其在様見、

  ツトウアイ ノクルシミハ ヲキアツハイ  ノ リモ  カク シテ キ ナヤマス 

 先煻煨地獄之苦、   煻 煨  罪人従齊高充満焼身悩、

  ニ シフン  ノ ミハ フンテイマンヽヽ トシ  ノ リモ  シ  ラウコタ ハ ク  テ

 次屍糞地獄之苦、 糞泥漫々而   罪人従口高、娘炬吒虫多聚而

 カンテ  ヲ ス     ヲ  ニ フニン    ミハ         シ シテ     キニ

 穿身肉骨髄、次鋒刃地獄之苦、草木山河大地無一不

  ヨリヽヽ ケハケン チ テ トウス ウヲ   ヲ ケハ  チキル  ニ       ノ ミハ

 時々 風吹剣葉落散而 徹身頭、道行者剣地切足、次烈河地獄之苦、

    レタル リ     レニ スル   ハ ル ハ ヒ シツミ  ル ハ ニ  ルヽコト

 熱湯流  在大河、彼 堕衆生或時浮沈、  或時順逆流  

  シ ノ カ     テ  ノ ヲ スキトリ   テ ノ ヲ  ツキ ツラヌク 在 レハ

 如魚遊、獄率以鉄網而漉之、以鉄鉾而挡串之様見

  セニ  モ リ

 失肝魂鳬、

     (絵18)

  ソ      ノ    ニ リ      ノ          ノ ヲ   モカナシク

 凡一百三十六所地獄之外在孤独無量地獄、不其数、見悲  

  モモノウク フ ニ    リ テ      ヲ チシハリ  リ ケ ヲ ヲヒタテヽヽヽヽ

 聞 慵  思処、獄率走寄而関白良相打縛  振挙楉遂立遂立、

  ス ス      ニ

 欲大地獄

     (絵19)

         ハ コサヲ チ リ テ  ノ チ リ  テ  ヲ ク   ハ  テ

 爰第三冥官宗帝王、御座 立去給而良相許立寄而引耳曰、汝者於娑婆

  モ             タ     ト フ エ ヒ リ

 雖大般若経書写願果、可言教給鳬、

     (絵20)

   つづく

 

 「書き下し文」

 又傍らに八寒地獄在り、先づ皰地獄の有情は、寒苦に迫められ身肉巻き縮みて膚瘡の皰のごとし、次に烈地獄の苦しみは、寒は猶ほ勝るる故膿血流れ出でること限り無し、次に歌折沽地獄の衆生は、苦痛に迫められて叫ぶ音歌折のごとし、次に攉々婆地獄の有情は寒苦に迫められて叫ぶ声攉々と叫ぶがごとし、次に虎𨔛婆地獄の罪人は寒苦に迫められて叫哽の響き天地に当て虎の吠ゆる音に似たり、次に青蓮地獄の有情は、寒苦に迫められて身分け割け烈なること八葉蓮花のごとし、青き膿流れて青き蓮華に似たり、次に紅蓮地獄の苦しみは、身分け割け烈なること百葉蓮華のごとし、赤き血流れ出づる故に紅蓮と名づく、次に大紅蓮地獄の苦しみは、身分け割け烈なること千葉蓮華のごとし、紫の血流れ注がるる故に大紅蓮と名づく、惣じて八寒八熱の十六の地獄の為体目も当てず、心も銷きて哀れに覚へけり、

     (絵17)

 又大地獄の四門を見れば、各々四種の増地獄を構へけり、哀れなるかな大地獄の衆生適々其の隙を得て思ひ思ひに四門に逃げ出づる時、重ねて彼の近辺の地獄に堕す、其の在り様を見るに、煻煨地獄の苦しみは、煻煨罪人の背よりも高く充満して身を焼き悩ます、次に屍糞地獄の苦しみは、糞泥漫々とし罪人の口よりも高し、娘炬吒虫は多く聚まりて身肉を穿つて骨髄吸はんとす、次に鋒刃地獄の苦しみは、草木山河大地一として剣きに有らざるは無し、時より時より風吹けば剣葉落ち散りて身頭を徹す、道を行けば剣地足を切る、次に烈河地獄の苦しみは、熱湯流れたる大河在り、彼に堕する衆生は或る時は浮かび沈み、或る時は順逆に流るること魚の遊ぶがごとし、獄卒鉄の網を以て之を漉り、鉄の鉾を以て之を挡き串く在り様を見れば肝魂も失せにけり、

     (絵18)

 凡そ一百三十六所の地獄の外に孤独無量の地獄在り、其の数を知らず、見るも悲しく聞くも慵く思ふ処に、獄卒走り寄りて関白良相を打ち縛り楉を振り挙げ逐ひ立て逐ひ立て、大地獄に堕とすとなさんと欲す、

     (絵19)

 爰に第三の冥官宗帝王は、御座を立ち去り給ひて良相の許に立ち寄りて耳を引きて曰く、汝は娑婆に於いて大般若経書写の願ひ在りと雖も未だ果たさずと、言ふべしと教へ給ひけり、

     (絵20)

   つづく

 

