周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

仏通寺正法院文書8

    八 小早川興平充行状

 

 (正法院)

 当院之事、被置惟三位牌之條、聊不等閑候、依之本郷田中

 給内田参段、依由緒付之備後国杭荘社家方之内長楽寺等、為

 毎日霊供料、令新寄進者也、永代無懈怠勤備之状如件、

     (1521)

     大永元年十一月廿七日    平興平(花押)

      正法院

 

 「書き下し文」

 当院の事、惟の三位牌を立て置かるるの條、聊かも等閑に存ずべからず候ふ、之により本郷田中給の内田三段、由緒有るにより之を還付す、備後国杭荘社家方の内長楽寺等を、毎日霊供料として、新たに寄進せしむる者なり、永代懈怠無く勤め備へらるべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 正法院のこと。私どもの三つの位牌を立て置きなさっていることについて、少しもいい加減に思ってはなりません。この位牌供養のために、本郷田中給田のうち三段を、根拠があるのでそちらに返還する。備後国杭庄社家方所領のうち長楽寺などを、毎日霊供料として新たに寄進するものである。永久に怠けることなく、勤行なさらなければならない。充行状は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「長楽寺」─未詳。

仏通寺正法院文書7

    七 仏通寺塔頭正法院領田地目録

 

          (証判)(小早川興平)(真田敬賀)

           「(花押)(花押)」

    仏通寺塔頭正法院領田地目録

      合  往古買得分

 源内林                        (弘通)

 一所 参段 各八斗代   〈本郷内     売主真田左京助」

               康正元年乙亥十二月十三日〉

 半迫

 一所 壹段 八斗代    〈真良村     売主末実弘季」

               享徳四年乙亥三月二日〉

 八郎二良垣内ノ道ソヘ

 一所 壹段 八斗代    〈真良村     売主貞利隼人助元春」

               長享三年己酉十一月十日〉

   自是以下六段六十歩者中比是弘方知行、其後還付当院

   自永正五年戊辰于同十八年辛巳夏押領、其際十三ヶ年、

 槙本三透田フケ

 一所 壹段 八斗代    〈真良村末実名之内売主是弘信貞」

               享徳四年乙亥二月十三日〉

 厳島之前

 一所 壹段六十歩 九斗三舛三合 〈同村二分是弘名売主是弘慈縁」

                  寛正五年甲申十月十五日〉

 安恒宮ノ上

 一所 壹段 八斗代        同村二分是弘名売主真田長門守則通

                 〈売主真田治部丞国安」

                  文正二年丁亥三月廿二日〉

                 〈自尾道光厳買」

                  永享四年壬子十二月三日〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目)・・・・・・・・・・・

 八郎二良田橋之ツメ

 一所 壹段 八斗代    〈在所同前    売主同前」年月同前〉

 門田

 一所 貳段 各八斗代   〈真良村末実名之内売主真田常信」

               文明十年戊戌二月廿一日〉

    当御代新御寄進分

    正光名

 一所 参段 各八斗代   〈在所本郷之内売主真田治部丞章通」

               享徳四年乙亥三月八日〉

       御調郡

 一所 備後国杭荘社家之内長河内長楽寺

      (1521)          (源海)   

   于時大永元年辛巳霜月廿七日    慈本(花押)

            ○紙継目ノ裏ニ花押アリ

 

*書き下し文・解釈は省略します。

 

 「注釈」

「杭庄」

 ─京都伏見稲荷社領の荘園で、現久井町の江木・下津・吉田・莇原(あぞうばら)・泉・和草(わそう)・羽倉(はぐら)一帯を荘域とする。成立の時期などは不明であるが、伏見稲荷正一位に任ぜられた天慶三年(940)以降で、他の同社領荘園の成立とほぼ同じ平安後期と推定される。当庄を伏見稲荷社に寄進した開発領主はこの地に稲荷社(江木の稲生神社)を勧請し、その神官となり荘務を担当したものと思われる。

 観応二年(1351)二月十五日付の足利尊氏下文(三吉鼓文書)によると、三吉覚弁が当庄の北西部を占める泉村地頭職を充行われているが、それは波佐竹四郎二郎跡とあり、荘内に以前から地頭職があったとことが知られる。覚弁は、在地の小文十郎一族が濫妨を働いて地頭職を干犯していると、文和二年(1353)幕府に訴えている(同文書)。応安四年(1371)と思われる四月十六日付の今川了俊書状(熊谷家文書)によると、九州探題で備後・安芸守護職を兼務した了俊の九州下向に三吉道秀が従わなかったため、その処置をすべく熊谷直氏と談合する場所に杭庄を指定している。

 応仁・文明の乱で罹災した伏見稲荷社は、在地支配を強化するため庶子家の確執を理由に帰国する沼田小早川敬平に、杭庄代官職を請け負わせた。敬平は将軍奉公衆として在京して活躍した沼田庄地頭で、明応二年(1493)閏四月十六日付の小早川敬平請文写(小早川家文書)によると、この代官職を毎年公用108貫文とし、在国が不安定な状態にある場合には65貫文を神社に納めるという条件で請け負っている。備後守護職をめぐる山名政豊と山名俊豊の対立で、敬平の子扶平は俊豊方の山内豊成に与した。俊豊は豊成の子直通に対し、豊成の遺跡を安堵している(欠年十一月二十二日付「山名俊豊書状」山内首藤家文書)が、この中に「杭半済」も含まれた(明応五年十月二十一日付「山名俊豊加判知行目録」同文書)。これに対し、政豊方の三吉豊広・江田宗実は、沼田小早川家と対立関係にある竹原小早川弘平を味方にしようと誘いをかけ、その条件に杭庄社家分を国契約の筋目で知行することや、杭半済などを与えることを挙げている。その後、沼田小早川興平のころには竹原小早川家とも融和関係にあり、沼田小早川家による杭庄代官職は行使され、大永元年(1521)十一月二十七日付の小早川興平充行状(佛通寺正法院文書)によると、杭庄社家分のうち一部を毎日霊供料として仏通寺(現三原市)の塔頭正法院へ寄進している。また杭庄は当地方の国人衆を二分した細川氏大内氏の対立抗争の舞台ともなった。

