周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

田中文書3(完)

    三 小早川隆景書状寫

 

   猶々一二ヶ条、次而なから此者申聞候、可分別事干要ニ候、

 其方數年之忠儀辛労之段、誠ニ無比類候、内々雖忘却、あまり心安

 思候て、無申聞儀候、弥別而大小事及心長久可相替事干要ニ候、然間焼山

 之事可遣置候、趣者委細弥左可申渡候、謹言、

 

      四月廿一日         隆景

   (ウハ書)(井上春忠

     「又右衛門尉殿        隆景」

 

 「書き下し文」

 其方数年の忠儀辛労の段、誠に比類無く候ふ、内々に忘却無く候ふと雖も、あまり心

 安く思ひ候ひて、申し聞こゆる儀無く候ふ、弥々別して大小事心に及び長久相替ふべ

 き事肝要に候ふ、然る間焼山の事遣はし置くべく候ふ、趣は委細弥左申し渡すべく候

 ふ、謹言、

   猶々一二ヶ条、次いでながら此者申し聞こえ候ふ、分別有るべき事肝要に候ふ、

 

 「解釈」

 あなたの数年来の忠義・辛労は、本当にこの上ないものです。心の中で忘れたことはありませんが、あまりに親しく思っておりまして、申し上げることはありませんでした。とりわけ重大なことや些細なことはますます心にかけ、長く替わるべきことが大切です。だから、焼山のことはあなたに遣わし置くつもりです。その内容の詳細は、弥左が申し渡すはずです。以上、謹んで申し上げます。

   もう一つ、二つの用件を、ついでにこの弥左が申し上げます。是非を判断することが肝要です。

 

 「注釈」

「弥左」─未詳。弥左衛門という名か。

「大小事及心長久可相替事」─解釈できませんでした。

「焼山」─広島県呉市焼山町か。大屋村の北に位置し、北東は苗代村、東は栃原・庄山

     田の両村に接し、西は坂村(現安芸郡坂町)。四周をほぼ標高三〇〇―四〇

     〇メートル内外の山地に囲まれ、北西の押込村から流れ込み、小山田村に流

     れ出る二河川が、庄山田境の山地に二河峡と呼ばれる渓谷を形成。村内は北

     部の平坦地のほかは山がちで、二河川両岸に狭小な低地が開ける。枝郷神山

     が両方の山間にある。安芸郡に属した(『広島県の地名』)。

田中文書2

    二 豊臣氏奉行人連署書状(切紙)

 

 従 関白様之御使丹羽五平次殿歸朝候、人數拾九人小荷駄壹疋さきゝゝ送之

 儀、被御念使夫ニ可御申付候、五平次殿乗馬并小荷駄等之儀、

 さきゝゝの城迄、御馳走肝要候、恐々謹言、

                 増田右衛門尉

      二月二日          長盛(花押)

                 大谷刑部少輔

                    吉継(花押)

                 石田治部少輔

                    三成(花押)

           (丞)

      伊藤民部大⬜︎殿

 

 「書き下し文」

 関白様の御使丹羽五平次殿帰朝し候ふにより、人数拾九人・小荷駄壱疋さきざき送る

 の儀、御念を入れられ使夫に御申付有るべく候ふ、五平次殿乗馬并に小荷駄等の儀、

 さきざきの城まで御馳走肝要に候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 関白豊臣秀次様の御使者丹羽五平次殿が帰朝しますことにより、人数十九人・小荷駄一疋を前もって送り届ける件について、よくご注意になって、人夫にお申し付けにならなければなりません。五平次殿の乗る馬や小荷駄などのことは、立ち寄る予定の先々の城までお世話なさることが大切です。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「関白様」─豊臣秀次

「丹羽五平次」─未詳。

「伊藤民部大丞」─伊東祐兵。日向飫肥を領する大名(中野等『石田三成伝』吉川弘文

         館、二〇一六)。

 

*この史料は、中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、2016、P189〜190)で分析されています。以下は、その引用です。

 豊臣秀次の使者丹羽五平次は、朝鮮に出兵していた諸将を労うために挑戦に派遣されていたが、二月上旬に日本に帰還することになり、石田三成増田長盛大谷吉継の三奉行が諸々を指示し、帰途の便宜を図っている。

 (解釈)関白秀次様の御使者丹羽五平次殿の御帰りに際し、人数一九人・小荷駄一疋を帰途入念に送り届けられるように命令があると思います。五平次殿、乗馬ならびに小荷駄などを先々の城までお世話いただくことが肝要です。

 充所の伊藤祐兵(民部大輔)は日向飫肥を領する大名で、三奉行の立場で直接に指示を出せるものではない。おそらく宇喜多秀家あたりが「申し付ける」のであろう。したがって、この連署状は副状の位置づけになり、帰還に従う人数や小荷駄の数などの詳細を伝える意味合いがあったと判断される。

田中文書1

解題

 田中氏は長浜の神職をつとめる。本文書の伝来関係については明らかでない。

 

 

    一 豊臣氏奉行連署書状(切紙) ◯以下三通ハ、東大影寫本ニヨル

 