 「解釈」

 またそばに八寒地獄がある。まず皰地獄の衆生は、寒苦に責められて身体はちぢこまり、肌には天然痘が生じているかのようだった。次に烈地獄の苦しみは、寒さが(皰地獄よりも)さらにひどいため、血膿が流れ出ることこのうえない。次に歌折沽地獄の衆生は苦痛に責められて、叫ぶ声は下手な歌声のようである。次に攉々婆地獄の罪人は寒苦に責められて、叫び声の響きは天地に向けて虎が吠える声に似ていた。次に青蓮地獄の衆生は寒苦に責められ、彼らの体が割かれて連なる様子は八葉の蓮華のようであった。青い膿が流れて青い蓮華に似ていた。次に紅蓮地獄の苦しみは、衆生の体が割かれて連なっている様子は百枚もの葉が重なった蓮華のようである。赤い血が流れ出るがゆえに、紅蓮と名付けている。次に大紅蓮地獄の苦しみは、衆生の体が割かれて連なる様子は、千枚もの葉が重なった蓮華のようである。紫の血が流れ注がれるがゆえに大紅蓮と名付けている。そうじて八寒八熱の十六の地獄の様子には目も当てられず、意気消沈し気の毒に思われた。

     (絵17)

 また大地獄の四門を見ると、それぞれに四種類の増地獄があった。なんとも気の毒である大地獄の衆生は、たまたま獄卒らの隙を突いて、思い思いに四門に逃げ出したとき、再び近辺の地獄に堕ちる様子を見ると、まず煻煨地獄の苦しみは、埋み火の熱い灰が罪人の背丈よりも高く積もっていて、罪人の身を焼いて苦しめている。次に屍糞地獄の苦しみは、糞の泥沼が果てしなく広がり罪人の口よりも高い。娘炬吒虫が多く集まって身肉を食い破り、骨髄を吸おうとする。次に鋒刃地獄の苦しみは、草木山河大地に、一つとして鋭くないものはない。時折風が吹くと、剣の葉が落ち散って罪人の頭から体を貫く。道を行くと剣が並び立っている地面で足を切る。次に烈河地獄の苦しみは、熱湯の流れている大河があり、そこに堕ちた衆生は、あるときは浮かんだり沈んだりし、あるときは順逆に流れたりする様子は、魚が泳いでいるかのようだ。獄卒は鉄の網で罪人たちをすくい取り、鉄の鉾で彼らを突き貫く様子を見ると、正気を失ってしまった。

     (絵18)

 さて、136ヵ所の地獄の他に、孤独無量の地獄がある。その数は分からない。見るも悲しく聞くもつらいと思っていたところに、獄卒が走り寄って関白藤原良相をきつく縛り、楉を振り上げて追い立て追い立て、大地獄に堕とそうとした。

     (絵19)

 ここに第三の冥官宗帝王は、御座をお立ち去りになって、良相のもとに立ち寄り、彼の耳を引いて言うには、「お前は現世で大般若経の書写の願いをもっていたけれど、まだその願いを果たしていない」と言うのがよいと教えなさった。

     (絵20)

   つづく

 

 「注釈」

「皰瘡」

 ─疱瘡のことか。「いもがさ」天然痘の古名。また、そのあと。あばた。もがさ。いも。いもい。いもがお。「ほうそう」天然痘の別称。また、種痘やその痕をさしてもいう。疱痘(『日本国語大辞典』)。

 

「齊」─「背」の当て字か。

伊藤著書

  伊藤清郎『中世日本の国家と寺社』(高志書院、2000)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第Ⅱ部 国家と祭祀 第1章 石清水八幡宮

P227

石清水八幡宮の)組織は、⒜祠官、⒝神官、⒞三綱からなる。⒜祠官は検校・別当・権別当・修理別当・少別当から構成され、初め祠官の長たる性格を有していたのは別当で社寺務を執行していたが、検校が常置になると、別当に変わり検校が全権を掌握していくようになる。権別当別当の補佐をし、さらに別当・権別当を補佐し修理の事を掌るのが修理別当である。祠官の補佐は修理別当までは太政官符による官任であるが、少別当の場合は官任と官寺符で補佐される寺任の二通りがあり。12世紀に入ると祠官のうち検校・別当・権別当・修理別当に補任されるのは御豊系紀氏一族(のち田中・善法寺両家に分かれる)に限定されてきて、社寺務の統括権は紀氏一族に独占されていく。

 次に、⒝神官は神主・権神主・俗別当・権族別当禰宜から構成され、神事に預かる。神主は官任であり、この神主と俗別当を紀氏が独占している。が、権俗別当の方は他姓の者も多数補任されている。禰宜には山城方と称する大禰宜・楠葉方と称する小禰宜があり、いずれも源氏・紀氏をもって補任する。他に両氏以外のものをもって補す他禰宜、その中でも六位のものをもって補する禰宜を六位禰宜といい、合わせて四座禰宜という。この禰宜は神人身分のものであり、後述する石清水八幡宮寺言上状等の朝廷に対する上申文書に署判する神官らの中には、権神主・権俗別当と同様に含まれない層である。

 ⒞三綱は上座・権上座・寺主・権寺主・都維那・権都維那から構成され、官任と寺任のものがあり、紀氏以外の他性のものも補任されている。これらの組織の相互関係の詳細についてはよくわからないが、紀氏一族内部では通名[清]をもつ僧などが、はじめ三綱に補任され、次に祠官に昇進していき、そのうちから特定のものが祭祀に預かる神主や俗別当などの神官職に補任されていくことから、組織の相互関係をある程度想像できよう。

 

P230

 (石清水八幡宮の)機構は、⒜所司・諸職、⒝諸奉行からなる。⒜所司・諸職は、①別当・少別当・権寺主・公文などから構成される政所。②別当・少別当・三綱・宮侍層(右衛門尉源・右衛門尉中原・散位平・散位藤原など)・公文法師・権在庁・堂逹師・目代法師などから構成される公文所。③権寺主兼少別当・上座・権上座・堂逹法師などから構成される逹所。④権別当・大禰宜・宮寺などからなる供所。⑤馬所などがある。