 当庄は天文年間(1532─55)に毛利氏の領国に組み入れられ、天文十七年三月十五日付の毛利元就書状(「閥閲録」所収小寺忠右衛門家文書)には、杭公文分の諸役は竹原(小早川隆景)に言い付けて調えさせるようにとある。しかし、のちに沼田小早川家も相続した隆景は、年不詳六月二十四日付の正親町天皇綸旨(小早川家文書)によると、度重なる綸旨によっても社納を遅怠、必ず社納するよう命じられている。慶長三年(1598)八月十五日付の備後国御調郡杭稲荷社御祭御頭注文(山科文書)によると、名が領家方・地頭方にほぼ二分されており、下津・吉田・莇原・泉の一部と羽倉は領家分、江木・和草・黒郷(和草の枝郷)・泉の一部は地頭分で、下地中分が行なわれていたと推定される。なお、前掲の明応五年の山名俊豊加判知行目録などからは半済が実施されていたことが知られる(「杭庄」『広島県の地名』平凡社)。

 

「真良村」

 ─現三原市高坂町真良。別迫村の西から西南に位置した大村。安芸国豊田郡に属した。耕地は、高山と毘沙門山の間を抜けて南の本郷村(現三原市本郷町)に至る沼田川の支流仏通寺川流域の低地と、船木村(現本郷町)へ流れる二瀬川上流域に形成された標高170メートル前後の馬井谷、北部に広がる標高200─350メートルの鹿群高原に展開する。

 北部丘陵末端部と南部丘陵東斜面から弥生時代後期の弥生式土器・鉄刀子が出土。仏通寺川流域の丘陵斜面には多くの古墳が築造され、横穴式石室をもつ後期古墳は大陣古墳群・小陣古墳群・真良古墳群などがある。「和名抄」所載の沼田郡真良郷の中心で、村内を古代山陽道が南北に走り、馬井谷に真良駅が置かれたと考えられている。

 中世には沼田庄に属し、本郷村・船木村との境に位置する高山城には沼田小早川氏が拠った(豊田郡本郷町の→高山城跡)。正安二年(1289)閏十月九日付の関東下知状写(小早川家文書)によると、正嘉二年(1258)小早川茂平が妻浄仏に譲った所領のうち真良および吉野屋敷八町門田は、娘松弥に譲るとされていたが、譲渡に際して相論があった。吉野屋敷は高山城の東麓にあった蔵王権現付近と思われ、同社は吉野権現を勧請したと伝え、吉野の地名も残る(芸藩通志)。文安五年(1448)十二月三日付の領家納入公用目安写(小早川家文書)には、一貫文を納めた吉野殿の名が見える。延徳三年(1491)八月六日付の小早川敬平自筆所領目録(同文書)に真良村が記され、沼田小早川家相伝の地であった。文明十一年(1479)二月二十七日付小早川敬平充行状(「閥閲録遺漏」所収国貞平左衛門家文書)によると、小早川氏一族の国貞永禅は真良村にある在木九郎右衛門給田畠を充て行われ、延徳三年八月六日付の小早川敬平安堵状(同文書)で永禅知行分の真良内屋敷田畠等は国貞敬国に安堵された。国貞氏はもと真良氏を名乗り、室町時代の小早川氏一族知行分注文(小早川家文書)に真良五十貫文とある。明応四年(1495)六月九日付の小早川敬平安堵状(「閥閲録」所収乃美仁左衛門家文書)で真良村の小泉兼弘知行分は乃美是景の本領とされている。大永元年(1521)十一月二十七日付の仏通寺正法院領田地目録(仏通寺正法院文書)によると、真良村分の二分方是弘名の安恒宮ノ上、厳島ノ前、末実名槙本三延田・門田、半迫などが真田氏・是弘氏・末実氏などから正法院へ売られている(中略)。

 「芸藩通志」によると、戸数199・人口837、牛50・馬20、御建山に橋畝山、三原浅野氏の御建山の毘沙門山、御留山に八幡山、半迫池・燕池など四池があり、字宮ノ下の八幡宮(現大多良神社)は土肥(小早川)遠平が鎌倉鶴岡八幡宮から勧請したと伝え、永禄八年(1565)に小早川隆景が再建、高山の若宮八幡(明治二十四年大多良神社へ合祀)は遠平の子惟平を祀るともいい、他に蔵王神社・厳島神社などを記す。寺院には仏通寺川沿いの真言宗常楽寺(現廃寺)、明応三年小早川扶平の建立でのち三原城下へ移されたが、本尊十一面観音だけはそのまま当地に安置して「旧香積寺」とも称した曹洞宗鳳翔山香積寺、真良新三郎康近の子浄祐が山南(さんな・現沼隈郡沼隈町)の光照寺に赴いて僧となり、永禄九年に開いた高谷山福泉寺(現浄土真宗本願寺派)など、名称に屏風岩を記す。高山城跡の東部丘陵上にある前土井山城跡は国貞氏の居城と考えられ、村の中ほど西側の大陣山・小陣山は天文十三年(1544)十月、尼子氏が高山城を包囲したとき在陣したところと伝える。南部の仏通寺川流域吉野付近は蛍の多いところで、節分から120日目の頃に蛍が飛び交うさまを、蛍合戦と称した(国郡志下調書出帳)(『広島県の地名』平凡社)。

