周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

楽音寺文書14

    一四 沼田庄領家下文

 

       (花押)

    (安芸豊田郡)

 下   沼田庄梨子羽郷

  可早以当郷安宗久弘名出田壱

   町五反〈坪付在」別紙〉引募楽音寺燈油

   田祈祷

 右相当正検、以彼出田、為祈祷、限永代」所免件料田也、

 然則為僧」戒乗沙汰、無退転勤、可精誠、」向後不

 相違、且正検之時、可済」有限勘料之状、所仰如件、以下、

     (四)

   弘安肆年正月十八日

 

 「書き下し文」

 下す 沼田庄梨子羽郷

  早く当郷安宗・久弘名の出田壱町五反を以て〈坪付別紙に在り〉楽音寺燈油田に引き募り祈祷致すべき事

 右正検に相当たり、彼の出田を以て、祈祷の為、永代を限り件の料田に奉免せしむる所なり、然れば則ち僧戒乗の沙汰として、退転無く勤めに備へしめ、精誠を抽づべし、向後相違有るべからず、且つ正検の時、限り有る勘料を弁済すべきの状、仰する所件のごとし、以て下す、

   (1281)

   弘安四年年正月十八日

 

 「解釈」

 沼田庄梨子羽郷に下達する。

  早く当梨子羽郷の安宗名・久弘名の勘出田一町五反〈坪付は別紙にある〉を楽音寺燈油田に指定し、祈祷を致すべきこと。

 右、正検注に当たって、祈祷のために、この勘出田を永久に楽音寺燈油料田に寄進させるところである。だから、院主戒乗の命令として、中断することなく勤行に備えさせ、いっそう誠意を尽くした祈祷をしなければならない。今後もこの下知を違えることがあってはならない。さらに、正検注のとき、重要な勘料を支払わなければならない、とご命令になった。以上のことを下達する。

 

 「注釈」

「引募」

 ─点定する、(非法にも)指定する、(新たに)指定するなどの意。「修理料田十二町を引募る」などと用いる(『古文書古記録語辞典』)。

 

「正検」

 ─大検注、実検注ともいう。領有地全域を対象として行なわれる検注。領主の代替わりに行なわれる。正検注の結果をまとめて、年貢賦課の基準となる定田を確定し年貢を算定して記載した帳簿を正検注目録(正検目録)、丸帳などという(『古文書古記録語辞典』)。

 

「出田」

 ─隠田が摘発されて新しく打ち出された田。勘出田と同意か。踏出(ふみだし)・出目(でめ)も同じ。「勘出田」は、検注の結果、新たに見出された田地のこと。勘益田。いずれも『古文書古記録語辞典』より。

 

「坪付」

 ─田地の所在地と面積を条里制の坪にしたがって帳簿上に記載するもの。その帳簿が坪付帳、領主に上申するものを坪付注文という(『古文書古記録語辞典』)。15号文書を指す。

 

「勘料」

 ─中世、荘園・公領において、調査(勘べ)の結果免税地とされること。この場合、勘料を支払うのが通例であったらしい(『古文書古記録語辞典』)。

神の油断とそのお詫び

【史料1】

  嘉吉三年(1443)十二月九日条  (『図書寮叢刊 看聞日記』7─93頁)

 

             〔執〕

 九日、晴、(中略)抑祇園修行夢想造内裏遅々、急速可有沙汰之由、祇園被示、

    執行召仕下女     〔託〕

  其後物付俄物狂、沙食して詫宣云、内裏炎上之日祇園守護御当番也、而

  炎上、併御不覚也、但玉体安穏無為御座、被護申故也、造内裏急速可有其

  沙汰也、材木なと我林之木をも可被召之由、種々詫宣云々、修行注進申之間、此由

  管領注進、今夕伝奏参披露申、神慮擁護之条掲焉、王法未尽■歓喜無極、管領

  奇特之思、造内裏急可申沙汰云々、委細事猶不聞、大概記之、(後略)