 其方御代官所此方ゟ、近年者以金銀米召置候へ共、自今以後者公用にて、

 百姓於取納、可運上之旨候条、可其意候、恐々謹言、

 

                  (長束)

                   長大

       六月朔日          正家

                  (浅野)

                   淺弾

                     長政

                  (前田)

                   徳善

                     玄以

      増田長盛

       増右殿 御宿所

 

 「書き下し文」

 其方御代官所此方より、近年は金銀米を以て召し置かれ候へども、自今以後は公用にて、百姓取り納めらるるに於いて、運上有るべき旨に候ふ条、其の意を得らるべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 そちらの御代官所は、近年は金銀米をお取り置きになっておりますが、今後は公用として、百姓より収納なさるときに、こちらへ運上しなければならないというご命令ですので、その指示をご了承ください。以上、謹んで申し上げます。

西村治雄氏所蔵文書2(完)

   二 安藝国佐西郡寺田村打渡坪付寫

 

    神領寺田村之内   (割書)「打渡坪付」

 おき田

  田四反    米貳石五斗       惣兵衛

 きしの下

  田貳反    米壹石四斗       同 人

 よこたけ    (米)

  田壹反小   ⬜︎九斗         同 人

 にし      (米)

  田貳反    ⬜︎壹石六斗       同 人

 同所

  田貳反小   米壹石七斗       同 人

 ミソはさミ

  田半     米四斗         弥 六

 いやのくほ

  田壹反六十歩 米三斗五升       同 人

 同所

  田壹反    米三斗二升       同 人

 同所

  田四反    米壹石三斗       同 人

 ほりこし

  田半     米壹斗六升       同 人

 河かしら

  田壱反大   米五斗         神 六

 迫くち

  田壹反小   米五斗三升       同 人

     田數貳町壹反三百歩

    合

     米拾壹石六斗六升

 下北原

  畠貳反小   代三百卅貳文      神 六

 ほりこし

  畠六十歩   代廿四文        同 人

 にし

  屋軄     壹所          惣兵衛

 下にし

  屋軄     小           神 六

  屋敷     一

     以上

    并而米拾貳石壹升六合 矢銭共ニ

     (1591)

     天正十九年十二月十四日   越 中 守判

                   神左衛門判

            小田次郎左衛門殿

 

*書き下し文・解釈は省略します。

 

 「注釈」

「寺田村」─広島市佐伯区五日市町寺田・八幡ヶ丘・八幡ヶ丘二─三丁目。極楽寺山東

      麓にあり、河内川を隔てて利松村と相対する。西方は低い山地で、三方に

      開けた平地に集落が展開。村名について「芸藩通志」は廃山入寺の項で

      「古は大寺にて、此村を領せし故、寺田といへるにや」と記す。中世の山

      陽道は、沼田郡伴(現広島市安佐南区)から石内を経て当地を通過してい

      たと考えられ、当地には塚松があったという(石内村の「国郡志下調書出

      帳」)。嘉禎四年(一二三八)四月十七日付の伊都岐島社廻廊員数注進状

      案(新出厳島文書)に「保井田 川内 寺田一間」と見える。天文二十三

      年(一五五四)八月五日付毛利元就同隆元連署判物(「閥閲録」所収熊谷

      帯刀家文書)に「石道本城分九十貫文之事 三宅寺田ニ替候て進置候」と

      あり、天文頃は毛利氏家臣熊谷信直の給知であった。天正十九年(一五九

      一)十二月十四日付の佐西郡寺田村打渡坪付写(西村治雄氏蔵)に「神領

      寺田村」とあり、田数二町四反余、一二・〇一六石が小田次郎左衛門の給

      知となっている(『広島県の地名』)。

西村治雄氏所蔵文書1

解題

 山県郡穴村(加計町)の地は古くは佐伯郡に属していた。この地の小田氏は源頼政の二男山県先生国政の後といい、国政は美濃国山県郡を経て、治承四年(一一八〇)安芸国豊田郡へ来住し、後に穴村へ移ったという。

 西村氏は小田氏の女が嫁したことから親戚関係を生じたものである。

 

 

   一 瀧原名打渡坪付寫

    打渡    瀧原名

 一田壹町壹段 (割書)「上六反半中四段半」   名主分

 一田八段 (割書)「上七段大中小」      四郎兵衛尉

 一田貳段                彦左衛門

 一田参段大               孫九郎

 一田参段                与三郎

 一田壹段小               神 田

  合貳町九段 分銭四拾九貫八百文并大豆三斗

                  ミそ代

        茶四斤 柒沢三ツ此外   貳段半

 一田貳段 上壹段 屋敷在之

      中壹段 山河在之 野井袮原之内

     (1577)

     天正五年三月十二日     山 城 守判

                 (森脇春親

                   大 蔵 丞判

                 (二宮)

                   筑 後 守判

                 (森脇春忠)

                   宗兵衛尉判

         小田浄空入道殿

         小田次郎左衛門殿

 

*書き下し文・解釈は省略します。

 

 「注釈」

「上・中」─「田品」。田地の等級、単位面積当たりの生産高に応じた区分で、「延喜

      式」に「上田五百束、中田四百束、下田三百束、下下田百五十束」とある

      (『古文書古記録語辞典』)。