周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

極楽寺所蔵文書10

    一〇 法持院領棟別納帳

 (前闕ヵ)

 「

          (散)

 五十文      さん田    二郎三郎

 五十文      同      河之上

 五十文             行安

 五十文             角畠

 八十文            上徳満

 五十文             番匠屋敷

 五十文      六名     新三郎

 廿四文             篠原

 廿文              念仏屋敷

 五十文             提斗

 五十文             天満

     (1543)

     天文十二年〈癸卯〉六月廿一日  法持院

                      納所円光坊(花押)

        ○本文書、前号文書ノツヅキカ

 

*書き下し文・解釈は省略します。

極楽寺所蔵文書9

   九 法持院領棟別納帳

 

 (端裏書)

 「癸卯」

 〈癸卯〉棟別納帳之事

 百文             矢蔵

 百文       よこ    九郎ゑもん

 百文       同     五郎ゑもん

 百文             かうらす

 百文       六名    九郎兵へ

 百文       同     新ゑもん

 百文             寺田

 百文             亀田

 百文             もりさき

 百文             てん田物申

 百文             新兵へ

 百文             鍬迫

 百文             徳満

 五十文            承仕

 五十文            九郎分

 五十文            孫右衛門尉

 五十文            坊之奥

 (後闕)   ○本文書、次号文書ヘツヅクカ

 

*書き下し文・解釈は省略します。

極楽寺所蔵文書8

    八 楽音寺領四分一寺僧分注文

 

   寺領四分一      寺僧分

   (文)

 三百□  定智坊       五百文   介坊

 二百文  安楽坊       百五十文  善哉坊

 三百文  勝実坊       百文    日輪坊

 百文   月光坊       百八十文  円光坊

 二百文  宮仕        二百文   一宮宮仕

 二百文  祥宝料       三百文   智光坊

 

*書き下し文・解釈は省略します。

極楽寺所蔵文書7

    七 楽音寺領四分一寺僧分請取状

 

 (端裏書)(庚子歳ヵ)

 「天文九年□□五月廿四日四分一の帳納所勝実坊」

  (天文九)        (帳)

  〈庚子〉歳五月廿四日○請取張之事

            四分一

 貳百文            安楽坊

 百文             日輪坊

 二百文            月光坊

 百五十文           善哉坊

 二百文            宰相殿

 三百文            勝実坊

 三百文            定智坊

 貳百文            定全入道

               はんしやう

 二百文            藤右衛門

 二百文〈草井内蔵丞殿」御南藤二郎殿〉両人 しやうめんし

                      五郎ゑもん

 庚天文

  歳五月廿四日〈□貫文法持院分ニ納候」壹貫文安養院分ニ納候〉

 子九年しふん一                 納所勝実坊(花押)

 

*書き下し文・解釈は省略します。

極楽寺所蔵文書6

    六 宥與書状

 

 (端裏)

 「一宮田付テ院主宥与」

 就田坂村牛王導師免之儀、預御状候、彼免田之儀、従往古、依

              

 竹原分其紛、公役等事南方准據ニ仕候之処、可御進退候由承候、驚入候、

   

 雖○為南方之内、於御存知者、彼免田ニ不限候歟、能々

 御分別肝要候、

 (別筆)    (義)              依為

 「天文七年沼田竹原儀絶之時、沼田より手入候へ共、南方之内○歴然、押領なく候、後代ニ為

  御心得此候、」

 

 「書き下し文」

 (端裏)

 「一宮田に付けて院主宥与」

 田坂村牛王導師免の儀に就き、御状を預かり候ふ、彼の免田の儀、往古より、竹原分其の紛れ無きにより、公役等の事南方に准據せんが為に仕り候ふの処、御進退有るべく候ふ由承り候ひ、驚き入り候ふ、縦ひ南方の内たりと雖も、御存知有るべきに於いては、彼の免田に限るべからず候ふか、よくよく御分別肝要に候ふ、

 「天文七年沼田・竹原義絶の時、沼田より手入れ候へども、南方の内歴然たるにより、押領無く候ふ、後代に御心得の為此くのごとく候ふ、」

 

 「解釈」

 田坂村の牛王導師免田の件について、あなた様(沼田小早川正平か)の書状を受け取りました。この免田は、昔から竹原小早川家の所領であることは紛れもないので、公役等のことは南方の取り決めに准據しようとしておりましたが、あなた様がご領有になるにちがいないという話をお聞きし、驚きました。たとえこの免田が南方の内であったとしても、あなた様がご領有になるということについては、この免田だけではなく、他の土地も支配なさるつもりなのでしょう。よくよく道理をわきまえなさることが大切です。

 天文七年(一五三八)沼田小早川氏が竹原小早川氏(興景か)と絶縁したとき、沼田小早川氏がこの免田に手をつけてきましたが、南方(竹原小早川氏)の領内であることははっきりしていたので、沼田小早川氏の押領はありませんでした。後代の用心のため、このように記しておきます。

 

 「注釈」

「田坂村」─未詳。

 

「牛王導師免」

 ─修正会結願作法の費用を捻出する免田(『楽音寺文書』52号の記事参照)。

 

「義絶」

 ─沼田小早川氏と竹原小早川氏の絶縁を指す。『三原市史』(第1巻・通史編1、417頁)によると、天文八年(1539)に沼田小早川氏は大内方から尼子方へ転じたそうです。竹原小早川氏は大内方のままだったので、これを理由に絶縁したのでしょう。ただし、この文書では絶縁年を天文七年(1538)と記載しています。年号の書き間違えなのか、小早川氏内部での実質的な絶縁がすでに天文七年時点で起きていたのかは、よくわかりません。