 (中略)政所下文は下司職補任、請所の承認、所務相論の裁許などの場合に発給される。(中略)公文所下文は別宮・荘園経営の具体的内容に関して出される。公文所廻文は八幡宮内の仏神事経営に関する場合が多い。(中略)供所は、竃殿御釜などに御供を長身する役を担っている。(中略)

 この他、⒜には執行・御殿司・入寺・不出座・五座が存在するが、文書発給の例はほとんど見受けられない。ただ、これらの補任には室町期においても宮寺符をもって行われていたと思われる。

 

P232

 ⒝諸奉行には、①公家并弥勒寺正宮、②諸院宮并僧家、③諸家并越訴、④武家并諸荘園、⑤諸座神人并甲乙人、⑥山上并諸坊領、⑦検断、⑧巫女・山・市、⑨堺内・山城・楠葉検断、⑩南田井・図師、⑪酒、⑫安居取継、⑬力者・炭薪、⑭田楽、⑮小綱、⑯染殿・紺掻・あくわら・宿所、⑰革染、⑱菓子・湯、⑲銅細工・中間・人夫・童子・刀礪、⑳絵所・朱砂・仏師、21掃部所・檜物・御簾・贄殿・土器、22作所・鍛治・壁・檜皮・厩・中屋・桟敷、23柿渋・橘皮・木柴・塗師・蒔絵・筆生・念珠引、24油、25大番・御門兵士、26神人奉行などがいる。

 ここで注目されることは、①公家、②諸院宮・僧家、③諸家、④武家などの各権門毎に奉行が設定されていることで、各々八幡宮と他権門との間の折衝にあたっていたと思われる。次に、⑦検断奉行は三番制で、頭人評定衆・公文・執筆・合奉行・庭中奉行から構成されていて、「評定式日」や「評定衆式日」も定められ、検断の訴訟において訴陳三問三答が行なわれていることがわかる。ただし、⑨堺内・山城・楠葉検断奉行は独自に存在している。

 また八幡宮内の治安・警察の任に当たるのは、神人奉行の一つ執行勾当に統率されている巡検・下部・非人であり、彼らは「宮検非違使」とも呼ばれ、八幡宮領で紛争が起きると巡検使以下が八幡使として現地に下向するのである。次に、神人は⑤諸座神人奉行、26神人奉行に統率されるわけであるが、26神人奉行の構成とその下に統率される神人名を列記すると、兼官─草内御綱引・山崎・誉田・薪・御香法師・師子・堂逹・鏡蛍・本田原、検知─山城方禰宜・俗官・宮寺・淀供祭・山崎・菓子、公文─楠葉方禰宜・駒形番雑色・御供所・交野御綱引神人・平河燈油、執行勾当─巡検・下部・非人、拒捍使─御前払、山上執行─仕丁・承仕、革染奉行─神宝所などとなる。⑤・26の奉行に統率された八幡宮神人は、紛争が生じて強訴に及んだときなどには請文を提出しており、自らの意志を明確にしうる集団として存在しているのである。

 

P236

 鎌倉中期以降検校が常置になると別当に変わってその地位に立つのは検校と思われるが、検校と別当の権限分担は明確ではない。(中略)

 

P240

 検校・別当系譜

1安奈、2幡朗、3運真、4会俗、5延晟、6総祐、7定胤、8清鑒、9清昭、10観康、11貞芳、12光誉、13聖清、14暦雅、15朝鑒、16康平、17尋慶

P242

18貞清、19元命、20清成、21清秀、22戒信、23頼清、24清円

P244

25光清、26任清、27厳清、28勝清、29慶清、30成清、31道清、32祐清、33幸清、34宗清、35棟清、36宝清、37燿清、38宮清、39行清、40妙清、41・43守清、42・44尚清、45良清、46長清、47・54朝清、48・55堯清、49・52・56栄清、50承清、51・53・57龍清、58・62陶清、59称清、60用清、61・63嚢清

 

P256

 豊田武氏は神人を本社との隷属関係から、本社に直属し本社の境内やその周囲に住む本所神人と、地方に散在する神領にいる多数の散在神人(とくに京都にあるものを住京神人と呼ぶ)に分けておられる。(中略)

 さらに神人を分業・生産活動の面から見た場合、『年中用抄』上の「諸神人事」によると、⒜「楽人・舞人」などの芸能者、⒝「鍛冶・銅細工・大工」などの手工業者、⒞「室町座・伯楽座・鳥羽座」などの商人、それに⒟「御前払廿四人河内散在、御綱引七十二人此内草内十人、大住十人、淀庄十六人、大山崎廿四人、今福十二人・巡検勾当同衆二十一人」など八幡宮近隣の荘・郷などにいて所役に従う神人らから構成されていることがわかる。

 

P262

 これらの事実から、荏胡麻購入独占権を得た大山崎神人が隊列を組んで阿波・播磨等方面において荏胡麻を購入し、それを山崎の地に集荷し、そこで油製作具で製油して大山崎神人および散在神人・油商人にも配給する。そして関税を免除された彼らが丹波・播磨・阿波・美濃・尾張さらには遠く肥後まで赴いて独占的に販売営業活動を行なうことがわかる。その際、神人らは諸国に散在する神領や別宮を拠点として活動したのであろう。また最大の油消費地京都には京住の大山崎神人がいて営業を行なっていたと思われる。