安田著書

 安田次郎『尋尊』(吉川弘文館2021年)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

はじめに

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 尋尊は室町時代の奈良興福寺の僧である。永享二年(1430)八月七日に京都で生まれ、永正五年(1508)五月二日、七十九歳で亡くなった。父は左大臣(のちの摂政、関白)の一条兼良、母は権中納言中御門宣俊の娘である。出生地は、南は一条大路、北は武者小路、西は町通り、東は室町通りに囲まれた一条殿(花町殿)で、現在「一条殿町」(いちじょうでんちょう)という地名が残る。ここから東北へ1.5キロほどのところに御霊神社(上御霊社)があり、自分は「五霊(御霊)の氏子なり」と尋尊は記している。

 

第一章 一条若君

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 (尋尊の母・権中納言中御門宣俊の娘は)廊御方(ろうのおかた)として登場し、寛正元年(1460)冬から東御方と称されるようになる。廊御方や東御方は女房名で、正室の呼称ではない。正室であれば北政所と呼ばれ、何子という名前が残ったはずである。当時、摂関家が性質を持たないのは珍しいことではなかったが、教房が長禄二年(1458)十二月に関白に就任したので、東御方はほぼ性質として遇されたと考えられる。

 

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 →長兄の教房は尋尊より七歳年長で、一条家の後継者。応仁・文明の乱を避けて奈良に下り、さらに土佐に赴いて死去。

 五歳離れた姉の尊秀は、系図では「八幡一乗院」と注記。『大乗院寺社雑事記』では「八幡殿」「菩提院殿」と記される。菩提院は現存せず、正確な所在地は不明であるが、京都と奈良の中間に位置する八幡(京都府八幡市)にあった唐招提寺流の律院(戒律を習学する寺院)である。その長老(院主)だったと思われる。

 教賢は三歳ほど年上の兄で、醍醐寺宝池院の院主だったが、宝徳三年(1451)四月六日、二十五歳前後で早世した。

 厳宝(ごんぽう)は三歳違いの弟。兄弟姉妹のなかで尋尊ともっとも親しい。叔父の随心院祐厳(ゆうごん)が享徳元年(1452)三月に七十一歳で亡くなったのを受け、その跡を継承するために同年十月に出家した(『大乗院日記目録』享徳元年条)が、このときすでに二十歳だった。(中略)なお、随心院は、このころ山科の小野ではなく、東山の毘沙門谷(東山区今熊野南谷町付近)にあり(『経覚私要鈔』長禄四年十一月二日条など)、ふだん厳宝はここにいたと思われる。「九条随心院(坊)」と言われた里坊(さとぼう)は九条唐橋にあった。

 秀高(しゅうこう)は八、九歳ほど年下の妹。父兼良の姉が住持した嵯峨の恵林寺に入った。

 良鎮(もと良澄)は十一歳年下の弟。曼殊院門主天台座主­准后となった良什(父は兼良の兄良忠・のち経輔・後弘誓院・ごぐぜいいん)の弟子。曼殊院門主は北野社(現北野天満宮)の別棟を兼ねたことでも知られる。

 桓澄(がんちょう・もと桓覚・がんかく)は十二歳年下の弟。従兄で山門(延暦寺)系の実乗院の門主である桓昭(がんしょう)の弟子。

 慈養は二条直指院(直志院)の院主となる。尼。尋尊は上洛時に泊めてもらうことがある。

 了高は東御方の末子。梅津(京都市右京区梅津)是心院の尼(P4も参照)。

 

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 →加賀国の国人芝山氏の出身で、督殿(かみどの・守殿・上殿)、屋女房(いえのにょうぼう)などと呼ばれた女性を2番目の妻としている。

 (その子どもの)光智は嵯峨にあったと思われる法華宗日蓮宗)香台寺(光台寺とも)の住持になる。

 恵助は伏見宮貞成親王の猶子となり、皇族の入室する仁和寺相応院の門主となる。

 

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 →兼良は一条家家司(職員)源康俊の娘を三人目の布陣にした。左衛門督殿、ついで近衛殿と呼ばれたこの女性との間には四人の女子が生まれる。

 尊秀は当初秀賢という名で異母姉秀高の弟子だったが、奈良法花寺に入室する際に改名したと思われる。長姉八幡菩提院殿と同名だが、「門徒各別」だからかまわないと尋尊は書いている(摂家系図)。

 経子は鷹司政平北政所になる。尋尊の姉妹のなかでただ一人、夫と子を持った。

 尊好は美濃少林寺の主となる。

 宗方(しゅうほう)は「花山院之内桂林寺」に入り、十六歳のときに「桂林寺殿」として出家する。

 

 兼良の4番目の夫人も、家司である町顕郷の娘である。権中納言局、三条局、三条殿、南殿と呼ばれている。

 長子の冬良は教房の猶子として一条家家督となる。

 政尊は花頂門主(円満院の院主)となるが、十七歳で早世する。

 

 

P10

 尋尊は伯母に育てられた。西洞院殿あるいは西洞院禅尼などと呼ばれた良忠の未亡人が、五十歳を過ぎてから尋尊の養育に当たるようになったのである。

 

P12

 院あるいは院家とは、僧侶の居所である坊(房)のなかでも規模の大きくて立派なものをいい、おもに貴族出身僧の居所を指す。坊の主を坊主というように、院の主を院主(いんず)という。また、院家は、院主を頂点として形成される組織や機構を指すこともある。興福寺の各院家は、それぞれ本寺とは別に本尊や堂舎、経典や経蔵などを備え、所領を持った。大きな寺に所属する中小の寺と考えると想像しやすいかもしれない。(中略)

 平安末期の兵士の南都焼討ちによって寺内にあった大乗院は焼失し、元興寺の禅定院に移転して禅定院=大乗院になったと説かれることが多いが、観応二年(1351)の一乗院との衝突のなかで攻撃を受け破却されたのが原因である。本書では、組織や機構を指すときには大乗院、おもに場所を問題とするときは禅定院と書き分けることにする。