 

 「書き下し文」

 九日、晴る、(中略)抑も祇園執行の夢想に造内裏遅々たり、急速に沙汰有るべきの由、祇園示さる、其の後執行の召し仕ふる下女物付き俄に物狂、沙を食して詫宣して云く、内裏炎上の日は祇園の守護御当番なり、而るに炎上す、併しながら御不覚なり、但し玉体安穏無為に御座すは、護り申さるる故なり、造内裏急速に其の沙汰有るべきなり、材木など我が林の木をも召さるべきの由、種々詫宣すと云々、執行注進し申すの間、此の由管領注進す、今夕伝奏参り披露し申す、神慮擁護の条掲焉たり、王法未だ尽きざること歓喜極まり無し、管領奇得の思ひを成し、造内裏急ぎ申し沙汰すべしと云々、委細の事猶ほ聞かず、大概之を記す、(後略)

 

 「解釈」

 九日、晴れ。(中略)さて、祇園執行(実質的経営責任者)の夢で、「内裏再建が遅れている。急いで処置せよ」と祇園牛頭天王がお伝えになった。その後執行の召し使う下女が砂を食べて託宣を伝えて言うには、「内裏が炎上した日は、祇園牛頭天王である私が守護する当番であった。しかし、炎上した。結局、私の油断による失敗であった。ただし、帝のお体が安穏無事でいらっしゃったのは、私が守り申し上げたからである。内裏再建を急いで処置するべきである。材木などは我が祇園社領の林の木をお取り寄せになるのがよい」とさまざまにご託宣になったという。祇園執行が幕府に注進し申したので、この事情を管領畠山持国武家伝奏に注進した。今晩、伝奏中山定親がこちら(一条東洞院御所)に参上し披露し申した。定親は「帝を擁護するという神のご意志は、はっきりしている。王法がまだ尽きていないことは、このうえなく喜ばしいことである。管領畠山持国は珍しいことだと思い、内裏再建を急いで執行するつもりだ」と申し上げた。詳細は依然として聞いていない。大概のことは記した。

 

*後半になればなるほど、解釈に自信がありません。

 

 

【史料2】

  同年同月八日条             (『康富記』1─399・400頁)

 

 八日己丑、晴、自問注所雪魚鮭等送之、

   (中略)

 祇園託宣事、

 後聞、今日祇園社執行官女〈十五六歳」云々、〉有天王之神託及種々託宣、其中

 取要、造内裏事被打捨之様也、為天下惣別不可然、早可有事始也、自当社可被進

 冠木於禁裏、自管領同被進て、来十三日造内裏事始可被行之由、管領可有執奏之

 旨、令託宣云々、(後略)

 

 「書き下し文」

 八日己丑、晴る、問注所より雪魚・鮭等之を送る、

   (中略)

【頭書】祇園託宣の事、

 後に聞く、今日祇園社執行官の女〈十五、六歳と云々、〉に天王の神託及び種々託宣有り、其の中の要を取るに、造内裏の事打ち捨てらるるの様なり、天下惣別の為然るべからず、早く事始め有るべきなり、当社より冠木を禁裏に進らせらるべし、管領より同じく進らせられて、来たる十三日造内裏事始めを行なはるべきの由、管領執奏あるべきの旨、託宣せしむと云々、

 

 「解釈」

 後で聞いたことによると、今日祇園社の執行官の娘〈十五、六歳だという〉に、祇園牛頭天王のさまざまな神託があった。その中で重要な点を取り上げると、「内裏修造の件が放置されているようである。天下すべてのために不適切である。早く修造に取り掛からなければならないのである。当社から冠木を宮中に進上なさるつもりである。管領からも同じように進上なさって、来たる十二月十三日に内裏修造事始めの儀式を行なわなければならない、と管領畠山持国後花園天皇へ意見を具申せよ」とご託宣になったそうだ。

