周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

山野井文書26

   二六 木原元定書状(切紙)

 

   猶々御息之儀以来之儀者、何共談合可申候、先々御上せ候へく候く、

           (文)

   所申候中間之儀ふミ給候く、

 御折紙畏存候、如仰其以来者無音申候、此表之儀、不慮成下候而、天下大弓矢

                           (被ヵ)

 罷成候、併弥思召儘候之間、可御心安候、仍御息之儀⬜︎⬜︎便候ハ丶、可

 上せ候、届次第許書可申候、又中間一両人ほしく候、ろ手なとをもとり候する

 もの候ハ丶、御上せ候て可給候、頼存候、又せわた一おけやきしほ送給候、遥々

 御懇之儀、此表之儀茂勢州表御出馬不有程候、猶重而可申述候、恐々謹言、

    (慶長五年)(1600)    木次兵

      八月九日         元定(花押)

     能美左京亮殿 御返報

 

 「書き下し文」

   猶々御息の儀以来の儀は、何共談合し申すべく候ふ、先々御上せ候ふべく候ふべ

   し、申す所候ふ中間の儀ふみ給はり候ふべし、

 御折紙畏み存じ候ふ、仰せのごとく其れ以来は音無く申し候ふ、此の表の儀、不慮に

 成し下し候ひて、天下大弓矢罷り成り候ふ、併しながら弥思し召す儘に候ふの間、御

 心安かるべく候ふ、仍て御息の儀[  ]候はば、御上せ有るべく候ふ、届け次第

 許書申すべく候ふ、又中間一両人ほしく候ふ、ろ手などをもとり候ひするもの候は

 ば、御上せ候ひて給はるべく候ふ、頼み存じ候ふ、又せわた一おけやきしほ送り給は

 り候ふ、遥々御懇の儀、此の表の儀も勢州表に御出馬有るべからざるほどに候ふ、猶

 ほ重ねて申し述ぶべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 お手紙、恐れ入り申し上げます。毛利輝元様の仰せのように、以前のやりとり以来、お便りを送り申し上げておりません。この手紙のことについては、思いがけず書き送りました。天下の大戦が起こりましたが、ますます輝元様の思いのままですので、ご安心ください。そこで、ご子息の件について便りが届きましたなら、広島へ?お上りになってください。届け次第、能美氏家督相続の許可状を、こちらから輝元様に申請するはずです。また、中間一人、二人がほしいです。櫓の漕ぎ手になるものがおりますなら、広島に上らせてください。お頼み申し上げます。また、背腸一桶と焼塩を送っていただきました。遥々遠くからのお心遣いの件も、この書状の件も、伊勢国へ御出馬になるはずもない様子です。詳細は重ねて申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。

  なお、ご子息の件、以前の件は、何であろうと相談してください。今後、広島へお上りになることがあるはずです。こちらから申し上げた中間の件については、お返事をいただきたいです。

 

 「注釈」

「櫓手・艪手」─①櫓の柄、または端。②櫓の漕ぎ方。また、他宗の漕ぎ手を要する軍

        船などで櫓調子を揃えて漕ぐこと(『日本国語大辞典』)。

「天下大弓矢」─関ヶ原の戦い

「木原元定」─毛利輝元の家臣。

 

*無理やり解釈はしてみましたが、ほとんどわかりませんでした。

山野井文書25

    二五 毛利氏奉行人連署打渡状

 

 藝州安南郡温科打渡事

    合

 一田數壹町貳段七畝畠共ニ

  分米拾石貳斗貳升代方共ニ

  屋敷貳ケ所

   (1597)           堅田元慶)

   慶長貳年三月廿三日       兵少(花押)

                 (二宮就辰)

                   信濃(花押)

                 (榎本元吉)

                   中務(花押)

                 (張元至)

                   六左(花押)

                 (佐世元嘉)

                   石見(花押)

            (景重)

          能見源兵衛殿

 

*書き下し文・解釈は省略します。

 

 「注釈」

「温科」─広島市東区温品。もと国衙領(『講座日本荘園史9 中国地方の荘園』)。

「分米」─斗代に面積を乗じて算出された貢租の米の高。銭で納入すると分銭(『古文

     書古記録語辞典』)。

「代方」─未詳。

「能美源兵衛」─十代景重。

山野井文書24

   二四 毛利氏奉行人書状

 