 ところで独占権とはいえ大山崎神人が畿内一円で販売独占権を得ているわけではない。もともと寺社の燈明油が中世では油需要の中心であったのであるから、各寺社ごとに油神人が存在し活動しているのは当然である。例えば醍醐寺三宝院には元暦元年(1184)ごろ十一人の御油座神人がいるし、東大寺では正和年間符坂油座商人から油を購入しているし、室町期に入ると摂津国住吉神社神人が大山崎神人と相論を行なっているし、先に見たように畿内だけでなく地方にも大山崎油神人と競合する油神人・油商人が存在しているのである。だからこそ、嘉元2年(1304)には大山崎神人が自らの要求を掲げて社頭に閉籠し、検校妙清が彼らを搦め捕ろうとしたため内殿に乱入したり、自害したりするものが出たりする事件が起き、嘉暦2年には関所のことで大山崎神人らが神輿を入洛させる事件が起きているのである。つまりかかる強訴などを通じて自らの要求を八幡宮さらには公家政権に認めさせ大山崎神人の権限を拡大していったのである。

 さて大山崎神人が、荏胡麻購入権・油販売権・関津料免除権などの諸特権を獲得するためには、まず石清水八幡宮の油神人に認められることが必要であり、八幡宮の方は神人を「名帳」に登録して朝廷に届け出ることによって、彼らは公家政権や幕府から諸特権を保障されるのである。

 一方、神人は「日使頭役」などの神人役を負担する。これは油神人のほか、⒜芸能者、⒝手工業者、⒞商人など石清水八幡宮神人全体に言えることであろう。ただ、「新加神人」を無制限に認めていったのではなく、保元新制第三条にもあるように公家政権は、増大する神人を「本所神人」と「新加神人」に区別して後者神人の増大に歯止めをかけていったものと思われる。

 では最後に以上の考察をまとめてみる。石清水八幡宮は芸能者・手工業者・商人などの神人を神人奉行・諸座神人奉行の支配下に置き、彼らを「名帳」に記載して朝廷に届け出ることによって、公家政権および幕府から諸特権を保証される。また彼らから神人役を徴収し、そして神人に対する行政裁判権も有している。このことは、三浦圭一氏が各権門とも分業流通機構を一定掌握しつつ非農業民も編成していると指摘されていることと合致するものであり、社家権門石清水八幡宮も一定分業流通機構を担いつつ非農業民を編成していることを示すものであろう。

 

P267

 八幡宮領は宮寺(護国寺)領、宿院極楽寺領、別当家領(田中坊領・善法寺坊領)、渡領としての社務領、所司・供僧等領からなっている。(中略)田中坊領は観音堂領、筥崎宮領、宇美宮領、東宝塔院領、山上坊舎などからなり、一方、善法寺坊領は宇佐弥勒寺・喜多院・正八幡領、香椎宮領、別神領(私領)、八幡宮内・京・仁和寺等所々の坊舎などからなる。

 

第2章 中世国家と八幡宮放生会

 2 石清水放生会と神人強訴

P293

 八幡宮に関する相論の発端の一つには、商業活動や農業生産活動上で神人が障害を蒙ることが挙げられよう。事件発生とともに本宮で問題となり、公家政権に提訴する。建暦二年(1212)三月二十二日付新制には「諸社有訴之時、勒状付官、官以頭蔵人奏聞、尋理非成敗、随状跡裁断」とあり、実際神人の訴えがあると八幡宮別当等が訴えの旨を奏上する。公家政権では訴え・陳状をもとにしながら公卿議定が行われる。嘉禎元年(1235)の薪・大住両荘園をめぐる興福寺との相論の際には、摂政九条道家が御教書をもって評定の議に参集するよう中納言藤原頼資を促している。公卿が参集すると議定が始まり、その場に八幡宮所司(権別当宗清・棟清・宝清・耀清)が召され、宮寺奏状・神人訴訟状が披覧されている。またこの間に、嘉禄三年(1227)の興福寺との相論では、興福寺宮司との間で「牒」を交わして、事件の張本人巡検勾当盛親を搦め出すことをめぐって当事者間で交渉している。

 提訴後、状況によっては神人側は神輿動座の動きを示し、第一段階では神殿から宿院へ、さらに第二段階では八幡宮祠官らの制止を振り切って神輿を入洛させて強訴に及ぶ。神輿入洛の動きに対して公家政権は、勅使を派遣して入洛を抑えようと説得するが、逆に追い返されることがしばしばあり、さらに淀の大渡付近で入洛を阻止しようとする検非違使官人・在京武士と神人とが衝突することもある。それらを突破して入洛すると、神人は神輿を泥土のなかへ投げ捨てたり、あるいは当時八幡宮に仮置したりして裁判に圧力をかける。八幡宮側と公家政権側との間のパイプ役は「奉行人」などがあたり、八幡宮の祠官などを召し問い事情聴取を行ない、また事件解決のための交渉をすすめる。その際、前述の嘉禎元年の相論では、閏六月二十日公卿議定に基づき使者頭弁を氏長者土御門(源)定通に遣わして神人を誡慰するよう申し入れている。それを受けてどう二十三日には「氏公卿中、土御門大納言、左衛門督、為御使参八幡、為語仰神人也」という行動に出ているし、また同日三条坊門大納言邸に氏公卿が集まり、八幡宮祠官らと相談している。このように氏公卿が朝廷工作に活発に動いている。