 

 「注釈」

*史料1『看聞日記』と史料2『康富記』では、牛頭天王が憑依した女性の情報や、情報量の多寡に違いがあります。情報量の多い前者のほうが、精度は高いのかもしれません。

 さて、今回の記事によると、中世の禁裏は神仏が当番制によって守護していたようです。まさに、王法仏法相依論です。いったいどのような神仏が、宮中を守っているのでしょうか。考えられるのは、王城鎮守二十二社の神々。伊勢・石清水・賀茂(上賀茂・下鴨)・松尾・平野・稲荷(伏見)・春日・大原野・大神・石上・大和・広瀬・龍田・住吉・日吉・梅宮・吉田・広田・祇園(八坂)・北野・丹生川上・貴布禰(貴船)の神々が、日直制で玉体を守護していたのかもしれません。それなのに、炎上してしまいました。この日の当番は、八坂神社の神様である祇園牛頭天王。神様も油断することがあるようです。

 ところで、今回の内容は、祇園牛頭天王がお「詫」びをしているかのような「託」宣でした。記主貞成親王牛頭天王の「託」宣を「詫」宣と記していますが、これは単なる誤字ではなく、意図的に「詫」という字を用いたのだとすると、なかなかおもしろい表記の仕方(造語)と言えます。

 

 なお、祇園社執行や社内組織については、大坪舞「南北朝期における祇園社社内組織」『立命館文学』637、2014・3、http://r-cube.ritsumei.ac.jp/repo/repository/rcube/5598/?lang=0&mode=1&opkey=R156214964742555&idx=3&codeno=)を参照。

応仁の乱

  呉座勇一『応仁の乱』(中公新書、2016年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

P7

 かくして興福寺の僧侶は、出自によって明確に区別されるようになった。摂関家出身者は「貴種」と呼ばれ、とんとん拍子に昇進していき、やがては門主(もんす・門跡の主)になる。摂関家より家格の劣る清華家(せいがけ)、名家(めいか)出身の僧侶は「良家」と呼ばれる。この階層の僧侶も別当になれるが、昇進のスピードは貴種層と雲泥の差である。一例を挙げれば、貴種の大乗院尋尊の別当就任は27歳だが、良家の東北院俊円は42歳でようやく別当に就任している。これは、貴種に対する各種優遇措置の存在に起因する(良家は権別当を経て別当になるが、騎手は権別当を経験する必要がない、など)。僧侶としての実績・能力などとは無関係に、ただ血筋・家柄によって地位が決まるのであり、良家が貴種を凌駕することは決してない。なお、良家の下には凡僧がいる。

 

P9

 この永仁の南都闘乱において、一乗院・大乗院の双方の実動部隊として活躍したのが、衆徒(しゅと)である。もともと衆徒は、大衆(寺僧集団)と同義であった。しかし、前述のような身分差が生まれてくると、興福寺内で衆徒=大衆としての一体性が失われていった。鎌倉中期になると、学問に専念する僧侶は、大衆の中でも特に「学侶」(がくりょ)と呼ばれるようになり、これに対し武装する下位の僧侶は「衆徒」として区別された。

 さらに鎌倉末期には、衆徒の中から中位の僧侶たちが「六方」(ろっぽう)として分出した。一方、下位の僧侶たちは「官符衆徒(かんぷのしゅと)」(官務衆徒)という武装集団を構成した。本書でいう「衆徒」は、基本的にこの官符衆徒を指す。彼らは興福寺の僧侶であったが、一方で興福寺了承園の荘官などを務めていた。興福寺内で仏事に関わることはほとんどないので(資金調達はする)、実態としては武士と変わらない。ただ頭を丸めているというだけのことである。

 彼ら衆徒は興福寺の軍事警察機構として、学侶・六方の指揮下にあった。しかし永仁の南都闘乱など、興福寺内で武力衝突が頻発するようになると、次第に発言権を強めていった。