 (端裏捻封ウハ書ヵ)       (佐世)

 「               佐与三左

         (景重)

   ーー  能美源兵衛殿      元嘉」

   以上

 其方事、先度能美衆給地定之時、相煩候而不罷出候、今度罷下候間、以惣並

 給地可宛行候、殊水夫三人召連候、彼者共ニも惣水夫並を以給地可宛遣候、

  (圓知)

 猶南湘院可申候、恐々謹言、

    文禄貳年(1593)

      卯月廿二日        元嘉(花押)

 

 「書き下し文」

 其方の事、先度能美衆の給地を定むるの時、相煩ひ候ひて罷り出でず候ふ、今度罷り下り候ふ間、惣並を以て給地を充て行ふべく候ふ、殊に水夫三人召し連れ候ふ、彼の者共にも惣水夫並を以て給地を充て遣はすべく候ふ、猶南湘院申さるべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 そちらのことですが、先だって能美衆の給地を決めたとき、差し障りがありましてそちらに伺いませんでした。今度そちらに下向しますので、他の能美衆と同様に所領を給与するはずです。とくにあなた様は水夫三人を召し連れております。彼らにも他の水夫と同様に所領を給与するはずです。なお、詳細は南湘院が申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「佐世元嘉」─広島城留守居役(『広島県史』近世1)。

「能美源兵衛」─十代景重。

「南湘院圓知」─未詳。

山野井文書23

   二三 千親書状(切紙)

 

 (廣家)    (經忠)

 吉川殿御家中今田中務殿御返候条、得幸便啓候、其以来以書状

 候、其元被御有付候哉、態以飛脚御見廻可申之処、手前取紛無沙汰令

       黒田長政)(小西行長)(加藤清正

 迷惑候、就而者黒甲斐 小攝 加主手前之儀、是又無心元候、便宜御座候者、

 様子被示下候者、可本望候、釜山浦表珎敷事無之候、可御心易

 候、恐々謹言、

    (慶長元年ヵ)(1596)     (ヵ)

      十一月六日       千親(花押)

 

 「書き下し文」

 吉川殿の御家中今田中務殿の御返候ふ条、幸便を得て啓せしめ候ふ、其れ以来書状を以て申さず候ふ、其元御有付に成られ候ふか、態と飛脚を以て御見廻り申すべきの処、手前取り紛れ無沙汰し迷惑せしめ候ふ、就いては黒甲斐・小攝・加主手前の儀、是れ又心元無く候ふ、便宜御座候はば、様子を示し下され候はば、本望たるべく候ふ、釜山浦の表珍しき事之無く候ふ、御心易かるべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 吉川広家殿のご家中今田中務経忠殿がお返事をくださいましたので、ちょうどよいついでを得て手紙を書きました。それ以来、書状を送り申し上げておりません。そちらは落ち着きましたでしょうか。わざわざ飛脚を遣わして見廻りをなさるように申し上げるべきでしたが、こちらは他のことに気をとられ、申し上げることができず、迷惑をかけました。そういうわけで、黒田甲斐守長政・小西摂津守行長・加藤主計頭清正・こちらのことは、これまた気がかりなことです。お手紙を送るのに都合のよいことがあり、そちらの様子を教えてくださるなら、私は満足するはずです。釜山浦の様子で変わったことはありません。ご安心ください。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「吉川殿」─吉川広家。1561〜1625(永禄4〜寛永2)織豊期・江戸初期の武

      将。蔵人。初名経言。父は元春。1587(天正15)兄元長の死により

      家をつぎ出雲富田に居城。14万石。関ヶ原の戦い毛利輝元が西軍の主

      将となったが、広家は徳川家康に内通して毛利軍の参戦を阻止し、毛利氏

      の保全に奔走。輝元は周防・長門2国を確保できた。1600(慶長5)