 

P14

 荘園制の確立とともに、荘園を経済基盤として寄進できるような貴族出身僧を本願(創立者)として次々に院家が建てられた。(中略)

 ところが、一乗院においては十一世紀後半から、そして大乗院では十二世紀はじめになると摂関家の子弟が京都から下向してきて、連続的、排他的に院主の地位を継承するようになる。院主からその弟子へという点では変わらないが、その弟子はじつは院主の甥であるなどということになった。こうして摂関家の権威を背景に両院家は他の院家に優越する存在として発展し、やがて「門跡」と呼ばれるようになる。本来門跡は、門流とか法流、あるいはその門流や法流を継承した門徒や院坊を意味したにすぎないが、格の高い院家や院主を指して使われるようになるのである。院主を「門主」ということもある。本書ではどちらかといえば組織、機構を指すときは門跡、院主を意味するときは門主ということにする。

 

P15

 両門跡は、他の院家を兼併したり系列下に編成したりして巨大化していった。大乗院についてみると、興福寺では龍花院・発志院(はしいん)・法乗院・喜多院二階堂など、他寺の院家では禅定院(元興寺)・伝教院(薬師寺)・正願院(菩提山正暦寺奈良市菩提山町〉)・宝峰院(ほうぶいん・同)などを支配下に置き、その所領を大乗院領として取り込んでいった。一乗院は宝積院や花林院をはじめとして大乗院よりさらに多くの院家を従えた。こうして十三世紀になると興福寺では一乗院・大乗院の両門跡を頂点とする体制が成立した。

 京都の摂関家は、鎌倉初期に近衛家九条家の二家に分かれた。それに伴って、若干の紆余曲折はあったが、近衛家が一乗院を、九条家が大乗院を掌握するようになる。鎌倉中期に近衛家から鷹司家が、九条家から一条家二条家とが分出して五摂家が成立すると、近衛家九条家から男子が入室できないときは、それぞれの分家筋である鷹司家から一乗院に、一条家または二条家から大乗院に男子が入室した(のちには鷹司家息が九条家の猶子〈養子〉として大乗院に入ることも)。

 

P16

 室町時代興福寺は、衆徒・堂衆(どうしゅ)・学道(がくどう)の「三輩」から構成されていた。衆徒は武力と呪力をもって仕える下級僧で、僧に姿を変えた武士と言ってよい。寺住衆徒もいたが在地に活動拠点を持つ田舎衆徒が多くなっていて、彼らは筒井順永や豊田頼英のように地名(家名)と法名で呼ばれた。衆徒のうち二十人が衆中を形成し、「官符」「棟梁」などと称されたその時々の実力者のもとで奈良の検断などに従事した。堂衆は、東西両金堂の法会を中心として寺内の諸行事に参勤するとともに、大峰山系を廻る山岳修行(「峰入り」)を本務とする僧、つまり山伏だった。難行苦行を通して獲得した験力をもって興福寺と民衆をつないだ。学道は、老衆の学侶と若衆の六方からなる一般学問僧で、興福寺の中心的な存在である。寺門という言葉は興福寺全体を指して使われる場合と学侶・六方の意味で使われる場合とがあるが、それは学侶・六方が興福寺の中核的な存在、集団だったことを示していよう。

 

P18

 なお興福寺に隣接する春日社は藤原氏の氏社で、中世には興福寺の指揮下にあり、同寺の一部局のような存在だった。神主と正預(しょうのあずかり)が両惣官と呼ばれて春日社を率い、若宮社の若宮神社を含めて三惣官と称されることもあった。

 

P21

 満済の京都での活動拠点は法身院(「京門跡」)。

 

P23

 (延年舞について)この(『日本国語大辞典』)の解釈は狭すぎる。延年は歌舞だけではないし、法会終了後に遊宴として催されるだけではない。将軍や勅使などの賓客の接待・歓迎行事としても行われたし、歌舞だけではなく広く僧や児が中心となって行なった芸能の総称、またその会のことと捉えるべきだろう。

 

P26

 (永享十年八月)こうして経覚は禅定院を追われ、七日の夜に大安寺の己心寺(こしんじ)に入った。大安寺は大乗院の南西、直線距離で2キロ少々のところに位置する古刹で南都七大寺の一つである。中世には興福寺の末寺となっていた。己心寺は大安寺内の律院で、大乗院の祈願所になっていた。つまり、経覚は目と鼻の先にかる関係先に立ち退いたのである。

 

P27

 候人(こうにん)=門跡に仕える坊官・侍

 

P29

 永享十三年二月には宗信と訓営の二人が尋尊の「同学」に選任された。同学は、語感から同世代の学友、同窓と受け取られやすいが、そうではなく門主の勉学を支援するために選任された優秀な学僧で、年齢もずっと上である。宗信は七十一歳、訓英は五十六歳だった。

 

P32

 「一所衆」とは、ある集団の構成員の一部、いわゆる有志や分派などを指して、あるいは一味や仲間などの意味合いで使われる言葉である。事書は「大乗院家門徒評定」、つまり門徒の総意としてではなく、一部の門徒の評定として草稿されているのである。

 

P33

 「智者の一失か、始終の沙汰のさま、もっとも測りがたき事なり」(賢い人なのにしくじった。していることがまったく理解しがたい。)

 

P36

 自焼没落と言われるこの撤退の作法は、家や陣屋や城などを「敵方に利用させないため」と説明されるが、居住した施設を敵の手にかけさせない、屈服しないという意志を表す方法でもある。

 