 同様の存在として国民(こくみん)が挙げられる。国民とは春日社白衣神人(びゃくえじにん)のことで、他国の「国人(こくじん)」(地元武士)と階層的には共通する。春日社は藤原氏氏神を祀る神社であり、中世においては興福寺と一体の存在であった。このため国民は興福寺にも従属しており、興福寺・春日社の暴力装置として機能した。衆徒と性格が似通っているため、「衆徒・国民」と並び称されることが多かった(ただし国民は僧侶ではないので、衆徒と異なり剃髪はしていない。また衆徒よりも興福寺からの自立性が強い)。彼らは、一乗院、あるいは大乗院に属して「坊人(ぼうじん)」とも呼ばれた。

 彼ら大和の武士たちは、毎年九月十七日(現在は十二月十七日)に開催される春日若宮祭礼(おん祭り、第5章で詳述)において流鏑馬を共同で勤仕した。当初は平田党・長川党と他国の武士が参加、13世紀半ばから14世紀初めにかけて長谷川党、乾脇(いぬいわき)党、葛上(かつらぎかみ)党が参加、鎌倉末期〜南北朝期に散在党が参加した。余談ながら、永仁の南都闘乱は、永仁元年(1293)のおん祭りの最中、流鏑馬の行列に紛れ込んで奈良に入った大乗院方の武士たちが一乗院を襲撃し、これに一乗院方の武士が応戦したところから始まっている。

 散在党が参加する頃から、他国の武士の参加が見えなくなり、大和国の武士が独占的に流鏑馬を勤めるようになった。やがて国民層を中心に、長川・長谷川・平田・葛上・乾脇・散在の六党がローテーションを組んでおん祭り流鏑馬を奉仕する体制が確立したのである。

 先行研究は、興福寺おん祭りを通じて大和国内の武士たちを組織・編成した、と説く。その事実を否定はしないが、それ以上に、おん祭りでの流鏑馬勤仕は衆徒・国民たちの連隊強化につながったと考える。興福寺の大和一国支配の進展と見るよりも、衆徒・国民の団結と台頭を評価する方が妥当だろう。

 

P22

経覚は、応永二年(1395)十一月六日、関白左大臣九条経教の子として生まれた。応永十四年、経覚は出家し、大乗院門主だった兄の孝円(14頁)の弟子になった。(中略)

 応永十七年三月二十六日に孝円が33歳でなくなったために、経覚が大乗院門跡を継いだ。十一月十六日には就任式となる「院務始」を行なっている。

 

P24

 本章の1節で大乗院・一乗院は摂関家から門主を迎えると説明したが(7頁)、厳密に言えば摂関家の子弟であればあれでもよいわけではなく、藤氏長者を経験した人物の息子でなければならなかった。

 

P44

 ところが、(経覚の)後任の松洞院兼昭(しょうどういんけんしょう)は永享八年八月、足利義教の怒りを買って興福寺別当を解任され、同年十月には大安寺別当の地位も失った。兼昭は十一月三日に亡くなった。世間では餓死したとも自殺したとも言われた(「経覚私要鈔」「大乗院日記目録」)。いずれにせよ不遇の死であることに変わりない。

 

P72 文正の政変

 寛正五年(1464)12月、足利義政の弟浄土寺義尋が還俗し、足利義視と名乗った。男子のいない義政が自身の後継者になってほしいと弟に頼んだのである。しかし、寛正6年11月、義視の元服直後に、義政の実子(後の義尚。以下義尚で統一)が誕生したことで、事態は複雑化した。義政は義視→義尚とう順での将軍継承によって解決しようとしたとみられるが、当時の幕政は義政の鶴の一声で動かせるものではなかった。