 ところで、訴訟の上で八幡宮側の要求を公家政権に認めさせていく戦術的論理は、「八幡宮者宗廟異于他」なり、二十二社の中でも三社たる地位にある「国之宗廟」なので、「凡宗廟閉門戸者、公家可閉門戸、宗廟不行神事者、公家不可行公事」ということであった。したがって「宗廟」の大祭の時期にぶつかった場合は、大祭を遅引させないために宮寺側の要求を公家政権がのまざるを得ないというところまで発展していく。ここに神人強訴等が八月放生会期に焦点を合わせ展開する理由があるのである。ただし、これは(1)強訴が長引いている途中で放生会期にぶつかった場合(嘉禎元年の薪・大住両荘をめぐる興福寺との相論がその代表例)と、明確に八月の放生会期を狙って行なわれる強訴(建仁三年八月十五日に放生会を抑留しつつ神人が遡上を公卿に手渡そうとした例など)の二つの場合があるが、いずれも「国之宗廟」・国の大会という性格を巧みに利用して強訴を展開しており、強訴における戦術的論理を明らかにする上では両者を区別する必要がないので、本節では両者を合わせて論を進めていく。

 さて、訴訟の過程では「依如此之沙汰、有所役之懈怠者、不可謂小事之課役、尤可為大会之違乱」と主張し、さらに「裁報遅引」すれば大会たる放生会が延引することになり、「於今者大会之有無、非短慮之可及、延否之条、只可任叡慮」と言上して「叡慮」の断を迫り、しかも要求が認められないと石清水放生会=国家の大祭が延引し、「公家不可公事」という非常事態を招くという論理の線で訴訟が有利に裁断されるように交渉を続けていいく。だから嘉禎元年の相論で、御綱引神人長藤井為行がが神人の主張の成否を八幡神に問い、正当と認めた八幡神が宝殿の扉を自ら開いて神輿入洛を促すという状況をつくりだすのも、この戦術的論理を一層強力なものにするためであろう。

 また提訴も放生会の行われる時期に集中してくる。放生会の遅延か否かを刃にした強訴は多数みられるが、実際に放生会延引の理由を見てみると、大風・馬死・平賀朝雅死・京中穢など自然災害、宮中ならびに宮寺内死穢が一般的であるが、嘉元2年(1304)には大山崎神人閉籠が原因となり、以降徳治元年(1306)大山崎人狼藉、延慶三年(1310)舞人不参、嘉暦三年(1328)大山崎神人閉籠など、鎌倉後期に入ると構成員(とくに神人)の狼藉が延引の主な理由になっている。

 

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 放生会の概要を述べると、八月十三日は放生会勘下の日で、御殿司・禰宜・仕丁・御子・鏡磨神人・仏師・金物細工らが宝前に参集し、開倉して三所神輿を出して飾り付けなどを行なう。翌十四日は勅使つまり上卿・参議(宰相)・弁・外記・史・諸衛官人(左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府の各官人)・左右馬寮官人・史生・官掌・導師・咒願らが下向する。夜に入り高坊において勅使等に膳が設けられ、一方、宮寺側では山上僧都らによって宿院・頓宮で懺法勤仕が行なわれる。

 十五日には、上院の神殿から三所神輿が行列をなして下院絹屋殿に渡御する。一方下院では勅使、宮寺の供僧・神官らが宿院等から礼堂に出着し、さらに上卿らは神輿を迎えに礼堂から絹屋へ赴き、絹屋から神輿を舞台宝殿に先導して安置したのち、献供・献花・献舞そして相撲奉納が行なわれ、さらに入夜行事も行なわれたのち、三所神輿が還御して再び仮置される。儀式終了後、勅使らは早速帰洛の途につき翌朝帰宅する。この日には宣命も奉幣される。十六日には御殿司・禰宜・仕丁らが宝殿に参集して神輿・神宝を倉納する儀式が催されて放生会は終了する。

 以上が放生会儀式の概観であるが、さらに石清水放生会の運営は、「公家之沙汰」・「武家之沙汰」・「宮寺之沙汰」の三つの部分から構成されている。「公家之沙汰」を具体的に見てみると、放生会上卿が朝廷内諸公事について実施される「公卿配分」の「篇目」に加えられ、放生会供奉人も公家新制に員数が定められている。さらに上卿以外の勅使選考は蔵人によってなされ、放生会の用途も「蔵人方恒例公事用途」の一つとして諸国から徴納させていた。また相撲についても近衛府相撲役催促牒が各国衙に下され、徴進させているのである。

 次に「武家之沙汰」を見てみると、弘安2年(1279)十二月十五日、官宣旨をもって「石清水放生会以前禁断事」が五畿内諸国に下され、また同月十八日、ほとんど同内容の後宇多天皇宣旨が「京夷諸国」に下され、幕府はこれを施行して同三年七月二十三日、関東御教書をもって河内・摂津・信濃紀伊・日向五カ国地頭御家人に遵守させるよう五カ国守護陸奥彦三郎に下命している。またこれと同文の関東御教書が全国の守護に発せられたようである。したがって、「武家之沙汰」とは、宣旨・官宣旨を受けて、幕府が関東御教書をもって諸国守護に対して地頭・御家人に八月一日から十五日までの間、「石清水放生会以前殺生禁断事」を厳守させることである。

 次に「宮寺之沙汰」を具体的に見てみると、まず八月十五日・十六日両日の行事責任者たる「所司」が定められているし、用途も八月一ヶ月の「御供米庄」は和泉国蜂田庄、十四日の僧徒供料役は伊予国生名・石城両荘、十五日の放生会供米は山城国稲八間庄、伶人禄塩237石は備前国牛窓庄・伊予国生名・石城両荘、山城国片岡庄役となっている。その他に放生会直米や宿直役など放生会の諸雑役は宮寺公文所廻文をもって定められる。また放生会で使役される神馬の蒭を確保するため八幡使として「放生会御馬蒭使」が在地に下向する。さらに付言すると、上院から下院へ神輿が下る際の行列構成員の多くは本所神人と称される男山の周辺の荘・郷・薗を出身地とする石清水神人からなっている。

あかちゃんの頭… (Baby's head ...)