P40

 断続的に残っている経覚の日記には、「矢入(やいれ)」と記録された交戦が多い。矢入れは「戦いの初めに、まず矢を射入れて敵の動静を探ること。やあわせ」と説明されるが、矢入れの後に常に本戦があったとは限らないようだ。「矢入れのために奈良城に向かう勢、甲百ばかり。出合うに及ばざるの間、即時引退了んぬ」(矢入れのために鬼薗山城に向かった兵は甲冑を着けたものが約百人。敵は出てこなかったので、すぐに撤退した)のよう、ほとんど一方的な矢入れだけで終わってしまったと考えられる場合も少なくない。ただし、「矢師」「矢軍」(やいくさ)と記されていることもあり、この場合には双方の矢が飛び交ったのだろう。

 

P43

 みずから「先規はなはだ有り難きものなり(先例はないだろう)」(同・八日条)と漏らしているように、これもまた高位の僧としては逸脱した行動である。

 

P44

 合力すといえども何の子細あるべきか(斯波らに協力したとして何の問題があるというのか)

 文安四年九月には春日社造替棟別銭の東大寺領への賦課をめぐっての対立から興福寺が同寺を攻撃し、東大寺の年預五師が自害に追い込まれ、山城の国人衆ら四十人ほどが戦死した。

 

P45

 方広会などはいずれも興福寺の十二大会の一つで、教義に関する論議・問答を中心にして挙行された。これらの行事の堅義とは、探題(出題者)や問者(問題提起者)の出す論題や疑問に対して、教理を踏まえて自己の見解を主張する(義を立〈竪〉てる)役割の僧である。いわば口頭試問を受ける受験生のようなもので、合否が精義(しょうぎ)という役割の僧によって判定された。

 

 

第二 興福寺別当

P47

 この頃の南都僧の僧位僧官は、下から法師、大法師、已講、法橋、律師、法眼、権少僧都権大僧都大僧都、法印、法印権大僧都、法印大僧都権僧正、僧正、大僧正となっていた。そして貴種は、法師から法眼までを飛ばしていきなり権少僧都、あるいは少僧都から昇り始める特権を持っていた。尋尊は、経覚がそうだったように、少僧都からスタートした。(中略)

 一乗院教玄は尋尊より一つ年上で、前門主昭円の失脚を受けて六歳のときに鷹司家から一乗院に入室していた。

 

P49

 少僧都に昇進してまもなく教玄は興福寺別当に就任した。このころの別当は在任期間二、三年ということが多く、持ち回りの名誉職のようなものになっていたと思われるが、それでも貴種として一度はついておかなければならない地位だった。(中略)

 すでに触れたように、維摩会は興福寺十二大会のうちで最も重要なもので、七世紀に藤原氏の始祖である鎌足の病が維摩経の講説によって平癒したことにちなんで設けられた七日間の講会である。藤原氏興福寺にとって重要な行事だっただけでなく、朝廷から勅使が派遣されてくる国家的な法会でもあった。

 

P51

 方広会(ほごえ)、維摩会帰丁衆(かえりちょうしゅ・聴衆)

 

P53

 講師房(こうじぼう・維摩会開催中の講師の詰所)

 斟酌然るべきものか(差し控えるのがいい)

 いろいろ所存を残すの条、然るべからず(あれこれ思いを残すのはよくない)

 

P55

 栂尾開帳とは、貴顕や維摩会講師を終えた南都僧の申請に応じて、高雄(京都市左京区)の高山寺石水院の春日・住吉両大明神御影図が公開される行事である。

 

P56

 尋尊が教玄に(別当退任)を打診したところ、教玄は「まず京都の事、御劬労あるべく候、その左右に随い、御辞退あるべし(さきに朝廷や幕府の承認を得てください。承認が得られ次第、私は辞任します)」と解答したという。尋尊は「御扶持の至り(何よりの支援だ)」と喜んだ。

 

 「御兼役」(前もっての約束)」

 

P57

 隆舜は尋尊の側近

 

P60

 当日の日記に経覚は「仏生会これあり、先の寺務一乗院の判をもって始行と云々、先ず珍儀なり、比興、比興(仏生会があった。前別当の教玄の命で執行されたという。ともかく妙なことである。ひどい、ひどい。)」

 

P64

 「比興の行粧(こうそう)その痛みあり」と自らの行列人数が少ないことを気にしている。

 「ナラシ」(習礼、リハーサル)

 

P65

 (康正二年(1456))七月十八日には後花園天皇の土御門新造内裏への遷幸、将軍義政の右大将拝賀行列を見物するために上洛した。一般に、見物といえば楽しみとして行なうもの、つまり娯楽であるが、尋尊のようにそれなりに地位や身分がある者が何人もの供を従えて行なう見物には業務、あるいは上位に対する奉公としての側面があったと思われる。行事や儀式は、見物の存在によって華やかに、あるいは賑やかになる。尋尊が上洛したのは、必ずしも彼が物見高かったからではなく、遷幸や拝賀の盛儀化のために見物を期待あるいは要求されたからだろう。二十八日には室町殿に参上して義政にお祝いは言上し、翌八月四日に奈良に戻った。

 

P66

 大乗院の御房中とは、同院の門徒のうち門主管領の法会に供僧として出仕する僧数十名によって構成された組織・集団で、つねに門主の意向通りに動くとは限らなかったが、尋尊のころには門主に従属的だった。

 

P67

 「得其意・その意を得ず(納得できない)」

 御坊人(配下の衆徒・国民)

 「自然相応の事、仰せを蒙るべし(必要な時は仰せ付けください)」

 

P70

 「転大」とは、僧正から大僧正に転任、昇進することである。

 

P71

 「申し御沙汰」する、つまり朝廷に取り次ぐと兼良は回答してきた。

 「畏まり入る」、ありがたいと記している。

 

P73

 「未到」は、尋尊の日記では京都から来るべき文書がまだ到来してないときに使われる言葉である。

 