 この時期、幕府には3つの政治勢力があった。第1は、伊勢貞親(67頁)を中心とする義政の側近集団である。義尚の乳父(養育係)である貞親は、義視の将軍就任には反対であった。義政が将軍を続け、成長した義尚が後を継ぐことこそ望ましい。

 なお、一般には我が子を次の将軍にと願う日野富子が義視の排除を図ったと思われているが、義視の妻は富子の妹であり、両者の関係は必ずしも悪くなかった、富子は義尚成長までの中継ぎとしてなら義視の将軍就任を支持する立場であり、この時点では伊勢貞親と意見を異にしていたのである。

 加えて、側近たちは斯波義敏の政界復帰を後押ししていた。家永遵嗣氏はその理由を足利義政伊勢貞親の関東政策の転換に求める。すなわち、関東の足利成氏討伐を強力に推進するためには奥州の武士たちに影響力を持つ義敏の協力が不可欠だったというのである。だが、末柄豊氏が近年指摘したように、それは副次的な目的であり、それは副次的な目的であり、管領人事が焦点だったと思われる。細川派でも山名派でもない管領候補は、斯波義敏しかいなかったのである。

 第2は、山名宗全をリーダーとする集団である。赤松政則を後押しする義政側近集団と敵対する宗全は、義視の将軍就任と義政の政界引退を望んでいた。また、管領には娘婿の斯波義廉を押し込もうと考えていた(管領に就任できるのは斯波・細川・畠山の三家に限られる)。将軍足利義視管領斯波義廉が実現すれば、それは山名宗全政権に他ならない。

 第3は、細川勝元をリーダーとする集団である。勝元は管領職を畠山政長に譲っていたが、勝元の支援で家督になれた政長は勝元の影響下にあった。勝元の政治的立場は、伊勢貞親山名宗全の中間に位置する。勝元は、足利義視を排除する必要を感じていなかったが、一方で足利義政を隠居させる意図もなかった。足利義政→義尚という伊勢路線でもなく、足利義政→義視という山名路線でもなく、足利義政→義視→義尚という既定路線の維持が勝元の真意であったと考えられる。代々、穏健中道を歩んできた細川氏ならではの政権構想といえよう。

   (中略)

 伊勢・山名・細川。この三者鼎立の構造がついに崩れる時が来た。文正元年(1466。寛正7年2月28日に改元)七月、伊勢貞親や禅僧の季瓊真蘂ら側近たちの申請に基づき、足利義政は斯波氏の家督を義廉から義敏に替えた。これに対して山名宗全一色義直土岐成頼と共に義廉支持の動きを見せる。また貞親は、細川勝元と対立していた大内政弘を斜面したため、勝元は隠居を願い出るなど不満の意をしました(「大乗院寺社雑事記」。

 尋尊は成身院光宣からの楽観的な情報を信じ、義敏への家督交替はそれほど大きな波乱を生まないと高を括っていた。だが、朝倉孝景と連絡をとっている経覚は、山名宗全らがこのまま黙っているはずがないと予測していた。八月、足利義政が宗全の娘と義廉との婚姻を解消するよう命じると(「蔭涼軒日録」)、宗全らは分国から軍勢を呼び寄せ、京都は緊迫した情勢となった(「大乗院日記目録」)。

 そんな中、畠山義就が動き出した。

   (中略)

 要するに、伊勢貞親は、反山名の斯波義敏赤松政則、反細川の畠山義就大内政弘を糾合することで、山名・細川に対抗しようとした。従来、将軍側近と諸大名が対決する構図で語られてきたため、貞親の策動は無謀にしか映らなかったが、十分勝算が見込めるものだった。

 けれども、貞親には誤算があった。畠山義就大内政弘が上洛する前に、山名と細川の共闘体制が成立してしまったのである。九月五日の夜、「義視に謀反の疑いあり」との貞親の讒言を信じ、義政は義視を誅殺しようとした。義視は山名宗全、ついで細川勝元に助けを求めた。よく六日、山名・細川らの諸大名の抗議により、伊勢貞親・季瓊真蘂・斯波義敏らは失脚した(「後法興院記」「大乗院寺社雑事記」「経覚私要鈔」)。これを文正の政変という。