  永享十年(一四三八)二月十・十一日条

                   (『図書寮叢刊 看聞日記』6─123頁)

 

                                  (賀茂)

 十日、晴、(中略)抑台所縁下赤子頭犬食来歟、巳時見付、吉凶不審之間、在貞朝臣

                   

  尋之、凡赤子頭吉事之由申、其所云々、然而不審事也、在貞返事病事・

                             (竹田) (庭田重有室)

  口舌云々、但吉事也、有証拠之由面々申、雖然門外捨了、照善参、御乳人

  内裏祗候之間、穢中不可参之由令申、五体不具穢七ヶ日也、宝厳院被帰、

                       (大中臣清忠)

 十一日、晴、(中略)抑五体不具穢事猶不審之間、伊勢祭主尋之、五体不具七ヶ日

  穢之由申、

 

 「書き下し文」

 十日、晴る、(中略)抑も台所の縁の下に赤子の頭を犬食ひ来たるか、巳の時に見付く、吉凶不審の間、在貞朝臣に之を尋ぬ、凡そ赤子の頭は吉事の由申す、其所に捨てよと云々、然るに不審の事なり、在貞の返事病事・口舌と云々、但し吉事なり、証拠有るの由、面々に申す、然りと雖も門外に捨て了んぬ、照善参る、御乳人内裏に祗候するの間、穢中参るべからざるの由申さしむ、五体不具穢七ヶ日なり、宝厳院帰らる、

 十一日、晴る、(中略)抑も五体不具穢の事猶ほ不審の間、伊勢祭主に之を尋ぬ、五体不具七ヶ日の穢の由申す、

 

 「解釈」

 十日、晴れ。(中略)さて、台所の縁の下に犬が赤ん坊の頭をくわえてきたのだろう。巳の時に見つけた。吉凶がはっきりしないので、賀茂在貞朝臣に尋ねた。だいたい赤ん坊の頭は吉兆だと申す。そこに捨てよという。しかし、依然として不審に思い、もう一度尋ねた。在貞の返事は病気・争論と占ったそうだ。ただし、吉兆である。証拠があると我々に申した。そうではあるが、門外に捨てた。医師の竹田照善がやって来た。御乳人庭田重有妾賀々は内裏に祗候していたので、穢れているこちらに参上してはならないと申し上げさせた。五体不具穢は七日間忌み慎むのである。宝厳院恵芳がお帰りになった。

 十一日、晴れ。(中略)さて、五体不具穢のことは依然としてはっきりしないので、伊勢祭主大中臣清忠に尋ねた。五体不具穢は七日間の物忌みであると申した。

 

 It was fine on February 10th. Well, a dog has brought a baby's head to the kitchen. I found it around 11 am. I asked Kamono Akisada(the Yin-yang master) for fortune telling about this event. He said that the baby's head was a good omen. And he said, "Dump it there." But I asked him again because I couldn't believe it. Then he told me it was a precursor to illness and conflict. However, he told us that it was a good omen and he had the evidence. However, I could not believe it and dumped the baby's head out of the gate.

 (I used Google Translate.)

 

 「注釈」

「五体不具穢」

 ─不完全な死体に触れる穢を五体(躰)不具穢と呼び、その忌み慎む日数は七日間であった。この詳細な研究については、山本幸司「穢とされる事象」(『穢と大祓』増補版、解放出版社、2009年)を参照。

 

「照善」

 ─竹田照善。水谷惟紗久「古記録にみえる室町時代の患者と医療(1)―『看聞御記』嘉吉元年入江殿闘病記録から―」(『日本医史学雑誌』43─1、1997・3、35頁、http://jsmh.umin.jp/journal/43-1/index.html)参照。

 

「宝厳院」

 ─二条冬実の娘。松薗斉「『看聞日記』に見える尼と尼寺」(『人間文化』27号、2012・9、http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__27F/02__27_1.pdf)参照。

 

 

*もう、わけがわかりません…。自分の家の縁に、野良犬が赤ん坊の頭をくわえてやって来ること自体、現代の日本ではありえないことですし、あってほしくもありません。ただ、陰陽師がこの一件を占い、先例によって判断を下していることから、当時こうした出来事は珍しくも何ともなかったことがわかります。さらに、わけがわからないのは、この一件を、「吉事」?と判断しているところです。病気や言い争いの予兆としながらも、「吉事」と主張するのです。いったい、この事件のどこに縁起のよいところがあるのでしょうか。禍福は糾える縄の如し? 人間万事塞翁が馬? 占いなんてこんなもんでしょうか。ただ、死穢は発生しているので、その消滅を待つために、七日間の物忌みはしなければならなかったようです。

竹林寺文書(小野篁伝説) その5

    一 安芸国豊田郡入野郷篁山竹林寺縁起 その5

 

*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字常用漢字で記載し、割書は〈 〉で記載しました。本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。なお、森下要治監修・解説『篁山竹林寺縁起』(広島大学デジタルミュージアム・デジタル郷土図書館、http://opac.lib.hiroshima-u.ac.jp/portal/dc/kyodo/chikurinji/top.html)に、竹林寺や縁起絵巻の情報が詳細に紹介されています。書き下し文や解釈はこれを参照しながら作成してみましたが、わからないところが多いです。