P75

 「腹立(ふくりゅう)」

 

P78

 別当が一寺を代表する存在であることはその通りであるが、興福寺は内部にさまざまな僧集団を抱えて分立的・分権的なあり方をしており、幕府や朝廷などとの回路も複数存在した。長官としての別当が一寺を統括、統率する場面は意外に少ない。

 

P79

 「予の進退に付き沙汰に及ぶこと(尋尊の別当辞任、門主退任を求める空気がある)」

 

 誠に門跡の事、正体なき子細これあらば御房中として申し入るべし、その時衆儀に違うべからず候、また空事を申し付け、無理の事を寺門として申しつくる事候わば、御房中として申し披くべし、

 (本当に私が無理無体なことを主張しているのであれば、御房中として諫言せよ。そのときは私は衆議に逆らうことはない。その反対に、寺門(学侶)が無理を押し通そうとするのであれば、大乗院の御房中としてその旨を申し立てよ)

 

P81

 その一年余り後の長禄二年十月、ふたたび排斥運動が表面化した。春日社では「毎日不退一切経」と言われる行事があったが、この行事人参加する供僧(経衆)に支給される供料、衣服に尋尊が「違乱を成(不正を行なった)」したという噂が寺内にたった。毎日不退一切経は康和年中(1099〜1104)に白河法皇の御願に基づいて始められた行事で、大宮の東廊(「一切経御廊」とも)を会場とし、一番あたり二十人、五番に編成された計百人の一切経衆が交代で毎日国土安穏、武運長久などを祈って一切経を読誦する行事である。代々の大乗院門主が行事を統括する検校所を務め、経衆の人事権と行事のために法皇から寄進された越前国河口荘(福井県あわら市坂井市)の支配権を握った。経衆には毎年供料、衣服として各人に七貫文余り(供料として四貫五百九十九文、衣服料として絹代一貫八百文、綿代九百文)が河口荘の年貢の内から支給されたが、これに関して尋尊は「違乱」を疑われたのである。

 

P82

 〜初めて別当に就任した門主は、春日八講や淄州会などを勤めてから辞任するという先例が大乗院にはあったようである。淄州会は興福寺十二大会のひとつで、淄州大師(慧沼、中国唐の僧)の忌日にあたる十二月十一日に勧禅院で行なわれるものだが、尋尊の在任時には結局開催されなかった。春日八講とは、春日社の直会殿(八講屋)で春季と秋季の二季、各五日間にわたって行なわれた法会で、法華経を八座に分けて講讃する行事である。(中略)長元八年(1035)になって四月九日と九月四日の両日に式日が定まったとするので、実質的には長元八年が始まりの年とみていいだろう。頼通が藤氏長者だったときである。(中略)

 

P85

 その(春日八講の)米銭や物資の多くを負担、調達したのが季頭(季行事とも)と呼ばれた興福寺の学侶僧である。

 

 

第三 門跡の経営

P88

 春日社には大宮(本社)と、その少し南に若宮がある。二月と十一月の二季、大宮を中心に行なわれる春日祭は朝廷・藤原氏の祭礼である。それに対して、若宮のおん祭り興福寺の祭礼といえる。若宮の神が現在の場所に祀られるようになったのは保延元年(1135)のことで、翌保延二年から興福寺の大衆によっておん祭りが毎年行なわれるようになった。おん祭りでは、若宮神に東遊・競馬・流鏑馬・田楽・猿楽・細男(せいのう)・倭舞・舞楽などのさまざまな芸能が披露・奉納されたが、なかでも流鏑馬と田楽が重要なものである。

 流鏑馬は当初、河内や山城の興福寺領荘園の武士たちによって勤仕されてたが、やがて大和国内に六つの武士団が組織され、もっぱら国内の武士によって流鏑馬頭役として勤仕されるようになった。頭役(当役とも)とは、集団内で当番、順番によって果たす役割のことである。田楽も頭役制によった。おん祭りには本座・新座の二座の田楽奉仕が出仕したので、毎年興福寺の学侶以上の僧の中から二名が選出されて田楽頭役を勤めた。

 田楽頭人の役割は、田楽法師の十三人の衣装を新調して下げ渡すことである。(中略)一通りのものを準備するだけでも多額の費用を要した。これを個人が負担することはほとんど不可能で、頭人は親族はもとより、友人知己など何らかのつながりのある多数の人々から「助成(じょじょう・援助)」を得て頭役を勤めた。

 

P91

 衆中沙汰衆(衆中の事務局)

 

 →「成立如何」は経済的にやっていけるのだろうか、という意味か。

 

P94

 涯分に及ぶ(全面的に)

 上は(ので)

 →成り立つ(果たす・できる)ぐらいの意味か。

 

P100

 「世間」=「流行病」のこともある。

 

P103

 通所(つうしょ・通政所とも)

 通倉(通庫・寺庫)=通所の倉

 

P104

 「料理」=室礼、荘厳。

 

P106

 興福寺別当のものとには中枢的な役所として修理所・会所(えしょ)・公文所・通所の四所があり、それぞれの町として目代があった(「四目代」)。修理所は営繕部で、興福寺や春日社の修理・造営、法会の仮屋設営などを担当した。会所は法会の、公文所は検断と文書の、通所は印鎰(いんやく)管理や豆苗の担当部署である。

 

 勅使坊=学侶の集会所、一寺無双の在所。

 

P108

 「力無く」=仕方なく

 「申し沙汰なり」=訴訟工作に従事しました

 

P109

 両門の御間の事、巨細申され候、然るべき様に計らい申さるべきの由、仰せ出され候なり、恐々謹言、

    十月十三日      尊誉

   陽舜房僧都御房

 