 文正の政変により、細川勝元邸に入った義視が事実上の将軍として政務を行ない、山名宗全細川勝元の二大大名が「大名頭(たいめいのとう)」として義視を支える暫定政権を成立した(「大乗院寺社雑事記」)。ところが、11日、義政は義視に害意のないことを誓った。義視は勝元に護衛されて自邸に戻り、勝元ら諸大名は義政に忠誠を誓った(「後法興院記」「大乗院寺社雑事記」)。義政は側近たちにすべての罪をなすりつけることで政務に復帰した。諸大名は貞親本人のみならず、弟の貞藤、嫡子の貞宗ら伊勢一族の追放を決議した(「経覚私要鈔」)。

 状況から判断すると、諸大名を説き伏せて義政の復権を主導したのは勝元である。義視を将軍に据えようという宗全の思惑は外れた。管領として長期にわたって幕政を動かしていた勝元は、政治的駆け引きの面では、宗全より一枚も二枚も上手であった。貞親という共通の敵が消えた今、異なる政権構想を抱く勝元と宗全の激突は避けがたいものになっていた。

 

P111

 前著でも紹介したように、近年の研究は足軽の跳梁を大都市問題として捉えている。すなわち、慢性的な飢饉状況の中、周辺村落からの流入により新たに形成され、そして着実に膨張していく都市下層民こそが足軽最大の供給源であった。また、足利義教期以降、将軍の恣意的な裁定によって多くの大名家が浮沈を繰り返したことも見逃せない。大名家の没落に伴って失職した牢人など武士層の参加によって、下層民・飢民は土一揆として組織化され、強大な戦闘力を持つに至った。

 一方、多賀高忠や浦上則宗赤松政則重臣)に雇われ、土一揆を討伐する側に回る者もいた。そして応仁の乱の勃発により、彼らは足軽として組織化された。土一揆足軽。名称こそ異なるが、参加者も行動(略奪・放火)も共通しており、両者は地続きの存在なのだ。

 足軽に最も期待された役割は、敵の補給路の遮断、補給施設の破壊である。足軽たちは機動力を生かして略奪や放火によって敵軍を披露させた。しかし、略奪や放火は敵軍だけでなく、京都在住の公家・寺社・庶民にも大きな被害をもたらした。足軽の大動員は、京都の荒廃に拍車をかけたのである。

 

P120

 ところが日野勝光は経覚の辞退を無視して、朝廷に働きかけた。結果、朝廷は3月30日に経覚を興福寺別当に任命してしまった(第1章冒頭で説明したように、興福寺は官寺なので、形式的には朝廷が別当の任免権を有する)。四月四日、寺門雑掌(興福寺の京都駐在官)の柚留木重芸(ゆるぎじゅうげい)が経覚のいる仰福寺にやってきて事情を伝えた。

 

P123

 学侶は番条長懐への懲罰として「名字を籠める」という措置を行なっている。「名字を籠める」とは何か。植田信廣氏や酒井紀美氏の研究によれば、寺社に反抗したものの「名字」を紙片に書きつけ、それをどこかに封印し、呪詛する行為を意味するという。今のところ、興福寺薬師寺東大寺など大和国の寺院でしか確認されていない。ここでは興福寺の事例を扱う。

 僧侶の名が籠められることもあるので、ここでの「名字」は苗字のことではなく、呪詛対象者を特定する名前を指す(元服・出家などの折に上位者に命名してもらうことを「名字を賜る」と表現する)。名字を籠める場所まちまちであるが、手水釜に入れたり内陣に籠めたり社頭に打ちつけたりしている。名を籠めた後に南円堂に集まって大般若経を唱え、調伏の祈祷を行なう。籠名と調伏はセットであり、両方を実行することで地涌が完結する。