 

   ニ  ヨシスケ モ リ           シ カ   ク     ス

 然處関白艮相 雖頓死玉、胸之間少温故、無左右葬送

  ル    テ     ニ    ハ       クナミ テ  ス      ヲ

 去間良相到琰魔王宮而見給、冥官冥衆多並居而裁断罪業之軽重

  ニ モロヽヽノ   ツラヽヽヲモンミルニ ハ リ   ニ ヒノ モ    ク  ニ イルヤノ

 爰  諸  有情 倩  以、  或有中友迷者、 或如空於射箭

  リ     ニ レ モ   ハ テ   ノ ニ   リ    ニ  モ     テ   ノ ニ

 有六道之岐別行、或至炎魔庁庭、有裁断、然則任炎魔張

  ム     アク   ル   ニ モノヲハ テ   ノ ヲ リ     ヒキ ムカヘテ ノ ニ

 定其業之善悪、不明之者  尋帝尺張之、或引向浄頗梨鏡

 アラハシ ノ ヲ   ハ テ ノ ニ  タヽシ ツミノ ヲ  ハ セテ  ノヲモテヲ  ム 

 現一期所作、或懸業秤而糺罪軽重、或見善悪札之面而令

 トカノ ヲ  コトハテ ツミ ヲ  タシ      ニ コト アラス モタトヘニ

 過実否、断二 其罪々々而随其地獄其地獄給、非恒沙譬

     (絵15)

  ミルニ    ヲ   ツ     ノ  ハ  レ セメ   ノ ニ   ニ シ  ニ ヨミカエル

 又看八大地獄、先等活地獄之有情、被炎熱之焔、一時死一時活ル、

  ニ ク   ト  ニ     ノ ハ  テ ネツ ツツナヲ  チ ル   ナキ ケ テ  チ

 故名等活、次黒縄地獄之苦、以熱鉄縄而打縛之時、泣叫而身即心

  ヱン ス  ニ     ノ ハ   ノ ノ タニヽ  ヲセメ テ ヨリ    ヲス   チウミ

 即焚滅、次衆合地獄之苦、熱鉄山之谷、 衆生迫集而従両方之、血膿

   レ ルコト シ ヲスニ ヲ  テイキヤウ     ハ  テ メ  ニ モトムルニ カクサン  ヲ

 流注  猶、次啼叫地獄之有情、被苦痛レ   レ 身所

 コヽニ リ  ムロ   テ テ   クス ヲ時テ    キ □ヲ ク ヲ サケフ エ シ

 爰 有鉄室、悦而入内陰、身起火焔焼室焼身、 叫 聲如雷、

   テイ   ノ ル ヲ リ ハ  モ  ニ サケフ キ ナル ニ ス  イニ       ハ

 次大啼叫地獄受苦在様、雖同叫一 硬 響大故非比類、次炎熱地獄、

  シテ  ヲ テ     ノ ニ  ヤクコト ニタリ ヲ イルニ  ニ コクネツ   クルシミハ

 令衆生熱鉄之板上而 焼  似二 魚煎、 次極熱地獄之苦、

  ミツマタノネツテツノ ヲ  ヲ シタヨリ ツキツラヌク クシノサキノ  リ  ノカメ キ

 以三支熱鉄串、 罪人於下  擋貫之、   串崎  各從両膊頂

 トヲリイテ ク   ケン シ リ  ニ  ノ  ノ ルシミハ リ     ホノヲノイバラ

 徹出、 焼身苦患無限、次無間地獄之苦、  従十方一 焔 荊

  テ テ ケレ ヲ  ル ハイスミト トキ テ  ノ ミニ  ヒ ス ヲ    ル   ト

 出来焼身者、成灰炭時、 入鉄箕而簸出之時、成人躰

 □    ニヲヒ ケ ヒ ス ノチ テ カナハシヲ ヌキ   ヲ  テ ノ ヲ   ルコト

 熱鉄山頂遂上 遂下後以レ  鉺   抜出舌、以百釘而張

  シ ルカ ノ ヲ     ノ ニ ケ フセテ テ カナハシ ヲ ヒキヒラキ ク  ヲ レ

 如牛皮、熱鉄地上仰臥而 以鉺口  掣 開 置鉄丸入

  リ     ト ル キ  ワケル ノ ヲ ケハ ニ トヲシテ  ニ     ナヤムコト

 従口内喉焼時以洋 銅湯一 口、徹二  臓腑而身心悩

  レハ  サク  ク

 無間隙、名無間

     (絵16)

   つづく

 

 「書き下し文」

 然る処に関白良相頓死給ふこと有りと雖も、胸の間少し温かき故に、左右無く葬送し奉らず、去る間良相閻魔王宮に到りて見給へば、冥官・冥衆多く並み居て罪業の軽重を裁断す、爰に諸々の有情つらつら以るに、或いは中有に迷ひの者も有り、或いは空に射る箭のごとく六道の岐に別れ行く者も有り、或いは閻魔の庁庭に至りて裁断に逢ふ者も有り、然れば則ち閻魔の庁(ヵ)に任せて其の業の善悪を定む、之に明らめざる者をば帝釈の庁(ヵ)を尋ねて之を知る、或いは浄頗梨の鏡に引き向かへて一期の所作を現し、或いは業の秤に懸けて罪の軽重を糺し、或いは善悪の札の面を見せて過の実否を知らしむ、其の罪其の罪を断りて其の地獄其の地獄に随はし給ふこと、恒沙も喩へに非ず、