      岩国3万石を毛利氏から与えられた(『角川新版日本史辞典』)。

「今田中務殿」─今田経忠。吉川氏の一門。

「有付」─落ち着くこと(『日本国語大辞典』)。

「黒甲斐」─黒田甲斐守長政。1568〜1623(永禄11〜元和9)織豊期・江戸

      初期の武将。福岡藩主。筑前守。父は孝高。播磨の人。豊臣秀吉に仕えて

      転戦し、1589(天正17)家督を相続して豊前中津城主となる。文

      禄・慶長の役に従軍。関ヶ原の戦功により筑前一国52万3100石を与

      えられ、福岡城を築いた(『角川新版日本史辞典』)。

「小攝」─小西摂津守行長。?〜1600(慶長5)織豊期の武将、キリシタン大名

     通称は弥九郎、摂津守、洗礼名アグスチノ。父は堺の豪商小西立佐。はじめ

     宇喜多氏、のち豊臣秀吉に仕えて舟奉行となり、1588(天正16)肥後

     宇土12万石を領した。文禄・慶長の役には先鋒として出陣し、明の沈惟敬

     と講和交渉を行う。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗れて処刑された(『角

     川新版日本史辞典』)。

「加主」─加藤主計頭清正。1562〜1611(永禄5〜慶長16)織豊期の武将。

     通称虎之助。尾張の人で豊臣秀吉と同郷。幼少より秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦

     いなどで多くの戦功があった。1585(天正13)主計頭。1588肥後

     半国を与えられて熊本城主となる。文禄・慶長の役に奮戦したが、石田三成

     らと対立。関ヶ原の戦いでは東軍の中心で、戦後に肥後一国54万石を与え

     られた。1603(慶長8)肥後守。1611二条城での徳川家康と豊臣秀

     頼の会見を実現させた。名護屋城の設計など、築城・治水・干拓の名手でも

     あった(『角川新版日本史辞典』)。

「千親」─未詳。

 

*差出人の「千親」の立場がはっきりしないので、解釈もよくわかりません。『広島県

 史』はこの文書を慶長元年に比定しているので、朝鮮出兵のころの史料なのだと思い

 ます。

山野井文書22

   二二 来島牛松(通総)書状(切紙)

 

  (伊豫喜多郡           (村上)            (不ヵ)

 今度下須戒之儀、伐執之刻ニ辛労之段、吉繼申聞之様候、御心懸之趣被⬜︎⬜︎⬜︎可

 有忘却候、猶河内守可申候

 

    元亀二(1571)

      七月晦日        牛松(花押)

        (景重)

      能美右近助殿 まいる

 

 「書き下し文」

 今度下須戒の儀、伐ち執るの刻に辛労の段、吉繼申し聞かするの様に候ふ、御心懸の

 趣[ ]忘却有るべからず候ふ、猶ほ河内守申すべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 今度の下須戒の戦の件では、敵方の矢野氏を討ち取るときに苦労したことを、村上吉継が我々に知らせました。お心構えをなさることを忘れてはなりません。なお、詳細は河内守村上吉継が申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「下須戒」─喜多郡長浜町下須戒。肱川河口から二キロ上流にさかのぼった左岸地域と

      支流大和川流域にまたがった村。肱川河岸の大陰城には、天文─天正年間

      (一五三二〜九二)にかけて初め下須戒氏のち矢野氏が居城して、進行し

      てきた河野・毛利・長宗我部の軍勢と戦い、永禄一一年(一五六八)と元

      亀三年(一五七二)の二度にわたって陥落した。最後の城主矢野正孝(正

      高)は、天正一五年下野し、孫の代から当村の庄屋となり、以後世襲した

      (『愛媛県の地名』)。

「吉繼」─村上吉継。河内守。来島村上氏の有力家臣。川岡勉「永禄期の南伊予の戦乱

     をめぐる一考察」(『愛媛大学教育学部紀要 人文・社会科学』第36巻 

     第2号、2004・2、

     http://www.ed.ehime-u.ac.jp/~kiyou/0402/pdf36-2/2.pdf)。

「牛松」─来島通総来島通康の子。通総の代になると、河野氏を裏切って織田方に味

     方するようになります(「湯築城だより」5号、http://pc2.ehimemaibun-unet.ocn.ne.jp/kankobutsu_hoka/yudukijo_dayori/yudukijo_dayori5.pdf)。

「能美右近助殿」─十代景重。