 名字を籠める主体は、学侶、六方、学侶・六方共同のいずれかであり、たとえば門主が私的に名字を籠めることはできない。学侶や六方は「神水集会」をした上で名字を籠める。集会を開いて全員の参道を得て、神水を酌み交わして神に誓約する形を取らなければ、すなわち一揆を結ばなければ決定できないのである。よって、名字を籠めるという行為は私的制裁ではなく、学侶・六方という興福寺内の意思決定機関において一定の手続きに則って実施された公的な刑罰である。

 

P131

 木阿は経覚の同朋衆である。同朋衆というと貴人のそばに侍って楽しませる芸能者のイメージが強いが、身辺の世話をしているうちに側近的な役割を担う者が多い。木阿も茶の湯に通じていただけでなく、取次や使者としても活躍している。

 

P152 奈良の住民

 興福寺の周辺には数十の小郷が形成され、興福寺はこれらを束ねる上位の行政単位として七つの郷を設置した。南大門郷・新薬師郷・東御門郷・北御門郷・穴口郷・西御門郷・不開門郷(あかずのごもん)の七郷である。戦国時代の文献によれば、「南都七郷」と呼ばれた。他にも大乗院郷・一乗院郷・元興寺郷などがあったらしい。郷には寺社に所属する僧侶のほか、寺社に奉仕する商工業者や芸能民が居住していた。彼ら都市民は「郷民」と呼ばれた。

 郷民は興福寺東大寺、春日社、あるいは大乗院・一乗院(興福寺の院家)、東南院東大寺の院家)など、南都の寺社のいずれかに所属していた。彼らは寺社から公人・神人・寄人といった身分を与えられ、その特権と引き換えに寺社に対して役を負担していた。たとえば、興福寺に燈油を納める代わりに、興福寺から油商人として商売する自由と権利を保障される、といった具合である。

 そうした身分に付随する役とは別に、南都七郷は興福寺から役を課されていた。いわば住民税である。有名なものに、七郷人夫役がある。興福寺別当が建築工事や法会の準備などのために七郷から人夫を動員するものである。

楽音寺文書13

    一三 日名内慶岳書状(折紙)

 

   呉々、夫丸同前之」在所も於御尋ニ者、可」有御座之条、為

   御心得」候、雲州御陣之時」被仰出旨も」候する哉、

 法持院御抱京市」夫丸長々被留置候」条、対貴所御理」雖仰候、

 彼出入御」無案内之由、御返事」候之条、前々辻可申」之由、従法持院

 承候」間申入候、先年も遠」国役之時ハ六十日」相過候ヘハ、月俸被」遣夫役

           (先ヵ)

 相勤候、以」其筋目去年雲」州於御陣も、六十日」以後之儀ハ被

 下用」候、何之御奉行衆も」可御存知候、御暇を」被遣候共、又ハ

                       (安)

 飯米」被遣候共、旁々之儀」御相談彼夫丸致」案堵候様、御心得頼存」之由

 候、猶御帰陣之時」可申承候、恐々謹言、

    日名内但馬入道

  正月十二日 慶岳

 

       河合四郎右衛門尉殿

               まいる

        ○以上、一三通ヲ一巻ニ収ム(第一巻)

 

 「書き下し文」

 法持院御抱えの京市夫丸を長々留め置かれ候ふ条、貴所に対し御理を仰せられ候ふと雖も、彼の出入りに御案内無きの由、御返事候ふの条、前々に辻申すべきの由、法持院より承り候ふ間、申し入れ候ふ、先年も遠国役の時は六十日を相過ぎ候へば、月俸を遣はされ夫役を相勤め候ふ、其の筋目を以て先年雲州御陣に於いても、六十日以後の儀は御下用を成され候ふ、何れの奉行衆も御存知たるべく候ふ、御暇を遣はされ候ふとも、又は飯米を遣はされ候ふとも、旁々の儀ご相談し彼の夫丸を安堵致し候ふ様、御心得頼み存ずるの由に候ふ、猶ほ御帰陣の時申し承るべく候ふ、恐々謹言、