     (絵15)

 又八大地獄を看るに、先づ等活地獄の有情は、炎熱の焔に迫められ、一時に死に一時に活る、故に等活と名づく、次に黒縄地獄の苦は、熱鉄綱を以て打ち縛るの時、泣き叫びて身心即ち焚滅す、次に衆合地獄の苦は、熱鉄の山の谷に、衆生を迫め集めて両方より之を押す、血膿流れ注がるること猶ほ油を壓すがごとし、次に啼叫地獄の有情は、苦痛に迫められて身を蔵さん所を覓むるに爰に鉄室有り、悦びて内に入りて身を陰くす、火焔を起こして室を焼き身を焼く、叫ぶ声雷のごとし、次に大啼叫地獄の苦を受くる在り様は、同じ叫びと雖も硬ぶ響き大なる故に比類に非ず、次に炎熱地獄は、衆生をして熱鉄の板の上に置きて焼くこと魚を煎るに似たり、次に極熱地獄の苦しみは、三支の熱鉄の串を以て罪人を下より之を擋き貫く、串の崎各々両の膊頂きより徹り出で、身を焼く苦患限り無し、次に無間の地獄の苦しみは、十方より焔の荊出で来て身を焼けば、灰炭と成る時、鉄の箕に入れて之を簸出す時、人躰と成る、熱鉄山頂に逐ひ上げ逐ひ下す後鉗を以て舌を抜き出し、百の釘を以て之を張ること牛の皮を張るがごとし、熱鉄地の上に仰け臥せて鉗を以て口を掣き開き鉄丸を入れ置く、口内より喉と焼くる時洋ける銅の湯を以て口に灌げば、臓腑に徹して身心悩むこと間隙無ければ、無間と名く、

     (絵16)

   つづく

 

 「解釈」

 そうしていたところ、関白藤原良相が急死なさることがあったが、胸のあたりが少し温かかったので、ためらうことなく葬送し申し上げなかった。そうしているうちに、良相は閻魔王宮にやってきてご覧になると、閻魔庁の役人や鬼たちが多く居並んで、罪業の軽重を裁決していた。ここでさまざまな衆生をよくよく見ていると、一方では中陰の迷いにいる者もおり、一方では空に向かって射た矢のように六道の分岐点から分かれていく者もおり、一方で閻魔庁の法廷にやってきて、判決を受ける者もいた。そこで、閻魔庁の判決に任せて、その人の生前の行為の善悪を決定した。そこでははっきりしない者は帝釈天庁を訪ねさせ、その善悪を知った。一方で浄頗梨の鏡に対面して一生の所業を映し出し、一方で所業の善悪を量る秤に掛けて罪の軽重を取り調べ、一方では善悪の札の表面を見せて罪の実否を知らせた。それぞれの罪を判定し、それぞれの地獄に行かせなさる人の数は、無限の数量にたとえられないほど多い。

     (絵15)

 また八大地獄を見ると、まず等活地獄衆生はひどく熱い炎に責められ、一旦は死に、しばらくすると蘇る。だから、等活(みな等しく蘇る)と名付けた。次に、黒縄地獄の苦しみは、熱せられた鉄の縄を用いて衆生をしっかりと縛るとき、泣き叫んで心身を焼き滅ぼす。次に衆合地獄の苦しみは、熱せられた鉄の山の谷に衆生を追い込み集めて、両方からその山を押す。血や膿が流れ注ぐ様子は、まるで(荏胡麻から)油を押し出すようだ。次に啼叫地獄の衆生は、苦痛に責められ、その身を隠そうとする場所を探すと、そこに鉄の部屋があった。喜んで部屋の中に入り、身を隠した。(そのとき)火炎が起きて部屋を焼き身体を焼いた。叫ぶ声は雷のようだ。次に大啼叫地獄の苦を受けるありさまは、啼叫地獄と同じだが、叫び声の響きがより大きいゆえに同類のものではない。次に炎熱地獄は、衆生を熱せられた鉄の板の上に置いて焼かせる様子は、魚を焼くのに似ている。次に極熱地獄の苦しみは、三つ叉の熱せられた鉄の串を罪人の下半身から突き貫く。串の先のそれぞれに両腕の上腕部を貫通させ、身を焼く苦悩はこのうえない。次に無間地獄の苦しみは、十方から炎の荊が出てきて罪人の身体を焼くと、灰や炭になるときに、鉄製の箕にそれを入れてごみを取り除くと、人体になる。熱せられた鉄の山頂に追い上げられたり、(そこから)追い下ろされたりしたのち、金鋏で罪人の舌を抜き出し、百本の釘でこれを張る様子は、牛の皮を張るようである。熱せられた鉄の地面の上に仰向けに横たえられて、金鋏で口を引っ張って開き鉄の玉を入れて置かれる。口の中から喉まで焼けるとき、沸騰した銅の湯を口に注ぐと、内臓に染み渡って心身を苦悩させることにいとまがないので、無間と名付けられた。

     (絵16)

   つづく

 

 

 「注釈」

「浄頗梨鏡」

 ─仏語。地獄の閻魔王庁にあって、死者の生前の善悪の所業を映し出すという鏡(『日本国語大辞典』)。

 

「啼叫地獄」

 ─叫喚地獄のことか。なお、地獄の説明については、石田瑞麿「『往生要集』の成立とその後」(『日本人と地獄』講談社学術文庫、2013年、74〜94頁)を参照。

 

「炎熱地獄・極熱地獄」─焦熱地獄大焦熱地獄