 =一乗院と大乗院の間について、(あなた・光宣は)いろいろと詳しく申されました。しかるべく取り計らうようにと(尋尊様)が仰せになりました」と尊誉が光宣(陽舜房僧都御房)に伝達する文書である。

 

P115

 「付弟・譜弟」=弟子にすること。

 

P122

 「糸桜」=枝垂れ桜。

 「岡松」=黒松。

 「両種」=2種類の料理。

 「練貫」=絹織物。

 「畏入」=恐縮する。

 

P124

 「即時・則事」=すぐに。

 「合」=箱の単位。個数は不明。

 

P125

 「杉正」=杉柾。

 「曽木(そぎ)」=削り板。

 「折」=折詰料理。

 

 

第四 応仁・文明の乱

P137

 「権中納言の久我通嗣が切腹した。困窮して朝夕の食事もとれなくなり、こんなことでは生きる甲斐がないと言い、打刀で腹を切り、三日後に絶命した」。(中略)

 (八朔の返礼を)米にした理由を「事儀(時宜?)不可説といえども、計会の式察し申すの間、何よりも大切たるべきかの間(野暮ったいのだけれども、困窮していると思われ、何よりも大切なので)」と記している。合戦が始まる前に、京都の貴族はすでに食べるものに困り始めていたのである。

 

 →事儀は時宜のことか。「その時の状況」、つまり八朔返礼という状況からすると、米を返礼品にするのは、「基準から外れている」、つまり野暮ったい(ダサい)という解釈になるのか。

 

P138

 「相計らう」=実権を握る。

 「見所」=傍観する。

 「仰せ計らう」=指示する。

 

P140

 「弓矢の道を失う」=武士として失格。

 

P145

 東軍・西軍どっちつかずの、あるいは情勢次第でどちらにもつく勢力を「両方荷衆」(両方になう衆)、「朸衆」(荷物を運ぶ天秤)と呼んでいる。

 

P156

 「御堪忍」=生活の資

 

 

P160

 現代の日本人は万一の事態のため、あるいは老後のため、ある程度貯蓄をしておくのが普通のことなので、借金をしたといえば追い詰められた状態にあったと受け取られるかもしれないが、実はそうでもない。年間を通してさまざまな収入があった尋尊は、蓄えの必要を感じていなかったようで、気軽に借金を繰り返している。

 

P161

 使者が派遣されると現地には使者一行の接待義務があり、それだけでも大きな負担になる。「使いを付ける」は有効な脅し文句だった。

 

P163

 「堪忍御用」=生活費。

 

P170

 「釈門の瑕瑾、外見実儀然るべからず」=「僧として不適当、体裁も内実も良くない」

 

 「相計らう」=指示する。

 

P172

 「大中風」=脳卒中

 

P175

 彼(尋尊)の日記には、大乗院を守るなどのために、このように事実でないことが記されていることがある。門主や坊官の日記には公的な性格があり、そこに書かれたことは証拠や先例などとして依拠されていく。そのことを尋尊は十二分に心得ていたのである。現行の日本史事典などには尋尊の右の主張をそのまま採用して尋尊の経歴を記述するものが見受けられるが、注意が必要である。

 

P177

 丞阿弥(愛満丸)の自殺・自死(長違例・病気が原因)の説明開始。

 

P179

 尋尊は(福智院)隆舜(父)に「折紙一行」を交付しており、弉舜(子)が又四郎親子を質入れしたのは、本来なんの問題もない行為だった。つまり又四郎親子三人は、福智院家の所有物だった。有徳銭を賦課されるような富裕者が、一方では奴隷同然に売買されるところが中世という時代のおもしろくて不思議なところだが、又四郎はそのような境遇から抜け出すために、息子に対する尋尊の寵愛を利用したのである。

 

P180

 大乗院郷に居住するものの、院家への諸課役が免除され、その代わりに坊官など大乗院に仕える候人への奉公が課された存在、これが「参所」だろう。

 

 

第五 大御所時代

P186

 「胤仙は悪行をこととし、奈良中は安堵することがなかった。その報いで、古市家滅亡の前兆だ」

 

P187

 〜古市兄弟は「門跡に対して奉公をなし、寺社に対して不忠」だから〜(中略)

 つぎのようなこともあった。文明十五年の八月末、澄胤は春日若宮社の前で神から卵を授かる夢をみた。これは「懐妊の相」だと澄胤は喜び、さっそく九月一日に社参を行ない、馬と田畠を寄進した。そうしたところ、はたして夫人(越智家栄の娘か)が懐妊した。十月の末になってこの話を知った尋尊は、子孫断絶すべきで「仏神の応護」がないはずの澄胤が子供を授かることに釈然としなかったのだろう、その夢は吉か凶か判断は難しいと神慮をいぶかり、つぎのように考えた。

 

  一 卵ハ子なり、子ヲ下さるるの条、勿論なり(卵は子だ。子が下されるのは勿論だ)、

  二 皆コハ一寺一社の雑務成敗の皆コなり(後述)、

  三 卵ハランノ音アリ、一家ノ乱出来すべきか(卵ハランの音がある。一家の乱が起きるのではないか)、

  四 卵ハ卵堂(らんどう)トテ葬所ノ名なり(卵は卵堂、墓石〈あるいは火葬場〉のことだ)、

 卵は「一家の乱」や卵堂のことかもしれず、澄胤の見た夢は凶夢の可能性もあると尋尊は主張(希望)したいのだろうが、二は何を言っているのか、このままではわからないので、解釈を試みてみよう。最初の「皆コ」は「かいご」=「殻子」で、卵のことである。これで一から四の文の主語は「卵」で揃う。難題は文末のほうの「皆コ」であるが、これを「改寤(改悟)」とすれば、意味が通るように思う。澄胤は一寺一社の雑務検断者として春日の神から「改寤」を授けられた、つまりそれまでの悪行を咎められて猛省、悔悛を神から要求された、その可能性を尋尊は考えたということである。ただ、「改寤」は尋尊の書物には見かけない言葉である。他にもっといい解釈があるかもしれないが、なんとか道筋をつけて不吉な夢だと尋尊は考えたかったことは確かだろう。