   呉々も、夫丸同前の在所も御尋ねに於いては、御座有るべきの条、御心得を為し候ふ、雲州御陣の時仰せ出ださるる旨も候はんずるや、

 

 「解釈」

 法持院お抱えの京市人夫を、あなた様(河合)が長々と留め置きなさっております件について、法持院に対して道理を仰せになりました。だが、京市人夫を差し出す先例はない、と法持院からのご返事がありました件について、以前に辻が申し上げるはずであった、と法持院から伺いましたので、あなた様に申し入れました。先年も人夫を遠国に遣わしたときは、六十日を過ぎますと、月の手当てをお渡しになって夫役を勤めました。その手続きは先年の出雲攻めでも、六十日以後は俸給を下行なさいました。どの奉行衆もご存知であるはずです。お休みをお与えになったとしましても、あるいは飯米をお与えになったとしましても、いずれにせよ法持院とご相談になり、あの京市夫丸を法持院に安堵しますよう、あなた様(河合)がご承知くださることを、お頼み申し上げますとのことです。なお、御帰陣のときにお話を伺うつもりでおります。以上、謹んで申し上げます。

   くれぐれも、あなた様の麾下にいる夫丸に対して、京市の在所であるかをお尋ねになるべきだ、という件をご承知ください。出雲攻めのときにご命令になったこともありますのでしょうか。

 

*追而書の解釈がさっぱりわかりません。

 

 「注釈」

「京市」─未詳。沼田庄内の市場か。

「夫丸」─領主が農民に賦課する夫役で、実際に人身を使役するものをいう。丸は身分

     の卑しい下層の者につける称との説もある(『古文書古記録語辞典』)。

「辻」─未詳。人名か。

楽音寺文書12

    一二 寶□書状

 

 預御札候、畏入存候、」抑 若宮御経免田地段」別之事、致催促之由蒙

 仰候、此事ハ去年閣被」申候之間、其分候之処、如此」承候、不存知仕

 間、不」御沙汰候歟、 内裏反銭」事ハ可御沙汰候、追而」可

 申入候、兼又久不御目ニ」非本意候、いか様近日以参上」可

 其御礼候、委細御使」令申候、恐惶謹言、

  七月廿四日 寶□(花押)

 法持院

   御同宿御中

 

 「書き下し文」

 御札を預かり候ふ、畏れ入り存じ候ふ、抑も若宮御経免田地段別の事、催促致すの由仰せを蒙り候ふ、此の事は去年閣き申され候ふの間、其の分候ふの処、此くのごとく承り候ふ、存知仕らず候ふ間、御沙汰に及ぶべからず候ふか、 内裏反銭の事は御沙汰有るべく候ふ、追つて申し入るべく候ふ、兼ねて又久しく御目に掛からざること本意に非ず候ふ、如何様にも近日参上を以て其の御礼を致すべく候ふ、委細御使ひ申さしめ候ふ、恐惶謹言、

 

 「解釈」

 お手紙をいただきました。恐縮しております。さて、若宮御経免田の段銭のこと。段銭を催促せよとのご命令を受けました。この件は、昨年は捨て置き申されましたので(徴収しなかったので)、その分があります(残っております)からこそ、このように(このような命令を)お聞きしました。そちら様(法持院)は存じていませんので、ご催促しないのではないでしょうか。内裏段銭のことはご命令があるはずです。近いうちに申し入れるはずです。加えて、しばらく御目にかかっていないことは、本意ではありません。なんとかして近日中に参上してお礼を致すつもりです。詳細は使者に申し上げさせます。以上、謹んで申し上げます。