 

P190

 荘園領主以外のもの(朝廷・幕府・守護など)がかける反米・反銭は、荘園領主と百姓が半分ずつ負担するのが古くから荘園制下の慣行だった。現地の百姓からいったん全額が徴収され、百姓が領主に年貢を納めるときに領主負担が控除された。

 

P195

 九十六枚の銭しかない緡が百文として通用するのは、銭を数えた手間賃と紐の代金が加算されるからとされている。

 

 →緡銭、省百法(省陌法)の意味。

 

P198

 「領状」=承諾書。

 本来、普請は公共性の高い工事や事業のことをいい、人びとの参加や援助を「普く請」うて行なわれたことに由来する。

 

P202

 「一期の後」=死んだ後

 

P206

 「異論に及ばず」=問題はない。

 「子細に及ばず」=支障はない。

 「非文の儀なり」=不当なことである。

 「覚悟」=自覚する。

 

P214

 「相語らう」=言いくるめる。

 

P216

 仏地院は13世紀半ば、良盛僧正によって創立された院家である。

 

P217

 尋尊によれば、大乗院は河内国の山田庄(大阪府南河内郡太子町付近)を付与するなどして仏地院を支え、同院は大乗院に仕える院家(「門家」)となった。(中略)仏地院は日野家流の烏丸家や裏松家を家元とする院家として再興されたといえよう。

 

P218

 一乗院方院家 東北院 東門院 東院 西南院 竹林院 修南院 慈恩院 光明院 喜多院 勝願院 北戒壇

 

 大乗院方院家 松林院 仏地院

 

P220

 奈良の西ノ京の薬師寺は、さきにみたように南都方七大寺の一つで、興福寺を除く六箇末寺の別当には興福寺の「良家」が就任した。良家というのは、摂関家より下の家格である清華家(久我・三条など)、大臣家(中院など)、羽林家(四条・滋野井など)、それに名家(日野・広橋など)出身の僧のことで、彼らが居住する院家も良家と称された。参考のために長禄三年(1459)の六箇寺の別当を示すと次の通りである。

  法隆寺別当 東北院俊円(裏松重光子)

  薬師寺別当 北戒壇院隆雅(久我通宣子)

  法花寺別当 光明院隆秀(四条隆敦子)

  大安寺別当 修南院光憲(広橋兼宣子)

  西大寺別当 東院兼円(広橋兼郷猶子)

 東北院俊円らは、興福寺にいながら各寺の別当として、その地位に付随する得分や特権を享受した。各寺の別当は、職務というよりは荘園同様の一種の所領、権益と化していたと言ってもいい。

 

P222

 「定めて彼の家門ご存知あるべし」=きっと九条家にある。

 

P225

 年預(年番の指導・世話役)、鎰取(蔵の鍵を預かる指導者)。

 

P242

 少々御礼を申す躰ある間(ご挨拶する人も少々いるというので)

 

P245

 仰せ下さるる題目、重ねて申し入るべきの旨、書状を以てこれを申し入る(仰せの件は、のちに返事申しますと書状で申し入れた)と記している。持って回った言い方であるが、これは明確な拒否の返事だろう。

 

P247

 「犬箱(犬張子)」は犬の形を模した置物で、寝所に置かれて邪気を祓った。

 

P250

 「尽未来際に及び」=未来永劫。

 「内外に就き」=すべてにわたって。

 「嘆くべし嘆くべし」=悲しい、悲しい。

 

P254

 「才学に付くべきなり」=調べよ。

 「才学に付くべし」=しっかりと情報を収集せよ。

 

P256

 「引合(ひきあわせ)」=檀紙の一種。

 

P279

 寵童について。宮寿=延専房良成。愛満丸。愛千代丸=指田泰九郎信次。春菊丸。

仏通寺正法院文書6

    六 小早川敬平書状(切紙)

 

 就安堵 御封頂戴賀承候、殊鳥目済々送給候、自政所注進候、目出

 候、満足可御推量候、恐々敬白、

       八月廿二日        敬平(花押)

       正法院 進覧候

 

 「書き下し文」

 安堵の御封頂戴に就き賀び承り候、殊に鳥目済々送り給ひ候ふ、政所より注進せしめ候ふ、目出候ふ、満足御推量有るべく候ふ、恐々敬白、

 

 「解釈」

 安堵状を頂戴したことについて、喜び申し上げております。とりわけたくさん銭を送ってくださいました。政所から報告がありました。喜ばしいことです。こちらが満足していることをご推察ください。以上、謹んで申し上げます。

仏通寺正法院文書5

    五 小早川敬平安堵状

 

 (正法院)

 当院領事、任安堵并支証等旨、弥無他妨寺務、将又陣夫諸役

 事、近年不之云々、任手次向後其役、以此趣寺家

 宜存知之状如件、

     (1489)

     長享三年八月十一日      美作守(花押)

     正法院

 

 「書き下し文」

 当院領の事、安堵并びに支証等の旨に任せ、いよいよ他の妨げ無く寺務を全うせらるべし、はたまま陣夫諸役の事、近年之を懸けずと云々、手次に任せ向後に於いて其の役有るべからず、此の趣を以て寺家宜しく存知せらるべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 当正法院領のこと。安堵状や証文等の取り決めのとおりに、ますます他の妨害を退け、寺務を全うなさらなければならない。また、陣夫諸役のこと。近年はこれを賦課していないという。(諸役を免除した)手継証文のとおり、今後も諸役を賦課するつもりはない。寺家は、ぜひともこの内容をご承知ください。